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赤い広場―霞ヶ関 p040-041 “東京租界”にひそむ謀略の黒い手。

赤い広場―霞ヶ関 p.40-41 “東京租界”にひそむ謀略の黒い手。
赤い広場ー霞ヶ関 p.040-041 A trap of stratagem hidden in the foreign settlement of Tokyo underworld.

赤いとみられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。

この傾向はスターリンの死とともに、一そうハッキリとしてきて、ミチューリン、スコロボード、アハナシェフと後に続くものたちが現れた。さらに目黒に住む元ロシヤ近衛騎兵大尉チェレムシャンスキー、元参謀大佐ストレジェンスキーらが白露委員会を組織した。

だが、最初に国籍放棄をして〝白〟に返った、老ミネンコ夫婦の小ミネンコは、あくまでソ連人である。それどころか、巣鴨にある赤系の本拠ソ連人クラブの委員で、いろいろな事業を活溌にやっている。

そしてまた、このヤンコフスキーである。この一家には第二次大戦中、ウラジオから北鮮清津に渡ってきて、〝ある目的〟の仕事をしていた、白系露人老ヤンコフスキーを父として、三人の息子と二人の娘がいた。

その息子の一人、アルセーニェ・ヤンコフスキーは米国籍人となり、歴とした情報担当の中尉となり、クリコフ誘致工作をやっている。他の二人の兄弟と父とはソ連に、二人の娘は中共治下の上海と南米チリとに、それぞれ別れ住まねばならなくなってしまった。

このヤンコフスキー一家の渦、これもミネンコ一家の渦と同じように、民族の宿命を肯負って〝東京租界〟の濁流へと流れこんでくるのだ。

白露委員会の幹部たちは、うらぶれた屋根職人や裁縫師にすぎないのだが、ソ連人クラブに集まる人たちは堂々たる実業家ばかりである。何のための事業であり、資金はどこから来、利潤はどこへ行くのか。

〝東京租界〟とは、単純な不良外人の巣喰う犯罪都市のことではない。密航と密輸と、賭博と麻薬と、そして売春、ヤミドル、脱税――この七つの大罪のかげには、謀略の黒い手がかくされているのだ。(第三集「羽田25時」参照)

秘められた「山本調書」の拔き書

一 先手を打つ「アカハタ」 二十九年八月十四日、ラストヴォロフの亡命について、日米共同発表が行われた。その三日後の十七日に、警庁記者クラブの公安担当記者たちと、当局側の指揮官山本鎮彦公安三課長(現同一課長)との懇談会が聞かれた。

その席上、山本課長はワシントンでのラ氏取調の状況をこんな風に話していた。

山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。

赤い広場―霞ヶ関 p042-043 ワシントンで亡命ラストヴォロフの聴取。

赤い広場―霞ヶ関 p.42-43 ワシントンで亡命ラストヴォロフの聴取。
赤い広場ー霞ヶ関 p.042-043 Hearing of the last exiled Lastvorov in Washington.

山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。

二人が部屋に入ったときには、すでにラ氏は椅子に腰かけて待っていた。課長はいままで写真で見馴れている顔だったので、すぐラ氏だと分ったし、ラ氏に間違いないと思った。彼はソ連人と思えないほどしょうしゃに背広を着こなしていた。

誰も紹介はしなかった。たがいに立上って手を差し出した。課長が、

『ハウ・ア・ユウ』

といったのに対し、彼は明るく笑って、

『ゴキゲンヨウ』

と答えた。ほんとに明るい笑顔で、なんの屈託もなしに、アメリカの亡命生活を楽しんでいるようだった。

取調べには、何人かの米側係官も立会っていた。通訳は使わず、すペて流暢な日本語が使われた。課長は自分で訊問し、自分で調書をとった。米側でも二世が同時に調書をとっていた。午前と午後、昼食時に一休みするだけの毎日が、一週間続いた。夜はホテルで調書の整理につぶれ、遊びに行くどころではない。調べの場所は毎日変った。

すっかり調ベが終って、いよいよ最後という日に、少しばかり雑談が出た。取調べ中にラ氏が話す東京の地理がとても明るいので、課長が感心してみせると、

『もう一度 、東京で暮したい。……だけどその時には、もう貴下の部下も私を尾行しないでしょうね』

と、さびしく笑った。

 最後の別れの握手をしたとき、課長はこの一週間の間、莫然として感じていたことにハッと気がついた。

『何を惑じていたと思います? それは、彼の手がいつもいつも、冷たいンですョ。顔はあんなに明るいのに……』

課長は居並ぶ記者連を見渡しながら、こう話の締めくくりをつけて笑った。

こうして課長は一週間にわたって聴取った調書を携え、八月一日に帰国した。これこそラストヴォロフの吿白「日本をスパイした四年半」の一切合財なのである。この調書に現れた人名こそ、彼の協力者たちであるか、他のソ連人の手先であるか、いずれにせよソ連スパイ網に躍っていた人たちである。

それから二週間、この調書の裏付け捜査が公安三課全員の努力で、突貫作業となって行われた。多くの人が任意出頭という形式で呼ばれて調べられたり、訪ねてきた刑事に訊かれたりした。尾行や張り込みも行われた。

赤い広場―霞ヶ関 p044-045 庄司・日暮の逮捕と山本調書。

赤い広場―霞ヶ関 p.44-45 庄司・日暮の逮捕と山本調書。
赤い広場ー霞ヶ関 p.044-045 Arrest of Shoji and Higure. And Yamamoto report.

多くの人が任意出頭という形式で呼ばれて調べられたり、訪ねてきた刑事に訊かれたりし

た。尾行や張り込みも行われた。

そして八月十四日の朝、庄司、日暮両氏の逮捕後、あの日米共同発表となったのである。

だが、九月三日になって、いつの間にか山本課長は調書もとらず、米側の作った英文供述書をもらっただけ(同日付朝日新聞)ということになり、さらに東京地検の長谷、桃沢両検事が、ラ氏の供述調書をとるために米国に派遣されるということになった。

これは一体どういうことなのか。表面の理由は「もともとこの種の事件は証拠が乏しいうえに、端緒となったラ氏はアメリカに保護されており、柏村、山本両氏の持帰った供述書もかなりぼんやりした、いわば〝手記〟のようなもので、警察官調書でも検察官調書でもなく、刑訴法上の証拠としては疑問があり、公判となった場合、問題となることは当然予想され た」(同上朝日)というのである。

この「証拠力が弱い」という理由は確かに事実ではあるが、そのすベてではない。山本調書はラ氏の署名もある立派な「司法警察員の調書」である。確かに証拠力が弱いという点はあるが、それよりも重大なのは、この調書が証拠として公判廷へ提出されれば、被告の弁護人は自由に閲覽し得るということである。この時にはすでに、庄司氏に自由法曹団の共産党弁護士がつき、庄司氏自身が黙否と否認で徹底的に法廷闘争する能度をみせており、事実、拘留理由開示法廷では『逮捕に政治的なにおいがある』と激昂するほどだったのである。

そこへこの調書を出すことは、当局側の手の内を、すべて見せることになる。山本調書には、庄司、日暮両氏関係以外の、ソ連スパイ網のことが記録されているのである。当局は遂に大蔵省に接衝して、予備費から百四十万円を支出させ、再び二人の検事を派米して、両氏関係だけの調書をとることになったのだ。そして、山本調書は警視庁のスチール・ボックスの奥深く隠され、残存ソ連スパイ網への捜査が続けられている。その意味では、〝ラストヴォロフはまだ日本にいる〟のである。これが「山本調書」の正体である。

さて、このラストヴォロフ騷動が、一まず静まった九月二十七日付の「アカハタ」紙は、

アメリカ諜報機関は、これまで三鷹、下山、松川事件のような謀略虐殺事件から、鹿地、三橋、関、ラストヴォロフ書記官事件にいたるまで、スパイ、挑発事件を数限りなく起して、日本人を苦しめてきた。舞鶴におけるCICの帰還者に対する調査は、これら一連の事件と無関係ではない。

として、「アメリカ諜報機関、帰国者をスパイ、舞鶴へ旧日本軍特務を派遣」なる記事を大 きく掲載した。

これは「シべリヤ横断軍事スパイ福島大将」を父に持つ「戦時中は北京、済南などで特務機関幹部として、侵略特務工作をやり、無数の中国人民を犠牲にした」「元陸軍少将男爵福島四

郎(六七)を中心とする謀略機関」が「CICの指導で引揚者の思想調査と謀略に従事」している、という内容である。

赤い広場―霞ヶ関 p046-047 『アカハタ』紙が米側の謀略だと主張。

赤い広場―霞ヶ関 p.46-47 『アカハタ』紙が米側の謀略だと主張。
赤い広場ー霞ヶ関 p.046-047 The Akahata argues that it is a United States stratagem.

「元陸軍少将男爵福島四

郎(六七)を中心とする謀略機関」が「CICの指導で引揚者の思想調査と謀略に従事」している、という内容である。

ところが、この内容たるや、ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐や、第一次梯団長の長谷川宇一元大佐、さらに阿部行蔵、小松勝子両氏らの不法監禁事件の被害者中島輝子さんなど、全く何の関係もない人たちが引合いに出され、『この事実も彼らの企らみを実証しているものである』と結論している。

この見当外れの内容ばかりで、肝心の「福島四郎を中心とする謀略機関」の内容は、機関員の名前一つ述べられていないのである。非常に無理のあるコジツケ記事の感じがしていた。

続いて十一月二十三日、「ソ同盟代表部に謀略工作、アメリカ諜報機関と日本の警察、公然と代表部の車をつけまわす」という記事が現れた。

アメリカ諜報機関と日本の警察が、ソ同盟代表部に悪らつな謀略工作をやっていることは、白昼に外交官が拉致されるという〝ラストヴォロフ書記官事件〟をみてもはっきりする。かれらは現在もなお、陰険な謀略を続けている

という前文で、警視庁公安三課に所属する三万台の車二台が、代表部員を尾行しているし、張込みもしているし、深夜に玄関の呼鈴を押したり、投石したりするという内容である。

記事の主内容はこの三万台の車二台のことであるが、取材は浅く少しも突込んでない。「アカハタ」が指摘したのは三—三五三五四と三—三五三五五の二台であるが、三—三五三五六、七と、続きナムバーの四台が、二十八年一月七日から、エドワード・ルーなるアメリカ人名儀で、米国官庁へ貸与されているのである。つまり車籍は登録されておらず、ナムバーだけが貸与されているということである。

そしてこのエドワード・ルーなる人物は如何なる人物で、米国官庁なるところはどこかと、 この記事はもっともっと掘り下げ得る記事であるが、問題はそんなことではない。

この付図、写真二枚入り十段百九十一行という大きな記事の狙いは、終りに素知らぬ顔で付加えられている、たった十三行にある。従って三万合の車のことなどはどうでもいいし、尾行や張込みは謀略工作ではない。

問題の十三行とは次の通りである。

アメリカ諜報機関員、元陸軍特務機関員福島四郎元少将が結合している、東京丸ビルの連邦通商株式会社は、表面民主商社をよそおったスパイ商社である。社長の小方は戦時中から日蘇通信社に関係し、現在も社長としてソ同盟情報を担当している人物だし、取締役吉野松夫は、現に警察庁警備二課長(外事特高)平井学警視正や、同課の丸山警視にソ同盟、中国をはじめ、共産党や大衆団体の情報を提供している。

赤い広場―霞ヶ関 p048-049 ラストヴォロフ事件は内調のデッチあげ、と。

赤い広場―霞ヶ関 p.48-49 ラストヴォロフ事件は内調のデッチあげ、と。
赤い広場ー霞ヶ関 p.048-049 The Lastvorov case was fabricated by the Cabinet Research Office…

ソ同盟、中国をはじめ、共産党や大衆団体の情報を提供している。

そして三たび、三十年二月二十七日付「アカハタ」は「アメリカ諜報機関と日本官憲の謀略工作」と題して、八段二百八十四行の大記事を掲げた。

……ことにかれらは、最近新しい謀略事件を予定の計画として準備している事実があり、第二の松川事件、第二の鹿地事件が企らまれている。しかもこの憎むべき企らみは、アメリカ諜報機関と、その奴隷になりさがっている、警視庁、公安調査庁、外務省の重要な部分が関係をもっていることである。これはラストヴォロフ事件の正しい事実が、これら売国奴どもによって、国民の前から覆い隠されてしまっている事実と合せて考えるなら、こんどのかれらの動きの背後に重大な問題があることがわかる。(前文)

この男は中尾将就(四五)――東京都板橋区上赤塚町七五――である。かれは常盤相互銀行飯田橋支店に勤めていることになっているが、それはうわべのことで、実は彼はアメリカ諜報機関員である。中尾は他の多くのスパイ分子の例にもれず、戦前の転向脱落者である。……この手はかれらがいつも使うやり口で、馬場機関の清水郁夫が、当時電產統一委の活動家だった宗像創を、スパイの手先に引ずり込み、「日共の電源爆破」という謀略事件をデッチあげたのも、このやり口からはじめていた。

中尾将就と同じアメリカ諜報機関員で、中尾とともに活発に動いているのが山口茂雄(四一)――

東京都北多摩郡泊江町和泉二六四の六――である。……山口、中尾と緊密な連絡をとりながら、アメリカ諜報機関の対日対ソ謀略に協力している分子は相当数あるが、そのうちで特徴的なものは、次のような人間である。

ここまで、記事の半分を費して、中尾、山口両氏の紹介をしている。それからさらに人名とその〝悪事〟の紹介が続く。

望月は日米合作の官設スパイ機関である內閣調査室の、庶務部広報班員と情報文化班員をかねた任務をもつ男だ。……

川村三郎は公安調査庁調査第一部調査第三課第二係長である。かれはラストヴォロフ事件と深い関係があり、当時もっとも活潑に活動していたのである。ラストヴォロフ拉致事件を合理化するために、アメリカ側の指示で渡米した柏村信雄は、当時この調査第一部の部長であった。

高橋正は外務省欧米局第五課員である。ラストヴォロフ書記官が、日本で多くの日本人を手先にして、スパイを働いていたかのようにデッチあげ、白昼外国の首都で外交官を拉致するという、アメリカ諜報機関の不当行為を正当なものと思わせ、かえって反ソ反共の気運をもりたてようとした、同事件の経過とこの課は関係が深い。緒方自由党総裁につながる当時の内閣調査室長村井順と、当時の外務大臣岡崎の子分の曾野明の二つの謀略線が、ラストヴォロフ書記官の拉致に関係深いことを、隠しきる自信をなくして自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外 第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。

赤い広場―霞ヶ関 p050-051 ソ連代表部の指示で書かれたアカハタ記事。

赤い広場―霞ヶ関 p.50-51 ソ連代表部の指示で書かれたアカハタ記事。
赤い広場ー霞ヶ関 p.050-051 Akahata’s article is written under the direction of the Soviet delegation.

自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外

第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。高橋は日暮の死によって一位上位にのぼって ソ同盟関係の諜報活動をやっている。

大隅道春は旧海軍の特務機関にあたる海上幕僚監部調査課勤務の三等海佐(海軍少佐)。

その他SP(ソヴエト・プレス)通信社の倉橋敏夫社長、キャノン機関の韓道峰(韓国人)、台湾引揚者の中島辰次郎、白系無国籍人のチェレムシャンスキーなどの各氏の名を、もつたいらしく並ベている。二人の民間人、四人の公務員、最後につけたりのような民間人や外国人。そしてこの記事の結びには、

この張本人はアメリカ諜報機関と警視庁であり、警視庁では警備第二部公安第三課長渡部正郎警視と、公安第一課長山本鎮彥警視正(前公安第三課長)である。

とある。

多くの紙数を費して「アカハタ」の記事を転載したが、このそれぞれラストヴォロフ事件の一月半後、その二ヶ月後、さらに三ヶ月後と間をおかれて掲載されたこの三つの記事は、並べて読んでみると、ラストヴォロフ事件についての、一貫した意図と目的とをもって書かれた記事であることが明らかである。

これは「アカハタ」や「真相」が幻兵団事件を徹底的にデマだと主張し、「アメリカの秘密

機関」の著者山田泰二郎氏が、一方的に米諜報機関だけを曝露したのと同じように、ラストヴォロフ事件で明らかにされたソ連スパイ組織の恐怖を、真向から否定して宣伝し、その憎悪を警察当局、ラ事件の捜査当局幹部に集中させようと意図しているのである。

だがそれよりも重大なのは、「アカハタ」の読者である、シンパや末端党員たちに〝心の準備〟をさせようとしていることである。

〝心の準備〟とは何か。ラストヴォロフ事件の捜査の進展と同時に、ソ連スパイ網が如何に国民各層の間に、巧妙に浸透していたかということが、いわゆる〝ブル新〟によって記事になったとき、それは〝ブル新のデマ〟と主張するための伏線である。

この三回の記事には、捜査当局が極秘にしている「山本調書」の内容の一部が明らかにされている。しかも、この三回の記事の時間的間隔は、同時に捜査の時間的経過におおむね付合して、しかも一手早いのである。「山本調書」の内容が、部内からアカハタに洩れるはずがない とすれば、この三回の記事はラストヴォロフ・スパイ網の内容を知っている、元ソ連代表部からの指示によって書かれたものだと判断されるのである。

 二 スパイは殺される! 二十九年八月二十八日午後、取調中の日暮氏が東京地検の窓から飛びおりて死んだ。三橋事件の佐々木元大佐といい、今度といい、ソ連のスメルシ(スパイに

死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。

赤い広場―霞ヶ関 p052-053 日暮飛び降り自殺。その真相。

赤い広場―霞ヶ関 p.52-53 日暮飛び降り自殺。その真相。
赤い広場ー霞ヶ関 p.052-053 The truth of Higure jumping and committing suicide.

ソ連のスメルシ(スパイに

死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。

取材の対象は「何故自殺せざるを得なかったか――その真相」である。有罪でも最高たかが一年の刑である。日暮氏が逮捕された時、氏をよく知る(という意味は、氏の性格とか人となりばかりではなく、日暮氏が逮捕されるにいたった理由や経過を含めて)某氏から、私は忠吿を受けていた。彼は予言者のように、確信にみちてこうささやいた。

『日暮は……死にますよ』

私は息をつめて彼の顔を見返した。

『エ! やりますか?』

『やりますとも! 〝スパイは殺される〟ですよ。釈放になったら、すぐその時に会っておかねば馱目です』

流石の某氏も留置中にやるとは思えなかったらしい。しかし、死ぬべく運命づけられていた、ということでは、この某氏の判断が正しかったのであった。

自殺直後、調べ官の東京地検公安部長谷副部長検事は新聞記者たちに『自殺の原因については思いあたるフシもあるが、供述の内容にふれるので今はいえない。供述はある程度経った後

だった』と語っている。つまり、自殺の動機や真相のカギは、この長谷検事の調書にあるわけであるが、この「長谷調書」も「山本調書」と同じように筐底深く蔵されて、極く少数の関係係官以外には読んだ人とていない。

自殺の真相をたずねるため、ここでラストヴォロフと警視庁との間の、一つのエピソードを語ろう。ラ氏がヮシントンで山本課長にいった別れの言葉、『もう一度東京で暮らしたい。……だけど,その時には、もう貴下の部下も私を尾行しないでしょうね』という言葉にまつわる話である。

ラ氏はその手記でも述べているように、アメリカ人工作も任務としていた。そのためには麻布の東京ローンテニスクラブの会員になって、ジョージという通称で、米人たちと友人として 親しくつきあっていたのであった。

彼の手記にでてくる「ブラウニング夫人」なる米婦人についての情報は、日本側当局にはない。ただソ連代表部に出入りした米婦人についてはあるので、或はその婦人がブラウニング夫人なのかも知れない。米軍人については数名のデータがある。

 たとえば、聖路加病院の軍医ラリー大尉である。当局筋の観察ではこのラリー大尉などが、ラ氏の〝西欧びいき〟を決定的にするのに、大きな影響を持った人だったのではないかという。

赤い広場―霞ヶ関 p054-055 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。

赤い広場―霞ヶ関 p.54-55 米軍一等兵の愛人、鈴木千鶴子。
赤い広場ー霞ヶ関 p.054-055 Chizuko Suzuki, Mistress of the 1st class soldier of the U.S. Army.

さらにジェニーことヴァイングトンという極東空軍の一等兵がいる。彼には新橋駅付近にたむろする夜の女で、鈴木千鶴子さんという愛人がいたのだった。彼女の新橋での通称は遠慮して、小柄などちらかといえば可愛い型の子である。

ジェニーは一等兵だからあまりお金を持っていなかった。だが、やがてお金をつくる方法を思いついた。部隊の話をソ連人が買ってくれるだろうというのである。ミグで脱出した北鮮人のように、十万弗ぐらいはくれるかも知れないと考えた。しかし、どうしたらそのソ連人に逢えるか分らない。そこで彼女に相談してみた。

彼女の答は簡単だった。

『ソリャ、ソ連大使館できけばいいわよ』

『どうして行って、何てきくんだい?』

『いいわ。アタシが行ったげる……』

こうして彼女は麻布の元代表部に、一人でのこのこと出かけていった。その時に彼女の話に乗ってきたのがラストヴォロフだったのである。

元代表部にはこのほかにも、米兵自身のネタの売込みなどの例があった。しかし、そんなのはとるに足らないので、ウルサク思ったソ連側では、その米兵の部隊に通知してやったということもあった。

彼女の話で、ラ氏は出かけてきてジェニーとレポをした。これをつかんだのが当局である。 こうして、ラストヴォロフ二等書記官は注視され、やがて実は政治部中佐という階級を持つ、 内務省系のスパイ組織者だということまで分ってきた。

そのころにはすでに日本は独立国となり、刑事特別法という、駐留米軍の機密を守る法律ができていたのである。ラ氏の行動は同法違反であるという確信を得た。

当時の課長は、何しろメーデー事件や五・三〇、六・二五各事件で、断乎として大量の朝鮮人を検挙して、〝坊ちゃん課長〟から〝鬼の山チン〟に変えられたほどの山本課長である。土性ッ骨が太くて、思い切ったことを果断実行する人である。

課内の意見は、「現行犯検挙」と決った。さらに、検察庁、外務省など関係当局との間で幾度か会議が開かれ、警視庁の意見が容れられた。この時には伊関国際協力局長、新関欧米第五課長などが相談にのり、検挙後の外交交渉の問題などが研究されていた。そして、新関課長の腹心日暮氏が、また当然その諮問に応じていたのである。

ジェニーの彼女は日本人であった。係官が事件の理由を説明して、率直に彼女の協力を求め た。

赤い広場―霞ヶ関 p056-057 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。

赤い広場―霞ヶ関 p.56-57 日暮が警察の待ち伏せをラストヴォロフに通報。
赤い広場ー霞ヶ関 p.056-057 Higure tells Lastvorov the ambush of the police in secret.

彼女ははじめて事の重大さに驚いて協力を約束した。この間の経緯は将来に備えて、正規の警察官調書となって、彼女の署名捺印とともにいまも当局に残されている。

こうして、米兵とラ氏とのレポの時間と場所が判明した。だが、その現場を包囲した係官たちの顔には、ようやく焦躁の色が浮んできた。米兵は定時刻に現れたが、ラ氏は来ないのである。

ラストヴォロフはついに、現れなかった。何も知らない米兵と、何も彼も知っている係官たちとは、それぞれに失意のうちに帰っていった。ラリー大尉も、ジェニー一等兵も、そしてソ連人と親しくしていた他の米兵も、本国へ送還されたことはもちろんである。

「山本調書」には、この件りについて次のようなラ氏の供述が書いてあるという。

……警視庁の係官たちが現場に張り込んでいる。危険である。という日暮からの知らせがあったので、それ以後はその米兵と会うのは止めました。

当時、日暮氏はモスクワ時代の〝事件〟について、率直にその旨を上官に申告していたのである。だが上官たちは、自己にその責任の及ぶことを恐れ、また或いは対ソ情報源としてその〝事件〟と〝事実〟とを黙認していたといわれている。もしこれが事実ならば、この上官たちには何の責任もないものだろうか。日暮氏のこのラ氏への通報は、明らかに公務員法第百条違

反であろうが、日暮氏一人に負担させられるべき性質の問題だろうか。

また日暮氏の供述には新日本会グループのことがある。私はこのことを〝説“として以下に紹介したが、彼はこれを〝事実〟として供述しているのである。

さらにまた、内閣調査室における複雑な彼の立場がある。彼はまたこの事実も語っているのである。

自供しようが、否認しようが、また、その名前が公表されようが、されなかろうが、〝スパイ〟は殺されるのである。長谷検事はこういっている。『きよう出来上った調書が問題で、内容を明らかにすれば自殺者の気持が判ると思う』(八月二十八日付毎日夕刊)

一切を否認して、左翼系の自由法曹団の庇護を受けて強弁する庄司氏の態度よりは、率直に一切の真相をブチまけ、ソ連の諜報謀略工作の全貌を当局に教え、さらに政府内部への忠告として、外務省幹部たちの氏名と、その非日活動(という言葉が当るならば)の事実とを曝いた、日暮氏の勇気ある行動は、やがて史家によって認められ、賞讃に値することになるに違いない。

後に遺された幼い子供達の、健やかな成長のためにも、その日のあるを願ってやまない。日暮氏もまた、ソ連スパイ組織の脅迫と強制とによって、その平和と幸福とを奪われた一人であるから……

赤い広場―霞ヶ関 p058-059 ソ連の手先「新日本会」とは。

赤い広場―霞ヶ関 p.58-59 ソ連の手先「新日本会」とは。
赤い広場ー霞ヶ関 p.058-059 What is the “New Japan Association” that the Soviet uses as an agent.

文芸春秋誌のラ氏手記には、「新日本会」という団体について次のように書いてある。

われわれはその年(一九四五年)の夏にソ連の対日宣戦布告以後、モスクワに抑留されていた日本の外交官のなかから、スパイの手先に使う人間を物色し始めた。その外交官のなかに日本における自由主義的な政治思想を促進するという見地から、「新日本会」というのを組織した五人の大使館員がいた。われわれはこの五人を一人ずつ、他の者にはわからないように買収しにかかった。

彼らに「西方の帝国主義」とくにアメリカの帝国主義を吹きこむことによって、われわれの側につけることは比較的容易な仕事だった。日本政府は崩壊したと同様の状態にあり、彼らが果して将来職にありつけるかどうかもわからない有様で、とくにその経済的な見通しは絶望状態におかれていたので、彼らに金のことをにおわせれば、比較的簡単にこちらの話にくっついてきた――おまけにその金も余り大きな額でなく済んだ。(一九八頁)

この手記がすべて事実である、とはいえないのはもちろんである。従って「五人の大使館員」という数字も身分も、また「新日本会」という名も、必ずしも事実ではない。

だが、若干の相違はあるとしても、この話の本筋そのものは事実である。つまり何人かの人

が「買収」(というこの言葉も事実ではなく、脅迫と強制かも知れない)されて、「われわれの側についた」ことは、事実である。

終戦当時モスクワには佐藤尚武大使、守島伍郎公使、矢部忠太陸軍、臼井淑郎海軍両武官ら家族とも六十余名の大使館員と、民間人である朝日清川勇吉、毎日渡辺三樹夫、共同坂田二郎三特派員とが、大使館内に軟禁されていたのであった。

この新日本会という会の発生には、当時の人たちの談話を綜合してみると二説ある。一説は戦後のある日、佐藤大使がソ連側に呼ばれて大使館を出ていった。帰ってきて間もなく、大使の秘書格だった日暮信則書記生が大使に呼ばれ、この会ができたというものだ。

他の説は、東京外語ロシヤ語科出身者のうち、昭和七、八年ごろの卒業生で組織している「七八(ナヤ)会」というのがある。この七八会のメムバーが集って「新日本会」をつくり、日暮書記生から佐藤大使に話をして、その会長格になってもらったというのである。

いずれにせよ、この新日本会が七八会員を中心として、作られたものであることは間違いないし、同じ年ごろの気の合った連中ばかりであったことも事実である。

この新日本会の会員といわれる者のうち、意志を通じ合っていた五人のメムバーというのは、毎日渡辺三樹夫記者(東京外語昭八卒)、朝日清川勇吉記者(同昭十三卒)、日暮信則外務書記生(同昭八卒)、庄司宏外務書記生(同昭十三卒)、大隅道春海軍書記生(同昭十二卒)であった。このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

赤い広場―霞ヶ関 p060-061 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?

赤い広場―霞ヶ関 p.60-61 佐藤尚武大使がソ連との協力を指示?
赤い広場ー霞ヶ関 p.060-061 Ambassador Sato Naotake directed cooperation with the Soviet Union?

このグループのイニシァチヴをとったのは渡辺記者であり、懐疑的だったのは大隅書記

生であり、大使との連絡係は日暮書記生であったといわれる。

ラストヴォロフはその手記で、『この五人を一人ずつ、他の者にわからないように、買収しにかかった』と述べているが、やはり当時の関係者の談話を綜合してみると、ラ氏手記は若干違うようである。

新日本会そのものの出発は、ラ氏手記にあるような目的だったらしい。ところが、結成後の会の運営は、「ソ連側に協力する」という方向へすすみつつあったので、これはイカンと云い出したのが大隅氏で、リーダー格の渡辺氏と論争ばかりしていた。これをマアマアと大隅氏をなだめて、「協力」の方向へ一致して進もうとすすめたのが、日暮氏だという。するとラ氏のいう『他の者に分らないよう』というのは少しズレている。少くともこの五人のメムバーはその任務について論じ合っているのだから。

ところが、さきほどの佐藤大使召喚の説である。これによると、大使はソ連側に呼ばれて、〝協力を要請〟された。平たくいえば、スパイになるか、或は部下からスパイ要員を出せということだ。

これに近い例は、シベリヤ捕虜でも、常に連隊長、大隊長などの最高責任者に要求し、応じなければ長以下全員を苦しめる。そこでその長が屈服して要求に応ずるということだ。第集

の幻兵団の、山田乙彦獣医大尉の大隊が悪条件の伐採に出され、山田乙彦大尉は部下のために誓約したのなどもその例である。

大使は困って、帰館してから腹心の日暮書記生を呼んで、因果を含めて「協力」させ、新日本会全部がその方向に向ったという説である。佐藤尚武氏は参院議長もやられた外交界の大長老であるから、失礼にならぬよう〝説〟と申上げるが、日暮、庄司両氏が逮捕されたときには佐藤大使の身辺危うしの説が流布されていたのは事実である。

そして、大隅氏が説得されて、新日本会の方向が「対ソ協力」と決定されてから、軟禁されていた日本人たちの行動の自由が恢復し、街へ買物にも行けるようになってきた。そこでスパイ誓約書の署名などという、ソ連式儀式が行われたかどうかは知らぬが、私がスパイになることを承知してダモイできたように、この外交宕たちも敗戦の犠牲となったのであった。 果して、帰国後、佐藤大使以下のモスクワ駐在日本人たちのうち、誰と誰とに合言葉のレポがあったかは、私には分らない。ともかく警視庁の捜査当局は、新日本会の会員(?)であった日暮、庄司両氏だけを逮捕したのであった。もちろん他の人々、公務員も民間人も、参考人として任意に出頭して、或は泣きながら、或はオドオドしながら、当時の事情を供述し、その止むを得ざりし環境を釈明したのであった。

赤い広場―霞ヶ関 p062-063 内調の内紛を暴露するアカハタ。

赤い広場―霞ヶ関 p.62-63 内調の内紛を暴露するアカハタ。
赤い広場ー霞ヶ関 p.062-063 The Akahata exposes the internal trouble of the Cabinet Research Office.

そして、それらの人々は、もちろん、日本の社会の指導階級ともいうべき、あらゆる地位にあり、教育も、名誉も、さらに将来をも持っている人たちばかりであった。

そして「アカハタ」はこのメムバーを先手を打って発表しているのである。

三怪文書おどる内閣機密室 総理府官房調査室、略して内調は日本の機密室である。二十七年四月、特高のなくなった戦後に警備警察制度を設け、国警本部初代警備課長となった内務官僚村井順氏によって創立された情報機関である。

この調査室は創設以来あらゆる意味で各界から注目されている。二十七年十二月、当時の緒方副総理の提唱した、新情報機関の構想の基礎となったのも、この内閣調査室である。

ところが、さる三十年四月下旬ごろ、その内情について、いわゆる〝英文怪文書〟が、各官庁、政府内部にバラまかれた。戦後の大事件である帝銀、下山、松川、鹿地などの事件に登場した〝英文怪文書〟の伝である。

つづいて、この英文とほぼ同内容のガリ版刷り怪文書が、「極東通信社極秘特報第一〇八号」と銘打たれて、再び関係各方面にバラまかれたのである。

その内容は、ラストヴォロフの手先のスパイが内調に喰い込んでおり、重要機密を抜かれた内調ではその対策に苦慮しており、木村室長は辞意を表明したが、結局は引責辞職せざるを得

ないだろう、という要旨である。

この怪文書の狙いは、明らかに前警察庁人事課長という内務官僚である、木村行蔵の追 い出しを図ったものである。では、この内務官僚の追い出しを図ったのは誰か?

怪文書とはしょせん怪文書であり、’デマである。こうしてはしなくも、ここにその内情をバクロした〝日本の機密室〟の内粉の真相は何か?

これこそ内調創立当時の村井順室長(現京都警察隊長)と曾野明外務省情報文化局課長(現ボン駐在参事官)との対立にはじまる、内務対外務官僚の主導権争いであり、同時に如可に官僚たちが、この小さな機関の将来を重要視しているかということである。

この争いが、祖国を想う至情からの争いならば、何をかいわんやであるが、果して事実はどうか。ここにその実情を抉ってみよう。

まず、怪文書からみよう。昭和三十年四月二十日付の「極東通信社極秘特報第一〇八号」は、普通の白角封筒の裏に「極東通信社」とのみ、下手なペン字で記されて、同日東京中央局の消印で配達されている。

このペン字は、筆跡をわざとゴマカして、左手かまたはペンを逆に使った字である。内容はワラ半紙にやはり下手な横書の字だ。

赤い広場―霞ヶ関 p064-065 稚拙な怪文書をだれがバラまいたのか?

赤い広場―霞ヶ関 p.64-65 稚拙な怪文書をだれがバラまいたのか?
赤い広場ー霞ヶ関 p.064-065 Who distributed the nasty dubious documents?

「ラストヴォロフは日本に居る! 日ソ会談の背後に配下が跳る」と二段見出しを付けた本文は次の通りである。

日ソ会談の成行きが世界の注目を浴びているが、本年一月二十六日元在日ソ連代表部ドムニッキー氏から鳩山首相に手渡された、日ソ会談のノートによる申入れの背後には、昨年一月帰還を前に突如亡命したラストヴォロフ中佐と、密接な関係にあったソ連諜報部員が秘かに活動して、日ソ接近を計画した事実が次第に明るみに出て、鳩山内閣を狼狽させている。

伝えられる所によれば、政府の機密情報組織といわれている内閣調査室長木村行蔵氏が、突如四月十日、根本官房長官、前調査室経済班長同席の席上、木村室長は辞意を申出たため、田中官房次長、根本官房長官は狼狽してその前後策に苦心している。

その原因として伝えられる所は、ラストヴォロフ中佐が失踪後、それまで、ラストヴォロフ中佐の配下として、対日情報工作に暗躍していた志位元陸軍少佐と秘かに連絡していた元陸軍将校某氏、現運輸省外郭官庁在勤の某氏らが、密接な連絡の下に内閣調査室に喰い込み、巧みに暗躍していた事実が明るみに出される気運が激化したので、これが明らかにされれば、調査室幹部の職務上の大失態が暴露されることになるので、田中官房次長、根本官房長官は相当狼狽の色を深くし、旣に根本官房長官も辞意を固めたといわれ、関係者は内容の外部に洩れるのを必死に警戒している。(原文のまま)

ラストヴォロフ、日ソ交渉、志位元少佐などと、一応の小道具は揃えてみたものの、所詮は〝怪〟文書であることは、その稚拙極わまりない悪文と、徒らに誇大な表現が、事実と何の関係もなく、飛び出してきていることでも明らかであろう。

もちろん、この日付の四月二十日から一月余りを経過した今日でも、木村氏は室長を辞任もしていないし、事件そのものが進行せず、各新聞紙がこれを全く黙殺したことでも、これが単なるイヤガラセの怪文書にすぎないことが立証されると同時に、この怪文書当事者の頭の悪さ加減をも証明している。

前にあげた大事件のさいの怪文書は、ハッキリした政治的、思想的立場をとっており、文章ももっとマシで、しかも鹿地事件や松川事件のさいなどは、ジャーナリズムも取上げざるを得ないような、意外な具体的内容をもつた怪文書であった。これに比べると、この怪文書などは〝怪文書〟の名を辱しめるもので、〝醜文書〟とでもいうべきであろう。

私がここにこの文書をあえて紹介したのは、これが内調の実情を説明するのにもっとも良い例だと思ったからである。

この怪文書がバラまかれるや、当の内閣調査室はもちろん、警察庁、警視庁、公安調査庁などのいわゆる治安当局でも、その実情の調査を行った。その結果、治安当局筋の見解を綜合す

ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。

赤い広場―霞ヶ関 p066-067 サウジ政府顧問に付き添う肝付兼一。

赤い広場―霞ヶ関 p.66-67 サウジ政府顧問に付き添う肝付兼一。
赤い広場ー霞ヶ関 p.066-067 Kimotsuki Kenichi accompanied the Saudi Arabian government adviser everywhere.

その結果、治安当局筋の見解を綜合す

ると、この怪文書の関係者の一人として、元内調出向の通産事務官肝付兼一氏の名前が浮んできている。

この肝付氏に関しては過去において、極めて不可解な事件の関係者として、登場してきたという事実がある。どうやら問題はその当時にさかのぼらざるを得ないので、旧聞ではあるが一応説明しておこう。

二十八年七月十七日、サウジ・アラビヤ国大蔵省顧問という肩書をもつ、一人の外国人が羽田に降り立った。アブドル・アジース・アザーム博士という。同氏は仏伊で経済学を専攻し、元トルコ、イラン、イラク各国駐在のエジプト大使であり、元エジプト士官学校教授であり、アラブ連盟事務総長の実弟で、パキスタン駐在エジプト大使の伯父という、彼の国の一流の大人物である。

同氏の来日目的は、経済交流、通商協定、工業力や商社の調査であったといわれ、数億ポンドの工業計画やら、スーダンのダム、貯水池建設計画、不毛地開墾の技術援助などのプランを持っていたようであった。

ここまではマットウな話であり、それでよいのである。同氏の来日は日ア親善として極めて結構なことである。ところが同氏の来日と同時に不思議なことが起った。

氏はホテル・トーキョー五一九号室に投宿するや、同時に病気と称して一切の面会が拒絶され、一人の日本人が影の形に沿うが如く、常に氏につきまとっていたのである。

氏は七月十七日来日以来、八月二十八日上野精養軒で開かれた、石川一郎氏らによる経団連主催の歓迎会に姿を現わすまでの四十日間というものは、殆ど全く公的な活動を行わず面会謝絶となっていた。

しかし、事実は外出もしたし、客にも会っていたが、常に前記日本人の立会なしではいささかもの動きも見せなかった。部屋つきのメイドの話によると、氏は元気であり、面会を謝絶するような病人でなかったことは明らかであった。彼女はまた氏が自由行動を許されていなかったかどうかは別として、件の日本人のいないときは全く部屋に籠っており、単独行動をとったことはないと証言した。

これでは、まさに軟禁である。そしてこの日本人は通訳としてのみ、博士を歓迎しようとする日本アラビヤ協会や、近東アフリカ貿易会の人たちにその名前を知られていた。

この男が、元陸軍中将肝付雄造氏(陸士第十九期)を父に持つ、前記肝付兼一氏であったのである。そして、肝付氏は当時内閣調査室員であった。 〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった。

赤い広場―霞ヶ関 p068-069 村井室長はヤミドル事件をデマだと否定。

赤い広場ー霞ヶ関 p.068-069 村井室長はヤミドル事件をデマだと否定
赤い広場ー霞ヶ関 p.068-069 Murai manager claims that the illegally dollar matter is a false rumor.

〝日本の機密室〟員が通訳として、外国の経済特使につきまとっており、その特使の行動が極めて不可解なものであった、という事実しか筆者は知らない。しかし、この事実は当時内調の謀略として、一部で問題視された事件であった。果して内調が何を意図し、何を行い、何を得たかは全く分らない。しかし、このような奇怪な事件があったことは事実である。

アザーム博士に肝付内調室員がつきまとっていたのと同じ時期に、西独のボンでは村井室長が二人の英国諜報員につきまとわれていたという、皮肉な廻り合せの事件が起きていたことは面白い。

つまり、肝付氏にアザーム博士工作を命令(?)した村井室長は、その後外遊して有名な「腹巻のヤミドル事件」の主役として、いろいろな意味で問題となっていたのである。

この事件というのは、村井氏が三千ドルのヤミドルを腹巻の中にしまいこんでいたのを、英国官憲に摘発され、上衣まで切開かれて取調べをうけたというデマが流され、同氏が新情報機関の立案者だけに大いに間題となったことだ。

新情報機関というのは、二十七年十一月に当時の緒方官房長官が構想を練り、特殊国策通信社を設立し、各国の放送、無電の傍受をしようというものである。ところがその構想の下請けは村井氏が企画したもので、内閣調査室を母体にしようというのであった。

そういう時期が時期であり、村井氏の欧米出張がMRA大会出席という名目であり、外交官旅券が出されたのだから出張命令は出ているのに、旅費は出ていないということなども疑惑を生んで、三千ドルはヤミ工作資金ではないかという騒ぎになった。

村井氏は内務官僚で、第一次吉田内閣の首相秘書官から、特高一斎罷免のあとをうけて警備警察制度の創設に当り、二十二年国警本部に警備課を新設してその課長になり、さらに二十七年春内閣調査室長に転じた人である。

私にとっては、例の幻兵団記事が治安当局でもオトギ話としか受取られなかった頃、村井課長が早くもこれに注目して、その資料の収集に当ったという因縁があるのだ。

九月二十二日帰朝した村井室長は、ヤミドル事件をデマだと否定したし、外務省へも在外公館からの公電で事実に反するといってきたから、デマであることは事実だ。ではこのデマは何故出てきたのだろうか。

この事件こそ、今日の怪文書事件の原因ともいえる、内調発足時からの内務官僚と外務官僚との、主導権争いのセクショナリズム的対立であり、また日米英ソ四ヶ国の秘密機関にまつわる〝説〟もあるほどの、激しい国際諜報謀略戦のヒナ型である。しかもまたラストヴォロフ事件とも関係している。

まずこの内調の基礎的な条件からみてみよう。これは村井氏が企画立案したもので、綜合的 な情報機関として、その設立を各方面に進言し、自らその責任者となって発足した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 内閣調査室設立と村井・日暮・曾野の三角関係

赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 The Cabinet Research Office and Triangular relationship between Murai, Higurashi, Sono
赤い広場ー霞ヶ関 p.070-071 The Cabinet Research Office and Triangular relationship between Murai, Higurashi, Sono

まずこの内調の基礎的な条件からみてみよう。これは村井氏が企画立案したもので、綜合的

な情報機関として、その設立を各方面に進言し、自らその責任者となって発足した。そして治安情報の一元化を図るというので、治安関係各省から専門家を供出させて、これらの出向者で出来上った寄合世帯であった。

この時、責任者となったのは〝内務官僚のソ連通〟村井氏であったが、〝外務官僚のソ連通〟曾野明氏もまた、次長格で出向する予定だった。しかしオーソリティを以て任ずる曾野氏は、村井氏の下風につくのを嫌って、その部下の日暮信則氏(ラ事件で二十九年八月十四日逮捕され、同月二十八日自殺した)を出向させたといわれる。

日暮氏はソ連畑の生え抜きで、欧米五課(ソ連関係)の前身である調査局第三課時代から当時の曾野課長の部下として、ソ連経済関係の情報収集に当っていた。曾野氏は二十二年四月調査二課長から同三課長に転任、いらい二十六年暮情報文化局第一課長になるまで、日暮氏の直接の上官であったばかりでなく、情報局に移ってからも日暮氏を引立てて、自分の関係雑誌や講演会に出させていた。

日暮氏もまた反共理論家として、曾野氏と共鳴するところが多く、郷里茨城県選出の自由党代議士塚原俊郎氏はじめ、官房長官だった増田甲子七氏ら政府有力者と、曾野氏との橋渡しをしていた。そして曾野氏は内閣調査室を蹴飛ばす一方、いわば商売仇の村井氏が何をするかを探らせるため、腹心の日暮氏を出向させたのだともいわれている。

一方村井氏はまた大いに日暮氏を信頼しており、ソ連月報の編集はもとよりその外遊記録である著書の草稿まで書かせたといわれ、ここに村井氏の腹心(度々腹心という言葉を使うが、日暮氏のソ連通としての能力は第一人者で、ことソ連に関して仕事をしようという役人は、誰でも日暮氏を腹心の部下として、その能力に頼らざるを得なかったのである)としての日暮氏、村井氏と敵対関係のような立場にある曾野氏の腹心としての日暮氏といった、村井―日暮―曾野の奇妙な三角関係が生れたのである。

さて、ヤミドル事件である。村井氏は二十八年八月十日「各国治安および情報機関の現況実情調査のため」という目的で、総理府事務官兼外務事務官という資格で、ラングーン経由、スイス、西独、フランス、イギリス、アメリカ、イタリヤ、スエーデンに行くとして、外交官旅券の申請をしている。

しかし、外部に対しては「MRA大会出席のため」という目的を発表した。その費用については二十八年九月二十三日付時事新報が

内閣調査室の語るところによると「村井氏は私費旅行であり、その旅費は中学同窓の某氏(この人もMRAに参加)の篤志によったものだと聞いている、調査室の公費は全然用いていない」というこ とである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.072-073 村井氏の真の外遊目的とは?

赤い広場ー霞ヶ関 p.072-073 What is the true purpose of Murai's travel abroad?
赤い広場ー霞ヶ関 p.072-073 What is the true purpose of Murai’s travel abroad?

調査室の公費は全然用いていない」というこ

とである。このことは事実のようだ。しかし九月十五日の渡航審議会で問題になったのは、村井氏が私費旅行として、審議会の民間ドル割当六百二ドル五十セントを受けながら、公用の「外交旅券」を何故携行しなければならないかということである。これには外務当局にも強く反対するものもあったが、結局村井氏の政治工作によって止むなく発行したという経緯もあるという。

と述べているが、この外遊は、麻生和子夫人―福永官房長官の線が徹底的に反対したのを、緒方副総理の了解でやっと出発できたといわれている。

問題の発端は、当時のボン大使館二等書記官上川洋氏の、曾野氏に宛てた私信である。同氏は二十九年春帰朝して、現在は欧米四課勤務であるが、曾野氏の直系といわれている。その私信については、誰もみた者がいないので分らないが、受取人の曾野氏がニュース・ソースだから、或る程度まで本当だろうと、省内では取沙汰されていた。

この私信の内容について、前記時事新報は次の通り報じている。

この私信は村井氏の行動について記述されたものであり、三千ドル事件については一切触れていない。すなわちその内容を要約すると、

一、ストックホルムからの電話連絡で、村井氏は英語がよく話せないからよろしく頼むといってきたので、右の某氏(著者註、上川洋氏)が八月二十六日ボン郊外ワーン飛行場に出迎えたところ、英国諜報関係官(CICのデヴィット・ランカスヒレ、フローイン・ジャンカーの両氏)に付添われて到着した。

一、ボンにおける村井氏の行動には、この二人の英国人が世話役及び通訳(著者註、肝付氏と同じ手である)と称し終始付添っていた。

一、大使館主催で村井氏を招待したが、英人二人も出席した。

一、入独後、米国諜報部の最高責任者(著者註、アレン・ダレス氏?)と面会することを妨害され、却って共産党転向者某氏との面会を示唆された。

一、村井氏は二名の英国人を述惑視し、かつ警戒しつつも終始行動をともにした。

一、村井氏は広範な調査要求を置手紙としてボンを発った。

一、村井氏持参のトランクがホテル宿泊中に捜索を受け、上衣の内側は刃物で裂いて調査された。

ところが問題はこれからにある。すなわち村井氏の真の外遊目的であるが、私は〝信ずべき筋〟の情報で次のように承知した。しかし村井氏にただしてみたところ、同氏は真向から否定したので、あくまで〝情報〟の範疇を出ないのである、とお断りしておく。

つまり日本の情報機関(これはウラを返せば秘密機関である)については、当時四通りの案があった。警備警察制度の生みの親の村井案、緒方案、吉田(首相)案、それに元同盟通信社長古野伊之助氏の古野案の四つである。

これについて、村井氏はこの四案を携行して、米CIA長官アレン・ダレス氏か、もしくは その最高スタッフに会って、その意見をきくための外遊だったという。

赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 デマの出所は曾野氏なのか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 Is the false rumor coming from Sono?
赤い広場ー霞ヶ関 p.074-075 Is the false rumor coming from Sono?

これについて、村井氏はこの四案を携行して、米CIA長官アレン・ダレス氏か、もしくは

その最高スタッフに会って、その意見をきくための外遊だったという。そしてそのために吉田首相の直筆の書簡をも、持って出かけたというのである。

もともと村井―日暮―曾野という三角関係では、村井、曾野両氏とも、日暮氏の〝特殊な事情〟を充分承知していた。ただ村井氏は積極的に日暮氏にソ連人との接触を認めて、その対ソ情報の確度を高めさせようとしていた、といわれるのに対し、曾野氏の方がズルクて、日暮氏とソ連人との接触を知っておりながら、知らぬ振りをしてその対ソ情報だけを吸上げていた、といわれているのである。

いずれにせよ日暮氏は村井氏の腹心であったから、村井氏の外遊目的を知っていた。そしてその目的がラ氏を通じて流れた。

ここで余談になるが、英国の諜報機関について一言ふれておこう。ソ連の機関員は党員で、しかも訓練と教育をうけた経歴のあるものでなければならない。英国のシークレット・サービスは、親子、孫という深い家系によらなければならぬという鉄則がある。これがソ連と英国の秘密機関の伝統であり、その世界に冠たる所以でもあるのだ。

この英国の機関は、対米という点ではソ連機関の線とダブッている場合が多い。そこで日暮―ラストヴォロフと流れた村井外遊の真相は、英国秘密機関の同時にキャッチするところとなり、上川私信の通りワーン飛行場に英国諜報官が出迎えることになったのであろう。

さて村井氏が、この〝情報〟の伝える真の使命を、書類を奪われることなく果し得たのか、或は上衣まで切開かれて、君命を辱しめたのか、そこは分らない。そしてまたこのような国家的秘密、ましてや吉田秘密外交のそのまた秘密などは、一新聞記者の身として、第三者に提示し得るような確証を得ることは、不可能に近いのである。

もちろん、村井氏は否定した、肯定するはずはあるまい。ただ筆者としては、そのニュース・ソースである〝信ずべき筋〟への信頼の度合と、その前後に現れた具体的徴候とによってのみ、僅かに判断し得るのである。

「三千ドルのヤミドルで腹巻まで切り開かれた」というデマの根拠は、上川氏が曾野氏へあてた前記の私信である。しかも、その私信には「上衣まで切り開かれた」とはあるが、三千ドルのヤミドルなどとは全く書かれていない。根拠となった私信が、曾野氏宛のものであるからには、デマの出所も曾野氏と判断されても致し方がなかろう。

村井―日暮―曾野という線で、村井氏の外遊目的を知っていた曾野氏も、その国家的影響を考えて、一切をバクロすることを慎んだのではあろうが、村井氏の旅費が国庫から出ていないという、不明朗さを同時に衝くためにも、このような三千ドルのヤミドルというつけたり で、デマをまくようにしたとも判断されるのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.076-077 怪文書事件を解く3つの解釈

赤い広場ー霞ヶ関 p.076-077 Three interpretations to solve the mysterious document matter
赤い広場ー霞ヶ関 p.076-077 Three interpretations to solve the mysterious document matter

村井氏の旅費が国庫から出ていないという、不明朗さを同時に衝くためにも、このような三千ドルのヤミドルというつけたり

で、デマをまくようにしたとも判断されるのである。いずれにせよ、このデマは村井失脚を狙った曾野氏の謀略だと言われる所以でもある。

そして、この村井対曾野の抗争、その現れの一つであるヤミドル事件なども誘因となって、新情報機関案は流産の憂き目をみてしまった。

これは内務官僚である村井構想(とは村井氏が絶対的主導権をもっている)による情報機関が、外務官僚である曾野氏の小型謀略によって爆撃されてしまったということである。

さて、ここで再び内調の現状に目を移してみよう。村井氏の後任、二代目室長には木村氏が就き、次長格には外務省課長の吉田健一郎氏が入った。木村氏は村井氏と同じ内務官僚でありながら、全く肌合いも違えば、人物の点も違っていた。

村井氏が縦横に奇略をめぐらし、或る程度の非合法工作をも、あえて辞さないという積極的な室長で、その結果策士策に倒れた感であったのに反し、木村氏の態度はきわめて消極的で全くの事務官僚である。従って非合法工作などとは思いもよらない話で、肝付氏のような訳の分らぬ仕事をした室員は、その出向を停止してしまった。ここらに怪文書事件の源も生れようというものだ。

当局筋の見解を綜合すると、この怪文書の解釈には次のような幾つかがある。

1は、肝付氏らのグループ自体の意志によって計画され、実行されたもので、単に室長であ

る木村氏への反感からの怪文書である。

2は、肝付氏は通産省という外務官僚の外廓におり、吉田健一郎氏――重光外相吉岡秘書官

(外務官僚ではなく戦前の北京飯店の住人だった人物)――肝付氏というルートで、外務官僚の系列にある人物である。それで肝付グループが意識するとしないとにかかわらず、外務官僚が黒幕となって内務官僚である木村氏の攻撃を行っている。

3は、肝付グループなどには全く関係がなく、外務官僚の内務官僚に対する真向からの挑戦であり、これが怪文書という形となって現れてきた。

「情報なき外交はあり得ず」と、外務官僚は主張する。若い外交官に情報訓練を行って各地に駐在せしめ、日本人の目による正確な情勢の把握と、本国における充分なスタッフによる分析を行えば……というのがその主張であり、これはもっともである。戦後タイ国内を徒歩で歩き廻り、国境を越えてカンボジアにまで入った日本人は一商社員で、外交官はバンコクのデスクに坐ったままでいるのである。「情報なき外交はあり得ず」といいながら、情報の一番少なく、また日本にとって重要な、東南アジアでさえこの実情である。

今日のように国際的な連関性が強化された情勢下において、情報の大事なことは、あながち 外交ばかりではない。政治も経済も、内政すべてがそうである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 内務官僚と外務官僚の争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 A rivalry between domestic and foreign affairs bureaucrats
赤い広場ー霞ヶ関 p.078-079 A rivalry between domestic and foreign affairs bureaucrats

今日のように国際的な連関性が強化された情勢下において、情報の大事なことは、あながち

外交ばかりではない。政治も経済も、内政すべてがそうである。もはや、「情報なくしては一国の存立はあり得ない」時代となりつつある。これを想えば、警備警察制度の提唱といい内調の創設といい、初代室長村井氏の先見の明は賞さるべきである。

この秋に内閣調査室という実績の上に地歩を占める者が、将来を制するとみた外務官僚は地歩を占めつつある内務官僚に対して、あらゆる挑戦を試みつつあるのだとみるのは、あまりにもうがちすぎた見方であろうか。

調査室もやがては、米国のCIAにも似た組織となって、情報、諜報、広報、謀略とあらゆる意味の情報活動を行う、強力な機関に変身してゆくであろう。日本が自由、共産いずれの世界にあるとを間わず、それは国際的、国家的要請なのである。

今はその前夜である。それだけに内務、外務官僚の争いは関ヶ原である。

だが、この争いが、果して日本という国家への、真の貢献を願っての争いであるか。官僚の中のセクショナリズムの、醜い争いではないか。怪文書に示唆されたものは官僚という怪物―ゴジラとアンギラスが〝党利党略〟に相搏つ姿をわれわれに想起させる。

情報機関という国家権力は、自由の弾圧を伴う危険があるという両刃の剣だけに、その主導権争いはわれわれにとってもなおざりにはできないのである。

このような内調をめぐる幾つかの事件は、村井―日暮―曾野という三角関係が中心になっていたことは争えない事実である。そして日暮氏はラ事件の容疑者の一人である。

ソ連の恐るべきスパイ網は、このようにして〝日本の機密室〟にも浸透していたのであった。怪文書にいう「ラストヴォロフは日本に居る!」の見出しも、あながちデマではなかったといえよう。

では、ヤミドル事件の結末はどうなっただろうか。ともかく帰朝後の村井氏に対する吉田首相の覚えは極めて悪く、斎藤国警長官が間に入って、村井氏を京都府警察本部長に拾ったといわれる。

一方、外務省側の異動を見ると、曾野氏はヤミドル事件直後の十月一日付でボンのドイツ大使館参事官に転出している。これは喧嘩両成敗ともいわれるが、外務省内では定期的な異動で、村井ヤミドル事件とは関係がないという意見もある。 また二十六年末の職制改革で、欧米五課長という日暮氏の上官になった新関氏は、ラ事件後の二十九年八月スエーデン公使館一等書記官に、伊関局長も同月香港総領事に転出した。これも定期的で内定していた異動であるといわれ、新関氏の場合など、まだラ事件は明らかにはなっていなかったとして、その事件と異動の無関係を主張する者もある。