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読売梁山泊の記者たち p.234-235 これが新聞記者をダメにする

読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。
読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。

それに反して、滝沢は、やはりマジメで、兵隊の仕事、として、割り切っていた。萩原が、十年も司法クラブが勤まったのは、ハラの中で、検事たちをバカにしていたからだ。頭がいいから、過去の事件のケースから、判例に至るまで、良く記憶していて、若い検事などには、反対に教えてやるから

だ。オ説教をするのである。

昭和十八年入社の、青木と萩原と私とは、その性格から、よくこういわれた。デスクに仕事をいいつけられ、「そんなの、ダメですよ。モノになりっこありませんよ」と、言下に断わる三田。

デスクの前では、「ハイ、やってみます」と面従しながら、「こんな企画を出すデスクの下で働くのは大変だよ」と、腹背の萩原。それに対し、デスクの前で「ハイ」、実際に動く青木——仲間たちは、「青木が一番出世するナ」といっていたが、報知の編集局長で早逝した。

滝沢は、福島民友新聞の編集局長で役員にまでなったが、オーナーに嫌われて去り、これも逝った。寿里は、読売の閑職にいて、講演先で、酒を呑んで温泉に浸って死んだ。

話がそれたが、司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、その渕源は、昭電事件での、立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄ごろから、それが定着してきて、ロッキード、グラマンとなると、もう、検察批判などできない。「特捜部出入り禁止」などと、検事が思い上がってきたからである。

政治部の新人が、大臣や実力者に群がって、金魚のウンコになり、社会部では、中堅が検事の夜討ちに奔命する——これが、新聞記者をダメにする。

伊藤栄樹・元検事総長の遺書「秋霜烈日」は、伊藤ら特捜部の検事たちが、人事権を握る馬場義続・事務次官のもとで、前任の岸本義廣次官によって、法務研修所の教官にトバされていた河井信太郎を、

法務省刑事課長に呼び戻した事実から、やがては、特捜部長に返り咲くことを、憂えていたことを、示唆している。

そして、そのために、売春汚職の捜査資料(伊藤は、ガセネタ=偽情報、と表現する)を、河井刑事課長に流してみる。しかし、伊藤の叙述のうち、やや不正確な部分がある。

伊藤は、こう書いている。

《…売春汚職の捜査においては、初期から、しばしば重要な事項が、読売新聞に抜け、捜査員一同は、上司から疑われているような気がして、重苦しい空気であった。

そのうち、読売新聞に抜ける情報は、どれも赤煉瓦(あかれんが=法務本省)へ報告したものであることが、わかってきた》

この部分が、オカシイのである。前述したように、売春汚職を担当していたのは、司法クラブへきたばかりの寿里記者。古い滝沢は、まだ手を出していない。立松は、病欠中であり、本田が書いているように《…その点、わが社は初めに甘く見て少々出足がおくれている。こないだうちは朝日にやられて、今日は毎日だ…》と、《初期から、しばしば読売に抜け》ている事実は、なかったのである。

だからこそ、景山社会部長があせり、病欠上がりの立松を、直轄で起用するのである。戦線に投入された立松が、見ず知らずの若い検事の自宅に、夜まわりするハズがない。立松が顔を出したのは、河井刑事課長室ぐらいのものであろう。

カンぐれば、立松が現われたというニュースが伊藤らに伝わり、それなら、昭電事件以来の、河井

のリークを立証しよう、として、ガセネタを流した、とも考えられる。

読売梁山泊の記者たち p.236-237 馬場次官対岸本検事長の対立

読売梁山泊の記者たち p.236-237 河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。
読売梁山泊の記者たち p.236-237 河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。

だからこそ、景山社会部長があせり、病欠上がりの立松を、直轄で起用するのである。戦線に投入された立松が、見ず知らずの若い検事の自宅に、夜まわりするハズがない。立松が顔を出したのは、河井刑事課長室ぐらいのものであろう。
カンぐれば、立松が現われたというニュースが伊藤らに伝わり、それなら、昭電事件以来の、河井

のリークを立証しよう、として、ガセネタを流した、とも考えられる。伊藤のいうように、《初期から、しばしば重要な事項が読売に抜け》たのは、昭電事件の時だけである。

伊藤らの〝仕掛け〟が、立松逮捕にまで発展するとは、決して予想はしなかったであろう。伊藤らは、やがて、特捜部長、次席検事と、彼らの上司になるだろう河井の、〝政治的な動き〟を牽制すべく、ガセネタを流してみた。それを、単発的な行動としては、工合が悪いので、《初期から、読売に抜け》と、表現したのであろう。

しかし、地検特捜部という〝現場〟があるのに、河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。

当時、馬場次官対岸本検事長の対立は、岸本の検事総長就任の可能性をめぐって、ギリギリのところにきており、伊藤らは、そのような対立を批判して、立松復帰を絶好のチャンスとして、〝仕掛け〟を考えたに、違いないだろう。

あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。ただ、「秋霜烈日」にまとめるに際し、昭電事件当時を想起して、「売春汚職では、初期から…読売に抜け…」という、表現をしたとみるのが、一番、真相に近いと思われる。

なぜなら、伊藤らには、宇都宮、福田両代議士が、岸本のいる高検に、告訴することなどは、判断も、予想も、できないからだ。

さて、本田の「不当逮捕」は、そのあたりを、どう、書いているのだろうか。

《滝沢が待つ銀座裏の「憩」に立松が姿を見せたのは、約束の時刻を二時間も過ぎた午後十時であった。

「とれたぞ」

立松は向かい側の椅子に腰掛けるなり、メモ帳を背広の内ポケットから取り出して開いて見せた。

「これがさっき君のいってた丸済み議員だ」

いわれて滝沢は、そこに書かれてある名前を一つずつ目で追った。いずれも都内選出の自民党代議士で、計九人である。

「この中の五人は容疑がかたまっているという話だった」

立松の説明に滝沢は、ウェイトレスが振り向くほどの声を上げた。

「へえ、すげえや」

その言葉に誇張はない。売春汚職の取材を始めてから五日目、丸済みメモの噂を耳にしてからわずか五時間で、立松は捜査の核心部分と思われるあたりをわしづかみに持ち帰って来たのである。…。

立松はニュース・ソースを打ち明けた。かつて東京地検特捜部で大型疑獄の摘発に凄腕を振るった人物であり、いまは現場を離れているが検察官の身分にかわりはなく、捜査の流れを知り得る立場にいる。

立松によると、その人物は次のようにいって、丸済み議員のリストを彼の前に出したという。

「立松君、元気になってよかったね。貧乏検事にはなんのお祝いも出来ないが、これはぼくの気持だ」…。

読売梁山泊の記者たち p.238-239 丸済み議員のリスト

読売梁山泊の記者たち p.238-239 「明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします」こうして、読売の特種が社会面トップに組み込まれた。《捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ》
読売梁山泊の記者たち p.238-239 「明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします」こうして、読売の特種が社会面トップに組み込まれた。《捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ》

立松はニュース・ソースを打ち明けた。かつて東京地検特捜部で大型疑獄の摘発に凄腕を振るった人物であり、いまは現場を離れているが検察官の身分にかわりはなく、捜査の流れを知り得る立場にいる。
立松によると、その人物は次のようにいって、丸済み議員のリストを彼の前に出したという。

「立松君、元気になってよかったね。貧乏検事にはなんのお祝いも出来ないが、これはぼくの気持だ」…。

翌十七日の昼前に出社した立松は、景山社会部長に取材の成果を報告した。そして、鈴木顧問の浮き貸し事件と、代議士に対する業界からの贈賄の、どちらを先に出稿するかについて指示を仰ぐ。…。

その間に立松が戻って来て、滝沢と原稿の相談が始まる。

「九代議士に丸済の疑惑、といったかたちで全員の名前をばあっと書いちゃおうか」

意気込む立松に滝沢がブレーキをかけた。

「九人全部っていうのはどんなものでしょうか」…。

そこへ、司法記者クラブ詰め主任の三田和夫がやって来た。それから立松が結論を出すまで、そう長い時間はかかっていない。「今日のところは、滝沢君がいう通り、確実な線に絞ったほうがよさそうだ。その線でもう一度、念を押してみよう」

彼は床の間のわきの室内電話に手を伸ばし、帳場に都内のある電話番号を告げた。

外線につながって、確認が始まる。三田、滝沢にはその内容を聞くまでのこともなく、相手は前述のニュース・ソースと知れた。

「くどいようで申しわけないんですが、九人のうち五人については、かなりクロっぽいというお話でしたね」

「——」

「そのうちはっきり裏がとれているのは、だれとだれですか。もう一度名前を読み上げてみますから」

「——」

「実はこれから原稿を書くところなんですが、その線なら動きませんか」

「——」

「わかりました。それじゃ明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします。どうもたびたびすいません。ありがとうございました」

受話器を置いた立松は、メモ帳の中の九代議士の名前のうち、二つをボールペンで囲って三田に示した。

「たびたびすいません」というからには、今日の午後も立松は、ニュース・ソースと接触を重ねていたのであろう。自分の目の前でさらなる確認をとりつけた同僚に、三田はいうべき何物もない。すべてを彼に任せた…。》

こうして、読売の劣勢を一挙に挽回するはずの特種が、昭和三十二年十月十八日付け朝刊の十四版から、社会面トップに組み込まれたのである。

《(注=その記事後半部分)当局では三幹部(引用者注・鈴木明全性理事長、山口富三郎同専務理事、長谷川康同副理事長)を全性本部が全国ブロックに呼びかけて地元毎に政界工作にあたらせた参謀とみて、まず同本部の心臓部である東京都連——地元(東京出身議員)を結ぶ汚職ルートに摘発のメスを入れることに決定、捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五

十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ。

ワイロの手口としては、三幹部の指示により、地域別の業者を〝政界工作員〟として、めざす議員の巡りに一人または二人ずつつけ〝運動〟したのち手渡していたとみている。(中略)このほか地元出身のK、S、Nの三代議士についても、同様の丸済という印がつけられているので、その裏付け捜査を急いでいる。(後略)》

読売梁山泊の記者たち p.240-241 間違いなく河井の自宅の電話番号

読売梁山泊の記者たち p.240-241 宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。
読売梁山泊の記者たち p.240-241 宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。

《(注=その記事後半部分)当局では三幹部(引用者注・鈴木明全性理事長、山口富三郎同専務理事、長谷川康同副理事長)を全性本部が全国ブロックに呼びかけて地元毎に政界工作にあたらせた参謀とみて、まず同本部の心臓部である東京都連——地元(東京出身議員)を結ぶ汚職ルートに摘発のメスを入れることに決定、捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五

十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ。

ワイロの手口としては、三幹部の指示により、地域別の業者を〝政界工作員〟として、めざす議員の巡りに一人または二人ずつつけ〝運動〟したのち手渡していたとみている。(中略)このほか地元出身のK、S、Nの三代議士についても、同様の丸済という印がつけられているので、その裏付け捜査を急いでいる。(後略)》

K、S、Nは記事の中でもイニシアルだけの扱いになっている。これは滝沢の助言を入れて、立松が大事をとった結果である。(注=九人のうちのクロっぽい五人の残り三人)

《両代議士は翌十九日、名誉毀損の訴訟を東京地検に提起した。告訴の対象は、読売新聞社小島文夫編集局長および問題の記事を執筆した記者某、これに情報を提供した検事某およびその監督者としての東京地検野村佐太男検事正、および検察最高責任者である花井忠検事総長の五人であった。

彼を指揮命令する監督者責任を合わせて問うのであれば、東京地検の検事正と検事総長の他に、もう一人、東京高等検察庁の検事長も告訴しなければ筋道に合わない。

しかし、故意か、偶然か、東京地検の上級機関である東京高検の検事長は告訴の対象からはずされており、その職にある岸本義広が被告訴人に名を連ねていないという理由で、東京高検を指揮して、この告訴事件の捜査に乗り出すのである。》

本田の「不当逮捕」は、以上のように、誤報が読売社会面のトップ記事になる経過を、詳しく描写

している。なお、引用文中に「…」とあるのは、中略部分を意味している。

最後のツメに、河井検事の自宅に電話する部分は、一階の電話ボックスに行って、私と滝沢が立ち合ったもので、室内電話ではない点が違うだけだ。

というのは、宇都宮代議士は、私が国会担当時代、取材で人柄を知っており、赤線業者のワイロを受け取る人物ではないと、疑問を提起したからで、それなら、河井にツメてみよう、ということになったのである。

司法クラブのキャップである私は、立松の話を聞いて、フト、一抹の不安を覚えたのである。宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。

もっとも、立松は社会部長直轄の遊軍で、私の部下ではないから、彼の原稿で、私の責任は生じない。しかし、親しい友人の立松に赤恥をかかせるわけにはいかない。

五人のうちの〝クロっぽい〟二人について私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。彼が、私と滝沢の見守る中、間違いなく、河井の自宅の電話番号をまわした。

政治的思惑で立松を利用した河井検事

そして、本田の最後の部分、「岸本が告訴洩れになった」ことについて、「故意か、偶然か」と、表現しているが、司法記者の常識として、一流日刊紙の名誉毀損被疑事件で、担当記者が逮捕されるこ

となど、あり得ないことであった。

読売梁山泊の記者たち p.242-243 河井の政治的思惑

読売梁山泊の記者たち p.242-243 ここの部分が、重要なのである。芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたったことが、実証されるのである。河井の政治的思惑について、説明しなければならない。
読売梁山泊の記者たち p.242-243 ここの部分が、重要なのである。芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたったことが、実証されるのである。河井の政治的思惑について、説明しなければならない。

政治的思惑で立松を利用した河井検事

そして、本田の最後の部分、「岸本が告訴洩れになった」ことについて、「故意か、偶然か」と、表現しているが、司法記者の常識として、一流日刊紙の名誉毀損被疑事件で、担当記者が逮捕されるこ

となど、あり得ないことであった。

だから、結果論として、「故意か」と思っているようだが、「故意」とは、宇都宮、福田両代議士が、事前に、岸本検事長と謀議して、告訴洩れにするから、逮捕しようと、計画したことを意味する。これまた、まったくあり得ないことである。

のちに、宇都宮代議士に直接たずねてみたが、本人は弁護士まかせ。弁護士は、地検の監督責任は最高検と考えた、とのことだ。

そこで、今度は、伊藤栄樹らの、ガセネタ流しについて、考えてみよう。前述したように、「売春汚職で、初期から読売に抜けた」ことはない。これは、河井にガセネタを流してみることの、修飾語であろう。昭電事件以来の疑惑に、結論を出そうとしたのだろう。いずれにせよ、もはや、この部分の真実は明らかにはできない。

しかし、河井が、立松に対して、九名の国会議員のうちの五名が、容疑が濃く、そのうちでも、二名の捜査が進展している、と、リークした。そうすると、伊藤らが、法務省刑事局に報告したのは、五名の名前であろう。

その様子は、本田の描写(立松の電話の受け答え)で、ほぼ明らかである。すると、その五名のうちから、宇都宮、福田両代議士を特に指名したのは、河井の判断、ということになる。

《「そのうち、はっきりウラが取れているのはだれとだれですか。もう一度、名前を読み上げてみますから…」》

と、立松は河井にいい、丸済メモのうち、宇都宮、福田の名前の上に印をつけた。片手に受話器、片手で印(しるし)をつけたのを、私は目撃している。

《「——」

「わかりました、それじゃ、明日の朝刊は、その二人だけ、実名でいくことにします」》

つまり、伊藤らのガセネタ流しでは、この二人の名前だけではなく、読売紙面での、K、S、Nのイニシャル三名も含まれていたのに、河井の〝判断〟で、二名がえらばれた、ということになる。

ここの部分が、重要なのである。そして、そこに、芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたった、ということが、実証されるのである。

河井の政治的思惑について、説明しなければならない。それには、当時の政治情勢を見なければならない。

昭和三十二年はじめ、岸内閣にただ一人魅力ある新人として、藤山愛一郎が入閣した。財界出身で国会に議席を持たない新人である。これは当然、次の総選挙には出馬する、という含みである。

そして、その夏。東京都知事安井誠一郎が衆院選出馬を声明した。昭和三十四年春までまだ、任期が一年半もある、というのにである。

この二人の〝新人〟の衆院選出馬は、どのような影響を、当時の政界地図に及ぼすであろうか。現役の代議士にとっては、実に重大な問題である。

読売梁山泊の記者たち p.244-245 だからこその安井都知事の衆院選出馬

読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。
読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

そして、その夏。東京都知事安井誠一郎が衆院選出馬を声明した。昭和三十四年春までまだ、任期が一年半もある、というのにである。
この二人の〝新人〟の衆院選出馬は、どのような影響を、当時の政界地図に及ぼすであろうか。現役の代議士にとっては、実に重大な問題である。

安井都知事の身辺をみてみよう。昭和三十年春の都知事選は、まったく危うかった。当時の都庁は伏魔殿、とさえいわれ、安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。占領期間に引きつづいての二選、そして三度目の出馬である。

都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほどで、私が、昭和二十七年から三十年までの、三年半ほどの、警視庁記者クラブ詰だった間に、「都庁汚職」として摘発された事件は、ただ一度だった。

それも、三十年春、都の結核療養所の建設をめぐる、小さな贈収賄事件である。

「警視庁がやれないなら、地検でやる」

正義感に燃えた若手検事が、そう意気込んでみても、「都庁汚職」は一つとして、伸びなかった。

「官庁バス路線買い上げ事件」というのがあった。これを担当した検事たちに、二通りの声があった。この事件には〝メモ〟があって、献金一覧表ができていた。

これに対し、「メモが事実だとしても、時効サ」と、こともなげに諦らめ顔の検事と、「いい筋なのに、惜しいネ」と、未練気な若手検事——。事件は不発に終わった。

前警視総監田中栄一派の選挙違反がのびてきて、安井謙参院議員まできた時、やはり、ストップがかかったといわれる。実兄の安井都知事が、「一回だけは、安井謙議員の調べを認めるが、都知事選を目前に控えて、都庁にだけは、手をつけないでもらいたい」と、某筋へ要求した、といわれたほどであった。

警視庁どころか、東京地検でさえ、都庁、すなわち、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。

ナゼだろうか。

社会党が、安井三選阻止を唱えて、元外相有田八郎を擁した、昭和三十年の都知事選での、安井、有田の得票差は、僅か十万票であった。つまり、プラスマイナスすれば、あと五万票で、有田は勝てたのである。

この都民の審判が、自民党首脳をガク然とさせた。次回で雪辱を期して、孜々営々と、日常活動をつづける有田派の実力は、悔りがたいものがあった。

だからこその、安井都知事の衆院選出馬声明であった。安井派が三十年の選挙で準備した金が、一億円といわれているが、それであの少差である。次回三十四年には、何億にハネ上がるか? それなら、衆院選のほうがラクである、という計算もあっただろう。

では、次回に、有田と闘うのは誰か。その時点から、候補探しが始まった。首都の知事を革新陣営には渡せないという、至上命令があるのだ。

当時、浮かんでは消えた人名を、列挙してみよう。第一に、中山伊知郎、松下正寿らの学者グループ。松下などは、「選挙費用が五千万円」と聞いて、乗り気だったのが、一度に〝その気〟をなくした、という。

藤山愛一郎、一万田尚登、高碕達之助、鮎川義介、渋沢敬三、河合良成らの財界人。つづいて、吉

田茂、鳩山一郎、石橋湛山の元、前首相ら。鳩山の場合など、本人がダメなら大蔵官僚の長男威一郎、薫子夫人の名前まで出たが、都議団に笑い飛ばされて、消えてしまったほど。

読売梁山泊の記者たち p.246-247 安井・藤山をどうしても当選させねばならない

読売梁山泊の記者たち p.246-247 現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。同一選挙区に、同系候補がふえれば、基礎票が割れるのである。
読売梁山泊の記者たち p.246-247 現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。同一選挙区に、同系候補がふえれば、基礎票が割れるのである。

当時、浮かんでは消えた人名を、列挙してみよう。第一に、中山伊知郎、松下正寿らの学者グループ。松下などは、「選挙費用が五千万円」と聞いて、乗り気だったのが、一度に〝その気〟をなくした、という。

藤山愛一郎、一万田尚登、高碕達之助、鮎川義介、渋沢敬三、河合良成らの財界人。つづいて、吉

田茂、鳩山一郎、石橋湛山の元、前首相ら。鳩山の場合など、本人がダメなら大蔵官僚の長男威一郎、薫子夫人の名前まで出たが、都議団に笑い飛ばされて、消えてしまったほど。

次は、沢田廉三、鶴見祐輔、永田清らが出たのち、グッと現実的になって、花村四郎、中村梅吉といった、地元議員になった。これには都議団も賛成したが、本人たちが受けない。そして、松永東、東竜太郎と動いてきたが、これまた固辞して、振り出しにもどった感じ。

都知事の後任問題は、まったく目鼻さえつかなかったが、藤山、安井両氏の出馬は確定し、しかも、国会には〝解散風〟が吹きはじめていた。選挙の見通しは、早期解散ならば翌三十三年春。おそくも、秋には、という声がしきりであった。

安井の出馬は、都知事だったのだから、当然、東京である。そして、一区の安藤正純の地盤のアト釜かと見られた。東京一区は、鳩山一郎、安藤正純、原彪、浅沼稲次郎という保守、革新の大物、ベテランが四議席を二分していたが、安藤が死亡して、空いたのであった。

一区が駄目なら、三多摩の七区。十二年の在任中に、そのことあるを予期して、三多摩には、十分に金をマイていた、といわれる。安井の出馬は、一区か七区というのが、決定的であった。

一方の藤山はどうか。「芝で生まれて、芝で育ったボクは、芝以外からは選挙に出られない」と公言していた。学校も慶応だから、芝一本槍の方針だ。芝といえば、東京二区である。

なにしろ、入閣に当たって、一九四社という、関係会社に辞表を出し、七つの会社の役員会を招集して、奇麗サッパリと、財界から足を洗っての、政界入りだから、出馬→当選は必死である。

だが、選挙という〝怪物〟は、生やさしいものではない。出たい人が出て、その政見が選挙民に支持されれば当選する、といった、公式通りにはいかないのである。

ことに、現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。選挙の見通しは、地盤という、基礎票からスタートする。同一選挙区に、同系候補がふえれば、この基礎票が割れるのである。

安井は、地検にすら、都庁に手を入れさせなかった、東京の〝実力者〟である。安井の応援がなくては、例えば、吉田茂が都知事に立候補しても、安井系の票がすべて離れたら落選の可能性が強くなるのである。

「都知事は保守で」を、至上命令としているのが、岸首相ら自民党首脳であるならば、安井の発言権が、強まるのも当然である。また議席のない藤山を、内閣に迎えたのも岸首相である。

とすると、安井、藤山両氏を、どうしても当選させねばならない、という人——それは岸内閣の主流派である。当時、主流派とされたのは、岸派、大野派、河野派、佐藤派の四個師団である。

さて、安井の七区、藤山の二区という、その出馬予想区の現況はどうか。

別表を見ていただきたい。二十二年四月の総選挙から、二十四年一月、二十七年十月、二十八年四月、三十年二月と、三十二年秋、現在において、過去五回の選挙が、同一選挙区、同一定員で行なわれている。そのうち、問題の二区、七区の当選議員と、その得票の実績である。(点線より下の人名は次点以下)

読売梁山泊の記者たち p.248-249 「立松事件」の重要な背景

読売梁山泊の記者たち p.248-249 このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。
読売梁山泊の記者たち p.248-249 このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。

二区でみると、宇都宮は二十四年に初出馬だから、四回の選挙だ。そして、次点、二位、三位、三位の成績。三名の定員を、保守二、革新二の四名で争って、その四回の選挙で各人とも公平に一度宛、次点となって休んでいる、という実態だから、次の選挙では、誰かが、二度目の次点を味わうことになる。

そこに、藤山が加わるというのだから、保守三、革新二、もしかすると、宇都宮、菊池両氏が次点以下、という可能性…それどころか、割りこんできた藤山自身が、落選ということもあり得るのだ。

七区にいたっては、さらに保守の同士討ちである。並木芳雄が五回とも堂々当選して、しかも次第に上位になって、堅実になっていくのに対し、福田は、次点、三位、次点、四位、五位と、二回落選という、不安定な状態にある。

藤山も、初めは一区出馬を望んだ。安井も一区となると、予想では、鳩山、安井、原が確実で、残る一議席を、浅沼、藤山で争って藤山が落ちる、と見られた。

二区ならば、加藤、松岡両社会党候補が当確で、残る一つを、宇都宮、菊池、藤山で争って、下手すると、三人共落選、とも読まれたのであった。

そのため、安全を期して、五区の中村梅吉を都知事候補とし、その地盤をユズリ受けてと計画されたが、中村が都知事を受けないので、五区出馬はダメ。

次の手は二区である。菊池を参院にまわらせて、その地盤をというのだが、菊池が選挙区を金にかえて、売り飛ばすことはできないと、断わったといわれている。

このような、東京都知事選もからんだ、東京選出の代議士をめぐっての、微妙な政界事情が、この「立松事件」の起こった、昭和三十二年十月ごろの政治情勢だったのである。

そして、この動きは、安井都知事の出馬声明の夏から秋にかけて、急テンポで動きはじめ、しかも、解散近しの空気とともに、次第に厳しさを増してきていた。

これは「立松事件」を解明するためには、見落とすことのできない重要な背景である。

このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「明日の朝刊に、二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。

つまり、売春汚職という、いままでの汚職のうちでも、もっとも汚い、といわれた事件で、読売に

大きくその名前が報道されれば、この二人の落選は、まず、間違いのないところだ。

読売梁山泊の記者たち p.250-251 〝弱そうな二人〟を落とそうという陰謀

読売梁山泊の記者たち p.250-251 つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。…《河井検事は、法律家とはいえなかった》
読売梁山泊の記者たち p.250-251 つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。…《河井検事は、法律家とはいえなかった》

つまり、売春汚職という、いままでの汚職のうちでも、もっとも汚い、といわれた事件で、読売に

大きくその名前が報道されれば、この二人の落選は、まず、間違いのないところだ。そして、そのそれぞれの選挙区に、安井、藤山の新人二人が、立候補する。

河井の狙いは、この新人二人の当選を期するにあった、というべきであろう。

伊藤栄樹・元検事総長らの、河井信太郎・法務省刑事課長へのガセネタ流しは、いわゆるマルスミメモのうちの、東京出身の九名の議員。そのうちの五人を、〝黒っぽい〟として流したものであろう。

それは、当時の関係者たちに取材した、本田靖春著「不当逮捕」に、描写されている通りであり、最後の河井宅への電話取材に、立ち合っていた、私の記憶の通りでもある。

つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。

そしてそれは、私が、当時の政治情勢を調べてみると、安井誠一郎、藤山愛一郎という二人の大物新人の当選を期するため、東京二区と同七区とで、〝弱そうな二人〟を落とそうという、陰謀をめぐらせた、としか、判断できないのである。

もしデマのネタモトを暴露していたら…

伊藤は、その遺書「秋霜烈日」の、冒頭部分(63・5・10付第五回)で、河井についてこう書いている。造船疑獄の部分だ。

《…それにもまして、河井信太郎主任検事との、捜査観の相違とでもいうべきもの、それと、判事出

身の佐藤藤佐(さとう・とうすけ)検事総長の人のよさに、相当な不安を抱いていたのである。

河井検事は、たしかに不世出の捜査検事だったと思う。氏の、事件を〝カチ割って〟前進する迫力は、だれも及ばなかったし、また彼の調べを受けて、自白しない被疑者はいなかった。

しかし、これが唯一の欠点、といってよいと思うが、氏は、法律家とはいえなかった。法律を解釈するにあたって、無意識で捜査官に有利に、曲げてしまう傾向が見られた。

…佐藤検事総長は、まことに人柄のよい方であったが、もともと、裁判官の出身であったため、捜査会議の欠点を、十分ご存知なく強気の意見に引きずられがちであった。

全国からの応援検事を加えた、三十人以上の検事が、捜査に従事したこの事件の、節目節目の捜査会議では、まず、河井主任検事の強気の意見が開陳され、地方からの応援検事を筆頭に、次々と、これに同調する意見が述べられる。

慎重な見解は、東京プロパーの検事から述べられるが、その意見は、しばしば総長によって、無視されてしまった。会議において、トップの者は、原則として、消極意見を述べて、吟味をさせるべし、というのが、検事の社会の常識なのだが。

K参院議員の処分をめぐって、証拠の評価が分かれ、その取り調べにあたった、Y検事自身が涙を流して、起訴はむりだと主張し、私も及ばずながらこれを支持したのだが、圧倒的に大きい強気の意見は、起訴すべしとした。裁判の結果は、無罪。今でも、あの涙は忘れられない》

これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検

事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。

読売梁山泊の記者たち p.252-253 検察権の行使が政党内閣の恣意(しい)によって左右

読売梁山泊の記者たち p.252-253 《検察権は行政権に属する。指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えた》「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の痛烈な批判がうかがえる。
読売梁山泊の記者たち p.252-253 《検察権は行政権に属する。指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えた》「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の痛烈な批判がうかがえる。

これを読み通してみると、伊藤は、「捜査観の相違」として、八年先輩の河井批判をしている。Y検

事の涙も、〝強気の意見イコオル河井の意見〟の然らしむるところだ、と怒っている。

その造船疑獄の発端について、伊藤は、こう述べている。(5・9付第四回)

《検察権は、三権のうちの行政権に属する。だから、内閣がその行使について、国会に対して責任を負う。一方、検察権は、司法権と密接な関係にある。検察権の行使が、政党内閣の恣意(しい)によって、左右されることになれば、ひいては、司法権の作用が、ゆがめられることになる。

そこで、検察庁法は、具体的事件の処分に関する、法務大臣の指揮が実現されるか、どうかを、検事総長の判断にかからせたのである。多くの場合は、〝大物〟である検事総長と法務大臣との、話し合いによって解決するのだろうが、極端な場合、検事総長が職を賭して、大臣の指揮に反対する命令を、主任検事に下せば、大臣の意志は、無視されることになる。

法務大臣の検事総長に対する、具体的事件に関する指揮は、「指揮権発動」と、呼ばれる。歴代法務事務次官や、刑事局長の重要な使命の一つは、およそ、指揮権発動というような、事態が起きないように、事前に、十分の調整を行うこと、であるとされている。それにもかかわらず、指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件である。

この指揮権発動は、捜査が次第に核心に迫り、昭和二十九年四月二十一日、検事総長が時の与党自由党の幹事長・衆議院議員佐藤栄作氏を、収賄容疑で逮捕したいと、大臣に請訓したときに、犬養法務大臣によってなされた》

伊藤は、この続きの部分で、ふたたび、河井の〝強気捜査〟を批判する。

《佐藤氏についての逮捕理由は、公表されていないが、日本造船工業会の幹部から、造船助成法案の有利な修正などの請託を受け、その謝礼として、一千百万円を自由党に供与させたという、『第三者収賄』の事実であったと思う。

指揮権発動の後、この事実では、党に対する政治献金みたいなもので、佐藤氏が私腹をこやしたわけでもなく、迫力がない。

他に佐藤氏が、故人の預金口座に入れた口が、いくつかわかっており、中には、これまで名前のあがってこない、海運会社からの分もあったのだから、どうして、そっちで逮捕しようと、しなかったのだろう。

今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えたことにも、よるものではあるまいかなどと思ったものであった》

この第四回、第五回を読めば、順不同ながらも「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の、遺書らしい痛烈な批判が、うかがえる。

佐藤総長には、さらにもう一項がある。

《…佐藤総長は、当面、必要最小限の指図をしたら、パッとお辞めになるべきだった、と思っている。

当時の新聞が、最高検検事全員が、総長に「われわれは総長と進退をともにする。どうか、検察全体のことを考えて、隠忍自重していただきたい」と、申し入れたと報じたが、最高検検事ともあろうものが、筋の違ったことをするものだと、苦々しく思ったことであった。…》

読売梁山泊の記者たち p.254-255 GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗

読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。
読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。

この、伊藤のガセネタ流しが、朝日紙上で活字になった時、本田靖春は、その紙面の末尾に、談話をのせている。

《これ(不当逮捕)を書いた時、私は問題の記事は、おそらく誤報だろう、と思っていたが、T記者のネタ元とみられた、法務省の幹部が、なぜ、ガセネタをもらしたのか、がわからなかった。しかし、今回の秋霜烈日で馬場次官の右腕だったこの幹部を、あぶり出すために、ガセネタ流しが仕組まれたことを初めて知った。仕組んだ人間は、岸本派といえぬまでも、非馬場派の立場ではないか。
検察内部にあった、権力闘争の恐ろしさを改めて、感じさせられた》

本田は司法記者の経験がないので、多分、朝日記者に、この原稿を見せられて(あるいは、話を聞かされて)、動転したのではあるまいか。また、この「秋霜烈日」を、最初から読んでいなかったのであろう。

第四回、第五回の「造船疑獄と指揮権」の項を読んでいれば、「検察内部の権力闘争の恐ろしさ」とは、捉えられないからである。彼は、朝日記者の取材に対して〝売れッ子〟らしく、当たりさわりのない「権力闘争」と答えたのであろう。

ナゼか、といえば、「不当逮捕」のなかで本田は、造船疑獄から、売春汚職に至る間の検察に対して、「検察は政治に屈服し」と、書いているからである。

つまり、「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしているのであって、検察権は、行政権に属し、内閣が国会に対して、責任を負う、ということである。法務大臣、ひいては総理大臣の責任

のもとに、はじめて検察権の行使がある、ということである。

もし、法務大臣の指揮権に、検察として、検察権の行使に関して不満があるならば、検事総長は、スパッと辞任せよ。そして、次の検事総長もまた、改めて、請訓をして、これまた、指揮権を発動されたら、また辞任せよということだ。

こうして、検事総長の辞任が相次いだならば、もはや、主権者たる国民が、黙っていない、ということになる。

昭電事件から、造船疑獄にいたる六年ほどの間に、検察を代表しているかのような、河井検事の「法律家でない」ところから、いうなれば、検察が暴走した、ということだ。

それは、ひとえに、GHQ(占領軍総司令部)の内部対立に便乗して、〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった、ということである。

だからこそ、馬場、河井の影響力が、まったくなくなった時期の、ロッキード事件では田中、小佐野、児玉の三人が、いずれも、逮捕の憂き目を見ている。私は、これを、検察のバランス感覚とみている。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

読売梁山泊の記者たち p.256-257 〝河井のリーク〟を確認できるといった程度のもの

読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。
読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。

売春汚職では、立松が手に入れてきた、マルスミメモ(政治家の氏名の上に、済の字を丸で囲んだ印がついているメモ)と、立松が河井宅の夜討ちから帰ってきて、印をつけてきた国会議員の名前とが、まったく符号するところから、司法記者クラブ員である、滝沢と寿里が疑問を提起したのだが、「河井検事がネタ元」という一言で、クラブのキャップの私も、デスクも抗することができなかった

のである。

それにしても、立松が、河井よりも八年後輩の伊藤などの、ペエペエ検事と親しかったとは思えない。つまり、伊藤たちが、立松の戦線復帰を知り、それならば、河井にガセネタを流せば、必ず立松がひっかかる、とまでヨンでいたということも、信じられない。

当時、地検特捜部では、〝怪文書〟扱いをされていた、マルスミメモを、法務省刑事局に報告したことを、伊藤が、ガセネタ流しと称しているのではあるまいか。

それを、河井が恣意で立松にリークし、それを読売がまた、一大スクープ扱いで書き、二人の代議士が告訴し、名前の抜けていた高検の岸本検事長が捜査して、立松を逮捕するという〝筋書き〟を、一体、だれが予測し得たであろうか。

せいぜい、伊藤らが予測し得たことは、河井に流しておけば、どこかの社が動き出すだろうから、〝河井のリーク〟を確認できる、といった程度のものであった、と思う。

決して、〈権力闘争の恐ろしさ〉では、ないのである。

だが、この「立松事件」で、私もまた、被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、とうとう、河井の名前は出さなかった。しかし、「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と、主張したが、容れられなかった。

十月二十四日夕刻に、立松は逮捕状を執行されて、丸の内署の留置場に入った。ところが、読売新

聞は、翌二十五日の朝夕刊とも、この件については、一行も記事を書いていないし、他社も同様である。

というのは、社会部長を古い仲間の景山与志雄にゆずり、編集総務になっていた原四郎が、この「現職記者の名誉毀損逮捕」という未曾有の事件を、どう扱うべきかについて、時間を稼いでいたのであった。

前にも述べたが、本田靖春は読売記者時代に、司法クラブの経験がない。だから、一知半解の部分があるのである。宇都宮代議士は私に対して、「弁護士一任だった」と、のちに語ったのだから、弁護士は、地検の「検事某」を告訴するのに、検事正、検事長、検事総長の三人をも含めたら、一体、誰が、何処が捜査するのか、という着意をもつのが、当然だろう。

従って、監督責任の追及は、直接の検事正、最高の総長に絞るのが、妥当というものである。そしてまた、岸本検事長の指揮のもとで立松の逮捕にいたったのも、決して、本田のいうように、故意でも偶然でもない。

その年の初夏、司法クラブのキャップを命ぜられて、前任者の萩原記者と二人で、挨拶まわりをしていた時の、強烈な印象を、私はまだ忘れられない。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。

「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 当時の「検察の派閥対立」

読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。
読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。

いまは、東京第一弁護士会所属弁護士だが、検事総長秘書官だったS検事が、私の手を固く握って、熱っぽく訴えたのである。
「お願いです。検察がダメになってしまうのです。これだけは、どうしても阻止しなければなりませ

ん。それには、記者のみなさんのご協力が必要なのです。ゼヒ、ゼヒとも、お願いいたします」

長身で美男のせいか、若く見えるその検事は、新任の読売キャップの手を握って、しばらくは離そうともしなかった。

私には、彼のアピールの趣旨が、よくのみこめず、困惑していた。廊下に出ると、萩原は、ニヤニヤしながらいった。

「オレにもそういってたから、お前にも、伝わっていると思ったんだろ。岸本サ…」

岸本検事長が、検事総長たらんとしていることを、〝阻止に協力〟せよ、ということであった——この一事をもってしても、当時の「検察の派閥対立」の、感情的な一面を、垣間見ることができよう。

「あれは立松君だろう」と、滝沢の顔を見るなり、こうぶっつけてきた天野特捜部長。そして、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、当時の東京高検の主な検事たちは、ほとんどが岸本検事長の〝親分肌〟の人柄に魅せられて、いうなれば岸本派と呼ばれる人たちであった。そして、昭電事件以来、読売の立松のネタモトは河井検事だということは、もはや公知の事実だったのである。

そして、河井は、馬場派のコロシ屋、いまようにいえば、〝ヒットマン〟であった。

井本台吉総長、福田赳夫幹事長、池田正之輔代議士の三者が、新橋の「花蝶」で会談した、いわゆる「総長会食事件」(昭和四十三年)で、私が、「東京地検、検事某」を、国家公務員法百条違反で告発した時も、東京高検に告発状を出したのである。

この時のネタモトは、井本総長の失脚を狙った、河井検事であったと、判断されたが、告発状では、「検事某」とした。だから、宇都宮、福田両代議士の「検事某」も、東京高検が捜査を担当するのは、当然である。

天野特捜部長が、滝沢に一パツかませて、立松—河井ラインは、すでに明らかであったから、岸本派の天野が、のちに、二人揃って最高裁入りをした、岡原次席に連絡したぐらいは、容易に考えられよう。

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。

「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」

「もちろん、その検事を取り調べます」

「パクるんですか」

「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」

「その検事が、相当な地位にあるとしたら」

「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」

「フーン…」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 「立松君のネタモト知っているんでしょう」

読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる
読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる

川口は出張先から呼び戻されて、主任検事になる。まずは、キャップである私が、川口に被疑者調書を取られた。
「川口さん。この告訴されている『検事某』ですがね。この検事、ニュースソースとして実在し、立松に情報を出した、と仮定しますよネ。もし、私が、その検事の名前を知っていて、私の調書に、その名前が記載されたとしますと、高検は、どうするんですか?」
「もちろん、その検事を取り調べます」
「パクるんですか」
「供述如何で、任意でやるか、パクるかは、状況次第、ですよ」
「その検事が、相当な地位にあるとしたら」
「犯罪の容疑の有無であって、地位や身分は関係ないですよ」
「フーン…」

「立松君のネタモト、知っているんでしょう」

「知ってますよ。でも、ニュースソースは秘匿せよという社命だから、いえません」

「話してくれないと、困るんだよなあ…」

そんなヤリトリのあと、私が質問したのは前述したように、高検が、その検事の名前をつかんだあとの、対応であった。「犯罪容疑の有無であって、地位や身分は関係なし」という、川口の表情は、私の眼を直視して、毅然としていた。

私は、「フーン」といいながら、河井検事だと供述したあとに、どんなにか、ドラマティックな〝事件の展開〟があることかと、考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。

土井たか子発言ではないが、それこそ〝山が動く〟のである。河井検事は高検に調べられ、辞職を迫られるであろう。当時の馬場義続・法務事務次官も、辞任に追いこまれるかも知れない。岸本は総長になり、〈歴史〉が私の一言で変わるのである——この〝誘惑〟は、まさに、私の人生をも、一変させるようなものであった。

「その検事が、馬場派の検事だったら、川口さんにパクられて、もう、総崩れだネ。高検のメンバーが、このまま、最高検だ。ハハハおもしろいねぇ」

私は、川口の追求を、こんな与太を飛ばして、辛くも、振り切った。

やはり、竹内四郎、原四郎と、二人の対照的な性格の社会部長に、教えられ、育てられた、〈新聞記者・魂〉が、しっかりと根付いていたのだった。

世論形成のため、時間稼ぎをしていた原四郎が、各社と連帯して、高検の不当逮捕を非難する、ゴウゴウたるキャンペーンを捲き起こし、立松は、拘留がつかずに、二十七日午後、釈放された。

事件の後始末、スター記者時代の終わり

それ以後、舞台は、国会の法務委員会に移った。と同時に、読売にとっては、ニュースソースは検察筋と答えた小島編集局長の、法務委への証人喚問という、新しい展開を見せてきた。

国会の証人喚問となれば、証言拒否ができなくなる。被疑者には黙秘権があるが、証人には、黙秘権はない。しかも、そんなヤリトリに慣れていない、小島編集局長が喚問されたら、どんなことになるか。

実際のところ、マルスミメモによって、九名もの代議士に、〝容疑あり〟の記事を書いたのだから、これらの議員が、入れ換えで法務委員に登録してくると、局長の喚問が実現する可能性は、十分にある。

その報告をした時の、小島局長の周章狼狽ぶりは、見ていて、情ない思いであった。これが、読売新聞の編集局長か、と、呆れざるを得ない、ほどであった。

——そこに、正力松太郎代議士が登場する。

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.262-263 読売の〝劣勢〟は覆うべくもなかった

読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった
読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった

原四郎の〝努力〟で、立松記者は釈放された。と同時に、読売新聞あげての、高検・岸本検事長叩きが開始されたのだった。

だが、それは、問題の根本的な解決には、なにものをも、もたらすものではなかったのである。司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。

立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでも、なかったから、読売の〝劣勢〟は、覆うべくもなかった。

舞台は、すでに、衆院法務委員会に移っており、検事総長は、「両氏には、容疑はないし、検察庁からは、絶対に洩れていない」と委員会で言明した。

そこで、「検察筋」と、両代議士に答えた小島文夫・読売編集局長の、証人喚問へと動き出していた。

本田著「不当逮捕」はこう描いている。

《…。だが、そうはいっても、立松が、司法記者クラブ詰めのキャップである三田に、仕事上のことであるにせよ、迷惑をかけている事実は動かせない。前日来、東京高検と社のあいだを、何度も往復している彼の立場を立松は考えた。

それにもうひとつ、この日の午後二時から後輩である滝沢が、東京高検の事情聴取を受けている、と聞かされたことも、立松には気に掛かるところであった。

ここは、自分が出て行かないことには、収まらないだろう。出頭要請には、いぜんとして、引っ掛かるものがあるが、立松は、そう肝を決めた。

「よし、久し振りに顔見せと行くか」

三田の膝を叩いて立ち上がったときは、かつての、司法記者としての自信が、蘇っていた。 「ともかく出頭して、まず滝沢君を帰してもらいます」

部長席に近づいて、三田との話し合いの結論を告げると、景山はいった。

「滝沢君のことだけど、君こそ病み上がりなんだから、早く帰ってこいよ」

次いで、原編集総務に挨拶すると、ねぎらいを口にした景山とは、打って変わったきびしい表情で、いきなり問いを発した。

「新聞記者の最後のモラルは、何だか知っているか」

その権高(けんだか)な物言いに、立松の胸の中で、むらむらとこみ上げるものがあった。竹内四郎の後を受けた原四郎は、「両四郎」と並び称されて、前任者を上回る名社会部長ぶりを謳われ、整理部長兼編集局総務に昇進したが、現役時代の彼は、文章派に属していた。

同じ四郎でも、司法記者の先輩である竹内のほうに、心を残す立松は、事件も知らずに何が社会部長か、と内心では、原を多少軽んじていた。そうした感情が、頭ごなしの原の問いかけに触発されて、あたまをもたげたのである。

これがふだんなら、持前のヤユで軽くかわすところだが、時と場合をわきまえて、神妙に受け答えした。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

読売梁山泊の記者たち p.264-265 立松は我がままで甘えん坊

読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。
読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

「ニュース・ソースのことでしたら、十分、心得ています」

原は、立松の胸中も知らず、端正な顔に似合わない、時代がかった台詞を口にした。

「そうだ。要するに、お前の意地と根性の問題だな」

午後四時、立松は、東京高検の正面で、三田と一緒に乗ってきた車を降り、三階の公安検事室に川口主任検事を訪ねた。

「こんにちわ」

かつての調子で、気軽に扉を押して入ると、川口と差し向かいで坐っていた滝沢が、にわかに取り乱した態度を見せた。

「立松さん、ひどいんですよ。川口さんはこの僕から調書をとるんだから。いま、この記事の説明を、しつこく求められているところなんです」

滝沢は、机の上の新聞を指しながら、表情ばかりか、声までもひきつらせている。

何といっても、まだ場数が足らない。それに神経質な面のある滝沢である。予期しない事態に、動てんしているのだろう。立松は、その程度にしか、受け止めなかった。

しかし、滝沢は川口の容赦ない取り調べぶりから、東京高検の上層部が、自分をオトリに立松を釣り出して、強硬な態度でのぞもうとしているらしい気配を察知し、それを何とか彼に伝えて、入口で引き返させよう、としたのである。》

本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。滝

沢もまた、個人的に親しかったが、社歴では、本田より古かったから、立松を批判できる距離にあった。

そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。

立松は、いうなれば〝金持ちのお坊ッちゃん〟であったから、我がままで、甘えん坊でもあった。だが、頭はいいので、自分を大切にしてくれる人に対しては、自分もへりくだり、決して粗末にしなかった。

一方で、自分を粗末に扱う人には、激しい敵意を抱いた。それは、本田も指摘しているように、「クラブに加入して二年、記者歴を通算しても、たかだか三年の若輩」(「不当逮捕」39ページ)で、〝大スター記者〟になってしまったが、記者としての基礎訓練はまったくなく、かつ、原稿も決してウマクない、という、コンプレックスで裏打ちされたものであったろう。

立松は、月給のすべてを小遣いにして、さらに、「取材費伝票」で、経費を取っては、これまた、小遣いにしていた。だが、取材費は清算せねばならない。当時、社会部記者のほとんどが、そうであったように、銀座の松屋に出かけては、落ちているレシートを拾ってきて、その額面金額に合わせて、もっともらしい「項目」を書いていた。

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

読売梁山泊の記者たち p.266-267 「小島局長に証言拒否ができるか」どうかのご高説を

読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」
読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

立松もまた、そうしていた。ところが、彼のは、「○○検事にウイスキー」「××検事に果物」など、すべて、検事宅への夜討ちの手土産として、ズラリ列記しているのだ。

その大雑把さに、経理部が、レシート番号から、売り場を調べてみたら、婦人下着売り場など、伝票面とツジツマが合わない。そこで、社会部の伝票の〝一大検証作戦〟が行なわれて、原社会部長は、総務局長に文句をいわれたらしい。

社会部長席に戻ってきた原は、部員席を見渡して、たまたま、目についた立松を呼びつけた。私も、そこに居合わせたので、原の怒声を、ハッキリと聞いている。

「立松! このドロボーの、パチンコ屋の手伝い野郎メ!」

それから、立松の提出していた、取材費清算伝票を、彼に叩きつけた——この事件が、立松を深く傷つけたことは、事実である。前任の竹内四郎が、立松を可愛がっていたことはすでに述べた。多分、この伝票事件以来、立松は原に対して、敵意を抱いていたに違いない。

その、立松の「原四郎・観」を、本田は、無批判に、文章にしている。私とて、例外ではない。原に怒鳴られたことは、数多くあるが、救いは、それがその場限りで、アトをひかないことである。

本田のように、「原の権威主義的な統率」というのは、誤りである。彼が、私生活を社に持ちこまず、かつ、部下にも見せなかったように、「原は仕事第一の統率」であった。いい仕事をやる記者は、どんどん、重用していって、励みを与えてくれたのだった。

小島編集局長の、衆院法務委への、証人喚問という動きに対して、読売は、対策を講ぜざるを得ない。

というのは、立松のネタ元が、河井検事、当時は、法務省刑事課長であったことは、すでに、編集幹部はみな知っていた。その、河井検事がタイコ判を押した、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士の収賄容疑が、検事総長の花井忠によって、否定されてしまったから、である。

小島局長、原総務、景山部長、長谷川次長に、前任者の萩原記者、キャップの私を加えての、対策会議がしばしば開かれた。立松逮捕当時には、立松家に木内曽益(注=馬場法務事務次官の兄貴分)、立松記者に中村信敏、柏木博の三弁護士を、萩原、三田の相談でつけたが、立松が釈放になって、局長の喚問という、事態になったのだから、この三人では、適任ではない。

また、二人で相談して、当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。

そうして、小野清一郎と、同じ事務所の名川保男、竹内誠の三弁護士を招いて、同じ顔触れの会議が持たれた。といっても、萩原と私とが、交代で、三弁護士に、経過説明をしたのだ。そして、「小島局長に証言拒否ができるか」どうかの、ご高説を拝聴しよう、というものであった。

ウン、ウンとうなずきながら、話を聞いていた、小野弁護士は、締めくくるように、いった。

「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」

この一言を引き出すまでに、すでに二時間ほどが経っていた。そして、このあとはもう、小野発言が出てこない。その日の結論と判断した長谷川次長が、「食事のご案内を…」と、私にいう。

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

読売梁山泊の記者たち p.268-269 小野弁護士への謝礼をいくらにするか

読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた
読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた

近くのレストランで、全員が会食して、お開きである。食事中の話題には、立松事件はまったく無

し。自動車部から車を呼んで、お送りする。

この、小野弁護士に関して、後日譚があるのである——正力社主の登場で、一件落着して、証人喚問対策会議は、あとにも先にも、この一回だけであった。だが、それからというものは、小野弁護士への謝礼を、いくらにするかということで、私と萩原は、東奔西走の日々を送ることになった。

なにしろ、読売側から、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったものだ。だが、発言は、「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。

二人で手分けして、「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみたが一向にラチがあかない。私が、遠縁に当たることを奇貨として、法務省特別顧問室に二人で訪ねて、直か当たりすることになった。

ところが、これまた一言だ。

「私が、日本で一流の刑事弁護士だ、ということを、お忘れなければ、いかほどでも、結構です」

とうとう、困り果てた二人が、出した結論は、五十万円。奉書に包み、水引きをかけて届けに行ったら、小野弁護士は、ウラを返して数字をみて、「結構です」と、受け取ってくれたので、ホッとしたことを覚えている。

ところが、五十万円の伝票を持って、小島編集局長のハンコをもらうべく、机上に置いた時、局長は、あの〝周章狼狽〟を忘れたように、「エッ? あの一言だけで、五十万円もするのか?」と、卑しい発言をした。それを納得させるのに、またまた一苦労であった。

どうして、正力松太郎社主・衆議院議員が登場してきたのか、その経緯については、私には、まったく情報がない。

当時、正力社主に、対等に口を利ける政治家としては、賀屋興宣と岸信介ぐらいしかいない。このふたりの、どちらかが、読売にも宇都宮、福田両代議士にも、キズをつけないような、調停案を出したものであろう。

【図版キャプション】昭和32年12月18日(左)と同年10月18日(右)の朝刊紙面

読売の社会面トップ。昭和三十二年十月十八日付の、「収賄の容疑濃くなる」という、五段抜きの見出しと同じ号数で、「事件には全く無関係」という、同じ行数の打ち消し記事を掲載する、ということで、和解する。名誉毀損の告訴は取り下げる、という、調停案の内容が、私と萩原に伝えられた。

こうして、丸二カ月後の十二月十八日の朝刊に掲載された。和解ののち、あとは社内の処分が発表されただけだ。

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

読売梁山泊の記者たち p.270-271 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者
読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者

景山社会部長は、一等部長から降格されて、三等部長

である「少年新聞部長」に左遷された。立松記者は、停職一週間。ともに、減俸がついていたような気がする。処分は、このふたりだけであった。

司法記者クラブでのキャップではあったけれども、立松が、社会部長直轄だったので、私は責任を問われることはなかった。

だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。

第六章 安藤組事件・最後の事件記者

読売梁山泊の記者たち p.272-273 かねて顔見知りの元山富雄から電話があった

読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…
読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…だが当時は、「東洋郵船社長」という実業家として通っていた

ころがり込んできた指名手配犯人

「危険な記者は、社会部の現場からトバす」というのが、新任の金久保社会部長の方針のようであった。

部長のこの方針は、とりも直さず、国会の法務委員会に、証人喚問されそうになって、震え上がってしまった、小島編集局長の方針でもあったのだろう。

この時期、原四郎は、編集総務から出版局長になって、新聞制作からは、遠ざけられていた。〝遠ざけられ〟たといっては、語弊があろう。立松事件の後遺症に苦しむ、社会部記者たちとは、隔離されていたのだった。

金久保部長に対する、私の反抗的な言動が、部長に伝わったのだろう。大阪の次長、週刊読売の次長といった、配置転換の話が、私にきたのは、昭和三十三年春ごろのことだったろう。

この二つの人事異動を拒否したのだから、この次には、もっと悪いポストの話がくるだろう、と思っていた。例えば、厚生部の次長とか、編集以外の部門に出されるナ、と感じていた。

——編集局以外へ左遷されたら、サッサと辞めてやる!

心中秘かに、そう決心をしていたものであった。まだ、三十歳代なのだから、転進するぐらいはヘッチャラさ、と、思っていた。

そして、六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷

の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。

久しぶりの、事件らしい事件に、警視庁クラブは沸き立っていた。司法クラブ前任キャップの萩原が、警視庁のキャップになっていたので、私も、道路一本を隔てた警視庁に出かけて、記者会見のやりとりを聞いていたりしたのだった。

ところが、安藤組の親分、安藤昇は逃亡していて、所在がつかめない。組事務所には、花田という副親分ひとりが残っていて、主な組員は、みな、地下に潜伏してしまった。

いまでこそ、毎日のように、殺人事件が起きていて、コロシが社会面のトップになるようなことはない。だが、そのころには、まだ殺人事件というのは、月に一件か二件だったから、コロシは、やはり社会面の花だった。

考えてみれば、きょうこのごろは、何でもないことで、すぐ、人を殺す。少なくとも、三十年前ごろには、殺人の件数が非常に少なかったのだから、イヤな世相に変わった、ともいえるだろう。

安藤親分は、依然として捕まらない。「これは社会不安である」として、当時の岸首相は、田中栄一警視総監を呼びつけて、叱りつけた。異例中の異例であった。

いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて、横井が射たれたといったところで、首相が総監を叱るなどとは、考えられもしないことだ。だが、当時は、横井は「東洋郵船社長」という、レッキとした実業家として、通っていたからであろう。

と、そこに、かねて顔見知りの元山富雄から、私に電話があった。元山とは、さきごろの国際航業

事件で、十二億円の〝闇対策費〟を受け取ったのち、急死してしまったことで有名な人物である。