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迎えにきたジープ p.108-109 キリコフ大尉が訊問

迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.
迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.

下りきらない熱に浮かされたような推理が、次々と勝村の疲れ切った頭を駈けめぐっていっ

た。

『ねずみ、ねずみだ!』

全く突然、勝村は大声で叫び出してしまった。あとは息が続かず低く口の中で呟いた。

『発疹チフスの次はペストに違いない……』

そのまま彼は再び昏睡してしまった。

チェレムホーボ収容所が発疹チフスの脅威にさらされていた、ちょうどそのころのこと。シベリヤ本線を東へ東へと、数千キロも離れたハバロフスクの街。内務省(エヌカー)ハバロフスク地方管理局という厳めしい建物の一室では、勤務員のキリコフ大尉が一人の日本人を訊問していた。

モスクワの東洋大学は日本語科出身の通訳官ゲリヤノフが、なめらかな日本語で通訳し、書記が記録する。もちろんキリコフ大尉も日本語は得意だったが、公式の場合だから宣誓署名した通訳官が立会うのだ。

日本人は元関東軍第七三一部隊教育部長、東軍医中佐だった。第七三一部隊というのは例の石井部隊である。

『部隊で行なわれていた実験について述べてもらいたい』

『一九四五年一月、私は安達駅の特設実験場に赴きました。ここで私は第二部長と本多研究員

の指導下に、ガス壞疽による感染実験が如何に行われていたかを見ました……』

そしてまた、それと同じころハルビンの旧陸軍第二病院の一室では、大谷小次郎元軍医少将の執刀のもとに、腺ペスト患者の生体解剖が行なわれていた。

大谷少将の背後には、青肩章の正服の上にペスト予防衣をつけた、秘密警察(エヌカーベーデー)の将校が二人立っている。それから数人のソ連人助手の中に女性が一人。

彼女は三十八度線以北の朝鮮を占領すると同時に、北鮮の首都となった平壌に秘密細菌試験所を開設した人だった。彼女はもとは裏海の中の一小島にあった、エフバトリヤ第二号実験所のメムバーだったが、クリミヤ半島のエフバトリヤ市に出張中、実験所の細菌学者たちが、自分たちの培養した腺ペストにかかって全滅し、一人厄逃れをしたという腺ペストの権威でもあった。

第二病院長だった大谷少将は、病院の研究室が石井部隊と関連を持っていたことから、このチェレグラワー女史の協力者となることを承知せざるを得なかった。実験台に上らされているのは日本人である。

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

迎えにきたジープ p.110-111 生き残りだけの捕虜名簿

迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.
迎えにきたジープ p.110-111 Of the 4000 POWs, 95% were infected with typhus fever and 30% died. There are 2,800 prisoners left. The treatment and whereabouts of the dead are unknown. The Soviet Union created a wartime POW list of only the surviving prisoners.

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

シベリヤにも遅い春がやってきた。四月ともなれば、丘から丘へと連なる大地のうねりにも青味がかかって、美しい林のはずれから、澄んだ小川のほとりまでも、茎の短いタンポポが、鮮やかな黄色の絨毯をひろげたように咲き乱れる。

だが、春を迎えた収容所の人員は、約三割も減って二千七、八百名しかいなかった。その行方はあの可愛らしいタンポポにでも、たずねるよりは仕方があるまい。そして、生き残った人たちに対してだけ、やっと捕虜名簿のカードが作られはじめていた。

二 マイヨール・キリコフの着任

それから四年が過ぎて、昭和二十五年の春、信濃、高砂、両引揚船が舞鶴に入港して、ソ連地区の引揚は打ち切られた。

都心には新しい高層ビルが、競争のようにどんどん建ち聳えている。そのどれもが自動車でいえばフォードのように明るいが、幾分安っぽい感じのものだ。大通りには欧洲車は影をひそめて、赤、青、黄と派手な米国製高級車が洪水のように流れている。

盛り場にはクラブとかキャバレーとかいう社交場が妍を竸い、ネオンが妖しくまたたいている。ショーウィンドウにはスマートな商品が豊富に飾られている。そしてその商品の殆どが、衣類も化粧品も菓子までが米国製だ。

舗道をぞろぞろ織りなすように行き交う人たちは誰もが美しく装っている。人妻か娘か判ら

ない婦人たちは、最新流行の服だ。そして職業の全く判らないような男たち。

日本の庶民生活とは何の関係もないこのような事柄が、戦後数年間のうち東京にみちあふれてきた。

だが、身近かな喫茶店やパチンコ屋でさえ、その資本主や経営者には、難しい漢字の三字名や、片仮名の外国人たちが並んでいる。外国人の賭博場ができ、月島の埋立地に上海や香港のような華僑の街をつくろうという計画までが樹てられる。

密輸と密入国。植民地気質の出稼ぎ外人たちは大きな悪事を働らいては飛行機で逃げ出す。大陸や外国から引揚げてきた鮮、華、露などの混血児。赤系に変った白系露人、無国籍のエミグラント、もはや東京は八百万都民と何のかかわりもなく、怪しげな国際都市として、その性格までも変貌していた。

高級住宅地である麻布の高台を滑るように走ってゆく外国製車が一台。ナムバープレートには「SPACJ—35」とあるから、ソ連代表部の車だ。見馴れない型だからモロトフに違いない。ZIM式六基筒九十五馬力。モロトフ工場製でソ連が誇る新車ジムだ。

前に二人、後に二人と、いずれも座席の中央をあけて四人のソ連人が乗っている。車はグングンとスピードを出して虎の門から桜田門へと向った。警視庁のクスんだ建物を左にみて右へ

大廻り、祝田橋の信号にかかってギュッと停った。たちまち七、八台の車が後につかえる。

迎えにきたジープ p.112-113 尾行。運転手だけは変らない

迎えにきたジープ p.112-113 The Soviet representative's car ZIM is touring a fixed course in central and suburbs of Tokyo at a fixed time. Then, a car following the ZIM appears out of nowhere.
迎えにきたジープ p.112-113 The Soviet representative’s car ZIM is touring a fixed course in central and suburbs of Tokyo at a fixed time. Then, a car following the ZIM appears out of nowhere.

高級住宅地である麻布の高台を滑るように走ってゆく外国製車が一台。ナムバープレートには「SPACJ—35」とあるから、ソ連代表部の車だ。見馴れない型だからモロトフに違いない。ZIM式六基筒九十五馬力。モロトフ工場製でソ連が誇る新車ジムだ。

前に二人、後に二人と、いずれも座席の中央をあけて四人のソ連人が乗っている。車はグングンとスピードを出して虎の門から桜田門へと向った。警視庁のクスんだ建物を左にみて右へ

大廻り、祝田橋の信号にかかってギュッと停った。たちまち七、八台の車が後につかえる。

『Aコースだナ。今日こそ何かをつかんでやるぞ』

モロトフの直後にピタリと続いた黒のポンティアックの運転手が呟いた。何時の間に何処から現れたのか、目立たない地味な四十二年ぐらいの車で、客席には若奥様然とした美しい婦人が一人、運転手は紺のダブルに黒のネクタイ、金モールの帽子、どこからみても高級ハイヤーの運転手だ。

モロトフは日比谷交叉点からGHQ前へ、馬場先門から大手町、そして日本橋へと抜ける。ポンティアックは直後についたり、適当に一、二台をはさんだりしながら、執拗にモロトフを尾行する。

日本橋、京橋を左折して昭和通から、新橋へ向う。新橋から虎の門、さらに麻布へ。狸穴の代表部前を通過して、飯倉から六本木。交叉点を渡ったモロトフはようやく新竜土町付近で停り、後部席の二人を降して走り去った。二人は旧連隊の方へ歩き出す。

『USハウス九二六号行きか!』

ポンティアックの運転手は再びそう呟くと、アクセルを踏んで一気に二人を追越した。

奇怪な二台の車である。モロトフはつい最近からいつも定まった時間に、こんな不思議なド

ライヴを始めだした。乗員はいつも四名、まれに日本人が交ることもある。快スビードで無停車のまま、いつも定まったコースを走るのだ。

Aコース、麻布—虎の門—桜田門—日比谷—GHQ—交通公社横—日本橋—京橋—昭和通—新橋—虎の門—麻布。

Bコース、麻布—六本木—赤坂—外苑—代々木—日共本部前—甲州街道—立川、三鷹、青梅(復路同じ)

Cコース、麻布—目黒ロータリー—五反田—横浜(復路同じ)

Dコース、Bコースの甲州街道から—水道道路—中野—昭和通—鷺の宮—練馬—池袋—王子—西新井—池袋—練馬(以下復路同じ)

始発点の麻布が麻布狸穴のソ連代表部を指していることはいうまでもない。

五つのコース。遠く立川、青梅、三鷹までのばすこともあるが、道順は毎回少しも違わない。車はいつもモロトフ、ナンバー三十五号と決まっている。

そしてもう一台の車。これは必らず何処からか現れてモロトフを尾行する。だが車は自家用や三万台だったり、ハイヤー、タクシーのこともある。運転手だけは変らない。

六本木に向って黒い自動車が疾走してくる。白Yシャツにハンチングの運転手で、客席には

誰もいない。歩いて行く二人のソ連人の手前で、自転車でも避けたのか、グッとカーヴを切ってまた元通りに走り過ぎた。

『成功、成功。これで写真はOKヨ!』

迎えにきたジープ p.114-115 右側が例のキリコフ大尉なの?

迎えにきたジープ p.114-115 There was a spy system in the camp. He was also convinced that the epidemic of typhus fever must be a Soviet plot.
迎えにきたジープ p.114-115 There was a spy system in the camp. He was also convinced that the epidemic of typhus fever must be a Soviet plot.

そしてもう一台の車。これは必らず何処からか現れてモロトフを尾行する。だが車は自家用や三万台だったり、ハイヤー、タクシーのこともある。運転手だけは変らない。

六本木に向って黒い自動車が疾走してくる。白Yシャツにハンチングの運転手で、客席には

誰もいない。歩いて行く二人のソ連人の手前で、自転車でも避けたのか、グッとカーヴを切ってまた元通りに走り過ぎた。

『成功、成功。これで写真はOKヨ!』

ペタリと後の坐席に伏せていた婦人が、起き上りながら運転手に笑いかけた。なんと先程のポンティアックではないか。

『ハハハ、誰だって車がグッと寄ってくれば、ハッとして車の正面を見るからね。ライトと見せかけたレンズがそこをパチリさ。人間は危険を感じたとき、ポーズを失ってその本当の表情を浮べるから、間違いのない写真がとれるというものだ』

『右側の男が例のキリコフ大尉なの?』

『どうもそうらしい。写したから分るサ』

運転手もニヤリとして答える。勝村良太の五年目の姿だった。

勝村は四十二度もの高熱を出し、約二週間も人事不省だったが、よく心臓がもちこたえて、ついに発疹チフスを克服した。

春になって捕虜名簿の作製が始まると同時に、元憲兵、特務機関、特殊部隊などのいわゆる前職者の摘発が盛んになった。

そのため収容所の政治将校は、所内にスパイをつくり、これに調査密告させるという、いわゆる「幻兵団」なるものを組織した。

幸い彼は脳症中も前身を曝露するようなうわ言もいわず、上等兵として通用したが、例の小便樽で行水を使った男は、うわ言からハルビンの石井部隊の有能な技師で、本多福三だということが判り、密告されて収容所から消えていった。

銃殺されたといい、北シベリヤの監獄に送られたなどという者もあったが、誰もが疑い深くなり、あまり人の噂などしなくなってしまったので、その後の本多技師の消息なども、ピタリと絶えてしまった。

勝村はそんな収容所の空気から、本能的にスパイ制度があることをかぎつけ、商売柄興味をもって丹念にそのスパイの実情を調べていた。

また同時に、あの発疹チフスの蔓延は謀略に違いないという確信を抱き、裏付け搜査を行うことも忘れなかった。

表面はあくまで民主主義者を装っていた彼は、引揚が始まると要領よくその一員にもぐりこんで、比較的早い二十二年の暮には舞鶴に上陸していた。

戦死者としてすでに軍籍も失っていた彼は、そこで意外にも嘗つての上官、露人班々長や保

護院長だった青木大佐に解逅した。大佐は飛行機で内地へ帰り、今はその対ソ工作の腕を買われて、CICの秘密メンバーとなっていた。対ソ情報については流石の米国も、元日本軍人の協力を乞わねばならなかったのであった。

迎えにきたジープ p.116-117 メジャー・田上の名前は耕作

迎えにきたジープ p.116-117 "In my judgment, he is the de facto director of the information department of the representative of Soviet, and is definitely Captain Kirikov, who arrested Japanese bacterial war criminals in the Khabarovsk trial."
迎えにきたジープ p.116-117 ”In my judgment, he is the de facto director of the information department of the representative of Soviet, and is definitely Captain Kirikov, who arrested Japanese bacterial war criminals in the Khabarovsk trial.”

戦死者としてすでに軍籍も失っていた彼は、そこで意外にも嘗つての上官、露人班々長や保

護院長だった青木大佐に解逅した。大佐は飛行機で内地へ帰り、今はその対ソ工作の腕を買われて、CICの秘密メンバーとなっていた。対ソ情報については流石の米国も、元日本軍人の協力を乞わねばならなかったのであった。

東京の顔、銀座。そして夜の銀座の裏通。バンドの旋律に乗って嬌声のこぼれる西銀座も、四丁目から京橋寄りに入ると、幾分静かになって何かホッとした感じになる。

スカッとした二世スタイルになった勝村は並木通りに入る。外人兵の集まるクラブのはずれに進駐軍ナムバーの車が沢山駐車している。時計をみて勝村はウインドウを覗いた。尾行を調べる習慣的な動作だ。

彼を乗せた一台の車が静かにスタート。諜報将校で二世には少ない少佐だった。ラジオを入れて音楽を流す。バックミラーを睨みながら尾行する車があるかどうか注意する。朝鮮動乱が始まってからようやく一年になろうとしていたので、米国も必死になって対ソ諜報に努力を傾けていた。

『御苦労さん。写真の男判りましたか?』

『一九五一年、つまり今年の三月廿三日芝浦入港のソ連船スモールニー号で入国した男です。

資格はシビリヤンで代表部雇員、エゴロフということになってますがね』

『トンデモハップン、ですか。ハハハ』

メジャー・田上は冗談を飛ばしながら、スッと車を走らせて東銀座へ渡り、小さなバーのネオンの下に停めた。二人きりの車内、ラジオを流して盗聴を防ぎ、しかも盛り場の明るい灯の真下で、通りすがりにでも車内の顔をみせないという心くばりだ。

『私の判断では、事実上の代表部情報部長であり、例のハバロフスク細菌戦犯の摘発をやったキリコフ大尉に間違いないですね』

『キャプテン・キリコフは進級したよ』

『ホウ、そうですか。その功によりですな』

『キリコフか?』田上少佐は溜息をもらしながら、また車を移動した。

『最近の動きをみていますと、例のUSハウス九二六号が、大尉(カピタン)・キリコフ、いや、少佐(マイヨール)・キリコフですか、奴の根拠地です。あの辺は米軍の部隊ばかり……』

『燈台下暗しでしたね』 メジャー・田上の名前は耕作といった。名前を説明して『耕やす作ると書きます。私の父は百姓ですから……』と笑うような二世だった。日本人の気持が良く判るのでこの仕事も旨く行くのだろう。

迎えにきたジープ p.118-119 帰国した大谷小次郎元軍医少将

迎えにきたジープ p.118-119 If it turn out that Kirikov arrive, he is the authority of the germ war, so we must pay attention. He will probably contact Maj. Gen. Otani, so let's arrest there.
迎えにきたジープ p.118-119 If it turn out that Kirikov arrive, he is the authority of the germ war, so we must pay attention. He will probably contact Maj. Gen. Otani, so let’s arrest there.

『それで……、メジャー・田上。五十年四月の信濃丸で帰国した大谷小次郎元軍医少将のこと覚えていますか』

勝村が緊張した表情になったので、田上少佐も鋭くバックミラーを覗いた。

『あの人の行動は確かにおかしいですね』

『そんな呑気なことぢゃ困りますよ。大谷少将は習志野のメムバーになってるのを知ってますか。馬鹿々々しい』

『エ、あの石井部隊長の処にいるッて?』

『そうです。私も昨日はじめて知ったのですが、米軍も横の連絡が悪いのは日本軍と同じですなあ』

さすがに田上も顔色が変った。

『キリコフが着任したとなると、細菌戦のオーソリティだけに気を付けないとなりませんよ。奴はきっと大谷少将に連絡をとるでしょうから、その現場を押えましょう』

『是非、そうして下さい。私の方では、彼と一緒に帰った将官連中から、貴方へ情況を知らせましょう』

『メジャー・田上。並木元少将のことでしょう?  御存知でしょうが彼は二重諜者(ダブルスパイ)ですから充

分注意して下さい』

『ハイハイ。ミスター・勝村。私はいつも叱られてばかりですね』

車は東京温泉の前で止った。

『オット、忘れていました。頼まれていた例の証明書です』

田上が差出す小さな紙片を、勝村はうなずきながら受取った。

自動車年式オヨビ型式
一九四二年 ポンティアック箱型
車輛登録番号 三〇七九四
所有者 ——
関係者各位
重大ナル交通違反オヨビ事故以外、当自動車ハ抑留サルルコトナク、又運転手オヨビ同乗者モ尋問サルルコトナシ
警視総監 田中栄一 印

その紙片にはこう書いてあった。大変な許可証である。もちろん、こんな許可証はこれ一枚限りで、他には発行されていないことはいうまでもない。

迎えにきたジープ p.120-121 細菌戦の権威は習志野に

迎えにきたジープ p.120-121 Bacteriology in Japan was at the top level in the world, and advanced in the field of bacterial warfare. The aim of the Soviet rapid invasion was to obtain the flawless research results of Ishii Unit.
迎えにきたジープ p.120-121 Bacteriology in Japan was at the top level in the world, and advanced in the field of bacterial warfare. The aim of the Soviet rapid invasion was to obtain the flawless research results of Ishii Unit.

田上が差出す小さな紙片を、勝村はうなずきながら受取った。

自動車年式オヨビ型式
一九四二年 ポンティアック箱型
車輛登録番号 三〇七九四
所有者 ——
関係者各位
重大ナル交通違反オヨビ事故以外、当自動車ハ抑留サルルコトナク、又運転手オヨビ同乗者モ尋問サルルコトナシ
警視総監 田中栄一 印

その紙片にはこう書いてあった。大変な許可証である。もちろん、こんな許可証はこれ一枚限りで、他には発行されていないことはいうまでもない。

勝村は例のドライヴごっこを受持ったのだが、尾行中に交通巡査に止められて、モロトフを逃すことがしばしばだったので、田上に警視総監の特別許可証を頼んでいたのだった。眼を通した勝村はニヤリと笑った。

『ありがとう。総監もこんな証明書を出したのは生れて始めてでしょうナ』

勝村は大仰な身振りで別れを告げて、東京温泉の中に吸い込まれた。この建物も外人記者たちの報じたように〝東京らしい歓楽境〟の一つだ。

——大谷が習志野学校にいるとは、飛んでもない話だ。すでに内容は盗まれているかも知れない!

メジャー・田上は車を走らせながら、いつか勝村から受けた報告を想い出した。それは平壤の細菌試験所長チェレグラワー女史と大谷少将が協同でやったハルビンの生体解剖事件のことだった。

昭和二十年八月九日、ハルビンの石井部隊ではソ連の参戦を知って、てんやわんやの騷ぎだった。同夜中に林口、海林、孫呉、ハイラルの四支部に対して業務用建物、宿舍、設備、資材一切の書類の焼却命令が暗号電報で打たれた。同時に本部でも重要な施設や書類は直ちに朝鮮と内地とに移し、残りは爆破、焼却された。

しかし石井部隊の成果は、部隊長とともに飛行機で内地に帰ってきたのである。日本の細菌学は世界でも一流であり、細菌戦に関しても進んでいた。ソ連の迅速な進撃の狙いは、石井部隊を無瑕のまま押えることにあった。その成果をそっくりそのまま頂戴しようというのだ。

ドイツを占領したソ連軍は、光学器械で有名なツアイス・イコンの工場をそのまま押さえ、工場施設から技師、工員にいたるまで、そのままウクライナのキエフに移して生産を再開させた。そしてコンタックスと寸分違わぬカメラ「キエフ」を作った伝である。

ソ連側の企図は完全に成功しなかったが、ハバロフスク裁判の被告をみると、関東軍軍医部長医博梶塚中将、石井部隊製造部長医博川島少将、同教育部長西中佐、同製造部課長柄沢少佐、同支部長尾上少佐、第五軍軍医部長佐藤少将、関東軍獣医部長高橋中将らの幹部や、細菌学専門家を押えているので「矯正(強制?)労働として、石井部隊の再現と、その研究を進めさせるだろうことは想像に難くない。

一方撤収した施設は、南鮮で米軍に押えられ、千葉にあった習志野学校もまた接収された。試みにあの習志野原を横断して見給え。

米式装備で演習に励んでいる自衛隊に気を奪われて、何気なく見落してしまいそうだが、昔の習志野学校は厳重に鉄条網が張りめぐらされ横文字の札が立っている。内地に帰った細菌戦

の権威は今迎えられてここの研究指導を行なっているのだ。まさに日本の研究は米ソ両国に山分けされたことになる。

迎えにきたジープ p.122-123 米ソの細菌戦準備の状況

迎えにきたジープ p.122-123 According to the "Tairiku-mondai" magazine, the status of preparations for bacterial warfare of the US and the Soviet Union are as follows. In the Soviet, Dzerzhinsk, Yevpatoria, Omsk, Tomsk, and in the US, Maryland's Detrick Camp...
迎えにきたジープ p.122-123 According to the “Tairiku-mondai” magazine, the status of preparations for bacterial warfare of the US and the Soviet Union are as follows. In the Soviet, Dzerzhinsk, Yevpatoria, Omsk, Tomsk, and in the US, Maryland’s Detrick Camp…

米式装備で演習に励んでいる自衛隊に気を奪われて、何気なく見落してしまいそうだが、昔の習志野学校は厳重に鉄条網が張りめぐらされ横文字の札が立っている。内地に帰った細菌戦

の権威は今迎えられてここの研究指導を行なっているのだ。まさに日本の研究は米ソ両国に山分けされたことになる。

米ソの細菌戦準備の状況について「大陸問題」誌は次の通り報じている。

ソ連のジェルジンスク市の研究所は、四基のすばらしいツアイス顕微鏡とソ式の細菌増殖用密室二、真空乾燥器一を備えている。乾燥器とは長期にわたって細菌を高度の濃縮状態で乾燥保存するものだ。ここには七十人の学者が働らき、独人八、芬人二、日本人三が含まれている。彼らは事実上罪人として扱われている。

同じくエフパトリヤ第二号実験所では、ジェルジンスクと同じ程度の設備で、全世界の細菌学のどんな小さな成果も文献として集められていた。所員のボローニン教授はシベリヤ疫菌の濃縮溶液という新兵器について語った。

『極めて小さなガラスビンにその溶液を入れ、普通の封筒に入れて郵送する。そのガラスビンが潰れたとき、全郵便物が毒化されて配達される』と。

またオムスク試験所では、コレラやペストやおうむ病の〝死の雲〟について研究されていた。そしてトムスク試験所では誘導弾による細菌散布が研究されている。

米国においてはどうであろうか。米陸軍化学部長ボーリン将軍は、下院の秘密会議でメリーランド州デトリック・キャンプの細菌兵器研究部の拡張のため、千七百万ドルの予算を要請したという。

 米国軍事化学勤務隊の報告によると、おうむ病(濾過性病原菌によるもので、おうむ、カナリヤなど家禽から伝染する。二週間位高熱を発し、気管支性肺炎を起す、死亡率30%前後という)細菌溶液の僅か一CCは千五百万人を感染させるに充分で、一クォート(一・一三六リットル)で七十億人を殺すことができるという。

三 帰ってきたダンサーたち

東京温泉に入った勝村は入口の戸によりそって、暫く通りに注目していたが、何もないと安心したのか、フラリと出て電車通りを渡っていった。

銀座八丁目、果物屋の二階にあるクラブ・ピジョンは外人客ばかりの店だった。資本は荘という中国人が出していたが、経営者はザバスライフという白系露人。

銀ブチの角眼鏡をかけた二世スタイルの勝村が、ダンサーのチェリーと踊っている。

すんなりとのびた肢態が、ドレス姿を引立てる外人好みの娘だった。つけまつ毛の眼が媚を含んで、勝村の胸にもたれた。

『ネ、キリコフが来ていてよ』

ささやく声は、何という変りようだ! あのポンティアックの上品な若奥様と同じではないか。勝村もうっとりと眼をつむり、香ぐわしいようにチェリーの耳に口を寄せる。

『どこ? 連れは?』

『貴方の真後から、指三本右のテーブル。三人連れで、一人は……ホラ大谷少将。もう一人の日本人は知らない』

迎えにきたジープ p.124-125 チェリーが知らないといった男

迎えにきたジープ p.124-125 There is a shrine on the west side of Heihe and there is a "spy's house" beside it. Manchurian spies regularly go to Blagoveshchensk for hand over the information of the Japanese side to the Soviet side, and receive the information of the Soviet side instead.
迎えにきたジープ p.124-125 There is a shrine on the west side of Heihe and there is a “spy’s house” beside it. Manchurian spies regularly go to Blagoveshchensk for hand over the information of the Japanese side to the Soviet side, and receive the information of the Soviet side instead.

『ネ、キリコフが来ていてよ』

ささやく声は、何という変りようだ! あのポンティアックの上品な若奥様と同じではないか。勝村もうっとりと眼をつむり、香ぐわしいようにチェリーの耳に口を寄せる。

『どこ? 連れは?』

『貴方の真後から、指三本右のテーブル。三人連れで、一人は……ホラ大谷少将。もう一人の日本人は知らない』

視線があちこち動くと怪しまれるので眼をつむっているのだ。恋のささやきとしか見えない二人の姿だった。静かにターンをして位置をかえる。目指すテーブルには……

——見たことがある男!

チェリーが知らないといった三人目の男。彼は眼をつむったままリズムに乗ってゆく。

——ああ想い出さない!

——あの濃い眉。険しい鼻。特徴のある男なのに、どうしても思い出せない!

彼の記憶は、何か薄いヴェールを冠ったように、どうしてもよみがえって来ない。チェリーが身を起して、彼をまともにみつめた。その眼が『どうしてステップをまちがえたの? 取乱すとヘンよ』と訴えている。ニッコリうなずいて、背中にあてた腕に力をこめて抱きしめた。

——可愛いい奴! 名前を訊いておけよ。

と、眼で答えると、カッと胸の奥底から熱い血がこみあげてきた。

——何故、何故、奴らがこの女を抱きしめるのを、俺が黙っていなければならないんだ!

たまらない気持で勝村は階段を下りていった。

——和子、お前はどうしてダンサーになぞなったんだ。

もう十年も前のこと——

外出さえ禁止された長い長い一年が過ぎ、日本陸軍が誇る近代的謀略学校「中野」を卒業した勝村中尉は、作ってからはじめて袖を通した軍服の胸を張って、待望の満ソ国境へ赴任のため特急「あじあ」の座席にゆられていた。

来る日も来る日も荒涼たる色彩のない風景。黒い豚。そして国際謀略都市ハルビンへ——ここ小上海の目抜き通りはキタイスカヤ街。ライラックの花咲く松花江(スンガリー)の河岸である。

機関長に着任の申告を済ませたその日、勝村の諜報将校としての生活がはじまった。軍服をサラリと脱ぎすてた自称満鉄社員は、日、満、露、華、蒙そのほか国籍も分らぬ、いろいろな人間と一緒くたになってうごきはじめたのだ。やがて彼は黒河出張を命ぜられた。

黒竜江(アムール)一本をへだてて、対岸は指呼の間にソ連領ブラゴヴェシチェンスク市だ。黒河の町は、謀略と諜報の第一線だけに、学校では教えてくれなかった不思議な情報交換組織があった。

黒河の町の西はずれに神社がある。そのそばには「工作家屋」と呼ばれる建物があるのだ。人相、年齢、氏名をソ連側に通告した満人の諜者が二、三名いる。

彼らは定期的に、定められたコースで対岸のブラゴエに渡り、ソ連側の工作家屋に行く。そ

こで携行した日本側の情報を渡し、またこちらの要求する、ソ連側の情報をもらってくるのが役目だ。

迎えにきたジープ p.126-127 戸籍まで抹殺された

迎えにきたジープ p.126-127 All personnel documents about him have been burned down. He was reported dead. And there is only one superior who knows what happened to him--this was the fate of Nakano graduates.
迎えにきたジープ p.126-127 All personnel documents about him have been burned down. He was reported dead. And there is only one superior who knows what happened to him–this was the fate of Nakano graduates.

黒河の町の西はずれに神社がある。そのそばには「工作家屋」と呼ばれる建物があるのだ。人相、年齢、氏名をソ連側に通告した満人の諜者が二、三名いる。

彼らは定期的に、定められたコースで対岸のブラゴエに渡り、ソ連側の工作家屋に行く。そ

こで携行した日本側の情報を渡し、またこちらの要求する、ソ連側の情報をもらってくるのが役目だ。

その次には、同じようなソ連側の諜者が舟を出して、黒河の東はずれ海蘭公園のあたりに上陸する。そこから河岸沿いに町を横切り、西郊の工作家屋にやってくる。同様に情報を提供し、要求する。

この組織は定められた諜者と定められたコースにだけ、憲兵とゲ・ペ・ウの治外法権を認め合っている。相手側に対する質問の仕方と、その質問に対する返事の仕方、そこに双方の工作主任の力量がある。七割与えて十割とるというわけだ。

そんな国境地帯の任務が終って、ハルビンに帰ってきた勝村は、やがて大尉になった。

勝村のハルビン在勤時代、当時の機関長土居明夫大佐の有名な「秋林(チュウリン)工作」が行なわれた。そのころ女学校を出たばかりの和子は工作の舞台となった秋林百貨店の売場に、まだあどけなさの脱けきらぬ姿をみせていたのだった。

満鉄社員と称して、足繁く出入りする勝村に若い和子の魂は魅せられてしまった。だが、すでに次の任務を授けられて、妻帯する自由もない勝村には和子の気持を受入れることはできなかった。しかしたった一度、勝村がブラゴエ潜入を命ぜられて、それとなく別れを告げに逢っ

た夜、二人は愛情を誓い合ってしまったのだった。

まだ毛皮外套(シューバー)の放せないある朝のことであった。満鉄社員勝村の家は、数名の憲兵に寝込みを襲われた。隣り近所の眼をみはらせて、勝村は連行されていった。

かつて彼が決定した数多くの甲処置、乙処置と同じ運命が彼を手招いているのだ。もちろん取調べとてなく、あちこちの衛戍(えいじゅ)刑務所や一般の刑務所を転々と移され、彼の行方をこんがらからせた。そして、さらに数ヶ月の間、ハルビン郊外の一軒の家に潜伏していた。

その間に着々と準備は進められた。彼の軍籍に関する一切の人事書類が焼きすてられてしまった。郷里には〝戦死公報〟が出され、戸籍まで抹殺されたのだ。潜伏のアジトの高い塀に囲まれた僅かばかりの庭を、檻の中の動物のように歩き回る毎日が続いているとき、機関の露人斑長青木大佐が現れた。

『命令。勝村大尉ハ……』

直立不動の姿勢で聞く命令下達。伸ばした左手には軍刀の冷たい感触もなかったし、あげた右手には位置すべき軍帽のつばもふれなかった。秘めやかな壮途、そして彼がどうなったかを覚えていてくれる日本人は、命令下達者たった一人しかいない——これが中野学校卒業生の歩むべき道であった。

迎えにきたジープ p.128-129 恐しい誓約書を書きました

迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).
迎えにきたジープ p.128-129 In Harbin, like every night, Communist Party military police squad with large pistol patrolled the dance halls. The purpose was to hunt for the Kuomintang special agency (kuo-tau).

ソ連潜入! 別れねばならなかった愛する和子への、一沫の哀愁を抱いて、彼は特殊任務のため、再び黒河に潜行した。渡河の機会を狙っているうちに、やがて終戦の日が来た。逃げる暇もないソ連軍の進撃に、彼は捕虜としてシベリヤに送られたのであった。

彼が青木大佐の部下として舞鶴で働らいていた、二十四年の九月ごろ、初の中共引揚として、大連集結の婦女子が高砂丸で帰ってきたことがある。その中に華やかな色どりをみせていたのは、中共の享楽追放でハルビンを締出されたダンサー・グループであった。

こうして、再び相見ることはないはずの、勝村と和子はめぐり逢った。解逅の感激はロマンチックであったが、十年近い歳月の流れという現実はきびしかった。

長い長い抱擁と涙ののち、鋭く勝村に問いつめられて、いまはチェリーと名乗る和子は、その赤い密命にのろわれた数奇な運命を語った。

『覚悟はしていたものの、やはり、あなたが憲兵に連れていかれてからは、一月余りも毎夜泣き通しでした……

野獣のようなソ軍を防ぐために、進んでシルクローズのダンサーになりました。これがそもそもの悪夢の始まりだったのです。ソ連兵が去り、国民党が中共に追い出されて、どうやら秩序が回復しかけてきたころです。

中共の享楽追放は、ハルビンの街のネオンを一つ消し、二つ消し、重税と厳重な取締りとで、私たちの回りにもヒシヒシと迫ってきました。

毎晩のように、何回となく、木のケースに入れ長い飾り紐をつけた大型拳銃を、ブラブラさせながら、五人、十人と隊を組んだ中共の執法隊が廻ってくるのです。

第一の目的は国特(クオトオ)狩り、つまり国民党特務を摘発しようというのです。そのため、私たちには密告のノルマが課されたほどです。

第二の目的は課税です。踊っている中国人は住所、氏名、職業を調べられ、果して遊ぶだけの正規な収入があるのか、不正な金ではないかとニラまれ、それだけ収入があれば遊ぶ余裕があるとして、それだけ重税を課せられるのです』

和子は苦しい想い出に眉をしかめた。

『こうしてお客が減り、私たちの生活が苦しくなってきたとき、ソ連の政治将校のイワノフスキーが足繁く通いはじめました。やがて、私たちを身動きのならない羽目におとしこんで、スパイになるようにと脅迫するのです。

身体を投げ出して逃れようとした人もありました。けれども無駄でした。汚されたうえに更に脅迫が続くのです。一人落ち、二人承知し、次々に恐しい誓約書を書いてゆきました。そし

て私もとうとうその一人になりました。

迎えにきたジープ p.130-131 あの濃い眉と険しい鼻の四十男

迎えにきたジープ p.130-131 Katsumura remembered. Siberia five years ago. A man who jumped into a urine barrel with encephalopathy when typhus fever was raging. It overlaps with the man's face he saw at Club Pigeon.
迎えにきたジープ p.130-131 Katsumura remembered. Siberia five years ago. A man who jumped into a urine barrel with encephalopathy when typhus fever was raging. It overlaps with the man’s face he saw at Club Pigeon.

身体を投げ出して逃れようとした人もありました。けれども無駄でした。汚されたうえに更に脅迫が続くのです。一人落ち、二人承知し、次々に恐しい誓約書を書いてゆきました。そし

て私もとうとうその一人になりました。

非生産的で、働らかざるものは食うべからずというので、私たちダンサー十五人は強制送還ということになりましたが、列車の停る度毎に、青帽子に青肩章の将校が、誓約書の念を押し、大連の出帆真際まで執拗に脅迫が続いたのです。

東京での仕事は、必ずアメリカの将校のくるキャバレーと決められ、情報収集が命令されました』

呟くような声で、和子の想夫恋は、るるとして続いていた。

『だけど、私にはあなたが生きているとは信じられなかったの。生きていてもシベリヤに送られれば、再び日本の土を踏めるあなたではなかったでしょう?』

四 バイラス病原菌の培養成功

もう一時間近く待っていた。地下鉄の赤坂見付駅の入口を一直線に見張れる弁慶橋のらんかんによりかかりながら、勝村は現れてくる筈の大谷元少将を張り込んでいた。キリコフとの連絡は必らずここが使われるのだ。

ホームへ降りる長い階段が、誰にも怪しまれず二人だけになれる絶好のレポの場所だ。今日は場合によっては、尾行して機会を狙って大谷元少将を誘拐する予定でもあった。婦人用の小さなコルトが、背広のポケットを心持ち重たくしている。

退屈まぎれに、もう読み終えた夕刊をもう一度ひろげ直した時、彼は首をかしげた。二段組の警察(サツ)種が何かおかしかった。

「生血を吸う四人組」という見出しのその記事は、十四日、谷中署では詐欺並びに横領の疑いで台東区浅草山谷三の二、第二十六号厚生館止宿、無職一色三郎(24)同関根道男(24)同東条境史(20)同浜野年久(30)の四人組を検挙した。調べによれば同人らは葛飾区本田立石町一三東京製薬採血工場の健康診断合格登録証二百枚を買集め、金に困っている浮浪者たちに貸し、二百CCの血液代四百円のうちから二百円をピンハネし、約五十万円を稼いでいたもの。なお同署では不潔な血による被害がなかったかを、同工場につき調査している。と、トッポイ四人組の悪事を報じたものだった。

勝村の眼は生き生きと輝き、最後の「なお同署では……調査している」というくだりをみつめていた。

五年前のシベリヤ。発疹チフスが荒れ狂っていたころ、重病人に無検査の輸血が行なわれて、生命は取り止めたが、身に覚えのない梅毒やマラリヤが伝染していった。——勝村はその恐しい事実を知っている。

『ウ、彼奴だ…』

脳症で小便樽に飛び込んだ男、あの濃い眉と険しい鼻の四十男の顔が、クラブ・ピジョンで みかけながら、どうしても想い出せなかった男の顔とダブッて、ピタリと重なる。

迎えにきたジープ p.132-133 本多福三とキリコフが同席

迎えにきたジープ p.132-133 He is a talented engineer of Ishii Unit and a man named Fukuzo Honda. He is a leading expert on a series of anaerobic bacteria such as tetanus and gas gangrene. As the leader of human experimentation, he must be the first war criminal.
迎えにきたジープ p.132-133 He is a talented engineer of Ishii Unit and a man named Fukuzo Honda. He is a leading expert on a series of anaerobic bacteria such as tetanus and gas gangrene. As the leader of human experimentation, he must be the first war criminal.

『ウ、彼奴だ…』

脳症で小便樽に飛び込んだ男、あの濃い眉と険しい鼻の四十男の顔が、クラブ・ピジョンで

みかけながら、どうしても想い出せなかった男の顔とダブッて、ピタリと重なる。

脳症患者の輸血事件の想い出から、意外な男の記憶まで蘇ったのだが、すぐに疑問が浮んできた。

——彼は、石井部隊の有能な技師で本多福三という男だ。前職を秘していたのが幻兵団の密告で摘発された。

——それからすぐ収容所から居なくなった。銃殺されたともいわれたのに……

——石井部隊の人体実験の指導者本多研究員こそ、第一の戦犯でなければならない。

——その男が、細菌戦のオーソリティ、キリコフと同席しているとは!

破傷風菌、ガス壊疸菌など一連の嫌気性細菌については、本多技師が第一人者だった。

石井部隊当時、安達駅の特設実験場で行なわれたガス壊疽菌の人体実験を企画し、実行したのも彼だった。

被実験者たちは、五—十米間隔で柱に面と向って縛りつけられていた。その頭は鉄帽で身体は楯におおわれ、ただ臀部だけが露出されていた。約百米の処で榴散弾が電流によって爆発させられた。いずれも露出した臀部に負傷した。そしていずれも死亡した。

彼の研究テーマはガス壊疸菌、破傷風菌、ボツリヌス菌(腸中毒菌)など、嫌気性病原菌の

最も危険な濃縮体の発見だった。つまり、乾燥させられ、真空状態でも長期の保存に堪えられる濃縮体は、一CCで約四、五万人を殺りくできると予想されていた。

そして、自由な人体実験が、彼にだけ許されて、その研究を助勢していた。研究の成果が着々とあがりつつあった時、彼の祖国日本は壊滅したのである。そんなふうな本多技師の業績は、その実験材料「丸太」や「モルモット」の供給者だっただけに、勝村もいつか聞知っていた。

時計をみるともう一時間半も過ぎている。大谷少将の件は諦めて赤坂見付駅へ歩き出した。本多技師が生きて内地へ来ている。しかもキリコフと連絡ありとすれば、大谷元少将などの諜報とは違って、積極的な謀略に違いあるまい。一刻も早くアジトと仕事の様子を洗い出さねばならない。

——奴の真空保存の研究は完成したかな?

そう思うとヂッとしていられない気持に駆り立てられて、思わず急ぎ足になったが、今のところ調査にかかる端緒がない。チェリーが先夜、彼にいろいろのさぐりを入れたに違いないので、彼女の報告を待たねばならない。

——そうそう四人組の吸血鬼を忘れていた。

彼は浅草行のメトロに乗って、谷中警察署へ向った。

迎えにきたジープ p.134-135 女社長の高橋女史は吸血鬼

迎えにきたジープ p.134-135 The female president of Tokyo Pharmaceutical is a grabby person who cooperates with the UN forces. The raw blood collected from the vagrant is dried by heat treatment, so that all the bacteria are killed.
迎えにきたジープ p.134-135 The female president of Tokyo Pharmaceutical is a grabby person who cooperates with the UN forces. The raw blood collected from the vagrant is dried by heat treatment, so that all the bacteria are killed.

——そうそう四人組の吸血鬼を忘れていた。

彼は浅草行のメトロに乗って、谷中警察署へ向った。

折角意気込んで谷中署を訪れたのに、勝村はガッカリしてしまった。あまり事件も起きない小さな署だっただけに、古ぼけたせまい部屋で、搜査主任は聞きもしない事まで喋ってくれたが、結論は生血ではなく乾燥血漿なので、何の影響もないということだった。

『何しろ朝鮮動乱が始まってからというものは、国連軍のいわゆる特需がふえて、東京製薬という会社は、いま大変なものだそうですよ。前は重病人のための、国内の僅かな需要しかなかったのですからなあ』

主任は思いついたように机上の新聞をとって、彼に示した。「重病人のために、血液購入!」という広告だった。

『ホラ、これですがね。四百円のほかに栄養食とかをくれるそうですがね。本社も上野にあり、給血者はやはり浮浪者が多いので、一部にはそねみで、国連軍へ納める値段は途方もないものだから、女社長の高橋女史は吸血鬼だなんて騒ぐ奴もいるんですよ。共産党の細胞なんかが〝国連軍協力の吸血鬼高橋社長を葬れ〟って、ビラを地下道にはったりしましてね』

『高橋ッて婆さんは仲々やり手でね。御殿みたいな家へ、よく高級将校夫人を招待しては娘の日本舞踊を見せたり、外交家ですよ』

話好きらしい主任は一人で続けた。

『あの乾燥血漿を国連軍に一手で納めるようになったのも、そのへんの呼吸らしいですよ』

『亭主はいるんですか?』

『ええ、養子ですからまるっきり影は薄いですよ。取締役か何かになっている付属の研究所長という博士と噂があったりして、丸っきり借りてきた猫……』

主任は相手が立上ったのをみて、急いで事務的に付加えた。

『要するに、工場は科学的な流れ操作で、採血した生血を、熱処理によって乾燥させるので、一切のバイ菌は死滅する訳でして、工場側には薬事法違反という問題は考えられないのです』

——俺のカンも外れるようになってきたのかな? とんだ無駄足をしたけれど、まあいいや。

本筋の本多技師を洗ってみるんだ。

彼はそう呟きながらまた地下鉄に乗った。国連軍協力の商売人で、共産党に叩かれている女社長。バイ菌は高熱処理のためみな死んでしまう。成程筋の通った話だった。

勝村がチェリーとのレポに都心へ帰ろうとして乗った地下鉄の別の車輛には、上野から乗った大谷元少将もいたのだった。勝村が疑問を持った以上に、新聞の記事にビックリした彼が、

あたふたと東京製薬の本社に馳けつけて、どうやら安心しての帰り途だったのである。

迎えにきたジープ p.136-137 バイラス病原菌の培養に成功

迎えにきたジープ p.136-137 "The research focus of Narashino School under the guidance of Lieutenant General Ishii is directed to bacteria that attack plant. Finally, they succeeded in cultivating the viras pathogen."
迎えにきたジープ p.136-137 ”The research focus of Narashino School under the guidance of Lieutenant General Ishii is directed to bacteria that attack plant. Finally, they succeeded in cultivating the viras pathogen.”

勝村がチェリーとのレポに都心へ帰ろうとして乗った地下鉄の別の車輛には、上野から乗った大谷元少将もいたのだった。勝村が疑問を持った以上に、新聞の記事にビックリした彼が、

あたふたと東京製薬の本社に馳けつけて、どうやら安心しての帰り途だったのである。

そして、彼は新橋から車で麻布へ向った。

『同志少佐(タワーリシチマイヨール)、恐るべきことです』

『……』

『習志野学校の研究は着々と進んでいます。ついにバイラス病原菌の培養に成功しました…』

『バイラス病とは?』

マイヨール・キリコフの表情は堅い。冷たく大谷元少将に反問した。麻布新竜土町のUSハウス九二六号の一室である。

窓にはじゅうたんのように重々しいカーテンが垂れ、その上さらに革のカーテンが引かれていた。完全な防音装置だ。大きなスターリンの像、中央にデスクが一つ。何の飾り気もない部屋だった。

『石井中将の指導による習志野学校の研究重点は、対植物攻撃用細菌に指向されています。麦角病、玉蜀黍黒穗病、馬鈴薯立枯病、豆類立枯病などの研究が進められているのです』

『バイラス病とは?』

冷たい。大谷は幾分うろたえ気味に、

『ハ、ハイ。恐るべき細菌です。稲、麦、馬鈴薯など主要農作物の殆どが発病する萎縮病なのです。一度これにかかると、その植物は絶対に恢復しません』

『……』

『これはバイラス菌と呼ばれる細菌で、ツマグロヨコバイという虫が植物の汁を吸う時に、その口から注入されるのです。保毒虫が越冬して子供を産むと、その半数以上が保毒虫となり、孵ってから平均十九日も経てば伝染力を現わし、バイラス病の植物の汁を無毒虫が吸えば、またこれも伝染されます』

『そして?……』

『学校では遂にその培養に成功し、今や大量生産の段階に入りました。バイラス菌の濃縮溶液一CCの汚毒面積はまだ分りませんが、数千ないし数万ヘクタールと信ぜられています。しかもこの培養菌は甚だ強力で、雑多な昆虫によって伝染されるのです。従来の農業化学では、バイラス病そのものの予防手段は発見されておらず、昆虫の駆除と発病植物の焼却以外ないのです』

『詳細なデータは入手しましたか』

『これです』

大谷は書類綴りを渡した。

迎えにきたジープ p.138-139 石井部隊の戦犯裁判の記録

迎えにきたジープ p.138-139 Kirikov handed a thick book to Otani. “Two thousand of these books were landed at Shibaura from the Grinsky. I'm going to hand over these for the funds of the Japanese Communist Party through the hand of Norma Company."
迎えにきたジープ p.138-139 Kirikov handed a thick book to Otani. “Two thousand of these books were landed at Shibaura from the Grinsky. I’m going to hand over these for the funds of the Japanese Communist Party through the hand of Norma Company.”

『詳細なデータは入手しましたか』

『これです』

大谷は書類綴りを渡した。

『ウクライナ穀倉地帯へ飛行機による攻撃が計画され、準備されています』

それでもキリコフの表情は変らなかった。彼は書類複写のため呼鈴を押した。

ウクライナはソ連第一のドンバス炭田地帯を控えて、ソ連屈指の工業都市が群立し、また豊沃な黒土帯地方が一望千里にひろがっており、ソ連の宝庫とか、ヨーロッパの穀倉とか呼ばれていた。

だが一九四七年夏の大旱魃には、流石の穀倉も全滅にひんした。ウクライナの不作は直ちに全ソ連の食糧危機を意味する。各地には食糧騒動が起り、レニングラードなどでは暴動となった。同市の食糧販売所の前で、数時間も行列して待っていた市民と保安隊とが衝突まで起したのだ。

ソ連には「八時間(ウオセミ・チャソフ)労働(ラボート)、八時間睡眠(スパーチ)、八時間買物行列(オーチエレヂ)」という言葉があるほど、行列には馴れ切ったソ連人が、エヌ・カーと呼ばれて恐れられている、国内警備隊と衝突したのだから、余程深刻なものだったに違いない。群衆は食糧販売所に放火して乱入、食糧を奪ったのち、軍用品を焼きすてるという騒ぎだった。

また正確には発表されなかったが、数千万の餓死者も出したという。さらにその結果として、

ウクライナ人によるスターリン政府への反乱まで起ったということが、当時アンカラ放送やAP電で伝えられた。

ウクライナ穀倉地帯への細菌攻撃の結果は、想像するだけでも恐ろしい。黙然としていたキリコフは、気分転換のためか、ツト立って一冊の分厚い本を大谷に手渡した。

『この本が二千冊、グリンスキー号で芝浦に陸揚げされた。ノルマ社の手を通じて日共党員の資金カンパ用に渡すつもりだ。その宣伝効果を判定し給え』

大谷が手にとってみると「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という長ったらしい標題の七百三十八頁もの大冊だった。上等な紙に鮮明な日本活字で刷られ、「外国語図書出版所、モスクワ・一九五〇年」とある。

内容は緒言からはじまり、一、予審書類、起訴状、被告及び証人の供述、証拠書類、二、法廷における被告及び証人の供述、三、鑑定、四、国家検事の論告、五、弁護人の弁論、六、被告の最後の陳述、七、軍事裁判の判決状、といかめしい文字ばかりが並んでいた。

ハルビン石井部隊の戦犯裁判の公判記録だ。大谷はパラパラとめくりながら、若干イヤな顔をした。ハルビン第二陸軍病院長として自分も関係していたことがあったからだ。証拠書類の項には当時の軍命令や各級部隊命令など、軍事極秘の書類の写真版が多数納められていた。

『ノル社長の小竹博助の友人で奥津久次郎というのが、三巴商事という貿易商社を丸ビルで開いている。今度はさらに二千冊のソ連図書が、正式にポンド決済で輸入されるから期待してい給え』

迎えにきたジープ p.140-141 戦犯中の極悪人本多は自由の身

迎えにきたジープ p.140-141 "I found out about that man. Fukuzo Honda, 43, a doctor of medicine. From the University of Tokyo Faculty of Medicine. The old occupation was a researcher at the Nagao laboratory of Wakamoto."
迎えにきたジープ p.140-141 ”I found out about that man. Fukuzo Honda, 43, a doctor of medicine. From the University of Tokyo Faculty of Medicine. The old occupation was a researcher at the Nagao laboratory of Wakamoto.”

ハルビン石井部隊の戦犯裁判の公判記録だ。大谷はパラパラとめくりながら、若干イヤな顔をした。ハルビン第二陸軍病院長として自分も関係していたことがあったからだ。証拠書類の項には当時の軍命令や各級部隊命令など、軍事極秘の書類の写真版が多数納められていた。

『ノルマ社長の小竹博助の友人で奥津久次郎というのが、三巴商事という貿易商社を丸ビルで開いている。今度はさらに二千冊のソ連図書が、正式にポンド決済で輸入されるから期待してい給え』

珍らしいキリコフの雑談を聞き流しながら、大谷はフトある一頁に眼を止めた。『……本多研究員ノ命令デ、私ハ〝丸太〟ヲ柱ニ縛リツケマシタ……』この本に、こうして戦犯中の極悪人として扱われている本多は、内地にいて自由の身となっており、何も知らず上官の命のままに動いた一衛生兵が、麗々しく戦犯の片棒をかつがせられている現実。

大谷はハルビン病院の院長室で、女医チェレグラワー女史の豊満な肉体のとりことなってから、生体解剖をきっかけに、ずるずると引ずり込まれた自分の姿を想って、さく然としたままキリコフに答えなかった。

五 朝鮮戦線に発生した奇病

勝村は冷たいコーヒーを注文して、チェリーの現れるのを待っていた。

『待った?』

明るい声がしてチェリーが立っている。人出入りの多いデパートの喫茶室では、この二人に注意する者もない。

『あの男のこと、分ったわ。本多福三、四十三才、医博、論文は何でも消化器系統の伝染病よ。何とかいったけど憶え切れなかった』

『学校は?』

『あ、そうそう。東大医学部。学士会名簿にも出ているから本当よ。職業は昔のだけど、ホラ〝いのもと〟という薬の社長のやっている長屋研究所員』

『やはり、本多に間違いなかったか』

『アラ、知っていたの? あの時は知らないといってたのに』

『イヤ、後で想い出したんだ。シベリヤで逢ったことがあったんだヨ』

『そお、で、私へのプレゼントは?』

チェリーは悲しい表情で勝村をみつめた。彼女の知っている限りのものを、男の仕事の役に立つならばと、何でも話していた。そしてその限りでは献身的な、殉教者的な深いよろこびを感ずるのだった。

しかし、彼女も逃れられない運命を背負っている。男に何か米国側の情報をもらう時、それが特に意識されて悲しかった。意識した二重スパイも、或は強制された逆スパイも、常にどちらかへ比重をおいているものだ。

迎えにきたジープ p.142-143 二人の間に沈黙が流れた

迎えにきたジープ p.142-143 Katsumura and Cherry. "What is Honda's major?" "Bacteria" "What about military service?" "Army engineer with Unit 731 Manchuria" "What is the date of demobilization?"
迎えにきたジープ p.142-143 Katsumura and Cherry. “What is Honda’s major?” “Bacteria” “What about military service?” “Army engineer with Unit 731 Manchuria” “What is the date of demobilization?”

勝村は英文の書類を一通取出した。

『これはクラブ・ピジョンに入り浸っている、ローレンス大尉から盗み取った書類だと報告したまえ』

チェリーは思わず勝村をみつめた。

『まあ、ローレンスのこと知っているの?』

『うむ、ミイラ取りのくせにダンサーのチェリーに夢中になって、ミイラになりつつあるローレンス大尉は、重要書類紛失の責任で朝鮮部隊へ転勤になり……』と、時計を覗いて、

『もう、十五分もすると飛行機に乗込むよ』

『まあ!』

『これは、従来細菌の検出には四日間もかかったものを、十五時間以内に細歯が培養検出できる小型特殊フィルターの内容だ。米国ではすでにこれを改良発達させたものを完成し、水道の蛇ロや導水管に装備できるようになっている。だから幾分機密程度は落ちているが、攻撃の研究しかしないソ連にとっては大変な収穫だよ』

『勝村! どうして貴方はそれを!』

『静かに。まさかローレンス大尉にほれていた訳でもあるまい。すべての事態は、その通りに

動いているから心配はない。これはチェリーの功績だよ』

『……』

『……キリコフの奴。ビックリしてチェリーを見直すぜ』

——俺は今でもこの女を愛しているのだろうか? ただ単に仕事のために利用しているのだろうか?

——私は今でもこの人を愛しているンだわ。だけど私にはこの人を愛する資格があるか知ら。

二人の間に沈黙が流れた。苦しい、お互に堪えられないような沈黙だった。チェリーの眼が濡れて、勝村の視線にからみついてきた。深い吐息をもらして、男はようやくのことで、すがりつく視線をそらした。

『本多の専攻は?』

『細菌』

事務的な、意味のない応酬だった。

『兵役は?』

『陸軍技師、満洲第七三一部隊付』

『復員年月日は?』

迎えにきたジープ p.144-145 東京製薬、付属血液研究所長

迎えにきたジープ p.144-145 Since she supplies dried blood plasma to the UN forces, at the salon of Ms. Takahashi, president of Tokyo Pharmaceutical, US military officers also gathered .
迎えにきたジープ p.144-145 Since she supplies dried blood plasma to the UN forces, at the salon of Ms. Takahashi, president of Tokyo Pharmaceutical, US military officers also gathered .

『本多の専攻は?』

『細菌』

事務的な、意味のない応酬だった。

『兵役は?』

『陸軍技師、満洲第七三一部隊付』

『復員年月日は?』

「分らないわ』

『その後の職業は?』

二人とも、レースのカーテンを通して、舖道に行交う人々の足をみつめている。

『長屋研究所に復職』

『現在も?』

『違うわ』

沈黙が再び二人を支配するのが恐かった。間のびした、呟くような会話だった。

『ぢゃ、今は?』

『東京製薬取締役、付属血液研究所長よ』

『エ?』

勝村は我が耳を疑うように、顔をあげてチェリーをみつめた。テーブルを越えて彼女の両腕を確かりとつかまえていた。

『何だって? もう一度!』

終りまで聞かずに彼は立上って歩き出していた。

『東京駅!』

表の駐車場でタクシーに怒鳴る勝村の姿が、カーテンでボヤけながらも、チェリーの瞳に映った。彼の乗った車が吐きだしたガソリンのスッとした匂いが、ガラスを通して彼女のまわりにただよってきたようだった。

『本多さん、大変な目に遭ったのよ、今』

十八貫もの豊満な身体を弾ませながら、高橋サキ女史が研究室の扉をあけた。

『チョッと待って』

ここは所長室に続いた本多の個人研究室だった。ヂット顕微鏡を覗く本多の顔を見守っているのは、意外にも外人だったので、女史もいささかたぢろいだが、馴れたものでニッコリ会釈した。

国連軍に乾燥血漿を納めるようになってからは、衛生関係の将校も女史のサロンの客となっていたから、研究所に外人がいても不思議ではなかった。

本多が眼をあげて外人をみた。微笑が口辺に浮ぶ。

『生きています。大丈夫です』

迎えにきたジープ p.146-147 今や本多の研究は完成した

迎えにきたジープ p.146-147 Honda's research was to dry a concentrated solution of anaerobic bacteria and store it in a vacuum for long-term storage. A research that kills 40,000 to 50,000 people per 1cc...
迎えにきたジープ p.146-147 Honda’s research was to dry a concentrated solution of anaerobic bacteria and store it in a vacuum for long-term storage. A research that kills 40,000 to 50,000 people per 1cc…

国連軍に乾燥血漿を納めるようになってからは、衛生関係の将校も女史のサロンの客となっていたから、研究所に外人がいても不思議ではなかった。

本多が眼をあげて外人をみた。微笑が口辺に浮ぶ。

『生きています。大丈夫です』

『オメデトウ』

外人が本多の手を握った。女史は自分がほめられたように、うなずきながら、

『そりゃ、本多さんの研究は大したものなんです。ここでは何ですから、あちらで……』

『アリガトウ、チョト時間ガアリマセン。今日ハシツレイシマス。サヨナラ』

外人が去るのを見送った女史は、二人になると小娘のようなしなを作って、

『誰方? 紹介もして下さらないで……』

『エエ』

本多は顕微鏡の載せガラスを脱して、沸とうするビーカーの中に投げこみながら、あいまいに答えた。実験の成功に気を良くして笑いながら話題をかえた。

『何です、一体大変な目というのは?』

『共産党の連中がおしかけてネ、これを買ってくれというのよ。ウルサイから買ったけど高価いの。二千円よ』

女史は厚い本を本多に示した。

『貴方のお仕事に関係があるだろうと思ったから買ったんだけど……。お入用?』

本はハバロフスク裁判の記録だった。

『ありがとう』

本多は少し顔をしかめて受取った。

『それより、近く工場に新しい設備をしなければならないので、お金を用意して下さい。血漿の純度をよくする装置です』

『でも、現在のでもいいのなら、何もお金をかけなくても……』

『少し沢山かかるでしょうが、ナニ、朝鮮動乱はまだまだ続きます。今のうちにどしどし大量生産して、米軍だけでなく日本軍にも売り込まねばなりませんよ』

『日本軍って? 警察予備隊?』

『そうですとも、ハハハハ』

乾燥血漿は確かに熱処理によって作り出される。その経過中に細菌は全部死滅し、無菌の状態で粉末として、真空のアンプルにつめられるのだ。本多の研究は、嫌気性細菌の濃縮溶液を乾燥させ、真空状態の中で長期保存させようというものだった。

その研究のためキリコフは、モスクワの衛生試験所からボツリヌス菌の資料や、ジェルジンスク研究所から、ドイツ人学者の完成した乾燥のデータまで取り寄せて援助した。今や本多の研究は完成した。一CCで四、五万人の人命を奪うという研究が……