黒幕・政商たち
たちあがる〝事件記者〟
三田和夫
黒幕・政商たち
たちあがる〝事件記者〟
三田和夫
暴かれた政・財・官界の著名人たちの仮面!
マイ・ホームの夢を喰う、住宅公団汚職。大銀行を舞台の取り屋の暗躍。国民の血税を吸って太る企業。——これらのマスコミでは報道されない色と欲の裏街道で、陰の主役たちは、何をもくろみ、何をしているのだろうか? 高級官僚群と政、財界人たちとの驚くべきつながりを、事実に即して描く異色のリポートである。
本書に実名で登場する著名人は600余名にのぼるが、なかでも佐藤栄作、川島正次郎、田中角栄、中曽根康弘の各氏や、児玉誉士夫、稲川角二、植村甲午郎、足立正、藤井丙午、水野成夫など、日本を動かす実力者たちの素顔が巧まずして描き出される。
文華ビジネス
黒幕・政商たち
――たちあがる事件記者――
三田和夫
まえがき
昭和三十年の夏、当時、読売新聞社会部の外事・公安担当記者であった私は、戦後十年の裏面史として、貯めこんだ取材メモを材料に、「東京コンフィデンシャル・シリーズ」という、二冊の著書をまとめた。
四部作の予定が、二冊に終わったのだが『迎えにきたジープ』『赤い広場—霞ヶ関』という、既刊のその本のあとがきに、
「真実を伝えるということは難しい。…しかし、真実の追及という、この著での私の根本的な執筆態度は認めて頂きたい。
真実を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。…私も本音を吐くならば、この著を公にすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。だから、何も今更波風を立てなくとも、といった卑怯な妥協も頭に浮かんでくる。しかし、『真実を伝える』ということのため、私は勇気を奮って、関係者の名前を実名で登場させたのである」
と、書いた。
その当時から、また十余年——。
戦後史。この激動の二十年をまとめるべき時がきているようである。そして私は、読売を退社してフリーになるという、身辺上の変化はあったけれども、相変わらずペンを握って、〝現代史の目撃者〟たることをつづけてきた。
「報道・言論の自由」は、国民の「知る権利」の代理行使として、その「自由」の意義があるのである。
戦後二十年とはいえないが、ここ数年の間に現象化してきた、あの事件、この事件。それらの事件の本質を見極めるには、少なくとも、マッカーサーがコーン・パイプ片手に、厚木飛行場に降り立った時点からの、ひそやかな底流に、眼を注がねばならない。
私たちは、ともすれば、事件という現象の動きに、流れに、そして華やかさに、眼を奪われて、その本質を、見誤る恐れがある。この〝眼を奪う〟ものが、マスコミの伝える「虚像」である。虚像に狎れて、真実を見失うのである。しかし、しっかりと真実を踏まえて、虚像に酔おうというのならば、それもまた可なり、である。
戦後の一連の汚職事件、昭電、造船にはじまり、最近の日通にいたるまで、そしてまた佐藤三選のカゲの動きなど、やはり〝底流〟に眼をそそがねばならない。
表紙
迎えにきたジープ
―奪われた平和―
三田和夫 著
TOKYO CONFIDENTIAL SERIES
20世紀社
・東京秘密情報シリーズ・
迎えにきたジープ
―奪われた平和―
三田和夫 著
20世紀社
亡き父に捧ぐ
目次
悲しき独立国民
黙って死んだ日本人
佐々木大尉とキスレンコ中佐
還らざる父
キング・オブ・マイズル
関東軍特機全滅せり
ウイロビー少将の顧問団
天皇島に上陸した「幻兵団」
パチンコのテイラー
秘密戦の宣戦布告
見えざる影におののく七万人
参院引揚委の証言台
私こそスパイなのだ
吹雪の夜の秘密
読売の「幻兵団」キャンペイン
ソ連的〝間抜け〟
細菌研究所を探れ
招かれざるハレモノ客
七変化の〝狸穴〟御殿
三つの工作段階
ヤミルーブルを漁る大阪商社
街に流れ出したソ連色
東京細菌戦始末記
作られない捕虜名簿の秘密
マイヨール・キリコフの着任
帰ってきたダンサーたち
バイラス病原菌の培養成功
朝鮮戦線に発生した奇病
アメリカは日本に原爆を貯蔵?
国際犯罪の教官、情報ギャング
ウソ発見機の密室
押しボタン戦争の原爆投下
迎えにきたジープ
怪自動車の正体
新版〝ハダカの王様〟
せせり出てきた敵役
三橋と消えた八人
スパイ人と日本人
付、事件日誌
あとがき
献呈本を返してもらうまでは、この破損本だけしか三田和夫の手許になかったようだ。
悲しき独立国民
一 默って死んだ日本人
鹿地・三橋スパイ事件が騒がれていた、昭和二十七年暮のある日のこと。私は三橋自供にレポとして名前の浮んできた佐々木克己氏の遺族を訪ねていた――
清子未亡人はツト顔をあげた。品の良い、まだお嬢さんらしいあどけなさの残っている頬に涙の跡が乾いている。耳のあたりから口許へと引かれた、深い深い苦悩のかげがいたましい。力強い高い言葉がこみあげてきたが、それが唇をついて出るころには、永年のたしなみがそうさせるのであろうか、叫びにはならないで低い呟きとなって訴える。
『誰が、誰が、この貧しくとも愉しい家庭から、幸福と平和とを奪ったのです! そうです、形は自殺でした。用意周到な覚悟の自殺でした。では、何故、佐々木は死なねばならなかったのです。妻と二人の子供とを残して……
佐々木は殺されたのです。そうですとも、殺されたのです。私も、子供たちも、そう信じています! 誰かが殺したのです!』
清子未亡人は両肩をふるわしたまま、唇を噛みしめて、ついにその〝犯人〟の名を明かそうとはしない。
敗戦五年、勝利か死かと戦った我々、昭和二十年の八月に一生は終ったのだった。
然しお前や子供への愛にひかされて、煩悶しながらも生きてきた。敗戦将校の気持は複雑で深刻だ。
夫としての、親としての責任、愛。そうして五年すぎた。
だけど内訌五年、もう駄目だ。生きる自信も気力もない。
とても良い夫にもおやぢにもなれない。お前には済まない。永い年月、よくしてくれた。
それなのに、十余年苦労のかけ通し、そして最後には、この生きにくい世の中に子供を託してゆく。断腸だ。
辛いだろう。肩身もせまいだろう。だけど許してくれ。子供をたのむ。
おばあちゃん。うちで一番心の痛手と重荷を背負っているおばあちゃんへ、またこの上に何とも済みません。
憎んで下さい。だけど、清子と子供二人はどうかお願いします。
迪孝さん、秀ちゃん、可哀そうな清子と子供たち、お願いします。
清子、幸夫、みき子。
お父さんはだめだ。みなは新しい日本の人だ。苦しかろうが、幸福に、長生きして下さい
みんなで。
おばあちゃん。秀ちゃん、血の連った人達仲良くね。
残す資産も何もなく、ほんとうに済まない、清子!
僕はつまらぬ男だ。だけど、お前を愛していた。
浮世だ、お前だけはしっかりしてくれ。
清子未亡人の手に確りと握りしめられた数枚のノオトの切れ端し。今は亡き夫、元陸軍大佐大本営報道部高級部員佐々木克己氏の遺書である。
昭和二十五年十一月十九日朝、佐々木元大佐は、最後に妻の名を叫びながら、自ら命を絶って果てた。
簡単な遺書である。短かい言葉の行間にあふれた、無限の苦悩と無量の感慨とを汲みとるため、この遺書を、もう一度静かに読み返してみよう。
原子スパイ事件、ローゼンバーグ夫妻の「愛は死を越えて」、ゾルゲ事件、尾崎秀実の「愛情は降る星の如く」と、三人のスパイたちの遺書は、多くの人に読まれ感動の涙を誘った。
だが、この三人の悲しい運命は、いわば自らえらんだ運命であった。何を今更、妻を想い、子を求めて、己れの魂をかきむしらねばならないのだろう。〝意識したスパイ〟でさえも、このような人間的なあまりにも人間的な、弱さに身悶えするのである。
この遺書の主、佐々木克己の場合はどうだろうか。官職一切を失いながらも、平和になった日本で、親子四人が幸福に暮していたのである。彼が果してスパイであったかどうかは、私には断定できない。だが、スパイであったとしても、彼は〝強制されたスパイ〟であったということは明らかである。
〝意識したスパイ〟が、電気椅子や絞首台を前にして号泣するとき、〝強制されたスパイ〟は黙ったまま死んでいった!
私は清子未亡人をジッとみつめた。だが、彼女はまだ下唇を噛みしめている。佐々木元大佐を殺した〝犯人〟の名前が、いま、喉元まで出てきているのだ。
……だが、彼女はいわない。遺書にも書いてない。誰が、この妻と、二人の子供の、平和と幸福を奪ったのか!
二人の遺児、幸夫君とみき子ちゃんとが大人になったとき、二人は父の死の本当の意味を知りたいと願うに違いない。そして、この二人に代表される全日本人は、同時に自分自身のものである佐々木克己の辿った運命を直視しなければならない。
二 佐々木大尉とキスレンコ中佐
ここは雪と氷に閉ざされた北海道の、札幌は砲兵第七連隊の営庭。彼にまつわる〝因果はめぐる小車〟の物語は、こうして昭和初年にさかのぼるのであった。
今しも演習を終えて帰営した佐々木中隊は解散の隊形に整列した。兵も馬も砲も、降りしきる雪におおわれて真白である。
『講評ッ! 本日の演習は積雪と寒気とにも拘わらず、諸子の行動は常に積極果敢、よく所期の目的を納め得た。中隊長として極めて満足である』
馬は白い長い息を吐き、馬具がカチャカチャと鳴る。兵隊たちの顔は上気して赤い。
『……兵器と馬の手入を十分にせいッ。御苦労であった。解散ーン!』
『中隊長殿に敬礼ッ! 頭アー中ッ!』
第一小隊長の指揮刀が馬の耳をかすめて一閃するや、兵隊たちはキッとなって頼もし気に自分たちの中隊長、陸士出身でまだ若いが、陸大の入試準備を始めていると噂されている佐々木克己大尉をみつめた。
第一小隊長の指揮刀が馬の耳をかすめて一閃するや、兵隊たちはキッとなって頼もし気に自分たちの中隊長、陸士出身でまだ若いが、陸大の入試準備を始めていると噂されている佐々木克己大尉をみつめた。
『ウム』満足気に部下の眼を一わたり見渡して答礼した佐々木大尉は、刀を鞘に納めるや手綱をしぼって傍らの男を顧みた。
『ヌゥ・カーク?(如何?)キスレンコ中佐!』
『オウ・ハラショウ!(素晴らしい)』
スキー帽のような廂のない毛皮の帽子に赤い星の徽章、小田原提灯のような黒の長靴、ソ連赤軍の制服を着た男が、軽く拍車をあてて佐々木大尉に馬首を揃えてきた。
日ソ交換将校として赴任してきたキスレンコ中佐は、この札幌砲兵第七連隊に配属されていたが、今日は佐々木中隊長の演習を見学に同行したのだった。
『日本兵もなかなか耐寒力がありますね』
『そうですとも。大分前には耐寒演習で大きな犠牲を払ったこともあるのですよ。そしてあんな軍歌も生れました』
解散した兵たちが、砲車を武器庫に納めながら「雪の八甲田山」を口ずさんでいた。
『だが、シベリヤの酷寒に鍛えられた赤軍は、もっと強いですよ』
キスレンコ中佐の冗談に二人は声を揃えて笑った。佐々木大尉は流暢なロシヤ語を話したので、中佐は大尉にことに好意をみせていた。日露戦争以来たがいに仮想敵国となっている日ソの現役将校である。二人はいつ戦場で相見えることになるかも知れないと、心の奧底では考えながらも、起居を共にして親しい交りを結んでいった。
このキスレンコ中佐こそ、後の対日理事会ソ連首席代表キスレンコ中将その人であり、この佐々木大尉こそ、後の佐々木大佐その人であったのである。
童話「イワンの馬鹿」にみられる通り、ロシヤ人こそもっとも人の良い人種である。そのロシヤ人も〝ソ連人〟となって、暗いかげをかむった。もはやソ連に〝イワン〟はいない。
佐々木大尉の父中佐は、大尉が三才の時に、日露戦役で戦死した。母は続いて八才の時になくなった。孤児となった彼は白川大将の庇護を受けながら、祖母の手で成人した。
父の志をついで幼年学校、士官学校と上位を通して進んできた大尉は、それこそ資性剛直、情誼に深く、部下を愛し、しかも頭脳明晰という、典型的な軍人だった。彼の軍人としての前途は明るく、同期生たちからも深く敬愛されていた。
やがて、陸大を上位で卒業した彼は、国際連盟代表としてパリに駐在していた谷寿夫中将に見込まれ、その長女を妻に迎え、モスクワ駐在武官補佐官として、得意なロシヤ語の能力を発揮できる任地へ出発した。そこは北海道で親交を深めたキスレンコ中佐の祖国である。
その後勃発した独ソ戦! 戦乱の渦中から逃れて帰国した佐々木中佐は大佐に進級して、大本営報道部付となった。
岳父谷中将は予備役となっていたが、太平洋戦争と同時に出征、佐々木大佐が大本営にきたころは、西部防衛司令官として大阪に勤務していたのだった。
思いもかけぬ敗戦、親友親泊朝省中佐(37期)一家三人が覚悟の自殺を遂げた時、佐々木大佐(38期)は第一番にかけつけた。その見事な最後に感激した大佐は、その日谷中将邸の一隅にある自宅にもどるなり、清子夫人に向ってこういった。
『立派な死に方だったよ。敗戦将校は生き永らえるべきではないな。……どうだ、清子、お前も一緒に死んでくれるか』
大佐は心中秘かに一家自決を決意して、軍務の整理など後始末に忙殺されていた。その佐々木家へ、ある日突如として悲報が舞いこんできたのであった。
谷中将が第六師団長として大陸へ遠征した故を以て、南京事件の責任者として逮捕され、戦犯として南京法廷へ送られるという知らせだった。大佐は愕然とした。
時を同じくして、東京に設けられた対日理事会のソ連代表部にキスレンコ少将(後に中将)が赴任してきた。まさに〝因果はめぐる小車〟である。
中野の佐々木家には、幾度かソ連人が大佐に面会を求めて現れた。そのソ連人がキスレンコ少将その人であったか? どうかは分らない。
逮捕、南京護送の岳父谷中将の助命嘆願は、大佐によって八方へ行われた。
それは溺れる者が、藁をもつかむ焦躁ぶりだった。嘆願の範囲が凡ゆる方面へのばされたであろうことは、容易に推測される。ここで筆者の推理が許されるならば、連合国として一方の有力者ソ連、それを代表する旧知のキスレンコ少将に、何らかの働きかけが行われた、と解することは誤りであろうか? もし、その嘆願が寄せられたとすれば、ソ連がその代償を大佐に求めることは極めて常識的な話である。しかし、その甲斐もなく、谷中将は恨みを呑んで絞首台上に散ったのであった。
ソ連の代償とは何を意味するか。佐々木一家にとって、恐るべき運命が待ち構えていようとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
三 還らざる父
二十五年八月三十日、釣好きの佐々木元大佐は、いつものように魚籠を下げて釣に出かけていった。釣天狗の父が、また今日も夕餉の膳を賑わしてくれることを期待して、佐々木家の家族は、夕食もとらずに待っていた。
その夜に限って、佐々木元大佐はなかなか戻らなかった。待ちくたびれた一家が、心配し乍らも諦めて寝床に入った十一時ごろ、ドンドンと烈しく表戸を叩く音にまどろみを覚されたのである。声高な呼び声は、何か不吉な予感にみちていた。
これは九牛の一毛であるのかもしれないが、若い記者の多くが、このように、不勉強で、しかも、努力をしようとしないのだから、新聞がつまらなくなるのも当然である。やがては、表現力
も取材力もない記者、官庁の発表文を伝えるだけの、メッセンジャー記者時代になるのだろう。
サンデー毎日の特別号というのがある。話に聞くと、あの毎月の号を、企画会議で何々特集号と決ると、社会部のその関係の記者がより集って、請負制のような形で原稿をかくのだという。そのやり方はともかくとして、毎日の記者たちがそのため、取材から執筆まで、〆切に追われて苦しんでいるのをみると、記者の訓練にはよいことだと感じていた。どんなマージャン好きも、その時には手を出さないほどだからだ。
何故、何故、何故、
私はこうして、イズミで文章のケイ古をすると同時に、そのネタ探しで取材力を養っていた。上野を持つ他社の記者たちとは極めて仲良く遊んでいても、一たん仕事となると全く変った。今のサツ廻りが、クラブを設け、麻雀や花札に遊び呆け、幹事が次長の発表を聞いてきて、各社へ流すというやり方など、余程のゴミでないとやらなかった。
尊敬する先輩の一人、辻本芳雄次長は、当時のカストリ雑誌に、原稿を一生懸命書いている私をみて、忠告してくれた。「筆を荒れさせるなよ。荒とう無けいなことを書くと、筆が荒れる
よ。雑誌原稿を書くなら、あとに残るもの、あとでまとめて本にできるようなものを書けよ」と。
私は筆の荒れるのを警戒して、カストリの中でも、エロなどの変なものは書かなかった。また、あとに残るものをと心がけた。辻本次長は、また、「新聞記者ッてのは、疑うことがまず第一だ」とも教えてくれた。この〝疑うこと〟とは、旺盛な取材欲のことだ。ニュートンがりんごの落ちるのをみて、〝疑った〟ような、素朴な疑問の意味だった。ドリス・デイの「新聞学教授」ならば、何故、何故、何故、という、執ような疑問のことである。
その成功の例がある。夕刊のない時代だったので、もう十一時ごろであったろうか、私はいつものコースで上野署へやってきた。
署の玄関を入りかけて、私はフト、〝何故〟と感じた。署の前には、いつもならば、アメリカ払下げの、汚らしい大型ジープが停っているはずなのに、その日は立派な乗用車が二台もいる。それもピカピカにみがかれ、運転手が待っている。 何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。
何だろう? 誰だろう? と感じて、前庭にもどってみると、両方とも自家用車で、しかもナンバーが続き番号だ。私は何気なく一台の車に近づくと、運転手に話しかけた。
『いい車ですね。これ何というの?』
『ハイ、ビュイックです。もう古いんですよ。三十八年ですから…』
『ヘエ、こんな車にのるのは、余ッ程エライ人なんですネ』
『エエ、輸送課長サンです』
『輸送課長ッて、国鉄の?』
『イエ、日銀です』
『あ、そうか。いい車だな』
私は素早く判断した。日銀関係の事件が上野の管内で起きた。上野駅?輸送課長と結びつく。すると、現送箱、列車ギャングに襲われたかナ?
『お早う』
何気なく次席警部に挨拶したが、あまり反応はない。あまりあわてないところをみると、列車ギャングではなさそうだ。署内の各係をずっと歩いてみると、経済係の部屋が人でいっぱいだ。
——またヤミ米か、
そう思って、ガラス戸をあけると、中は背広ばかり、みな同じバッジをつけている。カツギ屋
など一人もいない。
——ア、経済係だった。
中から刑事が立ってきて、「今、調べ中なんだ。あとにしてくれよ」と、追い出しながら小声で「上野の駅警備!」とささやいてくれたのである。
私は身をひるがえして、署をとび出すと、公衆電話で社電した。「上野で、日銀関係の事件です。すぐ写真を下さい」
札束の誘惑
上野の駅警備詰所に行ってみると、ここですべてが判った。日銀の新潟支店から、回収した古紙幣を本店に送る現送箱二百箱に、新潟の警察官と鉄道公安官が護衛につきそってきた。ところが途中で、貨車内にコボれている米粒に疑問を持ち、開けろ、開けて事故が起きたら責任問題だと押し問答してきた。
ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。
ところが上野駅につくと、日銀側はサッサと本店に運びこんだので、駅警備の湯沢巡査が、 そのトラックにのり、本店で開けさせてみたら、米二俵、木炭五俵、衣類などが出てきたというのだ。
かけつけてきたカメラマンに、米の写真をとらせていると、輸送課長がやってきた。
『これには、いろいろと事情もありますことですし、上司にも報告しませんと……幸い車もありますことですから、席をかえてお話いたしたいと存じまして、一つ……』
要するに、モミ消しに料亭へでも連れて行こうというのだった。その夜、社へ上って聞くと、私の一報で、日銀本店に文書局長の談話を取りに行った記者は〝一見五万円程度〟の札束を出されたそうである。
『実際、あれをみた時は、クラクラッとしたよ。あの金がオレのポケットにあるとすると、今ごろは……』
『何だ。そんなウマイ話なら、オレも誘いにのって、あの車に乗るンだった。何しろ、相手が日銀じゃ、定めし酒池肉林。惜しいことをした』
ヘラズ口を叩いているのを、横で聞いた社会部長も乗り出してきた。
『バカヤロー。そんな時は、もらって、飲んで、喰ってから書くンだ。アハハハ』
『部長、それじゃ〆切に間に合わないですよ。各社が書いたあとじゃ、札束も酒池肉林も、可能性ないですよ。ハハハハ』
結果として、夕刊がないため、各社も後追いはしたが、ウチが写真入りの、立派な、実質的スクープとなったのである。
戦争前のこと。蒲田の愛国婦人会がグライダーを献納するというので、六郷河原の式場に、先輩と一緒に出かけていった。来賓席に通されるや、若いイナセなお兄さんが、「御苦労さんです」といって、御車代と書いたノシ袋を出した。
どうしようかと思って、先輩を見ると、眼でもらっておけと合図する。裏を返してみると、金五円也と、なかなかの大金だった。ポケットに納めはしたが、気になって式次第どころではない。
やがて、次の愛国グライダー第何号の募金箱が、式場の参会者の間を廻されはじめたが、来賓席には廻ってこない。私は、ツト立上るや、ノシ袋のまま、その金を箱の中に入れて、やっと落ちついて取材をはじめたのである。考えてみれば、やはり、新聞記者も、検事や警察官と同じように、なりたてのころほど正義感が純粋で強いのだが、古くなると世馴れてきて、現実と妥協してくるものだ。
半陰陽の女医事件
「ナゾの女性」といって、半陰陽の男が、みてくれが女のため、女として育てられ、東京女子医大を卒業、婦人科の女医として、付近の娘を次々と犯していった事件も、最初は〝ニュートンのりんご〟だった。
上野署の防犯係で遊んでいると、一人の初老の人物がやってきた。
『実は御相談があって……』
若い刑事とダベっていた私だったが、主任と話しこんでいるその人の言葉のうち、
『全く、女が女にホレるなんて』という、短かい一言に私の注意力がヒッかかった。
あとで主任に聞いてみると、その人は付近の薬局の御主人、郷里からあずかって、医大に学んでるメイが、やはり付近の婦人科の女医と同棲同様、女同志だから構わぬが、何とか連れもどす手はないか、という相談だったということだ。
ズベ公のアネゴの同性愛なら知っていたけれども、この話にはいろいろとオカシなところが多い。興味を持って調べてみると、付近の薬専の学生だった娘、旅館の娘、娘、娘と、今までにも
その女医とアツアツの若い娘が多いのだ。
しかもその女医、家に風呂がないのに、いまだかつて銭湯へ来たことがないという。
――男に違いない。半陰陽だゾ!
私はピンときて、調べはじめた。そして、ついに確実な証言をとり得たのだ。やはり、付近の薬局の娘が、はじめはイヤがっていたのに、ついには同棲、しかも、入れあげたあげくに、結核で死んだという。その母親を、一生懸命に口説き落したところ、「実は、娘が息を引きとる時、あの先生は男だった、と、何もかも話してくれました」と、その話を詳しくしゃべってくれたのである。
こうして、グロテスクな〝宿命の肉体〟物語が、特ダネとなったのだが、毒牙にかけられるべき幾人もの娘さんたちを救ったはよいが、その先生は夜逃げ同様に引越してしまった。思えば先生も可哀想だった。
女医事件後日譚
ところが、この事件には後日譚がある。
女医事件後日譚
ところが、この事件には後日譚がある。その年の夏、新婚旅行もしなかった私たち夫婦は、父
の墓参もかねて盛岡へ旅行した。
そのある日、せまい盛岡の道路で、バッタリと、〝女医〟先生の愛人に出会ってしまったのである。私は、署に相談にきたその伯父さんが、二人の仲を無理に割いて、岩手医大に転学させたということを知っていたので、顔をみた瞬間、「ア、彼女だ」と、即坐に気がついた。何しろ、彼女の先生への打込み方の凄いのを知っていた私は、こんなところで喰いつかれたら大変だと、足手まといの妻をつれていただけに、いささかあわてたものだった。
記事にする前に、すっかり取材を終えて、最後に先生にインタヴューにでかけた。デスクは心配して、先輩記者を一人つけてくれたのである。相手は医者だから、怒ったら硫酸ぐらいブッかけられるゾ、と、散々おどかされたので、医院の前にとめた車は、エンジンのかけっぱなし。
ドアもあけておいて、キャッといって逃げこんだら、即坐にスタートしてくれと、運転手とも打合せて、いよいよ乗りこんだ。出てきたのが彼女である。
名刺を出して、面会を求めると、先生が出てきた。タバコをくわえ、「何御用?」と、気安く玄関に立って。パチッとライターをすった。
その瞬間、ヴェテランのカメラマンは、ほとんど同時にフラッシュを輝やかせた。私たちは、
怒ったら飛び出そうと、ハッとして先生をみると、写真をうつされたのを気付いていないらしい。ライターの光とフラッシュとが完全にダブったのだ。
さて、いろいろ質問をはじめたところ、先生は「愛情の自由」を主張する。彼女も、側に坐って、うなずきながら相槌をうつ。
そして、この調子ならと、カメラマンがスピグラを構えたとみるや、彼女はサッと仁王立ちに先生の前に立ちはだかり、大喝一声。
『何をするのッ!』
その時の印象は、小柄な女性なのに、仁王立ちとか、大喝一声とかがピッタリするほどであった。
『アッ!』と叫んで、私たちが腰を浮かした時には、カメラマンは素ッ飛び出して、車でブブブッと逃げてしまった。
その彼女と、せまい道でバッタリだから、私があわてたのもムリはない。しかし、彼女はすぐには気付なかった。