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p59上 わが名は「悪徳記者」 蜂須賀侯爵の急死…

p59上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾――金と女が出てくる、絶好の社会部ネタだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。
p59上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾――金と女が出てくる、絶好の社会部ネタだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。

自分の質問であるかの如くよそおうのである。

ニュース・ソースのない記者は、全くのサラリーマンである。その役所にいれば、その役所のことはその時だけ。他のことは我関せずに、そのクラブを去ったならば、もうその役所のことは判らないのである。

この場合、小林も王も私のニュース・ソースだったのである。もちろん、元山にも警察へ行く前に、自分の言い分を宣伝しておきたいという気持もあったろう。私は元山の話はさておき、横井との会見の理由が、蜂須賀侯爵家の債権取立問題と聞いてのりだした。

私は社へ電話して、『元山に会った。だが彼の話は宣伝だから面白くないが、蜂須賀侯爵家の債権問題が面白い。誰か記者をやってほしい』と伝えた。

華族でも名門蜂須賀家、侯爵の急死、愛妾――金と女が出てくる、絶好の社会部ダネだし、登場人物もスターばかり、小道具にピストル、そしてギャングだ。情報通の元子爵を叩き起して……と考えながら、私は社へきてみたのだが、社では何の手配もしてなかった。

『畜生メ、ワカラズ屋ばかりだ。こんなネタを見送るなんて、読売社会部のカンバンが泣くヨ!』

私は心中で怒嗚って、黙って元山の原稲だけ書くとデスクに出した。私は萩原君を付近の喫茶店に誘うと、久し振りの快事件だというのに、ニュース・センスのなさを散々に毒づいてやった。何しろ「事件」が判らないのである。 しかし、翌日、私は念のため某元子爵に会って、蜂須賀家の内情をきいてみると、亡くなった正氏侯爵が奇行の人で、いよいよ面白い。

p59下 わが名は「悪徳記者」 安藤組の子分という男

p59下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「こちらに安藤組の犯人が立ち廻ったという情報だから調べてくれ、とのことです」という。何しろ、その時の私は、髪は油気なしのヒゲボウボウ、アンダーシャツ一枚の姿だったから…
p59下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「こちらに安藤組の犯人が立ち廻ったという情報だから調べてくれ、とのことです」という。何しろ、その時の私は、髪は油気なしのヒゲボウボウ、アンダーシャツ一枚の姿だったから…

ところが、翌日朝、毎日が一通り書いてしまった。『ウチのほうが余ッ程深く掘っているのに!』と、また舌打ちである。

それからしばらくたって、私はある週刊誌から、横井事件の内幕の原稿依頼を受けた。どんなに面白いネタを集めても、自分の新聞にのらないのだから仕方がない。何しろ、私は一出先記者である。紙面制作にタッチしていないのだから、原稿の採否の権限がない。

私は依頼を引受けて、蜂須賀対横井の最高裁までの法廷の争いを調べようと思った。私は車を駆って、目黒区三谷町の王の事務所を訪れた。夜の八時ごろだったろうか。七月三日のことである。その時に安藤組の子分という若いヤクザっぽい男に会った。

事務所の二階で、各級裁判所の判決文写しなどを見せてもらっていると、階下が騒がしい。事務員がやってきて、『碑文谷署の刑事がきた』という。上ってきた刑事は、横井事件の本部から、『こちらに安藤組の犯人が立ち廻ったという情報だから調べてくれ、とのことです』という。

私は王から、付近のマーケットの立退き問題でモメていると聞いていたから、即座に私を誤認したイヤガラセの電話だナと判断したのだった。何しろ、その時の私は、髪は油気なしのヒゲボウボウ、Yシャツを車に脱いでアンダーシャツ一枚の姿だったから、見間違えられるのもムリはなかった。 『それは間違いでしょう。私は読売の記者で三田といいます。私を間違えたのですよ』と、笑って自ら名乗った。もちろん、何の疑念もなかった。そして、刑事たちは納得して帰っていった。

p60上 わが名は「悪徳記者」 それなら、あんたにやるよ

p60上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 王、小林が誰か犯人を、二日の約束であずかったのだが、そのまま背負い込まされているので、連絡係のフクに喰ってかかっているのだ。
p60上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 王、小林が誰か犯人を、二日の約束であずかったのだが、そのまま背負い込まされているので、連絡係のフクに喰ってかかっているのだ。

王と小林はプンプン怒って出たり、入ったりしていたが、やがて、私に伝言を残していなくなってしまった。

事務所の伝言によると、先程の若いヤクザを探して一緒にきてくれということだ。私は付近の喫茶店にいたその「フク」と呼ばれる男と一緒に渋谷のポニーという喫茶店に出かけた。

そこには、王、小林の両名がいて、たちまち、そのフクとの間で激しい口論になった。『何だ、二日という約束なのに、どうしたッていうんだ。いまだに何の連絡もないじゃないか』『今時のヤクザなんて、何てダラシがないんだ。他人に迷惑をかけやがって』

私は黙って三人の会話を聞いているうちにやっと様子がのみこめてきた。王、小林が誰か犯人を、二日の約束であずかったのだが、そのまま背負い込まされているので、連絡係のフクに喰ってかかっているのだ。

『一体、その男は誰だネ』

『安藤組の幹部で、山口二郎という人だ』

私の問に王が答えた。山口二郎? 聞いたことのない男だが、五人の指名手配者の誰かの変名に違いない。しかも、〝という人〟という表現だ。面白い。私は乗り出した。

『そんなみっともないケンカは止めなさい。それより、その男に私を逢わしてくれ』

『ヨシ、それなら、あんたにやるよ』

王と小林は渡りに舟とばかり、即座に答えた。私はその男をもらったのである。煮て食おうが焼いて食おうが、私の自由である。それから三十分ほどのちに、渋谷の大橋の先の広い通りで待っていた私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。

p60下 わが名は「悪徳記者」 その男に自首をすすめた

p60下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 旅館について、明るい灯の下で、〝山口二郎という人〟を見た私は、どうやら小笠原郁夫らしいナと感じた。いろいろの話をしたのち、私は、その男に自首をすすめた。
p60下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 旅館について、明るい灯の下で、〝山口二郎という人〟を見た私は、どうやら小笠原郁夫らしいナと感じた。いろいろの話をしたのち、私は、その男に自首をすすめた。

私の車を認めて、一台の車が向い側で止った。

ドアを開けて、一人の男がこちらに走ってくる。私は『山口さんですネ』と念を押してうなずく男を、すぐ車中に招じ入れた。チョッとしたスリラーである。例のフクも乗りこんできた。私は運転手に『奈良へ』と、赤坂見付にある社の指定旅館「奈良」へ行くように命じた。これが、新聞記事にある〝共同謀議をした赤坂の料亭〟の正体である。旅館のママさんは、一流料亭のように扱われたのでニヤニヤであろう。近頃のデカやサラリーマン記者には、〝赤坂の料亭〟など、見たこともないし、旅館と料亭の区別もつかないのであろうか。

旅館について、明るい灯の下で、〝山口二郎という人〟を見た私は、どうやら小笠原郁夫らしいナと感じた。いろいろの話をしたのち、私はその男に自首をすすめた。

『しかし、自首といっても、形はあくまで逮捕ですよ。犯人が自首して出るなンてのは生意気ですからね。警察というものは、犯人を逮捕しなければ、威信にもかかわるのです。だから私はあなたを、あくまで逮捕させるのに協力するのです。そして、ウチの紙面でももちろん逮捕と書きます』

彼は、『まだ自首できない』と答えた。その理由をいろいろと述べるのである。私はもう深夜なので、時間を気にしはじめた。明日までに週刊「娯楽よみうり」に決りものの、「法廷だより」の原稿を書かねばならない。

『ともかく、一晩ゆっくり考えて、自首する決心をつけなさい。もし、どうしても自首できないならば、明日の夕方までにここを立ち去ってもらいたい』

と、私は厳しくいって「奈良」を出た。

p61上 わが名は「悪徳記者」 小笠原は自首の決心をしたのか

p61上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 フクから電話で小笠原が会いたいと連絡してきた。いよいよ自首の決心がついたのかと、私はよろこんで会う段取りを決めた。
p61上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 フクから電話で小笠原が会いたいと連絡してきた。いよいよ自首の決心がついたのかと、私はよろこんで会う段取りを決めた。

『ともかく、一晩ゆっくり考えて、自首する決心をつけなさい。もし、どうしても自首できないならば、明日の夕方までにここを立ち去ってもらいたい』

と、私は厳しくいって「奈良」を出た。

のるか、そるかの決断

翌四日は、私が忙がしくて夕方までに「奈良」へ行けなかった。夜十一時すぎごろ、やっと「奈良」へかけつけると、私が来ないと思った小笠原は、すでに帰り仕度をして、玄関に立っていた。私と彼は再び「奈良」の一室で会った。

『私は、実は小笠原郁夫です』

彼の名乗りを開いて、私はうなずいた。彼は自首する時は必ず三田さんの手で自首して、読売の特ダネにする。自首までもう四、五日間時間をかしてほしい。必ず連絡する、というので、自宅と記者クラブの電話番号を教えた。そして、彼を鶯谷まで送ってやって別れたのである。

七月十一日の夕方、フクから(のちに福島という、花田の子分と判った)電話で小笠原が会いたいと連絡してきた。いよいよ自首の決心がついたのかと、私はよろこんで会う段取りを決めた。五人の指名手配犯人の逮捕第一号が、読売の特ダネになるのである。ソワソワするほどうれしかった。

自首の段取りができたから、この事件の担当である深江、三橋両記者を呼んで、逮捕数時間前のカッチリした会見記を取材する。取材が終ったら、この両記者が花を持たせたい捜査主任に連絡して、小笠原を放し、路上で職務質問の逮捕をさせるのである。 或は、小笠原の自宅に張込みをさせて、そこまで送りとどけ、細君と最後の対面をさせてやって、逮捕してもよい。

p61下 わが名は「悪徳記者」 自首どころか隠してくれと

p61下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 不忍池で現われた小笠原を車に拾い、「奈良」にとって返した私は、さらにフクの案内で現われた「花田映一」という人物に会った。
p61下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 不忍池で現われた小笠原を車に拾い、「奈良」にとって返した私は、さらにフクの案内で現われた「花田映一」という人物に会った。

細君と最後の対面をさせてやって、逮捕してもよい。仲の良い後輩であるこの二人の記者に花を持たせ、両記者は担当主任に花を持たせる。そして、当局の捜査に協力したという実績が、読売をして捜査二課に、ニュース・ソースというクサビを一本打ち込ませるのだ。

不忍池で現われた小笠原を車に拾い、「奈良」にとって返した私は、さらにフクの案内で現われた「花田映一」という人物に会った。私が入浴している間に、やってきた三人は、何事かを相談し合っていた。

『東興業副社長の花田さんです。何にもヤマがないので、幹部でホジョウ(逮捕状)の出ていない唯一人の人です』という紹介だった。

しばらくして、

『御迷惑をおかけしてますが、何分とも宜しくお願いします』

と、花田は礼儀正しく挨拶して、一人先に帰っていった。如何にも小笠原より兄貴分らしい貫禄だった。

花田が帰り、小笠原とフクとの三人になったが、彼は一向に自首の話を持ち出さない。私が変だゾと思いはじめた時、小笠原はフクに向って、

『お前はしばらく風呂に入ってこい』

と命じて、私と二人切りの機会を作った。 すると意外にも、自首どころか、もう一週間ほど、隠してくれという依頼を切り出したのだ。小笠原がどんな気持で、私に「逃がしてくれ」と頼んできたのか、私には未だに判らない。のちに、フクからきいたところによると『王さんや小林さんは信用できない人だと思ったので、そこにいる間中、いつサツに密告されるかと心配していた。

p62上 わが名は「悪徳記者」 短い時間で決断を迫られた

p62上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 しかし決して逃げ切ろうというのではなく、せめて社長(安藤)の後から自首したい。時間もそう長いことではない。必ず三田さんの手で自首する。御迷惑は決してかけないと、頭を下げて頼みこむのである。
p62上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 しかし決して逃げ切ろうというのではなく、せめて社長(安藤)の後から自首したい。時間もそう長いことではない。必ず三田さんの手で自首する。御迷惑は決してかけないと、頭を下げて頼みこむのである。

その人たちに紹介された三田さんだし、検察庁担当の記者だと聞いて、いよいよ不安だった』そうである。

すると、三日、四日と二日間が無事だったので、すっかり信用してしまったらしい。ともかく、小笠原は花田にも、フクにも内緒で三田さんと二人だけの話ですから、北海道へでも、しばらくかくして下さい。しかし決して逃げ切ろうというのではなく、せめて社長(安藤)の後から自首したい。時間もそう長いことではない。必ず三田さんの手で自首する。御迷惑は決してかけない(自首しても逃走経路は黙秘するという意味)と、頭を下げて頼みこむのである。

私はこの時に、短かい時間で決断を迫られていた。つまり、彼の申し出をキッパリと拒絶するか、きいてやるか。当局へ連絡して逮捕させるべきか、黙って逃がしもせず別れてしまうかである。

私と小笠原との出会いは、前述した通りである。もちろん、安藤組とは誰一人として、今まで何の関係もなく、何の義理も因緑もなかった。王、小林にも、『かくまってくれ』とは頼まれていない。むしろ、先方で持て余していたのを、私が会わせろといったので、厄払いをしたように、『ヨシあんたにやるよ』といって、全くもらってしまった身柄であるし、私の興味は新聞記者としての、取材対象以外の何ものでもない。もちろん、金で頼まれたりするような、下品な男ではない。 第一、私には、前にものべたように、教育と名誉と地位と将来とがあるのである。黙っていて、社からもらうサラリーが約四万二千円。それに取材費として、私は月最低一万二千円、多い時には三万円を社に請求した。その上、自家用車ともいえる社の自動車がある。

p62下 わが名は「悪徳記者」 この瞬間に大勝負へ踏み切った

p62下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。
p62下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。

そればかりではない。数字を明らかにしたくないが、私が月々得る雑誌原稿料は相当なものであった。

この私が、どうして、十万やそこらのメクサレ金で、刑事訴追を受けるような危険を冒すであろうか。もしも、誰かが一千万円も出すといって頼みにくれば、しばらくは考えこむだろうが、百万円もらってもイヤである。私の将来がなくなるからである。私の二人の可愛い子供たちが、学校へ行けなくなるし、三田姓を名乗る一族のすべてが、肩身せまくなるからである。

私の意志は、小笠原のこの突然の、虫の良すぎる申し出の前で、全く自由であった。彼の意志に反して、彼の眼前で警視庁へ電話して突き出すことにも、恐怖なぞ感じなかった。私は取材で、記事で、もっと恐いことを味わっている。

私は決断を迫られた。私の無言に、小笠原は誠心誠意、人間の信義をかけて、再び頼みこんできた。私は彼の眼をジッとみつめて、しばらく考えこんだ。ホンの数分である。イヤ数十秒かも知れない。――私は決心して、『よろしい。やってみましょう。ただ、北海道といえば、頼める人はただ一人、旭川にいた私の昔の大隊長だけです。その人がウンといったら、紹介してあげます。もし、ダメだといったら、あきらめて自首なさい。』

私はこの瞬間に、大勝負へ踏み切ったのであった。新聞記者として、一世一代の大仕事である。まさにノルカソルカであった。戦争と捕虜とで、〝人を信ずる〟という教訓を得た私は、小笠原を信じたのである。 人は笑うかも知れない、『何だ、タカがグレン隊の若僧に……』

p63上 わが名は「悪徳記者」 花田を通じて安藤に会える

p63上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 すると、花田を通じて安藤に会えるということだった。安藤に会う。彼を自首へと説得するのだ。逃走者の心理は、ほぼ分る。何しろ、私は公安記者のオーソリティだったからだ。
p63上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 すると、花田を通じて安藤に会えるということだった。安藤に会う。彼を自首へと説得するのだ。逃走者の心理は、ほぼ分る。何しろ、私は公安記者のオーソリティだったからだ。

『信ずべからざるものを信ずるなンて……』と。実際このような言葉を聞いた。

雄壮なる構想を描いて

だが、私にも、決断するだけの根拠があった。まず第一に、絶対に一点の私心さえない純粋な新聞記者としての取材であったことである。これこそ、俯仰天地に恥じない私の気持である。だからこそ、二十五日の拘禁生活も、よく眠り、よく食い、調べ室では与太話で心の底から笑って、かえって、肥って帰ったほどである。

私の計画の根拠は、花田の出現であった。彼がフクに連れられて「奈良」に現われたことは、当然、連絡であった。フクは王の家の時にもいたのだから、日共用語でいえば、テク(防衛)とレポ(連絡)である。

花田の出現を、逃走費用を渡すためとみたのである。(事実、あとで聞けば一万五千円を届けてきた)逮捕状の出ていない花田は、副社長だという。日共の九幹部潜行でいえば、合法面に浮かんでいる臨時中央指導部であろう。安藤が徳球である。

すると、花田を通じて安藤に会えるということだった。安藤に会う。彼を自首へと説得するのだ。逃走者の心理は、ほぼ分る。何しろ、日共はじめスパイなどと、私は公安記者のオーソリティだったからだ。 安藤を説得できれば、安藤の命令で他の四人は簡単である。そうすれば、私の手の中に横井事件の犯人五人ともが入ってくる。私の手でいずれも警視庁へ引渡す。事件は解決である。

p63下 わが名は「悪徳記者」 五日間連続特ダネの報道で

p63下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 こうして、五日間にわたり、最後の安藤逮捕まで、連日の朝刊で犯人逮捕を抜き続けたら、これは一体どういうことになるだろう。横井事件は一挙に解決し、しかも読売の圧勝である。
p63下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 こうして、五日間にわたり、最後の安藤逮捕まで、連日の朝刊で犯人逮捕を抜き続けたら、これは一体どういうことになるだろう。横井事件は一挙に解決し、しかも読売の圧勝である。

本部専従員八十名、全国十五、六万人の警官を動員し、下山事件以来の大捜査陣を敷いたといわれる横井事件も、一新聞記者の私の手によって一挙に解決する。

五人の犯人を手中に納めたら、すぐ各人に記者が一名宛ついて監視する。まず第一日に一人を出す。これが読売の特ダネだ。特捜本部では感謝感激して、この犯人を逮捕するだろう、翌日、また一人逮捕させる。これもまた読売の特ダネだ。

こうして、五日間にわたり、最後の安藤逮捕まで、連日の朝刊で犯人逮捕を抜き続けたら、これは一体どういうことになるだろう。横井事件は一挙に解決し、しかも、読売の圧勝である。

私はそれこそ〝日本一の社会部記者〟である。そしてまた、警視総監賞をうける最高の捜査協力者である。本年度の菊池寛賞もまた私個人に与えられるかも知れない。各社の横井事件担当記者は、いずれも進退伺いを出さざるを得ないであろう。

この五日間連続特ダネの報道で、読売の声価はつとに高まり、「事件の読売」「社会部の読売」の評価が、全国四百万読者に湧き起るであろう。会社の名誉でもある。〝百年記者を養うのは、この一日のため〟である。

二人目の犯人を出した時、警視庁は怪しいとカンぐるかも知れない。そして、残りを一度に欲しいと、社会部長か編集局長に交渉してくるだろう。刑事部長と捜査二課長の懇請を入れて、三日目に全員を逮捕させてもいいだろう。

私の構想ほ、とてつもない大きさでひろがっていった。 この計画を或は他の記者は、空想として笑殺するかも知れない。

p64上 わが名は「悪徳記者」 「安藤に会わせろ」も可能になる

p64上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。
p64上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。

しかし、そうではない。安藤親分のただ一言、「横井の奴、身体に痛い思いをさせてやれ」で、現実に千葉が射っているではないか。

同様に、安藤が「皆、自首しろ」と命令しさえすれば、この計画の実現性はあるのだ。花田に「安藤に会わせろ」と交渉して、果して花田は安藤のアジトを教えるだろうか。たとえ、安藤にあうことができて、「私の手で自首しろ。五人の身柄を私にまかせろ」と、説得できるだろうか。私が、ただの〝新聞記者〟にすぎないならば、安藤を説得することは難かしい。

元山の会見記のように、先方にも新聞記事を利用しようという気があればまだしもである。しかし、今度は自首である。自首すれば早くて四、五年はこの娑婆とお別れだ。共産党であれば、政治的にそのことに価値があれば、まだ説得できる。しかし相手はヤクザだ。ヤクザにはヤクザらしい説得法がある。

私は小笠原を一時的に北海道へ落してやろうと考えた。私はあくまで小笠原に頼まれただけだ。私が「犯人隠避」という刑事訴追をうける危険を冒しても、ここで一度彼らへの義理を立てるのだ。私が、職を賭して彼らへ義理立てさえすれば、「安藤にあわせろ」の要求も、安藤の説得も可能になる。〝一歩後退、五歩前進〟の戦略だ。

――ヨシ、やろう。 私の決心は決まった。たとえ、最悪の場合でも、四人が逮捕されても、小笠原一人が残る。そこで、小笠原を逮捕させて、事件は解決する。北海道に何のカンもない彼には、金もあまりないことだし、旭川に預けておけばフラフラ道内を歩くことは不可能だ。彼との固い約束で、自首の決心さえつけば上京してくる。

p64下 わが名は「悪徳記者」 六法全書の頁を繰った

p64下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。
p64下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。

それ以外は旭川にいる。彼を私の視線内においておくには、彼が一人歩きできないところに限る。旭川という〝冷蔵庫〟に納めておくのだ。

恐怖の二時間

私は彼を伴なって、塚原さんの家に向った。前述のように、塚原さんは何の事情もきかなかった。

『明朝、外川に速達を出しておこう』

私はその返事に、運命はすべて決まったと覚悟した。小笠原をまた奈良旅館にかえし、自宅へもどった。すでに深夜で、妻や子、老母も平和に眠っていた。

私は書斎に入ると、六法全書の頁を繰った。去年の夏、司法クラブのキャップになってから、使い馴れた六法全書だ。刑法篇だけが手垢に黒く汚れている。

刑法第百三条 罰金以上ノ刑二該ル罪ヲ犯シタル者又ハ拘禁中逃走シタル者ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二百円以下ノ罰金二処ス

パタリと私は六法を閉じた。私の行為は、この行為だけを取り出してみるならば、明らかに「犯人隠避」である。つまり、捜査妨害なのである。しかし、私は果して当局の捜査を妨害しようとしているのだろうか。否、否。捜査に協力する目的、事件を解決するために、一時的に、しかも、逃がさないために北海道へやるのだ。 新聞記者の取材活動には、しばしば不法行為がふくまれる。密航ルートの調査のため、台湾人に化けて密航船にのりこみ、密出国(出入国管理令違反)し、香港まで行ったケースもある。

p65上 わが名は「悪徳記者」 「旭川までの切符を買ってください」

p65上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 今さら、「それは困る」とはいえない。塚原さんを東京駅に送ると、交通公社で切符を買い、三越で下着類を買って、再び「奈良」へもどった。
p65上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 今さら、「それは困る」とはいえない。塚原さんを東京駅に送ると、交通公社で切符を買い、三越で下着類を買って、再び「奈良」へもどった。

この場合は、密航ルートの調査資料を、当該当局に提供することによって、訴追をまぬかれているのだ。犯人を逮捕させることによって、その経過の中の不法行為もまた許されるであろう。

翌七月十二日、正午すぎに塚原さんが最高裁内の記者クラブにたずねてきた。二人で「奈良」へ向った。二人を紹介したところ、塚原さんは事務的に、旭川の外川材木店の住所と駅からの略図とを書いて教えた。約三十分の会見で塚原さんは立ち上った。その時、小笠原が、私に一万円を渡して、「下着類と旭川までの切符を買って下さい」と頼んできた。そうすることに若干の抵抗は感じたが、もはや私の計画は実行行為に入っているのだ。今さら、「それは困る」とはいえない。

塚原さんを東京駅に送ると、交通公社で切符を買い、三越で下着類を買って、再び「奈良」へもどった。十六時五分という急行があるので、それに間に合うようにと、車を飛ばして上野駅へかけつけ、小笠原を駅正面でおろしたのが、四時十分前ごろであった。

p65下 わが名は「悪徳記者」 メングレの刑事が駅に張り込んでいて…

p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。
p65下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

おろしてからの一、二時間は、本当のところ恐かった。もしかするとメングレ(顔見知り)の刑事が駅に張り込んでいて、彼を逮捕するかも知れないからだ。しかし、メングレでなければ、手配写真などでは、絶対に判らないだろうと考えて、列車にさえのれば旭川着は間違いないと思った。そして、私の雄大豪壮な計画はまず、その第一歩では成功であった。

ところが、事態は意外な進展をみせて、すっかり変ってきたのである。この秋に、私たち戦前の演劇青年、少女たちが集まって、職業人劇団を結成し、その第一回公演を、やはりメンバーの一人である大川耀子バレー研究所の発表会に便乗して、砂防会館ホールで開こうという計画があった。その準備の会合で、十三、十四の両日がつぶされたが、十五日には逗子の貸別荘で安藤、久住呂(島田)の両名が逮捕され、つづいて十七日には花田までが犯人隠避で逮捕されてしまったのである。

全く、アレヨアレヨと思う間の進展ぶりで、私の計画は早くも崩れはじめた。もはや最悪の場合である。小笠原一人の逮捕協力以外に途はなくなってしまったのであった。志賀、千葉両名はまだ残っていたが、花田がいなくなっては、もはや連絡のとりようもなかった。私は最後に小笠原を出そうと決心して、彼の連絡をひたすらに待っていた。 十九日にフクから「会いたい」と電話がかかってきた。夜、渋谷であってみると、別に彼のもとにも連絡はなかったようである。私はもちろん無制限に小笠原を旭川においておくつもりはなかった。「就職させた」などと報じられているが、彼は外川材木店で働いていたわけではないし、外川方で金をもらってもいない。

p66上 わが名は「悪徳記者」 「横井事件犯人の小笠原に逢えそうです」

p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。
p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動としての埓は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通じて自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

『横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです』と、報告した。金久保部長は、

『小笠原ッて、どんな奴か』ときいた。

『はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう』

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

わが事敗れたり

二十日の日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。

p66下 わが名は「悪徳記者」 本社旭川支局発の原稿がきている

p66下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。
p66下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

夜の八時すぎごろだ。寿里記者一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、本社旭川支局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を小笠原と断定して捜査している、という原稿だった。

「我が事敗れたり」と私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

私は事件記者である。警視庁にも三年いたし、警察庁も知っているし「警察」や「警察官」や「捜査」や、「その感情」にいたるまで知悉していた。現在の事態を判断すれば、当局は感情的にさえなって、私を逮捕するに違いないとみた。起訴と不起訴は五分五分、有罪無罪も五分五分だが、逮捕と目いっぱい二十日間の拘留とは、間違いのないところだ。「ヨシ、二十三日間入ってこよう」と決心した。

当局がどうして旭川を割り出したかを考えてみた。十七日の花田逮捕! もちろんフクはまだ下ッ端だから、フクには連絡をしなかったのだろうが、花田には連絡をしたのだろう。小笠原は「花田にも内緒の二人切りのお願いだ」といったクセに、その約束を破ったに違いない。花田が捕まってもすぐ小笠原の居所を自供してはいないだろうから、これはガサ(家宅捜索)で小笠原の手紙を押えられたに違いないとみた。

p67上 わが名は「悪徳記者」 記事になる前は記者の責任だ。

p67上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、縁の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。
p67上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、縁の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。

これはガサ(家宅捜索)で小笠原の手紙を押えられたに違いないとみた。(事実、小笠原は旭川市外川方山口二郎の手紙を出し、花田はこの住所をメモしておいて、ガサで押えられた。当局は山口二郎とは何者かと、十八日から外川方の内偵をはじめたが、それらしい男の姿が見えないので、二十日午後に踏み込んで調べたのだ)

次は社に対する問題だ。〝日本一の大社会部記者〟になるための計画が、最悪の状態で失敗して、逮捕されるのだ。これは捜査当局に対する立場と同じである。新聞社は〝抜いて当り前、落したらボロクソ〟だ。やはり五歩前進の手前で表面化したのだから、立松不当逮捕事件の場合のように、書いた記事のための逮捕とは全く違う。一度、記事として紙面に出たものは、会社自体の責任だが、記事以前のものは、記者自身の責任だ。

取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、緑の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会は極めて多い。犯人隠避でも、当局より先に犯人をみつけ、それを確保して、会見記の取材や、手記の執筆などをさせてから、当局に通報して逮捕させたり、数時間や一日程度の「隠避」はザラだ。また有名な鬼熊事件では、当時の東日の記者が山中で鬼熊に会見して、特ダネの会見記をモノにしたが、犯人隠避で逮捕された実例さえもある。これらの一時的な取材経過の中の違法行為も、それが結果的に捜査協力だったり、取材が成功して紙面を特ダネで飾ったりすれば、捜査当局や新聞社から不問に付されるのであるが、失敗すれば違法行為のみがクローズアップされて、両者から責任を求められるのは当然だ。