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迎えにきたジープ p.010-011 主人がソ連スパイなどと

迎えにきたジープ p.010-011 Suddenly, several foreigners attacked Katsumi Sasaki and beat his face. Sasaki fell on the spot with the first attack of foreigners.
迎えにきたジープ p.010-011 Suddenly, several foreigners attacked Katsumi Sasaki and beat his face. Sasaki fell on the spot with the first attack of foreigners.

その夜に限って、佐々木元大佐はなかなか戻らなかった。待ちくたびれた一家が、心配し乍らも諦めて寝床に入った十一時ごろ、ドンドンと烈しく表戸を叩く音にまどろみを覚されたのである。声高な呼び声は、何か不吉な予感にみちていた。

この深夜の訪問者は付近の交番勤務の中野署員だった。かれはこう清子夫人に知らせた。

『夜の九時半頃、最終の京帝バスが来る頃でした。その付近をゆるい速度で流し乍ら、何か人待ち顔の外国人の自動車が一台いたのです。よく若い婦人が外国の車に浚われた事件があったので、私はそんな車かも知れんと思って、それとなく気はつけていました。やがて、やってきた最終バスから、開襟シャツ、長ズボン、下駄ばきの男が、魚籠と釣竿を持って降りました。その時でした!

 先程の車はスルスルとその男に近づき、やにわに飛び出した数人の外国人が、いきなり男の顔面めがけて殴りかかりました。

 不意を襲われて一たまりもありません。男は一撃でその場に倒れたのです。外国人たちは男を車に運び込むと、全速力で走り去ったのです。

 アッと叫ぶ間もありません。本当に一瞬の出来事でした。私は夢中で呼子を鳴らして、停車させようとしたのですが、番号や型を見る間もなく消え去りました。後には魚籠と釣竿、そしてこの谷(谷中将家)の名入りの下駄が散乱していました。もしやお宅の御主人ではないでしょうか』

清子夫人はその場にクタクタとかがみこんでしまった。服装その他、紛れもなく夫であったからだ。魚籠の中でハタハタと動く魚と、二人の子供の寝顏をみながら、不安と焦躁の一夜を明かした。

その後のことについては、暗い想い出にさいなまれる清子未亡人の、重たい口に遠慮して、彼女が私に示された手記に語ってもらうこととしよう。

今度のソ連スパイ三橋なる人の事件に亡夫佐々木克己が関係しているということは、私ども遺族にとりまして、ただただ驚き呆気にとられるだけで、何と申したらよいか分りません。子供たちが成人のあかつきに、肩身のせまい思いをさせたくないと、妻として母としてこの一文をしたためさせて頂きました。

私の実家の父(元第六師団長、谷寿夫中将)は南京事件当時第六師団長をいたしておりましたため、戦犯として中国南京法廷で処刑され、いままた非業の死をとげました主人がソ連スパイなどと騒がれましては、神も仏もないものかとつくづく情なくなりました。主人もさだめし地下で浮ばれずにおることと思います。(中略)

戦前は佐々木家をはじめ実家も経済的に恵まれておりましたが、青山の家を戦災で失ってからは生活も苦しく、佐々木は佃煮屋の下働き、印刷の外交などいろいろな仕事をいたし、私も父が国際連盟代表としての、二年間のパリ生活中に買い与えられました毛皮、宝石類をはじめ、家財道具を売払って口すぎしました。

迎えにきたジープ p.012-013 ジープが迎えにきた!

迎えにきたジープ p.012-013 The next morning, he left his will at the bedside, went to the garden shed with new sandals so as not to make any noise, and was hanging himself with careful preparation to turn off the used flashlight.
迎えにきたジープ p.012-013 The next morning, he left his will at the bedside, went to the garden shed with new sandals so as not to make any noise, and was hanging himself with careful preparation to turn off the used flashlight.

戦前は佐々木家をはじめ実家も経済的に恵まれておりましたが、青山の家を戦災で失ってからは生活も苦しく、佐々木は佃煮屋の下働き、印刷の外交などいろいろな仕事をいたし、私も父が国際連盟代表としての、二年間のパリ生活中に買い与えられました毛皮、宝石類をはじめ、家財道具を売払って口すぎしました。

幸い実家が大きいので三世帯に間貸しておりましたが、終いには私共一家も実家へ転がりこみ、家中で佃煮屋へ納めるキンピラごぼうを刻んだほどでした。終戦後ソ連の軍人が数回佐々木を訪ねてきましたが、いつも留守と称して会いませんでした。二十五年八月のことでしたが、唯一の趣味だった釣にでかけ一家中で夜食を待っておりました。(中略)

その夜一家中が不安のうちに明かしますと翌朝八時すぎ、佐々木は顔中を紫色にはらし醜く歪んだ顔で帰ってきました。恐ろしいほど殴られたようでした。佐々木は『密貿易のバイヤーと間違われたがすぐ分って帰された』といい、それ以上語ろうとしません。往復は目かくしされたので何処まで行ったのかも分らないとの事でした。早速中野署からMPへ届けられ、MPがジープにのせて連れさられた家をさがしたのですが、とうとう分らずそのまま一週間ほどは床についてしまいました。

 この事件以来すっかり神経衰弱になり、まだ夏だというのに日が暮れかかると雨戸を閉じしきりに恐がっていました。当時は私共がハレモノにさわるように気をつけていましたが、十一月十八日の夜、いつもに似ず子供達を誘って麻雀をして寝ました。翌朝あけ方枕元に遺書を残し、音のしないように新品の草履で庭の物置に行き、使用した懐中電燈まで消すという周到な用意で縊死しておりました。

麻雀も妻子への別れだったのでした。生活は苦しくとも家庭は円満でしたし、八月の事件以外、自殺の原因として思い当ることはありませんでした。外国人のために平和な家庭に加えられたこの暗いかげ、そのため佐々木は死をえらんだのでした。

子供たちの教育のため死因は脳溢血と発表いたしましたが、このように苦しみ悩んで死んでいった故人のことを想いますとき、何も彼も申し上げるべきだと存じました。スパイでしたらもう少し生活も楽だったでしょうに、また日常の生活にかげもありましたでしょうに、妻も子も、夫として、父としての佐々木を敬愛いたし潔白を信じております。

一体、彼を浚った怪外人たちは何者なのだろうか? この怪自動車は何処のものなのだろうか? 戦後、東西二つの世界に分れた人類の悲劇は、ブブブブゥという力強い爆音をたてる、この〝迎えにきたジープ〟によってその幕を開くのである。

迎えにきたジープ! これこそ、その人間の不幸な将来を暗示する言葉であり、悪魔の使者である。そしてまた、その〝迎えにきたジープ〟の爆音の恐怖を知っているのは、日本人を除いてはドイツ人だけであろう。

ジープが迎えにきた! ということは、米ソの秘密戦の宣戦布告のラッパである。

迎えにきたジープ p.014-015 日本軍の対ソ作戦資料

迎えにきたジープ p.014-015 Eighteen groups of armed intelligence agents have been deployed along the border between the Soviet Union and Manchuria as a squadron to investigate the Soviet Union's intention to enter the war.
迎えにきたジープ p.014-015 Eighteen groups of armed intelligence agents have been deployed along the border between the Soviet Union and Manchuria as a squadron to investigate the Soviet Union’s intention to enter the war.

キング・オブ・マイズル

一 関東軍特機全滅せり

日本陸軍の建軍以来の仮想敵国はロシヤであった。だからこそロシヤ——ソ連邦に関する研究と調査とは全く完璧であった。陸士出身の正規将校で親ソ的な人が多いのも、ソ連研究が徹底して知ソ派になり、それが戦後に親ソ派に転移していったものであろう。

この日本軍の対ソ作戦資料は、その全諜報網をあげて作られたもので、もちろんその中心になったものは、関東軍特務機関である。正式の名を関東軍情報部といい、本部をハルビンにおき軍総司令官に直属していた。

支部は、牡丹江、チチハル、ハイラル、黒河、ヂャムス、奉天、興安、通化、アパカ(内蒙)、承徳の十カ所にあり、本部がハルビン特機と称しているのと同様に、それぞれの地名を冠して

〇〇特機と呼ばれていた。

その創設はシベリヤ出兵直後の大正七年、林大八大尉がハルビンに乗りこんできたのがはじまりといわれるが、それから約三十年、三千名の人員をようして、対ソ諜報を行ってきたのだから、その成果である資料のほどもうなずけよう。

だが、この特務機関も、敗色ようやく決定的となってきた二十年八月一日、改編命令が出された。これが関東軍特警隊令である。憲兵と特機とを合併して、第一隊が牡丹江、第二隊がハルビン、第三隊が奉天におかれた。

同時にソ連参戦の意図を探るため「ハ」作業なる命令が出された。これは武装諜者で、強力偵察をしようというのである。

「ハ」作業用の謀略部隊として、吉林を基地に機動旅団が設けられた。そして、十八組の武装諜者が、国境線一帯に投入されたが、帰ってきたのはただ一組、一切があのソ連侵攻のドサクサの中で消えてしまったのであった。これが関東軍特機、最後の仕事であった。

だが、対ソ資料は関東軍だけではない。樺太の第五方面軍、駐蒙軍もまた、それぞれに特機を動員して、スパイ戦をくりひろげていたのだ。これらの全部を統轄していたのが、中央の参謀本部第二部である。

迎えにきたジープ p.016-017 対ソ資料の集大成を保管

迎えにきたジープ p.016-017 SMERSH was infiltrating into Manchurian territory, such as a Soviet female captain being a waitress at a White-Russian Club, or a Soviet Colonel working as a gatekeeper for Mukden's special service.
迎えにきたジープ p.016-017 SMERSH was infiltrating into Manchurian territory, such as a Soviet female captain being a waitress at a White-Russian Club, or a Soviet Colonel working as a gatekeeper for Mukden’s special service.

当時の参謀本部は四部まであり、一部は作戦、二部情報、三部後方兵站、四部戦史と分れていた。一部が一—三課、二部が第四班が特務機関の指導、第五課がロシヤとドイツ、第六課が米英、第七課が支那、第八班が謀略と占領地行政、九—十二課は三部となっていた。二部長は有名な有末精三元中将(29期)、五課長は白木末成元大佐(34期)、ロシヤ班長は重宗潔元中佐(44期)であった。対ソ資料の集大成はここで厳重に保管されていた。

一般的なスパイ戦の他には、昭和十九年六月、新鋭機〝新司偵〟がソ連機より駿足なのを利用しては一万二千あたりの高度で、カムチャッカから満ソ国境一帯、イルクーツクあたりまで空中写真撮影を強行して、正確で精密な地図を作っていた。浦塩から舞鶴まで約一一〇〇キロ、チチハル、ヂャムスに基地を持つ第二航空軍がこれを担当、二五〇〇キロから四〇〇〇キロを飛んでいた。

またクリエール(伝書使)の見聞記が有力なものだった。モスクワの日本大使館との外交文書の往復は、陸大出の将校たちが背広でつとめていた。シベリヤ本線を通って、その沿線風景をみてくるのである。

このような日本側の秘密攻撃に対して、ソ連側が黙っていようはずはない。彼らもより以上に積極的に攻撃してきたのだった。

白系露人クラブのウェイトレスが女大尉だったり、奉天特機の門番が歴とした中佐だったりというように、スメルシが満領内に偽装して入りこんでいた。

スメルシというのは、戦時中の特別組織らしく、現在は廃されているようだ。国際諜報部の頭文字、セクトル(C)・メジドナロードヌィ(M)・ラズヴェットキイ(P)・シピオナージ(Ш)をとったのだとか、スメルチ・シピオーヌゥ(スパイに死を)の略語だともいわれる。

ソ連側の謀略放送も、そのスパイ戦の成果を誇示していた。チタ放送は、ハルビン特機の機関長秋草俊元少将(26期)に対して、『リプトン紅茶さん、今朝は御機嫌如何です』とからかったりする。秋草元少将がリプトン紅茶を愛用しているからである。このチタ放送は二十年三月ごろからはじまり、メーデー以後は傍若無人に、日本軍が秘密にしていることをスッパ抜いてばかりいた。

これらの情報は固定諜者ばかりではなく、投入諜者の無電連絡からも集められる。一例をあげれば、終戦直前の約八ヶ月間に満洲の西北正面、すなわち興安嶺一帯で無電機を持った一組二、三名の武装諜者百八十組を逮捕している。

クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。

迎えにきたジープ p.018-019 五課の情勢分析はズバリ適中

迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army's aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.
迎えにきたジープ p.018-019 The Soviet Army’s aim was to arrest Japanese war criminals and to detect White-Russians and reverse spies, but more importantly, to forfeit the vast Soviet information collected by the Kwantung Army.

クリエールも大変な仕事で、終戦少し前ごろ、シベリヤ本線の列車内で、某中佐がウォッカを買って飲んだところ、毒薬入りで血を吐いて死んでしまった。同行の若い大尉は逆上してしまってその死体を下ろさせない。

そこでソ連側は、とうとうチタで実力を行使して、大尉を縛り上げ、死体を下ろしてしまった。急報でモスクワの大使館員が駈けつけた時には、暗号のコードブックが入ったトランクは開かれ、暗号はちゃんと盗写されてしまっていたという。外交特権を持ったクリエールでさえこんな調子である。

しかし、さきごろアメリカで発表されて問題となっている、例のヤルタ会談協定によって、ソ連が極東向け第一陣を送り出したのは、二十年の二月下旬であった。これをシベリヤ本線で目撃したのが、クリエールとしてモスクワに向っていた丸山元大尉ら三名の日本将校で、参謀本部に打電して曰く。

『リンゴ二箱、すぐ送れ』(二ヶ師団が東に向った)

これは当時の参謀本部ロシヤ班が、その対ソ資料によって判断していたことと同じで、五課の情勢分析はズバリ適中した訳だったのである。

昭和二十年八月九日、一斉に満ソ国境を越えたソ連軍は、ハルビンへ、新京へ、奉天へと、怒涛のような進軍を開始した。その第一線戦闘部隊のすぐあとには、スメルシ、NKVD(内務省秘密警察軍)などが我先にとばかりに続いている。

直ちに摘発が始まった。彼らの狙いは戦犯の逮捕であり、祖国の裏切者である白系や逆スパイの検挙だったが、それよりも重大だったのは、関東軍の対ソ資料を押えることだったのである。

侵入してきたソ連軍は一兵卒にいたるまで、出逢った日本軍人にこういった。

『日本人は独乙人とウラルで握手して、ソ同盟を半分コにしようとしたんだろう』

そう教育され、固く信じこんでいた彼らにとって、日本がソ連の実情をどの程度に把握していたかということは、今後のスパイ戦の研究と、祖国の防衛とのために、是非とも調べねばならないことだった。

一方日本陸軍では八月はじめついに全軍に重要書類の焼却命令を発した。参謀本部では重宗元中佐が焼却班長となって、八月六日から十一日まで、連日のようにこれらの対ソ資料を煙とともに灰にしていった。

だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。

ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。

迎えにきたジープ p.020-021 しかし重宗氏は拒否した

迎えにきたジープ p.020-021 A full order to collect Soviet information has been issued to GHQ. Therefore, GHQ's G-2 (Information Division) was set up with a History Division and a Geography Division, and recruited former Japanese military personnel as staff.
迎えにきたジープ p.020-021 A full order to collect Soviet information has been issued to GHQ. Therefore, GHQ’s G-2 (Information Division) was set up with a History Division and a Geography Division, and recruited former Japanese military personnel as staff.

だが、課員のうちのある者たちは『どうしてこれを焼き捨てられよう。他日、再び日本のために役立つ時がくるのではないか』といって、目星しい資料をあつめ、将校行李につめて復員隠匿してしまった。

ところが現地軍では、樺太では大部分をソ連軍に押えられ、関東軍ではわずか一部分を、駐蒙軍でもやはり一部分が国府軍に流されていった。

そこで満州を占領したソ連軍は、『治安会議をひらくから』として、憲兵、警察、機関員は全員集合という布告を出した。人の良い日本人はそれを信じて集ってきて、一網打尽となった。ソ連側ではせめて〝生ける対ソ資料〟でも確保しようという狙いであろう。

いち早く、偽名して一般軍人を装ったり、内地へ飛行機を飛ばした連中を除いて〝生ける対ソ資料〟たちはこうしてソ連の手におち、秋草元少将以下二百七十名の元関東軍特務機関員たちは、ようとして消息を絶ってしまった。

二 ウイロビー少将の顧問団

ところが、この日本陸軍の対ソ資料を欲しがったのは、ソ連ばかりではなかった。アメリカである。アメリカにとっては、第二次大戦中に援ソ物資の状況視察のため、シベリヤを通ってコムソモリスクの造船所をみてきたウォーレンの、見聞記ぐらいの資料しかなかったのだから当然である。

日本降伏ののちは、ソ連こそアメリカにとっての仮想敵国である。こうして、対ソ資料の行方をめぐって、ここに米ソの秘やかなる正面衝突が起った。やがて始まるべき〝冷たい戦争〟の前哨戦である。

GHQが東京へ進駐するやいなや、サザーランド参謀長はウイロビー幕僚第二部長(G―2)を通じて有末元中将に資料の提出を迫ったが、有末氏自身は何も持っておらず、重宗元中佐が焼却責任者ときいて、これを呼び出した。しかし重宗氏は拒否したので、GHQではソ連関係将校を個別的に呼び出しては提出を命じた。そのやり方が戦犯の取調べにも似た失敬極まるものなので、誰も応じなかったが、この空気を知って、私有化していた兵要地誌、兵力編組、無線情報などの資料を司令部に売り込むような男も現れた。

このソ連関係将校への圧迫は、二十年十一月まで日本郵船ビル(NYKビル)で行われた。重宗氏は『この作業を全く日本側に自主的にやらせるなら協力しよう』といったが、資料だけとれば良いというGHQは、ただ威圧的に『出せ出せ』といっていたのである。

その間、新司偵の撮ったハバロフスク市街図をはじめ、売り込まれた資料などはペンタゴン(米国防省)に送られて、ドイツで得た対ソ資料と比較検討されていた。そして局部的に日本の資料がはるかに優っているとの結論が出て、本格的な収集命令がGHQへ出された。そこでGHQのG—2(情報担当)に、マ元帥の業績整理ともいうべき戦史研究の歴史課と、対ソ資料収集の地誌課とが設けられ、旧日本軍人を職員として採用することになった。これが旧軍人が積極的に「技術者」として、アメリカのために働らきだした最初である。

二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の 好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。

迎えにきたジープ p.022-023 ソ連関係のエキスパートばかり

迎えにきたジープ p.022-023 However, the G-2 research team was poor enough to speak Japanese, and their information sense and research skills were completely zero.
迎えにきたジープ p.022-023 However, the G-2 research team was poor enough to speak Japanese, and their information sense and research skills were completely zero.

二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の

好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。

有末氏は復員庁次官上月良夫元中将(21期)同総務局長吉積正雄元中将(26期)同総務部長荒尾興功元大佐(36期)らと相談して、関東軍関係はソ連に抑留されているので、旧五課関係将校で将官を長とする三グループを編成した。

この三組の顧問団を佐世保、函館、舞鶴の三引揚港にそれぞれ配置して、『誰に、何を?』訊くべきかという、訊問の援助をする陰武者にしようというのである。舞鶴に配置されたのは陸軍省高級副官菅井斌麿元少将(33期)を長として、五課員福居元大尉、情報参謀堀江元少佐、同松原元少佐、堀場元満鉄調査部員の四名だった。これらの要員はG—2に所属して、給与は終戦処理費の秘密費から出たが、身分は復員庁の復員官という奇妙な存在だった。

一方GHQでは、従来各府県軍政部に所属していたこの三港を直轄として、ポート・コマンダーを任命、さらに舞鶴には大津連隊のナイト少佐を長とし、G—2高木(タカギ)准尉ら十五名の二世下士官からなる調査班を設けた。

二十一年十二月八日、いよいよ引揚第一船大久、恵山両船が入港した。ところがこのG—2特派の調査班は日本語ができるというだけのお粗末な連中で、情報センスや調査技術は全くゼロという始末に、菅井元少将以下のアドバイザー・グループはあわてだした。大きな期待を持っているウイロビー少将へ報告書を出さなければならないからである。

たまらなくなった元将校たちは〝蔭の声〟だというのも忘れて、第一線にのりだして作業を始めてしまい、やっと報告書らしいものを作りあげた。彼らにしてみれば〝報告書らしいもの〟だったのであるが、GHQでは兵要地誌として高く評価した。つまり日本陸軍では〝対ソ常識〟程度のものが、無知な米軍にとっては貴重な知識として受取られたのだった。

明けて二十二年一月四日、第三船明優丸、同七日第四船遠州丸が入港した。第一船大久丸は阪東梯団で、在ソ日本人の宣伝機関紙「日本新聞」関係の、阪東、北村、益田氏らがおり、第二船恵山丸には、のちに参院でのソ連製スパイ「幻兵団」証言で問題となった、同新聞編集長、小針延二郎氏がいた。また明優丸は大和梯団、遠州丸は草田梯団であったが、この草田梯団が問題となって、米ソのスパイ戦の幕が切って落されたのである。

三 天皇島に上陸した「幻兵団」

第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。

迎えにきたジープ p.024-025 「幻兵団第一号」が発見された

迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.
迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.

三 天皇島に上陸した「幻兵団」

第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。

この件を内部で検討した顧問団は、重大な問題だというので、中部復員連絡局長川越守二元中将(28期)、北陸第二上陸地支局(舞鶴)長稲村豊二郎元中将(26期)、復員部長大熊初五郎元中佐(37期)らと相談した結果、日本側として引揚に関する資料を整理しようということになり、その報告書を復員庁を通じてG—2に提出した。

この報告を読んだウイロビー少将は、日本将校の対ソ感覚、資料の収集技術に感心して、将来とも積極的な協力をと要請してきた。

顧問団の調査によって、ソ連側の政治教育、日本新聞の組織と編成、収容所付近の状況、帰国後の赤化工作組織の企図などが明らかにされたのだったが、第二次の明優、遠州両船ではより重大なことが明らかにされた。

遠州丸の草田梯団はライチハの民主大隊といわれた積極分子を母体にしていた。この民主グループ「北斗会」は委員長草田守元兵長(愛知)、常任委員保科義英元一等兵(新潟)、堀尾貫文元一等兵(長野)、大田貢元上等兵(広島)、井上進元少尉(神奈川)らで、「北斗会」がチェックされた結果、収容所の動向のすべてが調査された。

この調査で、彼らは誓約ののち北海道でコルホーズ組織を作る、中央では日共支援という指令を帯びていることが明らかになり、アメリカ側を驚かせた。現地の米側では、引揚者調査はソ連の兵要地誌を作るのが目的だと思っており、このような政治工作についての関心は全くなかったからである。

この自供を行ったのは、やはり北斗会の幹部だった鈴木高夫氏であった。ソ連側に忠誠を誓って帰国、その指令を実行するという「幻兵団第一号」は、こうして発見された。また、『モスクワ大学帰りもいる』という自供は井上元少尉から出た。

ガク然としたアメリカ側は、報告書を携えピストルで武装したクリエールを東京へと飛ばした。続いて上陸第二日の九日夜、調査班に呼び出された草田、保科、堀尾、大田、鈴木の五氏はそのままGIに護送されて、東京に連れ去られてしまった。

ラストヴォロフ事件で、ラ氏を無断で国外へ連れ去られたように、この時も日本側には何の連絡もなく、上陸地支局長の稲村元中将も全く知らなかった。しかし、幹部でありながら残された、井上、伊藤、大橋氏らが日の丸組からリンチされるという騒ぎが起り、復員庁側はようやく五氏が居なくなっているのを発見したのである。

草田氏らはG—2、すなわちNYKビルに連れてゆかれて、本格的な取調べをうけた。これが、舞鶴でチェックされて、NYKビルに呼ばれるようになったはじめであった。

迎えにきたジープ p.026-027 拳銃を下げたテイラー

迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.
迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.

四 パチンコのテイラー

舞鶴には引揚開始前から米国機関がおかれていた。軍政部とCIC、大津連隊舞鶴分遣隊の三つである。ところが引揚とともにGHQの直系のLS(言学部、Language Sec.)と称するナイト少佐の調査班と、CIC(防諜隊)本部からテイラーとその副官ともいうべき中村(ナカムラ)を長とする特別班とが設置された。

軍政部は政府や民間の監督、分遣隊は警備、舞鶴CICは地区の思想問題と、それぞれの任務を持っており、そこにさらに全く指揮系統の違う二つの機関ができたので、この五つの米国機関はそれぞれニラミ合いのような恰好になってきた。

第一次引揚でナイト少佐班の二世たちが、クソの役にも立たないことを知ったG—2では、顧問団を教官として二世たちにスパイ容疑者訊問法を教育しはじめるとともに、スパイ関係調査は特派CICの管轄に入れることとした。

スパイ関係を受持ったこの特派CICは、G—2の調査班とも、また同じCICである舞鶴CICとも仲が悪かった。そのキャップであるテイラーという男の実態は判らなかった。独系のスポーツ選手のような身体つきの、三十四、五才の男だったが、いつも抜身でパチンコをブラ下げており、他の米人たちからもケムたがられていた。彼は日本語が自由なくせに、使ったこともなければ、分らないようなフリをしており、しかも東京では中佐の階級章をつけていたのを見たという人もある。

中村(ナカムラ)という二世はまだ二十四、五才の男で、テイラーの子分のような男だった。このテイラーというアメリカ人が、戦後はじめてソ連スパイと対決した男である。草田ら五氏は中村に呼び出され、テイラーに付き添われてNYKビルに送られたからである。米ソスパイ戦史の記録に留めねばならない男であるが、正体はついに分らなかった。

LSははじめナイト少佐以下十六名というコジンマリしたものだったが、二十二年四月の引揚再開以後は次第に人員が殖え、百名もの大世帯になったこともある。長はナイト少佐、テイラー少佐、スコット少佐、リッチモンド少佐、ダウド大佐、ハイヤート中佐と変っていった。

四月の引揚再開後は、復員庁関係の菅井元少将らの顧問団はやめて、G—2の職員として本格的採用になった日本人に変った。八月になるとスコット少佐が総指揮官として着任し、組織も拡大されてHM(統計調査部、Home Ministry)という、LSや特派CICの下請け機関ができた。

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。

迎えにきたジープ p.028-029 諜報基地〝マイズル〟

迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.
迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。

第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。

着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。

舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。

 船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。

もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。

米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。

迎えにきたジープ p.030-031 酒井元少尉はついにおちた

Lieutenant Uryu thoroughly grilled former second lieutenant Sakai. So Sakai has finally fallen. He confessed all spy orders because of too much mental oppression.
迎えにきたジープ p.030-031 Lieutenant Uryu thoroughly grilled former second lieutenant Sakai. So Sakai has finally fallen. He confessed all spy orders because of too much mental oppression.

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。

五 秘密戦の宣戦布告

二十二年四月、引揚が再開されて八日に明優丸、十日に大郁丸、十二日に信洋丸、十六日に米山丸、十九日に永徳丸と、引揚船は陸続として入港してきた。ところが、一船、二船の明優と大郁には元将校がまじっていたのに、三船の信洋丸からは元将校は一人もいなくなった。

ソ連では元将校の帰還をやめ、特別教育をしているという説が出て、日本人顧問団ではこれはオカシイとニラんでいた。五月になってウラジオの将校団が引揚げてきた。その中で長野県出身の酒井少尉という若い元軍医がCICに散々にしぼられていた。

『何も俺だけシボらなくてもいいだろう』

この若い元少尉は疲れ切って、しまいには腹立たし気に、訊問官の寄地(ヨリヂ)少尉に喰ってかかった。ピンときた寄地少尉は訊問を打切って顧問団に相談した。そこで、顧問団の一人が代って訊問し、カマをかけた。

『ソ連のスパイになるという誓約をしてきた男がいるか?』

『居る』

酒井元少尉はつい答えてしまった。

『それは誰だ?』

『……言えない』

たたみかけてくる質問に、酒井元少尉はハッと気付いて、固く口をつぐんでしまった。見込みがあるというので、調べ官は爪生(ウリウ)准尉に交替することになった。

そのころのCICは、すでにテイラーに代って、二世の山田(ヤマダ)大尉となり、その部下では瓜生と高木(タカギ)という二人の准尉が中心で、この二人の功名争いがはげしく闘われていた。また顧問団の主任ともいうべき前田元大佐は、園木という偽名を使っており、さらに匿名の三羽烏をそのブレーンにしていた。この三羽烏の日本人は、二人が元憲兵で他の一人は満洲育ちというらつ腕家揃いで、前田元大佐によいアドバイスをしていた

さて、瓜生准尉の手に渡った酒井元少尉は徹底的にしめ上げられた。酒井元少尉はついにおちた。あまりな精神的打撃に一切を告白した。ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的になってきたのである。

迎えにきたジープ p.032-033 CICは彼をおとりに使った

迎えにきたジープ p.032-033 "Phantom Corps, No. 3", Takurou Saito has asked the CIC for protection from the Soviet Union. He had been ordered by the Soviet Union to "return to his previous job and spy on shipbuilding plans."
迎えにきたジープ p.032-033 ”Phantom Corps, No. 3″, Takurou Saito has asked the CIC for protection from the Soviet Union. He had been ordered by the Soviet Union to “return to his previous job and spy on shipbuilding plans.”

ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的

になってきたのである。

ともかくCICの二世たちは、日本人の取扱いが下手で、猜疑心ばかり深く、そしてらつ腕であった。だからその取調べも想像がつこうというものである。それにくらべると、LSの方がより好意的である。

LSではこうだ。せまい小部屋に呼びこまれて好意的に訊問される。いい話が出たりすると、まず「ひかり」の数本が机上に出される。その話が詳しければ、さらにチョコレートやキャンデーが出てくる。しまいにはジュースや果物だ。

——どんな服装の兵隊がいた? それはどんなマークをつけていた? 何人位? フーン。どんな武器を持っていた?

——貨物列車が走っていたって? 何方へ? フーン、何輛位? 何を積んでいた?

こうして兵力の分布や装備、移動までが分り、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が分り、その土地の一年間の天候気象までがつかめる。この訊間法や引揚者の取扱の差違が、軍事情報のLSと思想警察のCICの違いである。

瓜生対高木の功名争いはついに瓜生准尉の勝となった。本格的「幻兵団」の出現にCICは色めき立ったのである。顧問団の発意で、幻兵団摘発係の一班が顧問団の中に設けられ、直ち

に同船の元将校たちの帰郷準備は延期することとなった。だがその甲斐もなく他には一名も発見されなかった。

八月に入って第二回の将校梯団が入ったがそれも駄目。九月二十七日に栄豊丸が入港したとき、一人の元将校が米側当局に保護を求めて駈け込んできた。「幻兵団第三号」であった。

齊藤卓郎という九大工学部卒の某造船所勤務の航空技術少尉で、『帰郷後は前職にもどり、造船計画をスパイせよ』というのである。合言葉もスパイ用偽名も決められてきた。彼は保護を申出たが、CICは彼をおとりに使った。彼はいまでもその造船所に勤めているが、果してCICの操るように、おとりとして働らき、その成果をあげたかどうか分らない。

このようなアメリカ側の挑戦に対して、ソ連側が黙っているはずはなかった。舞鶴での軍事思想調査の件は、二十一年暮と翌年一月の引揚者たちから直ちにソ連側に伝わった。彼らは完全にソ連スパイとしての初仕事をしたのだ。

この事実は直ちに日本新聞に掲載されて、大々的に宣伝され、全収容所に訓令が飛んで、特に最終集結地のナホトカでは、その米軍調査への対策特別教育までが行われ始めた。

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。

迎えにきたジープ p.034-035 引揚者たちの代々木詣り

迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side's military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the "Nihon Shimbun" as an agitator.
迎えにきたジープ p.034-035 In response to the U.S. side’s military and ideological investigations, the Soviet Union trained a number of activists in all Siberian camps, advocating anti-military, anti-officer and anti-fascist, with the “Nihon Shimbun” as an agitator.

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。六

号ボックスの寄地(ヨリジ)少尉と、二号ボックスの東(アズマ)中尉の所へ行ったら、メッタなことを言うな。在ソ経歴をきかれたら、こう答えろ。などという工合で、ウランウデの途中の森林伐採の状況まで教え込まれてくるといった按配であった。この辺の米ソスパイ戦はまさに虚々実々というところである。

これがさらに十一月に入ると、要注意者の中には、訊問拒否のため調査日になると仮病を使って入室戦術をとる者が現れてきた。

冬が来て引揚船はナホトカに来なくなった。この時期にソ連側の政治教育は徹底した。日本新聞がアジテーターとなり、反軍、反将校階級闘争が指導された。それと併行して文化活動が奨励され、「日本新聞友の会」運動がまき起され、やがてこれは民主グループ運動へと移っていった。

アメリカの軍事、思想調査に対するソ連側の対抗策である。こうしてシベリヤ民主運動は、二十二年冬から二十三年春へかけての引揚中止期間に、みるみる盛り上っていった。やがて春三月、民主グループ運動はさらに発展してハバロフスク・グループに最高ビューローを置く、反ファシスト委員会が、全シベリヤ収容所に結成された。多数のアクチヴィスト(積極分子)が成長していった。

二十三年四月、再び引揚が始った。その年の引揚は変っていた。船内斗争、上陸地斗争が民主グループ幹部によって指導され、米側の調査を拒否しソ連謳歌を談ずるものが増えてきた。LS、CICの打撃は大きかった。二十二年度の報告書を検討したGHQでは、山田大尉の後任にマウンジョイ少佐を送り、さらに権限を強化して、レントゲン写真と同時に栄養度をみるという名目で、要注意人物の顏写真撮影をはじめた。

一方、引揚者たちは米側に対して反抗の態度を明らかにした。六月ごろからは東京へ着いた一行は援護局のスケジュールも無視して、出迎えの共産党員たちと一緒に代々木の党本部訪問の集団〝代々木詣り〟をはじめだした。

NYKビルでの再調査を命ぜられる者が多くなり、その調書は顔写真とともにファイルされ、厖大な対ソ資料が着々と整備されていった。こうして幻兵団として米側にマークされた人々のうちには、幹候出身ではなくて、陸士卒の正規将校も多かった。

天皇陛下の軍人として、一命をこう毛の軽きにおいた旧軍人たちが、いまや、一方は米国に加担して昔の上官、部下を摘発し、また一方ソ連について同様に上官、部下と闘うということになってきたのである。この元陸軍将校団のまさに骨肉相喰む相剋こそ、元海軍将校団とのよい対照であり、日本国軍史の最大研究テーマである。プロシヤ将校団の伝統あるドイツ将校団

と比較するとき、いよいよ興味深いものがある。(「旧軍人とアメリカ」「旧軍人とソ連」については第三集参照)

迎えにきたジープ p.036-037 日本新聞・小針延二郎の証言

迎えにきたジープ p.036-037 In Khabarovsk, the home of the Siberian Democratic Movement, the Nihon Shimbun editor-in-chief, Nobujiro Kobari, has begun his testimony at the Special Committee of the Soviet Repatriation, in the House of Councilors.
迎えにきたジープ p.036-037 In Khabarovsk, the home of the Siberian Democratic Movement, the Nihon Shimbun editor-in-chief, Nobujiro Kobari, has begun his testimony at the Special Committee of the Soviet Repatriation, in the House of Councilors.

見えざる影におののく七万人

一 參院引揚委の証言台

西陽がさし込むため、窓には厚いカーテンがひかれて、豪華な四つのシャンデリヤには灯が入った。院内でも一番広い、ここ予算委員室には異様に興奮した空気が籠って何か息苦しいほどだった。

中央に一段高い委員長席、その両側に青ラシャのテーブルクロスがかかった委員席、委員長席と相対して証人席、その後方には何列にも傍聴席がしつらえられ、委員席後方の窓側には議員席、その反対側に新聞記者席が設けてあった。

昭和二十四年五月十二日、参議院在外同胞引揚特別委員会が、吉村隊事件調査から引きずりだした「人民裁判」究明の証人喚問第二日目のことであった。今日は昨日に引続きナホトカの人民裁判によって同胞を逆送したといわれる津村氏ら民主グループと、逆送された人々の対決

が行われ、また「人民裁判」と「日本新聞」とのつながりを証言すべき注目の人、元日本新聞編集長小針延二郎氏が出席しているので、場内は空席一つない盛況で、ピーンと緊張し切っていた。

たったいま、小針証人が『委員会が国会の名において責任を持つなら、私はここで全部を申上げます』と、爾後の証言内容について国会の保護を要求した処だった。正面の岡元義人代理委員長をはじめ、委員席には一瞬身震いしたような反応が起った。

終戦時から翌年の六月まで、シベリヤ民主運動の策源地ハバロフスクの日本新聞社で、日本側責任者として「日本新聞」を主宰し、のちに反動なりとしてその地位を追われた小針氏が、何を語ろうとするのか。日本新聞の最高責任者、日本新聞の署名人であるコバレンコ少佐こそ極東軍情報部の有力スタッフではないか! 委員会は小針証人の要求により、秘密会にすべきかどうかを協議するため、午後二時二十九分、休憩となった。

約十分の休憩ののちに、岡元委員長は冷静な口調で再開を宣した。遂に公開のまま続行と決定した。満場は興奮のため水を打ったように静まり、記者席からメモをとるサラサラという鉛筆の音だけが聞えてくる。小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその 収容所の政治部の部員に対しまして、お前の処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

迎えにきたジープ p.038-039 光っているスパイの眼と耳

迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari's words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.
迎えにきたジープ p.038-039 The thing that I recall in Kobari’s words was a very detestable my own memory. I was in Hsinking at the end of the war, but was captured by Soviet troops at Gongzhuling.

小針証人が立上って証言をはじめる。

『……各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴェト側の情報部の部長がその収容所の政治部の部員に対しまして、お前に処に誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。

……この男ならば絶対に信頼できると、ソ連側が認める場合にはスパイの命令を下します。

……そうしてスパイというのは、殆どスパイになっておる人は、非常に気持の小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。

……こういう男を選んで、それに新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代り後のことは心配するな、後で問題が起った場合にはすぐ連絡する……』(参院速記録による)

委員会は深夜の十時まで続いた。

二 私こそスパイなのだ

私が小針氏の言葉で反射的に想い浮べたあるデータというのは、実にいまわしい私自身の想い出であったのである。

私は終戦時新京にいたのだが、公主嶺でソ連軍の捕虜になった。九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満州里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じながら街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わっていた。

イルクーツクの西、チェレムホーボという炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞いた。

恐怖のスパイ政治! ソ連大衆はこのことをただ教え込まれるように〝労働者と農民の祖国、温かい真の自由の与えられた搾取のない国〟と叫び〝人類の幸福と平和のシンボルの赤旗〟を振るのではあるが、しかし、言葉や動作ではなしに、〝狙われている〟恐怖を本能的に身体で知っている。彼らの身辺には、何時でも、何処でも、誰にでも、光っているスパイの眼と耳があることを知っている。

人が三人集れば、猜疑と警戒である。さしさわりの多い政治問題や、それにつながる話題は自然に避けられて、絶対無難なわい談に花が咲く。だが、そんな消極的、逃避的態度では自己保身はむずかしいのだ。

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

迎えにきたジープ p.040-041 同胞の血で血を洗う悲劇

迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.
迎えにきたジープ p.040-041 Hundreds of thousands of Japanese became Soviet military POWs. In chronic hunger, some have become Soviet spies in return for a piece of bread. They forged and informed the facts, and a tragedy occurred that forced many compatriots to die.

三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌカーベーデー)(内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している)の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動になるからだ。ましてそこにはNK(エヌカー)がいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える。『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、スターリンは素晴しい!)と。

 平常から要領のうまい最初の男を嫌っていた最後の人の良い男は、真剣な表情で前の二人に負けないだけの名文句を考えるが、とっさに思いついて『ヤポンスキー・ミカド・ターク!』(日本の天皇なんかこうだ!)と、首をくくる動作をする。

 これが美辞麗句をぬきにして、ソ連大衆が身体で感じているソ連の政治形態の、恐怖のスパイ政治という実態だった。

戦争から開放されて、自由と平和をとりもどしたはずの何十万人という日本人が、やがて、〝自由と平和の国〟ソ連の軍事俘虜となって、慢性飢餓と道義低下の環境の中で混乱しきっていた。その理由は、俘虜収容所の中まで及ぼされた、ソ連式スパイ政治形態から、同胞の血で血を洗う悲劇が、数限りなくくりひろげられたからだった。

一片のパン、一握りの煙草という、わずかな報償と交換に、無根の事実がねつ造され、そのために収容所から突然消えて行く者もあった。

収容所付の政治部将校(多くの場合、赤軍将校のカーキ色軍帽と違って、鮮やかなコバルトブルーの

制帽を冠ったNKの将校である)に、この御褒美を頂いて前職者(憲兵、警官、特務機関員など)や、反ソ反動分子、脱走計画者、戦犯該当者などの種々の事項を密告(該当事項の有無にかかわらず)した者がいたという事実は、全シベリヤ引揚者が、その思想的立場を超越して、ひとしく認めるところである。

だがこの密告者たちは、そのほとんどが、御褒美と交換の、その場限りの商取引にすぎなかった。これは昭和二十一年末までの現象であった。

二度目の冬があけて、昭和二十二年度に入ると、身体は気候風土にもなれて、犠牲も下り坂となり、また奴れい的労働にもなじんでくるし、収容所の設備、ソ連側の取扱もともに向上してきた。生活は身心ともにやや安定期に入ったのである。

ソ連側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、或る種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼び出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

迎えにきたジープ p.042-043 潤沢にパンなどを入手

迎えにきたジープ p.042-043 Eventually, the day came when this question was solved as my own experience. I was called by a sentry on a snowstorm night.
迎えにきたジープ p.042-043 Eventually, the day came when this question was solved as my own experience. I was called by a sentry on a snowstorm night.

ソ連側の混乱しきっていた俘虜政策が着々と整備されてきた。俘虜カードの作成もはじめられた。だが、やがて腑に落ちかねる現象が現れはじめてきた。

その一つは、或る種の個人に対する特殊な身上調査が行われていること。特殊なというのは、当然その任にある人事係将校が行うものではなく、思想係の政治部将校がやっていることだった。しかも、呼び出しには作業係将校の名が用いられ、面接したのは思想係だったというような事実もあった。

 その二は、人事係のカミシャ(検査)と称して、〝モスクワからきた〟といわれる将校が、ある種の日本人をよんで、直接、身上並に思想調査を行った。ある種というのは、殆どが大学高専卒の人間で、しかも原職が鉄道、通信関係や、商大、高商卒の英語関係者であった。

 その三は、もはや二冬を経過して、ソ連にもちこんだ私物は、被服、貴重品類ともに、略奪されるか、売尽くすかでスッカラカンになっていた。そんなわけで金(ルーブル紙幣)がないはずの人間が大金をもっている。或は潤沢にパン、煙草、菓子などを入手しているという不思議である。

 その四は、ある時期からその人間の性格が一変して、ふさぎこんでくること。しかも、それらの連中は、何かと尤もらしい理由のもとに、しばしば収容所司令部に呼び出された。そして、そののちにそのように変化するか、変った後において呼び出されるようになるか、そのどちらかである。

 ソ連のスパイ政治——収容所内の密告者——前職者、反ソ分子の摘発——シベリヤ民主運動における〝日本新聞〟の指導方針——民主グループ員の活動——思想係の政治部NK(エヌカー)将校——呼出しとそれにからまる四つの疑問——収容所内のスパイ——ソ連のスパイ政治。

 これらのことがいずれも相関連して、疑惑の影を深めていった。

 作業場ではソ連労働者が『ソ米戦争は始まるだろうか』『お前達の新聞には次の戦争のことを何とかいているか』としきりにたずねていた。「日本新聞」の反ソ(反米?)宣伝は泥臭いあくどさでしつように続けられている。アメリカ——日本——ソ連。そしてスパイ。私は心中ひそかにうなずいていたのだった。

 そして、やがてこの疑問が私自身の体験となって解かれる日がやってきた。私はある吹雪の夜に歩哨に呼び出されたのである。

三 吹雪の夜の秘密

『ミータ、ミータ』兵舎の入口で歩哨が声高に私を呼んでいる。それは昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめにもう零下五十二度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。北緯五十四度という、八月の末には早くも初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が雪の氷粒をサアーッサアーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に疲れ切った私は、二段寝台の板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしている処だった。

——来たな! やはり今夜もか?

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、

直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

迎えにきたジープ p.044-045 日本新聞社への応募書類

迎えにきたジープ p.044-045 "Why do you want to work for the Nihon Shimbun?" "First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian. "
迎えにきたジープ p.044-045 ”Why do you want to work for the Nihon Shimbun?” “First of all, I want to research the Soviet Union. Secondly, I want to study Russian.”

——来たな! やはり今夜もか?

今までもう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、

直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

『ダ、ダー、シト?』(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜だった。この日はペトロフ少佐の思想係着任によって、具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉がカンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの中佐が待っていた。

私はうながされてその中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記人していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。

私はスラスラと正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取出して質問をはじめた。フト気がついてみるとそれはこの春に提出した。ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集のさいの応募書類だ。

『何故日本新聞で働きたいのですか』

中佐の日本語は叮寧な言葉遣ひで、アクセントも正しい気持の良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロシヤ語の勉強がしたいのです』

『宜しい、よく分りました』中佐は満足気にうなずいて、帰ってもよいといった。私が立上って扉のところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。

『パダジジー!(待て!)今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭抗の作業について質問されたのだ。いいか、分ったな!』

見知らぬ中佐が説明するように語をつぎ、『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。

こんなふうに言含められたことは、はじめてであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞという予感がした。見知らぬ中佐のことを、歩哨は〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思った。

迎えにきたジープ p.046-047 そして三回目が今夜である

迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. "Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element." In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.
迎えにきたジープ p.046-047 Major Petrov said. “Do not be an active. Be an opportunistic element, and in some cases be a reactionary element.” In other words, it was a fake infiltration into the democratic movement of the Nihon Shimbun.

それから一ヶ月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から「民主グループ」という積極的な動きに変りつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連及びソ連人への感想などを、少佐自身の意見は全くはさまずに質問した。

結論として、その日に命令されたことは、『民主運動の幹部になってはいけない。ただメムバーとして参加することは構わないが、積極的であってはいけない』ということであった。

これを換言すると、アクチヴであってはいけない、日和見分子であり、或る時には反動分子にもなれということ、即ち〝地下潜入〟であり〝偽装〟であった。また同時に当時の民主運動に対してのソ連側政治部の見方でもあったのだろう。

この日も、前と同様な手段で呼び出され、同じようにいい含められて帰された。私の身体にはすでにこのころから〝幻のヴェール〟がフンワリとかけられていたのである。

そしていよいよ三回目が今夜である。早く早くと歩哨がセキ立てるのに、ウン今すぐと答えながら、二段寝台からとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛皮外套)をきる、靴をはく、帽子をかむる。

——何だろう、日本新聞行きかな?

忙しい身支度は私を興奮させた。

——まさか! 内地帰還ではあるまい!

フッとそんなことを考えた私は、前二回の呼び出しの状況をハッキリと思い浮べていたのだった。ニセの呼び出し、地下潜行!

——何かがはじまるんだ!

吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一しょに飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当りの、一番奧まった部屋の前に立った歩哨は一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。

『モージノ』(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向って挙手の敬礼をした。ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢よく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに は、みたことのない若いやせた少尉が一人。

迎えにきたジープ p.048-049 何か大変なことがはじまる!

迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of "Clunk" and looked down at Petrov's desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.
迎えにきたジープ p.048-049 I heard the dull sound of “Clunk” and looked down at Petrov’s desk. ——Gun! The muzzle of a Browning type pistol point at me.

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らに

は、みたことのない若いやせた少尉が一人。その前には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ピンと天井の張った厳めしいこの正帽は、NKだけがかぶれるものである。

密閉された部屋の空気はピーンと緊張していて、わざわざ机の上においてある帽子の、眼にしみるような鮮かな色までが、すでに生殺与奪の権を握られた一人の捕虜を威圧するには、充分すぎるほどの効果をあげていた。

『サジース』(坐れ)

少佐はかん骨の張った大きな顔を、わずかに動かして向い側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当っていた。私は扉の処に立ったまま落ちつこうとして、ゆっくりと室内を見廻した。八坪ほどの部屋である。

正面にはスターリンの大きな肖像が飾られ、少佐の背後には本箱、右隅には黒いテーブルがあり、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東版)とかかれた文字が印象的だった。

歩哨が敬礼をして出ていった。窓には深々とカーテンがたれている。

私が静かに席につくと少佐は立上って扉の方へ進んだ。扉をあけて外に人のいないのを確か

めてから、ふり向いた少佐は後手に扉をとじた。

『カチリッ』

という鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルッと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞えない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの密室で、私は二人の秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ろうとしているのだ?

呼び出されるごとに立会の男が変っている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人人だけで、他の者は一部しか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は静かに大股で歩いて再び自席についた。それからおもむろに机の引出しをあけて何かを取りだした。ジッと少佐の眼に視線を合せていた私は、『ゴトリ』という鈍い音をきいて、机の上に眼をうつした。

——拳銃!

ブローニング型の銃口が、私に向けておかれたまま冷たく光っている。つばきをのみこもう と思ったが、口はカラカラに乾ききっていた。