でいるような男もいた。私は反動で、ナホトカでは毎日のように吊るしあげられていたが、誓約書のこともすぐに皆にしゃべってしまった。
三、C氏の場合(談話)
C氏(特に名を秘す、三十歳、元軍曹、大学卒、会社員、東京都、バルナウル地区より二十三年に復員)
でいるような男もいた。私は反動で、ナホトカでは毎日のように吊るしあげられていたが、誓約書のこともすぐに皆にしゃべってしまった。
三、C氏の場合(談話)
C氏(特に名を秘す、三十歳、元軍曹、大学卒、会社員、東京都、バルナウル地区より二十三年に復員)
きとって、私の眼の前に突き出してから黙って机の上に置いた。そして続けた。
『何でもいうことをきくといったではないか』
『……』
私はもう承諾するより仕方ないことを知ってペンをとった。私の聞いた話では、ピストルを突きつけられて書いたという者もいるらしい。そして『ソ連邦のためにはどんなことでもする。このことは誰にも話さない。約束を破ったらどんな処罰でも受ける』といったようなことを、通訳の口述通りに、日本字で書いた。最後の行に、
『偽名ヲ阿部正ト使ウコト』
と、書き加えた。誓約書を納めると、『某中佐はロシア語を知ってるから特務機関だろう』とか『某中佐は軍国主義者に間違いないが、どんなことを話しているか』などと、しつっこくたずねたあげく、
『元憲兵の氏名を報告しろ』
と、命令された。
彼らはこうして誓約書をとってスパイにしたものを、決して民主主義者だと思っているわけでもないし、まして共産主義者だなどとは考えていない。ただ使えるだけ使って、あとは破れ草履のように捨ててしまうのである。
私は、元憲兵として有名な人を四、五名報告
思い悩むに違いない。そして『…モシ誓ヲ破ッタラ…』その時は当然〝死〟を意味するのだ。そして、『日本内地ニ帰ッテカラモ…』と明示されている。ソ連人はNKの何者であるかをよく知っている。私にも、NKの、そしてソ連の恐ろしさは、充分すぎるほど分かっているのだ。
——だが待て、それはそれで良い。しかし…
一カ月の期限の名簿はすでに命令されている。これは同胞を売ることだ。私が報告で認められれば、他人より早く内地に帰れるかも知れない。
——次の課題を背負ってダモイ(帰国)か?
私の名は間違いなく復員名簿にのるだろうが、私のために、永久に名前ののらない人が出てくるのだ。
——誓約書を書いたことは正しいことだろうか? ハイと答えたことは、あまりにも弱すぎただろうか?
あのような場合、ハイと答えることの結果は、分かりすぎるほど分かっていたのである。それは『ソ連のために役立つ』という一語につきてしまう。
私が、吹雪の夜に、ニセの呼び出しで、司令部の奥まった一室に、ドアに鍵をかけられ、二人の憲兵と向き合っている。大きなスターリン像や、机上に威儀を正している二つの正帽、黙っ
『チ、カ、イ』(誓)
『………』
(写真キャプション (上)ナホトカにて引揚船に乗船、(下)ナホトカ収容所風景)
とのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。
——何が起ころうとしているのだ⁈
呼び出されるごとに立ち会いの男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人々だけで、他の者は一部しか知り得ない組織になっているらしい。
——何と徹底した秘密保持だろう!
鍵をしめた少佐は静かに大股で歩いて再び自席についた。それからおもむろに机の引出しをあけて何かを取りだした。ジッと少佐の眼に視線を合わせていた私は、『ゴトリ』という鈍い音をきいて、机の上に眼をうつした。
——拳銃!
ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもうと思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。
少佐は半ば上目使いに私をみつめながら、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。一語一語、ゆっくりと区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳した。
『貴下はソヴエト社会主義共和国連邦のために、役立ちたいと、願いますか』
歯切れのよい日本語だが、私をにらむようにみつめている二人の表情と声とは、『ハイ』という以外の返事は要求していなかった。短く区
動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを質問した。結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子ともなれということ、すなわち〝地下潜入〟であり、〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ側政治部の見方でもあったのだろう。
この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。
そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。
——何だろう、日本新聞行きかな?
忙しい身支度は私を興奮させた。
——まさか! 内地帰還ではあるまい!
フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮かべていたのだ
A氏(特に名を秘す。三十歳、元少尉、大学卒、会社員、東京都、チェレムホーボ地区より二十二年に復員)
『A! A!』
兵舎の入口で歩哨が声高に私を呼んでいる。それは昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめにもう零下五十二度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。北緯五十四度という、八月の末には早くも初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が雪の氷粒をサアーッサアーッところがし廻している。
もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に疲れ切った私は、二段寝台の板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。
——来たな! やはり今夜もか⁉
今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。
『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)
第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、
パイ団〟の存在を証言したのです!』
だが、はやり立った私を、老練な部長は軽くたしなめて笑った。
『メクラの象見物を知ってるかい。エ?!』
私の調査報告をずっと受け取っていた部長には、このスパイ団は一収容所や一地区の問題ではなく、まして収容所付きの一NK将校の意志で組織されたものなどではなく、非常に膨大な国際スパイ団的な内容を持った組織であることが、早くも判断されていたに違いない。若い私が功をあせ
りすぎて、尻尾をつかんだだけで書いてしまっては、全貌を逸するおそれがあったわけである。
(写真キャプション 参議院で重大証言をした小針氏)
(写真キャプション 小針氏に数多く送られた脅迫状の一つ)
私は社会部へ帰って引揚記事を担当した。翌二十三年五月十日、同年度の引揚第一陣の入京から、一列車もかかさずに品川、東京、上野の各駅で引揚者を出迎えた。同年六月四日からはじめられた〝代々木詣り〟(引揚者の代々木共産党本部訪問)には、毎回同行して党員たちとスクラムを組みアカハタの歌を唱っていた——だが、インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、肉親のもとに帰りついてますます沈んでゆく不思議な引揚者、そしてポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——ある者は船中から海に投じ、ある者は復員列車から転落し、またある者は自宅で縊死をとげているのだ。
私はこの謎をとくべく、駅頭に、列車に、はては舞鶴まで出かけて、引揚者たちのもらす片言隻句を丹念に拾い集めていった。やがて、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿が、ボーッと浮かび上がってきたのだった。
約十分間の休憩ののちに、岡元委員長は冷静な口調で再開を宣した。ついに公開のまま続行と決定した。満場は興奮のため水を打ったように静まり、記者席からメモをとるサラサラという鉛筆の音だけが聞こえてくる。小針証人が立ち上がって証言をはじめる。
の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリア引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。だがこの密告者たちは、そのほとんどが、ご褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。
二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ側の取り扱いもともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。ソ側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、静かにその変遷を見守っていた私の眼には、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。
その一つは、ある種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。
その二は、人事係のカミシヤ(検査)と称して、モスクワからきたといわれる将校が、ある種の日本人をよんで、直接、身上並びに思想調査
連製日本人スパイに関する情報なのだ。しかも、その情報によれば、それはシベリア民主運動を芽生えさせ、育てあげ、ついにあの日の丸を破り、花束をふみにじるという、けんらん豪華な〝赤い復員〟旋風にまで昇華させた指導者〝日本新聞〟につながりがあるらしい様子だったので、今、小針氏の重大決意を示した発言に手の震えを感じたのも無理からぬことだった。
ここで私は、読者の理解を助けるため、委員会の休憩を利用して、話を昭和二十年の秋にまでもどすことにしよう。
終戦後の九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満洲里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わりながら、鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じていた。西シベリアの炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、逞しい私の新聞記者精神は、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞き、記者としての取材活動だけは怠らせようとしなかった。
(写真キャプション 第百五回対日理事会は引揚問題で紛糾、△印は退場するデレビヤンコ、ソ連代表)
データを赤裸々に公表して、鉄のカーテンの奥の奥でさらにまた幻のヴェールにかくされた、〝幻兵団〟の全貌を、健全なる常識の持ち主である読者に解説してみよう。
[註] 都下各紙の〝幻兵団〟関係記事掲載紙日付一覧(いずれも都内版。地方版は同日付または翌日付)
読売
△1・11 〝幻兵団〟第一報(談話、解説)
△1・13 〝幻兵団〟第二報(談話)
△1・18 〝幻兵団〟第三報(脅迫状)
1・18 スパイを拒んだ男(岩手版)
1・19 投書〝幻兵団〟(気流欄)
1・20 小針氏へ激励状殺到(福島版)
は、事実無根のことをあれほどデカデカと書けるものではないし、しかも〝幻兵団〟員だったという幾人かの人が、住所、氏名、年齢、経歴、職業などを明らかにして、その事実を語っているし、国会速記録などにいたるまで、幾つかの具体的データを掲げているからには、そんなこともあるのかもしれないといった程度の肯定が行われていたようである。
だが、紙面では数日おきに、次々と具体的事実を示して、熱心にその真実性を主張し、回を追って信ぴょう性を高めていった。やがて毎日新聞もまた〝ベゴワード白書〟なるテーマで、読売の〝幻兵団〟の記事を裏書きする、ベゴワード地区のスパイ事実を大きく報道した。国会もまたこれを重視して、国警本部、法務
えミシンを買い、高い程度の生活をしているのに、片方では「教育の権利」すら放棄して食うことに追われている。だから子供達は学校へ行かず、二十二、三歳の学校出が技師と呼ばれて別世界の人間のように尊敬されている。第一炭坑と呼ばれるこの町の大炭坑で大きな食堂とその門前のバザールとが坑夫逹の最大の設備だ。児童劇場とか図書館とか休息の家といった文化福利施設は探し得なかった。
ソ連の言葉に「八時間労働、八時間睡眠、八時間オーチェレジ(買物行列)」という言葉があるが、この、オーチェレジはイバーチ(性の遊戯)と訂正されねばならない。食物を得るために酷使された肉体は動物的な本能を露呈するだけである。わずかに与えられた歌と踊りの慰安は、これに拍車をかけて性道徳の倫乱は徹底している。
住民たちは何も知らないでただ生きている。たのしい生活を、人間らしい生活を希求するまでに彼等の知識は開かれていない。こうして愚昧な労農大衆はレーニンの像を立てスターリンの絵を飾りH・K・V・D(秘密警察)の冷たい銃口を背に五カ年計画へ追いまくられている。スターリン・プリカザール(スターリンの命令だ)の一言で一切が解決されるところの「言論の自由」を与えられ、戦後三年にいたるも民需
が、衣食住の悪条件とあいまって一番苦しいらしい。
「働かざるものは食うべからず」の鉄則は私達にも厳しく適用された。すべてのことにノルマ(標準)があって、一つ一つのどんな細かい仕事にもその作業標準がある。たとえばこの切羽からは一人一日(八時間)八トンの石炭とか、枕木を五十メートル以内運搬するのは何本とかときまっている。そしてそのノルマを遂行しなければ残業である。あるいは指揮官にその責任を問うて処罰する。処罰は営倉があり、食事を制限して苦役に使用された。さらに重いのに拘禁所があり、十二時間の重労働が課せられた。
患者は作業に出なくてよいのだが、神経痛とか形にあらわれない病気の者などは、ソ連軍医が患者として扱ってくれないし、また作業場で腹痛とか急病人が出てもソ連人の監督がいてオチオチ休ませてやれない。だから無理をする。そのためにすっかり体をこわしたり、負
布切れに着目された。ほとんどのものが褌をつける習慣を忘れ、襦袢は袖なしで裾も切りとられてヘソが出る。上衣の裏地まではがされ完全に押しつまって、もはや使用ずみのやつを洗濯するより他に手がないという時、ダイナマイトを多量に使う露天炭坑の新作業場ができ、火薬袋が手に入って解決された。
食事はもちろんのこと、煙草、茶、石鹸まで、すべて定量があって、わずかではあったが支給されたが、それらの定量は表に終わってしまい、係のソ連人が横流しをするため手に入るのはまったく少ない。この傾向は中央を離れるにしたがい猛烈となり、辺ぴな土地や森林伐採などは、そのために衰弱もし、栄養失調になっている。私達のところは鉄道沿線の大きな炭坑町なだけにその被害は少なかったが、それでも幾度か糧秣係が逃亡した。煙草は一月分が普通に喫っ
れていった。虱による発疹チブスが発生した。四千名の収容所の九割が罹病した。脳症を起こした患者は四十度以上の高熱のまま「内地行の汽車が出る出る」と叫んで吹雪の戸外へ飛び出した。罹病しないものは二メートルも凍りついた土をコチンコチンと突いて戦友の墓穴を掘っていた。毎日毎日の死亡者に屍室は収容しきれなくなった。昨日墓穴を掘ったものが、今日はその穴に埋められた。高熱は水を求め、水は下痢を起こし、内地の夢をみて逝った。ただ下痢を併発しないもののみが残った。
水道が引かれ、電燈がつき、肉が入り、脂肪が廻って、日ソ軍医を先頭に全員必死の防疫に厳寒期をすごした三月になってようやく下火となり、約二割の尊い犠牲をだして最初の冬の試練は過ぎさったのだった。
収容所生活
終戦時多くの部隊はおおむね部隊ごとにまとまっており、武装を解除してから、一本の列車が千五百名キッチリとして送られた。そのため各所とも建制の部隊
ろうか、私がみたままの抑留二年の生活をお伝えし、小さな力でも結集して一日も早く皆が懐かしい故国に還れるようにと願っている。
おことわりしておきたいことは、地区により、労働も待遇も違い、さらに悲惨なところや、遥かに楽な方面もあったらしいし、私のいたのはシベリアの一炭坑町で、これがソ連のすべてではないということである。
最初の冬 —寒さ—
私達の経験した最初の冬の想い出は、誇張でなく正に地獄のようだったといえる。今思いだしてもゾッとするようなあの寒さは、もちろん行動のすべてが拘束され労働を強制されている環境のため倍加されているのだが、私達の寒さという感じを遥かに通り越してしまっていた。
最低は寒暖計に零下五十二度を記録したが、そ