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雑誌『キング』p.129上段 幻兵団の全貌 アクチヴを反動偽装

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.129 上段

っていることなど、いずれも符節を合わしている。

二十二年上半期には、『アクチヴは、帰還の第一関門である舞鶴で警戒されるから、反動を採用した方が有利である』という根拠にもとづき、大量生産をしたのであるが、やがてそれでは決して質の向上を期待できないという失敗に気付いた。そのため、下半期では、Ⓑ要員に厳選主義をとり、エラブカ、バルナウル、ハバロフスク、ウォロシロフなどの各地では、筋金入りの民主グループ委員、いわゆるアクチヴに着目した。

そして誓約書をかかせると同時に、民主運動から脱落せしめ、反動としての偽装に着手した。同時にある輸送計画をたて、逐次、日本潜入を開始したのだった。輸送計画というのは、さきの〝どんなに吊るしあげられても、必ず帰してやる〟という言葉で裏書きされよう。

二十二年上半期製造の〝反動スパイ〟は、二十二年下半期からすでに帰還をはじめ、上陸後に寝返る奴も出てきた。その結果として、当局では、このスパイ組織に気がつき警戒をしはじめた。

このような事態に対処するべく、ソ連側では、潜入のための輸送計画をたてたのだ。それは、Ⓑ要員は決してその地区梯団と共に帰らせず、一人一人を、他の地区梯団にまぎれこまし

雑誌『キング』p.126下段 幻兵団の全貌 合言葉には三種類が

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.126 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.126 下段

四、連絡

こうして生まれた、このスパイ組織は、どうのように動きだしただろうか。その連絡についてみてみよう。

1 符牒 第一番にあげられるのは工作名(偽名)である。これはⒶ、Ⓑともに持っているが、Ⓐの中にはない者もある。この名前が、どのような根拠によって、名付けられるかは不明であるが、苗字だけが必要であるらしく、名前はそれほどでもないらしい。大矢(口頭でオーヤといわれて、本人が字をあてたもの)と名付けられた男が、『カーク・イーミヤ?』(名は何というか?)と質問したところ、チョット考えて『サブロー』と答えた(タイセット)という。工作名は、誓約書の末尾に記される。報告書、答申書、報酬の受領証など、一切の仕事にこの名前だけが使われる。例をあげると、阿部正(チェレムホーボ)、坂田栄、高平保(ハバロフスク)、森、大木(ウォロシロフ)などである。

合言葉はⒷにだけ、誓約のさいに、偽名に続いて与えられている。合言葉には次の三種類がある。

イ 呼びかけ式

『貴方の事業は成功していますか?』
『貴方の健康は宜しいですか?』

雑誌『キング』p.126中段 幻兵団の全貌 スパイの報酬

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.126 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.126 中段

なお、ここで注目すべきことは、ハバロフスク、ウォロシロフ両地区は、誓約書の文面が、Ⓐ、Ⓑともに同文であり、しかも、一人の人間が、Ⓐ、Ⓑ両方の誓約書をかいていることである。これによってみても、さきに述べた通り、Ⓐの使命は一応シベリアで終わっているが、日本におけるⒷの予備隊として、必要とあれば直ちに編成され、〝影なき男〟の連絡がつけられるとみてよいと思う。

4 報酬 Ⓐは毎回五〇—七〇ルーブルというのもあれば(チェレムホーボ)、帰還の時にビール五杯だけ(タイセット)というものもあり、種々まちまちであって、いちがいにはいえない。これも、担当将校の人柄と、スパイの活躍如何によるものであろう。全期間一年半を通じて六回の呼び出しをうけ、最後に一二〇ルーブルを渡されようとしたが、不要だといったところ、受領証だけを書かされて、担当将校に横領された(チェレムホーボ)というのもある通り、機密費に類するものだけに、適当に行われていたようである。Ⓑにいたっては、月に一回の呼び出しがあり、その都度五〇—三〇〇ルーブルの大金を与えられていた(バルナウル)というのからも、相当莫大な金が、このスパイ組織のために費やされていたことが分かる。

雑誌『キング』p.125下段 幻兵団の全貌 ソ連情報部に誓約

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 下段

私ハ、帰国後日本ノ完全民主化ト、世界平和ノタメニ、ポツダム宣言ノ完全履行および新憲法ノ完全施行ヲ監視スルト共ニ、新戦争放火ヲ企図スル米国ノコトニ関シ、ソ同盟側ノ質問、或ハ問題ニ対シテ、回答スルコトヲ誓イマス

之ハ私、本人ノ自由意志ニ依ルモノデアリ、決シテ強制サレタリシタモノデナイコトヲ、下記ノ名に於テ誓約イタシマス

ハ、〔ウォロシロフ〕

(ハバロフスクと全く同文)

ニ、〔エラブカ〕

誓約書
ソ連邦情報部(特務機関)ニ左記事項ヲ誓約スル
①家族、兄弟、親類、友人ヲ動員シテ命令を速カニ達スル
(②以下⑯まで不明、この中に、日本帰還後の生活保証の項もある)

この四例がⒷである。この誓約書からすれば、使命遂行は絶対日本国内でなければならず、しかも、Ⓐのごとくわずらわしい摘発などは命ぜられていない。

同時に偽名と合言葉が与えられているが、この誓約に続いて、写真撮影が行われていることが、いよいよ本格的なスパイ組織であることを

雑誌『キング』p.125中段 幻兵団の全貌 前職者と反動の摘発

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 中段

ホ、〔ライチハ〕

住所、氏名、部隊名
(前半恐怖のため記憶なし)
今日ノ訊問ハ日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟、妻子等ハモチロン、親類ノ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス

ヘ、〔アルマアタ〕

宣誓書
ソ連内務省ノ実施スル諜報業務ニ協力スルコトヲ宣誓スル

以上あげた六例は、文面に地区別の違いはあるけれども、いずれもⒶに属するもので、前職者と反動の摘発を目的としている。そして、報告書のために偽名を与えられているのもあるが、偽名もない者すらある。命令者、あるいは報告先としては、ソ連政府またはソ連内務省となっている。違約の際の罰目は、『法律』『刑法』『刑法第何條』となっているが、いずれも同じである。

ところが、Ⓑ種となると、これらとは全く違う。

B種

イ、〔バルナウル〕

誓約ノコト
私ハ赤軍ノタメニ米軍ノ情報ヲ提供スルコトヲ誓イマス
(以下、違約の際の條件などはⒶと同じ)

ロ、〔ハバロフスク〕

雑誌『キング』p.125上段 幻兵団の全貌 前職者を通報

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.125 上段

⑤労働ヲ忌避スル者
⑥天皇護持ヲ主張スル者
⑦憲兵、特務機関、警官ナドノ前職者
⑧ソ同盟の秘密ヲ諜報セントスル者

ハ、〔ハバロフスク〕

私ハ収容所内ニ左ノヨウナ者ヲ発見シタ場合ハ、直チニ密カニソ側当局ニ対シテ報告イタシマス

①憲兵、特務機関員、警察官
②逃亡ヲ計画スルモノ
③暴力団行為ヲナスモノ
④反ソ反共ノ言辞ヲナスモノ

右ヲ下記ノ偽名ニヨリ、通報スルコトヲ誓約イタシマス

ニ、〔ウォロシロフ〕

私ハ次ノ事ニツイテソ連政府ト協力シ、ソノ命令ヲ守リマス

①ソ連ノ政策ヲ破壊シヨウトスル者、元日本憲兵、巡査、特務機関等ニ勤務シタ者ガ、収容所内ニイタ場合ハ直チニ報告シマス
②コノ仕事ヲスルニ当ッテハ、コノコトヲ誰ニモ口外シマセン。モシ他人ニモラシタ場合ハ、ソ連ノ法律ニヨッテ処罰ヲウケルコト

右誓約シマス

雑誌『キング』p.124中段 幻兵団の全貌 誓約書を口述筆記

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.124 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.124 中段

多い。拳銃を黙って机上に置き(チェレムホーボ)、胸につきつけ(ウォロシロフ)、さらにひどいのになると、呼び出された部屋のドアを開け、一歩踏みこもうとした時に、ズドンと一発、拳銃弾が頭上をかすめて壁につき当たった(ライチハ)などというのがある。

また、俘虜たちの唯一の念願である帰国を交換条件としたものには、『内地では妻子が待っているのに、帰りたくありませんか』(ウォロシロフ)とか、『帰国は一番先にしてやるし、君のためによい事がある』(ハバロフスク)など、徹底しているのは『帰りたいか』(タイセット)とだけ、単刀直入にきいているなどをはじめとして、ほとんど各地区でいわれている。

銃口の脅迫、帰国の懸念、報酬の利得、この三種を見せびらかしながら、『内務省に協力しないか』『ソ連のために働きたくないか』といいはじめて、否とはいわせぬ雰囲気の中で、『いう通りに書け』と、誓約書を口述筆記させている。

3 誓約 誓約の内容は、ⒶとⒷとでは、ハッキリと違っている。また各地区ごとに多少文面の違いはあっても、ⒶはⒶの目的を、ⒷはⒷの目的を明示している。

ここにその数種を示そう。

A種

イ、〔チェレムホーボ〕

雑誌『キング』p.123中段 幻兵団の全貌 謎の少佐が面接

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.123 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.123 中段

各地区ごとに分かれて、地区内の収容所を廻っていたらしい。いずれも漢字がスラスラと読めるほど日本語に熟達している。だが、モスコウスキイ・マイヨールというだけで、知っていても教えてくれないのか、誰も少佐の名前を知らないのも妙である。もちろんNKで、まぼろしのごとく現れては、数日から一週間ほど滞在して、またまぼろしのごとく消える。

この謎の少佐が、収容所付思想係将校のあらかじめ準備した候補者と、個々面接しては、自身で直接取調べを行い、採用、不採用を決定していたのである。

引揚者の誰にきいても、このモスコウスキイ・マイヨールの話は肯定する。ところが面白いことには、一般収容所がマイヨール(少佐)であったのに、エラブカ将校収容所だけは、ポトボウコウニタ(中佐)であることだ。最も例外としては、このマイヨールがただ巡視だけして帰っている場合もある(奥地の収容所)し、D氏の場合の如く戦犯監獄には大佐がモスコウスキイ・ボウコウニタ(大佐)として、取調べに当たっていたということもある。

この少佐の取調べを、人事書類のカミシヤ(検査)とも称していたこともある。この少佐が、果たしてモスクワの少佐であるか、あるいはハバロフスクの極東軍情報部の少佐であるかは判明して

雑誌『キング』p.122中段 幻兵団の全貌 全ソ連地域で要員摘出

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 中段

収容所で、専属の思想係将校がおらず、しかもⒶ要員であった。

2 地区 アルチョムでは二十一年暮れにはじめられたらしいが、大体において、アルチョム、ウォロシロフなどの沿海州地区、チタ、イルクーツク、チェレムホーボなどの東部シベリア地区などで、二十二年上半期に大量に、まさに玉石混淆の状態で選考された。

この連中は結局主としてⒶ要員とされて、しかも、極反動も含んだため、この組織の暴露される原因ともなった。

これと並行して選考はされていたが、コムソモリスク、ハバロフスク方面、及びカラガンダ、ベゴワード、アルマアタ方面、バルナウル、ビイスク、ロフソフカ方面、カザン、エラブカ方面などでは、二十二年下半期において、粗製らん造をさけた厳選主義で、Ⓑ要員がえらばれていた。

もちろん、ここにあげた地名は、ごく大ざっぱな分類であって、全ソ連地域の各収容所で、この要員摘出は行われていた。ただ、二十二年上半期の玉石混淆の大量生産が、主としてⒶ要員となり、同年下半期の粒選りがⒷ要員となっていることは面白い。

3 基準 Ⓐ要員には、軍隊の人事関係者、民主グループ員、特殊(本部、炊事、理髪、縫

雑誌『キング』p.120上段 幻兵団の全貌 五人は氷山の一角

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 上段 三、組織の全貌
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 上段 三、組織の全貌

三、組織の全貌

ここにあげた五人の場合によって、死の脅迫と、帰国優先の利によって組織された、スパイ網の存在は、もはや疑うことのできない事実であることが明らかになったであろう。事件はようやく始まったばかりであり、今後の調査に影響があるため、仮名を用いたものもあるが、略歴を示した通り、いずれも都内に実在する人物である。

この五人の例は、ただ氷山の一角にすぎなく、何十人という人々の告白によって、〝幻〟の如くに思われたその実態も、次第に明瞭なものとなってきた。収容所の地区も、イルクーツク、バルナウル、エラブカと、東部シベリアから西部シベリア、さらに欧露と西漸するかと思えば、南下してカザック共和国のアルマアタ州に移り、さらに東に飛んでハバロフスク、ウォロシロフというように、全ソ連地区をおおっている。

また使命に関しても、A氏、B氏の如く在ソ

雑誌『キング』p.111上段 幻兵団の全貌 極東軍情報部将校

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 上段

シア語の勉強がしたいのです』

『宜しい、よく分かりました』

少佐は満足げにうなずいて、帰ってもよいといった。私が立ち上がってドアのところへきたとき、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼び止めた。

『パダジジー!(待て!)今夜、お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。いいか、分かったな!』

見知らぬ少佐が説明するように語をつぎ、

『今夜ここに呼ばれたことを誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、ここにきたことは決して話してはいけない』と教えてくれた。

こんなふうに含められたことは、はじめてであり、二人の少佐からうける感じで、私はただごとではないぞという予感がした。見知らぬ少佐のことを、歩哨はモスクワからきたんだといっていたが、私は心秘かにハバロフスクの極東軍情報部将校に違いないと思っていた。

それからひと月ほどして、私はペトロフ少佐のもとに再び呼び出された。当時〝日本新聞〟の指導で、やや消極的な〝友の会〟運動から、〝民主グループ〟という積極的な動きに変わりつつある時だった。ペトロフ少佐は、民主グループ運

雑誌『キング』p.104 幻兵団の全貌 収容所分布図 掲載紙

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 シベリア捕虜収容所地図 幻兵団関係記事一覧
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 シベリア捕虜収容所地図 幻兵団関係記事一覧

迎えにきたジープ p.108-109 キリコフ大尉が訊問

迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.
迎えにきたジープ p.108-109 At the Khabarovsk Bureau of the Soviet NKVD, Capt. Kirikov was asking the former Educational Director of the 731st Division of the Kanto Army, Surgeon Lieutenant Colonel Mori.

下りきらない熱に浮かされたような推理が、次々と勝村の疲れ切った頭を駈けめぐっていっ

た。

『ねずみ、ねずみだ!』

全く突然、勝村は大声で叫び出してしまった。あとは息が続かず低く口の中で呟いた。

『発疹チフスの次はペストに違いない……』

そのまま彼は再び昏睡してしまった。

チェレムホーボ収容所が発疹チフスの脅威にさらされていた、ちょうどそのころのこと。シベリヤ本線を東へ東へと、数千キロも離れたハバロフスクの街。内務省(エヌカー)ハバロフスク地方管理局という厳めしい建物の一室では、勤務員のキリコフ大尉が一人の日本人を訊問していた。

モスクワの東洋大学は日本語科出身の通訳官ゲリヤノフが、なめらかな日本語で通訳し、書記が記録する。もちろんキリコフ大尉も日本語は得意だったが、公式の場合だから宣誓署名した通訳官が立会うのだ。

日本人は元関東軍第七三一部隊教育部長、東軍医中佐だった。第七三一部隊というのは例の石井部隊である。

『部隊で行なわれていた実験について述べてもらいたい』

『一九四五年一月、私は安達駅の特設実験場に赴きました。ここで私は第二部長と本多研究員

の指導下に、ガス壞疽による感染実験が如何に行われていたかを見ました……』

そしてまた、それと同じころハルビンの旧陸軍第二病院の一室では、大谷小次郎元軍医少将の執刀のもとに、腺ペスト患者の生体解剖が行なわれていた。

大谷少将の背後には、青肩章の正服の上にペスト予防衣をつけた、秘密警察(エヌカーベーデー)の将校が二人立っている。それから数人のソ連人助手の中に女性が一人。

彼女は三十八度線以北の朝鮮を占領すると同時に、北鮮の首都となった平壌に秘密細菌試験所を開設した人だった。彼女はもとは裏海の中の一小島にあった、エフバトリヤ第二号実験所のメムバーだったが、クリミヤ半島のエフバトリヤ市に出張中、実験所の細菌学者たちが、自分たちの培養した腺ペストにかかって全滅し、一人厄逃れをしたという腺ペストの権威でもあった。

第二病院長だった大谷少将は、病院の研究室が石井部隊と関連を持っていたことから、このチェレグラワー女史の協力者となることを承知せざるを得なかった。実験台に上らされているのは日本人である。

勝村たちを襲った発疹チフスの猛威は、約二カ月余りの間に全員の九割五分を発病させて、文字通りの生地獄を現出したのである。

迎えにきたジープ p.162-163 復興計画ではなく破壊計画

迎えにきたジープ p.162-163 The problem is this Town Plan Unit. It sounds as if it was a reconstruction planning for a city destroyed by the war. But it was a "town plan" for setting targets for urban bombing. It is not a reconstruction plan, but a destruction plan.
迎えにきたジープ p.162-163 The problem is this Town Plan Unit. It sounds as if it was a reconstruction planning for a city destroyed by the war. But it was a “town plan” for setting targets for urban bombing. It is not a reconstruction plan, but a destruction plan.

問題はこのタウン・プラン班である。訳して都市計画班ときけば、戦災でメチャメチャになった都市の、復興計画であるかのように聞えるが、実はこの班の仕事は、のちになって分ったことであるが、都市爆撃のための目標設定の〝都市計画班〟であったのである。

復興計画ではなく、破壊計画なのである。日本人技術者の作業によって、ソ連各都市の見取図(航空写真と同じように平面図である)ができ上ると、米側はこんどはこれを立体化した。つまり完全にその街の模型を作りあげたのである。(この辺からの記述はあくまで私の推論であることを再びお断りしておく)

その街の中での爆撃目標が選定される。この街の模型は緯度経度、すべてが地図上と同じように位置が決められる。そして基地の位置から爆撃機の進入路が決められる。

何メートルの高度で、どの方向から、どんな角度で、何キロの速度で、どの方向へ進めば、レーダーにその爆撃目標はどう入ってくるか。これは極めて容易な計算である。

その街の立体模型——つまり目標付近の状況が眼の前にあるのだから、この計算は簡単である。こうしてA市の場合は、どことどこを爆撃する、A市のB工場の場合は進入路、高度その他一切のデータは幾つ幾つと決る。Cビルの場合はこれこれ。D橋はこれこれ。

すべての数字が決められてしまえば、あとは簡単である。どんなバカでもチョンでも、間違

いなく一度で任務が果せるのだ。一枚の地図を持って、そこに示された数字の通り、爆撃機を操縦してゆけばよい。そして計器をみつめて、爆弾投下の数字になったときに、ボタンを押せばよい。命中である。

無線操縦機、誘導弾、すべてこれである。本格的な〝押しボタン戦争〟である。尊い人命の危険は少なくなったのである。

約十一年前の十九年六月、日本陸軍の誇る「新司偵」が長駆ハバロフスク、イルクーツクなどの空中写真撮影を敢行し、これが進駐米軍首脳を感嘆させた。

そこで、米軍も領空侵犯を敢えてしても、ソ連領の写真撮影をやろうとしてきた。もちろんソ連もやっているであろう。これが二十七年十月七日のB29撃墜事件などをはじめとして、各地でしばしば起った米ソの局地空中戦の実態である。また二十八年一月十三日の『外国軍用機の日本領空侵犯に対しては有効適切な処置をとる』旨の日本政府声明のウラでもある。

だが、もはやこのタウン・プラン・マップは完全に整備されたに違いない。これらの地図は、一括保管されている。しかるべき戦略爆撃隊にもコピーが渡されている。

開戦! 司令部は『PQ一二三四』と、爆撃目標のタウン・プラン・マップの番号さえ基地へ命ずればよい。あとはこの発令時に目標への所要飛行時間をプラスすればよい。

迎えにきたジープ p.164-165 極東に十数発の原爆を保有

迎えにきたジープ p.164-165 Isn't the dozen cities for which the Town Plan map was not created the target of the atomic bomb attack? I guess that as many atomic bombs as those cities are stored in the "Far East".
迎えにきたジープ p.164-165 Isn’t the dozen cities for which the Town Plan map was not created the target of the atomic bomb attack? I guess that as many atomic bombs as those cities are stored in the “Far East”.

開戦! 司令部は『PQ一二三四』と、爆撃目標のタウン・プラン・マップの番号さえ基地へ命ずればよい。あとはこの発令時に目標への所要飛行時間をプラスすればよい。

『PQ一二三四、OK』と返事が来る。そこでこの番号の地図はもう不要である。計算と計器と押ボタン。これだけで戦争は終る。

では果してソ連の何都市がこのタウン・プラン・マップとなっただろうか。私の知識では在ソ日本人捕虜収容所数と、それらの都市の軍事的価値とから綜合判断すれば、最低百五十都市の地図が完成しているに違いないと思う。

ところが、ウラジオストックをはじめとして、コムソモリスク、チタ、ハバロフスクなどの大都市については、引揚者はあまり詳細に訊問されていないという事実がある。

このような地図を作るためには、それこそ一木一草にいたるまでも、その位置、高さなどが究明されなければならないのに、最も重要な目標であるこれらの都市の調査が、極めて大雑把だということは如何なることだろうか。

それは、これら重要都市のタウン・プラン・マップは作られなかったということであり、それはまた、個々の爆撃目標は必要なかったということである。

私の推断であるが、これらの都市は、大陸と樺太の各二市をも含めて十数市は間違いないところであると思う。タウン・プラン・マップのない〝全滅させられる〟都市、このことはアメリカは、極東に十数発の原爆を保有しているということになるのではあるまいか?

非常に廻りくどい表現を使ったが、結論すればタウン・プラン・マップのない十数都市は原爆攻撃都市で、その都市数だけの原爆が「極東」に貯蔵されていると私は推察している。

そしてこの貯蔵の仕方は、マップの符号、番号制と、押しボタン戦争の形態から判断して、航空機ごと(装着されて)貯蔵されているのではなかろうか?

ここでわれわれはさる三十年三月十四日、鳩山首相の外人記者団会見における「原爆貯蔵容認」説なるものを、再び想い起す必要がある。

鳩山首相は約四十分間にわたり外人記者団と会見した。その席上、首班指名、対ソ交渉、日韓国交調整などの問題について述べると同時に、

『アメリカが日本に原子爆弾を貯蔵するという問題であるが、現在は力による平和の維持ということが必要な状況であるから、認めざるをえないと思う』

と語り、その日の夕刊一面トップは『原爆貯蔵容認せん』という大見出しで飾られた。この談話はたちまち各界に反響を呼んで、大変な騒ぎとなってしまったのも当然だ。当時の新聞の見出しをひろってみると、『各界に波紋呼ばん、原爆貯蔵』(十四日付読売夕刊)、『原爆貯蔵には反対、左社鳩山言明取消し要求』(十五日付朝日夕刊)。

思わぬ反響に驚いた鳩山首相は十六日の記者会見で、

『原爆を日本においてくれという、アメリカからの話もなければ、またそうした切迫した状態に、日本が置かれているとも考えていないが、先の会見で仮定の議論として出たので、私の腹の中を言っただけだ。言いかえれば、必要のないのに答えたわけだ』(十六日付読売夕刊)と弁明した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 日本新聞が「木村檄文」を大々的に掲載

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.
赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.

夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ

ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

突然の急ぎの呼出しやら、静かながら騒然としたあたりの雰囲気に、大勢を察知していたらしいこの若い参謀は、すすめられたタバコの煙を吐き出すとともに、ただ一言呟いた。

『これで――第一巻は終った……』

確かにそうであった。第一巻はラストヴォロフ事件を最後のヤマとして終った。そして第二巻が、おだやかな〝平和〟という呼びかけで始ったのである。

三十年一月二十五日の鳩山・ドムニッツキー会談から出発した日ソ国交調整の動きは、すでに交渉地がニューヨークに決定していたかの如く思われていたが、意外にも四月四日ソ連側は東京を主張してきたのであった。

この一見変幻極まりないかの如きソ連の態度も、そのそもそものはじまりから仔細に観察するならば、決して故なしとはしないであろう。冒頭以来、しばしば述べてきたようにソ連の対日政策は常に一貫して流れているのである。そして、そのことを理解するためには、まずシベリヤ民主運動の経過と、その立役者たちのその後とを知らねばならない。

在ソ同胞と一口にいってしまえば簡単であるが、その組成は実に多種多様である。①日満両国の軍人軍属 ②日満両国政府職員 ③協和会員 ④国策会社員 ⑤開拓団員 ⑥一般居留民 ⑦樺太居住民 ⑧北鮮居住民など、その社会的、階級的出身層は十種類以上にも及んでいる。

ということは、つまり、完全に日本の社会の縮図でもあったということであろう。総数は二十四年十月一日付国連軍総司令部発表の数字によると、引揚対象基本数はソ連地区で百六十二万五百十六名である。

この百数十万余名の日本人が、一般俘虜と受刑者とに分れていたのである。受刑者というのは、いわゆるソ連刑法五十八条(反逆罪)による入ソ後の犯罪によったものと戦犯とがあった。

また入ソ後の一般犯罪によるものや、樺太における一般市民の受刑者などがあった。

シベリヤ民主運動はこれらの社会各層の出身者による一般俘虜百数十万名の間で発生し、十六地区(ハバロフスク)五分所、同十一分所の特別監獄における浅原正基氏(後述)らの「党史研究グループ」の例外を除いては、囚人である受刑者の間では全く行われなかった。

運動発生の端緒は二十一年夏ごろ、ハバロフスクにいた木村大尉という人の「木村檄文」だと信じられている。これを在ソ同胞の宣伝機関紙日本新聞が利用して大々的に掲載したのであった。これは直ちに反軍闘争、対将校階級闘争としてアジられ、日本新聞の「友の会」運動として組織された。併行して各収容所の文化グループの活動が指示された。

二十一年夏から二十二年にかけて全シベリヤ収容所には、この「友の会」運動が瞭原の火の

ように拡がっていった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 女は細川直知に五千円を差し出した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. "If you refuse the job request..." the woman said, and showed a small Colt pistol.
赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. “If you refuse the job request…” the woman said, and showed a small Colt pistol.

これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

一例をあげよう。第三軍中佐参謀だった細川直知元侯爵は二十五年一月エラブカ、ハバロフスク経由で引揚げてきた人である。氏はスパイ誓約書に署名をしなかったので、いわゆる幻兵団には入らないが、エラブカではクロイツェル女中尉にしばしば呼ばれ、また〝モスクワから来た中佐〟にも呼ばれていた。

帰国後のある日、同氏は、NYKビルに呼ばれて取調をうけた帰途、ブラブラ歩きで日比谷の三信ビルの角までやってきた。そこへ二十五才位、小柄で色白、可愛いい型の黒ずくめの服装の女が寄ってきた。彼女は歯切れのよい日本語で話しかけたので、日本人らしかったが、ともかく東洋人であることは間違いなかった。

『あなたはエラブカの細川中佐ですネ』

『そうです』

『一寸お話したいことがあるのですが、そこらまで付合って頂けませんでしようか』

『宜しいでしよう』

誓約をしなかった同氏は、もちろん合言葉も与えられなかったし、相手が割に美人でもあったので、何の懸念もなく気軽に応じた。二人は三信ビルの裏を廻って、日比谷映画劇場と有楽座の前にあった日東紅茶のサービスセンター(のちにCIE図書館となった)に入って一休みしながら話し合った。

彼女は品もあり、話し方も淑やかだった。

『私はあなたに仕事をお願いしたいのですが、如何でしようか』

といいながら、小型の女名刺を差し出した。それには「山田葦子」(特に仮名)とあった。細川氏は不審気に反問した。

『ヤブから棒に一体どんな仕事なのです』

『それはやって頂いているうちに分りますわ。もし、お願いできるんでしたら……』

彼女はそういいながら百円札を五十枚、五千円をソッと差出した。細川氏は意外な彼女の態度に驚きながら返事もできずにいると、彼女はキッと形を正して、低く鋭い声でいった。

『どうしても協力して頂けないのなら……』

彼女は終りまではいわずに、あとは黙って膝の上のハンドバッグを開けると細川氏にその中身を示した。

黒い小型のコルト拳銃が一丁、その持主の美しさにも似ず鈍く輝いていた。細川氏はうなずいた。彼女は納得して『では、次の連絡は私の方からとります』と告げて、その日の二人の出

会いは終った。