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迎えにきたジープ p.172-173 鹿地問題〝英文の怪文書〟

迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. "I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car."
迎えにきたジープ p.172-173 Wataru Kaji says. “I was arrested during the walk. I was hit by several military person. I was handcuffed, blindfolded, and transported somewhere by car. I was hit on the knee with a stick in the car.”

さらにそれから一ヶ月後、一月二十九日の発信で、簡単に近況を報じて、『多分近日中に帰れると思います』という、前回と同じような書簡が、東京上落合の夫人宛配達されたが、それっきり音沙汰もなく九ヶ月という月日が経過した。

ところが、二十七年の総選挙も近づいた九月二十四日、大阪の国際新聞など一部の新聞に、〝英文の怪文書〟なるものが届けられて、一躍鹿地問題は、ジャーナリズムの表面に浮び上って来た。その全文は次の通りである。

作家並びに政治評論家として著名な鹿地亘氏は、一九五一年十一月二十五日以来、行方不明となっている。彼は手術をうけた後、神奈川県の鎌倉市に近い鵠沼で療養中であった。失踪当時は町の近在を、二十分間散歩する位にまで回復していた。そして彼は散歩の途中に行方不明になったのである。

しかし、本当に行方不明になったのではない。彼はワシントンに直結し、現在第一ホテルに宿泊中の米陸軍情報将校のG大佐に誘拐されたのだ。G大佐は中共のスパイという嫌疑で鹿地氏を捕えたが、彼は種々の反証をあげてこれを否認した。(中略)

鹿地氏は密告者によるねつ造された訴えで逮捕されたのである。密告者は、戦後アメリカから帰国した日本人牧師である。(中略)

逮捕後数週間、鹿地氏は非人道的で残忍な拷問を受けた。そして、一度野蛮な取扱いに抗議するために、便所でクレゾール液を呑んで自殺を企てたこともあった。

中共スパイとしての証拠を挙げることに失敗したので、G大佐は本年五月、遂に鹿地氏を釈放しようとした。

その時偶々日本に赴任して来たマーフィ大使は、鹿地氏の処置方法をG大佐に指示した。鹿地氏をアメリカのスパイとして日本共産党に入党さすべく、説得することになったのである。

この戦術転換の後、彼は〝賓客〟として取扱われるようになった。しかし嘆願や脅迫にも拘らず、彼はこれまでの凡ゆる提案を拒絶して来た。(下略)

夫人への手紙には、何者かに強制された作為が感じられ、ヘタクソな英文で綴った怪文書にも何か不自然さが感じられる。

ではこの間の消息を、鹿地氏自身の口から聞いてみることにしよう。

私は昨年十一月二十五日の夕食後の七時過ぎ、散歩中に逮捕された。場所は江ノ島鵠沼駅から藤沢に向って二百メートル位歩いたところで、偶々人通りがなかったが、前方から一台の乗用車が来て、ヘッドライトに眼がくらんだ一瞬、五、六人の制、私服の軍人に、ものも言わずに殴りつけられた。どういうことだか穏かに話してくれ、といったが英語で怒鳴られ、みぞおちを拳固で殴られ、手錠をはめられた上、白い布で眼かくしをされ自動車に担ぎこまれた。

車中二人の軍人に挾まれ、一時間以上かかって何処かへ運ばれた。その後で、名前を聞かれたが、知らないというと、棒のようなもので膝を殴りつけられた。何度もこれを繰り返された。

迎えにきたジープ p.174-175 アメリカのキャノン機関の仕業

迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.
迎えにきたジープ p.174-175 The two car abduction cases are undoubtedly the work of the Canon Unit of US. Only the Canon Unit can exert such a brute force and villainous gangster behavior.

その後横浜の病院に連れて行かれて、レントゲンを撮った。二十九日夜、目隠しされて川崎の別荘風の家に監禁された。鍵をかけた一室に閉ぢこめられ、べットに足かせをかけられたままの状態で、毎日米側から自分達の手先になれ、然らずんば死を選べと迫られ、精も魂も尽き果てて、十二月二日未明シャンデリアに帯をかけて自殺を図ったが果さず、それからクレゾールを呑んだがこれも失敗、これを見て飯運びの山田君が同情して、外部との連絡を取ってくれた(衆議院法務委員会における鹿地氏証言)

〝怪文書〟に衝撃をうけた池田幸子夫人は、二十七年十一月九日に夫君の搜索願を藤沢市署に提出し、市署では家出人としての搜索を始めたので、ここではじめて一流紙の報道するところとなった。それから一ヶ月近く経った十二月七日、鹿地氏が突然自宅に姿を現わして、大騷ぎとなったわけである。

この二つの怪自動車は間違いなくアメリカのキャノン機関の仕業である。これほど強引でデタラメな、ギャング振りを発揮できるのはキャノン機関以外にはないのだ。

キャノン機関の所属するCIAの前身が、戦時中重慶にあったOSSであったことはすでに述べた通りであるが、この第二次大戦中の各国の秘密機関は、それぞれの特色を持っていた。

OSSの得意とするのは謀略と逆スパイ工作であるといわれている。

逆スパイとスパイの逆用とは、全く違うことである。常識的に使われる二重スパイという言葉も、厳密にいうと間違っている。三橋氏が二重スパイだといわれるが、これは誤りで、彼はソ連のスパイだったのが、逆用されてアメリカのスパイになったのである。

二重スパイというのは、二つの陣営に全く同じ比重で接触しているものをいう。第一次大戦以後の各国の秘密機関は、諜報、防諜両面で飛躍的な進歩を遂げたため、スパイというのはその末端で必ず敵側と接触を持っていなければならなくなった。

つまり、大時代的な、個人プレイだけでは何もスパイできなくなり、組織の力が大きくなったのである。そのため、各国の諜報線は必らずどこかでクロスしており、七割与えて十割奪う形態をとるようになってきた。いいかえれば、すべてがいわゆる二重スパイなのである。ただ、その力関係がどちらの陣営に大きいか、どの陣営により奉仕しているか、ということで、そのスパイは比重の大なる陣営のスパイといわれるのである。

だから三橋氏の場合はアメリカのスパイであり、鹿地氏もまた、アメリカのスパイである。正確にいえば、逆スパイとは、スパイをスパイしてくるスパイのことであり、複スパイとは、スパイを監察するスパイのことである。逆スパイとスパイの逆用との違いは、その取扱法の上でハッキリ現れている。

迎えにきたジープ p.176-177 スパイの逆用が米国の常道

迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.
迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば正常なるスパイ、複スパイ、逆スパイなどはこの取扱法をうける。二重スパイというのは、二次的な状態だからもちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれでみても分る通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは教育も投入も必要なく操縦することであり、最後は撤収するのではなく処置することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確りとした精神的根拠もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのであるから、そこに同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は我が陣営に協力し得る各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイをみつけ出し、それを懐柔または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは全くないし、操縦者は常に一線を画して警戒心を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の常道になっているのであるから、彼らはつねに猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところがラストヴォロフと志位元少佐との関係を見てみると、そこには人間的な交情さえ見出されるではないか。

正常スパイでは、任務が終れば味方であり同志であるから、最後にこれを撤収しなければならない。逆用スパイの場合は撤収とはいわず処置という。つまり殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなりせねばならない。鹿地事件の発端は、この処置の失敗である。

鹿地氏と重慶の反戦同盟で一緒に仕事していた青山和夫氏は、鹿地氏出現以来の言動から次のような十の疑点をあげている。

1 USハウスはどれも金アミがあり、塀には鉄条網があるのが原則だ——これは占領中の日本人の暴動を予防するためMPの指令でそうなっている。

2 自由に新聞、雑誌、ラジオを聞き乍ら、なぜ独立後直ちに釈放を要求しないか、なぜハンストをしないのか、だまってダラダラ生活するのは何故か。左翼として、必ず、このような場合はハンスト戦術をするべきだ、自殺はおかしい——芝居か架空の事件ではないか。

3 監禁なら当然新聞、雑誌、ラジオを自由にさせないはずだが。

4 米将校が定期的に訪問会談するのは、アメリカ機関としてコンスタントになっている証拠だ。鹿地が本当に「拒絶」しているならばコンスタントの会談はない。

5 鹿地は右翼から狙われているとの理由で保護を求め代償に仕事し、これはおそらく北鮮問題をアメリカに提供したのではないか。北鮮との関係をホラをふいて、アメリカをだましたのではないか。

迎えにきたジープ p.178-179 鹿地亘の複雑すぎる過去

迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.
迎えにきたジープ p.178-179 Kaji has a very complex past history. He is a poet, a critic, an actor, a street speaker and a painter. His political activities changed rapidly. He was a member of the Japanese Communist Party, a propaganda agent of the KMT, and a spy on the Communist Party of China. During the war, he was engaged in work of the US secret agency.

6 釈放の時、鹿地自身が外苑で自動車からおろして貰ったのではないか、普通なら自宅まで自動車でおくるのがアメリカ人の習慣になっている。

7 出たままの姿で帰るのはおかしい、一年間に別の着物ができているはずだ。

8 自宅にはアメリカから送金があったのではないか、池田や看護婦や子供の一年間の生活は仲々むずかしい。

9 監禁等は芝居で何か別のこと、日共ヘの入党、来年の参議院選挙をあてこんでいるのではないだろうか。

10 鹿地も池田も苦しい生活に堪えることのできない人だ。

二 新版〝ハダカの王樣〟

これらのナゾに応えるものは、複雑極まりない彼の過去の経歴である。

鹿地氏は詩人であり、批評家であり、俳優でもあり、街頭演説もやれば、繊細な水彩画も画く。本質的には弱々しい神経質な人間だけあって、彼の政治活動は目まぐるしく変転した。

日共党員であったこともあるし、国民党の宣伝工作員になったこともあり、延安当時には中共のスパイにもなった。戦時中には中国にあった米国秘密機関の謀略、宣伝工作に従事したかと思うと、一方、米国の秘密を探っていたという疑いをいだく向きもあり、また戦後の東京で

は貿易商社の重役にもなったが、その会社は中日貿易を目的としながら、殆んど商売らしい商売もしていなかったといわれている。

彼は大正末期に「新人会」を経て国際共産党の仕事に携ったといわれている。当時の彼の主な任務は、学生層や文化人グループ内に、共産主義思想の浸透をはかることにあった、とみられている。

昭和七年ごろ、彼はその文化人としての立場をすてて、当時死滅にひんしていた日本共産党を救うために活躍、同九年には日共の他の幹部たちと一緒に逮捕された。そこで彼は日共から離れて大陸へ渡り、左翼作家として反日運動を指導することになった。

上海時代の鹿地氏は、同地で書店を経営していた内山完造氏を通じて、国民政府に喰い入った。そのころの彼は、蒋介石などの要人から公然と命令を受けるという地位にあったが、同時に当時国府に入っていた中共の代表者周恩来からも、秘密裡に指令を受けていたという噂があった。

そんなことも影響したのか、国府は彼を警戒しはじめ、彼が日本人捕虜を集めて作っていた「鹿地調査室」や、その表看板であった「民主日本建設同盟」を廃止してしまった。

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

迎えにきたジープ p.180-181 鹿地氏の重慶時代の仕事

迎えにきたジープ p.180-181 In Chongqing, Kaji was planning an operation by a Japanese group called "Democratic Japan Construction Alliance" to disturb Japan, as a Spy on the KMT side.
迎えにきたジープ p.180-181 In Chongqing, Kaji was planning an operation by a Japanese group called “Democratic Japan Construction Alliance” to disturb Japan, as a Spy on the KMT side.

鹿地氏は早速米国機関に接近してそこで働らいていたが、やがて戦時中の米国諜報機関とし

て極秘の存在であったOSS(海外秘密情報戦略本部)に近づいた。ここで働らいていたときに、彼は日本人捕虜を利用する詳細な計画を立てた。

このOSSとの協力も、再びどうしたことか中絶してしまった。これは国府が警戒したのと同様、米側が鹿地氏の過去の行動を知ったためらしいのであるが、彼は米国との関係に執着していたものとみえ、戦後の二十年九月に再びOSSと接触し、日本で行う諜報活動計画を提出した。

この当時親交を結んでいたのは、長谷川敏三という明大出の少尉で、鹿地氏が米側をクビになって帰国した後、この男と組んで貿易商社を作ったほどだった。

鹿地氏の重慶時代の仕事として、彼の署名のある「日本人グループの工作計画」と題する案がある。外務省筋から入手したものだが、これを紹介してみよう。

宣伝に関する工作

A、文字による宣伝

a、民主日本建設同盟の署名による日本人団体のビラ、パンフレット。

b、民主日本建設同盟機関紙の型式による小型新聞。

c、軍、民団、警察、自治会の布告の形式によるポスター。

d、広告ポスター、広告ビラ、広告マッチ等の形式による各種宣伝品。

e、家信、兵士の手紙等の形式による書簡、葉書。

f、国内および占領区各会社、商店等の用件の形式による書簡。

g、軍、警察、自治会等の公件(例へば命令書)の形式による謀略。

h、壁、建築物(日本軍後方の)への楽書。

a及びbは正面からの日本人による宣伝であるが、c以下は謀略的宣伝である。充分な啓蒙的効果は前者によって挙げられる。だが、後者には特殊の深い印象をねらう宣伝効果を挙げ得る。

B、無電、ラジオ放送による宣伝

a、講演、ニュース、宣伝音楽、ラジオドラマ等の放送。

b、民主日本建設同盟電台(例えば北イタリー、ポーランド等で活躍する自由電台の形式による)の如き秘密電信による宣伝。

特に後者は大きい効果を有する。電台及びラジオ宣伝の技術的方法については別に述べる。

C、火線及び敵後方に於ける工作隊の派遣による宣伝

a、軍隊(第一線)と協同して、若干名(経験によれば五名前後を適当とする)を一組とする宣伝工作隊を派遣し、対陣中の敵日本軍、又は作戦中の日本軍にラウドスピーカーを以て宣伝する。情況によってはメガホンによる談話を交換する。第一線に於ては過去の経験によれば、ビラを菓子箱に

入れて贈り、又は夜間に敵の鉄条網にプレゼントを掲げておき、又は物品の交換等の交歓手段を使用するなど、各種の有効な宣伝を行い得る。

迎えにきたジープ p.182-183 鹿地は米ソの二重スパイだった

迎えにきたジープ p.182-183 And the US arrested a man, a Soviet spy. This man was Kaji, who was supposed to be a US spy. No wonder the US side got angry. "Bite the hand that feeds you."
迎えにきたジープ p.182-183 And the US arrested a man, a Soviet spy. This man was Kaji, who was supposed to be a US spy. No wonder the US side got angry. “Bite the hand that feeds you.”

C、火線及び敵後方に於ける工作隊の派遣による宣伝

a、軍隊(第一線)と協同して、若干名(経験によれば五名前後を適当とする)を一組とする宣伝工作隊を派遣し、対陣中の敵日本軍、又は作戦中の日本軍にラウドスピーカーを以て宣伝する。情況によってはメガホンによる談話を交換する。第一線に於ては過去の経験によれば、ビラを菓子箱に

入れて贈り、又は夜間に敵の鉄条網にプレゼントを掲げておき、又は物品の交換等の交歓手段を使用するなど、各種の有効な宣伝を行い得る。

b、小数の訓練されたる秘密人員で組織した後方攪乱部隊の宣伝

右は遊撃隊と協同することにより、日本軍の駐住すると予想される町村の宿舎、厨房、学校等にさまざまな宣伝品を前もって散布する方法。駐屯地各城市中に潜入しての各種宣伝の方法等が考えられる。

情報に関する工作

A、俘虜調査による情報蒐集

俘虜の教育過程に、われわれの過去の経験によれば、軍事、政治、日本国内の人民生活、その心理的情況等に関する豊富な材料を獲得ができる。

B、捕獲物品、文件の調査等による情報の獲得。(以下略)

彼の〝転身〟の経過を整理してみると、第一の時期は、日本軍閥に反抗して中国に渡り、当時の国共合作時代の重慶(国府)延安(中共)と、これを後援していた米国の三者側についた。

それがのちに二つに割れ、中共をソ連が応援しだすと、まず延安側についた。左翼作家だった鹿地氏としては当然のことである。

ところが、次の時期には重慶側についたのである。日本の敗戦時には重慶におり、マ元帥顧

問だと自称して、得意満面のうちに帰国してきたのだ。

この〈米—国府側〉対〈ソ—中共側〉との間の往復回数は、さらに多かったかも知れない。しかし戦後帰国した際には、重慶で米国のOSS(戦略本部)や、OWI(戦時情報局)に働いていたほどだったから、当然米国側について、重慶時代と同じように、諜報や謀略の仕事をしていたに違いない。

これをみても明らかな通り、彼は一言にしていえば、米ソの二重スパイであったのだ。そして、米国側ではソ連スパイ鹿地を逆用して米国スパイに仕立てあげたつもりでいたのである。

一方、米国側では、前に述べたように「幻兵団」の存在を探知して、これの摘発に懸命に努力していたのである。そして、その一味である「三橋正雄」なる人物を摘発、これを逆用スパイとして利用していた。

その結果、米国側では三橋の報告により、そのレポとしてソ連のスパイである一人の男を逮捕した。調べてみると意外なことには、この男は米側スパイであるはずの鹿地氏だということが判ったから大変だ。米国側が怒ったのも無理はない。飼犬に手をかまれていたのだ。それから鹿地氏証言にあるような拷問(?)が行われた。

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した のであろう。

迎えにきたジープ p.184-185 『敵の手で敵を斃す』諜報謀略

迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi's report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.
迎えにきたジープ p.184-185 The Soviet Union learned from Mitsuhashi’s report that Kaji was arrested by the US. So, the Soviet might have used Japanese public opinion to release Kaji and use it to boost anti-American sentiment.

米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した

のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。

折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。

またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。

それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。

これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に

行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。

これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。

三 せせり出てきた敵役

鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。

自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

迎えにきたジープ p.188-189 ソ連スパイ三橋の取調べ

迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.
迎えにきたジープ p.188-189 Masao Mitsuhashi signed a spy pledge at the Morshansk camp. After returning to Japan, he regularly made contact with Katsumi Sasaki, Wataru Kaji and others.

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

上野の岩倉鉄道学校を卒業後、昭和十年に帝国電波会社に入り、十九年千葉の野戦重砲隊に召集され、続いて新京の関東軍固定通信隊司令部に転属、通信一等兵として無電技術を覚えた。

入ソしてからは、欧露マルシャンスク収容所にいたが、二十一年春に、〝モスクワから来た少佐〟に調べられた挙句、脅迫されてスパイ誓約書に署名した。

それから七月になって、モスクワ郊外にあるスパースクの特殊収容所に移された。ここは収容所というものの、実はスパイ学校で、各地から集められた連中が、無電、暗号、スパイなどの特殊技術を教えられるのだ。ここで約一年間、二十二年十月まで教育をうけた。

それから日本人将校と同道でハバロフスクに移され、病弱者として十二月三日舞鶴入港の朝嵐丸で帰国した。帰国の際、上野公園付近で、合言葉の男と連絡をとるように命ぜられた。

翌二十三年四月十七日、上野公園入口交番裏の石碑付近で、ソ連代表部員クリスタレフ氏とはじめて逢った。この男は無電技師だということだった。合言葉は不忍池のそばで、『この池には魚はいますか→戦時中はいましたが今はいません』というものだ。

それからは毎月一回、都内の各所でレポに逢い、無電機やら二、三万円の現金を受取った。レポは、三人のソ連人らしい男と日本人で、日本人として最初のレポは、二十四年三月から元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己氏で、鹿地氏がレポになったのは二十六年五月からだった。

ところが二十四年春頃、東京駅前の郵船ビルに呼び出され、ソ連スパイとして追究をうけ遂に一切を自白して、逆スパイになることになった。それからは、レポの日時、人相、さらにソ連側から打電を命ぜられた暗号文などを、みんな米側に報告することになった。

二十六年十一月頃、米側から新しいレポとの連絡を報告するようにいわれ、鵠沼で逢うことを話したところ、そのレポ中に米側の係官がやって来てレポを逮捕してしまった。その後米側で写真をみせられ、その男がはじめて鹿地氏だと分った。

レポとの連絡方法は、指令された場所に行きレポと逢い、土中に埋められた送信用の暗号電文と現金を受取った。殆ど会話はしていない。都下北多摩郡へ移転してからは石神井公園や、自宅近くの稲荷神社脇の土中に暗号電文が埋められ、それは金属性のマッチ箱大の箱に入れてあった。

レンガがそこに置いてあれば、埋めてある知らせだった。こちらで受信したものはその代りに、箱へ入れて埋めていた。

さる六日(二十七年十二月)レンガは置いてあったが、暗号電文はなく、こちらが埋めて置いたのがそのままになっていた。そんなことは今までになく、自分が米側に協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり自首してきた。

この自供に基いて国警当局は、直ちに鵠沼をはじめ、都内十数カ所の現場検証を行った。そして、自供通りの現場をみて、自供は真実なりとの結論を下した。