「読売梁山泊の記者たち」カテゴリーアーカイブ
読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状
(見返し挟み込み あいさつ状)
本日は、ご多忙中にもかかわらず、「正論新聞の二十五年を祝う会」に、ご臨席を賜りまして、誠にありがとうございました。
厚く御礼を申しあげます。
いかがでございましたでしょうか。パーティーは、お愉しみいただけましたでしょうか。
同封にて『読売・梁山泊の記者たち』(正論新聞連載「原四郎の時代」改題)(紀尾井書房刊)を、お届けいたします。
年寄りの繰り言、などとおっしゃらずに、温故知新のお気持で、この新聞の変革期に際して、心新たにお目通しいただければ、幸甚と存じます。
また、正論新聞(第六〇七号)も添えました。明年には、創刊号以来の縮刷版を刊行いたす計画でございます。
いずれにせよ、新世紀になります十年後には、今日にひきつづき「三十五年を祝う会」で、みなさまのお元気なお顔に接する喜びをご一緒したいと願っております。
本日は、ほんとうにありがとうございました。
平成三年十一月二十六日
発起人一同
三田 和夫
読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001 本文扉
読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 三田和夫
献詞
平成三年十一月二十六日 三田和夫
もう、半世紀にもなろうという、昔、
昭和十八年十月一日。
大観の富士山が飾られた社長室。
正力松太郎社長から、親しく辞令を受け、
私の人生が、決定づけられました。
そして、戦後の二十年代、
「社会部の読売」という名声が、
朝・毎時代から、朝・毎・読の時代へ。
さらに、朝・読の時代を経て、
一千万部の読売新聞が、築かれました。
それも、これも、
販売の務臺光雄、紙面の原四郎という、
二人の巨人が、
大巨人・正力松太郎の衣鉢を継いだから、
だと思います——。
然るに、噫…、
お三方ともに、
すでに、幽明、境を異にされました。
ここに、本書をもって、
先哲の事蹟を明らかにし、
鎮魂の詞(ことば)といたします。
読売梁山泊の記者たち p.004-005 正力松太郎・務臺光雄遺影
読売梁山泊の記者たち p.006-007 原四郎遺影 もくじ扉
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次
序に代えて 務臺没後の読売
九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長
第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎
戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快
第二章 新・社会部記者像を描く原四郎
いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長
第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖
シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念
第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち
不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ
第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次(つづき) 章扉
第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側
大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相
政治的思惑で立松を利用した河井検事
もしデマのネタモトを暴露していたら…
事件の後始末、スター記者時代の終わり
第六章 安藤組事件・最後の事件記者
ころがり込んできた指名手配犯人
犯人を旭川へ、サイは投げられた
発覚、そして辞職、逮捕、裁判へ…
いま「新聞記者のド根性」はいずこへ
あとがき
序に代えて 務臺没後の読売
読売梁山泊の記者たち p.012-013 池島信平社長が会いたいと
九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
「アイ・シャル・リターン!」
この言葉は、マッカーサー元帥が、日本軍に追われて、フィリピンを脱出する時の、有名な言葉である。そして、マ元帥は、その言葉を実行した。
読売新聞広告局長、氏家斎一郎もまた、日本テレビに出向してゆく時、離任の挨拶で、「アイ・シャル・リターン!」と叫んだが、彼はついに再び読売新聞に、その名を刻することはなかった。
私は、昭和十八年十月一日の読売入社。四年の兵隊、捕虜で、二十二年十月復員、復社した。社会部一筋で、三十三年七月、横井英樹殺害未遂事件で、安藤組員の犯人隠避事件を起こして、自己都合退社した。のち、昭和四十二年元旦から、独力で「正論新聞」を創刊、二十五年が経過して、現在にいたっている。
そして、氏家と具体的に関係のできたのが、読売を退社して、正論新聞を創刊してからであった。
読売を退社してから、私は文筆業として、原稿を書き出していた。だが雑誌原稿で生計をたてることの難しさは、すぐにやってきた。
警視庁の留置場に、妻からの連絡で月刊「文芸春秋」誌に「安藤組事件の原稿を書いてくれ」という、依頼があったので、二十五日間の生活が終わって、保釈出所すると、すぐ田川博一編集長に会いにいった。
「タイトルは『我が名は悪徳記者』で、サブ・タイトルは事件記者と犯罪の間、でいきましょう。何枚でもいいです。書きたいだけ、書いてみてください」
田川は、話が終わったあと、語調を変えていった。
「三田クン、西巣鴨第五小学校の六年生で、一年間一緒だった田川だよ」
「ア、転校してきた、田川!」
意外な縁に驚きながらも、私は百五十枚の原稿を書いた。と、田川から社に来てくれ、という電話があった。
「原稿、ツマランですか?」
「イヤ、おもしろいんだよ。だけど、池島信平社長が会いたい、と…」
その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。
「オイ、三田クン、キミは五中だナ」
「ハイ、十六回卒業です」
「オレは、第一回、先輩だよ」
「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」
「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」
読売梁山泊の記者たち p.014-015 中央に児玉右側に渡辺恒雄
その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。
「オイ、三田クン、キミは五中だナ」
「ハイ、十六回卒業です」
「オレは、第一回、先輩だよ」
「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」
「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」
「……」
「ナ、いいだろう?」
「ハ、ハイ」
私は、読売記者のカンバンを外してからの、第一回の作品で、早くも、新聞社と雑誌社の違いに、直面したのだった。…が、内心、池島の話のもっていき方のウマさに、驚いていた。
「アノ部分も載せたいけれど、オレに面会を求めてくる連中が、ウルサイんだよ」
そして、「財界」誌。さらに、「現代の眼」誌…。私が書く時事モノは、媒体各社でトラブルが続出した。ホントウのことを書けば、モメるのだ。
…そして私は、ついに、雑誌に原稿を書くことに、限界を感じていた。自分がライターであり、エディターであり、パブリッシャーであること…それ以外に、真実は書けない、と。
そうして、私は「正論新聞」の創刊を考えた。紙面の目玉は、児玉キャンペーン。昭和四十一年の〝黒い霧〟解散のころ、児玉の勢力の絶頂時代に、まさに、蟷螂(とうろう)の斧を振るわんとしているのだった。
その第四号。昭和四十二年八月一日付で「九頭竜ダム疑惑」を取り上げた。水没補償問題で、政治家を渡り歩いていた、緒方克行という男(のちに、「権力の陰謀」という著書を出して、真相をブチまけた)に出会って、詳しい話を聞いたからだ。
十二月二十七日、児玉から緒方に電話があって、「話のメドがついたから現金一千万円を持ってこい」という。
児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。
緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。
「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。(一千万円のうちから、三百万円を取り出し)この分はこの男(渡辺を指した)の関係している、弘文堂という出版社の株式にするからな」
緒方の話を聞いていて、私は考えこんでいた。渡辺も氏家も、交際はなかったものの、顔見知りの仲である。果たして、書いたものか、どうか。私情ではなくとも、いきなり背後からバラリ、ズンと斬れるものではない。
妙案が浮かんだ。かつての社会部長で、七年間もその下で仕事をした原四郎が、二人の上司で編集局長である。
「そうだ。原チンに下駄を預けよう」
読売に原を訪ね、「九頭竜ダムを取材していたら、渡辺と氏家の名前が出てきたんです」
緒方の話を詳しく伝える間、原は黙って聞いていた。聞き終わって、
「お前、その話はホントか?」
「部長、イヤ、局長。あなたは七年間も使っていた私の、取材力を疑うんですか。ホントか、はないでしょう!」
しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。
読売梁山泊の記者たち p.016-017 傲岸不遜な渡辺も、鞠躬如
しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。
その夜、渡辺から電話がきた。
「局長に呼ばれて、叱られたよ。ともかく名前だけはカンベンしてよ。明日、逢いたいんだ。中曾根にも会ってくださいよ。将来、総理になる男だから知っていてソンはないよ」
翌日、約束の場所にいってみると、氏家がきていた。
「ナベさんは、仕事でどうしても来られないんです。局長には、『お前たち同じカマの飯を食った仲だから、お前たちで片づけろ』といわれました。
で、ともかく中曾根に会って、彼の話を聞いてやってよ。知っておいて悪い男じゃないんだから」
「中曾根に、どんな質問をしてもよいというなら、会ってもいいよ」
原に会った時のフンイキや、お前たちで片づけろ、という返事など、私はやはり実名は出せないナと、そう考えていたので、中曾根会見を承知した。その話は省略するが、いかにも、中曾根らしい返事だった。
この時以来、渡辺、氏家の二人三脚は、東大以来つづいているのだ、と感じていた。
だが、昭和四十九年名簿でみると、氏家は一等部長の経済部長、渡辺は三等部長の解説部長。昭和五十年には、氏家は広告局長、渡辺は編集局長の下の五番目のドンジリ局次長。
昭和五十二年では氏家が取締役広告局長、渡辺はやっと、編集局長の次の次の編集総務である。氏家にドンドン先を越されているのだから、おもしろかろうハズがない。
昭和五十七年では氏家の名前がない。日本テレビの専務に出ていった時の挨拶が、冒頭のアイ・シャル・リターンで、読売に帰ってくるぞ、ということだ。
渡辺はこの時、務臺代取会長から数えて、八人目の常務・論説委員長。先輩の編集総務だった水上達也は、渡辺の次の次で、ヒラ取・編集局長だ。
その二年後――昭和五十九年に、日本プロ野球五十年、すなわち、巨人軍の五十周年記念パーティが、ホテル・ニューオータニで盛大に催された。
専務取締役・主筆・論説委員長になって、六番目に栄進していた渡辺が、ファンファーレとともに、時の総理大臣・中曾根康弘を先導して、鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。待ち受けているのは、代表取締役・名誉会長の務臺光雄。
わざわざ、事典をひいて、〝鞠躬如〟という言葉を使ったのは、「身をかがめ、恐れ慎んでいるさま」(新潮国語辞典)そのままだったからである。
もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。
この年の名簿が、手許にないのだが、昭和六十年では、務臺の肩書は代取・名誉会長になっている。多分、この五十年パーティの時も、ひとたび剥がれた代取を、もう取り戻していた、と思う。つまり、あの傲岸不遜な渡辺も、務臺の前では、〝鞠躬如〟だったのである。
かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田
急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。
読売梁山泊の記者たち p.018-019 大下の描くナベ恒の謀略
かつて、読売新聞では、ヒラの政治部記者・藤尾正行が、傲岸不遜の代表であった。その頃、小田
急梅ケ丘駅で、時の政治部長・古田徳次郎と藤尾、そして私の三人が、朝一緒になったことがある。
私が、藤尾を見つけてお辞儀をするのは、当然。そこに古田がやってきて、先に「おはよう」と、頭を下げる。と藤尾は、「ウン」といって、胸をそらすのである。藤尾のお辞儀は、頭を下げるのではなく、ソックリ返ることであった。だが、渡辺にはかなわない。渡辺のは、顔の表情から、身体全体の構えまで、傲岸不遜なのである。
閑話休題——満場の拍手の中で、務臺と中曾根が握手して、祝辞のためマイクに向かった。
その時、拍手する人びとの表情を見ようと、私は、振り向いてまわりを見まわした。
と、うしろのほうの人混みのなかに、腕組みをして拍手しない男を見つけた。なんと日テレ副社長の氏家ではないか。
「氏家さん、どうしたの。ナベさんの晴れ姿を祝ってやらないの?」
「フン。ナベのヤローなんか!」
吐いて棄てるような、氏家のその言葉に、私は、次の言葉を失っていた。
――なんということだ! 氏家と渡辺との二人三脚が、すっかり崩れていたとは!
パーティの席で、人が流れており、そのまま私は、氏家に話を聞くことができなかった。
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
平成二年七月二十五日初版で、角川書店から、大下英治著「小説・政界陰の仕掛人」という、文庫
本が出た。
大下が「宝石」や「現代」などの月刊誌、「週刊文春」などに書いた、四元義隆、入内島金一、青木伊平、渡辺恒雄などを、取り上げたもので、それに共通のタイトルを付したものだ。
だが、三九八ページの同書のうち、渡辺に関しては、二篇、同書の半分の一九〇ページを費やしている。同書では「最後の派閥記者――渡辺恒雄」というタイトルだが、初出誌では、こうなる。
「月刊宝石五十八年九月号」(渡辺恒雄読売専務・論説委員長の中曾根総理の密着度)
(ボクは黒幕なんかじゃないよ・読売専務渡辺恒雄大いに語る――五十九年六月)
「月刊現代五十九年八月号」(渡辺恒雄読売専務インタビュー)
この、渡辺の中曾根密着度、という五十八年九月号の「月刊宝石」の記事は、九頭竜ダムをはじめ、児玉との密着度を、徹底的に暴いている。つまり渡辺批判の作品である。
大下は、このなかで、渡辺の、覇道について書いている。ロッキード事件での社会部との闘い、氏家〝謀殺〟、先輩、同輩との政治部内の派閥戦争から、〝社内の敵〟を葬り去ってゆく手口と経過を、具体的な取材で綴っている。その内容の濃さに、私も敬意を表したものだった。
その末尾には、「(昭和五十七年)この六月二十七日の読売人事で、渡辺は専務に昇格した。同時に、同じ常務であった、社会部出身の加藤祥二常務は、取締役から降格された」
「社内の噂では、加藤常務は解任の朝まで、それを知らなかった、といわれています。その日の朝、ナベ恒に、もう明日から来なくていいんだよと、引導を渡されたそうです。いかにも、彼らしいひど
いやり方だ、と囁かれています。…」と、渡辺批判が「(社会部ベテラン記者)」として書かれている。
読売梁山泊の記者たち p.020-021 渡辺のケツを洗っている
その末尾には、「(昭和五十七年)この六月二十七日の読売人事で、渡辺は専務に昇格した。同時に、同じ常務であった、社会部出身の加藤祥二常務は、取締役から降格された」
「社内の噂では、加藤常務は解任の朝まで、それを知らなかった、といわれています。その日の朝、ナベ恒に、もう明日から来なくていいんだよと、引導を渡されたそうです。いかにも、彼らしいひど
いやり方だ、と囁かれています。…」と、渡辺批判が「(社会部ベテラン記者)」として書かれている。
この「月刊宝石」の掲載が、五十八年九月号だから、多分、その年の春ころのことだろう。意外なことだが、渡辺から私のもとに電話があった。
「三田さん。あなた、大下英治というライター、知っていますか?」
私のほうが、読売では先輩だから、サン付けが当然である。軍隊と同じで、新聞社内では、入社年次が一年先なら必ずサン付けである。
「いやあ、ナベさんかい。珍しいね。大下なら週刊文春時代からの付き合いで、良く知っているよ。…どうかしたの?」
「あいつがネ。私のケツを洗っているんですよ。…もっとハッキリしたら、お願いごとに伺うかも知れませんが…」
「ああ、いいよ。他ならぬナベさんのことだから、お役に立てれば…」
「もしかしたら…。改めて、ご連絡しますので、よろしく」
電話はそれで切れて、そして、二度とかかってこなくて、「月刊宝石」はその記事を掲載して発売された。
大下のスタッフが、渡辺のケツを洗っていることを知って、彼は、溺れる者のワラで、私のもとに電話してきたに違いない。
だが落ち着いて考えてみると、三田を大下との交渉に使うことは、自分の手の内をバクロすること
になる。私は「務臺さんの社外での一の子分」と、自称し、かつ、紙面にも書いていた。
当時、渡辺、氏家は蜜月時代で、ふたりとも、小林与三次派だったのである。もしも、三田が渡辺の〝恥部〟を握って、務臺にチックリ(密告)したら、務臺コンピューターに渡辺はダメ、とインプットされてしまう。これは、記事がそのまま出るよりも危険だと、考え直したに違いない。
だが、渡辺の権謀術数は、大下にやられっ放しではない。すぐ態勢の建て直しである。
もともと、務臺が、小林に読売社長の座を譲ったのは、昭和五十六年六月だが、代取・会長になっていた。それを、二年後の五十八年六月に「小林社長がやりやすいように」と代取を外すことを、自ら提案した。そして、名誉会長になったのだった。
その身軽さから、アメリカ旅行に出て、帰国してみると、新聞の代取だけを外せ、といっておいたのに、読売グループ三十数社のすべてから、代取はもちろんのこと、役員まで外してしまっていた。
烈火の如くに怒った務臺は、直ちに代取に復帰して、代取・名誉会長という〝奇妙〟な肩書になった。この際務臺の力を、一気にソイでしまって、扱い易い小林だけにしよう、と、足並を揃えた、渡辺、氏家だったが、思惑が狂って、大あわてであった。
氏家は、渡辺に一歩先んじているので、日テレの社長になれば、小林の日テレ社長→読売社長の後につづいて、読売へ、アイ・シャル・リターンだと。
渡辺は渡辺で、読売内部で、先輩たちを片づけてゆくほうが近道、と踏んでいたのだろう。
この、務臺の代取復帰から、渡辺は小林についているより、務臺につくべきだ、と考えたらしい。
読売梁山泊の記者たち p.022-023 ポスト・ムタイの話が出た
この、務臺の代取復帰から、渡辺は小林についているより、務臺につくべきだ、と考えたらしい。
「小林社長は兄であり、務臺名誉会長は父である」——渡辺の、このコロシ文句に、務臺は、コロリといかれた。
昭和四十四年十月九日、偉大なる新聞人・正力松太郎が逝った——その前日の、八日の午後、私は、銀座のプランタンの旧本社に、務臺副社長を訪ねていた。「正論新聞」を、有楽町駅でテスト売りするため、読売の販売店の啓徳社の田中社長に、紹介をお願いするためであった。
その時、務臺は、私の質問に答えて、「病床でもお元気で、私と大激論ですよ。大手町の新社屋のため、銀座のこの土地を売ってしまう、という。私は、二度と手に入る土地ではないから、売らずに担保にする。新社屋の建設資金は、私が工面すると、ネ」といった。
最後に「大正力ともいわれた方が、最近は、調子のいいことをいう者ばかり近付けて、私など直言する者は避けられる…」と述懐される。
だが、その務臺もまた〝調子のいいことをいう者〟ばかりを近付けていたようである。務臺コンピューターには、一度、ワル者とインプットされたら、そのデーターは消えない。愛(う)い奴となれば、もう、それのいいなりだ、と、側近のひとりがいった。
日テレ副社長の氏家追放の最後は、一年間の顧問という待遇だったが、副社長時代の、部屋と車と秘書を、そのまま使っていた。これが務臺の耳に入り、即刻、追放が下命された。読売社内では「ナベツネの謀略」という噂が、前の、女性問題の週刊誌記事の仕掛けとともに、流布されている。
大下に「月刊宝石」で叩かれて以来、渡辺は、マスコミ対策に真剣になってきた。社に顧問弁護士を依嘱し、かつ、マスコミに〝顔の利く〟大物たちと、交際の機会を探った。
テレビ朝日の謀将・三浦甲子二、地産会長・竹井博友、徳間書店・徳間康快(私と読売同期生)、東映社長・岡田茂らは、親しい仲だ。NHKの島圭次や、渡辺らは、これらのグループに入りたがっていた。
と同時に、読売の広告や販売を通じて、マスコミ各社とのパイプを作りつつあった。その片棒を担がされたのが、渡辺の先任副社長丸山巌であった、と思われる。
それには、こんな〝流説〟がある。
徳間康快らが、丸山、渡辺両副社長を招いた、という。その席で、ポスト・ムタイの話が出た。
「小林は、エリート官僚そのままで、何も決断できないからダメだ。社長は決断できねば、資質を疑われる」
「ポスト・ムタイは、小林を会長にして、丸さん。あんたがやってくれ」と、列席のみながいう。
「日本一の大新聞だから、やはり、それだけの器量が必要だ。オレは販売しか知らんから、ナベさん、あんただ」
「イヤ、編集出身のオレには、大新聞の販売は握り切らん。主筆こそが、新聞記者の最高位だから、それで充分」
六十三年十一月一日付の名簿では、渡辺は、務臺、小林に次ぐ第三位で、取締役副社長、主筆・調
査研究担当と、第四位の取締役副社長の丸山と、順位が入れ代わっている。そして、翌年の名簿では、丸山の名前が消えている。
読売梁山泊の記者たち p.024-025 電光石火の早業で渡辺は
六十三年十一月一日付の名簿では、渡辺は、務臺、小林に次ぐ第三位で、取締役副社長、主筆・調
査研究担当と、第四位の取締役副社長の丸山と、順位が入れ代わっている。そして、翌年の名簿では、丸山の名前が消えている。
丸山の名前が消えたのは、この渡辺と順位交代の名簿ができたころの十一月、例のリクルート事件である。日経・森田社長につづいてリクルート株が表面化し、退職に追い込まれた。
大下が、加藤常務の解任を、その日の朝知らされた、と書いているように、丸山の解任も当日だった、という。
読売の行事に、「青森—東京」駅伝というのがある。これが、経費が一億円かかる。そのスポンサーがつかなくて、役員会で、中止が議題になった。丸山は、業務担当だったから、最後の努力を求められた。そこで、リクルートの江副から「経費一億プラス広告五千万×三年間」計四億五千万、の話を決めてきた。
それには、前段があった。読売発行の「住宅案内」を廃刊する。リ社では「住宅情報」を出していたので、ムダな戦いをやめる、という過去があった。
話がまとまったあと、江副から、「株を持ってほしい」と、話があり、世話になった後なので、自分の金で買い、そのまま、所有していた。それが、突如、バクロされたのだった。
丸山は、務臺に諒解を求め、辞職の必要なし、ということで安心していたところ、すでに解任を役員会が決めていた。
渡辺は「丸さんが社長、オレは主筆に」と、すっかり、その気にさせておいて、対大下・光文社工作をさせたニオイがする。というのは、月刊宝石の六十二年九月より六十三年八月までの一年間、「新連載ドキュメント新聞三国史・実録務臺光雄」というのを、大下が書いているのである。
これは、どう見ても、五十八年九月号の渡辺批判の尻拭いであり、渡辺・大下の手打ちである。渡辺の強い抗議で、大下は、やや持ち上げのインタビューを、五十九年八月の「月刊現代」に書き、この実録務臺光雄で、大下の顔を立て、さらに、角川の単行本で、渡辺のオ提灯をつけた。
渡辺の対マスコミ工作は、まさに、アメとムチである。六十三年七月二十一日号の「週刊アサヒ芸能」誌が、「リクルートコスモス公開株の甘い蜜に群がった日経社長らマスコミ幹部二十三人の全リスト」として、渡辺の名前を出した。
激怒した渡辺は、直ちに、徳間書店と編集長とを、名誉毀損の損害賠償で一億円の訴訟を起こした。これは、十二月に入って、法廷和解となり、謝罪広告と和解金百五十万円(訴訟の印紙は五十万円余) で決着する。
覇道を突き進む読売・渡辺社長
務臺の死後、電光石火の早業で、渡辺は社長になる。その、就任披露の読売朝刊記事は、「メーン会場の鳳凰の間入り口で、小林会長と渡辺社長、正力亨社主ら…」とあるが、写真では、三番目に写っている正力について、説明はカット。
それよりも、大きな衝撃を受けたのは、平成三年六月四日の務臺光雄・社葬の際、葬儀委員長・小
林与三次、同副委員長・渡辺読売社長、同・坂田源吾大阪読売社長の三名が、先頭に立つのは当然として、「社主・正力亨」が、十二、三番目にひとりショボンと、うなだれて立っているのを、目撃した時であった。
読売梁山泊の記者たち p.026-027 〝政敵〟はいなくなった
それよりも、大きな衝撃を受けたのは、平成三年六月四日の務臺光雄・社葬の際、葬儀委員長・小
林与三次、同副委員長・渡辺読売社長、同・坂田源吾大阪読売社長の三名が、先頭に立つのは当然として、「社主・正力亨」が、十二、三番目にひとりショボンと、うなだれて立っているのを、目撃した時であった。
平成三年六月二十五日掲載の、株主総会後の人事記事でも、「取締役社主・正力亨」は、トップに出ている。その正力を、誰ひとりとして上席に案内しないのは、ナゼなのだろう。他の役員や幹部社員たちは、渡辺の眼の前で正力に近寄るのさえ、恐れているのではないのか。
もし、そうであるならば、これはもう〈恐怖政治〉である。
覇道である——大・正力松太郎の特別のコネで「出版局嘱託」として、読売に採用してもらった。恩義に対する、人の世の礼節に反する。
いま、読売社内では、部長以上は、渡辺に〝忠誠誓約書〟を提出させられている、と、まことしやかに囁かれている。
かつて、政治部記者時代、先輩の磯部忠男、三品鼎と対立し、若手を集めて派閥を形成したことがあった。その時、編集局長・原四郎は、三品を管理部門に出し、渡辺をワシントン支局に出した。外形的事実を見る限り、渡辺は磯部・三品に〝勝っ〟た。
大下のインタビューに、渡辺は、この政治部内の派閥闘争について「原さんはまた、ぼくを好きじゃなかっただろうけれど、いまぽくは、原さんとは非常に仲がいいですよ」と、答えている。
その原は、副社長から監査役を二期ぐらいやって、顧問一年ぐらいで、読売と縁がきれている。こ
れもまた、非情な待遇で、忘恩といえよう。
氏家と丸山は、週刊誌がバクロしたスキャンダルで失脚した。報知社長の深見和夫は病死し、竹井博友は、光進の小谷で失脚した。主だった〝政敵〟は、すべていなくなったのである。
竹井の〝事件〟が問題となりはじめたころ、「旨くいけば修正申告で終わり」「悪くても在宅起訴」というのが、司法記者たちの〝情報〟であった。
私は、竹井に手紙を書いて、「慎重に過ごされ、当局に恭順の意を表すること。読売関係の役職は辞任しないように」と、いってやった。竹井は、販売店の店舗を握っている読売不動産の社長であったから、これが〝抑止力〟になると考えていた。
さらに、〈王道〉を進む渡辺なら、一期だけでも、小林を会長、正力を社長にするのが、人間の道として当然、と考えていたから、竹井に〝抑止力〟を期待したのだった。
だが、渡辺は、覇道をまっしぐらに突き進んだ。四月三十日の務臺の死のあと、五月一日に社長に就任した。
ナゼ、こうも急いだのか? 正力家を意識したのであった。氏家や丸山が正力をバックアップして、自分たちの復権と同時に、〝王政復古〟の動きになることを、恐れたに違いない。
大阪の坂田、日テレの佐々木などは恐れるに足りない。ともに今期限りで追い出せる。深見、原は亡く、氏家、丸山だけのマークで十分だ、という計算であったろう。
報知の内田、販売の片柳、ともに社会部出身。それぞれに、その下に渡辺の腹心を配置して、これ
また今期限りだろう。読売ランドもまた然り。
読売梁山泊の記者たち p.028-029 渡辺の野望はどう展開
報知の内田、販売の片柳、ともに社会部出身。それぞれに、その下に渡辺の腹心を配置して、これ
また今期限りだろう。読売ランドもまた然り。
すると渡辺の野望は、これからどう展開するのか。
まず、倍額増資である。現在、読売の資本金は、六億一千三百万円だろう。一億五千三百万円だったのを、務臺が増資した記憶がある。
株主比率は、正力厚生会(理事長・正力亨)が、約四割、小林、関根、正力らの一族が約三割。務臺が二割で、残りの一割を役員たちが持って、社員株主は無くなっている、という。
読売の全資産は約一兆円。渡辺が増資を数回やれば、正力系では、現金がないし、また、作れないから、渡辺が金融能力さえあれば、正力家を超えて、オーナーになれる。
彼は、会長となり、乾分どもの社長を監視するだけ——まさに、覇道そのものではないか!
渡辺には、金に厳しいという評価のほか、女の話など、皆無である。その点は、中曾根にも、艶話がないのと、奇妙に〝暗合〟する。
だが、ここに、新しい問題が起きてきた。富士・東海銀行事件に登場する「荒川の運送会社」の正体が、暴かれ始めたのである。
平成三年十月三日の「週刊文春」誌の、「海外逃亡中の森本支店長代理、衝撃の独占インタビュー」がそれである。
《…出島運送は、富士銀行からも五百六十億円…特捜本部が注目している。
——出島さんへの金額は二百五十億と伝えられています。これは何回で?
『五、六回だと思います。出島さんはいろいろな政治家とか、税務署とかに力を持っているんです。読売新聞の運搬の六十パーセント以上を、彼のところの会社で握っているわけですから、読売にも影響力があるでしょう』》
この記事が出てから、読売紙面に注意しているのだが、「出島運送を切った」という記事は、まだ出ない。「週刊新潮」誌の指摘するが如くに、「新聞の宅配制度で、日本の知的水準が維持されている」と、豪語する渡辺社長として、この問題への対応は、ナゼか、緩慢である。
徳間書店を即座に訴え、氏家、丸山両名を、週刊誌の報道と同時に、追放した渡辺にして、出島運送問題の反応が鈍いのは、ナゼか。
富士・東海の融資額は、ザット八百億円以上に上る。まさか、読売社内でこのアブク銭に群がった人物は、いるとは思えない。
出島逮捕ののちに、そんな事実が出てきたら、渡辺・覇道社長の責任は免れないところであろう。
そしてもう一点。「週刊新潮」誌平成三年十月七日号が指摘する「新聞休刊日戦争」は、宅配制の崩壊と、合販制の必然を示唆している。十月七日の休刊をしなかった読売は、一部当たり三十円の手当てをだした。
一千万部を目前にした読売(九十一年・一月~六月平均ABC部数は、九百七十六万五千弱)は、務臺を失ったが、この部数が減少しはじめたら、これまた、渡辺・覇道社長の責任が問われよう。
読売梁山泊の記者たち p.030-031 第一章 章トビラ
第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎
読売梁山泊の記者たち p.032-033 シベリアから復員
戦地から復員、記者として再出発
「ナァ、ゆんべの女郎(じょろう)が、な」
三階のワン・フロアを、仕切りなしにブチ抜いた編集局は、入り口に立つと、局内全部が見渡せた。
午前十一時ごろ。まだ、夕刊はないのだが、局内は、男、男、男ばかりが、ギッシリと詰まって、電話が鳴り、怒鳴り声が響き、ワーンという音と、男臭さに満ちていた。
窓側の中央あたり、編集局長のデスクがあり、その前に政治部、その両側に、経済部、社会部。局長席の左手に、整理部と、重要な各部のデスクが並び、部長席は局長席を背にして並んでいた。
各部で、部長席だけが、肘掛椅子だ。部長のデスクに両脚をのせて、身体を深く沈ませながら、昨夜の遊廓ばなしを始めたのは、小柄ながら、精悍な顔をした、一課(殺人)担当の井形忠夫だった。
両袖机の部長の前に、片袖机が二列に向き合う、日本の事務所の典型的な配置だ。部長に近い四個の机が次長席、それにつづいて五個ぐらい、両側で十卓ぐらいが、誰の机とも定められていない、遊軍(本社詰め記者)席である。
その一番の外れでは、山田鉱一、桑野敬治などという、主力記者たちが、電話帳をめくっては、ページ数で、オイチョカブのバクチをしていた。バクチといっても、他愛のない掛け金で、コーヒー代ほどのもの…。
——まだ、午前中だというのに、部長机に足を投げ出した男が、イロばなしを声高に、また一方では、
オイチョカブで、硬貨のやり取りをしている。
シベリアから復員してきて、復社したものの、戦後入社のハリキリボーイたちの中で、社歴だけの先輩にすぎない私も、ようやく、そんな殺伐とした、編集局の風景に、馴染みだしていた。
「オイ、この野郎、退け!」
そんな伝法な口調で、井形に怒鳴ったのは、出社してきた社会部長の竹内四郎だ。井形は、振り向いて、部長の姿を認めると、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。
ボルサリーノかなにか、高価そうなソフト帽を冠った部長は、恰幅のいい身体に、仕立てのいい背広を着て、皮製のブリーフ・ケースを持っていた。一見、大会社の役員風で、今考えてみると、たいした年齢でもないのに、堂々たる貫禄を、シックに装っていた。
七、八十名の部下を持つ社会部長も、出社してきても、帽子や鞄を受け取る女性秘書もいないから、自分で、部長席のうしろの、帽子かけの枝にヒョイとかけざるを得ない。
太いコンクリート柱にもたれた、薄汚い水屋から、飯場の茶わんのような欠け湯呑に、ぬるいお茶を汲んで、夜学に通う給仕(坊や、と呼ばれる)が手盆でさしだす。
デスクの端っこには、ザラ原(ザラ紙をA5判ほどに断裁し、天のりしただけの原稿用紙)が積まれてある。それを四、五枚取って、井形が足をのせていたあたりを、これも自分で拭き取る。
やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)
が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。
読売梁山泊の記者たち p.034-035 二ページ一枚ペラの時代
やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)
が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。
部長に会いたくなければ、部長が編集局の入り口に現われたら、裏階段から、お茶をのみに出かけてしまえば、それで済む。
まったく、満目緑草中紅一点で、女性ときたら、文化部にひとりかふたり、しかも、妙齢をはるかに過ぎたほどの人だ。まだ、婦人部もないころだった。
男ばかりの生活だから、机のカゲには、下げ忘れた出前の皿がホコリをかぶり、夜にはネズミが走りまわる。
不揃いの机が並び、電話線を、床と空間にめぐらせ、伝言ビラがブラ下がり、決まった自分の席さえもない職場である。
こうした情景は、いまの大手町の清潔な社屋にいる記者諸君には、想像を絶するものがあろう。まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。
それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。もしかしたら、〝新聞屋〟であったかも知れない。新聞は、ニューズ・ペーパーであったことは、確かである。
しかし、昭和十八年の、たぶん戦前最後の「読売新聞社職員名簿」を見ると、まず、参事、副参事といった、身分制がある。欧米部と東亜部があって、軍の要請(というより、命令であろうか)で、その戦火の拡大とともに、支局、通信部が、アジア全域に展開していることがわかる。
当時の新聞記者は、新聞記者である以前に軍の報道班員であったのである。私も、同期の青木照夫(報知編集局長で57・3・21没)が、入隊のため長崎に帰るのを見送って東京駅で別れるとき、「オイ、陸軍報道部付将校として、再会しようじゃないか」と、握手したのを記憶している。
〝皇軍の聖戦の大勝利〟の原稿を書き続けていた人たちが、いのちからがらに逃げ帰って空襲に社屋を焼かれ、転々としながら、ようやく、有楽町駅前の「そごう」の旧ビルに、「読売報知新聞」(戦時中の統合)の題号から、「読売新聞」に戻ったところだった。そごうのビルは、報知の社屋だった。
戦時中の学生時代、私にとってバイブルは「小山栄三・新聞論」であった。「社会の木鐸」などという言葉は、その本の中にあったかも知れないし、なかったかも知れない。
衣食住ともに、まだまだ厳しく、新聞用紙は割当制で日刊紙でも大判二ページ。一枚ペラの時代だった。
十八年の名簿の休職の項に、青木、三田、山根と、三人の同期生が出ており、現役の末尾に高橋、金口、福手と、これまた同期が三人いる。このほか、整理部の末尾に、徳間康快の名前が見える。あと三人、同期生がいるハズだが、記憶が消えた。
二十三年の名簿では、山根、福手、徳間の名前がなくなり、青木、高橋の二人が、依然として休職。シベリアから、まだ、帰ってこなかったのだ。
私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復
員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。