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正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 私の記憶にある正力さん

正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ
正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ

正力松太郎の死の後にくるもの

1 正力さんと私(はじめに……)

銀座の朝に秋雨が…

私が、この稿をまとめることを想いたったのは、正力さんが亡くなり、そのお葬式があった日のことである。

昭和四十四年十月九日。その日は、朝からどんよりとした曇り空だったが、とうとう十時ごろから降りだしてしまった。傘も持たずに銀座に出ていた私は、レインコートのエリを立てて、街角の赤電話から、読売系の新聞店である啓徳社の田中社長に、面会の約束をとろうとして電話したのだった。

「正力さんが暁け方に亡くなられたンですよ。ですから、予定が立たないンで……」

田中社長のその言葉に、私は「エッ⁉」といったきり、しばらく絶句していた。

雨は顔を打ち、エリもとに流れこむ。——その時、私の頭の中を走馬燈のように駈けめぐっていたのは、私が昭和十八年の十月一日に読売に入社した日の、横山大観の富士山の絵を背にした、元気いっぱいな正力さんの顔であり、戦後の、「社主」になってからの、やや老けこまれた

あの姿、といったように、私の記憶にある正力さんであった。

そして、その走馬燈がやがてピタリと停った時、その〝絵〟を私は見たのである。

それこそ、全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだのであった。

なぜならば……。と、書き進めてくると、読者の理解を助けるため、私の経歴を語らねばなるまい。

東京五中(現小石川高校)から、浪人したり、上智大学新聞科、日大芸術科と渡り歩きながら、ジャーナリストを志した私は、NHK、朝日、読売と三社の入試を受けて、読売をえらんだのだった。

それから、昭和三十三年七月に、自己都合退社をするまで十五年間も、私は社会部記者一筋で読売の世話になったのである。〝自己都合退社〟といっても、他にウマイ口があって読売を追ン出たのではない。

当時、検察庁や裁判所を担当する、司法記者クラブ詰めであった私は、その一月ほど前に銀座のビルで発生した、渋谷の安藤組一味による横井英樹殺害未遂事件に関係して、警視庁に逮捕されるハメになったから、責任をとって辞職を願い出たのであった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。

といっても、私は暴力団の一味ではない。反対に、警視庁が指名手配した五人の犯人たちを、我が手で一網打尽にして、一大スクープをものしようと考え、まず、その一人を捕えたのが、「犯人隠避」罪に問われたのであった。

それからまた、浪々の身となる。愛する女を、愛するが故に諦める。あの、男の心意気である。私が退社せねば読売に、〝惚れた〟読売に迷惑がかかるのだ。

そして十年。諦めた女は、大家の奥様となって、その家風に馴染み、好むと好まざるとにかかわらず、昔のおもかげすら見出せない違う女に変っていった。しかし、それが〝女〟(新聞)の宿命なのである。

私は、私を産み、私を育ててくれた、母なる読売新聞の、その昔のおもかげを求めて、昭和四十二年の元旦から、自力で小さな新聞「正論新聞」を発行した。そして、その新聞はいま育ち盛りなのである。

読売を退社して、私ははじめて、新聞を客観的にみつめる〝眼〟を持った。そこには、矛盾もあれば、過誤もあった。科学として体系づけられた「新聞学」が、新聞の実態の変化に追いつけないほどの、変移すら起こっていたのである。

こうして私は、読売新聞への私の愛情、大きな意味での、新聞への愛情に駆りたてられて、小さな「正論新聞」での実験的試みを通しながら、新聞の体質の変化をまさぐり、〝生きている新

聞論〟を執筆しよう、と考えるにいたった。それが、「正論新聞」に連載している「現代新聞論=読売新聞の内幕」である。すでに、「朝日新聞の内幕」は、昨年秋から、月刊誌「軍事研究」に連載ずみで、読売のつぎは毎日へと続く予定である。

さて、本筋へもどって、なぜならばの項に入らねばならない。

なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。しかも、プロ野球があれほど多くのスポーツ紙を興隆させ、テレビもまた花盛りで、スポーツ面、テレビ面が、全新聞紙の主要頁になっている現状をみる時、その人を葬送するのに読売新聞が全紙面を埋めても、何ら奇異とするにあたらないからである。

奇異とするに当たらないばかりではない。読売のつい先ごろまでの、いわゆる〝正力コーナー〟なる紙面を考える時、そして、読売の今日の隆昌を見るならば、「社主」と自ら呼号した正力松太郎のために、最後の餞けに〝正力コーナー特集版〟をつくってあげることは、人間社会の礼儀として極めて自然なことであるからだ。そしてそれが、正力松太郎という偉大なる新聞人の、桎梏から解放された読売人としての、最後のおつとめではなかったか。

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 私はただ一人で正力さんから辞令を頂いた

正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある
正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある

読売内外からの、「新聞は公器だ」というような異論が出るならば、答えよう。

かつて、〝正力コーナー〟華やかな当時、読売の誰がこれに反対して、正力と衝突して読売を

去ったか? 組合だけが団交の席上という〝保証された場所〟で、発言したにとどまっているだけではないか。そして、社外の声には、「新聞は果たして公器か?」と、反問するにとどめよう。

私が今日こうして、一本のペンをもって、口に糊することができるのも、読売新聞あればこそであり、その読売の先輩、同僚諸氏の薫育指導、切磋琢磨のおかげである。しかし、それは私情である。私情、私生活では、先輩として礼を尽くし、敬愛するところがあっても、新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質があるのだが、それは、後述することにしよう。

そして、私は私なりに、この書のはじめで、正力さんへの追憶の一文を捧げたいと思う。

正力〝社長〟の辞令

ちょうど工場へ入稿の日、ニュースが正力さんの、突然の訃を伝えていた。私は徹夜で原稿を書いた朝だったが、一瞬、ハッとして筆を止めてしまっていた。

——私が、正力さんの追憶などを書くのに、その任でないことは明らかである。だが、入稿の日だったので、どうしても、書かないではいられない気持になって、全二段の広告欄をはずし、そこに、この原稿を入れる手配を取ってしまっていた。

昭和十八年十月一日。戦争中の半年の繰りあげ卒業で、九月に卒業した私は、月末の数日を郷里の盛岡市に遊んで、三十日夜の列車で上京した。ところが、十月一日からのダイヤ改正で、真夜中になると、列車は時間調整のため、途中駅で停ってしまった。一日朝九時からの読売の晴れの入社式には、どう計算してみても間に合わない。一応、電報だけは打とうというチエは浮んだ。

社に着いたのは、もう十時を回ったころだった。岡野敏成人事部長に伴われて、私はただ一人で正力さんから、辞令を頂いた。「見習社員ニ採用、社会部勤務ヲ命ス」とあるその辞令は、スクラップ・ブックに貼られて、今でも手許にある。

そのまま、社会部にいって、電話取りから始まったのだが、その当時のことを、私が読売を退社した昭和三十三年十二月に出した「最後の事件記者」(実業之日本社刊)には、こんな風に書いている。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 正力さんに必死の想いで手紙を

正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

「当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。覇気みなぎるというのであろうか。

編集局の中央に突っ立っている正力社長の姿も、よく毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいて話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた」

日大を出る時、私はNHK、読売、朝日の三社を受験し、朝日だけ落ちた。NHKには「採用辞退届」というのを送って、読売をえらんだのだった。そして、読売をえらんだことは、入社してみて、誤っていなかったのだと、自信を固めていた。

正力さんとは、口をきいたのは、辞令を頂く時の一言、二言だけだった。それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。

高木健夫さんが、「読売新聞風雲録」に書かれている「社長と社員」を読むと、正力さんの人柄が大変に偲ばれる。昭和三十年春に出たその本を、私は警視庁記者クラブ詰め時代に読んだものだが、その先輩たちを羨しく感じた。

昭和十八年ごろの正力さんは、まだ高木さんの書かれた通りの、〝正力さん〟だったろ うと思う。それなのに、入社早々の私には、先輩たちのような、正力さんとの〝交情のものがたり〟がないからだ。

昭和二十二年秋、復員してきた時には、正力さんは巣鴨で、しかも、銀座の本社は戦災の復興中。読売は、今の読売会館、有楽町のそごうデパートの場所にあった報知の建物に入っていた。私の顔を覚えていてくれた竹内四郎社会部長が、「オーッ」とうなって「社会部はココだ」とばかりに、手をあげて呼んでくれただけであった。

やがて、出所はしてこられたのだが、公職追放。読売は社主という立場で、以前のように、編集局の中央に立って、「誰彼れとなく話しかけ」る状態ではなくなっていた。私と正力さんの距離はさらに遠くなり、たまさか、社の行事や日本テレビ関係の取材で、身近くいることはあっても、高木さんが書かれたような〝正力さん〟ではなかった。

社会部の記者たちの間でも、ある時は〝ジイサマ〟であったり、ある時は〝ジャガイモ〟であったりした。もはや、〝正力さん〟ではなかったのである。

昭和三十三年に社を去った私ははじめて「新聞」を、そとからながめる機会に恵まれたのである。そしてまた、「読売」をも、その眼でみつめたのだった。昭和四十年の秋、私はいたたまれない想いで、いわゆる〝務台事件〟後の読売の現況を憂えて、「現代の眼」誌に、読売批判の一文を草したのである。これが、現在の正論新聞創刊の動機ともなるのであるが、私は〝遠くなった〟正力さんに必死の想いで手紙を書いたつもりであった。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正力の読売」への愛情

正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。
正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。

というのは、その八十枚もの大作をものするため、正力さんの事跡を調べてみて、本当に、心

底から、「エライ人だなあ」と、感じたからであった。読売は、危機をのりこえて、さらに発展し、発展をつづけている。

さる八日の夕方、亡くなられる前日のことである。私は本社で、務台副社長におめにかかっていた。フト、思いついて、正力さんのご様子を務台さんに伺った。

「元気でね。私なども会いにゆくと、引き止めて仕事の話だ。しかし、人にあったあとがあまり良くない。だから、医者は面会させたがらないのだが、本人は元気だから、人がくれば引きとめる。……面会謝絶といえば、それでは悪いのだろうと思われる。だから、困るのだが、お元気だよ」

私は、その話で、〝会いに行きたい〟という気持が、わき起ってきた。虫の知らせというのだろうか。

私のは、〝会いたい〟ではなくて、〝見たい〟だったのかも知れない。あれほどの人物をそばで見るということは、それだけで影響されるなにかが、私に残されるから、私はそれがほしかったのだろう。

務台さんとのその会話から、十時間ほどで、正力さんは息を引きとられた。〝遠い〟と思った正力さんが、「現代新聞論」を書きはじめてから、私の「正力の読売」への愛情が、正力さんに通じたのであろうか。ともかく、何万、何十万人という読売関係者の中で、私が一番身近く正力

さんの健康を案じた人間だった、と信じている。

「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。一世紀にも近い、その生涯で、何百万人、何千万人もの人々の胸の中に、なにかを与え残して、神去り給うたのだった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 正力亨氏へのホコ先

正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでない
正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでない

編集手帖なしの読売

私が、亡き正力さんについて語るのに、決して相応しくない、ということは、さきほど述べておいた。

事実、それだけの接触がなかったのだから、それは当然であろう。しかし、思いたって「現代新聞論」と銘打ち、私なりの新聞批判を書こうとし、正力松太郎という人物を調べてみると、これは、まさに「偉大なる新聞人」であることに、異議はさしはさめないのである。読売新聞の、現実の姿がそこにあるからである。

ここで、ハッキリさせておかなければならないのは、一人の新聞記者、もしくは、〝物書き〟として、正力松太郎という新聞人の事蹟を評価し、批判することと、一個人としての私が、正力松太郎に私淑することとは、あくまで別個の問題であるということである。

同様に、現在、読売新聞を率いている、務台光雄代表取締役に、私が個人的に敬意を表することと、読売新聞批判という立場で、務台副社長を論難することとは、全く別の次元の現象なので

ある。

私のもとに、一通の投書があった。それによると、私が「軍事研究」誌に連載していた「読売論」は、「大雑把な印象としては、故人となった小島文夫氏や、いま読売に発言力のない正力亨氏へのホコ先がきびしく、いま権勢を極めている務台代表や、原四郎氏へ〝ベタベタ〟という感じが露骨です。〝力が正義〟というなら話は別ですが……」と、いうのである。

最近の私は、私の主宰する小新聞「正論新聞」の販売に関して、務台代表に教えを乞いに行くことなどもあって、面談の機会がままある。いつも私は、第一番の挨拶に、「小僧ッ子が、小生意気なことを書きなぐりまして、誠に申しわけありません」と、務台批判の非礼について詫びるのだが、務台は笑って、「いやあ、批判は批判ですよ」と、私のわがままを認めている。

つまり、私としては、公私のケジメはそんな形でつけているのだが、前記の投書にあったように、〝正力亨氏へのホコ先がきびしく〟とみて、私の正力松太郎批判もまた、〝反正力〟と、受け取る人物が少なくない。

新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。

大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに

は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 〝小さな〟異変があった

正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでないことは明らかである。

大新聞社という機構の中にいると、この〝感情〟が、〝冷静な批判〟を動かしてきて、終りに

は、主客転倒して、感情論を批判だと思いこんでしまうようである。

私が、「大正力の死」について、追憶を述べるのには、人を得ていないといったのは、そんな形での、感覚的な(触覚的なというべきか)接触がなかった人間だから、という意味で、前述した通り、大正力の遺したなにかについて書くならば、十分に書ける立場であったのである。

さて、本論に入って、十月十日付、つまり正力死去の翌日付の読売朝刊五版(注。夕刊が一版から都内最終版の四版まであるから、五版というのが、東京読売がつくる朝刊の第一版ということになる。朝刊は、この五版から都内最終版の十四版まである)に、〝小さな〟異変があったのは、東京の読者では気付かれなかったのが当然であろう。

この五版というのは、東京本社管内で、一番遠隔地に配達される新聞だから、青森とか名古屋だとかに行く新聞である。その五版の一面下、読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。

調べてみると、この欄のコラムニストは、〝大正力の死〟について、その追悼文をまとめてきて、提稿したのであったが、編集幹部の意向で、「アイツが、正力の追悼を書くなんて、オコがましい」という声もあって、ボツになり、急いで別のテーマで原稿をまとめて、六版の〆切に間に合わせたらしい、ということが判った。

彼は戦後の入社だから、私以上に正力について語るべき、〝触覚的〟接触は少なかったろうと思う。しかし、このコラム休載という事件は、極めて示唆的であった、と考えざるを得ない。

つまり、彼コラムニストとしては、〝大正力の死〟の翌朝刊の紙面構成は、当然、大々的な正力追悼号になるであろう、と判断したに違いない。従って、その日の編集手帖としては、正力をテーマとすべきである、と、考えるのが、これまた理の当然である。

例えば、朝日新聞の社会面が、「板橋署六人の刑事」入浴事件を、〝独占的〟に華々しくやれば、「天声人語」もまた、筆を揃えてその責任を追及する、というのが、最近の大新聞の〝綜合編集〟なる紙面構成の常だから、「六人の刑事」事件のように、自社社会面が歪報で構成されていても、コラムはその真否をたずねることなく、オ提灯を持たされるのが、習慣となっているのだった。

その限りでは、「編集手帖」子の判断は正しかったハズであり、彼を迎合的であると非難するのは酷であった。最近では、コラムニストとはいっても、〝老妻〟や〝外孫〟などをテーマに、身辺雑記をつづってはおられなくなったし、組織の中の、月給取りコラムニストなのが、現実の姿なのだからだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力という〝重石〟がとれたので

正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

私には、この日の、〝大正力の死〟を追慕した(に違いなし)「編集手帖」が、ボツになった理由も、ボツにした機関もしくは個人も、ともに正確には判らない。しかし、テーマが〝大正力の死〟

であり、それがボツになって、六版から差し換えられたことだけは、確かである。

私は、これを知って、「正論新聞」のコラム「風林火山」欄に、こう書いた。

「正力さんが亡くなられて、いろんな形の〝異変〟が、早くも起りはじめた。

第一番に感じたのは、読売の葬儀その他の記事の扱いが、極めて地味だったということ。第二には、亡くなるのを待ちかねていたように、日本テレビの粉飾決算が問題化したこと。第三には、週刊誌がまったくの興味本位に、いわゆる〝跡目争い〟なるものを書きはじめたこと、などなどである。

私はかつて、昭和四十年ごろの〝正力コーナー〟(注。読売紙上の正力関係記事のこと) 華やかなりしころに、『紙面を私するもの』と、批判したことがあった。このような社内外の批判から、やがてコーナーは姿を消したのだった。

しかしいま、この偉大なる新聞人を葬送するとき、読売が特集グラフを組み、参列者氏名を掲げ、コラムで追悼し、といった、大扱いをしないことに、フト、一抹の寂しさを感じた。

『社主・正力松太郎』の死亡記事として、読売のあの扱いは、妥当であり、良識の線を守ったものであろう。他紙誌の扱い方は、過小の感があったけれども、それは、私の〝私的な感情〟かも知れない。

しかし、解せないのは、日本テレビの粉飾決算の摘発である。大蔵省は『過去四年半にわたり……このほど調査で判明』(毎日紙)というが、その〝調査〟は四年半もかかるものであり、ホントに〝このほど判明〟したものなのだろうか。正力という〝重石〟がとれたので、欣然として発表した感が残る。

週刊誌もまたしかり。私をたずねてきた某誌の若い記者は、『臨終には〝愛人〟が付き添ってたといいますが、ホントでしょうか』ときく。この下品なノゾキ趣味! 相手えらばずの、貧しい取材力は、週刊サンケイ、週刊ポストなどに、掲載された記事でも明らかである。

正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。

解放感もあろう。しかし、あまりにも、わざと過ぎまいか」

〝フト、一抹の寂しさ〟を感じたのは、私自身の〝私的な感情〟であったことは、認めるのだが、「編集手帖」の休載が、〝重石のなくなった解放感〟でなければ、それでよい。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 〝紙面で勝負〟する新聞だった

正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。

しかし、現実の「新聞」の姿は、このように変りつつある。昭和も四十五年ともなれば、こうして、明治生れの大正の新聞人たちを送り出し、大正生れの昭和の新聞人たちの〝感慨〟をよそに、その外形ばかりか、新聞の「本質」そのものをも、昭和生れの昭和の新聞人たちの手によっ

て、変化させつつあるのである。

この「現代新聞論」の取材を進めながら、私は「現役を去って十年。この十年間に新聞は大きく変った」と、感じたのだったが、正確にいうならば、昭和三十年代の十年間に大きく変り、さらにまた昭和四十年代の十年間に、もっと大きく変ろうとしていることに、気付いたのである。

例えば、後述するが、元朝日新聞記者の佐藤信。退社した朝日の内情を、〝感情的〟にバクロし、同僚、上司を口を極めて罵倒した著書を公刊して、話題となった人物である。

この佐藤信のような、〝奇特の言行〟を旨とする記者が、昭和三十年代の十年間に、社という組織からハミ出るか、組織の中に埋没してしまうかという現象が、私の指摘する第一次の大きな変化である。新聞の均質化、個性放棄の時代である。

事実、彼の二著を読んでみて、新聞記者であるならば、あえて、〝奇異〟とするに当らない事実が書かれている。少くとも、昭和三十年ごろまでの新聞は、〝紙面で勝負〟する新聞だったのである。戦後のタブロイド版からブランケット版(大判)二頁、四頁、六頁と、次第に頁数を増し、朝刊紙は夕刊を出して、朝夕刊セットとして伸びてきた新聞の争いは、「紙面」であった。

紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。紙面は他社との比較の上で、担当記者の実力を一眼で、誰にでも判断させた。こうして、才能のある者、

学のある者、チエのある者は、学歴や年齢や、入社年次に関わりなく、自然に重きをなしたのであった。

何よりも不都合なことは、取材、執筆という記者の仕事は、穴掘りや帖面付けと違って、職制が命令したからといって、一定時間が経過したからといって、完了し、完成するものではない。だから、能力のない者が、能力のある者を、〝使う〟ことができないのだ。先輩だからといって、後輩に、〝指図〟できないのである。

「何某さんは旅行中です」「まだ調査が終りません」——これらの言葉で、やがて〆切時間が来てしまう。合法的に、反抗もサボタージュも可能だったのである。

佐藤信の二著は、どこの新聞社でもあることを、多少、誇張した表現ともとれるが、また、人間関係の微妙さを無視した形で、活字にしたに過ぎない。活字以外に、クチコミでならば、どこででも、平然と語られていることである。無能な先輩やデスクをコケ扱いにし、酒のサカナにしたり、喫茶店でのダベリに持ち出すのは、記者にとって、日常茶飯事であった。

私のいた読売でも、三十歳を出たばかりで次長に登用された記者が、末席の若僧のクセに、先輩次長たち、十歳も年齢の違う人たちを、すべてクン付けで呼んでいた。クンと呼ばれた先輩たちの胸中は如何ばかりであったかは別として、彼がクンと呼ぶのを聞いた私たちカケ出しは、彼の態度の大きさに、少しも不自然さを感じなかったのも事実だ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 各社の〝奇特の士〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。
正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。

そしてまた、実力のある部長、すなわち、実力故に尊敬せざるを得ない先輩に、怒鳴られる時のおそれたるや、これは全く、並大抵のものではなかった。——紙面の優劣が、新聞の評価となり、そして、販売部数にそのままつながる時代は、記者の質と量との戦いの時代であり、記者自身の〝個性〟の戦いの時代でもあった。

〝読売の三汚な(サンキタナ)〟の筆頭にあげられたA記者。慶大卒の富裕な家の息子でありながら、妻子をよそに社の宿直室住いで、都庁クラブ在勤中に、安井都知事の招宴が東京会館で催された折に、受付で浮浪者と間違えられて、断られたほどの人物。また、K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。クラブばかりではなく、その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。

朝日とて例外ではない。私とサツ廻りの同じ矢田喜美雄記者は、上野のパンスケの一人を、一カ月余りも自宅に引取ってやった。毎日が「百万近い現金を貯めこみ身につけている」と、雑記帳欄の記事にしたため、公園での客引き中に襲われたのに同情したからである。彼は下山事件が起きるや、東大法医学教室に〝住込〟んで詳細なレポートをモノした記者である。

さきごろ、NETテレビの取締役として、下り坂のモーニング・ショウに活を入れようと、陣頭指揮していた三浦甲子二は、政治部次長時代にこんな伝説を生んだ。筆頭次長の上に新任の部長、岡田任雄(前出版局長)が着任した。この人事に不服があったらしい。三浦は次長の身で、

部長を自宅に呼びつけた。何事かと赴いた客間の部長に対し、三浦はカラリと次の間のフスマを引いた。すると、そこには、政治部員十八名が勢揃いして、三浦〝 親分〟擁立の気勢をあげた、という。

この〝伝説〟について、ゴ本人に確めてみると、「誤伝ですよ。有楽町のバーで部長と出会い、帰途が同方向なので、同車した。通り道の私の自宅に寄っていった、というのが真相」という。しかし、政治部次長からNET重役という実績は、この〝伝説〟にふさわしい〝怪物〟ぶりである。私の単刀直入の質問に、否定したあと、思わず彼は呟いた。

「朝日には、そんな伝説を作り出す風潮があるのです」と。

朝日新聞ならずとも、各社の〝奇特の士〟は、あげればざらにある。才能があり余って、組織からハミ出した孤高な男、実力ゆえに敬遠されて、他の組織に放出された〝怪物〟、実績がありすぎたためか、組織に〝軟禁〟された大記者。この三者三様のあり方が、良きにつけ、悪しきにつけ、「新聞」の人材の処遇を物語っていよう。

このように、多くのエピソードに彩られた人物群像が、新聞を〝作って〟いた時代は、すでに過去のものとなった。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、 夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 日本の新聞は戦争によって発展

正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられた。

そしてそれと同時に、「三大紙」時代から「二大紙」時代へと移行していたのであった。 戦後の昭和二十年代の前半ごろまで、二大紙といえば、朝日新聞と毎日新聞をさしていた ものである。

昭和二十七年十一月、読売新聞が全株を持って、大阪読売新聞社が設立され、翌年四月には、夕刊をも発行するにいたって、朝日、毎日、読売の三大紙時代となるのである。そしていま、新聞関係者たちの間で語られる「二大紙」とは、凋落の毎日と躍進の読売とが入れ替って、朝日と読売の対立する二大紙時代のことである。

正力なればこその「社主」

ここで、三社の簡単な社史をべっ見しなければなるまい。

朝日新聞社は資本金二億八千万円。大阪、東京、西部(小倉)、名古屋の四本社、北海道支社。明治十二年大阪で第一号創刊。同二十一年「めざまし新聞」を買収して、「東京朝日新聞」として東京進出。昭和十年、西部、名古屋両本社設置、昭和十五年、現題号に統一。大株主は、村山長挙、一二%、村山於藤、一一・三%、村山美知子、八・六%、村山富美子、八・六%、(村山一族合計四〇・五%)、上野精一、一三・八%、上野淳一、五・七%、(上野一族合計一九・五%)

となり、六氏六〇%を占める。この数字は、私の手許の資料で昭和三十五年以来変っていない。

毎日新聞社は資本金十八億円。大阪、東京、西部(門司)、中部(名古屋)の四本社。明治十五年、日本憲政党新聞として大阪で創刊、明治二十一年大阪毎日新聞と改題(朝日の東京朝日発刊の年)明治四十四年、東京日日新聞を合併した。昭和十年、西部、中部両本社開設(朝日と同年)。昭和十八年現商号となり、題字を東西ともに毎日新聞に統一した。

読売新聞は明治七年創刊。昭和十八年報知新聞を合併、読売報知となる。昭和二十一年、報知を夕刊紙として分離、現題号に復題。昭和二十七年大阪進出、同三十四年北海道進出(朝、毎とも同じ)同三十六年、北陸支社開設。正力松太郎社主が、警視庁を退官して部数三、四万でツブれかかった読売を松山忠二郎から買い取ったのは、大正十三年だが、務台光雄副社長が請われて入社したのは昭和四年だから、現在の読売新聞の社史をいうなれば、この時期からとみるべきである。

こうして、三社の小史をひもとけば、戦前からの、朝日、毎日の二大紙対立時代は、容易に理解できよう。そして、戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、読売もようやく、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。この事実をみても、日本の新聞は、戦争によって発展し、成長してきたことが明らかである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 毎日は極めて〝健全〟な会社

正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。
正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

戦後、東日本を地盤とする読売の部数に加えて、二十七年に大阪進出が成って全国紙の形を整えたことで、ついに念願の三大紙時代になったものである。読売は、その後も、九州に進出、地元紙と朝毎に押えられた名古屋をさけて、正力の郷里高岡に北陸支社を開設、完全な全国紙となったが、以来、僅々数年にして、二大紙として朝日と対立するにいたった。

四十三年三月の、販売関係における五社の発行部数がある。朝日五四七万、読売四九五万、毎日四四一万、サンケイ一九八万、日経九一万という数字である。新聞の発行部数について、正確な数字をつかむことは、極めてむずかしい。例えば、広告関係では、部数をふくらませて、広告価値と広告単価との根拠にせねばならないし、新聞協会が毎年四月と十月に行う部数調査では、部数に応じて会費負担が増減するので、とかく内輪の数字を公表するといった実情にあるからだ。

ここ数年来、読売の元旦付紙面を飾り出した、恒例の部数発表によれば、東京(北海道、北陸支社分を含む)、大阪、西部で、合計五百六十万部。前記数字を六十五万部も上廻った、四十三年元旦号の部数が示されている。一方、朝日は自社発行の「広告統計月報」で、四十三年二月の数字として、五百四十九万(弱)部を発表している。

いずれの数字が正しいかは別として、寂として声のない毎日をみれば、新しい二大紙時代が、この昭和四十年代に始まりだしていることは明らかであろう。朝日と読売の、次は六百万の大台

のせ競争によって……。

私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。

「毎日は、今や極めて〝健全〟な会社になった。詳しい数字は知らないが、不動産を処分して借金を返済し、経営を圧迫する厖大な金利負担を軽減した。ことに、大阪に持っていた沼みたいな土地がビル建築の出土で埋め立てられ、新幹線にひっかかったのは、全く幸運であった」

私はさらにたずねた。不動産を次々に処分したというのは、いうなれば〝売り喰い〟で、今や本社もこのビルの店子、毎月、家賃の日銭に追われるのではないか、と。

「新聞界における評価は別として、銀行家として見るならば、発行部数に見合った、以前よりも堅実な会社になった、というべきでしょう」

村野副頭取のこの言葉は、朝日と読売との二大紙時代を裏付けるに十分であろう。〝栄光ある老大英帝国〟にも似た、毎日新聞の詳しいレポートは、続稿にゆずろう。

昭和二十年代の十年間は、戦後新聞史のうちで、最も華やかな、「スター記者」時代、紙面の優劣の戦いの時代であった。新聞記者個人の才能と個性とが、いうなれば〝妍〟を競った時代で、また、殺伐な戦後の世相を反映し、その実力競争のモノサシとしての「事件」にも事欠かなかったのである。その中で〝事件の読売〟が大きく伸びて、三社てい立の時代をつくった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 何人かの雑誌記者の訪問

正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。

昭和三十年代に入ると、世情は落ち着きをとりもどして、「事件」は国際的な規模にひろがり、一人のスタープレーヤーよりも、組織の力に、取材力の比重が傾いてゆく。同時にテレビの急速な発達から、新聞は速報性の王座と、広告媒体としての優位を奪われ、経営と編集の両面から、体質改善を余儀なくされてゆく。新聞変質の過渡期である。そして毎日の凋落が進み、二大紙時代へと移る。

さて、昭和四十年代に入ると、その傾向が一そうハッキリとしてきた。資本の集中による企業の大型化に伴い、新聞企業とて例外ではいられなくなった。兵庫新聞、東京新聞といった、地方紙の倒産が目立ち、全国紙としても、日経という専門紙は例外として、サンケイの危機、毎日の衰退が深刻化し、朝日、読売の巨大化が進んでゆくのだ。

電波媒体はさらに発展し、経営、編集ともに大きな影響を新聞におよぼす。そして、極めて皮肉なことには、新聞に対して経営と編集の両面から、その体質改善を迫るキッカケとなったテレビの急速なる発達は、実に他ならぬ正力松太郎の日本テレビ創立が、その機運を促したのである。

正力が育てたプロ野球の隆昌が、スポーツ新聞なる新しい種類の娯楽紙の隆盛をもたらしたのだが、〝大正力の死の報道〟を、このスポーツ紙たちは一面トップの大扱いで酬いてくれた。にも拘らず、肝心の「新聞」は、テレビによる体質改善から、極めて冷淡な扱い方しかできなかっ

たのは、皮肉なことだった。

こうして、新聞は、今や決定的な変革を迫られている。その内部では、政治と資本、思想と表現とが、それぞれにブツカリ合って、まさに「社会の木鐸」とか、「無冠の帝王」などという、かつて新聞を表現した古語の看板を、ハネ飛ばそうとしているのである。

この「現代新聞論」の意図するところも、新聞の現状から、変革さるべき「新聞の近い未来像」を探ろうと試みるものである。

正力の死を報じた朝毎の夕刊は、いずれも一段組み。型通りの、〝亡者記事〟で、ただ、毎日だけが、同社会長である田中香苗主筆の追悼談話を加えた。葬儀にいたっては、両紙とも全くのベタ記事、〝冷淡な扱い〟といえるものであった。

さきほども述べたが、その死とともに、私は何人かの雑誌記者の訪問を受けた。曰ク。「最後の枕頭には、愛人がつきそっていたというのですが……」「社主には誰がなるのですか」「いよいよ読売社内での、跡目争いの内ゲバですか」ETC いずれも、いうなれば笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 〝蒙〟を啓いておかねば

正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。遺言状の有無については、私もウームと唸らざるを得なかったが、まだ、正力タワーを軌道に乗せていない正力は、おのれの天寿を、さらに確信していたに違いない。後述するが、昨四十三年秋から四十四年

にかけて現象化してきた、亨、武の両遺子、ならびに 女婿たちの配置転換をもって、私は〝遺言〟とみるのだ。

この機会に〝蒙〟を啓いておかねばならない。〝愛人〟とは誰を指すのか、武の生母。中村すず女であろう。正力の戸籍をみると夫人はま女は、大正七年五月一日に結婚昭和三十八年元旦に、死去している。すず女が臨終をみとって何が不自然であろうか。また、「社主」に誰がなるか、社長は、というものも、商法上の「代表取締役」と混同していて、正力なればこそ、「社主」と称し得るのである。しかも、この「社主」なる呼称は、英語の「オーナー」とはまたニュアンスが違う。朝日の村山、上野家とはまた、その事情を異にする。私が昭和十八年の読売入社時に提出した誓約書の宛名が、すでに「読売新聞社主正力松太郎」であることに最近気付いたのだが、正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。

内ゲバにいたっては、務台、小林両代表取締役副社長の、人柄はもちろん、読売を取りまく、客観情勢さえ判断できぬ、その無知を嘲うべきであろう。

務台七十三歳、小林五十六歳。その新聞経歴は務台が十倍にもなろうという差がある。そしていま、大手町の新社屋建設二百億の金繰りを控えての、読売の正念場である。務台を措いて、余人をもってはかえられない、大事業に直面しているのである。

このとき、官僚としての最高位、自治省事務次官まで進んだほどの小林が、内ゲバをあえてしてまで、務台と事を構えねばならぬ、何の必然があるだろうか。いうなれば、福田赳夫と田中角栄との年齢の開きにも似て、小林としては、ポスト・ショーリキではなくて、ポスト・ムタイの構想を練るべき秋なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 警視庁七社会詰め

正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。

悲願千人記者斬り

私の手許に、二巻の録音テープがある。

読売新聞、いうなれば〝大正力〟の事蹟をみてゆくためには、同時に各社の実情とその人とを知らねばならない。その時、この二巻のテープの内容の話は、極めて示唆に富んでいた。

今は、故人となった某スポーツ紙の社長をはじめ、各社の四十名近い記者が登場する、このテープを聴いてみて、朝日、毎日、読売の三大紙についての、極めて象徴的な〝分析〟を、私は発見したのであった。

何故、象徴的というかといえば、氏名を明らかにされて、このテープに登場させられる記者たちは、十年余りも経た現在では、それぞれの社の、部長以上の幹部になっているからである。

——話は、そんな昔にさかのぼる。

私は、昭和二十七年から三十年まで、丸三年間、読売新聞社会部記者として、警視庁七社会詰めであった。

当時の同庁刑事部長に、極めて〝政治的〟な敏腕家がいた。彼は、のちに代議士に打って出たほどであるから、すでに双葉より香んばしかったのであろう。そして、当時の警察は、アメリカの占領から民主警察へ移行するという過渡期であったから、なおのこと、彼のような政治家によって〝家庭の事情〟を、新聞の監視外におかねばならなかったのであろう。

ともかく、「キャップ」会といわれるところの、「刑事部長懇談会」が月例となり、築地あたりの料亭で、ひんぱんに開かれていたことは事実であった。そして、料亭での宴会が終ると、銀座のバーに流れて、二次会、三次会というのがきまりであった。

今は二階に各記者クラブが広報課とならんで、一個所に集まっているが、当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。三階にある「警視庁記者クラブ」は、時事の身代りでも、七社会に加えてもらえなかったサンケイ、NHK、東京タイムズ、内外タイムズ、それに民放各社などで組織されていた。

従って、私の経験や目撃談も、この七社会が中心であった。三階のクラブについては、言及の限りではない。ともかく、この刑事部長の〝宴会戦術〟は、言論統制を意図したものであって、各社のキャップと〝親密〟になることによって、警察の内部問題に対して、新聞が興味と関心を持つことを、未然に防止しようとするものであったらしい。

読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

読売梁山泊の記者たち p.038-039 あの一見〝文弱の徒・風〟

読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。
読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

社の角が正面玄関で、その濠には、有楽町駅に通じる橋が架かっていた。有名な数奇屋橋の次の橋である。

もう、正午近くのことだった、と思う。

その橋を、銀座に向かって、一人の男が、さっそうと歩いてくるのが、目に止まったのだ。長身に、背広をシックに着こなして、ソフトを、ややアミダに冠り、横ビンには、白髪のまじった髪が見えた。(まだ、ロマンスグレイという言葉が、無かったのではないだろうか…)

それこそ、その男のフンイキは、〝文化〟そのものであった。

——何者だろう?

私が、男の行方を見つめていたら、読売の玄関に入っていったのである。だが、私にはその男が、読売の社員とは思えなかった。何しろ、社の情景は、冒頭にのべたようなありさまだったからだ。

その男が、文化部長だった。井上、石上両嬢の言葉に対し、私の返事に、「フーン…」とあるのは、その意外性への反応である。

それが私と原四郎との出会いであった。が、当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。だから、彼が、社会部長として、私の上司になろうとは思ってもみなかった。

それよりも、社内の若い女の子の、〝憧れの的〟と知って、なおさら、「文弱の徒」という印象を抱いたものである。やはり、新聞記者は事件であり、〝金と酒と女〟とが、取材の対象だ、と信じこんでいた。

こうして私は、はじめて、原四郎・文化部長を知った。いや、知ったなどと、大きなことはいえない。私が、あの〝文化〟そのもののような男が原四郎だ、ということを知っただけである。

政治部の初年兵は、本会議取材が第一歩だが、社会部の国会担当は、社会面に関係のある政治現象を追う。だから、中曽根記者会見の際、「社会部記者はお断わり」となったのは、社会部記者は、日頃の付き合いがないから、情に流されずに、バラリ・ズンと、斬って落とすからである。

そして、その時期に、原四郎が社会部長になってきたのである。竹内四郎の処遇のため企画調査局というのを新設して、その局長に出たあとの、後任であった。

社会部長になった原と、私は、はじめて口を利き、その人となりを知るに及んで、驚いた。

とても、とても、〝文弱の徒〟ではなかったのである。剛腹一本槍だった竹内に比べると、まさに、〈新聞記者〉そのものだった。

あの一見〝文弱の徒・風〟(いまは、あまり使われなくなった言葉だが、当時の、新聞記事の独特のスタイルで、〝一見……風〟というのがあった。米占領軍の兵士の犯罪をそれとなく表現する必要から、生まれた)と見えながら、舌を捲くほどの、部下の使い方であった。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

読売梁山泊の記者たち p.040-041 日銀が上野署に摘発された

読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。
読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

「梁山泊」さながらの竹内社会部

竹内四郎は、私の先輩、府立五中の第一回卒業生。大正十三年三月に卒業、慶大に進んでいる。そして、私の初めての結婚の、頼まれ仲人でもあった。

この竹内も、私の〝記者形成〟に、大きなインパクトを与えている。

上野署のサツ廻り時代の、二十三年五月ごろのこと。銀座から、日本橋署をまわって、上野署の玄関にきたのは、もう、正午近いころだった。

フト、気付くと、ピカピカに磨かれた乗用車が二台、玄関前の広場に停まっている。上野署といえば、ヤミ米の運び屋と、パン助、オカマ、浮浪者しか、出入りしない時代だから、それは、異様な光景であった。

やがて、警察担当の通信主任から、次長となり、連載もの専門のデスクとして、「昭和史の天皇」など、多くの名作を遺して逝った辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。

「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

——ナゼ、あんな高級車が、停まっているンだ?

私は、玄関を入りかけたが、戻ってきて、運転手に話しかけた。

「いい車だネ。こんな高級車に乗れる人は、キット、重役サンだネ」

「イエ、輸送課長サンです」「どこの?」

「日銀です」

日銀の輸送課長が、二台できている。部下か、関係者を連れてきている。ナゼだ?

私は、署長室の入口のガラス戸を、背伸びして覗いたが、客はいない。すぐデカ部屋 (刑事課)へ。ここにもいない。二階の経済係へ行くと、居た、居た!  部屋いっぱいに、カツギ屋の代わりに、背広姿がいる。

ガラス戸をあけて、室内に入ろうとすると「ブン屋サン。調べ中だから、ダメだよ」と追い出された。トイレの入り口付近で待つうちに、メングレ(面識のある人、顔馴染み)の刑事がきた。

すれ違いざまに、「駅警備!」と、短く一言。私は上野駅へ走った。

若い制服のお巡りサン、湯沢さんといったが、まだ、興奮さめやらずで、話をしてくれた。すぐ、公衆電話で、社へ一報を入れる。

「日銀の新潟支店が、本店の上司に、現送箱(現金を入れた木箱。警官が警乗する)に米を入れて送り、上野署に摘発されたンです。すぐ、写真(カメラマン)をください!」

話はこれからである。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。