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迎えにきたジープ p.020-021 しかし重宗氏は拒否した

迎えにきたジープ p.020-021 A full order to collect Soviet information has been issued to GHQ. Therefore, GHQ's G-2 (Information Division) was set up with a History Division and a Geography Division, and recruited former Japanese military personnel as staff.
迎えにきたジープ p.020-021 A full order to collect Soviet information has been issued to GHQ. Therefore, GHQ’s G-2 (Information Division) was set up with a History Division and a Geography Division, and recruited former Japanese military personnel as staff.

だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。

ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。

そこで満州を占領したソ連軍は、『治安会議をひらくから』として、憲兵、警察、機関員は全員集合という布告を出した。人の良い日本人はそれを信じて集ってきて、一網打尽となった。ソ連側ではせめて〝生ける対ソ資料〟でも確保しようという狙いであろう。

いち早く、偽名して一般軍人を装ったり、内地へ飛行機を飛ばした連中を除いて〝生ける対ソ資料〟たちはこうしてソ連の手におち、秋草元少将以下二百七十名の元関東軍特務機関員たちは、ようとして消息を絶ってしまった。

二 ウイロビー少将の顧問団

ところが、この日本陸軍の対ソ資料を欲しがったのは、ソ連ばかりではなかった。アメリカである。アメリカにとっては、第二次大戦中に援ソ物資の状況視察のため、シベリヤを通ってコムソモリスクの造船所をみてきたウォーレンの、見聞記ぐらいの資料しかなかったのだから当然である。

日本降伏ののちは、ソ連こそアメリカにとっての仮想敵国である。こうして、対ソ資料の行方をめぐって、ここに米ソの秘やかなる正面衝突が起った。やがて始まるべき〝冷たい戦争〟の前哨戦である。

GHQが東京へ進駐するやいなや、サザーランド参謀長はウイロビー幕僚第二部長(G―2)を通じて有末元中将に資料の提出を迫ったが、有末氏自身は何も持っておらず、重宗元中佐が焼却責任者ときいて、これを呼び出した。しかし重宗氏は拒否したので、GHQではソ連関係将校を個別的に呼び出しては提出を命じた。そのやり方が戦犯の取調べにも似た失敬極まるものなので、誰も応じなかったが、この空気を知って、私有化していた兵要地誌、兵力編組、無線情報などの資料を司令部に売り込むような男も現れた。

このソ連関係将校への圧迫は、二十年十一月まで日本郵船ビル(NYKビル)で行われた。重宗氏は『この作業を全く日本側に自主的にやらせるなら協力しよう』といったが、資料だけとれば良いというGHQは、ただ威圧的に『出せ出せ』といっていたのである。

その間、新司偵の撮ったハバロフスク市街図をはじめ、売り込まれた資料などはペンタゴン(米国防省)に送られて、ドイツで得た対ソ資料と比較検討されていた。そして局部的に日本の資料がはるかに優っているとの結論が出て、本格的な収集命令がGHQへ出された。そこでGHQのG—2(情報担当)に、マ元帥の業績整理ともいうべき戦史研究の歴史課と、対ソ資料収集の地誌課とが設けられ、旧日本軍人を職員として採用することになった。これが旧軍人が積極的に「技術者」として、アメリカのために働らきだした最初である。

二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の 好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。

迎えにきたジープ p.026-027 拳銃を下げたテイラー

迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.
迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.

四 パチンコのテイラー

舞鶴には引揚開始前から米国機関がおかれていた。軍政部とCIC、大津連隊舞鶴分遣隊の三つである。ところが引揚とともにGHQの直系のLS(言学部、Language Sec.)と称するナイト少佐の調査班と、CIC(防諜隊)本部からテイラーとその副官ともいうべき中村(ナカムラ)を長とする特別班とが設置された。

軍政部は政府や民間の監督、分遣隊は警備、舞鶴CICは地区の思想問題と、それぞれの任務を持っており、そこにさらに全く指揮系統の違う二つの機関ができたので、この五つの米国機関はそれぞれニラミ合いのような恰好になってきた。

第一次引揚でナイト少佐班の二世たちが、クソの役にも立たないことを知ったG—2では、顧問団を教官として二世たちにスパイ容疑者訊問法を教育しはじめるとともに、スパイ関係調査は特派CICの管轄に入れることとした。

スパイ関係を受持ったこの特派CICは、G—2の調査班とも、また同じCICである舞鶴CICとも仲が悪かった。そのキャップであるテイラーという男の実態は判らなかった。独系のスポーツ選手のような身体つきの、三十四、五才の男だったが、いつも抜身でパチンコをブラ下げており、他の米人たちからもケムたがられていた。彼は日本語が自由なくせに、使ったこともなければ、分らないようなフリをしており、しかも東京では中佐の階級章をつけていたのを見たという人もある。

中村(ナカムラ)という二世はまだ二十四、五才の男で、テイラーの子分のような男だった。このテイラーというアメリカ人が、戦後はじめてソ連スパイと対決した男である。草田ら五氏は中村に呼び出され、テイラーに付き添われてNYKビルに送られたからである。米ソスパイ戦史の記録に留めねばならない男であるが、正体はついに分らなかった。

LSははじめナイト少佐以下十六名というコジンマリしたものだったが、二十二年四月の引揚再開以後は次第に人員が殖え、百名もの大世帯になったこともある。長はナイト少佐、テイラー少佐、スコット少佐、リッチモンド少佐、ダウド大佐、ハイヤート中佐と変っていった。

四月の引揚再開後は、復員庁関係の菅井元少将らの顧問団はやめて、G—2の職員として本格的採用になった日本人に変った。八月になるとスコット少佐が総指揮官として着任し、組織も拡大されてHM(統計調査部、Home Ministry)という、LSや特派CICの下請け機関ができた。

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。

迎えにきたジープ p.028-029 諜報基地〝マイズル〟

迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.
迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。

第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。

着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。

舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。

 船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。

もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。

米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。

迎えにきたジープ p.034-035 引揚者たちの代々木詣り

迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side's military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the "Nihon Shimbun" as an agitator.
迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side’s military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the “Nihon Shimbun” as an agitator.

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六

号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。

これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。

冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。

アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。

二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。

一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。

NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。

天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団

と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)

迎えにきたジープ p.152-153 日本に反米感情を育てあげた

迎えにきたジープ p.152-153 The Canon Unit is a secret agency that belonged to G-2. But that was the gang who came for the education of all kinds of colonial crimes. Smuggling, looting, gambling...and drugs.
迎えにきたジープ p.152-153 The Canon Unit is a secret agency that belonged to G-2. But that was the gang who came for the education of all kinds of colonial crimes. Smuggling, looting, gambling…and drugs.

アメリカではこれらの欠点を、やはり金と力と物とで補っている。例えば大がかりな文書諜報である。公刊された各種の新聞、雑誌、書籍、ラジオ放送までの資料を最大限に集めて、その中に明らかにされている片言隻句の情報を集める。それを系統づけてゆくというやり方であ

る。

 その限りではある程度の成功も納め得ているに違いない。後述のタウン・プラン・マップもその伝である。しかし、実行機関の方は常に失敗の連続で破綻を見せ、その失敗の影響が成功の面を喰い荒している。その良い例が、鹿地事件で悪名高いキャノン機関だ。

 キャノン機関というのは、典型的なギャング・タイプのキャノン中佐を長として、G—2に所属していた秘密機関である。その詳細はあまりにも有名であるので、ここでは省略するが、シッポを出したのは鹿地事件ばかりではなく、枚挙にいとまがないほどである。

 その暴状振りは、秘密機関というのも街のボスのそれであり、密航、密貿、略奪、バクチ、麻薬など、それこそあらゆる植民地犯罪の教育に来たギャングそのものであった。

 二十九年六月二十九日、六年四ヶ月の長期にわたった警視総監を辞任した田中栄一氏も、二十三年六月のライアン大尉殺し事件でこのキャノンに脅迫されたのをはじめとして、その在任中悩まされ続けたといっている。斎藤警察庁長官と田中官房副長官との共著で「キャノン罪悪史」をまとめたならば、占領秘史として極めて有意義なものであろう。

 キャノン機関と連絡を持っていたといわれる日本人は、それこそ掃いて捨てるほどいる。赤坂のナイトクラブ、ラテンクォーターに拠る児玉機関、三越前ライカビルの亜細亜産業の矢板

兄弟、これは交詢社で「バラ」という雑誌をやっていた。日動ビルの岩本機関、教文館ビルの日本通商グループの川本芳太郎元中将(31期)ら、柿ノ木坂グループの長光捷治元憲兵中佐(39期)ら、東方社の三田村四郎氏らの三田村機関、北京特機出身の日高富明元大佐(30期)らの日高機関、ハルビン特機出身の小野打寬元少将(33期)らのグループ、朝鮮人の韓道峰らの桂機関、延録機関、馬場裕輔の馬場機関など、書き切れない。

しかし、これらのやった仕事は、純粋な諜報謀略から外れており、金儲け第一主義なのである。(その詳細は第四集〔羽田25時〕を参照)

このような秘密機関のため、日本にどのように反米感情を育てあげたか、NYKビルの功罪は、まだしばらく時をかさねば明らかにはなるまい。

二 ウソ發見機の密室

NYKビルとは一体何なのだろうか。まず、この日本郵船(NYK)がもっている東京駅前の六階建のビルの実態を明らかにしなければなるまい。

一口に秘密機関といっているのは、要するに諜報謀略機関のことである。この秘密機関には、公然と非公然とがあるのは、世界各国を通じて同じである。

例えば、麻布の元ソ連代表部が、諜報謀略工作をやっていることは常識であるが、では何をどうやっているかということは明らかではない。だからこれは公然秘密機関である。警察でも 同様で、公安関係は特高といわれるように、やはり公然秘密機関でもある。

迎えにきたジープ p.154-155 NYKビルの米国諜報機関

迎えにきたジープ p.154-155 There are various American intelligence agencies in Japan. For example, CIC, CIS, CIA, LS, HM as well as ATIS, MISG. Many of them are in the NYK building.
迎えにきたジープ p.154-155 There are various American intelligence agencies in Japan. For example, CIC, CIS, CIA, LS, HM as well as ATIS, MISG. Many of them are in the NYK building.

NYKビルとは一体何なのだろうか。まず、この日本郵船(NYK)がもっている東京駅前の六階建のビルの実態を明らかにしなければなるまい。

一口に秘密機関といっているのは、要するに諜報謀略機関のことである。この秘密機関には、公然と非公然とがあるのは、世界各国を通じて同じである。

例えば、麻布の元ソ連代表部が、諜報謀略工作をやっていることは常識であるが、では何をどうやっているかということは明らかではない。だからこれは公然秘密機関である。警察でも

同様で、公安関係は特高といわれるように、やはり公然秘密機関でもある。

アメリカについても同様で、今迄現れてきた各種の機関の名前を列挙すれば、CIC、CIS、CIA、LS、HM、さらにATIS、MISGなどと、いろいろの機関があり、それぞれに公然、非公然に別れる。

CICというのは、Counter Intelligence Corps. の略で、軍の防諜部隊である。つまり、軍の機密が外部に洩れるのを防ぐのが本来の仕事であるが、『攻撃こそ最大の防禦である』という言葉を引用するまでもなく、洩れればその原因や結果を調べたり、洩れそうなところに事前に手を打ったりする結果、外部に対しては諜報工作を行っているような印象を与えている。しかし防諜ということは、同時に対諜である。敵の諜報を摘発することが防諜でもあるのだ。

CICはGHQ(連合軍総司令部)のG—2(幕僚第二部)に属している。G—2というのは情報担当で、日本陸軍でいえば参謀本部第二部に該当する。CICは日本全国を七管区と一特別区とに分けていた。

北海道(札幌)、東北(仙台)、関東(東京)、東海(名古屋)、近畿(大阪)、四国、中国(広島)、九州(小倉のちに博多)と、京浜(横浜)とである。このG—2のCIC本部がNYKビルにあったのである。

CISというのは、Civil Intelligence Sec. の略で、対諜報部であって軍の部隊ではない。これもG—2の中にあり、NYKビルの中にあった。

CIAというのは、Central Intelligence Agency の略で中央諜報局と呼ばれている。この前身ともいうべきものはOSSであった。OSSとはOffice of Strategic Service の略で、太平洋戦争時代にアメリカが対日諜報謀略のために重慶に設けた中米合作機関で、例の鹿地亘氏などもここのメムバーだった。

ところが中共の大陸制覇後は、このOSSも動きがとれなくなってきたので解体され、新たに対共産圏諜報謀略本部として、国務省系統で大統領直属のこのCIAが設けられた。このCIAの東京ブランチもNYKビルの中にあったが、講和後は大使館へ移った。

LSやHMなどは舞鶴の特別機関だからここでは関係がない。ではこのようなアメリカの公然秘密機関は、NYKビルの中でどのように配置されているのであろうか。シベリヤ引揚者数十万の人々のうち、半数近くは出頭したことのあるこのビルなのだから、今想い起してみて自分が何のため呼ばれたかが、明らかになるのも興味深いことだろう。

一階はG—2のオフィスである。ここには非公然秘密機関というべき幾つかの組織がある。ATIS( Allied Translation and Interpretation Sec. )である。MISGというのは、朝鮮戦争

が起きたときに、CICとATISとを一緒にして編成したもので、Military Intelligence Service Group の略で、いわばソ連のスメルシのような戦時諜報機関である。そして朝鮮に第一〇〇MISGが出動、情報大隊を釜山においていた。これには日本人で参加した者もあったといわれている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 ソ連のスパイになる

赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 I decided not to inform CIC but to "cooperate" with the Soviet representative.
赤い広場ー霞ヶ関 p.090-091 I decided not to inform CIC but to “cooperate” with the Soviet representative.

しかも、占領米軍のやり口はここ三年近くの間に、はっきり見せつけられてきた。いま結ばれようとしている講和・安保の二条約は、果して善意と寛容のものだろうか。このままで進めば、日本がまた戦争に捲き込まれはしないか。日本全土を基地として、米軍は一体なにを防衛しようというのか。平和な生活―それを除いてなにを守ろうというのか。

民主々義―それは私たち日本人自身がつくり出すものであって、平和なうちにこそ発展できるはずだ。その平和を守るためには、力ばかりで固めるのはあまりにも危険だ。

この際、私の立場としてなしうること―それは日本人が心から平和を願っていることを、卒直にソ連に伝えることだ。もちろん、現実と理想とは一致しがたいし、個人の力には限界がある。しかし如何に相手がソ連といっても、人間の善意と努力がまったく無駄になることはあるまい。

こう考えて、私は引揚げの促進と平和への努力とのために、自分自身を裏切らないことを心にいいきかせながら、CICには知らせずに、ソ連代表部員と「協力」することに決心したのであった。

だがよく考えてみればみるほど、この仕事が危険なことは明らかであった。一方の足と手をアメリカという強引な「鬼蜘蛛」の糸に取られ、さらにいま他方の手と足をソ連という冷酷な「女郎蜘蛛」の尻から吐かれる糸に捲かれようとしているのだ―これが、その時の私の偽りのない不安な感情であった。そして私は、やれるだけやってみよう、しかも他の日本人には一切迷惑をかけないようにして……と覚悟を決めた。

三日後の水曜日の夜九時、私は帝劇裏の飯野産業ビル前の歩道をゆっくり歩いていた。(中略)

私にあたえられた任務―それは日本の政治情報、とくに再軍備に関する情報を蒐集し、自分の意見を付け加えて報告することであった。読終った彼はただ一言、

『無理して急がないように、あなたはまだ若いのだから、お互いに〝警戒心〟をたかめて慎重にやりましよう』(中略)

その後、私はすべての情報原を各種の出版物に求め、これを細密に分析して、大体一ヶ月に一回メモを作ってユーリ(著者註、ラ氏)に渡した。

ユーリは私のメモについては、なに一つ批判をしなかった。そして時々私に臨時の目標を示した。例えば二十年の二月頃には、米将校の名をあげて利用できないかを探知するように(著者註、それは在日米大使館ラデエフスキー参事官、NYKビルのオットー少佐、A―2のラザエフスキー中佐、G―2のミハレフスキー大尉らの独系、露系米人だったといわれる)、またその年の五月「メーデー事件」の直後には、日本共産党の軍事組織を明らかにするように私に依頼したが、私はその都度できないと率直に断った。それでも二十七年の十月頃からは、彼が私を信用しはじめたと私は考えたので、引揚げの促進と平和への願いを、あらゆる報告に関連させて私は書き送っていった。

最初の連絡場所は目黒の碑文谷付近の住宅地であったが、その後銀座pX裏、渋谷東宝劇場、新宿の裏街などを転々と変った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 女は細川直知に五千円を差し出した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. "If you refuse the job request..." the woman said, and showed a small Colt pistol.
赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. “If you refuse the job request…” the woman said, and showed a small Colt pistol.

これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

一例をあげよう。第三軍中佐参謀だった細川直知元侯爵は二十五年一月エラブカ、ハバロフスク経由で引揚げてきた人である。氏はスパイ誓約書に署名をしなかったので、いわゆる幻兵団には入らないが、エラブカではクロイツェル女中尉にしばしば呼ばれ、また〝モスクワから来た中佐〟にも呼ばれていた。

帰国後のある日、同氏は、NYKビルに呼ばれて取調をうけた帰途、ブラブラ歩きで日比谷の三信ビルの角までやってきた。そこへ二十五才位、小柄で色白、可愛いい型の黒ずくめの服装の女が寄ってきた。彼女は歯切れのよい日本語で話しかけたので、日本人らしかったが、ともかく東洋人であることは間違いなかった。

『あなたはエラブカの細川中佐ですネ』

『そうです』

『一寸お話したいことがあるのですが、そこらまで付合って頂けませんでしようか』

『宜しいでしよう』

誓約をしなかった同氏は、もちろん合言葉も与えられなかったし、相手が割に美人でもあったので、何の懸念もなく気軽に応じた。二人は三信ビルの裏を廻って、日比谷映画劇場と有楽座の前にあった日東紅茶のサービスセンター(のちにCIE図書館となった)に入って一休みしながら話し合った。

彼女は品もあり、話し方も淑やかだった。

『私はあなたに仕事をお願いしたいのですが、如何でしようか』

といいながら、小型の女名刺を差し出した。それには「山田葦子」(特に仮名)とあった。細川氏は不審気に反問した。

『ヤブから棒に一体どんな仕事なのです』

『それはやって頂いているうちに分りますわ。もし、お願いできるんでしたら……』

彼女はそういいながら百円札を五十枚、五千円をソッと差出した。細川氏は意外な彼女の態度に驚きながら返事もできずにいると、彼女はキッと形を正して、低く鋭い声でいった。

『どうしても協力して頂けないのなら……』

彼女は終りまではいわずに、あとは黙って膝の上のハンドバッグを開けると細川氏にその中身を示した。

黒い小型のコルト拳銃が一丁、その持主の美しさにも似ず鈍く輝いていた。細川氏はうなずいた。彼女は納得して『では、次の連絡は私の方からとります』と告げて、その日の二人の出

会いは終った。