当時の警視庁クラブ詰め記者気質についていうならば、ともかく、〝呑む、打つ、買う〟の三道楽は、ある意味での美徳として、決して、非難さるべきものでなかったことは確かである。従って、このキャップ会の〝宴会〟が、刑事部長の意図した通りの効果を納め得たかどうか、〝言論統制〟が行なわれたかどうかについては、また稿を改めねばなるまい。
当時の新聞社の人事管理は、現在に比べると大変であったに違いない。まして、その中でも社会部、社会部なら警視庁キャップという管理職は、十名近い〝事件記者〟の精鋭を使いこなさねばならないのだから、並大抵ではなかった。
刑事部長は、二次会に銀座の「M」というバーに、キャップ連を伴った。皆は、そこのマダムに紹介され、ツケが利くことになるのである。通説によると、そのママが刑事部長の愛人だったというから、その辺のところは十分にわきまえていたのであろう。こうしてキャップ連中は、部下のクラブ記者を、安心して呑ませてやれることになる。もしも、あの当時のツケが、厳しく取立てられなかったとすれば、尻拭いをしたのは、警視庁であったに違いない。
ともかく、この「M」は各社の事件記者やそのグループで、毎晩のように賑っていたのであった。勘定が安心なばかりではない。もう一つ理由があった。いうまでもない、女である。
本名S・K、通称オシゲと呼ばれる、その「M」のホステスが、豪快に酒をのむばかりか、大の新聞記者ファンであったからだ。私が、このいわゆる現代新聞論を書くに当って、三大紙につ
いての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。
ここまで書けば、「三田の奴メ、一体、何を書こうとするのか?」と、不安の胸を押えられる、各社の中堅幹部の方々が、大勢おられるに違いない。
本格的な声楽家を目指して、上京してきた彼女は、音楽学校に入学した。故郷を捨ててきたのだから、学資も自分で稼がねばならない。美人とはいえないながらも、マアマアの顔で、生来の利口さから頭の回転が早い方だから、話していて退屈しない——となれば、若い身空でバー勤めに出ても、結構、通用しようというもの。
一応は学生だから、私鉄沿線の素人下宿に入って、二足のワラジの生活がはじまったのだが、声量もタップリな、若いツヤのある声が、次第に酒とタバコに荒れて、学校の方もともすればサボリ気味。そんな、学業と生活のギャップに悩みはじめた時期に、彼女は一人の新聞記者を知った。
悩みを酒の酔いにまぎらわしていたのも、金に困って身体の切り売りをしたことなどもあったようだった。そして、そんな生活から立ち直ろうとして、彼女はその記者に、本気になって打ち込んでいったのだが、その恋にもやがて破局が訪れた。男の妻の知るところとなったからだ。
オシゲは学校もやめて、女給業に専念し、しかも、銀座のバーの渡り歩きがはじまる。「M」に移った時期が、刑事部長氏がキャップ連をマダムに紹介したころだったから、サア大変。別れ
た記者のおもかげを求めて、彼女の新聞記者遍歴がはじまりだした。