投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 対ソ情勢の基礎判断とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 The Soviet Union, through the Communist Party of Japan, is inciting anti-Americanism against the US imperialism and the Yoshida reaction cabinet. It is also trying to contain the repatriate problems and territorial issues.
赤い広場ー霞ヶ関 p.160-161 The Soviet Union, through the Communist Party of Japan, is inciting anti-Americanism against the US imperialism and the Yoshida reaction cabinet. It is also trying to contain the repatriate problems and territorial issues.

四 〝猿〟と〝猿廻し〟と

二十七年三月七日、つまり日本独立の直前であり、高良女史がヘルシンキからモスクワ入りした四月五日のさらに直前に、この日付の東京新聞が「日本政府筋の見解」として、その対ソ情勢の基礎判断を大要次のように報じている。これはスターリン賞の大山氏夫妻やモスクワ会議の帆足氏らの旅券申請に関連してまとめられたものである。

一、第三次大戦の危機は確定的なものではない。ソ連の政策はあくまで米国との対決を避けながら局限戦争をタネに自由世界に経済的、心理的の混乱を起すことにある。

二、ソ連は目下米国との対決に勝つ自信をもっていない。現在のソ連の主目標は、大戦を避けつつ日独をソ連圏にひき込むことにある。だから日本に進攻した場合に、大戦が起る危険が明らかであれば、ソ連の対日直接侵略は起らない。ソ連は日本の共産化をあきらめてはいないから、日本の国内惑乱は今後強化される。

三、ソ連は平和条約を阻止できぬことを悟って民族主義的宣伝を強化した。それは、日本に米国が駐留を續ける関係上、日本人の反ソ分子でも同時に反米気分をもっているかぎりは、すべて利用できるという考え方である。特にその主力を追放解除の旧軍人、旧極右派、有力実業家においている。

四、このようなソ連の政策は昨春以来組織的に行われている。昨年八月の日共五一年テーゼが、敵は「米帝国主義及びそれと結びつく吉田反動内閣」と規定して、資本主義を敵とすることを一時やめ

ていること(いわゆる民族資本家を利用するねらい)、九月平和会議でソ連が修正案を提示して、日本側の制限付再軍備を承認するとともに、米軍駐留にあくまで反対したこと(これは日本人の壊夷思想に訴えたものでゾルゲ事件と同じく極右を利用するねらい)、十一月の革命記念日にソ連代表部が「保守反動」分子を招待し、また日ソ貿易を示唆したこと、本年元日のスターリン・メッセージが、「独立」を呼びかけたこと、有力実業家をモスクワ経済会議にひき込もうとしていることなど、一貫した反米闘争扇動の手段である。

五、一方講和発効後日本側の出方如何では、ソ連は従米のソ連代表部の如き特権的な工作基地を失うことを心配している。しかも工作基地を残すために、日本政府と正式交渉を行えば、引揚、漁船捕獲問題などソ連に不利な問題が提起され、日本人の反ソ機運を強め反米機運を弱める。そこで政府を無視して直接裏口から日本国民に好意を示し、特に有力者に働きかけて政府をケンセイさせ、一方的に特権的工作基地を保持しようとするねらいである。

六、そこで日ソ関係が法的に明確化しない前にソ連向旅券を発給することは、日ソ関係は不安定のままでよいと日本政府が認めることを意味し、その結果は引揚問題、領土問題と解決を不可能にし、今後の日ソ関係を一方的にソ連の決定に委ねることになってしまう。

七、日本としては日本政府を無視するソ連の工作に敢然対処し、引揚、領土などの諸問題が解決しないかぎり、ソ連の平和攻勢は受付けないという態度にでることが必要だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 「日ソ親善協会」の正体とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.
赤い広場ー霞ヶ関 p.162-163 The Japan-Soviet Trade Promotion Association was established as an external organization of the Japan-Soviet Friendship Association. And there was a Siberian-Organizer Minoru Tanabe.

こうした判断に立って政府筋では、日ソ関係があいまいのうち旅券問題を処理することは正常な日ソ関係をもたらす道ではなく、前述のような態度こそソ連の日本分解政策を阻止するとともに、シベリヤ同胞の帰還を促進する最短路であるとしているようである。

この第四項が、私の分類によると二十六年六月三十日から二十七年四月二十八日までの第二期工作具体化の段階である。と同時に第五項の工作基地としての、ソ連代表部確保の努力と退去への準備とが併行して行われた。

確保への努力とは実績的に居坐ることであり、退去への準備とは高毛礼氏らの〝地下代表部員〟への任務の移譲であった。実績的に居坐るということは直接日本国民へ好意を示し、特に政財界の有力者に働らきかけて政府を牽制しようということである。

そうして講和発効以後の第三期仕上げの段階に入っていった。この時から三十年一月二十五日、鳩山・ドムニッキー会談までの間に「日ソ交渉」という収獲への手が、抜かりなく打たれていった。

その一つの手が高良工作である。政府が旅券を発給せず、しかもソ連へ入国したものを旅券法違反で罰しようとしても、ともかく日ソの往来を事実として実績に加えてゆこうというのである。そしてこれは成功した。前記第六、第七項のウラをかかれたわけである。そのかげにあ

るシベリヤ・オルグ村上道太郎氏の功績を見逃すことはできない。

その第二の手は日ソ親善協会の組織の整備と強化である。まず二十七年夏に協会内の貿易対策部が独立して日ソ貿易促進会という、日ソ親善協会の外郭団体として発足した。これは通商代表部と商社とを斡旋する機関で商談はやらない。すなわち日ソ貿易の組織(オルグ)機関である。

そして、私はここにもシベリヤ・オルグの一人、田辺稔氏を見出すのである。同氏はマルシャンスクからハバロフスクを経て、二十三年六月栄豊丸で引揚げてきた元陸軍中尉である。在ソ間は主としてマルシャンスクにおり、内務労働部長などをつとめてきた。

組織の整備と強化は着々として行われた。千駄ヶ谷は原宿署を間にはさんで、日共本部と反対の地にある「日ソ親善協会」は、協会を中心に「ソ連研究者協会」「日ソ図書館」「日ソ学術文献交流センター」「日ソ学院」「日ソ通信社」「ソ連帰還者友の会」などといった、外郭もしくは内部機関が目白押しに並んでいるほどである。

この間、日本政府から否認されて、いわばママ子扱いをされている代表部は、退去するが如く、退去せざるが如くみせかけながら、遂次人員を縮少していった。その経過は前述の通りである。人員の縮減ということは、日本人で代行できる仕事はこれを移譲するということだ。文化活動はすべてが日ソ親善協会系各機関の担当となった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.164-165 エラブカ中央委員だった清水達夫

赤い広場ー霞ヶ関 p.164-165 "The monster" Fusanosuke Kuhara, the chairman of the Japan-Soviet Union National Congress on Restoration of the Diplomatic Relations, encouraged the Japanese government to take advantage of the Soviet policy.
赤い広場ー霞ヶ関 p.164-165 ”The monster” Fusanosuke Kuhara, the chairman of the Japan-Soviet Union National Congress on Restoration of the Diplomatic Relations, encouraged the Japanese government to take advantage of the Soviet policy.

一般論としての文化宣伝活動ということは、諜報謀略活動と表裏一体である。例えばソ同盟対外文化連絡協会駐日代表(ⅤOKS)という肩書をもつチャソフニコフ二等書記官は、ソ連人クラブに週二、三回は出入りして情報を集めているという。また「日ソ文献交流センター」を文書諜報機関とみる当局係官もいるといったわけである。

そして私はここにもシベリヤ・オルグの一人、清水達夫氏を見出すのである。

同氏はエラブカ将校収容所で中央委員をつとめていた元中尉である。昭和二十三年八月十二日、舞鶴入港の遠州丸で引揚げてきた。

一方、二十八年五月になると、前年の十一月七日の革命記念日パーティに個人の資格で招待された、〝保守反動分子〟らを中心として、「日ソ国交調整準備委員会」が政治的な動きをみせながら発足した。これはさらに二十九年十月になるや「日中日ソ国交回復国民会議」という形に成長、馬島僴氏が事務総長に就任し、さらに三十年二月十一日には〝怪物〟久原房之助氏を、会長にすえるというところまで発展した。

この二月十一日の同会議役員会について、同日付読売、東日は次のように報じて多数の人名をあげている。

政府に対し、かねて日ソ国交の正常化と対中ソ交流の促進を要望してきた、日ソ国交回復国民会議

(事務総長馬島僴氏)では、今回のソ連政変にともない十一日午前十一時から、東京一ツ橋如水会館で役員会を開き、会長に久原房之助氏を選任のうえ、今後のソ連情勢につき意見を交換する。同役員会には久原、馬島両氏のほか加納久朗(函館ドック会長)小畑忠良(元企画院次長)西村有作(日本水産相談役)伊藤今朝市(日ソ貿易促進会議代表幹事)平野義太郎(日本学術会議会員、日中友好協会副会長)伊藤猪六(大日本水産副会長)ら対中ソ民間団体、業界代表二十氏が出席することになっている。この役員会ではとくに次の諸点につき協議、政府に対する具体的要望事項、同会議の運動方針などを打出す。

一、ドムニッキー文書にともなう日ソ国交交渉についての回答は、さきの鳩山・ドムニッキー会談の結果事実上ソ連代表部の駐在を認めたものであり、国連の沢田大使を通ずるか、または第三国を通ずる交渉方式をとるのは妥当でない。

一、同会議からソ連に対し民間親善使節を派遣することを決め、首相、外相に協力を要請する。

一、三月下旬に同会議初の全国大会を東京で開き、全国漁業会議、日ソ経済会議を開催する。また中国通商使節団来訪を契機に、強力な中ソ国交正常化運動に乗出す。(読売新聞)

日ソ国交回復国民会議(事務総長馬島僴氏)では、きよう十一日午前十一時から神田一ツ橋如水会館で最高役員会を開き、

一、現在空席の会長に久原房之助氏を推す。

赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 日ソ国交回復国民会議の陰にシベリヤ・オルグ土井祐信

赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 It was a Siberian-Organizer Masanobu Doi, who was in Khabarovsk camp, who pulled out "The monster" Fusanosuke Kuhara.
赤い広場ー霞ヶ関 p.166-167 It was a Siberian-Organizer Masanobu Doi, who was in Khabarovsk camp, who pulled out “The monster” Fusanosuke Kuhara.

日ソ国交回復国民会議(事務総長馬島僴氏)では、きよう十一日午前十一時から神田一ツ橋如水会館で最高役員会を開き、

一、現在空席の会長に久原房之助氏を推す。

一、日ソ国交回復について今後の進むべき方策の情勢分折。

などを検討する。現在のソ連との国交を戦争状態のままにしておくことは最早許されない。従ってソ連に対して戦争状態終結宣言をなさしめる積極策を政府筋に勧告するものとみられている。同会が会長に久原房之助氏を推すのは『総選挙前でも日ソ国交のための全権委員を派遣したい』との鳩山首相発言ともからんで、同会ではこの全権委員に久原氏を委嘱することを強く希望するものとみられる。

なお十一日の同会最高役員会に出席を予定されている顔触れはつぎの通り。

風見章、村田省蔵、平塚常次郎、北村徳太郎、加納久朗、伊藤今朝市、北玲吉、海野晋吉、中島健蔵、山本熊一、平野義太郎、馬島僴の諸氏のほか、貿易、水産業界等の各経済界代表、労働団体代表も出席する。(東京日日新聞)

同会議の準備委当時の出発から、つねに中心になってきたのは、二十七年一月二十九日の日ソ経済会談を準備した風見章氏である。馬島僴氏はあくまで表面的な人物で、鳩山・ドムニッキー会談で浮んできたとき、治安当局が行った同氏の身許調査によれば、戦時中は、大陸で軍と関係のあるらしい麻薬関係の仕事をしていたが、戦後はソ連代表部の嘱託医をしており、情報の程度の話だが、独身者の多かった代表部員たちの、そのため相手方に起る各種の〝悩み〟を解決してやって、非常に親密になったといわれている。

そのような意味で、ラストヴォロフ氏なども世話になったかも知れず、同様に代表部員たちが出入りする麻布六本木のインターナショナル・クリニックの白系露人某氏(特に名を秘す)とともに、事件当時当局の興味の対象となっていたことがある。

同会議についての最大の関心は、やはり久原房之助氏の登場である。どうしてこの〝怪物〟がでてきたかということは、当局の得た情報によれば、その引出し工作を担当した一人の男がいるということである。この全く新聞紙上にも〝名前の出ない男〟は誰か?

そして私はここにもまたシベリヤ・オルグの一人、土井祐信氏を見出すのである。同氏こそその〝名前の出ない男〟である。

しかし同氏の名前は、「日中日ソ国交回復ニュース」(千代田区九段三ノ七、同会議発行)の名儀人として表面には出ている。彼はハバロフスク収容所で第十六地区ビューローの幹部であり、二十四年十一月二十七日舞鶴入港の高砂丸で引揚げてきた元軍曹である。

このように次々とシベリヤ・オルグが登場してくるからには、日ソ親善協会の中にある「ソ連帰還者友の会」も見究めねばならないであろう。

〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国して組織した「ソ連帰還者生活擁護同盟」(ソ帰同)が、「日本帰還者同盟」(日帰同)と変り、二十四年十一月、日本新聞グル

ープが帰国するにおよび、二十五年はじめに組織の改正が行われ、同年春の徳田要請問題にからんで、津村氏らの一派が粛清されたことはすでに述べた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 シベリヤ・オルグ団、土井祐信、田辺稔、清水達夫、沢準二

赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 The spies and organizers that the Soviet Union has educated and trained Japanese POWs in Siberia are now performing their duties.
赤い広場ー霞ヶ関 p.168-169 The spies and organizers that the Soviet Union has educated and trained Japanese POWs in Siberia are now performing their duties.

〝ナホトカ天皇〟津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国して組織した「ソ連帰還者生活擁護同盟」(ソ帰同)が、「日本帰還者同盟」(日帰同)と変り、二十四年十一月、日本新聞グル

ープが帰国するにおよび、二十五年はじめに組織の改正が行われ、同年春の徳田要請問題にからんで、津村氏らの一派が粛清されたことはすでに述べた。

そして二十五年五月、客観情勢の変化によりとして(ソ連代表部の指示で)発展的解消をとげて日ソ親善協会内へ吸収された。二十六年春ごろから、再編成が行われて「ソ連帰還者友の会」として再び表面に浮び上ってきた。いわゆる第二期具体化の段階と符節を合している。文化工作隊としての「楽団カチューシャ」はもちろん存続していた。

友の会の性格について、当局では「一般工作のアクチィヴの養成」とみているようである。そして幹部はオルグとなって独立任務を持ち、それぞれの分野で働らいている。

ここに紹介した何人かのオルグがそれである。政治工作は国民会議のオルガナイザー土井祐信氏がそれであり、経済工作は貿易促進会の田辺稔氏がそれであり、文化宣伝工作は日ソ親善の清水達夫、楽団カチューシャの沢準二両氏がそれである。

いずれも日帰同時代の幹部であることから、ソ帰同—日帰同—発展的解消—友の会という経過は、一貫して流れているソ連の対日政策の一つの現れとみることができよう。

ドムニッキー氏が、日ソ貿易で損をしたという商社に向って、こういったことがある。

『その商社の資本や系列や、歴史やその他の一切の条件は問題ではない。たゞ、ソ連貿易の実績のつみ重ねだけが問題である』

日ソ貿易は三十六社が加入している。しかし中心になっているのは五社協定を結んだ、進展実業、大倉商事、永和商事、相互貿易、東邦物産の五社である。老舖で資本力の大きい商社には負担でないことも、新興の商社には死命をも制しかねない条件となる。そのような事象に対していったド氏の言葉である。

進展実業のオイストラッフ氏招待も「実績のつみ重ね」の一つであろう。「実績のつみ重ね」こそ常に一貫して流れているソ連の対日政策の実態である。日ソ交流も、日ソ交易もすべてそうである。

シベリヤの「人間変革」の実績のつみ重ねが、いま友の会を中心とするシベリヤ・オルグ団となって成果をあげつつあるのだ。

ソ連が、日本人に対して行った「技術教育」の成果であるスパイは、その殆どをバクロされて、失敗したかに見える。しかし、その「思想教育」の成果であるオルグは、かくの如く沈潜十年を経て、今ようやくその任務を果しつつある。あの何万というソ連謳歌者のうち、今ここにその名を留めているのは、まさに十指にもみたない人々である。失敗したかにみえるスパイとて同じであろう。——ここにソ連の暗さがある。

赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 ソ連代表部から日共へ45万ドル

赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 Rastvorov confessed that $ 450,000 was handed from the Soviet Union to the Japanese Communist Party.
赤い広場ー霞ヶ関 p.170-171 Rastvorov confessed that $ 450,000 was handed from the Soviet Union to the Japanese Communist Party.

日ソ交渉のかげに蠢くもの

一 小坂質問と重光外相のウソ

日ソ交渉がロンドンで開かれてから、早くも一ヶ月余を経過した。国民の誰もが、ひとしく、その円満な妥結を希望し、事実上の「完全独立」を期待していることは、いうまでもあるまい。だが、である。われわれは、もう少し冷静に、事の真相と成行とを見究めねばならない。

われわれは、あまりにも真実を知らされていない。すべての「真実」を知り得てのち、われわれは、「現象」に対する冷静な「判断」を下せるのではあるまいか。

「真実」を知らされていないという良い例がある。「秘められた山本調書の抜き書」をもう一頁、結論であるこの章に追加させてもらおう。読者は三十年六月六日付の朝日新聞夕刊を、いま一度ひろげてほしい。一面に小坂善太郎氏(自)の、予算委員会総括質問のさいの、日ソ交渉に関する質問の記事が載っている。

「日共へ一億六千万円、ラストヴォロフ氏の自供」という、三段見出しで、ラ氏が日共政治資

金として二回にわたり合計四十五万ドルを渡したことが質問され、警察庁担当の大麻国務相と斎藤警察庁長官とが、肯定の答弁を行っている。

話は少し横道にそれるが、この四十五万ドルの資金のことにふれておこう。

第一回は二十六年春、その年の四月の地方選挙費用として、ソ連代表部から、日共の地下財政責任者に手交された。

ラ氏の自供によると、その日、彼が車を運転して、上官のシバエフ大佐、コテリニコフ領事を客席にのせて、麻布の高台を走り出た。尾行をまくため、都内をアチコチと走り廻ったあげく、某所で待っていた一人の日本人を、素早く同乗させた。

男はシバエフ大佐とは顔見知りらしく、軽くうなずき合い、ロシヤ語で二言、三言話し合った。車はスピードを増した。ラ氏はときどきバック・ミラーで、車内の様子をみていた。猛スピードで夜の東京を突走る、ソ連製高級車ジムの中で、沈黙のうちに三十万ドルの札束が、男のボストン・バッグの中に詰めかえられてゆく。

日共の手に渡ってから、円と換えやすいように、このグリーン・ビル(米本国ドル)は、すべて五ドル、十ドルの小額紙幣である。パリッとしたのもあれば、ヨレヨレのもある。香港あたりでかき集めたものらしい。

赤い広場ー霞ヶ関 p.172-173 全権団の随員にソ連のスパイ?

赤い広場ー霞ヶ関 p.172-173 Foreign Minister Shigemitsu denied the fact that there was a person who belonged to Rastvorov, the Soviet spy, in the delegation with full authority of negotiations between Japan and the Soviet Union.
赤い広場ー霞ヶ関 p.172-173 Foreign Minister Shigemitsu denied the fact that there was a person who belonged to Rastvorov, the Soviet spy, in the delegation with full authority of negotiations between Japan and the Soviet Union.

この小額ドル紙幣は、ヤミドル・ブローカーや、日共傘下の貿易商社などに流されて、レート以上の額となって、その懐へころがりこむのである。前々章でのべた、神戸ヤミドル団のことを想い起してほしい。あらゆる国際犯罪には、必ずといっていいほど、思想的背景があるということである。そして、そのヤミドル市場で怪まれたり、損したりしないように、かつまた額面以上の円にするために、ソ連側でもわざわざ手数をかけて、小額紙幣を集めるのである。

 やがて、車はある家の前でピタリと止った。男は低い『ドスビダーニャ!(さようなら)』を残して、サッとその家の中に吸い込まれてしまった。

 第二回は二十八年秋、アカハタ紙の日刊化の資金として、同様に小額紙幣で十五万ドルが渡された。だが、この時にはラ氏はその事実を確認していない。

 という訳は、その年、樺太炭輸入のバーターで、日立造船がソ連船の修理を引受け、広島県因島の日立ドックに、貨物船セプザプレス号、ペトロザボドスク号が入ってきた。その日、ラ氏は東京発安芸号で西下、直ちにペ号の船長室に入るや、しばらくのちに荷物を持って出てきた。

 彼は即日帰京して、元代表部へ帰ってきたが、この時に運んできたのが十五万ドルで、彼がのちに聞いたところによると、ノセンコ海軍大佐を通じて、同様日共の手に渡ったという。

当局では、ラ氏の目撃した日本人の人相から、日共地下財政担当者関係を懸命に捜査した結果、ソ連に近い線で、以前から非合法面に入っていた某(特に秘す)が、三十万ドルを受取った男だと断定した。しかし、すでに外国為替管理法違反の時効三年を経っていたので、ついに検挙することができなかった。

さて、話は本筋へもどって、問題の小坂質問は、この日共資金の次の項にある。

小坂氏 今回の日ソ交渉の全権団に、色のついた人が加わっていることはないか。

外相  そういうことはないことを、はっきり申上げる。(同日付朝日夕刊)

二人の問答は、わずかこれだけで終っている。しかし小坂氏の質問は、衆院の速記録によると、二回も念を押し、外相はキッパリと否定している。

この質問は、前のラ氏の日共献金に関連しているので、この〝色のついた〟という、微妙な表現は、〝ラ氏と関係のあった人〟という、意味にとるのが素直であろう。

重光外相の断乎たる否定の答弁にもかかわらず、全権団の随員の一人に、ラ氏の関係者がいたのである。と同時に、この人物は、いろいろの意味で、〝色のついた人〟であるから、外相はウソをついたのである。重光外相は、国会で議員の質問に対して、ヌケヌケとすぐ尻尾のでるウソをついたのだった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 全権随員から都倉栄二を外す

赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 After the question of Zentaro Kosaka, Eiji Tokura (Rastvorov's spy?) was exempted from the delegation with full authority of negotiations.
赤い広場ー霞ヶ関 p.174-175 After the question of Zentaro Kosaka, Eiji Tokura (Rastvorov’s spy?) was exempted from the delegation with full authority of negotiations.

この人物は、いろいろの意味で、〝色のついた人〟であるから、外相はウソをついたのである。重光外相は、国会で議員の質問に対して、ヌケヌケとすぐ尻尾のでるウソをついたのだった。

 このウソは、数時間もたたないうちに、その尻尾を出した。小坂質問が終ったのが、六日のおひる少しすぎで、その日の午後おそくには、外務次官をはじめ、各局長、欧州参事官らの、外務首脳部による日ソ交渉最高会議が開かれ、小坂質問の内容が検討された。そして、一つの人事異動が決定され、その命令は同日直ちにロンドンに打電された。

 都下の日刊紙では、読売にしか出ていなかった、小さな記事がある。六月十日付の同紙の一面、見落してしまいそうな記事である。

全権委随員に大鷹氏

日ソ交渉の全権委員随員都倉栄二氏の、西独ボン日本大使館転任にともない、政府は九日の次官会議で、ロンドン大使館外交官補大鷹正氏を、後任にあてることに決めた。

 全権随員を免ぜられた都倉氏こそ、さきに述べた「山本調書」に登場している「都倉栄二」その人である。都倉氏が小坂質問の日に随員を免ぜられた、ということになると、話は極めて奇妙なものになってくる。

 この人事は、一体どういうことなのだろうか。外相の説明を、もう一度きいてみたいものである。

 門脇外務次官の記者会見のさいの答は『外務省としては当初から予定していた人事だった』といい、田中情報文化局長は『そんな妙な意味の更迭ではない。そうだったら、なにも欧州な

んかに改めて派遣せず、直ちに帰国命令を出しているよ』と、こともなげに一笑に付している(七月十日付週刊読売)のだが、果してこの言葉を、そのまま信じられるだろうか。

ソ連の西独への働きかけが、今日昨日始まったからといって、ソ連専門家の都倉氏を全権団から抜いて、あわててボンに派遣する。外務当局はそんな後手後手外交で恥しくないのだろうか。ボンには、すでに村井氏とケンカして、これも〝当初から予定〟していた人事で、外務省きってのソ連通の、曾野参事官がいっているではないか。全権団員都倉氏を、今更あわてて、小坂質問の日に異動することはあるまい。

また、田中局長の『そうだったら、直ちに帰国命令を出す』とすると、そんな〝色のついた人〟を全権団員に加えた責任は、一体誰がとるべきなのか。欧米局長や欧州参事官、次官から外相まで、ズラリと枕を並べて引責辞職どころか、下手したら鳩山内閣がつぶれるような大問題だからこそ『直ちに帰国命令を出さず』に、もっともらしく理由をつけて、ボンに転出させたのではないか。あまり見えすいたウソは止めてもらいたい。

小坂氏だって、そんな大問題だからこそ、

あの質問は、思いつきでやったのではない。私の知人筋に当る人々から、今度の日ソ交渉全権団の中に、左翼分子がふくまれているという話が出て、私も容易ならざることだと思っていた。それで重光 外相に、その事実があるかどうか、たしかめてみたのだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 ソ連のスパイ技術はずっと高度である

赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 Rastvorov has repeatedly approached Eiji Tokura to work as a spy. But he refused it, Rastvorov said.
赤い広場ー霞ヶ関 p.176-177 Rastvorov has repeatedly approached Eiji Tokura to work as a spy. But he refused it, Rastvorov said.

あの質問は、思いつきでやったのではない。私の知人筋に当る人々から、今度の日ソ交渉全権団の中に、左翼分子がふくまれているという話が出て、私も容易ならざることだと思っていた。それで重光

外相に、その事実があるかどうか、たしかめてみたのだ。

 むろん、国会という場での質問であるからには、一笑にふすべきデマ的な噂や、風説にもとづいたものではない。と同時に、ラ事件にも言及してきいてみたのは、随員のなかにいるといわれる分子がラ事件と何らかの関係があるものと考えたからだ。

 しかし、幸にも外務当局は、疑わしい人物を避けたようだから、私としても、これ以上は追及しない。私の質問が結果的に、国家のために役立ったものと思うから……(七月十日付週刊読売)

と、語っているではないか。

 ソ連スパイは、もちろん党員の鉄の規律と、厳格な教育訓練ののちに一人前になる。ところが、アメリカは雑多な人種の寄合世帯であり、家系の深さなどというものがない。従って誰もが、何処の馬の骨とも、牛の骨とも分らない人間の集りである。金以外に信頼の根拠となる何ものもない。

 そこでアメリカのスパイは、敵スパイを金で逆用することが、一番無難であるとして、敵のスパイを寝返らせて、味方につけるスパイ逆用工作技術が発達した。

 米ソ両国の国のなりたちと、歴史とから考えても、ソ連のスパイ技術の方が、アメリカよりずっと、高度であることは当然である。

技術が下手だから、やり方の荒いのは歯医者と同じである。アメリカが占領中に日本人を苦しめたのはそれで、こんな強引さがすぐ眼に見えるだけに、反米感情をあふるという、悪結果となって現れてくる。

だが、ソ連の手口は違う。陰惨である。執拗である。残忍である。焦らず、あわてず、ガンジがらめにして目的へと追い込んでゆく。食肉用の仔豚を育てて、その成長を眺めながら、最後に屠場に送りこむ手口である。

丸十年前、ソ連軍は中立条約を踏みにじって満ソ国境を越えた。怒濤のようなソ軍の進撃の前には、在ハルビン日本領事館などは浪に呑まれる小舟のようなものである。昭和十一年東京の外語卒業の通訳生、都倉栄二氏もまた軍事俘虜として、欧露エラブカの収容所に送られたのは無理もないことである。

ラストヴォロフ氏はその自供の中で、係官に対して、この都倉氏の名前をあげた。しかし、さきに述べた通り彼の場合は、ラ自供の額面通りに受取るならば、彼にとって極めて有利であった。つまり、ラ氏はシベリヤでの「幻兵団」誓約に従って、都倉氏に東京での約束を果してもらうべく、しばしば彼を訪れ、誓約の実行を迫ったのであった。誘惑もしようとしたのだったが、彼はどうしてもスパイとして働らくことを肯じなかった、という自供内容なのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?
赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?

これは都倉氏にとって極めて名誉なことである。ラ氏の口から、都倉氏の名前が出されたので、捜査当局では直ちに彼について調べてみた。この捜査は、ラ自供が真実なりや否やの、裏付け捜査だから当然のことである。ラ氏がスパイではないというものを、警視庁へ召喚して取調べることはできない。だからまず彼の抑留間のことと、帰国後のこと、そしてさらに、当局が彼の名を知ってから以後のことである。

そのため、同収容所の人たちにきき、さらに現在の部分は尾行してみた。その調べによると在ソ間の彼の行動については、幻兵団としてスパイ誓約をさせられたことは、まず間違いのない事実だという。

尾行、張り込みなどの身辺捜査からは、残念ながらラ自供の額面通りの、あまり良い結果は出なかったらしい。通商使節団のクルーピン氏らの、滞日期限延長問題などにからんで、当局では何らかの結論をつかんだようであった。

当局のアナリストはこう考えた。

――庄司対日暮、吉野対志位、この二組に共通したものは、ラストヴォロフの評価の高い者が簡単に当局の捜査に協力し、彼の評価の低い者が、非協力的だということである。

――都倉氏もまた、スパイにならなかったといって、けなしている。評価は低い。

――けなされた者は、庄司氏と吉野氏だ。そして、都倉氏だ。

アナリストは、そう考えこみながら、机上の一冊の雑誌を取って眺めた。三十年三月二十五日号の日本週報である。そこには「北海道を狙う軍事基地、南樺太の実態」という、大きな見出しが躍っている。筆者の菅原道太郎という名前と、その経歴とが書かれてあった。彼は意味もなく、その経歴を眼で追っていった。

――大正十一年北大農学部卒、昭和三年樺太庁農事試験所技師、昭和二十年赤軍進駐後、ソ連民政局嘱託となり、日本人食糧増産を督励中、反ソ容疑をもって逮捕投獄せらる。昭和二十二年証拠不充分で、ハバロフスク検事局で不起訴となり帰国。昭和二十四年連合軍総司令部情報部特殊顧問。昭和二十九年同退職しソ連研究に専心、著作に従事。

――ウム、菅原氏も樺太でスパイ誓約をさせられ、ラ氏の手先にさせられた。そして、ラ氏は賞めていたが、彼もまた快く当局に協力してくれた人物である。つまり、ラ氏の評価は高いがそれを裏切って、当局に協力してくれている。

――庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原。何と対照的なことだろうか?

彼は雑誌を机上に落した。そこにはまた新聞の切抜きが二枚。五月十八日付の朝日新聞社告であり、五月二十一日付の朝日新聞のトップ記事である。社告には、朝日の海外特派員の、異

動と新配置が報じられ、清川勇吉氏をモスクワ駐在としてあった。そして、もう一枚はその入ソ第一報であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.180-181 ソ連が清川勇吉の入国を認めた

赤い広場ー霞ヶ関 p.180-181 Rastvorov's confession is 95% true. But the remaining 5% are intentional traps or lies?
赤い広場ー霞ヶ関 p.180-181 Rastvorov’s confession is 95% true. But the remaining 5% are intentional traps or lies?

社告には、朝日の海外特派員の、異

動と新配置が報じられ、清川勇吉氏をモスクワ駐在としてあった。そして、もう一枚はその入ソ第一報であった。

――ラ氏が名前を出した清川氏が、再びモスクワに行っている。ソ連政府は入国拒否もせずによくも清川氏にヴィザを出したものだ。

――ラ氏が自発的亡命ならば、祖国ソ連への反逆である。その反逆者と連絡をもっていた清川氏である。反逆者ラ氏がアメリカ側にその一切を自供した。その自供に登場した、清川氏の入国を許可した。これはソ連においては、信じられないことである。一般論として、ソ連を批判した新聞記者は、退去強制となり、再入国も認められない。

――毎日の渡辺善一郎前モスクワ特派員(註、東京外語ロシヤ語科昭和十三年卒、清川、庄司両氏と同期)が、帰国後書いた「ふだん着のソ連」でさえ、彼は再びモスクワへ行かないつもりで、書いた著書だと思っていたのに、清川氏の入国は解しかねる。

――しかも、日ソ交渉が始まるや、朝日の紙面から「モスクワ発清川特派員」の記事が消え同時に「ロンドン発辻特派員」の記事が「ロンドン発欧州総局」と変った。まさか清川氏が、モスクワからロンドンへ移ったのではあるまい?

当局のアナリストは、こう考えあぐみながら、呟いてみた。

『ラ自供にはウソがある』

『ラ自供は決してすべてではない』

『ラ自供には意識的な作為がある』

当局の係官たちは、二十九年一月にラストヴォロフ事件が起きてから、もう一年半にもなるというのに、まだ毎日のように、その自供書——山本調書の一行一行を追かけ廻している。なぜならば、どうしても腑に落ちない疑問が、幾つか残るからである。

つまり、自供の九割五分は真実である。すべて、ドンピシャリの裏付け証拠がとれたのである。しかし、どうしても、あとの五分が疑問となって残るのだった。

ソ連の中立条約締結、これを蹂躪した対日参戦、計画的な大量捕虜、思想的な政治教育とスパイの技術教育、それから基幹要員の天皇島上陸、そして鳩山内閣の出現に呼応する日ソ交渉——仔豚を買って育てる、ソ連の手口は奧深く、蔭濃い。十余年の先までも考えているのだ。

『アッ……』

当局のアナリストは恐ろしい著想に思わず小さな叫び声をあげた。

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自 供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 「仔豚は育ってきた!」

赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”
赤い広場ー霞ヶ関 p.182-183 Saito National Police Agency Commissioner said, “There are more than 60 Japanese Soviet spies under Rastvorov.”

ソ連の手口である。ラ氏の失綜は形式的には、アメリカの拉致である。だが、真相は謀略的亡命である。わざと拉致されたのだ。そして敵の手中に入ってから、味方の意図するような自

供をする。ひったくりという、アメリカの手口に、つけこんだのである。

諜報謀略の原則は、七割与えて十割取る、肉を切らせて骨を切る、と同じである。「宗谷岬に漂うソ連兵の死体」で述べた、死体謀略の逆手ともいうべき、〝生体謀略〟である。つまり死体の携行書類の代りに、生きて口でシャベるのである。しかも、十年もたってから、ラ氏が米国内で自由の身となれば、敵中に一拠点を設けられるということだ。

『ウーム、それならば一切の疑問が解決する』

アナリストは、この著想に思わず唸りながら、急いで日ソ双方の全権団名簿を取出してみつめた。

交渉地ロンドンの、駐英ソ連大使を兼ねるソ連全権はマリク氏である。マリク氏は終戦時の駐日大使で、スターリン調停を依頼して煮湯を飲ませた男である。当時の外相は重光現外相、当時の外務次官は松本全権。

ソ連随員のゲオルギー・パブリチェフ氏は、終戦時のハルビン総領事で、その謀略性には流石の関東軍特務機関も、手をあげさせられた男である。しかも、戦後は代表部員でずっと日本にいた。ソ連随員で通訳のアデルハエフ氏は、政治上級中尉で、戦前から二十二年まで代表部に勤務し、二十九年と三十年の二度にわたって、エカフェ代表として日本を訪れている。

そしてまた、日本随員の都倉氏は、パブリチェフ氏と同じように、終戦まではハルビン勤務、しかも、戦後は同じ東京にいた。

――何という、奇縁に連らなる人々ばかりだろうか!

――そして、そこへ、清川特派員がモスクワからロンドンへ来ていたとしたら……?

『仔豚は育ってきた!』

こればかりは氏名を明かにできないのだが、この〝当局のアナリスト〟は、こう叫んで立上っていた。

斎藤警察庁長官が、小坂質問に答えて『ラ事件の関係日本人は、六十数名いる』といった。また二十九年八月二十日付の毎日新聞によると、当時の小原法相は『近く第二次発表を行い、関係民間人二十数名の氏名を明らかにする』と、記者会見で語っているが、何故かこの発表は行われなかった。

もちろん、そのかげにはいろいろな政治的理由があろうが、小原法相のいう「二十数名」は丸十ヶ月後には斎藤長官のいう「六十数名」と、三倍にハネ上っている。依然として捜査が続けられていた証拠である。

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 「自由党は割れるヨ」

赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.
赤い広場ー霞ヶ関 p.184-185 The Soviet Union thought that Japan-Soviet negotiations would never be held under the Yoshida Liberal Party administration. Therefore, they worked to create the Hatoyama administration.

そして、今にいたるも、この六十数名は明らかにされていない。そして、六十数名というの

が「山本調書」の全貌なのである。私が、今までに明らかになし得たのは、その一部にすぎないが、その重要な部分であることには間違いない。

二 怪物久原と立役者メンシコフ

昭和二十七年の秋、ある元ソ連代表部員がある人に向ってこういったことがある。

『自由党は割れるヨ。割るものは、キッと、石橋か大野だろう』

この短かい言葉が、誰と誰との間で話されたかということを、ここで伏せねばならないのは残念である。しかし、語った人が元ソ連代表部員であるということは、いろいろなことを考えさせる。

〝自由党は割れる〟という、この観測の根拠となった彼の情勢分析は、何かということである。これが、〝割れるようにしてある〟でなければ幸いである。

ソ側の判断では、吉田自由党政権のもとでは、絶対に日ソ交渉は開かれないとみていた。これは当然である。そのためには旧改進党勢力を中心とする、保守政権を期待せざるを得ないのである。

左右両派社会党が、どんなに口惜しがろうと、ソ同盟共産党小史をひもとくまでもなく、共産党の人民民主主義に対する、社会党の社会民主主義は相容れないのである。

共産党がボリシェヴィキであり、社会党はメンシェヴィキである。ボリシェヴィキは「敵」である保守党とは、戦術的に握手して、その目的を達成したのち、これを「敵」として屠るがメンシェヴィキとは握手することは許されない。

第一集「迎えにきたジープ」の「招かれざるハレモノの客」の中で、ソ連の対日工作に三段階があったことを述べた。二十六年十一月二日、ドムニッキー通商代表とマミン経済顧問とが国会を訪問したことがある。それから五日後の七日の革命記念日には、元代表部でパーティーが開かれ、改進党代議士諸公の主要な人物には、個人招待状が送られていたのである。

そして、自由党が割れ、鳩山政権が生れるや、直ちに日ソ交渉のための、鳩山・ドムニッキー会談のお膳立が進められた。そして交渉地ロンドンが正式決定して、交渉が開始されるまで僅か半年である。これはなぜか。もちろん、鳩山内閣の短命を見越しているのである。鳩山内閣時代にソ側の狙う実績だけを、稼いでおかねばならないからである。

さて、ここで問題は日ソ国交回復国民会議会長久原房之助氏と、ソ連駐印大使、エカフェ代表メンシコフ氏という、二人の大物の登場となる。 ソ連の対日工作は、まず経済工作に始まった。モスクワ国際経済会議に、シベリヤ・オルグを使って、高良とみ女史を誘いこんでからというものは、軌道に乗って順調にすべり出した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 風見章とシベリヤ・オルグたち

赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that "Stalin and I can talk to each other without hesitation". Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.
赤い広場ー霞ヶ関 p.186-187 Fusanosuke Kuhara is a Japanese who boasts that “Stalin and I can talk to each other without hesitation”. Kuhara was elected chairman of the Japan-Soviet diplomatic conference.

二十七年一月二十九日、近衛内閣書記官長だった風見章氏の肝入りで、銀座の交詢社に日ソ経済会議が開かれたのをヤマとして、日ソ貿易促進会が生れた。その事務局長には、シベリヤ・オルグ田辺稔氏が就任した。

 経済攻勢が成果を納めるや、これは徐々に政治攻勢へと変ってゆく。二十八年五月、風見氏の主催で、日ソ国交調整準備会が設けられ、これは二十九年四月十日、日中日ソ国交回復国民会議となって発足し、事務総長として馬島氏を戴いたが、事務局長はこれもシベリヤ・オルグの土井祐信氏である。

 風見氏といい、馬島氏といい、これらの人々は、あるシベリヤ・オルグにいわせると、失礼ながらオポチュニストであるという。オルグからみて担ぎやすい、言いかえれば使いやすいらしいのである。しかし、いわば〝赤いフンイキ〟を持った人たちである。国民を引っ張ってゆくには適当ではない。

 そこで、久原氏の引出し工作となった。久原氏は松岡洋右とともに「スターリンとはオレ、キサマの仲」と称する日本人である。二月十一日、久原氏は日ソ国交会議会長に選任されたのである。

ここで、一応交渉が始まるまでの経過をみてみよう。

▽二十九年
十二月十一日  重光外相の「中ソとの国交回復を望む」声明
十二月十六日  モロトフ外相の「ソ連政府に用意あり」声明
十二月二十七日 共同藤田記者、代表部に招致さる

▽三十年
一月十一日   鳩山「国交調整」車中談
一月二十五日  鳩山・ドムニッキー会談
一月三十日   モスクワ放送、ド書簡を確認、交渉地として東京かモスクワを提案、外務省もまたド書簡を発表
一月三十一日  ソボレフ国連ソ連代表より「ド書簡が正式文書なり」との回答が、沢田国連大使へあった
二月一日    沢田大使、交渉地としてニューヨーク案をソボレフ大使に申入れ
二月四日    政府、交渉開始を閣議決定
二月五日    沢田大使、口上書をソボレフ大使に手交
二月七日    鳩山首相、九州の車中談で「交渉地はモスクワでも良い」と語る
二月八日    モロトフ外相、ソ連最高会議で「成功期待」を演説

赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 交渉地は第三国ロンドンに

赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 Japan proposed New York as a candidate site for the Japan-Soviet conference, but the Soviet Union refused. Because the information goes through the US Department of State.
赤い広場ー霞ヶ関 p.188-189 Japan proposed New York as a candidate site for the Japan-Soviet conference, but the Soviet Union refused. Because the information goes through the US Department of State.

二月十六日   ドムニッキー代表、第二回音羽訪問「日本側の最適地」という好意回答、沢田大使へニューヨーク交渉の接衝指令

二月十七日   モスクワ放送、交渉経過を発表

二月二十三日  沢田大使「ニューヨークに同意を確認」の口上書を手交

三月三十日   沢田大使、ソ連の回答督促

四月四日    ソボレフ大使「回答はドムニッキー首席を通ずる」旨通告

四月六日    鳩山首相は記者会見で「四日に松本俊一氏がドムニッキー氏から回答を受取った。交渉地は再びモスクワか東京を提案している」旨を語る。重光外相は衆院外務委で「モスクワ又は東京に同意したことはない」旨説明、外務省として「ソ連の真意了解に苦しむ」と発表

四月七日    モスクワ放送は、ソ連外務省声明を発表、重光外相を非難

四月八日    沢田大使「重ねてニューヨークを希望」の口上書を手交

四月十八日   ソボレフ大使「交渉地に第三国、ロンドン又はジュネーヴ」の回答を沢田大使へ手交

四月二十日   英外務省「ロンドン交渉は自由である」と発表

四月二十三日  十八日のソ連提案に対し沢田大使より「ロンドンを撰択」と回答

四月二十五日  ソボレフ大使より回答、ロンドンに日ソの合意成立、交渉開始は六月はじめを提案

この経過をみても分る通り、交渉開始のキッカケは、元ソ連代表部首席のドムニッキー氏の異常なまでの積極的工作で始められている。久原氏もまた、会長就任以米、極めて積極的で、『日中、日ソ関係なくして、日本の繁栄なく、鳩山にできねばオレがやる』と語った、といわれるほどの熱の入れようであった。

経過をみると、二月十七日のモスクワ放送以来、四月四日の回答まで、約一ヶ月半もの間、ソ連側は動いていない。しかも、四日の回答は、再びモスクワ又は東京で、七日にはモスクワ放送で、二月七日の鳩山九州談話をとりあげて、重光外相を非難している。

ところが、その非難から十一日目の十八日には、第三国案を提示してきている。この間の動きが大切なところである。四月八日付東京新聞によると、坂井共同特派員はタス通信のワシントン主任ボルシャコフ記者に対し『何故ニューヨークをきらうか』とたずねたところ『米国務省に筒抜けだから』と答えている。

国際会議こそ、大きな諜報と謀略の場である。ニューヨークで〝アメリカへ筒抜け〟ということは、ソ側が充分に働けないということである。モスクワ又は東京であるなら、ソ側は充分に働けるのである。モスクワはもちろんであるが、東京もまた、それだけの自信があったのであろう。つまりモスクワ又は東京で、アメリカの援助なしに、日本独自でやるならば、日本全権団などはハダカ同然だというのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.190-191 国際謀略の立役者メンシコフ

赤い広場ー霞ヶ関 p.190-191 The ECAFE conference was a place of intelligence and plot. Six of the Soviet representatives were organizers of spy work. And Menshikov came to Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.190-191 The ECAFE conference was a place of intelligence and plot. Six of the Soviet representatives were organizers of spy work. And Menshikov came to Japan.

つまりモスクワ又は東京で、アメリカの援助なしに、日本独自でやるならば、日本全権団などはハダカ同然だというのである。

 鳩山放言を取上げて、重光外相にイヤ味をいってみたりしたが、〝短命の鳩山内閣〟では先を急がぬと危い。日本がどうしてもモスクワ、東京に同意しないとみてとるや、ソ側は直ちに次の手を打ってきた。

エカフェ会議に注目しなければならない。国際会議は〝諜報と謀略の場〟である。

エカフェは三月十五日から、大手町産経会館で、まず第七回産業貿易委員会が開かれた。このソ連代表ボルコフ団長以下十七名は、十四日早暁到着した。

ついで、三月二十八日から開かれた、エカフェ第十一回総会には、ソ連代表の現職駐印大使メンシコフ氏が来日した。この代表ははじめ、スパンダーレン外国貿易省東方局長であったのが、メンシコフ氏にすり替えられたもので、二十六日ひる羽田着で入京した。このお膳立のためには、すでに有力な日本通で、二十九年のエカフェにも二回もきているアデルハエフ氏(日ソ交渉の通訳)がおり、すべての基礎準備を整えていた。

エカフェのソ連代表十九名のうち、治安当局筋がその過去の在日間にチェックしていたのはアデルハエフ氏をはじめ、マミン氏(元代表部経済顧問で、二十九年にも来日)、ラージン、ゴル

ブコフ、アギーフ、ピチューギン氏ら六名もいるのである。これらのエカフェ代表が日本国内に滞在していた時期は、ちょうど日ソ交渉に関して、ソ連が沈黙を守っていた時期である。

そして、スパンダーレン総会代表が、メンシコフ大使にすり替えられたのである。そしてまたメンシコフ大使は、四月十日鳩山首相を訪問した。同日付朝日新聞夕刊によれば「メンシコフ氏は来日以来鳩山首相ないし重光外相に会見したいと、いろいろな筋を通じて働きかけていたが、政府としては日ソ関係が微妙な折から、これをためらっていた」という。

そして、鳩山首相に「第一案ジュネーヴ、第二案ロンドン」を提示したのである。

メンシコフ大使はその後、久原氏とも会見した。そしてソ側の提案を知った久原氏は、強くジュネーヴに反対して、ロンドンを主張したのである。

ジュネーヴは中立国である。中立国というのがまた、諜報と謀略の舞台であることは常識である。これはソ連にとって有利であるからこそ、ソ側の第一案はジュネーヴだったのである。

鳩山、久原両氏と会見して、来日目的を終ったメンシコフ大使は、十六日夜モスクワに向って、SAS機で飛立った。はじめの予定では、バンドンのA・A会議のため、インドへ帰るはずだったのであるが、鳩・メ会談が遅れたためであろうか。

鳩・メ会談で大体妥結の見通しをもったソ側では、十八日ソボレフ大使を通じて沢田大使へ

「ジュネーヴ又はロンドン」を回答してきたのである。

日ソ交渉に関してソ連の沈黙の時期と、多数の日本人スパイを手先に持っていた、在日経験のあるスパイ組織者のソ連エカフェ代表たちが、日本国内にいた時期とが符合するのは、果して偶然にすぎないだろうか。

赤い広場ー霞ヶ関 p.192-193 ロンドンはソ連の思惑通りか

赤い広場ー霞ヶ関 p.192-193 Was the confidential document of the Japan-Soviet negotiations passed to the Soviet Union via the UK? Is the Soviet Union and the UK cooperating?
赤い広場ー霞ヶ関 p.192-193 Was the confidential document of the Japan-Soviet negotiations passed to the Soviet Union via the UK? Is the Soviet Union and the UK cooperating?

鳩・メ会談で大体妥結の見通しをもったソ側では、十八日ソボレフ大使を通じて沢田大使へ

「ジュネーヴ又はロンドン」を回答してきたのである。

日ソ交渉に関してソ連の沈黙の時期と、多数の日本人スパイを手先に持っていた、在日経験のあるスパイ組織者のソ連エカフェ代表たちが、日本国内にいた時期とが符合するのは、果して偶然にすぎないだろうか。

こうして、二十日に英外務省の発表があって、ロンドンが決定した。

ニューヨークが容れられなかった日本にとって、ロンドンは次善の策であろう、しかし、モスクワ、東京、ジュネーヴが容れられなかったソ連にとっては、果してロンドンは次善以下のものであろうか。

世界に冠たるものは、英国の諜報機関であり、英国はアジヤにおいて、香港を軸として自由共産の両世界を結び、従って英国は対米という点では、ソ連と握手しているという原則と同時に、次の事実で読者の注意を喚起しておきたい。

日ソ交渉の最中のことである。外務省の某幹部が、暮夜ひそかに一名の英国人と会った。彼は日ソ交渉に関する、外務省、すなわち日本政府の機密文書をはじめ、各種の資料を提供してその英国人の意見を叩いた。

英国大使館員で、レッドマン二等書記官という、情報担当の日本通がいる。彼は日ソ交渉の

始まる前に濠洲に向けて、旅行に出発した。彼は濠洲で直に飛行機をのりかえて、ロンドンに向った。

レッドマン書記官がロンドンに到着して、ホンの数日後、マリク大使は急ぎモスクワに帰った。マリク大使が、モスクワからロンドンへ帰任して、日ソ交渉が始ったのである。

これらの時間的経過をみてみると、これもまた偶然の暗合であろうか。ソ連にとって、果してロンドンは、どのような価値を有するものだろうかと、これらの事実を、われわれ日本人はどう判断すべきなのだろうか。

三 鳩山邸の奇怪な三人

日ソ交渉で日本中が騒いでいた二月十六日のひるごろ、ドムニッキー元代表部首席は、チャソフニコフ二等書記官を伴って、第二回目の鳩山邸訪問を行った。

この訪問はド氏の裏口戦術といわれ、二月十七日付朝日「記者席」の記事によると「タクシーで音羽の鳩山邸にのりつけ、裏玄関から入った。それから数分、USSR第一号の元ソ連代表部の車が迎えにきて、ド臨時首席はこの車で帰ったが、警戒に当っていた連中も、ほとんど気付かなかったほどの早業」という。

どうしてド氏は鳩山邸の裏玄関まで知っていたのだろう。この記事を読めば、当然起ってくる疑問である。しかし、心配はない。案内役がいたのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 馬場機関の清水郁夫

赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 It was Ikuo Shimizu who guided Domnitsky and Chasovnikov to the Hatoyama residence. According to Akahata, Ikuo Shimizu is a member of the Baba syndicate that made by Yusuke Baba, who is the agent of the US intelligence agency.
赤い広場ー霞ヶ関 p.194-195 It was Ikuo Shimizu who guided Domnitsky and Chasovnikov to the Hatoyama residence. According to Akahata, he is a member of the Baba syndicate under the control of the US intelligence agency.

しかし、心配はない。案内役がいたのである。

この時、車で乗りつけたのは三人連れであった。ド氏とチャ氏、そして残るもう一人は日本人であった。この日本人を目撃した治安当局の係官は、何者であろうと考えていた。すると、ド氏の到着を待ちかねたように、また一人の日本人が現れて、車から降り立ったド氏を、裏玄関へと案内した。

コツコツ。ドアをノックするまでもなく、扉は開いて、一人の日本人がド氏を迎え入れた。この三人目の男は、扉をしめると鳩山首相のもとへと案内していった。この男は多分二人の会見にも立会したのであろう。

この三人の日本人は、もちろん、華々しく話題となっていた、馬島、藤田、杉原、風見氏などのような人物ではない。無名人である。有名人は舞台の俳優のようなもので、視線をそこに集中させるための、ピエロである。

この〝奇怪な三人〟について、私もあまり正確な知識を持っていない。第一、この三人がある一つの意志のもとに、各人の間、或いは各人の背後で、連絡をもっているのかどうかさえ、私には分らない。

まず、第一の男。これは当局の係官が目撃している。そして以前からソ連代表部に出入りしていた男の顔と一致するので、当局ではこの男を「清水郁夫」と断定した。

清水郁夫という名前は、前々章の「先手を打つアカハタ」の項(四八頁)に登場してきている。そこで古いアカハタを調べてみた。「日本にもはびこる米諜報網、元皇族、国警長官も登場、破壊と陰謀の巣〝馬場機関〟」という大変な見出しの記事の中に、この清水氏が紹介されている。

この二十八年七月三日付のアカハタによると、米諜報機関の手先である、元上海特務機関員馬場祐輔氏の馬場機関員で、大正十三年生れのハルビン学院出身。しかも、二十七年四月一日号の日本週報で、「電源をスパイする二人の怪紳士」として紹介された男で、この時は、電産で活躍していたシベリヤ・オルグ宗像創氏をダマクラかして、日共の武装蜂起の危機宣伝のため、宗像氏を引張り出したほど悪質な男だと書いている。

こうして、一度アカハタに取上げられた清水氏が、再び「馬場機関の清水郁夫」として、アカハタに書かれ、しかも、ド、チャ両氏と同車して、音羽へ現れているのだ。

本人に会ってみた。『飛んでもない。私は馬場先生の秘書ではあるが、馬場機関などというものはない。あるとすれば、『秘書格の私一人が機関員です』といいながら、『音羽へ行ったなんて、何かの間違いでしょう。私は青二才で、そんなエラクないですョ』と笑う。

本人の語る経歴は、ハルビン学院卒、満州石塔の幹候隊在隊中、軍曹で終戦となった幹候十

三期生、ウォロシロフ付近の炭坑作業の収容所にいて、二十二年四月に引揚げてきたという。

赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 私の立場でいえない部分がある

赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 Ikuo Shimizu's father was a very important person leading to the Soviet Union. Only he among the nine comrades survived. Now, Ikuo Shimizu may be operating a famous politician.
赤い広場ー霞ヶ関 p.196-197 Ikuo Shimizu’s father was a very important person leading to the Soviet Union. Only he among the nine comrades survived. Now, Ikuo Shimizu may be operating a famous politician.

本人の語る経歴は、ハルビン学院卒、満州石塔の幹候隊在隊中、軍曹で終戦となった幹候十

三期生、ウォロシロフ付近の炭坑作業の収容所にいて、二十二年四月に引揚げてきたという。

私が調べてみたところでは、二十二年四月の引揚船の乗客名簿には、彼の名前が見当らなかった。

私はまた治安当局の係官に確かめてみた。

『本人は否定するけど、音羽に行ったのは本当に奴なのかい?』

『もちろん、間違いない。あの男なら、わしの方で前から調べていた男なんだ。大田区に住む清水郁夫に間違いないよ』

『しかし、それは奴の本名かい? 戸籍上の名前かい? 奥さんの品は良いし、子供もマトモな顏をしているし、どうみても、あんな裏長屋に住む人種ではないぜ』

『……。実はそこまでやってないンだ』

『何故、何故だい。本人が清水と称し、表札が出ていて、米の配給通帳が清水だからといって戸籍上の名前とは限らンだろう?』

『ウン、そうなんだ。……実は、本籍地照会をやろうとしたら、上の方で、しなくても良いッていうンだよ。内密だけど……』

『フーン。すると、ずっと上の方では、奴が何者だか分ったわけだナ!』

私はその係官と別れて、いわゆる〝治安当局のアナリスト〟に会った。

彼はいう。

『これは、発表されてもらいたくない部分もある話なんだ。しかし〝奇怪な三人〟がいたということまで調べられたのでは、参った。実はあの清水の父親は、大変なエライ(という意味は、社会的地位や名誉ではなく)人だったンだ。ソ連にカンのある人だ。彼の父だけが、同志九名のうちで生残ったのだ。

莫然とした話だが、私の立場でいえない部分がある。眼光紙背に徹して、声なき声も聞いてくれョ。

だから、清水郁夫に、ハバロフスク帰りだという噂も出たのだ。ともかく、彼の父の立場を受継いだ清水だから、ああいうこともできるのだ。

係官に、彼の黒幕に有名な政治家がいる、と聞かなかったかい? それが、果して彼の黒幕なのか、或はその政治家の方が彼の手先なのかも知らンよ』

本人に父親や戸籍のことをたずねた。

『先日亡くなった母は、鹿児島にいました。もちろん、戸籍上も清水郁夫ですよ。父は大陸で働いていて、引揚げてきて亡くなりました』

黒幕とみられている有名政治家が、実は彼の手先なのだッて? では一体……

赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 「第二、第三の男は?」

赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 When I abandoned further research, the analyst told me. “It ’s better not to touch it. You also have a wife and a child ... ”At that moment, a terrible ran through my spine.
赤い広場ー霞ヶ関 p.198-199 When I abandoned further research, the analyst told me. “It’s better not to touch it. You also have a wife and a child…” At that moment, a terrible ran through my spine.

『先日亡くなった母は、鹿児島にいました。もちろん、戸籍上も清水郁夫ですよ。父は大陸で働いていて、引揚げてきて亡くなりました』

黒幕とみられている有名政治家が、実は彼の手先なのだッて? では一体……

私は再びアナリストに会った。

『第二、第三の男は?』

『第三の男、これは、鳩山、ドム会談に立会っているはずだ。この男も自称清水というンだ。しかし、本名は頭文字Oで、某政党の大立物S氏の関係者らしい』

『そのOとかSとかの本名は?』

『それはいえない。第二の男、ド氏を裏玄関へ案内した男、この男の正体は、いまもって分らないンだ……』

『前にアタった当局の係官は、清水郁夫の身許を、トコトンまで調べないうちに、上から止められたといっていたが、これはどうしてなンだい? S氏の線かね?』

『それは、わしにも分らない。きっとズットズット上の方で、納得がいっているからだろう。役人は上のいうことは、何でもきかなきゃいけないからネ、服務規律にそう書いてあるヨ』

もはや、これ以上は私には調べられなかった。もちろん、訊ねてみたって、国警長官も警視総監も、正直に打明けてはくれない。或は、彼らだって、そのワケは知らないかもしれない。警察は法律の執行体であって、政治家ではないのだから……。

ともかく、私の得た結論では、この鳩山邸の〝奇怪な三人〟については、なみなみならぬ高等政治によって、登場させられてきた男たちだということであった。

私がこれ以上、〝奇怪な三人〟について調べることを断念したとき、口籠ってばかりいた例のアナリストは、ホッとしたような表情で、私にいった。

『よかったですナ。アレはさわらん方がいいですよ。貴方も、奥さんや子供さんがいるンだから……』

私は、瞬間、〝恐怖〟が稲妻のように、背骨を走り抜けたように感じた。

『エッ!』

ニコヤカに微笑んだつもりだったが、顔の筋肉は醜く硬張っていたらしい。

四 日本の〝夜の首相〟と博愛王国

日ソ交渉が具体的に動きはじめた、二十九年十二月から、二、三ヶ月前のことだった。

当時まだ警視庁記者クラブ詰だった私は、ある日女性の電話に呼び出された。

『実は、Q氏(米人)に関してお話を承わりたいのですが、御都合如何でございましょう』

第一回菊池寬賞を受けてから、「東京租界モノ」は読売の専売特許であった。この女性は、読売本社に電話して、それならば警視庁クラブの三田記者に聞けと教えられ、今、こうして私

を呼び出したのであった。