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正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 週刊誌に〝売りこんだ〟男がいる

正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

新聞、週刊誌に追尾す

読者は、ここで、さきほどの記者になりたい、青年の話を想い起して頂きたい。

もはや、〝大きくなりすぎて〟しまって、読売精神さえ地を払っている読売で、読売精神を鼓吹しようとして檄を飛ばし、それゆえに内紛を喧伝される——務台の悲劇的とさえもみられ得る姿。そしてその務台自身が、六百万部を目指し、輪転機九十六台が稼動する工場を内蔵した、大社屋建設の巨歩を進めつつあるという現実。

読売は〝大きくなりすぎた〟のではなくて、務台自身の努力で、〝大きくしすぎた〟のである。昭和四年の読売入社から四十年。その人生のすべてを賭け、正力を助け、女房役に甘んじ、販売店主が〝造反〟したときけば自らのり出して解決するという、母親がわが子を育てるほどの、こまやかな愛情をそそいで、それが大きく成長した今日、もはや、務台の〝読売への愛情〟は、読売社員に理解されなくなっているのである。——

業務の務台ばかりではない。編集の原とて同じである。

〝務台文書〟のような、直接のキッカケこそないが、編集局長原四郎に対する、〝批判〟の声は、

澎湃として起っている。そして、キッカケのないことが、務台攻撃を一そう強めたとみられるのである。

週刊誌記者は、以上のような私の〝解析〟の前に「読売の内紛」を記事にすることを諦めたのであった。私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもないのであった。全くのところ、あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、あまりにも真実に眼をおおい、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。

「これでは、企画通りにゆかなくなった。絵にならないなあ(記事にならない)。折角の材料だったのに……」

週刊誌記者は、アキラメの悪いツブヤキを残しながら、私に一礼して去っていった。そして、明らかな事実として残ったことは、そのようにネジ曲げた趣旨で、この話を週刊誌に〝売りこんだ〟男が、読売社内にいる、ということであった。

現実に、読売には〝内紛〟などはないし、しかも、務台—原体制は、さらに続くということである。そして、務台—原体制にアダをしようという動きも、その体制が育て、培ってきた「読売新聞」そのものがさせるのである。ここに、従来の意味における「新聞」で従来の意味の「新聞人」として成長した、務台—原ラインの、現実とのギャップがあるのである。

務台—原体制が、さらに三、四年もつづくであろうという、見通しの根拠を述べねばならない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 原の後釜を狙える者はまずいない

正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。

もちろん、二年後に完成を予定される、新社屋という大事業がある。これは、務台をおいては、他に人を得られないことだ。原為雄を失った毎日新聞の前例があるのだから、読売がその轍を踏むことはあるまい。

さらに人事体制がある。

報知の救援に、務台直系の菅尾と、乞われた岡本が赴いた経緯は詳述した。そして、さきごろ報知のド口沼ストが、ひとまず解決したのであるが、これは、労使ともにみるべき成果がなく、数回の休刊という犠牲を払って、なおかつ〝停戦〟的解決でしかない。

ところが、昨秋、報知入りして、平取締役(広告担当)にすぎなかった金久保通雄が、さる四十四年二月十七日、常務・編集局長に選任されて、ド口沼ストを経過しておったのだが、さきごろ、スト解決とともに、突如として解任されて、非常勤の平取締役に格下げされた。そして、読売本社から審通室長(役員待遇)で元社会部長の長谷川実雄が派遣され、代表取締役副社長兼編集局長という、破格の待遇が与えられた。

この解任劇は、もちろん、報知社内でも何の説明も行なわれていないのだが、さきごろのスト解決とは無関係ではないらしい。

金久保は、社会部長、出版局長というポストで、原の後を追うようにピタリとついてきた男だ。いうなれば、原の次期編集局長としては、対抗馬ともみられてきていた。それが、報知入りをし

て、編集局長となった時、その〝施政方針〟演説をして、「紙面で巨人軍優遇はしないし、労使の紛争解決のためとはいっても、休刊などは絶対すべきではない」旨の、組合迎合ともとれる〝スジ論〟をブッたといわれている。

このような態度が、荒廃した報知経営陣再建のため、菅尾—岡本体制を造った務台にとって、決して、愉快なものではなかったと思われる。その揚句の、解任、非常勤である。もちろん、読売復帰は望むべくもないし、原の対抗馬はこうして〝落馬〟となった。

後任の長谷川は、もちろん編集出身。なかなかのヤリ手で、労担であったのだが、代表取締役副社長というのだから、全く、金久保と違って、会社側の編集局長である。ところが、長谷川もまた、金久保にピタリとつづいたポストで、出版局長こそ経てないが、やはり、読売編集局の部長クラスに〝子分〟をもつ、原の対抗馬の二番手であった。

それが、務台直系の菅尾社長と棒組みで、代取・副社長となったということは、〝報知に骨を埋め〟にやらされたワケで、これまた読売編集局長としては、〝落馬〟である。こうなってみると読売の重役その他では、編集局部長クラスに有力な〝子分〟をもち、原の後釜を狙える者はまずいない。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 「サンケイは『新聞』をかえます」

正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。
正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。

この、金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任と

なった。

青木は、原社会部長時代に、大阪社会部へ出たりもしていたが、生粋の社会部育ちとあってみれば、原直系といえよう。そして、後任に、世論調査室長で社会部出身の竹内理一をもってきた。竹内は「日本総点検」担当の論功行賞とみられるが、重症の〝原チン恐怖病患者〟といわれており、また、従来の政治部を徹底解体して派閥を破壊し、さらに、経済部長の河村隆をも局次長に登用したことによって、政治、経済、社会の三部を、完全に掌握した形となった。しかも、局長、二総務、三局次長のピラミッド形で、編集総務の為郷恒淳、鷲見重蔵が、間にはさみこまれるスタイルである。

このような、最近の人事の動きをみてみると、これは、務台—原体制強化である。と同時に、務台文書の趣旨を、故意にネジ曲げて読売の〝内紛〟を宣伝しようとする動きに対しての、無言の解答でもあろう。

務台の〝花道〟ともいうべき、大手町の一角に立ってみると「読売新聞社本社建設用地」と、大書された板囲いの中では、早くも工事が進められているのがうかがわれる。その用地の向う側には、サンケイ新聞の社屋があって、フンドシ(垂れ幕)が一本。

「サンケイは『新聞』をかえます」

八月の末ごろ、サンケイのPR版が都内に配られた。「九月一日から新紙面!」と謳ったそれ

にも、「サンケイは『新聞』をかえます」とある。

「どの新聞も同じようなもの——個性時代だというのに、日本の新聞は、このような批判をうけています。サンケイ新聞は、この批判にこたえる決意をしました。九月一日から、朝刊紙面を大刷新します。ありきたりの紙面改善ではありません。新しい時代が要求する新聞、読者が心から待ち望んでいる新聞、それをサンケイは一年以上にわたって、徹底的に追求しました。ほかの新聞と、どこがどうちがうか——」

そのPR版の冒頭の言葉である。これが、フンドシにいう〝新聞をかえ〟る、ということである。

ここがちがいます——新聞もどうやら、スーパーのバッタ商品のようなキャッチ・フレーズを使うまでに、〝身を落し〟たようである。試みに、九月十九日付サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。

全二十頁を、ご主人向き十二頁、奥さま向き八頁の二本立てにわけてある。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用にとなっていて出勤の時にもち出されても、自宅では困らない、というのが特徴である。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞社は資本金十億円として再発足

正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。男用には、「連日世論調査」「行動する論説委員」「社説ではなく主張」の三本の柱がある。

これが〝ありきたりでない紙面改善〟の中身である。

やたらと、小組みや囲いもの(注。ケイ線で記事を巻いた小記事や、紙面をケイで区切った中記事のこと)が多くて、凸版の見出しやカットがふえて、全紙面を眺め終ってみた印象は、どうしても、「週刊誌」化の一語につきるようである。

新聞が、週刊誌のマネをしだした——これは重大なことである。そればかりではない。サンケイをめぐる情勢は、朝日、読売の超巨大紙化のアオリをうけて、極めてキビしいものとなってきている。

さる四十四年七月一日付で、資本金五百万円の日本工業新聞社(サンケイ系列)が、一躍、十億円の大会社に変ったことである。これを報じた日本新聞協会の機関紙「新聞協会報」の記事をおめにかけよう。

「日本工業新聞社は一日から資本金十億円の新会社として再発足するとともに、海外経済ならびに技術情報や新製品情報の充実など、大幅な紙面刷新を行なった。

これは、資本自由化の新時代に必要な産業情報を、各界の職場で働く人のため提供しようという趣旨で、〝仕事に役立つ総合産業紙〟をめざして行なわれたもの。

紙面刷新の主な内容は、①第四、第五面の見開きを、海外の経済、技術に関するワイドページ

とする。②流通面、労務面のページをそれぞれ週三回、週二回新設し、欧米式の合理的なマーケット技法や人を使うための人材情報を豊富にする。③新製品の紹介を充実させるため、編集局内に新製品室を設置、各メーカーから新製品に関する案内を集める、などとなっている。

新会社の社長には従来どおり、鹿内信隆氏が就任、これまでの資本金五百万円の日本工業新聞社は、日工出版局と名前を変えて、同社の出版業務を継続する。」(7・1付同紙)

こんな唐突な〝発展〟の記事が、素直にのみこめるであろうか。日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。ここでは、すでに、日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。

新聞という事業は、金さえあれば〝商売〟になるものではないことは、すでに幾度にもわたって述べてきている。従来から、すでに〝人〟を得ていない〝ポン工〟が、資本金を一挙に二百倍にしたからといって、それなりに(それに見合うだけ)〝発展〟するものではない。

第一、ここに報じられた「紙面刷新」なるものをみても、金をくう〝刷新〟は何もないようである。そして、機を同じうして、親会社サンケイの一部局で発行されていた、タブロイド版の、サラリーマン向け夕刊紙の「フジ」が、これまた独立して、フジ新聞社となったのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現

正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。

このナゾときは簡単である。もはや、サンケイの名前では、資金の借り入れも、融通さえもつかなくなったので、ポン工を十億円の大会社にして、その名前で親会社サンケイの資金の面倒をみよう、という、〝金繰り新聞〟である。と同時に、新聞はフジ・テレビ(ニッポン放送、文化放送とも)系列化に「夕刊フジ」を残して、フジ・グループとして老残のサンケイは見捨ててしまおうという作戦であろう。そして、大阪のサンケイは発祥地だけに、独立して大阪地方紙として残る公算が大きい。

それほどに、〝四大紙〟を誇称していたサンケイの実情は悪いのだし、東京新聞が中日新聞に吸収合併される直前と同じく、アラシを予知したネズミが、貨物船から逃げだすように、有能な人材は、どしどしサンケイを去りつつある。

さて、サンケイの実情はさておき、本論の「新聞の週刊誌化」という、体質変化にもどって、読売の紙面へと移ろう。わずか、一日だけの紙面を問題にするのは、群盲象を撫するのソシリがあるかもしれないが、あまりにも顕著な実例であるから、その傾向を認めざるを得まい。

四十四年九月六日付朝刊。夫が服役中の二十二歳の妻が、愛人のガードマンのため、二歳の女の子を殺した事件があった日の紙面である。この日は、大宮でも、十九歳の二男が両親を殺したという、血なまぐさいニュースの日であったが、私が指摘するのは、〝子殺し〟の事件の前文である。

「母とは名ばかりの親

——福生町でおきた幼女殺しは、若い人妻の、ゆがんだ愛の残酷な結末だった。

幼いわが子を、なんの苦もなく〝消す〟残忍な行為、愛と断絶。この悲しい事実をどう受けとめればいいのか。……」

この一文を読んで、私は、原編集局長の統卒する読売編集局の現状に、想いを馳せたのである。

九月八日付朝刊、婦人面。堀秀彦が「ときの目」で、この事件をとりあげている。

「……二十二歳の母親の記事。残酷だとか、非道だとか、そんな言葉はもはやこの場合役に立たない。尊属殺人とか幼女殺しとかいった言葉も、私にはピッタリこない。絶望的といったらいいのか、文字通り末世といったらいいのか」

堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。文章書きのプロがそうなのである。

そのとき、この前文を書いた「読売記者」は(多分、本社詰めの遊軍記者であろう)、何と書いたのだろうか。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どんな意味をもち、かつまた、どのような文意なのであろうか。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 女性週刊誌のサル真似と罵倒

正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま

るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。

だがしかし、この記事は、詩でもなければ署名記事でもない。レッキとした新聞文章なのである。五百何十万部も印刷される、大読売新聞の、社会面のトップ記事なのである。

ああ! この乱れ。このような悪文を書いた原稿が、そのままデスクの目を通り、印刷されてしまうのである。これではサンケイを嘲うことはできない。読売でさえ、このように、週刊誌のサル真似の傾向をみせている。〝どうしても新聞記者になりたい〟男のように、彼らが「新聞」に期待するものは、その高い待遇であり、カッコよさにすぎないようである。

「愛と断絶」という、この四文字は、事は小さくみえるのであるが実に、「新聞」の体質変化の具体的現れである。前述したように私の受けたデスクの教育の如きは、さらになく、多少の疑問を感じても、そのまま、この悪文を通すのであろう。

かつて、「社会の木鐸」であった新聞記者が、かくの如く、小手先きの器用さで原稿を書きなぐり、マス・プロ、マス・セールの〝一商品〟と化した新聞に拠る。〝ここが違います〟という、スーパーまがいのキャッチ・フレーズも当然である。

さらに付言するならば、この前文につけられた「狂った残暑」という見出しもまた、全く見当

外れである。これまた、週刊誌の見出しに他ならない。

かつて、原が出版局長時代、昭和三十年代のはじめの新聞週間におりからの週刊誌ブームに対して、日本新聞協会の講師となった原は、こういっている。「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたため起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったハズだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)

この講演から十余年を経て、編集局長となり、完全に局内を掌握し、局長としての抱負がすべて実行可能となった現時点で、事実、新聞は増ページしているにもかかわらず、週刊誌はツブれるどころか、いよいよ花盛りである。そして、その原の部下は、週刊誌のサル真似で、「愛と断絶」などという、正体不明の日本語を、さも〝美文〟らしくトップ記事におりこみ、デスクもまた、それを見逃しているのである。

蛇足ながら、さらにつけ加えれば、同本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。「愛と断絶」を、女性週刊誌のサル真似と罵倒するのは、この本文記事もからんでのことだ。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる

正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。

刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊

誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。

そのミスを見落すデスク、疑問を感じない校閲(私が社会部記者だったころの校閲記者たちは、「これは間違いでしょう」「これでは文意が通りません」「これは用法上誤まりです」と、ゲラを片手に、社会部デスクに押しかけてきたものであった)、全くのところ「新聞」はすでに「新聞」ではなくなってしまったのである。

そして、この〝新聞記者魂〟は、もはや、読売や朝日などの、超巨大新聞の、編集局現場にはたずね当らず、小人数ながら、大きな発行部数をもつ、「週刊新潮」などに見られるのも、何と皮肉なことであろうか。

「週刊新潮」をひろげてみると、毎号二本ほど入っている「告発シリーズ」、「罪と罰」欄、「週刊新潮」欄、「東京情報」、「タウン」などの頁は、その批判と抵抗の精神において、新聞本来のあり方を踏襲しているようである。もっとも、雑誌らしい〝糖衣錠〟であったり、〝人工甘味料〟などを用いたりはしているが、今日の「新聞」よりは、はるかに積極果敢に、社会正義のためへの戦いを挑んでいる。

さきごろ、新潮社の社員の夫人が、身重の身体で、北海道の雪の下から、死体となって発見される、という事件があった。同社幹部と、いささか縁辺の者であったとかで同姓だったため、こ

のニュースは新聞雑誌を色めきたたせた。〝社長夫人〟と誤伝されたためであった。

この時、同社幹部は、事情が明らかでないために狼狽して、マスコミ関係各社に、同事件の不掲載方の工作をはじめだしたという。それと知った現場の記者たちは、猛烈な突きあげで、そのような〝ウラ工作〟に反対した、といわれている。「そんなことをしたら今後の取材がやれなくなる」という理由だったらしい。

幸いにも、その後、事情が明らかになって、スキャンダルではないということになり、幹部たちも〝ウラ工作〟をやめる結果となった。記者たちは、この事件を故意にスキャンダルにとりあげる社があったなら、真相を十分に納得がゆくまで説明し、それでもやるというなら、その社に対して、反撃を加えようと、体制を整えて待機していた、とまで伝えられている。

伝聞で恐縮だが、この話の真否は、取材していない私にとって、明らかではない。しかし、この〝ヤミ取引〟を中止させる、現場記者の突きあげ、取材側への十分な説明と、デマ・メーカーへの反撃準備などというのは、いわゆる週刊誌記者の、従来のあり方とは全く違って、いうなれば、あまりにも新聞記者的である。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外 ではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 出来高払いの売文業

正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。そして、読売新聞もまた、その例外

ではない。

正力松太郎という、「偉大なる新聞人」の衣鉢を継いで、務台光雄、原四郎というコンビが、今、読売新聞の世界制覇という、歴史的瞬間へと向って、着実な歩を進めつつあることは、誰も否定できない。だが、正力に次ぐ、〝偉大な新聞人〟たらんとしている、この二人が、その任務を果し終えた時、「新聞」や、「読売新聞」は、果して、彼らが期待した通りの、「新聞」や、「読売新聞」であるかどうかは、疑問である。なぜかならば、務台も原も、あまりにもマトモな「新聞人」であるからである。

そして、私は、43年1月に書いた、「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節を想起するのである。

「国会議員の国政調査活動と、作家の資料調査活動、そして、記者の取材調査活動は、一見、同じように見えても、それぞれに、全く異質のものであるのだ。

ところが、雑文書きが記者の取材調査活動の、動きの動作だけを真似て、〝記者の取材調査活動〟らしきことをして、その結果を文章にまとめ、活字にすることが極めて多い——週刊誌の無署名記事のほとんどが、それである。

彼ら、ライターと称せられる手合は、ほとんど全く、〝記者としての基礎訓練〟はおろか、人

間としての基礎教養すら、欠けるところが多いのである。それは、活字になった事実が、雄弁に証明しているではないか。

新聞は、まだしも、新入社員に対しては記者としての基礎訓練を施すが、雑誌にいたっては、編集記者とも取材記者とも区別せず、かつ、基礎教育などは、やっていないようである。

それどころか、自社の社員として管理責任をもつべき記者を減らし、小器用なだけの、売文業者を大量に使用する。ライターもしくは社外ライターとよばれる彼らは、いうなれば、〝デモシカ記者〟である。記者デモやるか、記者シカやれない、という連中だ。これが原稿の量で収入を得るという、出来高払いの売文業だから、極めて無責任な文章を書くのは、当然であろう。

それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。

虚報、歪報をふくめての、広い意味での〈誤報〉が、報道の自由を貫き、言論の自由を守るために、大きな障害になりやすいことは明白である。そのためには、ゴシップやスキャンダルは除き、時事問題の報道には、やはり、徹底した「真実」の厳しさが要求される。雑誌であると新聞であるとを問わず、活字媒体のもつ、記録性と随時性とからみて、絶対にベストを尽して、〈誤報〉を避けねばならないのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 もっとも忌むべきものが剽窃(ひょうせつ)

正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節。この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節。この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。

しかし、報道の真否は、常に結果論なのである。毎日のスクープ『大磯の死体はホステス某女』は、確かにその時点では、事実としての動きをみせており、スクープではあったが、結果的には〈誤報〉であったのだ。ホステス某女が生きていたからである。また、〝記者としての基礎訓練〟が、十分であったかどうか、ということも結果として判断されるのである。

これは、人間が人間を裁く裁判以上に、人間が起す現象を人間が追うという、〈ニュース〉そのもののもつ宿命である。

裁判の根拠には、法律という具体的尺度があるのに対し、報道には、5Wという要素のみが具体性をもち、それらをつづるテニオハや、1Hという、人間そのものに依存する部分があるのだから、裁判以上に、〈人間〉すなわち〈記者〉の問題となってくる。

したがって、〈誤報〉を根絶することはできないが、減らすことはできよう。それが〝記者としての基礎訓練〟の徹底化であり、もっとも忌むべきものが、ひょうせつをはじめとする、意識的な〝誤報〟であらねばならない。

十二月二十二日付読売夕刊の、『東風西風』欄に、桶谷繁雄氏が〝反、体制屋〟と題して書いている。

『……しかも、そうすることによって、普通人の到底およばぬカセギをあげている人たちである。共産圏の国々はいうまでもないが、欧州の国々やアメリカでは、反権力反体制の姿勢をとるため

には、相当の覚悟、決心を要する。そうすることは、毎月の収入にも大きく影響するからである。ところが、日本は逆で、そういうのがカッコいいことになる。……』

反体制屋ともよばれるべき、一群の人々のマスコミ活動を指摘されているのだが、それこそ、一二〇パーセントともいえる、この〈言論の自由〉! 自由に伴う義務と責任とが、〈誤報〉を減らすことを、私たちに命じている」

この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。

今、本稿を書くに当って、読み直してみると、いささか、じくじたるものがある。ほぼ、二年前の文章でありながら、時代の移り、人心の流れの急激さに、私が定義した「新聞記者」なる職業人も、現実に変ってきてしまっている不安を覚えるから、なのである。前述したように、「週刊新潮」のあり方に、本来の意味での「新聞」を認めるならば、この一文の中の、新聞記者と週刊誌記者との叙述の位置を、逆にしなければならない時代になっているようである。しかし、それでも、読売は確実に伸び、発展しつつある。務台—原体制下に。……

正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の〝商魂士才〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。

朝日記者は〝詫び〟ないで〝叱る〟

すでに、〝地を払ってしまった〟読売精神について、例証を重ねてきたのであるが、これはなにも、読売だけの問題ではない。朝日新聞とて同様である。〝見失なわれた〟大朝日意識について述べよう。

「大朝日意識」なるものは、練習生制度という、特権階級を設けることによって、誇りと自信とをもたしめ、かつ、さらにそれを高給で裏打ちして、半世紀もの長い年月をかけてブレンドしてきた、「士魂商才」の人、村山竜平の芸術品であった。

その意味で、先代の村山竜平という人物は、全く具眼の士であった。貿易商というその職業も、大阪商人としては、明治十二年の当時としてはカッコイイものであったと思われる。「大阪商人が仕事はうまいが教養に欠け、金銭にはさといが品位が落ちるのを感じたからだという。村山自身は伊勢田丸藩の出身で、多少とも学問の素養があったことから、新聞の啓蒙的機能に着眼した」(草柳大蔵)のが、朝日創刊の動機だという。

もとより、新聞はその発生からして、野党精神——反権力の立場をとるのが当然であるが、本質的に「反体制」ではあり得ないのである。五百五十万の部数と四本社一万社員を擁するマスコミである朝日新聞は、体制の内側にあればこそ存在できるからである。

村山竜平の〝商魂士才〟は、三顧の礼をもって津田貞を迎えたのにはじまり、池辺三山、鳥居素川から、知名度の高いのでは、二葉亭四迷、長谷川如是閑、夏目漱石、下村海南、杉村楚人冠といった、そうそうたるメンバーを招いて、論壇を固めた。

近年では、柳田国男、前田多門、笠信太郎、佐々弘雄、嘉治隆一らを、論説委員として迎え、朝日のクオリティペーパーとしての伝統を築きあげたのである。このように、博く知識を求める一方、大正十二年から、大学卒業生を試験採用して、「練習生」という特権階級をつくり、「大朝日意識」の涵養につとめたのである。このような朝日育ちの論説人には、緒方竹虎、鈴木文史朗、杉村楚人冠、門田勲、荒垣秀雄、森恭三らがおり、先人の衣鉢を継いだのであった。

このように人材を集め、育て得た村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。新聞史をひもとけば、日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。朝日とて例外ではない。

昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと 同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。

正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 村山夫人の命令に動かなかった朝日

正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。
正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。

昭和三十年代が、新聞変質の過渡期であったことは、前にも述べたが、新聞の巨大化が進むと

同時に、〝スター記者〟は次第に消えていった。笠信太郎が去り、森恭三が退くとともに、村山竜平の、〝商魂士才〟も、ついに士才を失って、商魂のみが残ることとなった。いうなれば「カッコよさ」だけの新聞になり果てるのである。反権力に加えて、反体制の紙面をつくりはじめる。桶谷の指摘する通り、だから売れるのである。部数が伸びるのである。

だが、これで「大朝日新聞」は安泰であろうか。否。私は否という。

士才——新聞の義務と責任とを忘れて、商魂のみたくましい「カッコよさ」は、僅かに「宅配」制度に支えられているからだ。宅配はやがて変形し、崩壊するからである。カッコイイから朝日を購読している読者は、宅配なればこそ、つなぎとめられる読者である。宅配制度が崩れた時、〝商魂〟の朝日は大きく傾くに違いない。

昭和三十八年十二月二十四日の、第八十九回定時株主総会において、永井大三常務罷免が決った時から、いわゆる〝朝日騒動〟がはじまるのであるが、村山家対会社の紛争は、実はその春、三月二十二日に原因はさかのぼる。

朝日主催のエジプト美術展に、両陛下が鑑賞に見えられるというので、これをお迎えすべく、村山社主夫妻も参列していた。そして陛下のあとに従って館内を進んでいるとき、進みすぎた村山夫人が、後にさがれという指示のつもりの、宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。

激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求したと伝えられている。だが、編集は動かなかった。朝日ばかりではない。他の一般紙もいずれも書かなかった。このとき夫人は、はじめて社主のいうことをきき入れない朝日新聞の存在に気付いたようである。

私も、この事件のウラ側の詳しい話は知らない。しかし、村山夫人の命令に動かなかった朝日の編集幹部は、もし、この事件を報道すれば、誰よりも一番困られ、苦しまれるのは、天皇陛下だということを、よく知っていたからであろう。

天皇陛下をお悩まし申しあげたら朝日は一体どうなるであろうか。二百五十人もの共産党員がいて、日本を共産主義に売り渡そうとして、懸命に世論をリードしようとしている朝日新聞、であったなら、反体制、天皇制批判の絶好のチャンスではなかったか?

天皇を悲しませた朝日——このレッテルが貼られた時、大朝日新聞は、河野一郎亡きあとの〝河野王朝〟よりも急速に、その一世紀の栄光を失うであろう。〝商魂〟の会社側幹部は、それを見通していた。

私物視していた朝日新聞が、自分のいうことをきかなくなっていた、というので、その年の暮から騒動がはじまるのだが、それが、〝私物〟と〝金儲け〟の衝突であってみれば、クオリティ・ペーパーどころか、クオンティ・ペーパーであって、少しも不思議ではない。

正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 朝日の自社紙面に対する無責任

正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。

朝日の紙面が、士魂どころか、〝士才〟まで失ってゆく傾向は、四十年一月を例にとっても明らかである。

この一月中に、朝日新聞は十二日間で十六本の記事訂正を行っている。つまり、「訂正」という見出しで、既報の誤まちを訂正する小さな記事が、十六回出たということだ。五日の運動欄を皮切りに、七日付朝刊の三本をトップとして、一日二本が十四日夕刊、十九日朝夕刊の二回。その他、八日、十二日、十五日、二十一日、二十四日、二十六日、二十八日、三十日が各一回宛だ。

このような、連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。だが、この責任をとった編集局長の更迭というニュースは、ついに聞かれなかった。

そればかりではない。朝日の投書欄「声」における、体制批判のニセ投書事件についても、同様に責任は追及されなかった。さる一月二十日、自民党中野区議が、肩書、年齢まで記入して、実名で、内部の腐敗をバクロしたのである。そして、ナントこれがニセ投書であることが明らかになる。当の御本人が、「誰だ、私の名をカタるのは——」と、投書したからである。

同様の例が、七月に入って再び、日大助教授である女性の名をカタって、ウソの内情バクロを行うというケースで発生した。そしてまた、そればかりではない。朝日ジャーナル誌の「読者から」欄でも、大東文化大生と称する匿名の投書(「軍事研究」誌十月号)がウソッパチの限りを書い

たまま活字になったという。

新聞協会の「新聞研究」誌十月号は、これら投書欄の問題を特集しているが、「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、ベストを尽して調査するが、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。同誌の中で、山本明が「徹底的に新聞の責任」とキメつけているのをみても、この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。

自民党区議が党内の腐敗を、日大助教授が学内の非道を、それぞれ実名でバクロするということは、すごく〝カッコイイ〟ことである。だから、軽卒にも高松は飛びついたのであろう。この投書の採否を、高松のような部長経歴のある〝大記者〟はしない、というのであれば、その部下がおもねてやったことに違いない。その記者は社全般の空気と傾向をみてとって、カッコイイ「声」欄を作ろうと迎合したに違いなかろう。

考えてもみたまえ。朝日はカッコよくてすむだろうが、区議としては退職しなくともすむが、自民党は除名され、次回は落選の可能性が強くなる。助教授は退職へと追いこまれるのが当然である。この時に、新聞記者は疑うことが第一だという、イロハすら思い浮ばなかったのであろうか。

可能な限りの調査をした、と高松はいうが、何故、本人に会って確認しないのか。第一、この

二つの投書は、「声」欄どころか、社会面のニュースである。「声」欄に人手がなければ、どうして社会部記者を使わないのか。本人に確認できなければ、何故、掲載日を遅らせないのか。すべてにおいて、何の弁解すら許されない、全くの初歩的なミスを犯して、かつクビになることもなく、平然と新聞協会の座談会に出席する神経? 社内問題である特オチ(大ニュースを自社だけが落すこと)とは、本質的に違う、二人の公人の名誉に関する問題である。この紙面に対する編集局長以下の無責任さ加減は、何を示しているのだろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 新聞の紙面であるという自覚と責任

正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

可能な限りの調査をした、と高松はいうが、何故、本人に会って確認しないのか。第一、この

二つの投書は、「声」欄どころか、社会面のニュースである。「声」欄に人手がなければ、どうして社会部記者を使わないのか。本人に確認できなければ、何故、掲載日を遅らせないのか。すべてにおいて、何の弁解すら許されない、全くの初歩的なミスを犯して、かつクビになることもなく、平然と新聞協会の座談会に出席する神経? 社内問題である特オチ(大ニュースを自社だけが落すこと)とは、本質的に違う、二人の公人の名誉に関する問題である。この紙面に対する編集局長以下の無責任さ加減は、何を示しているのだろうか。

朝日ジャーナルのケースもまた、同大学学生課長の痛烈なる反ばく文(前出「軍事研究」誌43・10月号)を読めば、匿名希望だというのに、その内容の調査すらしていない。出版局長岡田任雄もまた、進退を考えるべきであった。

朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある(個人的な感慨ではなくて、社会的に影響のある)投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。

「係から——私たちは投書される方を信頼しています。『声』欄が健在であるためには、信頼と責任が必要です。——(一月の事件の時に)係はこう訴えました。——事柄により確認を要する場合は、電話あるいは電報で照会することにしておりました。しかし、また悪質な一人のいたず

ら者のために、——投書の生命である責任と信頼を傷つけたものとして、残念でなりません。

——名誉棄損に該当するばかりでなく、広く基本的人権のじゅうりんであり、『声』欄の読者を侮辱したものと、いわざるを得ません」(43・7・21「声」欄)

署名こそないが、高松のものと思われる、この「係から」の一文をよく読んでみると、「声」欄は朝日と関係のない、独立した印刷物で、何かの同好会の機関紙と同じである。朝日家庭欄の「ひととき」欄の〝発言する主婦グループ〟「草の実会」のニュースと同じ発想である。

大朝日新聞の投書欄という、政治、経済、社会面と質的に匹敵する〝紙面〟が、かくもお遊び精神で作られているとは知らなかった。第一、読まれる程度からいって、社説とどの位違うか、感覚的にも判断され得よう。

「ひととき」欄は、井戸端会議の猥雑さに堪えられなくなった、〝発言趣味〟の女性たちの、身辺雑感のストレス解消の場である。例えてみれば、主婦相手のモーニング・ショーでは成功したかもしれないが、ハプニング・ショーという、悽愴苛烈な現実の社会では、惨めな実力のほどを思い知らされた「木島則夫」ショーのごときものである。それほどの差のある、「ひととき」と「声」なのだ。

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 朝日の紙面は信じられない

正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る
正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る

ところが、さきの「係から」の一文には、その認識が全くない。「声」が健在であるためには、「係」の自覚と責任こそが必要なのである。新聞の紙面であるという——。自民党区議の事件

以来、「電話や電報」で確認するというが、「確認」とは、手段ではなくて、「結果」なのである。すると、事件以前は、手紙かハガキだったのであろうか。

「投書の生命」とは、「責任と信頼」、ではない。「声なき民の声」を、マスコミ構成にのせることである。表現媒体をもたぬ個人に場を与えることである。その声の内容が、真実であることである。冒頭の「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。国会の決算委、法務委などの発言すら、恐喝の片棒担ぎに利用される時代に、新聞が謀略や私利私欲に利用されないため、まず疑わねばならないのである。女個人のグチやタメイキとは違うテーマが論じられている欄なのである。

結びの「いずれにせよ、他人の名をかたった卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得るのを、他人事みたいに思っているようである。ニセ投書として知っていて掲載したのだという、〝積極的犯意〟はなくとも「未必の故意」(自分の行為から一定の結果が生ずるであろうことを知り、かつ、これを容認する心理状態)は、新聞という立場から、十分認められるのだ。もちろん、一月の事件の時でも、「この欄の純粋性と使命感をはなはだしく汚損する」という、〝お詫び〟ではなくて〝お叱り〟があっただけである。

朝日ジャーナル誌の投書も同様である。匿名希望で(投書文中に、「氏名、住所を書くこ とだ

けは控えさせて下さい」とある)あればなおのこと、少くとも学校当局に、「皮肉なことに『朝日ジャーナル』すら、白昼公然と読むこともはばからねばならぬほどです」かどうか、確かめるべきである。学生課長は呆れ果てながら、「学内書店でも売ってるし、学生相談室にも備付けているし、図書館には『前衛』まである」と反ばくしている。

朝日の紙面は信じられない

さて、これらの事実から、朝日新聞についてのさまざまな論拠が得られたように私は思う。さきに述べた、一カ月で十六回という訂正記事の件だが、さらに断わり書きをつけ加えるならば、この「訂正」を出した掲載面は、政治、社会、文化、運動、外電、特集と、編集局の各部にわたっているということである。つまり、ここでは「声」欄について相当な紙数を費したのだが、これは「声」だけの問題ではなく、編集局全般についていえることだ、ということである。

社会面についていおう。

例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊

藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 文中には〝無責任な談話者〟が登場

正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま実戦に参加しては、書きなぐっている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま実戦に参加しては、書きなぐっている。

社会面についていおう。
例の「板橋署六人の刑事」事件である。さらにまた、「糸川口ケット」「科学研究費」など、伊

藤牧夫社会部長(西部編集局次長)時代の、一連のキャンペーン記事が、読者には眼をみはらされたものである。

これについては、面白い資料がある。光文社発行の、「宝石」誌(42・11月号)が、「宝石レポート」という、特集記事で、「〝紳士〟をやめたか? 朝日新聞社会部」というのを取りあげている。「刑事入浴事件、コラーサ号、東大宇宙研問題など、独走的紙面作りは何を意味するか」という、リードがこの記事の内容を示していよう。

ところが、翌十二月号に、伊藤牧夫の抗議と反論、編集部のお詫びと釈明とが、併せて掲載されたのである。

編集部のお詫びから。「編集では、さっそく取材記者を集め、指摘された部分の事実関係を調査しました。その結果、遺憾ながら、かなりの個所で、事実誤認ないしは記述の不正確があることが判明しました。誤ったデータにもとづく批判によって、朝日新聞社会部の名誉を傷つけたことに対し、慎んでお詫びいたします。

ただ、私たちは、意図的に朝日新聞社会部を誹謗攻撃しようとしたものでないことは、ここに釈明させていただきます。今回はたまたま、取材記者間の意志の疎通を欠くといった不手際から、取材内容のコンファーム不足、引用文献の点検不十分をきたし、上記の事態を招いたものであります」

この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。〝今回はたまたま〟とはいうが、抗議されないで、ホオかむりのまますませているであろう、他の多くの記事があることを物語る。

文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま(うけても成果がなかったか?)、実戦に参加しては、書きなぐっている。その〝独特〟な表現手法は、文章の叙述の中に、括弧で仮名の談話者を入れてゆくやり方で、これが、それぞれの本社員記者にも伝染しつつある。

宝石レポートを読んで、第一に感じたことは、前文で「新聞協会賞を受賞していない」という、決定的な一行が出てきたので、これはクサイ記事だということだった。協会賞は昭和三十二年からはじまったから、十年経っている。協会というあり方からいって、その間に朝日がうけられない可能性は少ない、うけているに違いないというのが常識であろう。しかも、それは協会への電話一本で確認できることではないか。それを怠っている。

果せるかな、文中には、E紙記者、C紙記者、D紙記者、B紙記者という、〝無責任な談話者〟が、この順で登場してくる。イニシアルでないのなら、登場順にB、C、D、Eと出せばよいものを、そこにゴマ化しがうかがわれるのだ。そのくせ最後には、T紙記者が出てくる。これですべて社名のイニシアルと、思いこませようという〝詐術〟である。週刊文春の特集「あの〝特ダ

ネ〟記者は今どうしている?」(40・10・18)に登場させられた、私自身の体験からいっても、「と氏に近い人は説明する」「氏の友人の一人はいう」「というのは、ある古手の社会部記者だ」と、多くの人物に取材しているような表現をとっても、実はすべて私一人の話なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 朝日の報道が「公正な報道」なのか

正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。「報道の姿勢」さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。「報道の姿勢」さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。

果せるかな、文中には、E紙記者、C紙記者、D紙記者、B紙記者という、〝無責任な談話者〟が、この順で登場してくる。イニシアルでないのなら、登場順にB、C、D、Eと出せばよいものを、そこにゴマ化しがうかがわれるのだ。そのくせ最後には、T紙記者が出てくる。これですべて社名のイニシアルと、思いこませようという〝詐術〟である。週刊文春の特集「あの〝特ダ

ネ〟記者は今どうしている?」(40・10・18)に登場させられた、私自身の体験からいっても、「と氏に近い人は説明する」「氏の友人の一人はいう」「というのは、ある古手の社会部記者だ」と、多くの人物に取材しているような表現をとっても、実はすべて私一人の話なのである。

話が横道にそれたが、伊藤の抗議と反論にもどろう。本文中「六人の刑事」について、伊藤の談話と思われるものがある。

「警察官が民衆に協力を求める場合の態度、警察と民衆のつながり、を考えてほしかったですね。相手の社会的地位、収入状態、服装などによって、態度や言葉づかいがちがうでしょう。それでいいのか、ということです。警察官のモラルといったものも、あるのじゃないか。それを問題にしたかった」

伊藤の署名のある文にも、事実の違いや、論理のつじつまについての指摘以外、伊藤の「意 見」がでている。

「私たちは、日ごろ取材活動の中で、公務員、とくに警察官の市民に対する行動が、ややもすると慎重な配慮を欠き、人権侵害になりかねない事例を少なからず見受ける。いまの日本では、そうした場合、市民の泣き寝入りに終るのが普通である。警察官対市民個人の関係では、〝弱いもの〟は通常市民である。弱い市民のために、キャンペーンすることはおかしい、というのが、D

紙記者の意見ならば、私は賛成できない」

さきに述べたように、この二つの文章を読んでみると、「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。

前者は、宝石レポートの文中の談話だから、伊藤の文章ではない。従って、ニュアンスの違いもあろうが、後者は伊藤のものだ。前の談話は、シナリオ作家か、演出家、もしくはプロデューサーの〝談話〟である。これをもしも、「報道の姿勢」というならば、それもよかろう。しかし、その姿勢で、その姿勢さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。

警察官と民衆のつながり、警察官のモラル——それを〝問題化〟したかったのは理解できるが、果して、「六人の刑事」事件は、朝日の報道が、事実を伝えていて「公正な報道」なのか、どうか。その点が明らかにされていないではないか。

読者は、入浴したのか、シャワーで身体をふいたのか。ソバ代を払ったのかどうか。警視庁の「記事取消しを含む善処方」申し入れを、どう処理したのか。知りたいのは事実だけである。

「公正なる報道」とは、国民の基本的な権利である「知る権利」の代理行使である。つまり、新聞記者や新聞社が得ている、いろいろな特権(例えば、刑法の名誉棄損の免責条項など)は、知る権利の代理行使のために、国民が新聞人に許しているものであって、いうなれば、〝公僕〟である。記者は「知る権利」への奉仕者なのである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 朝日社会部の「六人の刑事」事件

正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。
正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。

「公正なる報道」とは、国民の基本的な権利である「知る権利」の代理行使である。つまり、新聞記者や新聞社が得ている、いろいろな特権(例えば、刑法の名誉棄損の免責条項など)は、知る権利の代理行使のために、国民が新聞人に許しているものであって、いうなれば、〝公僕〟である。記者は「知る権利」への奉仕者なのである。

ところが、伊藤は全くこれに答えていないではないか。それどころか、「入浴、踏み倒しの事実はない」という警視庁槇野総務部長談話に対し、「なぜ真実がいえないのか」という、T子さんの談話が同量つづく。両者の対立点が如何ともなし得ないので、最後までこうした扱いをするのならば、何故、初期のT子さんサイドの〝断定記事〟を、取り消すか訂正しないのか。

後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。果して、警官対市民の関係で、弱いのは、市民だろうか? サツ回りの経験もある伊藤だが、築地八宝亭事件のあったころと、現在では全く違っている。遵法精神にみちた、〝善良なる市民〟は、私は、警官より強いと思う。伊藤のいう市民とは〝虞犯性〟市民か、犯罪容疑者のことであろう。それほど、警官は変ってきているのだが、伊藤は〝大〟朝日社会部長として納まりすぎて、現状にうとくなったのであろう。

借問するならば、では、新聞対警察の関係で、どちらが弱いか、警察対大学の関係で、通常どちらが弱いのか? 大学対新聞はどうか。まさに、藤八拳である。弱い強いが、六人の刑事問題の本質と何の関係があろうか。

伊藤は、この「抗議と反論」の結びで、こうもいう。「新聞批判は大いに結構であるが、それがためには、まず、事実関係の正しい把握と、その背景を十分理解したうえで、論評を加えて頂

きたい。無責任な第三者の談話や文章を、事実の裏付けなしに、そのまま引用することは、文章を書くものとして、厳につつしむべきことである、と強調しておく」(傍点筆者)

引用文を原稿用紙に引き写しながら、私は、フト、朝日の伊藤社会部長批判のための、私自身の文章のような錯覚におちいった。だがこれは、伊藤牧夫の文章であった。「宝石」に叩かれてみて、はじめて、この文章のようなイロハに気付いたのであろうか。〝わが身をつねって、他人の痛さ〟を知ったのであろうか。好漢、でき得べくんば、「六人の刑事」の事件以前に、この一文を草すべきであった。冒頭の〝新聞批判〟を、「警察批判」と訂正したうえで——。

こうしてみると、朝日社会部の「六人の刑事」事件は、如何とも正常なる判断力では理解し難いのである。理解し難いから、いろいろな〝風說〟が、したり顔の〝消息通〟たちによって流されるのである。板橋署の記者クラブから、朝日が除名されたシッペ返し〝説〟なども、その一つである。糸川ロケット然り、科学研究費、しかりである。キャンペーンなら、もっとスッキリした形のキャンペーンができないのであろうか。

決定的な点は、「宝石」の記事に対し、伊藤は当面の責任者でありながら、相手の片言雙句に文句をつけるだけで、キャンペーンの趣旨など、一つも本質論をやらない。これもオカしい。〝風説〟が多く流れるのは、疑惑があるから、理解に苦しむからである。

一部の読者は、「六人の刑事」キャンペーンを目し、朝日新聞の反権力闘争の一環として理解 しているようである。

正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 人事派閥の暗闘から生れたキャンペーン記事

正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーン。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、敵にならないから安心なのだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーン。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、敵にならないから安心なのだ。

一部の読者は、「六人の刑事」キャンペーンを目し、朝日新聞の反権力闘争の一環として理解

しているようである。つまり、「警察不信」を宣伝する紙面が、意識的に(シロをクロとまではいわないにしても、訂正も取り消しもしない点)作られていることから、編集幹部の指揮のもとに、一定の方針にもとづいている〝反権力、反体制〟紙面だとうけとられているのである。

だが、私の見解は違う。「声」欄の高松喜八郎が、美術記者出身で、学芸部二十年。次長十年、部長三年の経歴をもっていて、なおもあのような〝無責任、的はずれ〟の弁解を活字にする人物である。伊藤牧夫は昭和二十四年入社、「八宝亭殺人事件」をはじめ、売春汚職などで活躍した、経歴十分の社会部記者で、その人柄からいっても、反体制紙面作りを意識できる男ではない。

元朝日社会部記者の佐藤信が、単純明快にこう〝解説〟する。

「伊藤は、例の九十六時間ストで、スト破りをやった男だ。それで、会社側、広岡社長の線に認められた。ところが、田代編集局長は広岡系列ではなく、田代局長は社会部長に、自分の子分の京都の岩井弘安支局長をもってこようとしている。伊藤社会部長としては直接上司の編集局長によって、部長の地位をおびやかされているワケだ。そのため、伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーンである。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、局長以上にとって敵にならないから安心なのだ。要するに、読者が理解できないというのは、人事派閥の暗闘という、新聞の次元でないところから生れた、キャンペーン記事だからサ」

佐藤の〝解説〟が正鵠を得ているかどうかは別として、伊藤牧夫は〝責任〟をとるどころか、西部とはいえ「局次長」に栄転していった。

司法記者の聖域〝特捜部〟

「何か書かねば——。何かやらねば——」といった、〝追いつめられた記者心理〟の好適例は、さる昭和二十五年九月二十七日の、「伊藤律架空会見記」という大虚報である。朝日の神戸支局員が、マ元帥政令による日共九幹部の追放で地下潜行中の伊藤律と、宝塚山中で会見したという、特ダネをモノした。ところが、その記事をよく読んでみるといろいろ疑点がでてきたわけだ。こうして、三日後には「ねつ造記事と判明、全文取消し陳謝」という社告となる。さすがにこの時は、編集局長にいたるまで、責任を問われたのであったが、原因は、海運記者から警察に配置換えになって抜かれっぱなし、何かヒットをということであったし、「職業と〝朝日〟の重みに押しつぶされたんだ」(当時大阪学芸部記者の作家・藤井重夫=週刊文春40・10・18)といわれる。

このような実例をもち出すまでもないが、社会部記者として十五年の経歴をもつ私にしてみて

も、佐藤の〝解説〟が、一番うなずけるのである。それ以外、どんな〝説〟も、やはり納得ができない。「六人の刑事」キャンペーンは、前述の〝佐藤解説〟で、それではじめて理解される。

正力松太郎の死の後にくるもの p.254-255 このイヤらしい美文

正力松太郎の死の後にくるもの p.254-255 司法記者クラブだけは、東京地検べったりにならざるを得ない。地検には特捜部があるからである。朝日社会部記者で同クラブに所属している野村二郎が本質的に権力側についていると判断される名文句を拾ってみようか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.254-255 司法記者クラブだけは、東京地検べったりにならざるを得ない。地検には特捜部があるからである。朝日社会部記者で同クラブに所属している野村二郎が本質的に権力側についていると判断される名文句を拾ってみようか。

このような実例をもち出すまでもないが、社会部記者として十五年の経歴をもつ私にしてみて

も、佐藤の〝解説〟が、一番うなずけるのである。それ以外、どんな〝説〟も、やはり納得ができない。「六人の刑事」キャンペーンは、前述の〝佐藤解説〟で、それではじめて理解される。

ここでまた、私は考える。朝日記者の反権力、反体制意識は、ホンモノだろうか、と。

昨四十三年秋、井本総長会食事件というのが起った。小さな経済誌とアカハタ紙との同時発表のスクープである。その件についての、井本検事総長の記者会見が行なわれ、一般紙は九月三日付朝刊から報道しはじめた。この時の三紙の報道ぶりをみると、朝、読が地検特捜部べったりの大扱いだったが、毎日だけは、そのスクープのされ方に疑問を感じたらしく、第二トップという地味な扱い方をして、記事中にも「検事総長、池田代議士らをはじめ、関係者が語る〝事実〟は——」と事実に〝 〟をつけている。

司法記者クラブ。検察庁担当のこの記者クラブは、警視庁クラブと並んで、事件担当の社会部の重要クラブである。他の記者クラブ(警視庁クラブも含めて)が、その担当官庁に対して、反権力的な自由な批判が可能なのに比べて、司法クラブだけは、東京地検べったりにならざるを得ない。地検には特捜部があるからである。

東京地検特捜部のあり方について、外部では極めて批判が多い。記者たちにも、その感があるであろう。しかし、ここでは地検特捜部を批判することはできない。事件がはじまった時、その記者と所属社は、特捜部で何も取材できなくなってしまうからである。

スポークスマンである次席検事の発表だけでは、大事件の時に紙面は埋らない。どうしても検事の自宅訪問をやらねば、ネタは拾えないのである。そして、検事たちは、国家公務員法第百条、秘密を守る義務に違反して、記者たちに捜査の進行を教える。これは、厳密な意味で違反であるが、国民の「知る権利」の代理行使である「公正なる報道」によって、黙認される慣行となっている。

だから、司法記者たちは、どうしても、検察権力に密着せざるを得ない。朝日とて同様である。朝日社会部記者で、同クラブに所属している野村二郎が、「財界」誌(43・5・15)に、特別読物「東京地検特捜部」を書いている。クラブ記者だから、検察権力に密着せざるを得ない実情はわかるのだが、彼のこの一文は、彼が本質的に権力側についていると判断されるのだ。いくつかの名文句を拾ってみようか。練習生ではないがキャップだ。

「検察えりぬきの三十二人の検事たち。平均年齢三十七、八歳。その頭脳と熱情は日本の正義を守る最後のトリデ、とも評されようか——」「起訴金額全部がワイロと認定されたことは、捜査技術の向上と高く評価されている」「いずれも力倆、識見ともにすぐれたひとかどの人物」「すばやい頭脳の回転、適格な判断力(傍点筆者)、論理的思考力、細心かつ大胆——である。鼻すじの通った整った顔つきで、ちょっとした二枚目。長身のタイプは外国商社マンといった感じだ」「こうした措置は疑点はあくまで糾明し、中途半端な妥協を排し、真実を徹底的に追及する特捜

部の厳しい態度のひとつ」

ゴマ油つきのラーメンの袋をみると、〝ゴマスリ〟の語源が書かれている。潤滑油をつくることから、ゴマスリが必要であったらしいが、その限りでは、このイヤらしい美文は、傲岸な検事たちをよろこばせ、その目的を達するであろう。