三 天皇島に上陸した「幻兵団」
第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。
この件を内部で検討した顧問団は、重大な問題だというので、中部復員連絡局長川越守二元中将(28期)、北陸第二上陸地支局(舞鶴)長稲村豊二郎元中将(26期)、復員部長大熊初五郎元中佐(37期)らと相談した結果、日本側として引揚に関する資料を整理しようということになり、その報告書を復員庁を通じてG—2に提出した。
この報告を読んだウイロビー少将は、日本将校の対ソ感覚、資料の収集技術に感心して、将来とも積極的な協力をと要請してきた。
顧問団の調査によって、ソ連側の政治教育、日本新聞の組織と編成、収容所付近の状況、帰国後の赤化工作組織の企図などが明らかにされたのだったが、第二次の明優、遠州両船ではより重大なことが明らかにされた。
遠州丸の草田梯団はライチハの民主大隊といわれた積極分子を母体にしていた。この民主グループ「北斗会」は委員長草田守元兵長(愛知)、常任委員保科義英元一等兵(新潟)、堀尾貫文元一等兵(長野)、大田貢元上等兵(広島)、井上進元少尉(神奈川)らで、「北斗会」がチェックされた結果、収容所の動向のすべてが調査された。
この調査で、彼らは誓約ののち北海道でコルホーズ組織を作る、中央では日共支援という指令を帯びていることが明らかになり、アメリカ側を驚かせた。現地の米側では、引揚者調査はソ連の兵要地誌を作るのが目的だと思っており、このような政治工作についての関心は全くなかったからである。
この自供を行ったのは、やはり北斗会の幹部だった鈴木高夫氏であった。ソ連側に忠誠を誓って帰国、その指令を実行するという「幻兵団第一号」は、こうして発見された。また、『モスクワ大学帰りもいる』という自供は井上元少尉から出た。
ガク然としたアメリカ側は、報告書を携えピストルで武装したクリエールを東京へと飛ばした。続いて上陸第二日の九日夜、調査班に呼び出された草田、保科、堀尾、大田、鈴木の五氏はそのままGIに護送されて、東京に連れ去られてしまった。
ラストヴォロフ事件で、ラ氏を無断で国外へ連れ去られたように、この時も日本側には何の連絡もなく、上陸地支局長の稲村元中将も全く知らなかった。しかし、幹部でありながら残された、井上、伊藤、大橋氏らが日の丸組からリンチされるという騒ぎが起り、復員庁側はようやく五氏が居なくなっているのを発見したのである。
草田氏らはG—2、すなわちNYKビルに連れてゆかれて、本格的な取調べをうけた。これが、舞鶴でチェックされて、NYKビルに呼ばれるようになったはじめであった。