しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。
五 秘密戦の宣戦布告
二十二年四月、引揚が再開されて八日に明優丸、十日に大郁丸、十二日に信洋丸、十六日に米山丸、十九日に永徳丸と、引揚船は陸続として入港してきた。ところが、一船、二船の明優と大郁には元将校がまじっていたのに、三船の信洋丸からは元将校は一人もいなくなった。
ソ連では元将校の帰還をやめ、特別教育をしているという説が出て、日本人顧問団ではこれはオカシイとニラんでいた。五月になってウラジオの将校団が引揚げてきた。その中で長野県出身の酒井少尉という若い元軍医がCICに散々にしぼられていた。
『何も俺だけシボらなくてもいいだろう』
この若い元少尉は疲れ切って、しまいには腹立たし気に、訊問官の寄地(ヨリヂ)少尉に喰ってかかった。ピンときた寄地少尉は訊問を打切って顧問団に相談した。そこで、顧問団の一人が代って訊問し、カマをかけた。
『ソ連のスパイになるという誓約をしてきた男がいるか?』
『居る』
酒井元少尉はつい答えてしまった。
『それは誰だ?』
『……言えない』
たたみかけてくる質問に、酒井元少尉はハッと気付いて、固く口をつぐんでしまった。見込みがあるというので、調べ官は爪生(ウリウ)准尉に交替することになった。
そのころのCICは、すでにテイラーに代って、二世の山田(ヤマダ)大尉となり、その部下では瓜生と高木(タカギ)という二人の准尉が中心で、この二人の功名争いがはげしく闘われていた。また顧問団の主任ともいうべき前田元大佐は、園木という偽名を使っており、さらに匿名の三羽烏をそのブレーンにしていた。この三羽烏の日本人は、二人が元憲兵で他の一人は満洲育ちというらつ腕家揃いで、前田元大佐によいアドバイスをしていた
さて、瓜生准尉の手に渡った酒井元少尉は徹底的にしめ上げられた。酒井元少尉はついにおちた。あまりな精神的打撃に一切を告白した。ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的になってきたのである。