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読売梁山泊の記者たち p.098-099 遠チャンこと遠藤美佐雄

読売梁山泊の記者たち p.098-099 原四郎は、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。
読売梁山泊の記者たち p.098-099 原四郎は、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と、思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。

オレは〝大朝日新聞の記者だ〟ッてのが、ハナの先にブラ下がってるの。アタシが他社の記者を斬ってきて、そのあとつづいて、朝日の記者を斬っているのに、マワシの二番煎じとも知らずに、〝朝日にイタして頂いて有難いと思え〟式なの。〝目黒のサンマ〟の殿サマは、裏返しにしたのを知ってて、オトボケするンだけど、朝日の記者は思い上がってるから、裏返しのパッというところが、読めないのねェ」

オシゲの〝新聞論〟、いい得て妙ではあるまいか。オシゲとはそれ以来、もう何年もあってないし、その消息も聞かない。

遠藤美佐雄と日テレ創設秘話

原は、昭和三十年、朝日、毎日とともに出した、「読売新聞風雲録」(鱒書房)の編者として、社会部記者についてこう書いた。

《新聞記者のなかで、わけても、社会部記者という奴のなかには、変り者が多い。その変り者の多いなかで、またわけても、読売新聞の社会部というところには、豪傑、快物、異物、ウジャウジャと集るの慣しがあった。…いずれにしても、「読売社会部」というと、言葉の響きからして、ただ者の集りとは思えぬ感を、ブン屋と称する新聞記者どもの世界に、与えたという》

いま、「正論新聞」を、二十余年出しつづけて、自分自身を振り返りながら、「原四郎の時代」を点検してみると、原が、この時期に、豪傑、快物の次に、異物、という言葉を挿入していることは、極

めて興味深い。

というのは、前に述べた、「原四郎の時代」が、決して、平たんな道のりではなかった、ということを、裏付けているからだ。

その〝異物〟について、述べねばならぬ。

原四郎は、自分が社会部長として執筆した、「三面の虫」という項のなかで、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。

私は、その「異物」とは、敗戦後の激動の時代に生きた、読売の名物記者でありながら失意のうちに亡くなった、〝戦前派・社会部記者〟の旗手、遠チャンこと遠藤美佐雄であった、と信じている。

彼が、昭和三十四年に、森脇将光の森脇文庫から出版した「大人になれない事件記者」という本の内容から、そう判断しているのである。

その当時、森脇文庫は、「週刊スリラー」という週刊誌を発行していた。編集長は平本一方。元東京日々新聞記者である。ついでながら、元毎日新聞社会部記者で、作家の千田夏光、作家の川内康範、元「週刊アサヒ・ゴルフ」產報社長の中島宏(故人)、シナリオライター保坂清司らの、若き日のグループであった。

森脇将光。この、高名なる人物も、九十歳近い高齢と、病気で、刑の執行免除が、昭和天皇恩赦で

決定した、という。もう、〝昭和戦後史のスター〟も、過去の人となった。

読売梁山泊の記者たち p.100-101 日本テレビを創立させたのはオレだ

読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。

森脇将光。この、高名なる人物も、九十歳近い高齢と、病気で、刑の執行免除が、昭和天皇恩赦で

決定した、という。もう、〝昭和戦後史のスター〟も、過去の人となった。

東京地検特捜部、河井信太郎検事一派が摘発した、「造船疑獄」における「森脇メモ」で、河井検事に踊らされ、揚句の果ては、河井に逮捕された。やはり、当時の〝スター〟であった、吹原弘宣に大金を貸して、その取り立てをめぐって、三菱銀行長原支店から、三十億円を詐取した、というもの。

詐欺。私文書偽造、同行使。有価証券偽造同行使。恐喝未遂、法人税法違反、金利取締令違反——この数多い、公訴事実のため、晩年の森脇は、法廷闘争に追われる毎日で、一審は、懲役十二年、追徴金四億円の判決だったが、控訴審で一部無罪となり、懲役五年、追徴金三億五千万円。それが確定していたのだった。

森脇に随身していた平本も、共犯に問われて、懲役二年、執行猶予三年の判決で、すべて終わっている。あのグループのなかで、最初にペンを捨てた平本だが、いまは、それなりに、実業の世界で地位を築いている。

森脇は、本気で出版を考えたワケではなく、高利の所得隠しと、情報収集が目的だったのだから、読売を追われた遠藤の話を聞き、日本テレビ創立時のウラ話を本にしよう、と狙ったのだろう。

というのは、正力松太郎・読売社主の日本テレビ構想は、あまりの〝時代の先取り〟だったので、当時は、だれも資本を出そうとしなかった。

その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日

本テレビがスタートしたのだ。だが、やがて、保全経済会は当局の摘発を受ける。そうなると、力道山のプロレスと街頭テレビで、隆盛の道を進みはじめていた日本テレビは、保全が株主であることに、重荷を感ずるのは、当然であったろう。

最近でいえば、豊田商事が株主、ということになるだろうか。

と同時に、「日本テレビを創立させたのはオレだ」「正力のジイさまも、オレには頭が上がらない」と、吹聴して歩く遠藤が、読売や日本テレビの幹部には、うっとうしい存在になってきたのも、これまた、当然の成り行きであろう。

つまり、戦前のタネ取り時代、しかも三流紙の読売に入った人たちは、戦後の激動期に、そして、読売の興隆期には、去って行くか、適者生存の原則で、出世してゆくかの、どちらかであったのだ。

時代の変化に、ついてゆけるかどうかは、その人の、人間性ばかりではなく、能力の問題もあるのだった。その点、遠藤は、まちがいなく〝異物〟であった。日本テレビの創立当時の株式の問題があって、遠藤はなまじ〝江戸城の抜け穴〟を掘ってしまった大工だ。それを、グッとハラの中に納めるだけのチエがあったならば、決して、読売を追われることはなかったのである。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。

読売梁山泊の記者たち p.102-103 彼の著書はその〝恨み節〟

読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。
読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。

遠藤自身の社会部記者像は「事件派と綴り方派」という分類で、事件派とは、論争ができずに、すぐ暴力に訴える〝無頼〟そのものの、戦前派の社会部記者像である。

それは、〝軍部という名の暴力〟が、日本全土を支配しており、厳しい言論統制下にあった時代だから、遠藤が、そういう〝思いこみ〟に陥ったことを、責めようとは思わないが、戦後、時代は一変し

たのである。

昭和二十七年四月二十八日で、連合軍の占領が終わり、それまでの〝プレスコードという名の言論統制〟も、終わった。基本的には新憲法によって、すでに、自由と民主主義時代になっていたのであった。

それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。彼の著書は、その〝恨み節〟である。新聞記者として、最大の恥辱である、著書の一括買取り、断裁という〝末路〟さえ、おのれの〝末路〟にダブらせて、予見することもできなかった、のだった。

原四郎のいう、豪傑・快物とは、決して、遠藤流の社会部記者ではない。とすると、やはり〝異物〟なのである。原が、あえて、社会部長五年目の昭和三十年の編著に、「社会部記者像として、豪傑、快物、異物」と、指摘したのも、社会部から、イヤ、編集局から、読売新聞から、異物一掃を意図していた、と考えられる。

私の読売社歴十五年での、十二冊の社員名簿を繰っていくと、いつの間にか、戦前型の〝異物記者〟の名前が、次々と、消えていっているのだった。送別会ひとつ開かれないまま、名簿から、名前が無くなっている…。

遠藤の「大人になれない事件記者」の、奥付を見ると、一九五九・三・一五第一刷発行とあり、そ

の次の行には、位置がズレて、四・二五第四刷発行と、刷りこんである。つまり、森脇文庫側で、発行部数を水増ししたと判断される、痕跡が残っている。

誰と誰との間で、一括買い取り、断裁になったのか、遠藤は語らなかったが、「もう、手に入らない本だから、キミに一冊やるよ」と、手交された時、断裁されたことを話していた。

そして、誰が儲けたのかも、私は知らないが、森脇将光は、アンダー・グラウンドの人物を数多く知っている遠藤の、利用価値を考えていたのだろう、と思う。

遠藤は、「潜行記者活動は、戦後に私が切り開いた、記者活動のジャンルだ」という。いまでいう、調査取材のことだ。

原が部長になって、間もなくのころだったと思う。社内の会議室で、「部会」という、仕事の打ち合わせと懇親の会が開かれた。

ツマミとビール程度が出て、遊軍(本社詰め記者)を中心に、その日に、社に上がってきた、クラブ詰め、サツ廻りなど、二、三十名が出ていただろうか。

話題が、たまたま、日本共産党の動向に関して、各担当記者たちの意見が出された。原は、それらを黙って聞いており、筆頭次長の羽中田が、進行を勤めていた。

その時、遠藤が、口をはさんできた。あまりにも、基礎知識のなさすぎる発言に、私もつい、彼の

発言を攻撃してしまった。しかし言葉遣いには注意して、先輩への礼を失しない、心配りはしていたつもりだった。

読売梁山泊の記者たち p.104-105 鮮血がドッと出てきた

読売梁山泊の記者たち p.104-105 「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」と。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。
読売梁山泊の記者たち p.104-105 「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」と。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。

その時、遠藤が、口をはさんできた。あまりにも、基礎知識のなさすぎる発言に、私もつい、彼の

発言を攻撃してしまった。しかし言葉遣いには注意して、先輩への礼を失しない、心配りはしていたつもりだった。

「ナニを! このヤロー! 生意気な口を利くな! 表へ出ろ!」

遠藤の威丈高な怒声に、私は、内心しまった、と思った。いうなれば、満座の中で、恥をかかしてしまった、からである。

「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」

と、頭を下げたあと、室外に出て、廊下で改めて謝ろう、と思った。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。

ビールビンは、額に当たり、メガネが割れて、眉毛のあたりを切った。ビールが入っているので、鮮血がドッと出てきた。

同期の青木照夫がついてきてくれて、築地の菊池病院に行って、四針ほど縫った。先輩後輩のケジメが厳しく、社歴が一年違えば、サンづけで呼ばねばならないのだ。

遠藤が社会部におり、私もまた社会部にいる限り、私は、遠藤の〝不法な暴力〟に抵抗できないのである。その、無抵抗な後輩に、素手で殴るのならまだしも、ビールビンという凶器を使う——手当が済んだあと、私は、口惜し涙があふれるのを、止められなく、青木に、「どうして、黙って殴られなければならないンだ!」と、訴えたのを覚えている。

その傷跡は、まだ、眉毛の生え際にそっていまでも残っている。

部会は流れて、遠藤は、孤立を深めていった。もちろん、私は、それ以後、遠藤を無視した。遠藤が、話に加わろうとして、近寄ってくれば、私は、プイと横を向いて、席を立った。次のキッカケがあれば、私は遠藤に同じような傷を与えてやる、という、稟とした決意が、彼にも感じられたのだろう。

遠藤は、私より二カ月余の後、三十三年九月に、読売を退社した。

「キミが社を辞めたことで、オレもフンギリがついたのだよ」と、遠藤は、私をたずねてきて、そういった。それ以来、彼は、なにかと私をたずねてくる。つまり、〝殉教徒の先輩〟としての三田和夫、という、これまた、彼の思いこみである。だから、彼の著に出てくる私は、常に〝好意的〟に描写され、〝英雄的〟ですらある。

そこでは、かつて私に加えた不当な傷害事件の記憶などは、まったく、消滅しているかのようであった。

この「大人になれない事件記者」の、唯一の資料的価値は、いまや、まったく抹殺されてしまった、日本テレビ創立時の、ある側面の記録、としてである。

と同時に、それは、正力松太郎という偉大なる新聞人の、偉大さの証明でもある。

つまり、今日の隆盛を見せている、テレビ放送とプロ野球の先駆者としての正力の、数十年先を見通す、洞察力の偉大さである。プロ野球はさておき、正力の「街頭テレビ」構想に対して、昭和二十

七、八年ごろの財界は、まったく一顧だにしなかった、という事実である。

読売梁山泊の記者たち p.106-107 私と遠藤との奇妙なめぐり合わせ

読売梁山泊の記者たち p.106-107 つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で知り合ったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.106-107 つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で知り合ったのだった。

つまり、今日の隆盛を見せている、テレビ放送とプロ野球の先駆者としての正力の、数十年先を見通す、洞察力の偉大さである。プロ野球はさておき、正力の「街頭テレビ」構想に対して、昭和二十

七、八年ごろの財界は、まったく一顧だにしなかった、という事実である。

そのため、正力の「日本放送網株式会社」設立は、一向に進まなかった。それを、遠藤が、保全経済会という〝怪し気な〟団体の、伊藤斗福理事長と正力を会わせ、伊藤の資金保証で、会社設立が急進展したのである。

昭和二十七年夏にスタートし、同二十八年八月の日本テレビ開局。同二十九年一月二十六日の、保全経済会摘発であった。この部分が、日テレの社史から欠落しているのだ。

そして、これもまた、私と遠藤との、奇妙なめぐり合わせがある。その部分を彼の著書から抜粋してみよう。

《そんなある日、私は銀座の喫茶店で元ニューズウィーク記者という中村五郎君に、まったく唐突に伊藤理事長を引き合わされたのである。鼻下にうすいヒゲを蓄えた一見四十才前後、眼つきの鋭い男である。右ほおの大きなコブが特徴的だった。

評判の仕事師中村君のおもわくはだいたい察しがついたし、私自身としてもまだ理事長に会う段階ではなかったが、一杯のコーヒーをすすりながら雑談してみて、案外、この男は善人なんだと感じた。こんど、横井社長射撃事件で犯人の安藤組一派をかくまい、逮捕された三田和夫記者が前に一人の男を私に紹介した。元ニューズウィークの記者で、アメリカ二世と称する中村五郎という青年である。昭和二十五年の秋も深まった頃だった。

この中村君が元山富雄という事件師に六百万円とられたから、助けてやってくれというのだ。……この元山富雄が今度の事件で安藤組一派なのだから三田君も奇妙な巡り合わせである。

二世というだけあって中村五郎君はなかなかスマートな男ぶり、年は三十五、六というところか。当時日本人には手に入らなかったアチラナンバーのジープを運転している。細君はその昔、子役スターで鳴らした映画女優の風見章子さんだという》

つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で、読売とニューズウィークの記者としての仲で、知り合ったのだった。

その後の遠藤は、横浜支局時代の関係で、元市会議員だかにかつがれて、霊園会社の社長になり、運転手つきの社用車で、私のもとに得意気に現われたりしたが、その会社が事件を起こし、社長としての責任を問われた。

「オメエーらのような、イナカデカになにが分かる。オレは、読売の遠藤だ、事件記者の遠藤だゾ」——空しいタンカを切ったために、彼は逮捕された。最初から、事件のケツを背負わせるつもりの〝社長かつぎ〟だったのに、それさえ見抜けない男だった。

そして、私は「正論新聞」を創刊し、その目玉として、田中角・小佐野——河井検事・児玉誉士夫キャンペーンを張った。昭和四十二年当時のことであった。

脳いっ血かなにかで倒れて、言葉も不自由になった遠藤が、ある朝、当時住んでいた戸田の公団住

宅の私のもとに現われた。

読売梁山泊の記者たち p.108-109 親分・子分の関係

読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。
読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

そして、私は「正論新聞」を創刊し、その目玉として、田中角・小佐野——河井検事・児玉誉士夫キャンペーンを張った。昭和四十二年当時のことであった。

脳いっ血かなにかで倒れて、言葉も不自由になった遠藤が、ある朝、当時住んでいた戸田の公団住

宅の私のもとに現われた。

「コ、ダ、マ、さんが怒っている。正論新聞の記事を止めろ」と、たどたどしくいった。その変わり果てた姿に、私は暗然とした。そして、不自由な手で、カメラを取り出した。自分が、三田をオドかしてきた、という証拠がほしいのだろう。私は、承知して、撮影させてやった。…それからしばらくして、彼が死んだという話を、風の便りに知った…。

もちろん、遠藤の〝オドシ〟で、私は、キャンペーンを止めたわけではないが、その話は、別の機会に譲ろう。

「社会部の読売」時代の武勇伝

最近、読売新聞の記者たちは、こんな〝笑い話〟に興じている、という。

「社会部記者が、新宿で、車を二時間待たせたら、大目玉! 政治部記者が、赤坂で、四時間待たせても、オ構いなし!」

これは、政治部出身の渡辺恒雄社長への〝戯れ言〟である。

原四郎・社会部長が七年間に及ぶ〈名・社会部長〉のあと、副社長・主幹と、位、人臣を極めていた当時の、「社会部帝国主義」に比べると、ナベツネの〝実力〟は、はるかにスケールが小さい。自分が育てた、子飼いの記者たちを、社内の要所々々の、要職に登用していくことが、「社会部帝国主義」と呼ばれたのである。

そしてまた、原四郎に育てられたその社会部記者たちは、要職に就けるだけの、能力を具備していたのである。それは同時に、能力のない者、努力しない者に対する、冷酷なほどの〝切り捨て〟でもあった。それが、「原チンは冷たい」という声になる。

それでは、原社会部長の時代に、新聞記者として大きく成長した私が、原四郎に、いわゆる〝可愛がられ〟たか、というと、決して、そんなことはない。深見和夫・報知社長の逝去の記事で、私は、深見さんに〝可愛がられた〟と書いている。これは、先輩が後輩に目をかけることを意味する。ある場合には、先輩・後輩の関係から、親分・子分の関係に転化してゆくことになる。

社会部員以外の記者をして、〝社会部帝国主義〟と戯れ言をいわしめるのは、もはや、親分・子分の関係に近いのだろう。だが、私が読売を退社したのは、昭和三十三年。原四郎は、ヒラ取締役の出版局長であったので、この〝社会部帝国主義〟の、実態についてはまったく、知識も体験もない。

私の読売時代、毎日新聞では、親分・子分の派閥がスゴくて、部長が異動すると、部員の半分が異動した、という〝伝説〟があったものだった。ところが、読売には、まったくといっていいほど、派閥がなかった。しいていえば、正力派と非正力派であろうか。これは〝非〟であって、〝反〟ではなかった。

だから、社会部長としての原四郎は、能力と努力は認めても、そして、そのどちらにもエンのない者は、黙殺されて、いつしか、社会部から消え去ってゆくのだった。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

読売梁山泊の記者たち p.110-111 「オレが中曽根を総理にした」と豪語した

読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。
読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。

しかし、派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自

然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。

テレビ朝日の三浦甲子二(故人)は、朝日新聞政治部記者であり、中曽根康弘が総理になった時、いみじくも、読売政治部記者の渡辺恒雄とともに、「オレが中曽根を総理にした」と、異口同音に豪語したものであった。

三浦の晩年はテレ朝から北海道へ追われ、投資ジャーナル・スキャンダルにまみれて、中曽根に「参院候補者の上位ランク」を要求したが、「もう借りは返している」と、拒まれた。その中曽根との交渉も、赤坂の料亭・茄子で長時間待たされた揚句のタッタの五分間。

痛憤・痛飲の果て、その翌暁、腹上死したと伝えられているが、私が逢った限りでは、三浦は痛快男児であった。

三浦が政治部次長の時、部長の異動があった。たまたま、新任部長と同車して帰宅の時に、彼は、部長を自宅に誘った。三浦家で、二人が酒を呑み、盛り上がってきたころあいを見て、隣室のフスマがサッと開くと、子分の記者十数名が、そこに並んでいて、部長はアッと声をのんだ、といわれている。

この〝伝説〟の真偽を、三浦本人に質したことがあった。彼は、ニコヤカに笑いながら「朝日には、そんな〝伝説〟を創り出すフンイキがありまして、ネ」と、否定した。

三浦の〝末路〟に比して、渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。渡辺は、朝日の渡辺誠毅

と同じく、東大出のマルクス・ボーイ。東大新人会の出身で、読売には、出版局嘱託として、不正規入社したが、三浦よりは、頭脳と処世術に長じていたのだろう。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と、答える彼を、私は見直した。

大野伴睦、河野一郎、中曽根康弘など、政界人の〝親分〟は、取材対象だ、ということなのだろう。ロッキードの児玉誉士夫をも含めて…。しかし、政治部のなかで、〝子分〟を養っていたことは、確かであった。

原の「社会部帝国主義」について説明しよう。

私が辞めた昭和三十三年夏のころで、部員八十六名。その六年後は、百十名、現在でも九十九名と、社会部は、編集局内で、地方部(総支局を含める)に次ぐ大所帯。まさに、一等部である。

原四郎は平成元年二月十五日に亡くなったが、八十一歳——ということは、第一回・菊池寛賞に輝く「東京租界」の時は四十四歳であった。四十年・常務編集局長、四十五年・専務編集主幹、四十六年・取締役副社長、四十九年・代表取締役副社長。五十六年に、監査役に退くまで、実に七年間も代取副社長として、務臺社長の次に、その名が並んでいた。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。

読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁の課長たちにもサムライが

読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。
読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。

私の手許にある、読売の社員名簿によれば、四十九年の社会部員は百十三名、五十年には百十名である。そして、総務局長、人事部長、労務部長、文書課長と総務の中枢が社会部出身。編集局では、

総務、局次長、参与、顧問の十六名中の六名。整理第二部長、社会、科学、婦人、地方庶務の六部長も、社会部出身者であった。異色は、渡辺恒雄・政治部長の下に六次長、四主任が並び、その次に、部長待遇として、社会部記者が位置しているのだ。経済部や外報部などの一等部には、そのような例はない。そしてまた、発送部長。

読売新聞の部課長は、百名を越すであろうが、「部長会に石を投げると、社会部記者に当たる」と、いわれるほどであった。

こうして、社員名簿を眺めてみると、「社会部帝国主義」という、原四郎の〝猛威〟はうなずけるのである。政治部に置いた、部長待遇の社会部記者は、渡辺部長を監視する、〈探題〉であったのだろう。

原が監査役に退くや、ガタガタと「社会部帝国主義」が崩れ去り、社会部員は自嘲し、紙面は低迷していると……。そしていま、〝自動車使用で社会部大目玉、政治部お構いなし〟の戯れ言のように、渡辺社長の〝ナベツネ旋風〟が、読売に吹き荒れている、とか。

「社会部帝国主義」の時代こそ知らないが、それでも私は「社会部の読売」時代を満喫している。

私は、昭和二十七年から、同三十年春までの三年間、警視庁記者クラブ詰めであった。もちろん、原社会部長時代である。昭和三十年六月の社員名簿を見ると、それまで、局次長兼務の社会部長だった原が、局次長の上の編集総務になり、社会部長は、原のサツ廻り仲間だった、景山与志雄になって

いる。

当時の警視庁クラブは、一隅にマージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日、行なわれていた。なにしろ、田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。警視庁の課長たちにも、仲々のサムライが多かった。

三十年一月四日夜。クラブで公安担当の私と、深江靖とで、目黒・衾町の課長公舎に、渡部正郎・公安第三課長(外事)の公舎を訪ねて行った。ほぼ、同年代だから、呑むほどに、酔うほどに、二人とも、ゴキゲンになっていったのである。

美人の誉れ高い、渡部夫人と四人で飲んでいるうちに、「オイ、ほかの課長の家にも、ストームをかけよう」と、いうことになったものだ。夜の十時か十一時ごろ、渡部と同期(昭20採用)の、木村善隆・交通課長と、中田茂春・防犯課長とが、私と深江に叩き起こされて、渡部家へと〝拉致〟されたものである。

書き初めをしていたお嬢さんを見て、「オレたちも書き初めだ」と、やり出し、半紙が無くなると、「奥さん、紙がないゾ」と、わめく。すると、渡部正郎はなんといったか! 「紙ならそこにある!」

指さす方を見てやると、ナナント、公舎の襖である。酔った勢いだから、得たりや応とばかりに、襖という襖に、下手クソな字を書きまくり、果ては、白壁にまで、深江は奥さんの似顔絵を、描きまくってしまった。

もちろん、私と、深江だけが〝共犯〟ではない。渡部も、客の二課長も、〝共同正犯〟である。そし

て、一緒になって、大笑いしている夫人——これだけ、デキた女房は、そうザラにはいまい。

読売梁山泊の記者たち p.114-115 「ミタボロフ。女がいないゾ」

読売梁山泊の記者たち p.114-115 水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」
読売梁山泊の記者たち p.114-115 水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」

もちろん、私と、深江だけが〝共犯〟ではない。渡部も、客の二課長も、〝共同正犯〟である。そし

て、一緒になって、大笑いしている夫人——これだけ、デキた女房は、そうザラにはいまい。

渡部は、その後、山形から代議士に一期出たのち、弁護士事務所を開いている。田中角栄弁護団にも参加した。この稿が終わって、単行本にしたならば、夫人に謝りに行かねばならない、と、考えている次第だ。

警視庁の公安三課長室で、その後、渡部に会った時、「オイ、あのあとの日曜日、襖の張り替えと、壁の塗り替えで苦労したぜ」と笑っていた——三十五年前の、警視庁記者と課長とは、こんな〝付き合い方〟だったのである。いまのクラブ記者には、信じられないのではあるまいか。

この〝乱痴気騒ぎ〟には、後日譚がある。とどのつまり、二人は酔いつぶれて、公舎二階の客間に、夫人が整えてくれた、新品の客ブトンに眠ってしまう。枕許には、水差しまで置いてある、というモテナシであった。

ところが、夜半、深江が、ノドが乾いて、目を覚ます。「オイオイ、ミタボロフ。女がいないゾ」と、私をゆり起こした。

水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。

「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」

どちらが、そういい出したのかは、いまとなっては、定かではない。ちなみに、前年の二十九年に、ソ連大使館二等書記官、というのは仮りの名、ラストボロフ政治部中佐が、アメリカに拉致されたか、

亡命したか。大きな事件が起き、私がスクープした「幻兵団」が、具体的に裏付けられた。

あの、冷たいといわれる原四郎でさえも、

「三田! 幻兵団も、やっと〝認知〟されたぞ!」と、大ニコニコで、私に、話しかけてきたほどである。それで、私は、通称〝ミタボロフ〟と、呼ばれていた。

私たち二人は、如何にして〝脱獄〟するか相談して、窓を開け、新品の客ブトンを庭に放り投げた。一人分が、敷二枚、掛二枚だったろうか。二人は、二階から、そのフトンの山に飛び降り、塀をのりこえて、道路に出たが、その時は気付かなかったけれども、もちろん、ハダシであった。

深夜、パトロールにも見とがめられず、タクシーを拾って、新宿遊廓へと飛ばした。そして、翌五日のひるごろ、やっと目を覚ましたが、ハタと困った。クツがないのである。

五日は、御用始めである。警視庁へ電話して、「公安三課長の別室」という。警視庁の課長はエライもので、巡査部長の運転手と、女子職員がついている。

「若松クン? 今朝、課長、迎えに行った? ソウ、なにか、預かりもの、なかった?」

「クツでしょう。まあまあ、フトンを庭に投げ出して、雪も降らなかったから、いいようなもンですが、で、どこにいるんです」

「シ、ン、ジュ、ク…」

「新宿? で、どこに届ければ…」

「ユ、ー、カ、クのナントカ樓…。新宿通りから、右へ入って…」

読売梁山泊の記者たち p.116-117 花電車はまさにゲイジュツ

読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。
読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。

五日は、御用始めである。警視庁へ電話して、「公安三課長の別室」という。警視庁の課長はエライもので、巡査部長の運転手と、女子職員がついている。

「若松クン? 今朝、課長、迎えに行った? ソウ、なにか、預かりもの、なかった?」

「クツでしょう。まあまあ、フトンを庭に投げ出して、雪も降らなかったから、いいようなもンですが、で、どこにいるんです」

「シ、ン、ジュ、ク…」

「新宿? で、どこに届ければ…」

「ユ、ー、カ、クのナントカ樓…。新宿通りから、右へ入って…」

当時、官庁の公用車は、ナンバー・プレートが三万代で、公用車をそう呼んだ。三万何千という、五ケタの車は、極めて目立つ。

小一時間ほどで、ナントカ樓の表に、その三万代の車が、ピタリと止まった。妓たちは明け方に現れたハダシの客に、公用車の迎えがきたので、ビックリしていたものだった。

よく働き、よく遊ぶ——これが、読売社会部の伝統であった。果たして、いまは、どう変わっただろうか…。

やはり、警視庁クラブ時代のエピソードをもうひとつ。社会部で、キャップのいる出先きクラブというのは、警視庁、裁判所(司法クラブ、検察庁も担当する)、都庁、労働班だろうか。

新任の社会部長は、これらの、出先きクラブを〝ご巡幸〟する、ならわしがある。一堂に会して、酒を呑み、懇親を図るとともに、百人からいる部員たちと、話し合う機会にするのだ。

原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと、一パイやることになった。多分、保安課を担当していた、二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」と、いうことになった。

いまは、東京都内では、花電車など、見られないのかも知れない。花電車というのは、まさに、ゲイジュツである。女性特有の括約筋を利用して、さまざまな〝芸〟を見せるショーのことを、そう称

する。

私も、さきごろ、地方の温泉の兵隊仲間の会で、三十有余年ぶりに〝拝観〟して、この原四郎のことを、書く気になったのである。やがて、数カ月後に、府立五中のクラス会に私が幹事で、再び、その〝芸〟者を招いて、鑑賞したものであった。

というのは、三十年前に比べて、技術が大変に進歩していたので、これはもはや、〝伝統芸能〟である、と確信した。もちろん、ワイセツ感など、まったくない。

その五中のクラス会には、東北の有名クリスチャン校の校長先生とか、三和銀行、三菱銀行の常務から、有名上場会社の社長になっている連中まで、〝芸術〟に縁遠い級友たちが出席し、絶賛したものであった。

二里木は、本庁の保安から、浅草署の保安に電話させて、会場の設営をした。ギョーカイに通じれば、シロシロ、シロクロ、ワンシロといった、純粋のショーも見られる。いうなれば、シロは女性、クロは男性、ワンとは犬である。これらは、芸術とは、縁遠い。

路地裏の、とあるシモタヤの一室。二階に上がる階段まできたら、アヤシ気な声が聞こえてきた。原部長を案内してきた私は、フト見てビックリした。ハラチンが、指にツバをつけて、障子穴から覗いているではないか?

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め た。

読売梁山泊の記者たち p.118-119 伊達男そのもののハラチン

読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。
読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。

無言で促して、われわれの部屋に入る。薄暗い電燈の六帖間。〝女優〟サンが現われて、演技を始め

た。型通りに、まずは、皮をムいたバナナの輪切り。つづいて、ユデ玉子のカラをとって、玉子飛ばしである。

事件は、この瞬間に起こった! といっても、「御用だ!」と、刑事たちが、乱入してきたのではない。なにしろ、本庁保安課の、〝官許〟だからである。

彼女が、ヤッとばかりに、二メートルほども、気合とともに、ユデ玉子を飛ばした時、内部に残っていたバナナのスジが、玉子の肌に付着して飛び出し、ハラチンのホッペタにピタンと、ひっついたのである。

すでに紹介したが、長身にダブルの背広を着こなし、ややアミダに冠ったソフトの両びんには、ロマンスグレーの髪がのぞけて見える。まさに、ダンディー、伊達男そのもののハラチンである。

一度も、原のワイ談を聞いたことはない。そのハラチンに、花電車を見せて、どんな反応を示すか、が、われわれ警視庁クラブ員の最大の関心事だったのである。従って、見馴れた花電車よりは、多くの記者たちは、原の表情に、注意を向けていたのである。

大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。ピタンの瞬間だけ、原の表情には、この際、どんな態度を取るべきか、といった、困惑が走った、と、私は見てとった…。

だが、次の瞬間には、原の表情は、真実のみを見つめようとする、新聞記者の眼に戻っていた。も

っとも、さり気なく、片手で、バナナのスジを、拭き取ってはいたが。

爆笑というのは、〝吹く〟というように、まず、大きく息を吸いこんでから、吹き出すのである。みんなの爆笑は、吸いこんだままで、止まってしまったのである。

ある意味で、座は白けてしまった。もう、花電車のコースは、なんの感興も呼ばなかった。原にとっての、花電車ショーは、多分、この時、一回だけであったろう。しかし、彼は、座興として、これを見なかった。

あるいは、ルポルタージュを書く、記者の眼で、展開される現実を、シッカと、見ていたのかも知れない。

竹内四郎が、遊びにきた部下たちとのマージャンで、賭け金を捲き上げ(もっとも、それ以上に、御馳走を並べていたが)、新聞休刊日の全舷上陸(旅行)に、愛人の芸妓を伴うなど、人間まる出しであったのに比べると、原四郎は、まったくの〈新聞記者〉であったというべきだろう。

しかし、その原四郎が、読売新聞の興隆期を、紙面で指揮していたことは、事実なのである。そしてまた私も、原という〝伯楽〟のもとで、大きく成長したのであった。

古き良き時代の記者像をもう一つ紹介しよう。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

読売梁山泊の記者たち p.120-121 〝腕〟が立派に拾われている

読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。
読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。

かつて、大阪読売の編集局長栗山利男(読売取締役)が、編集局長の原四郎にたずねたという。「誰か、パチンコ狂はいないか?」と。

この言葉には、解説が必要である。Fという有能な整理記者が、東京読売にいた。ところが、これがまた、大変な競馬狂で、仕事以外は、競馬のことしか念頭にないのである。そのキャリアは、累積赤字四百万円に達したというのであるから、想像を絶しよう。

もちろん、負けに負けつづけた、というものではない。勝つ時もあるのだが、その時は景気良く、派手に使ってしまうのだから、負けた時の借金が、累積してゆくのだ。

ありとあらゆる所から借りつくして、さすがに、身動きができなくなってしまった。かくして、Fは読売を退社して、その退職金四百万円を投げ出し、一度、借金を整理することとなる。借金と退職金がツーペイである。

これでは家族も困ろうと、友人たちが、高利貸しを口説いて、利子をまけさせ、四十万円を捻出した。その退社の日たるや、けだし壮観であった、という。

Fの敏腕を惜しんだ、上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められた。積み上げた退職金から、順次に〝支払い〟が行なわれ、残った四十万円が自宅へ届けられた。だが、Fは悠然として、この四十万円で競馬に出かけ、倍の八十万円にして帰ってきた、という次第だ。しかも、身辺整理の終わったFは、大阪読売に迎えられて、華麗な見出しで、紙面を飾っている。

Fの才能に、感嘆した栗山が、「とても、普通の状態では、東京が大阪へと、手放してくれる記者ではない。大阪の陣容強化のため優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は競馬狂ではなくても、〝パチンコ狂はいないか〟と、原にたずねた、というものである。

自分で掘った〝墓穴〟、と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本に、絶大な自信がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。

私がいいたいことは、この記者の、行動についてではない。それぞれの家族もあり、家庭内の事情もあったろうから、退職金を投げ出すことについての、若干の感慨もあったであろう。個人的な事情とはいえ、退職金までもゼロにして、社をやめるという〝壮絶〟な出処進退をとりあげたいのだ。そして、その〝骨〟ならぬ〝腕〟が、立派に、拾われている、ということだ。

「畜生メ、辞めてやる!」これが、かつての読売の伝統であった、といわれる。原稿を書こうが、書くまいが、クラブで終日、麻雀を打っていようが、週給のように、会社は、記者手当だ、なんとかだ、と、金を呉れるから、サラリーマン記者は、気楽なモンだ、ときたもんだ。なかなか、辞められない。

私が、安藤組事件に連座して、退社した時には、立松事件の後遺症で、紙面への制約がうるさかった。その反動のクーデターで、社会部は事件だ、を立証しようとして敗れた。

いま、テレビ朝日のキャスター・内田忠男も、ロス特派員の時に、「辞めてやる!」と叫んだ。私の場合、三十八歳だったから、辞表が出せた。四十歳過ぎなら、考えただろう。

古き良き時代の、ある新聞記者像——として、エピソードを紹介したのは、いまや、読者のみならず、大新聞記者の多くの人たちには、もはや、理解できなくなってしまった、この〝社を辞める〟という感覚を、取りあげてみたかったのである。

読売梁山泊の記者たち p.122-123 「記事でとっている読者が5%」発言

読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」
読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」

名文家として知られた、高木健夫(故人)が、昭和三十年に書いている、「読売新聞風雲録(原四郎・編)」中の、「社長と社員」の稿にも、「畜生! 辞めてやる!」と口走るのが、事実、読売の伝統であったと、正力松太郎陣頭指揮時代の社風が、そのようにうかがわれるのである。

あまりにも人情家だった景山部長

その原が、七年の長きにわたって、社会部長であった時、十三年七カ月にわたって、編集局長であったのが、小島文夫(故人)である。通称ハリさん。小島編集局長時代に、これらの、「畜生! 辞めてやる!」の伝統が次第に薄れていったようである。

《正力社長の早朝出社は有名で、一般社員より一時間早く出て、社内を一巡する。この時だだ広い編集局に、ただひとり、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。

『あれは誰だ?』

『小島文夫という男です』

『学校は、どこかね?』

『社長の後輩、東大です』

『あいつを部長にしたまえ』

(遠藤美佐雄「大人になれない事件記者」より)》

小島は、昭和四十年十一月十五日、専務・編集主幹と昇格した直後に、社の玄関で倒れて逝ったが、その通夜の席で、記者たちはささやいた。

「ハリ公は、なにがたのしみで、新聞記者になったのだろうか…」と。

彼は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。その端的な実例がある。「いわゆる務臺事件」(注=務臺光雄名誉会長が、読売を辞めるべく、姿を隠した事件)後の、昭和四十年六月、夏期手当をめぐる交渉委員会での、発言記録だ。

・会社—会社の調査では、読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%ぐらいだ。

・組合—記事でとっているのが5%だ、というのが、編集の最高責任者の言葉とすると、あまりにひどい。これでは、みんな記事を書く気も、働く気もしなくなる。

・会社—社主の魅力が大きい以上、そうした記事(注=いわゆる、正力コーナーと呼ばれて、当時、紙面にひんぱんに登場した、正力動静記事のこと)は扱わなければならない。批判的な読者の声も、ほとんど聞いていない。(組合ニュース第11号、六月十六日付)

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。

読売梁山泊の記者たち p.124-125 あのな、お前は、経済を勉強しろ

読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。
読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

この、「記事でとっている読者が5%」発言は、当時、全社的憤激をまき起こし、小島は引責辞職に追いこまれそうになったが、組合ニュース第14号によれば、「会社側から陳謝」となって、危うくクビ

がつながった。これをもってして、小島の人柄が判断されるだろう。

小島のクビが危うかったことは、その前にもう一度ある。昭和三十二年秋の、例の「立松事件」の時である。売春汚職にからんで、社会部の立松和博記者(故人)が、「宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士、 召喚必至」という大誤報を放った時である。

原が、社会部長から、編集局次長兼整理部長に栄転したあと、原は、僚友の景山与志雄を社会部長に据えた。古い社会部記者のタイプで、温情家であった景山は、部長になるや人事異動を行なった。

三年にわたった、私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。警視庁で、公安と外事を担当していた私は、当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。

「あのな、お前は、経済を勉強しろ。〝虎を野に放つ〟ようなものだという、デスクの意見もあったが、通産、農林両省のクラブだ」

「…でも、先輩の長田さん(与四郎)が、古巣の通産に行きたがってましたから、私は防衛庁にやって下さい」

「イヤ、防衛庁は、堂場(肇)に決めた。ヒマなクラブだと思わず、経済の勉強をしろ。お前の将来のためだ」

「……ハイ」

私は、シブシブ承諾した。人生、なにがどうなるものか。景山に命令されて、通産、農林担当となった。ここは、経済部が主力で、社会部、政治部はヒマ。ほかには、地方部が忙しいクラブだったが、東電の正親見一常務と仲良くなり、「正論新聞」創刊の激励を受ける、という巡り合わせになる。

だが、この両省かけ持ちとはいえ、前に書いたように、「停電つづきの東電」と「値上げつづきの東ガス」だけしか、取材対象がないのだから、毎日、麻雀暮らしのクラブ勤務に、ドップリ浸っていた。

そして、一年後、特オチという失態を演じて、遊軍勤務という本社詰めに、配置転換される。私は、この時に、景山の〝温情家ぶり〟に感激したものであった。が、愛称カゲさんの温情が、社会部長という一等部長から、少年新聞部長という三等部長に降格される、「立松事件」を誘発する。

多久島事件というのが起きた——その名の農林省事務官が、何千万円という公金を使いこんで、当局に告発されたのである。その日の夕方五時ごろ、上司の安田農林局長が、農政クラブに現れて、記者会見して、「只今、告発して参りました」と、発表する。

地方部の小野寺記者が、クラブに在室していたので、その発表を聞き、私を探したが見当たらないまま、直接、社会部のデスクに、「こういう発表がありました」と、連絡を入れてくれた。

私は、その日、ずっと通産省の虎ノ門クラブに在室していた。私は、他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。負けがこんでいて、午後からずっと、マージャン台にかじりついていた。

そして、農林省で重大発表があったとも知らず、夜の九時ごろまで、各社の記者を放さなかった。

読売梁山泊の記者たち p.126-127 私は通産クラブでマージャン

読売梁山泊の記者たち p.126-127 大負けした私は、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。翌朝、農林省の重大事件に、ギョッとした。読売をひろげてみた。無い! 読売には無い。スッと、背筋に冷たさが走った。
読売梁山泊の記者たち p.126-127 大負けした私は、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。翌朝、農林省の重大事件に、ギョッとした。読売をひろげてみた。無い! 読売には無い。スッと、背筋に冷たさが走った。

私は、その日、ずっと通産省の虎ノ門クラブに在室していた。私は、他社の社会部記者たちと、マージャンをしていたのである。負けがこんでいて、午後からずっと、マージャン台にかじりついていた。

そして、農林省で重大発表があったとも知らず、夜の九時ごろまで、各社の記者を放さなかった。

彼らも、国税庁や文部省のカケ持ちはいたが、農林省は、私ひとりだった。

大負けした私は、そのまま、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。そして、翌朝、自宅で、朝日、毎日を広げてみて、農林省の重大事件に、ギョッとしたが、見出しから、発表モノと分かって、安心した。最後に、読売をひろげてみた。

無い! 読売には、多久島の「多」の文字さえ無いのである。スッと、背筋に冷たさが走った。

「そんなバカな! 発表モノじゃないか!」

重い、苦しい気持ちで、農政クラブに電話を入れると、地方部の小野寺記者が出た。

「どうしたんでしょうネ。私は、発表を聞いて、すぐに、社会部のデスクに入れておいたんですが…」

不安は、さらに募った。ニュースが入っているのに、掲載されていない、とは…。かつて、立松、萩原両記者とともに、法務庁クラブ時代、朝連解散の発表モノを、号外落ちして、竹内社会部長に、「バカヤローッ!」と怒鳴られた時よりも、もっと重い足取りで、社へ向かった。

景山部長は、蒼い顔をしたまま、ジロリと一瞥をくれただけで、黙っていた。編集総務になっていた原四郎も、社会部長席の横に立ったまま、私には、眼もくれなかった。

こんな大事件で、しかも、発表モノの特オチとは、まさに、醜態の限りであった。当面の責任者である私には、口を開くべき言葉はなにもなかった。

夕刊では、後追い記事を書いたあと、原因調査が進められた。小野寺記者が、社会部へ連絡を入れたあとの、経過である。地方部記者からの連絡を受けた、その夜の当番デスクの山崎次長は、これを、

読売の特ダネと感違いしてしまった。

そこで、「特ダネだから、隠密に」という注意をつけて、警視庁クラブに、調査を下命した。捜査二課担当の記者は、その夜、〝隠密に〟当たってみたが、反応がない。検察庁に告発した、その夜のことだから、捜査二課では、まだ、なにも反応のないのは、当然のことである。で、山崎デスクは、「明日まわしにしよう」と、結論してしまった。こういう事情が判明したあとのこと、景山は、私にこういった。

「お前、どこに行ってたんだ。デスクは、農林、通産のクラブに社電(注=各クラブとも自社の電話、もしくは加入電話を持っているので、デスクは、出先き記者に用事がある時は、交換手に命じて電話させる)したが、居なかったそうじゃないか」

大特オチの自責の念で、なにも弁解していなかった私は、これを聞いて反論した。

「社電したって? とんでもない。いまだからいいますが、私は、通産のクラブで、夜の九時まで、マージャンしていたんです。その間、社電は一度もなかった。他社の三人という証人もいるんですよ! 社電したというなら、その交換手の名前をハッキリして下さいよ。とーんでもない」

私のばく論に、景山部長は、黙って腕組みをしたまま、なにかを考えているようだったが、しばらくして、口を開いた。

「よし、事情は分かった。マ、いい。オレに考えがあるから、黙って、オレにまかせろ」

数日後、私は部長に呼ばれた。

「特オチの後始末だが、オレが進退伺いを出すんだが、お前も、黙って始末書を出せ」

読売梁山泊の記者たち p.128-129 人情に篤く、温厚な人柄

読売梁山泊の記者たち p.128-129 数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。
読売梁山泊の記者たち p.128-129 数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。

「特オチの後始末だが、オレが進退伺いを出すんだが、お前も、黙って始末書を出せ」

「ハイ、部長がそういうのなら、私も黙っていわれた通りにします」

景山とは、そういう人柄の人物であった。そして、それなりに、部長を理解できる部下からは、良く慕われていたが、ある意味では古いタイプの〝社会部派〟の記者であった。人情に篤く、温厚な人柄ではあっても、もうひとつ、原のような鋭さや〝非情さ〟に欠けていた。

数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。

原四郎が七年間も社会部長、ということの意味の重要さは、毎日、毎日の朝夕刊の「紙面」というクビのかかった生活のなかで、名部長といわれるほどに、ほとんどまったくミスがなかった——ということなのである。だからこそ、七年間も、「社会部長」がつづいたのだ。

そしてそれは、原が、統率の才にめぐまれていたことと同時に、さらに「新聞の体質」が、原という「記者の体質」と、同一だったことである。

だが、景山は、あまりにも人情家でありすぎた。「ホトケのカゲさん」だったのである。「立松事件」という、日本新聞史に記録される、大誤報事件は、遠因として、山崎次長のミスを秘かに救ってやった景山温情部長の、部長としての在り方、姿勢に、すでに胚胎していたと私は思う。同じように、長期病欠から復帰してきた立松記者への思いやり、温情が、かえって裏目に出たのであった。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

読売梁山泊の記者たち p.130-131 青木照夫もその一人である

読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。
読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ

満二年のシベリア抑留中に、私は、イルクーツクのそばの、バイカル湖沿いの炭鉱町、チェレムホーボの収容所で、KGBの少佐によって、「スパイ誓約書」に署名させられたという経験を持つ。

「…日本に帰ってからも…」という条項の入ったその誓約書は、シベリア抑留者の多くに暗い、重い心の負担であったに違いない。

現に、私の読売同期生で、私より一年遅れて帰国した青木照夫も、その一人である。彼は、報知新聞編集局長の現職で、早逝してしまったが、この心の重みが、彼の死を早めたのかも知れない。

昭和二十四年の暮れ、私は梅ヶ丘の都営住宅に入り、青木も、空家抽せんで、同じ平屋一戸建の都営住宅に入居していた。

寒さが、しんしんと夜気を静まらせていた深夜、米占領軍のジープの音が響き、声高な罵り声が聞こえて、目が覚めた。何事かと起き出して行ってみると、ジープが止まっているのは、青木の家だったのである。

二日か、三日、青木は帰ってこなかった。もちろん、出社していなかった。数日後に青木の家をのぞいてみると、元気のない様子で、彼が現われた。

その夜、二人は話し合った。彼が、「スパイ誓約書」に署名し、合言葉の男が訪ねてきたことを、私に打ち明けたのである。

それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。事実を竹内部長だけに打ち明けていた私は、青木の告白で、最終的な取材を終えた。

シベリア捕虜たちが、誓約書の文言に縛られて、心の重荷を背負って生きていることへの、〝気晴らしのレポート〟として、このスパイ実話を、翌二十五年一月十一日付朝刊の全面を埋めて、第一回分を発表した。

整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。この「幻兵団」の記事には、前段がある。シベリア復員者の「代々木詣り」という記事である。

私が日大で三浦逸雄先生(三浦朱門氏の父君)に教えられた最大のものは、資料の収集と整理、そのための調査、そして解析である。

それが実際に成功したのが、ソ連引揚者の〝代々木詣り〟というケースだった。上野方面のサツ廻りであった私は、上野駅に到着する引揚列車の出迎えを、欠かさずにやっていた。

そこで、婦人団体よりもテキパキと援護活動を奉仕している学生同盟の、それこそ、献身的な姿が見られた。ところが、その学生の一人が、ついに殉職するという、悲惨な事件が起きたのである。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

読売梁山泊の記者たち p.132-133 〝代々木詣り〟の引揚者

読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」
読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立って激しくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。党勢拡張を

狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一カ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料ができ上がった。私は、これを竹内社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

「部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引き起こすと思います」

いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。

竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

「それで?」

「予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いたほうがいいと思います」

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴社に、先月既に八百名という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行なっているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、丁寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。

やがて、この〝代々木詣り〟は事件となって現われてきた。上野駅での、肉親の愛の出迎えをふみにじる、すさまじいタックル、女学生の童心の花束は投げすてられるという騒ぎだ。そして京都駅での大乱闘、舞鶴援護局でのストなどと、アカハタと日の丸の対立まで、何年にもわたっての、各種の事件を生んだ、そもそもの現象だったのであった。

この一件が、私の新聞記者としての能力が、竹内部長に認められるキッカケだった。私はその記事のあとで、「部長だけの胸に納めておいて頂きたいのですが、調査の許可を頂けませんか」と、申し出た。

「…実は、ソ連側では、引揚者の中にスパイをまぎれこませて、日本内地へ送りこんでいるのです。それが、どのような規模で、どのように行なわれており、現実にどんな連絡をうけて、どんな仕事をしているのかを、時間をかけて、調べてみたいのです」

「何? スパイだって?」

「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているのに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は、同胞相剋の悲劇を強いられているのに違いない、と思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終わってまだ数年だというのに、もう次の戦争の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」

読売梁山泊の記者たち p.134-135 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。
読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

「それで、調べ終わったら、どうするつもりだね」

「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが」

「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」

「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私とソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私の許には、相当程度のデータは集まっていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集まってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月のデータの中から、めぼしいものが浮かんでいたのである。そのなかには海部内閣の閣僚さえいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類に残されているのだ。「…もしこの誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処罰をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭鉱作業に、疲れきった私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回も、ひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べをうけていた私は、直観的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が、着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行なわれていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

読売梁山泊の記者たち p.136-137 〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ

読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。
読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉

ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良いものだった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「宜しい。よく判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼しドアのところへきた時、今まで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パダジュディー!(待て) 今夜お前はシュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭鉱の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」

と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、今までの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただごとではないぞ、という予感がしたのだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは、〝モスクワからきた中佐〟といっていたが、私は心秘かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いない、と思っていた。

それから一カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに呼び出された。当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐と、もう一人、通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれ、ということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、〝偽装〟して〝地下潜入〟せよ、ということになるではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に〝偽装〟を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも〝幻のヴェール〟が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ三回目が今夜だ。「ハヤクー、ハヤクー」と、歩哨がせき立てる。