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迎えにきたジープ p.186-187 三橋の身柄までつけて国警に

迎えにきたジープ p186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.
迎えにきたジープ p.186-187 The US side notified the National Rural Police that a Siberia repatriator, Masao Mihashi(Mitsuhashi), was a spy. However, the National Police were looking into Tadao Mihashi by mistake.

すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。

何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力

で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。

日本の独立後は、CICとCISとは対内的防諜に専念し、対外的防諜は国警が担当、その全般的な情況を、強化されたCIAがみるような仕掛けになっていたらしい。

そのためCICは、二十六年末頃から、今までの業務と資料とを国警に譲り渡す準備を始めていたし、国警もまた外事警察確立のため、ソ連引揚者の調査などを始めようとしていた。事実十月頃から「幻兵団」容疑者六千名の名簿を作りつつあった。

そこへ、米国側からこの通告である。経験も知識もなく「幻兵団」を大人の紙芝居位にしか考えていなかった当時の国警東京都本部では、ソ連スパイならアクチヴ(積極的共産分子)だろうと思ってさがしてみると、いた、いた!

三橋忠男という元軍曹、埼玉県の男だ。マサオとタダオだから、米国側が間違えたのだろうと思って、この男のことを調べ出したが、全くの別人なのだから、何が何だか分らない。

何故通告があったというかといえば、国警都本部では遅くも十二月五日に復員局へ行って、ミハシ某なる引揚者を調べている事実がある。また、ローマ字でというのは、漢字ならば間違えない「正雄」と「忠男」なのに、三橋忠男の名を持って帰っているのである。

そうこうするうちに、米国側が予想した通り、鹿地問題の火の手が上ってきた。米国側としては、鹿地事件が表面化すれば米諜報機関の内幕も曝露されるだろうから、喧嘩両成敗で、ソ連側の「幻兵団」も曝露させてやろうと思っていただろう。

ところが待てど暮せど国警は三橋事件を発表しない。一体何をしているんだ、と問合せてみたら、ナンと国警ではピント外れの男を追っかけて首を捻っている。今更ながら呆れて、九日頃再度三橋の詳しい資料を揃え、しかも『身の危険を感じて自首』してきたという、三橋の身柄までつけて国警に渡してやった。

この時の様子を二十八年一月十八日付朝日新聞はこう伝えている。

三橋は講和後、米CIA(中央情報局)のM氏からの指令で二重スパイの役割を果していた。鹿地問題が世間に騒がれるようになってから、三橋はM氏と度々打合せを行ったといい、昨年十二月八日夜(発表の三日前)にはM氏の来訪をうけ、『鹿地問題がうるさくなったので、君には気の毒だが、日本の警察へ出頭してもらわねばならなくなった』といわれ、当座の生活費二万五千円を渡された。
翌九日午後、三橋はM氏の指令通り警視庁表玄関付近をブラついた。すると、M氏からの連絡で張り込み中の国警都本部員が「職務質問」の形で三橋を警視庁に連行、同夜は留置場に泊められた。

国警では、こうしてやっとのことで、ソ連スパイ三橋の取調べをはじめたが、彼は実に協力

的にスラスラと一切を自供に及んだ。

最後の事件記者 p.012-013 先客の一人が浅草のヨネさん

最後の事件記者 p.012-013 『あんた、何です?』 何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニャリとした。
最後の事件記者 p.012-013 『あんた、何です?』 何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニャリとした。

しかし、旅馴れた私は早くも担当サンの眼を盗んで、横になって午睡をたのしん

でいたところだった。

二十五日間も暮らしたが、誰もブタ箱などという者はいない。つまり、往時の、不潔極まりない房内から、ブタ箱という名が生れたのだろうが、出たり入ったり、また出たりのオ馴染みさんでさえ、留置場という。ブタ箱という名は、全くすたれたようだ。

それほどに、留置場は清潔であり、目隠し塀のついた水洗便所、消毒された毛布、白いゴハンと、設備、待遇ともに、犯罪容疑者の詰め所としては、立派であった。

それにしても、電話とは!

私はまだ、記者クラブにでもいるような、錯覚におちいった。呼びかけた男の顔をみて、留置場だナ、と思い返したほどである。大辻司郎と吉屋信子、この二人にフランキー堺を足したような顔のその男は、〝浅草のヨネさん〟といわれる、パン助置屋の主人であった。

管理売春という、売春防止法でも重たい罪の容疑で入っている男だったが、人柄は極めてよく、フランキーのような明るさと機智とを持っている男だった。

私がこの房に転房してきた時、先客が二人いた。カタギの私は、この別世界の礼儀作法を良くは知らなかったが、普通の人間社会の礼儀を準用すれば間違いはないと考えた。

『どうかよろしくお願いします』

私は頭を下げた。両手をつくほどの必要はあるまいと思ったので、小腰をかがめただけだ った。「十一房、ロの二六五番」というのが、私の認識票で、それが書きこまれた、小さな 木札を入口の表札差しに、差しこんでおくのだ。

『……』

先客二人も、軽くうなずく。私はその房では新入りなので、一番奥の、一番下座である便所のそばに腰を下した。

二人の世界が、彼らの意志とかかわりなく、三人になったのだから、この第十一房という、 小さな社会の構成要件が変ったことになる。つまり、革命だ。新しい社会秩序を確立しなければ、誰もが落ちつけない。

それには、この新入りの階級的出身と、社会的序列とを知る必要がある。旧支配階級が声をかけた。

『あんた、何です?』

何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニャリとした。この質問を待っていたからであ る。

最後の事件記者 p.014-015 安藤からの電話

最後の事件記者 p.014-015 新米記者さながらに、安藤親分のいると覚しきあたりに向って、小さな声で答えた。『ハイ、三田です』『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』
最後の事件記者 p.014-015 新米記者さながらに、安藤親分のいると覚しきあたりに向って、小さな声で答えた。『ハイ、三田です』『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』

留置場でも、生活の智恵は必要である。〝小さな喫茶店で、タダ黙って〟と、恋人と二人きりでいるようなワケには参らんのだった。

『ウン……(ちょっと口籠って、どう説明したら判ってもらえるのかな、といったようなハッタリをつけて)。つまり、難しくいえば犯人隠避といって……。』

『ああ、読売新聞のダンナですね』

ヨネさんは、私の思惑を裏切って、ズバリといい切った。

『エエ、ソウ』

私は驚くと同時に、極めて不器用な返事をしてしまった。

『新聞記者でもパクられるのかねエ』

彼は感にたえたようにいう。もう、ずっと以前から私のことを知っていたような、親し気な調子だ。ヨネさんは、このように情報通であった。そして、その情報が、どうして集まるのかという、ナゾを解いてくれたのが、この電話だったのである。

安藤からの電話

『安藤サン、安藤サン、ただ今、三田さんが出ますから、しばらくお待ち下さい。』

ヨネさんは、留置場の外側の金網にヘバリつくと、看守の巡回通路の壁に向って、無線電話の通話調で話しかけた。呆ッ気にとられている私を促すと、チラリと内側の金網に視腺を駆って、中央見張り台にいる看守の動静をうかがう。

扇形に看房が並んでいる留置場は、カナメにあたる部分に、潜水艦の司令塔のような見張り台がある。ここに看守が一人坐ると、一、二階とも全部で二十八の看房が、少しの死角もなく見通せるのである。

その他に数人、収容者の出入を扱う看守がおり、彼らは手が空いていれば、動哨する。

『オレガシキテンをキッてる(見張りしている)から、あの便器にまたがって、用便と見せかせて、話をするんだヨ』

電話のかけ方から教わるのである。新米記者さながらに、私は教えられた通りにして、安藤親分のいると覚しきあたりに向って、小さな声で答えた。

『ハイ、三田です』

『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』

最後の事件記者 p.016-017 『オイ、読売!』顔に傷のある青年がいた。

最後の事件記者 p.016-017 親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。
最後の事件記者 p.016-017 親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。

『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』

『エエ、大丈夫です』

私が留置場へ入った翌朝、洗面の時にどこからか声がかかった。洗面は、例の見張り台の下のグルリに、水道栓がついて、流しになっているのである。

『オイ、読売! 身体は大丈夫か!』

『話をするンじゃない!』

見張り台、つまり洗面中の真上から、叱責の声がとんできた。咋夜、二階の二十二房というのに、はじめて熟睡した私だったが、まだ場馴れないのと、留置場内の地理に明るくないので、その声が私を呼んでいることは判ったが、何処からなのか、誰からなのか、見当もつかないのである。

それに、メガネを取り上げられているのだから、キョロキョロ見廻したが、金網ごしの相手の顔など、判りやしない。

その翌日かに、朝の運動の時間、また私に声をかけた、顔に傷のある青年がいた。

『オイ、読売!』

はじめて留置場に入る時、私の身体捜検をしてくれた巡査部長の看守が、私の身分を知ってか

ら、親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。

つまり、相手の家庭状況や住所を聞いて、先に出所すると、留守宅へ行ってサギなどを働くというのである。私は彼の注意を思い出して、あいまいに返事もしなかった。何しろ、知らない男だからだ。しかし、私の顔は「オイ、読売」という呼びかけに、明らかにうなずいていた。

『あなたは、読売の記者でしょう?』

相手の言葉が叮寧になったので、私はうなずいた。しかし、その日は、それで終り。何しろ、スレ違いのさい、看守が制止する中での会話だ。

『今朝、運動の時、オレに声をかけた奴がいるンだけど、この前の洗面の時の奴と同じらしいよ。顔に傷があるンだけど、誰だい』

『何だい? オメエ知らねェのかい?』

調べの合間に、石村主任にきくと、彼は意外だという表情できき返した。

『ハハン、安藤かい?』

それで判った。房内には、顔に傷のある男が多いし、同一事件のホシは各署の留置場へ分散す

るのが通例だから、まさか安藤とは思わなかった。

最後の事件記者 p.020-021 石村主任は無関心を装って言った。

最後の事件記者 p.020-021 文春が九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、知っていた。

断線した電話は、即座に復旧した。このように自由を拘束された留置場の生活では、案外に相互扶助の義務感が強いようである。電話が開通すると、はじめの中継者の十房は、すぐ離れてゴロリと横になったようだ。外側の壁に向って、九房の位置を考える。入射角と反射角は同じなのだから、ワン・クッションで、声が通る。九と十一なら、顔が見えないだけで、ヒソヒソ話が十分に通ずる。

『それで、〆切は何時だって?』

『二十日までに書いてくれッて。どうせ弁護士への口述になるんだけどネ』

『フーン。紙と鉛筆位、調ぺ室でくれないのかい?』

『ウン。……それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ』

『担当!』

また断線である。私は金網をはなれると、ウスベリの上に寝ころがった。

我が事敗れたり

静かに考えてみる。文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。

文春が八月はじめに出した九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、「大不平小不平」という、新聞批判の欄では、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、読ませてこそくれなかったが、調べ官の木村警部が、得意そうに鼻をウゴメかして、私にパラパラと見せてくれたので、すでに知っていた。

私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取リ扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。

『ナーニ、毎日か何かが書いていたッけよ。それもあまり大きくなくサ。そのほかは、何か小さな新聞が、二、三取り上げていたらしいよ』

石村さん、ありがとう。私は心の中で感謝しながら、「何だい、そんなこと、かくさなくたっていいじゃないか」と、いった。彼の態度から、私の逮捕の各社の記事は、決して私に好意的ではなく、しかも、全部の社が、割に大きく書いているのだナ、と感じた。それを、この主任は、私に打撃を与えると思ったのか、私が可哀想だったのか、心優しいウソをついてくれたのだと、判断したのだ。

最後の事件記者 p.022-023 「我が事敗れたり」と覚った。

最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。
最後の事件記者 p.022-023 読売旭川市局発の原稿がきている。外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。

 横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少しく説明しておかねばなるまい。

 日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。

 彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川市局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。

「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。

当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。

この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。

小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ屈出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。

その口から、私の名前が出てくるのは、月躍日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。

辞職を決める

すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。

最後の事件記者 p.026-027 文春に私の立場を書こう

最後の事件記者 p.026-027 逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。
最後の事件記者 p.026-027 逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

社へ行って後始末をしていると、辞表は受理されることになり、明朝の重役会を経て発令されるという。警視庁も、それを待って、二十二日正午に出頭しろといってきた。これですべては決ったのだった。私は当然の別れになる、銀座の街を歩いて帰宅した。

文春記事のいきさつ

その結果の、私の逮捕記事であった。どのように真実を伝えたか、どうかは別項にゆずって、私は厳しい批判を受けていることを、留置場の中で知ったのである。

私が編集者ならば、やはり同じように安藤の手記をとろうとするに違いない。文春は発行部数、数十万という大雑誌だ。ケチな新聞よりは読まれている。その雑誌が、九月号に引続き、九月上旬発売の十月号でも、安藤組を取りあげようとしている。

逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それに着眼して弁護士を通じて、手記を取ろうとする編集者に感服すると同時に、それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

——そうだ。文春に私の立場を書こう。

私はそう考えると、差入れに通ってくる妻への伝言を頼んだ。接見禁止処分だから、会うことは許されない。

文春の編集部には、何人かの知人がいる。私が手記を害きたいという意志を伝えておいて、それが採用されるならば、あとは〆切日ギリギリまでに、保釈で出ればよいのだ。私は調べ官に、妻に〆切日を聞かせてほしい、と頼んだ。

〆切日は、安藤の手記が二十日だというから、二十五日ごろと考えた。妻の返事によるとやはりそうだった。私は房内ですでに想を練りはじめた。新聞ジャーナリズムが、私に機会を与えないならば、雑誌ジャーナリズムによるのが一番だ。

新聞は長い間、マスコミの王座に君臨し、いわば永久政権として安逸をむさぼってきたのである。これに対し、雑誌をはじめ、ラジオ・テレビと、他のマスコミが、その王座をおぴやかしはじめている。いろいろの雑誌に新聞批判の頁が設けられていることが、それを物語っているではないか。

私は安藤の相談に対して、「ただ申訳ないと、謝らなければいけないよ。そして、横井が悪い奴ならば、その悪党ぶりをバラしてやれよ」と、答えておいた。

最後の事件記者 p.292-293 あとがき

そこで、私は新しい商売を考えついた。 マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。
最後の事件記者 p.292-293 あとがき そこで、私は新しい商売を考えついた。マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。

あとがき

私が警視庁の留置場に入っている間に、妻が婦人公論の増刊「人生読本」というのに、「事件記者の妻の嘆き」という手記を書いた。発売になって読んでみると、なかなかうまいことを書いている。

門前の小僧かといって笑ったが、読売の連中にいわせると、妻の方がペンでメシが食えるのじゃないか、と、評判がいい。

「生れかわったら、新聞記者の女房になるのはやめなさいよ、などとおっしゃいますが、まったく因果な商売ではないでしょうか。三十七歳にもなった、記者生活しか知らない人間に残されたのは、やっぱりジャーナリズムでの仕事しかないと思います。家族ぐるみ事件にふりまわされるともいえる、この記者生活が、やっぱり夫の生きてゆく最良の道であるならば、新聞記

者生活に希望のもてない私も、今後、夫のよき理解者、支持者として夫を助けてゆかねばならないでしょう」

私がサッと辞表を出すと、そのやめッぷりがよかったので、安藤組の顧問にでもなるのだろうと、下品にカンぐられたものだ。もっとも、護国青年隊の隊長にも、「ウチの顧問になって下さい。月給は読売以上に出しますから」と頼まれたほどだから、そう思われるのも無理ないかもしれない。

だが、サラリーマンをやめてみて感じたことは、広そうにみえながら、新聞記者の世界の視野のせまいのに、今更のように驚いた。身体のあく時間が、世の常の人と食い違っているから、結局自分たち仲間うちばかりで飲んだり騒いだりで、社の人事問題以外に興味がなくなり、ネタミ、ソネミばかりになるのだろう。

記者でありながら、見出しをサッと眺めるだけで、新聞を読まない日がずいぶんあったことを覚えてるし、新聞を読まない記者のいることも知っている。各

紙をサッとみて、自分の担当部署で抜かれたり、落したりしていなければ、もうその新聞は御用済みだ。

今度、同じマス・コミでも、雑誌や出版の人、ラジオ・テレビの人、映画の人たちに、会ったり、話したりする機会に、多く恵まれたけれど、その中では記者の世界が、一番せまいようだ。

新聞を良くよんだり、本屋をひやかしたり、映画や芝居をみたり、そして、ものを考えたりする時間の少ない記者だから、そうなんだなと感じた。そこで、私は新しい商売を考えついた。

マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。作家にはネタを提供したり、映画の原作をみつけたり、テレビ・ドラマを監修したり、新しい法律のPR計画をたてたり……といった商売が、もうそろそろ、日本でも成立つのではないだろうか、と考えている。

新聞記者は失格したけれども、暴力団の顧問になる

よりは、面白いだろうと思っている。資本家はいませんかナ。暴力団といえば、留置場で、安藤親分に〝特別インタヴュー〟したところによると、逗子潜伏中に、三千万くれるという申し出をした資本家がいるそうだ。横井事件の真相も、詳しく調べて、近く書きたいと思う。

この本につづいて、ルポルタージュ「留置場」という本を、新春には出す予定。さらにこの本であちこちに、チョイチョイとふれた〝新聞内面の問題〟——新聞はどのように真実を伝えているだろうか? を、「新聞記者の自己批判」として、まとめてみたい。

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

p54上 わが名は「悪徳記者」 グレン隊の一味

p54上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

無職の一市民として、逮捕、警察の調べ、検事の調べ、拘禁された留置場の生活、手錠、曳縄――、いわゆる被疑者と被告人との経験を持ったということは、私が新聞記者であっただけに、又と得難い貴重な教訓であった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。私の、長い記者生活は、それこそ何千本かの記事を紙面に出しているのであるが、私の記事の中に、あのような記事があったのではないか、ということである。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。一人の男が相手の男を拳銃で射殺せんとした――殺人事件である。だが、これが戦争という背景をもち、戦闘という時の経過の中で、敵と味方という立場であれば、話は別である。しかし、その〝射殺〟という事実には間違いはない。背景と時の経過と、立場なしに取上げられたのが、私の「犯人隠避」であった。その限りでは、私に関する報道には間違いがなかったのである。ところが、それに捜査当局の主観がプラスされてくると、もはや事実ではなくなってくるのである。

新宿慕情112-113 留置場という〝仮の宿〟

新宿慕情112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。
新宿慕情112-113 こうした拘禁状態の中で、セックスが、どういう形で出てくるかが、私の興味の中心だったけど、これが、まったく、期待外れであった。

新宿慕情120-121 オカマを見せてよ

新宿慕情120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。
新宿慕情120-121 そのころの上野。それは、ノガミと陰語でいうのがふさわしいような町だった。~街角には、パンパン、オカマが、道行く人の袖を引いていた。

新宿慕情132-133 現在は、男性でも女性でもない…

新宿慕情132-133 逮捕された時は、刑事たちは、女性だと思い、留置も、女性房に入れた。だが、彼女は、「男だから、男性房に入れろ」と、ワメクのだ。
新宿慕情132-133 逮捕された時は、刑事たちは、女性だと思い、留置も、女性房に入れた。だが、彼女は、「男だから、男性房に入れろ」と、ワメクのだ。