だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。
ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。
そこで満州を占領したソ連軍は、『治安会議をひらくから』として、憲兵、警察、機関員は全員集合という布告を出した。人の良い日本人はそれを信じて集ってきて、一網打尽となった。ソ連側ではせめて〝生ける対ソ資料〟でも確保しようという狙いであろう。
いち早く、偽名して一般軍人を装ったり、内地へ飛行機を飛ばした連中を除いて〝生ける対ソ資料〟たちはこうしてソ連の手におち、秋草元少将以下二百七十名の元関東軍特務機関員たちは、ようとして消息を絶ってしまった。
二 ウイロビー少将の顧問団
ところが、この日本陸軍の対ソ資料を欲しがったのは、ソ連ばかりではなかった。アメリカである。アメリカにとっては、第二次大戦中に援ソ物資の状況視察のため、シベリヤを通ってコムソモリスクの造船所をみてきたウォーレンの、見聞記ぐらいの資料しかなかったのだから当然である。
日本降伏ののちは、ソ連こそアメリカにとっての仮想敵国である。こうして、対ソ資料の行方をめぐって、ここに米ソの秘やかなる正面衝突が起った。やがて始まるべき〝冷たい戦争〟の前哨戦である。
GHQが東京へ進駐するやいなや、サザーランド参謀長はウイロビー幕僚第二部長(G―2)を通じて有末元中将に資料の提出を迫ったが、有末氏自身は何も持っておらず、重宗元中佐が焼却責任者ときいて、これを呼び出した。しかし重宗氏は拒否したので、GHQではソ連関係将校を個別的に呼び出しては提出を命じた。そのやり方が戦犯の取調べにも似た失敬極まるものなので、誰も応じなかったが、この空気を知って、私有化していた兵要地誌、兵力編組、無線情報などの資料を司令部に売り込むような男も現れた。
このソ連関係将校への圧迫は、二十年十一月まで日本郵船ビル(NYKビル)で行われた。重宗氏は『この作業を全く日本側に自主的にやらせるなら協力しよう』といったが、資料だけとれば良いというGHQは、ただ威圧的に『出せ出せ』といっていたのである。
その間、新司偵の撮ったハバロフスク市街図をはじめ、売り込まれた資料などはペンタゴン(米国防省)に送られて、ドイツで得た対ソ資料と比較検討されていた。そして局部的に日本の資料がはるかに優っているとの結論が出て、本格的な収集命令がGHQへ出された。そこでGHQのG—2(情報担当)に、マ元帥の業績整理ともいうべき戦史研究の歴史課と、対ソ資料収集の地誌課とが設けられ、旧日本軍人を職員として採用することになった。これが旧軍人が積極的に「技術者」として、アメリカのために働らきだした最初である。
二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の 好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。