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雑誌『キング』p.113下段 幻兵団の全貌 モシ誓ヲ破ッタラ

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.113 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.113 下段

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『……』

『今日の日付、一九四七年二月八日…』

『私ハソヴエト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス。

(ここにもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。

モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』

不思議にペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮が退いてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要がないことに気付いて、誓約書の文句に分からぬうちにサインをさせられてしまったナ、などと考えたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒にピンで止め、大きな封筒に納めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ!』(命令!)

私は反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を

雑誌『キング』p.112下段 幻兵団の全貌 ハイ以外の答はない

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.112 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.112 下段

切って、ゆっくり発音すると、非常に厳粛感のこもるロシア語で、ふだんならば国名もエス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサユーズ・ソヴエスキイ・ソシァリチィチェスキイ・レピュブリイクと正式に呼んだ、その言葉の意味することを、本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

『ハ、ハイ』

『本当ですか』

『ハイ』

『約束できますか』

タッ、タッと息もつかせずたたみ込んでくるのだ。もはや『ハイ』以外の答はない。

『ハイ』

私は興奮のあまり、続けざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙もあたえずに、少佐は一枚の白紙をとりだした。

『宜しい。ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい』

——とうとう来るところまで来たんだ!

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシア語ですか?』

雑誌『キング』p.111下段 幻兵団の全貌 NKのブルーの軍帽

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.111 下段

った。ニセの呼び出し、地下潜行!

——何かがはじまるんだ!

吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走りぬけ、一気に司令部の玄関に駈けこんだ。廊下を右に折れて突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔つきで服装を正してからコツコツとノックした。

『モージノ』(宜しい)

重い大きなドアをあけて、ペーチカでほどよくあたためられた部屋に入った私は、何か鋭い空気を感じて、サッと曇ってしまった眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。ソ側からやかましく敬礼の励行を要望されていた関係もあって、左手は真っ直ぐのびてズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴の踵が、カッと鳴ったほど厳格な敬礼になっていた。

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服をきたペトロフ少佐が坐っていた。傍らには、みたことのない若いやせた少尉が一人。その前には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ピンと天井の張った厳めしいこの正帽は、NKだけがかぶれるものである。密閉された部屋の空気はピーンと緊張していて、わざわざ机の上においてある帽子の、眼にしみるような鮮やかな色までが、すでに生殺与奪の権を

雑誌『キング』p.110下段 幻兵団の全貌 身上調査

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.110 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.110 下段

具体化されたある計画(スパイ任命)に関して、私が呼び出された第一回目という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンに怒っているぞと、歩哨におどかされながら、収容所を出て司令部に出頭した。ところが行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで恰幅の良い見馴れぬNKの少佐が待っていた。

私はうながされてその少佐の前に腰を下ろした。少佐は驚くほど正確な日本語で私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら一生懸命に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々鋭い視線をそそぐ。

私はスラスラと正直に答えていった。やがて少佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト気がついてみると、それはこの春に提出した、ハバロフスクの〝日本新聞〟社編集者募集の応募書類だ。

『何故日本新聞で働きたいのですか』

少佐の日本語は丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持の良い日本語だった。少佐の浅黒い皮膚と黒い瞳はジョルジャ人らしい。

『第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二はロ

雑誌『キング』p.109下段 幻兵団の全貌 五人の場合

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.109 下段 二、五人の場合

二、五人の場合

雲をつかむような〝幻〟の調査はさらに続けられていった。やがて、現に内地に帰っているシベリア引揚者の中に、誰にも打ち明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされたと信じこんで、この日本の土の上で生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになってきた。そして、そういう悩みをもつ数人の人たちをやっと探しあてることができた。

彼らの中にはその内容をもらすことが直接死につらなると信じこみ、真っ向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあり、また進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの勇気をふるい起こさせるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

こうして約二年半、明るい幸福な生活にかげをさす〝暗さ〟におびえている人たちもあるのを知って、私はまずその〝暗さ〟——それは即

雑誌『キング』p.108下段 幻兵団の全貌 各収容所にスパイを

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.108 下段

『…各収容所にスパイを置きます。このスパイというのはソヴエト側の情報部の部長が、その収容所の政治部の部員に対しまして、お前のところに誰かいわゆる非常な親ソ分子がいないか、いたら二、三名だせ、といって出させます。…この男ならば絶対に信用できると、ソ連側が認め場合には、その者にスパイの命令を下します。

…そうしてスパイというのは、ほとんどスパイになっておる人は、非常に気持ちの小さい男で、ビクビク者が多いというので、民主グループを作る場合にはその人を使いません。

…こういう男を選んで、それに始終新聞社から行って連絡しまして、こういうことをやれ、その代わり後のことは心配するな、後で問題が起こった場合にはすぐ連絡する…』

私は興奮しきっていた。カーッと耳がほてっている。踊り上がらんばかりだった。見よ、鉄のカーテンは手荒く押しひろげられ、幻のヴェールは第一枚目をムシリとられた!

『ウン、ウン、これでイケる。ヨシ、書いてやるゾ』

委員会は深夜の十時まで続いたので、私は翌朝を待ちかねて部長に報告した。

『この証言をキッカケに書きましょう。小針証人が国会の保護を前提として、ハッキリと〝ス

雑誌『キング』p.107下段 幻兵団の全貌 新聞記者的なカン

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.107 下段

を行った。ある種というのは、ほとんどが大学高専卒の人間で、しかも原職が鉄道、通信関係や、商大、高商卒の英語関係者であった。

その三は、もはや二冬を経過して、ソ連にもちこんだ私物は、被服、貴重品類ともに、掠奪されるか、売りつくすかでスッカラカンになっていた。そんなわけで金(ルーブル紙幣)がないはずの人間が大金をもっている。あるいは潤沢にパン、煙草、菓子などを入手している。

その四は、ある時期からその人間の性格が一変して、ふさぎこんでくること。しかも、それらの連中は、何かともっともらしい理由のもとに、しばしば収容所司令部に呼び出された。そして、そののちにそのように変化するか、変わった後において呼び出されるようになるか、そのどちらかである。

このような一連の〝腑に落ちないこと〟をそのまま見逃すような私ではなかった。ソ連のスパイ政治——収容所内の密告者——前職者、反ソ分子の摘発——シベリア民主運動における〝日本新聞〟の指導方針——民主グループ員の活動——思想係の政治部NK将校——呼び出しとそれにからまる四つの疑問——収容所内のスパイ——ソ連のスパイ政治。これらのことがいずれも相関連して、私の新聞記者的なカンに響いてくるのだった。新聞記者は疑うことが第一

雑誌『キング』p.106下段 幻兵団の全貌 NKVD秘密警察

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.106 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.106 下段

恐怖のスパイ政治! ソ連大衆はこのことをただ教えこまれるように〝労働者と農民の祖国、温かい真の自由の与えられた搾取のない国〟と叫び〝人類の幸福と平和のシンボルの赤旗〟を振るのではあるが、しかし、言葉や動作ではなしに、〝狙われている〟恐怖を本能的に身体で知っている。彼らの身辺には、何時でも、何処でも、誰にでも、光っているスパイの眼と耳があることを知っている。

人が三人集まれば、猜疑と警戒である。さしさわりの多い政治問題や、それにつながる話題は自然に避けられて、絶対無難なわい談の花が咲く。だが、そんな消極的、逃避的態度では、自己保身はむずかしいのだ。三人の労働者のかたわらにNKVD(エヌ・カ・ベ・デ)=内務省の略、ゲペウの後身である秘密警察のこと。正規軍をもっており国内警備隊と称しているが、私服はあらゆる階層や職場に潜入している=の将校が近寄ってくる。

と、突然、今までのわい談をやめた一人が胸を叩いて叫ぶ『ヤー・コムミュニスト!』(俺は共産主義者だゾ!)と。それをみた二人はあわてる。黙っていたなら、日和見の反動にならからだ。ましてそこにはNKがいるではないか! すかさず次の男が親指を高くかざして応える、『オウ・スターリン・ハラショオ!』(おう、ス

雑誌『キング』p.105下段 幻兵団の全貌 幻のヴェール(発端)

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.105 下段 一、幻のヴェール(発端)
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.105 下段 一、幻のヴェール(発端)

     不明、〝幻兵団〟顛末記(夕刊)
註、日付上部の△印はトップ記事

一、幻のヴェール(発端)

西陽がさし込むため、窓には厚いカーテンがひかれて、豪華な四つのシャンデリヤには灯が入った。院内でも一番広い、ここ予算委員室には異様に興奮した空気がこもって、何か息苦しいほどだった。中央に一段高い委員長席、その両側に青ラシャのテーブルクロスがかかった委員席、委員長席と相対して証人席、その後方には何列にも傍聴席がしつらえられ、委員席後方の窓側には議員席、その反対側に新聞記者席が設けてあった。昭和二十四年五月十二日、参議院在外同胞引揚特別委員会が、吉村隊事件調書から引きずりだした、〝人民裁判〟究明の証人喚問第二日目のことであった。今日は昨日に引き続き、ナホトカの人民裁判によって同胞を逆送したといわれる津村氏ら民主グループ員と、逆送された人々の対決が行われ、また〝人民裁判〟と〝日本新聞〟とのつながりを証言すべき注目の人、元〝日本新聞〟編集長小針延二郎(三五)

雑誌『キング』p.104下段 幻兵団の全貌 関係記事一覧

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 下段 幻兵団関係記事一覧
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 下段 幻兵団関係記事一覧

△1・21 〝幻兵団〟第四報(談話)
 1・22 参院引揚委員長ら言明
 1・22 捕虜のスパイ事実(青森版)
 1・27 〝幻兵団〟参院議題に
△1・28 〝幻兵団〟第五報(舞鶴座談会)
△1・28 参院で法務府は調査中
△1・29 秋田で引揚者自殺
 1・30 編集手帖欄
 2・1 〝幻兵団〟に関係、参院で自殺者の説明
△2・10 阿部検事正遺族の怒り
△2・14 永田判事も犠牲

毎日

△1・31 シベリア幽囚白書(夕刊)
△2・1 かくて帰国は遅れた、闇に光る密告の眼
 2・2 宇野氏の反ばく
 2・3 同胞を食った(夕刊)

アカハタ

△1・14 反ソの幻ふりまく読売
     実在せぬ談話の主
 1・22 娯楽欄
△1・27 〝幻兵団〟のデマをつく
 1・28 〝幻兵団〟参院報告あてはずれ
△2・2 反ソデマをつく内山氏
△2・3 売名と金儲けから〝幻兵団〟の

雑誌『キング』p.103下段 幻兵団の全貌 アカハタの反ばく

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段

府特別審査局などの関係当局の政府委員を、参議院引揚特別委員会によび、説明を求めるにいたった。

これらの動きに対し、日本共産党機関紙『アカハタ』は、八回ほども連続して大きな紙面をさき、〝ブル新(ブルジョア新聞の略)の反ソデマ〟と反ばくした。こうして読売新聞がスクープした『ソ連抑留日本人のソ連スパイ組織』の問題は、国会にまで持ち込まれる重大問題化するとともに、商業新聞対機関紙の論争をまき起こしたのだった。

問題の焦点は、『ソ連に抑留された日本人が、ソ連の利益のために、在ソ間及び日本帰還後に、諜報行為を働く組織』が有るか、無いか、であって、〝幻兵団〟の有無ではない。読売新聞は、〝幻兵団〟というジャーナリスティックな呼び方をしているが、これはいわゆる〝幻兵団〟であって、〝幻兵団〟と名付けられた組織はないのである。

果たしてそれでは『ソ連スパイ網』があるかどうか。

私はここに『有り』と断言し、アカハタ紙の反ばくぶりを笑うものである。

私は読売新聞社会部記者として、二年半にわたる長期間の調査に、忍耐と努力とを傾けて、この恐るべき事実を握った。今ここに、一切の

雑誌『キング』p.102下段 幻兵団の全貌 はしがき

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 下段 はしがき
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 下段 はしがき

られない、ということ。その二は、報道された内容があまりにもドラマティックなので、もしそのような組織や事実が実在するとすれば、スパイの任命には厳選に厳選を重ねられ、秘密保持のためにより以上慎重な考慮が払われるのが当然であるから、新聞記者などにかぎつけられるはずがあり得ないし、ソ連としてはあんな馬鹿なやり方をするはずがない、ということである。

また一方では、読売新聞が一流紙である以上

雑誌『キング』p.24下段 シベリア抑留実記 むすび

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.24 下段 むすび (22・12・10記)
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.24 下段 むすび (22・12・10記)

生産を抹殺している現政権の下に、人類の平和と幸福のシンボルという赤旗を掲げながら…

しかし四十九種族から成り立つソ連人には、民族的な偏見がいささかも見られなかった。私達はソ軍将兵からは対捕虜的な言動を受けたことはあったが、一般人からはほとんどそんなことは感ぜられなかった。彼等は本当に心やすく付き合ってくれた。年寄りなどが作業場の付近を通りかかる時、煙草をくれたりすることもあったが、憐れみの情を示す施しではなく、本当に素朴な親しみをこめてくれた。忘れることのできないロシア農民の純真な姿である。

むすび

船にのった時、復員官が「現在の復員船の能力をもってすれば在ソ同胞の復員は三カ月で完了します」と話したが、なるほど船はずいぶん空いていた。十二月という真冬になって残った人達は来春の帰還を夢みては、「お母さん」と呼びながらあの寒さと必死になって闘っている。なぜソ連はさっさと還さないのだろうか。この調子でいったなら来年一杯でも終わらない。遅くなればなるほど犠牲の出ることは明らかなのだ。来年の夏までに全部が復員できるように、皆の小さな力を結び合わせて大きな力にしよう。(二二・一二・一〇記)

昭和22年12月10日記

雑誌『キング』p.23下段 シベリア抑留実記 シベリアで考えたこと

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.23 下段 シベリアで考えたこと ソ連国民生活の実情

傷したり、不慮の死を招いたりする。

優遇されたのは特技者であった。腕に職のある人——工員、理髪、大工、左官、仕立屋、靴屋などは、低いソ連技術者が相手なので皆自分の本業で楽に働いていた。

シベリアで考えたこと

ソ側思想係将校が各中隊へ壁新聞を作れといってきた。私が中隊の編集者にきめられたので、皆が筆者であり、皆が興味を持てなければと考え、「ものは付」を募集した。あのシベリアで中隊の皆は何を考えていただろうか。

一、「逢いたいものは」は、九割くらいがお母さんと呼び、わずかに妻子、父、兄妹だった。

二、「食べたいものは」は、一位から十位までが、餅類、お赤飯。餅も甘い餅で、量があって腹ごたえがあるからだったろう。

三、「したいものは」は、温泉とか釣りとかゆっくりした休養を求めていたが、親孝行も上位の方だった。

四、「みたいものは」は、故郷の山河、その後の内地、肉親の顔など、毎日毎日考えていたことばかりであった。

ソ連国民生活の実情

私達の列車がシベリアに入ってからの情景は、

雑誌『キング』p.22下段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.22 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.22 下段

て一週間分くらいで、どんなに倹約しても二週間しか保たず、給與される茶や石鹸、土中に埋めておいた被服類を地方人にやったり、自分のパンをやって喫わないものからもらったりしていた。

炊事は一般と病棟側と二つあり、ソ側の主計からこちらの主計が糧秣を受領調理したが、主食はほとんど高粱か粟で燕麦や豆だけのこともあり米をくれたこともあった。これを軟らかい粥に炊き食べるのだが、徹底的な偏食で高粱なら高粱ばかりであり、三食が朝は魚の炊きこみ、昼は魚、夜はスープと判で押したようにいつも同じであった。

穀類はほとんど満洲から持ってきたものであり、魚はおおむね樺太から運んだものだったが、中には昭和二年製の肥料鰊まであった。この他に黒パンが一日三百グラム前後、炭鉱作業者は七百グラム前後あり、去年の十一月以来は、毎日、甘くない甜菜糖ではあっ

雑誌『キング』p.21下段 シベリア抑留実記 収容所生活

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.21 下段

が一つあるいは二三集まって収容所をつくり、軍隊の組織そのままだった。兵舎は木造の半土窟建築で、窓から下は土中にあり、地上には盛土をして寒さを凌ぐものだ。入ソ当時はまだまったく何の設備もなく、不便きわまりないものだったが、定められた作業が終わってから整備に努力したので、私達の収容所はこの地区で一番大きな立派な収容所になった。

なによりも誇るのは完備した病棟で、観察、内科、外科と分かれ、それぞれ専門の軍医がおり、衛生下士官兵が勤務して、ソ側軍医の無智と頑迷と彼等の間の政治的影響とに迷惑はしたが、地区司令官の少佐すら盲腸になった時、ソ側病院に入らず日本軍医の執刀を求めて入院してくるなど、私達に大きな安心を与えてくれた。入浴場もできたが、ソ連式の行水風呂で、風呂桶のやや大きめなものに一杯か二杯の湯をもらって体を流すもので、体は温まらず、冬の寒い時などガタガタふるえながらどんなにか浴槽を懐かしく思っただろうか。

理髪室、縫製工場(仕立屋と靴屋)もあり、それぞれ職人が勤務していた。大工が兵舎を修繕し、左官が壁を塗り、一切の設備ができ上り、人間が生活し得る環境になったのが二十一年の秋であった。寝台といえば聞こえがよいが、お蚕棚式の二段装置に毛布一枚かぶるだけ、ペーチカ

雑誌『キング』p.20下段 シベリア抑留実記 最初の冬

雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段
雑誌『キング』昭和23年2月号 p.20 下段

れに風が吹き加わって体感温度は六十度にも七十度にも達しただろう。

防寒帽の垂れをしっかとおろし、鼻覆いをかけ、わずかに眼と口だけをのぞかせている。はく息は風をさけて細めた眼のまつ毛の一本一本を氷結させて見開くこともできない。覆いを外したらスーッと真白になって、夢中でこする鼻。厚い防寒大手套の中で握ったりひろげたりし、ちょっとでも曝したらもう温まってこない手。毛皮の防寒靴に二枚もフェルトを敷いても、足指を伸縮させながらの足踏みを止められない足。毛皮と真綿の外套にしみこみ、膝元からはい上る寒さは、ちょうど無数の針のように形のあるものではないかと思えた。

零下三十度を越えると屋外作業は中止という原則だったが、門を出かける時の寒暖計の示す三十度で、一度出たら何度に下がろうが八時間労