投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.058-059 三体が同時に解剖されている

読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された
読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された

十六歳、二十二歳、二十八歳という、女性の肉体の大きな変化の時期に当たる、三体が同時に執刀

された。執刀医と助手の記録係とがいる。着衣を脱がされて、全裸になる。

青酸カリによる死亡だから、苦悶の姿のまま、硬直している。執刀医が、全身を調べて「外傷ナシ」というと、記録係が、「外傷ナシ」と復唱して、記入する。

次は、ガラス棒を膣内に入れて、検体を採る。外陰部も調べ、検体をプレパラートにのせて、顕微鏡を覗く。精液が認められない。

「暴行ノ形跡ナシ」

次は、髪を前半分、顔面におろして、耳から耳へ、頭皮を切り、髪を引ッ張ると、頭皮はスルスルとめくれる。後半分も、同じようにおろすと、頭蓋骨が出る。

耳の上の部分、両側にノコで切れ目を入れて、ポンポンと軽く叩くと、頭骨が上半分脱れて、脳が露出する。それを、全部取り出してから、また、頭骨をあてがい、アゴのあたりの髪を軽くもどすと、スルスルと戻っていって、顔が見える。頭皮を縫合して、髪をすくと、元通りになる。

ノド仏のあたりから、真直ぐ、胸、腹、ヘソをクルリと避けて、大陰唇の縫合部あたりまで、メスで、まず、皮膚を切る。

皮膚、脂肪、筋肉と、メスを換えながら切開する。胸骨も、バリバリと切る。と、ドテラをはだけたように、内臓が露出する。肺や胃や、子宮などを摘出して、中身を調べる。

内臓を取り出したあと、然るべきものを詰めてから、縫合する。タタミ針のような針で大ざっぱに縫う。血が若干、白い肌に付着している。それを、当時、東大法医学教室の名物男だった、〝ノートル

ダムのせむし男(フランス映画の題名)〟のような男が、バケツの水をかけて洗い流す。

そしてまた、着衣をつけさせて、台上からお棺に移す時、もう、硬直がとけて、イヤイヤをしているように、両腕を振るのが印象的だった。

二、三メートルの距離で、三体が同時に解剖されている——まさに〈人体生理の秘密〉を目のあたりにして、私は、サイドカーで雨に打たれたことなど、まったく、忘れ去って感動に佇立しつづけていた。

この時、サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だったが、もう、途中で退室してしまっていた。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝されたことも、私が、コシケンに可愛がられるにいたった、理由のひとつでもあるだろう。

母親が病死したあと、幼い弟妹の面倒を見ていた健気な少女が、父親に犯されて、猫イラズで自殺した事件があった。

その少女は、読売の人生案内に投書して、回答者の真杉静枝女史(作家)が、それを読んだ時は、すでに手遅れで、「イヤらしい父親」(回答の見出し)の段階から、破局へと進んでいたのだった。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

読売梁山泊の記者たち p.060-061 井野康彦の下で国会遊軍

読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。
読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

「女の身体って、美しいわネ。…それに比べると、男のはイヤ、男の屍体は醜いわ」

そんなころ、上野署の防犯係に、ひとりの男がやってきた。望月正吉という、若い刑事がいた。北支は保定の予備士官学校で、一期後輩という関係もあって、親しくしていた。彼は、のちに警視にまで進み、いまは、明星食品会社にいる、と聞いている。

彼が、私にいった。「あの大将の姪が、女子医専にいるんだが、付近の女医さんのところに入り浸りで、困っているそうだ。その相談だけど、女医さんならいいじゃないか…」

法医学づいていた私には、この話でピンとくるものがあった。ある女のサギ師が、裁判所からの鑑定依頼で、東大に送られてきた。「性別は男性か、女性か」というのだ。女サギ師は、実は男性で、半陰陽だったのだ。その性器の写真は、一見〝女性そのもの〟だったが、尿道下裂症という状態で、もちろん膣口さえなかった。

私の取材は、すぐ始まって、その女医が次々と、女性の愛人を作っていることが、明らかになった。上野署に相談にきた伯父は、女医を、不法監禁、わいせつ誘拐、脅迫等で告発した。

「…半陰陽という、不幸な宿命を負って生まれた女医と、数人の女性とのナゾの交渉が明るみに出され、第三者には容易にうかがい知ることもできぬ、人間愛欲の姿が、世の批判の前に投げ出された。告発者は『社会悪を撃つ』といい、女医は『愛情の自由と権利』を主張する…」という前文で、その記事は始まる。

最後には、伯父の許に脱出してきた姪は、女子医専を中退してしまっていたが、彼女自身の、医者

の卵らしい表現で、「女医は男性仮性半陰陽(見てくれは女性だが、男性)だった」と、告白して、私の記事の裏付けとなってくれた。

この女医の取材の時のカメラマンは、だれであったか忘れたが、フラッシュが光った時に、ちょうど、女医がタバコをくわえて、ライターが光った時だったので、〝彼女〟は、すぐには気が付かず、カメラマンは、その一発だけで、さりげなく逃げ出していた。エンジンを吹かしつづけていた車で…。

前にも書いたことだが、井野康彦の下で、国会遊軍をやったのが、私の〈政治開眼〉であった。しかも、ここで、政治部、経済部の記者たち(他社も含めて)との、交流が始まったのだった。

その時の〝処女作〟が、〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。

天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

そして、ふたりは結婚した——父君の嘆きぶりは、正視できなかったのを覚えている。労農党の代議士が、自由党のプレイボーイ代議士(しかも、既婚だった)に、さらわれてしまったからである。

新婚旅行から帰ってきた二人を取材したのは、私である。この時、天光光の着ていた着物を、「駒撚りのお召」と、書いたのだ。デスクに、「どんなお召だ?」と聞かれて、返事に窮した。

というのは、取りつくしまもない天光光に、どうしたら口を開かせるか、と考えて、私の第一声は、「ステキなお召物ですネ」と、彼女の着物についての質問だったから…。

読売梁山泊の記者たち p.062-063 読売を去った徳間康快

読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。
読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。

〝白亜の恋〟の第一報は、井野のスクープで、私は下働きだったが、この記事から、各社(雑誌も)は、ヒロインの服装について、触れるようになってきた。昭和二十四年十二月のことだ。

翌二十五年春、竹内四郎の社会部長時代は終わる。戦後の混乱期も、ようやく納まりはじめて、朝鮮動乱による、経済復興の時代がくるのである。

それまでの紙面は、労働争議、共産党の騒ぎ。引き揚げでは、人民裁判や暁に祈るといった、同胞相剋の事件がつづいて、暗い、重苦しいものだった。

服装だって、園田直が松谷天光光を口説いたころの国会議員も、戦争の名残りをとどめて園田は、戦車隊の半長靴でドタドタと、天光光は、カスリのモンペ姿であった。

だが、二十五年、原四郎が文化部長から社会部長となり、竹内四郎が、その栄転のために新設された、企画調査局長となると、紙面もガラッと変わった。

「戦後、強くなったものは、靴下と女」という、警句に表現されるように、女性と愛情の問題が、大きな社会現象になってくる。

警察廻りを、短期間で卒業し、司法記者クラブ一年。国会遊軍と、本社遊軍を兼務していた私には、オール・ラウンド・プレイヤーとしての、忙しい毎日がつづいた。

争議に関連して読売を去った徳間康快

昭和二十年八月十五日未明、長春南郊外のタコツボにひそんで、有力なるソ軍戦車集団の来襲を待

ちながら、間違いなく、死に直面していた——天皇陛下万歳とは叫ぶ気がしなかった。愛する女性の名を呼びながら、集束手榴弾で戦車に体当たり…そんなひとの名前は、どう考えても思い浮かばない。

お母さーん!

敗戦の八月十五日昼、私は新京(長春)にいた。正午。錦ケ丘高女の校庭に、中隊は整列した。感度の悪いラジオで、戦争が終わったことを知った。

——また、読売に戻れるんだゾ!

湧き起こる希望に、敗戦の悲壮感は、まったくなかった。激しいスポーツに、ベストをつくして敗れた感じだった。しかし、敗けたということは、つぎに勝つ、という希望につながってくる。

——質屋へ入れてきた背広、流れたかナ?

一週間ぶんの新聞が、まとめて二週間遅れで、北支の駐屯地に配達される。

フト、広げた「華北新聞」の社会面トップに、「東京の地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員(注=徳間書店社長)は、こう報じている」とあるのを見て、同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。

——徳間の奴に、差をつけられたナ。

シベリアに送られる貨車の中でも、私は、「読売新聞シベリア特派員」だと、そう考えていた。丸二年の捕虜から、社へ戻った時、徳間は、第二次争議で退社して、東京民報の営業に移り、さらに、埼玉新聞へと行く。

読売梁山泊の記者たち p.064-065 退職金代わりに題号をもらった徳間

読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。
読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。

私は昭和十八年十月の読売入社であったが、戦前の実歴は、わずか一カ月。十名入社したほとんどが、間もなく入隊する。たしか、八名ぐらいが、社会部に配属されたが、慶応大学の「三田新聞」をやっていた青木照夫と、劇団の宣伝部で、新聞作りをしていた私との二人が、即日、働ける新人であった。

徳間康快は、同期でも、ひとり整理部に配属されて、とうとう、兵隊に行かなかった。そして、幸か不幸かの結論はまだだが、戦後の二度の、読売争議に関係して、読売を去ることになる。私も青木も、二度目の争議が終わった時に、シベリアから帰ってきたので、読売を辞めずに済んだのだった。

もしも、兵隊に取られずに、社に残っていたならば、私は、鈴木東民について、郷里の岩手県、釜石か盛岡に落ちていっただろう。

徳間の〝幸運〟は、読売を辞めて、左翼系の「東京民報」に入り、しかも、営業に移ったことにある。彼は、ここで、〝商売人〟としての力をつけた。

新聞社で、エラくなるには、編集ではダメなのだ。販売で、商売を覚えねばならない。原四郎が、出版局長になった時、局内外の不評は、相当にキビシイものだった。「週刊読売」などという、いまだに垢抜けない、赤字雑誌を抱えていながら、販売の会議には出ても、あとの宴会には出ないのだ、という。

販売店のオヤジたちとなんか、酒が呑めるか、という、原四郎のプライドが、欠席の理由だった、とか。それこそ、務臺光雄のバックアップがなかったら、原四郎も、出版局長止まりだったかも知れ

ない。

徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売でも、「娯楽よみうり」などという、週刊紙を出したりした時代があったが、この「アサヒ芸能新聞」も、同じようにツブれた。

その時、退職金代わりに、この題号をもらった徳間は、独立して、「週刊アサヒ芸能」という、いまのスタイルの週刊誌にした。新聞スタイルを止めたのだった。そこに、「週刊新潮」の創刊などで、いわゆる〝週刊誌ブーム〟が起きて、アサ芸も軌道に乗った。

さらに、徳間と平和相互銀行を結びつける事件が起きる。平相の小宮山一族に、南方の島に勤務していた、海軍中尉がいた。読売の海軍報道班員だった、社会部の藤尾正行記者は、この男と仲良しになった。

平相の小宮山英蔵は、政治家とのコネを求め、藤尾の第一回の選挙などは、相当な応援をした、という。人によっては、〝平相の丸抱え〟だったともいう。このあたりが、平相と福田派との、付き合いの始まりだ。

だが、当選してしまうと、英蔵の思う通りには動かない。そこで、弟の重四郎を政治家にすることになる。その第一回の選挙は、徹底した金権選挙であった。もちろん落選ではあったが、埼玉県警の違反摘発が進む。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、 ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

読売梁山泊の記者たち p.066-067 徳間の大活躍が始まった

読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。
読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、

ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

買収工作の運動員たちが、次々と逮捕され会計責任者にまで及んだ。県警は、竹田社長の事情聴取から逮捕、つづいて候補者という構想でいた。ここで、徳間の大活躍が始まったのである。

もう、故人となったが、公卿華族の出で、警察に滅法カオの利く、芝山元子爵を徳間が担ぎ出す。学習院で、竹田社長の同期生だ。芝山は、県警本部長を訪ねて、「かりにも元皇族だ。そんな方を警察に引っ張るのか」とハッパをかけた。

小宮山派の違反は、そこで終わった。新聞雑誌に叩かれるばかりだった英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

徳間も、新聞記者であった。しかし、彼が定年まで読売にいたら、これだけの力は持ち得なかったろう。やはり、商売の世界に入っていったからである。

新聞記者は、事実、カオが広い。だが、所詮はサラリーマンだから、商売には弱い。最後のツメが甘いのである。

正論新聞で、オートボールペンの倒産を取り上げたことがある。すると、警視庁クラブ時代の旧友、朝日紙の万代(ばんだい)記者が、訪ねてきた。ナントカ企画といったような名刺だったが、結局、二人で酒を呑んで、彼は不得要領な話をして、帰っていった。

同じように、朝日紙の央(なかば)忠邦という、創価学会記者がいた。彼が、もう一人読売だかの

記者と組んで、昭和六十一年七月の同日選で、奄美群島区の徳田虎雄候補の参謀を勤めたらしい。

二度目の挑戦だし、下馬評では徳田が保岡に勝つ、それも、公明票を押さえたからだといわれていた。そのあたりも、央が働いたらしい。

ところが、投票直前、保岡は二階堂に頼み、二階堂は竹入に頼んで、徳田に傾いていた公明票を、ひっくり返してしまった。票差は、わずか三千三百。徳田は敗れた。徳田の勝利を祝うため、鹿児島まできていた央らは、電話で、「ツメが甘いんだ!」と怒鳴られ、奄美大島へは渡れなかった。

いま、私も、ある程度の人生を生きてきてしみじみと思うことは、仕事も健康も、努力のあとは、運賦天賦。だれにも〈運命の一瞬〉を、どうつかむかの違いであろう。

激戦地へ行く奴もいれば、後方で、ノンビリする奴もいる。新宿のローカル紙「ニュー・シティ・タイムズ」を見ていたら、新宿の戸塚安全協会長になった、石油屋の大家萬次郎が、「ひと」欄に出ていた。

彼とは、北支・保定の予備士官学校の同期生。ところが、卒業の時に見当たらない。のちに聞けば、一族に将軍がいて、豊橋に転校して、卒業後は、京都連隊区付の見習士官。祇園の芸奴置屋に営外居住して、舞妓たちに竹槍の銃剣術を教えて、戦争が終わった、という奴である。

だが、私にだって、運はツイていた。新京特別市で終戦となり、在留邦人婦女子の保護をしながら、居抜きの家をまわっていて、日用日露会話という、ポケットブックを拾ったものである。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。

読売梁山泊の記者たち p.068-069 サツ廻りを卒業して共産党担当記者へ

読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。
読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。

こうして「読売新聞シベリア特派員」の取材が始まり、「シベリア印象記」という、初の署名原稿が生まれたことは、前に書いた通りである。

この記事は、その日の記事審査日報で、けっこう褒められたのだった。「この方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上で、シベリアの一部分だけの面であるが、しかし、限定されているだけに、内容が詳しく、かつ、新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では、読ませる紙面となった」

社内でホメられるだけに、外部に与えた印象も、相当なものだったらしい。私の記事が昭和二十二年十一月二十四日付。これに対し十二月二十六日付の「労働戦線」(全日本産業別労働組合会議機関紙)は、第三面トップに、駐日ソ連代表部・対日理事会ソ連代表のキスレンコ中将の、「職業的ウソツキ」という、コメントを掲載した。

《たとえば、つい最近、読売新聞前記者ミタ・カズキの記事であるが、この職業的なウソつきは、ソ同盟の人びとは、「クギ抜きの道具の使い方を知らない」とか、「ライターなるものを見たことがない」と、馬鹿げた話を書いている。

彼はおそらく、気狂いだけに、真実といって示せるような、馬鹿げた断定を、行っている。このようなデマ製作者は、ソ同盟にある機械や自動車の大部分が、アメリカの製品だともいっている》

こうして、私は、〝反動読売の反動記者〟というレッテルを、左翼陣営からはられたのであった。

そして、サツ廻りに出されると、担当が、日本橋、上野、浅草、谷中、坂本の五署だったが、やはり、上野署が中心。その上野駅に引揚列車が着くたびに、「代々木の共産党本部へ行こう」という、アクチブ(軍事俘虜のなかの積極分子)のアジに、出迎えの家族との間で、トラブルが起きはじめた。

この現象を、竹内社会部長に報告して、私は、サツ廻りのクセに、代々木の党本部まで取材に行き、「代々木詣り」という新語の記事を書いた。

私はいつの間にか、サツ廻りを卒業して引揚記者となり、共産党担当記者へと、成長していった。当時、警視庁では、捜査二課三係が日共担当で、私は、警視庁クラブ員ではなかったが、三係長の鈴木広次警部とも親しくなり、クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。

参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

私の取材範囲は、特別審査局(のちの公安調査庁)にまで広がった。もう、一人前の公安記者に成長していた。

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

読売梁山泊の記者たち p.070-071 読売の映画演劇記者だった河上英一

読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」
読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

学友、戦友、社友の、親しかった人たちの集いだったが、朝日カルチャー・センターで文章指導教室の講師をしていたこともあって、その〝教え子〟ともいうべき中高年の女性たちの姿も多かった。

そのなかで、元社会部記者は、ホンの数人しかいなかった。まして、他社では、私と、東京新聞から電通にいった新貝博の二人だけ。幹事の伊藤牧夫(朝カル社長)、小池助男と四人の社会部が、岡崎を偲んで、〝古き良き時代〟ともいうべき、昭和二十年代、三十年代の、社会部記者・談義に、花を咲かせた。

助サンこと小池は、司法記者クラブ時代の朝日記者。もうひとり、相沢早苗という、朝日記者がいた。私より、二人とも、少し先輩だった。

相沢も、小池も、司法クラブでは、敵方であったが、仕事を離れたら、良い男たちである。ことに、相沢は〝恋仇〟でもあった。

というのは、戦前の児童演劇仲間に、有馬正義という慶応の学生がいた。私が世田谷代田、彼が池の上と、家も近かったので、その自宅に、よく遊びに行った。

彼の妹の、恵美子という女性が、日劇ダンシングチームにいて、ひそかに、想いをよせていたのだったが、シベリアから復員してみたら、相沢と結婚していたのだった。

彼女は、戦争の拡大とともに、日劇を辞めて、朝日新聞に入り、相沢と知り合ったようだ——が、敗戦から、丸二年も遅れて、復員してきたので、戦前に知っていた女性たちはみなもう、人妻になっていた。

また、同じころ、新宿の呑み屋「利佳」で、読売の古い映画、演劇記者だった、河上英一に会った。八十歳だというのに、お元気である。

児童演劇のチラシをもって、読売の河上、都新聞(現・東京新聞)の尾崎宏次両氏のもとに、良く出入りしていた。私が、読売に入社して、社内でバッタリと河上に出会ったことがある。

「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

河上は、連れの阿木翁助(日本放送作家協会理事長)に、この話をして笑った。それから、戦前の、演劇青年たちのメッカであった、新宿のムーラン・ルージュの話が、始まった。阿木は、その座付作者だったから。

いまでも、記憶が鮮やかな、スターの明日待子。ワンサだったけど、憧れていた、市川弥生、五十鈴しぐれ…。

「あの市川弥生が、文芸部の金貝象三と結婚していたのは、ショックでした。それと、新協劇団の清洲すみ子が、村山知義夫人でしたからね」——戦時下に、少年が恋心を寄せた麗人たちは、みな、シベリアから帰った時には、結婚してしまっていたものである。

伊藤とは、昭和三十二年の売春汚職事件でのライバルである。市川房枝女史と、紀平悌子秘書(現参議院議員)の争奪戦を展開していた仲である。そのころ紀平と、弟の佐々淳行(元内閣安保室長)の三人でよく銀座を呑み歩いたものだ。

読売梁山泊の記者たち p.072-073 取材力と表現力は車の両輪

読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。
読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

東京新聞の新貝とは、警視庁記者クラブの友人だ。だが、聞いてみると、岡崎とは、白金小学校の同窓だという。すると、完全なヨソ者は、私だけということになる。

私と新貝とが、岡崎の想い出話を話し合っていたら、傍らのレディが二人、「岡崎先生とは、どういうお知り合いで? 朝日新聞の方ですか」と、話題に入ってきた。

「私は、娘も嫁いで、階下に娘夫婦、二階に私一人という生活なので、文章が上達すればと、岡崎先生に教わっていたのですが、六十の手習いで、なかなか…」

それに対して、新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私も、中学二年の時に、築地小劇場の楽屋で清洲すみ子に、「風とともに去りぬ」の初版本を貸してもらった。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。

同じように、毎日社会部記者から独立して作家になった、千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

文章力というのは表現力である。しかし、新聞記者に求められるものは、同時に、表現力のもとになる、取材力である。取材力と表現力は、車の両輪に例えられる。

明治時代の〝新聞記者〟像は、「探訪」と「戯作者」の分業制である。探訪は、取材担当で、戯作者が表現担当だ。そして、その名残りは、昭和二十年まで、尾を引いて、古い記者には、どちらかしかできない、という人たちが多かった。

取材力というのは、対人的には、心理作戦である。大きな疑獄事件などが起きると、必ず新聞は、○○検事は、被疑者××をオトシた(自供させた)などと、見ていたように、若い検事と、老練な政治家や財界人との、調べの様子を書いたりする。

「新聞(記者)は、見てきたような、ウソを書き」という川柳がある。しかし、自分の取材体験を下敷きに、検事の片言隻句の話から、調べ官と被疑者の対話が、ある程度はイメージがつかめるのである。

リクルート事件が終わった時、東京地検特捜部の堤副部長が、仙台地検の次席に転出した。堤検事は、リ事件の端緒となった、楢崎弥之助議員への贈賄容疑の松原弘の、係検事だった。松原が、とうとう全容を自供しなかったので、堤副部長の転出は、左遷だというもっぱらの噂である。

対人的に、取材力とは心理戦争だ、というのは、相手に、真実をしゃべらせられるか、どうか、ということだからである。

対物的には、広く浅く(深いにこしたことはないが)、森羅万象に通じていること。つまり、話の裏付けになる証拠を、探し出してくることもできる、基礎知識である。「そういうもの」が、どこにいけば、入手できる可能性があるか。だれにきけば、どうすれば、いつならば…と、新聞記事の基本である、五W・一Hと同じことを、予見できる能力である。これが取材力である。そしてあとは、その運用、つまり、場数(ばかず)を踏むこと、経験の蓄積である。

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ち

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」
読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」

私の初の署名記事、「シベリア印象記」とそれに反論した、キスレンコ中将のコメントとで、私は、たちまち、〝反動読売の反動記者〟として、名前が売れてきた。

いま、スクラップをひろげてみると、まず読売系の雑誌、「月刊読売」には、毎月のように、セミ・ドキュメンタリーとして、ソ連物から、共産党物にいたるまで、〝小説もどき〟を書いている。

「読売評論」から、「科学読売」にいたるまで、さらに、講談社の「キング」「講談倶楽部」から、「モダン日本」「夫婦雑誌」「探偵倶楽部」とつづく。

ことに、当時の国家地方警察本部の、村井順警備課長の推せんで、警察大学で講演したので、警察図書の立花書房の、「月刊・時事問題研究(警察官の実務と教養)」に、毎月書くようになった。

「モダン日本」の編集部には、若き日の吉行淳之介がおり、私の「赤色二重スパイ」という、原稿の担当であり、双葉社の編集には色川武大がいたりした。

村井順は、のちに、緒方竹虎に信任されて初代の内閣調査室長。退官後は、総合警備保障を創立して、社長となった。警備会社の草分けである。

こうして、警備公安畑で名前が売れてきたうえ、一年の法務庁(のちの法務省)での、司法記者クラブ詰めから、公安検事に人脈ができてきた。

吉河光貞検事が、初代の特別審査局(特審局、のちの公安調査庁)長となった。調査第一課長が吉橋、第二課長が高橋の両検事が、その下にいた。

そのころのことである。吉橋課長が、ある時、真顔でいったものである。

「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。私のほうで入手した文書によると『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている。どの段階での指令とかどんな文書か、などという、具体的なことはお話できないが…」

「ありがとうございます。十分に気をつけるようにいたしましょう」

吉橋検事は、私が、あまりビックリしないのが、やや不満そうであった。

また、岡崎文樹の話に戻るが、さる六十二年一月、前年暮れの定期検診で、右肺門部に異常を発見して、精密検査のため、彼は、息子のいる名古屋記念病院に入院した。六時間近い手術を受け、二月十日に退院してきた。

三月ごろのことだったろう。日刊スポーツの編集担当役員として、職場復帰していた彼と、銀座のクラブで、ゆっくり話し合ったことがある。その時、彼は、すでにガンと知っており、長くはない生命と覚悟していた。

その日の話は、華やかに嬌声のこぼれるクラブだというのに、淡々と、ふたりは「死生観」について語っていた。同じ戦中派として、一度は死を覚悟した体験を持つ。

「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ちは、諦観というべきか、達観というのか。いずれにせよ、安定した精神状態である。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

読売梁山泊の記者たち p.076-077 悔いのない〈死〉

読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。
読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。

と、教誨師が、最後のザンゲにやってきてキャグニィに頼みこむ。「あなたは、不良少年たちのヒーローなのだ。電気椅子に座る時平然としていないでくれ。泣きわめき、のた打ちまわって、叫んでくれ。ヒーローの哀れな末路が、彼らの更生のためにもプラスになるから」と。

キャグニィの悲惨な〝末路〟を、映画はシルエットで映し出し、立会人たちは、失望感をあらわにする。

岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。〝赤色テロ〟の合法的抹殺! それも、仕事のためであるなら、悔いのない〈死〉である。

朝日の岡崎だけでなく、毎日の岩間一郎・社会部記者のことも、書いておきたい。

昭和六十二年八月十一日付号の正論新聞には、同年七月十三日の岡崎と、八月十二日の岩間の二人が、ガンで亡くなった記事が、出ている。岩間は、司法記者クラブの仲間だ。

岩間は、七月二十日付のハガキを寄越して「…七月十二日に退院しました。また、放談できる日を期しております」と、元気な、見馴れた文字で、書いていたのだった。

岩間とは、呑む機会を得ぬまま、逝かれてしまったが、岡崎とは、その機会があった。だからこそ、「死生観」についても、語りあえたのであった。

兵役、戦争、敗戦、捕虜、帰国、復職と、足かけ五年にわたる、大きな人生の起伏があったのだから、「死」についても、やはり、それなりに考え方が出てこよう。

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

読売梁山泊の記者たち p.078-079 元旦の夜から徹夜マージャン

読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。
読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

いい仕事、いい紙面だけが勝負

昭和二十年。敗戦とともに、戦時中の新聞統合は崩れたが、新聞用紙は割り当て配給制だ。各紙同じスタートラインなので、戦前の〝朝毎〟時代は終わったか、と思われたが、やはり、朝・毎は強かった。

私は、昭和二十年代を、朝日・毎日時代と見る。昭和二十七年、大阪読売を発刊して、おくれ馳せながら、全国紙体制を整えた読売が加わって、昭和三十年代は、朝・毎・読の三紙並列の時代。

そして、昭和四十年代が、毎日が凋落して朝日、読売、毎日の時代となり、同五十年代には、それが決定的になって、朝日、読売の二紙拮抗の時代。さらに、六十年代になると読売・朝日の時代へと進んでゆく。

その、読売の飛躍のバネを、私は、前に〝読売の非情さ〟と、指摘した。私が、昭和十八年に、読売を撰択した根拠は、多分、朝毎に対し、追いつき、追いこせの、バイタリティあふれる、読売にひかれたのであろう。

読売には、学閥がない、派閥がない、と聞いていたからでもあろう。いうなれば〝荒野の七人〟だったのである。事実、昭和二十二年、シベリアから復員してきた私が、読売社会部に復職してみて、その〝雑軍〟ぶりに驚いたものであった。

経歴不詳、前職不明。文字通りの〝エンピツやくざ〟が、社会部記者と称していたのであった。明

治時代の新聞記者が、役者の〝河原乞食〟と同列に、「探訪」と「戯作者」に分類され、「職業の貴賤」のうちの、「賤」に位置していたことを、ほうふつとさせるものがあった。

社会部記者の華は、〝金と酒と女〟の結果の「事件」であった。だから、当時は、原稿の書けない記者が、ゴロゴロしていた。それでも、〝金と酒と女〟とに原因する事件だけは、嗅ぎつけてくるのだ。

その、〝エンピツやくざ〟百名を統轄する社会部長が、〝やくざ〟さながらの、府立五中、慶大卒の竹内四郎であった。竹内ならでは、あの〝梁山泊〟そのままの社会部を、率いることは、できなかったであろう。

正月には、逗子の竹内家に、社会部員が連日やってくる。元旦の夜から、徹夜マージャンである。竹内部長は、部下たちから、容赦なく、賭け金を取り立てる。実際、強引な打ち方で強い。

部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。

部下たちは、疲れ切って、東京に帰ってゆく。金がないから、社へ出て、取材費の前借伝票を書いて、デスクに出す。ポンとハンコを押す。編集庶務へ行くと、その伝票は現金になる。そこで、仲間同士で、大福帳の精算をする。

松が取れたあたりから、竹内部長は、「オイ、あの件はどうなった?」と、ハッパをかけ出すから、〝エンピツやくざ〟たちは、駈けずりまわらざるを得ない。

これが、昭和二十年代前半の、読売社会部のバイタリティだったのである。

読売梁山泊の記者たち p.080-081 ヒットのほとんどが辻本の作品

読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。
読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

そして、そのあとを継いだのが、文化人・原四郎である。戦後の混乱期も、ようやく安定化に向かいはじめていた。情に溺れず、能力だけを買う、原の施政方針は、いつの間にか、〝エンピツやくざ〟たちを、自然淘汰していったのであった。

昭和二十年代の、朝日・毎日時代から、三十年代の、朝・毎・読時代へと、二流紙読売を、一流紙に押し上げていった〝活力〟は、紙面では、竹内四郎の基礎造りと、原四郎の七年に及ぶ、社会部長時代、出版局長、編集局長という、二十余年の成果であった。

もちろん、業務面での、務臺光雄〝販売の神様〟との、両々相俟ったことは、いうまでもない。

だが、私が七年間も、部長として仕えながら、原四郎の家で、酒を呑んで騒いだ、という記憶がない。タッタ一度だけ、数名の仲間と、自宅へ行った記憶がある。

それは、当時としては、まだ珍しかった電話器の差しこみコンセントを見て、「ハハア、やっぱり、社会部長ともなると、電話器も最先端をゆくものだなァ」と、感心したことを覚えているから、だ。

だが、自宅へ行っても、竹内家のように、〝豪快な乱痴気騒ぎ〟ができなかったせいか「ハラチンの家は、ツマらん」ということになって、みな、行かなくなったのだろう。原自身は、決して、酒を呑まないわけではなかったのだが、ハメを外さない〝紳士〟然とした酒、だったのである。

原四郎は、社会部長になると、筆頭の森村正平から、四席までの次長を放出して、五席の羽中田誠を筆頭に、デスク陣の大幅な入れ換えを行った。

次長は、通称デスクと呼ばれ、六人が交代で、朝夕刊の紙面作りをする。常時、デスクはデスクにいて、記者を指揮し、原稿に目を通し、整理部、写真部、地方部などとの、連絡調整に当たる。社会部の実質的な責任者である。

部長は、次長を信頼することによって、その職務が遂行され、紙面が作られるのだ。次長の次には、警視庁、法務省詰めの主任(キャップ)がいて、さらに、警察記者のボスである通信主任が二人いる。これが、サツダネ(警察原稿)を処理する。

最近では、都内支局ができたので、その支局長が、主任の次に位置している。この役付き以下は、入社年月日順に並ぶ。

ある意味で、辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。若くして逝ったが、大阪生まれの大阪育ち。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。

大阪弁で、すぐ、「アホラシ」を連発するので、愛称アホラシと呼ばれて、多くの記者たちに、尊敬されていた。

辻本が次長になると、俄然、頭角をあらわしてきて、原部長時代にヒットした、続きもの(連載・企画記事)の、ほとんどすべてが辻本のデスク作品であった。いままでの、読売社会部スタイルとは、まったく違っておりながら、政治、経済はもちろんのこと、国際文化、科学の領域にまで、社会部記事を読みものとして、総合的な立体的構成で、書きおろしたのであった。

読売梁山泊の記者たち p.082-083 ワシは新聞記者はキライだ

読売梁山泊の記者たち p.082-083 辻政信大佐に会わねばならない。早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。
読売梁山泊の記者たち p.082-083 辻政信大佐に会わねばならない。早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。

そのひとつに、昭和二十六年秋の「逆コース」というのがあった。

この年の九月八日、サンフランシスコで、対日平和条約の調印が、日本を含む四十九カ国で行なわれた。ソ連、チェコ、ポーランド三国は、調印を拒否した。発効は、翌二十七年四月二十八日。

岩波の「近代日本総合年表」によると、この講和の影響なのか、流行語として、「逆コース、BG、社用族」の三つがあげられている。その「逆コース」という題の、続きものである。辻本の、本能的なニュース・センスが、そうさせたのであろう。

その、第二十一回に、私は、「職業軍人」というテーマで、参加している。

当時の私の記事にあるように、やはり、旧軍の参謀たちが、政治家のブレーンになって日本の政治に、大きな役割を果たしていたのである。現実に、中曽根のブレーンには瀬島竜三・中佐参謀が、いまも、生き残っているではないか。

瀬島が、シベリア帰りであるように、私は、幻兵団の取材を通して、多くの旧軍参謀たちに面識があり、交際もあって、事情に通じていたのだった。

辻本次長は、「逆コース」の成功に気を良くして、二十七年二月、講和条約の発効を控えて、日本の再軍備問題を批判する続きもの「生きかえる参謀本部」を、スタートさせたのである。私も、もちろん、辻本チームの一員である。そのためには、辻政信大佐に会わねばならない。

早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。辻政信に会うのは、おお事だ、とは聞いていたが、これが、それを意味して

いるのだ、と悟った。

だが、この木札一枚で、そのまま引っ返すほどなら、新聞記者はつとまらない。私は、門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関は明け放たれて、キレイに掃除してある。二月の早朝だというのに、である。

「ごめん下さい」

「どなた?」

玄関のすぐ次の間から、本人らしい声。

「読売の社会部の者ですが…」

「ワシは新聞記者はキライだ。会いたくないから、チャンと門に書いておいたはずだ」

声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現われない。

「しかし、御意見を伺いたいのです。ことに日本独立後の再軍備問題なので、是非とも、お目にかかって、親しく、御意見を伺わねばなりません。再軍備問題は、するにせよ、しないにせよ、新聞としては当然、真剣に、読者とともに考えるべきものです」

「よろしい、趣旨は判った。しかしワシは新聞記者がキライで、会わないと決心をしたのだから、会うワケにはいかん」

「いや、会って下さい。私も一人前の記者ですから、それだけの理由で、敵陣に乗りこみながら、みすみす帰るワケに行きません。それでは、出てこられるまで、ここで待っています」

読売梁山泊の記者たち p.084-085 毎朝七時にここに来い。一カ月だ

読売梁山泊の記者たち p.084-085 「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、「ナニ? 将校斥候だと?」
読売梁山泊の記者たち p.084-085 「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、「ナニ? 将校斥候だと?」

私も突っぱった。向こうも、こちらも大声である。畜生メ、誰が帰るものか、と、坐りこむ覚悟を決めた。

「ナニ? どうしても会う気か」

「会って下さるまで待ちます」

「ヨシ、どんなことでもするか」

「ハイ」

「では、毎朝七時にここに来い。君がそれほどまでしても会うというのなら、会おう。毎朝七時、一カ月だ」

「判りました。それをやったら、会ってくれますね」

そう返事はしたものの、私はユーウツであった。朝早いのには、私は弱いのである。毎朝七時に、この荻窪までやってくるのは、大変な努力がいる。しかし、読売の記者は意気地のない奴、と笑われるのもシャクだ。

——一カ月通ってこいだと?

——このガンコ爺メ!

舌打ちしたいような気持だったが、猛然と敵慨心がわいてきて、どうしても会ってやるぞ、と決心した。仕方がないから、社の旅館に泊まりこんで、毎朝六時に起き、自動車を呼んで通ってやろう、と思った。

その夜、旅館のフトンの中で考えた。一カ月といったら、続きものが終わってしまう。何とか手を打って、会う気持にしてやろう、と思った。

翌朝、眠い眼をコスリながら、七時五分前に門前についた。時計をニラみながら、正七時になるのを待った。私にはひとつの計画があった。

正七時、私はさっそうと玄関に立った。すでに庭も玄関も、すべて掃き清められているではないか。老人は早起きだ。

「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」

私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。

すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、

「ナニ? 将校斥候だと? 将校斥候がきたのでは、敵の陣内まで偵察せずには、帰れないだろう。ヨシ、上がれ」

「辻参謀は、そういいながら玄関に現われた。私は、自分の計画が、こう簡単に成功するとは、考えていなかったので、半ばヤケ気味の大音声だった。だから、計画成功とばかり、ニヤリとすることも忘れていた。

寒中だというのに、すべて開け放しだ。ヤセ我慢していると、火鉢に火を入れて、熱いお茶を入れてくれて、じゅんじゅんと語り出していた。

私の感想では、当時の二大アジテーターが、日共の川上貫一代議士(注=岩波年表によれば、26・ 1・27、共産党衆院代表質問で、吉田首相に対し、全面講和と再軍備反対を主張して、懲罰委へ。3・26、除名を決定、とある)と辻参謀だ、と思う。

読売梁山泊の記者たち p.086-087 〝強い者に強い教育〟をする

読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。
読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

私の感想では、当時の二大アジテーターが、日共の川上貫一代議士(注=岩波年表によれば、26・

1・27、共産党衆院代表質問で、吉田首相に対し、全面講和と再軍備反対を主張して、懲罰委へ。3・26、除名を決定、とある)と辻参謀だ、と思う。川上流は、持ちあげて湧かせて、狂喜乱舞させてしまうアジテーション。私は、彼の演説を聞くたびに、記者であることを忘れて、夢中になって拍手してしまうほどだった。

辻流は、相手を、グッと手前に引きよせて静かに、自分のペースにまきこんでしまう、対照的な型である。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上もそれこそ、じゅんじゅんと語った。

「マ元師はもはや老朽船だ。長い間、日本にけい留されている間に、船腹には、もうカキがいっぱいついてしまって、走り出そうにも走れない。このカキのような日本人が、たくさんへばりついているのだ…」

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実におもしろく、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかも、ハッキリといい切っている。

私は、その原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実におもしろい」と、感心している。後に聞いたところでは、原は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと、企画したらしい。

「あのような、激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に、眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は、社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

そんな「原四郎の時代」が、順調にすべり出してゆくのには、決して、平坦な道のりでなかったことは、古いタイプの社会部記者、遠藤美佐雄の、「大人になれない事件記者」という、絶版(正確には断裁)になった単行本が、詳しく述べている。思いこみの激しい人だっただけに、真偽半々の内容ではある。

原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。

くどくどと、取材の意図や狙いなど、記者に説明はしない。従って、弁解も、取材ができなかった理由など、聞く耳はもたない。

新聞記者は、「結果」だけなのである。その「結果」は、紙面の記事で、報告は不要なのである。つまり、〝強い者に強い教育〟をするのである。優勝劣敗。敗者には、口も利かなければ、声もかけない。

だから、「ハラチンは冷たい男だ」という、評価も出てくる。だが、朝夕刊の紙面を読んで、記事審査委員会に出ると、部下の記事は、十分に弁護してくる。

部長の意に満たない記事で、記者に小言は垂れない。デスクを叱るだけだ。と同時に、その記者は、もう、見捨ててしまう。伸びる力のある記者だけを登用する。

私生活や、勤務時間や、出勤時間や、提稿量。さらには、取材費の使いっぷりや、自動車の使用状況など、いうなれば、紙面での結果以外のことには、管理者らしい発言は、一切しなかった。いい仕事をして、いい紙面を作れれば、そんなことは、まったく、枝葉末節、という「部長」であった。

読売梁山泊の記者たち p.088-089 なんかコンタンがあるンだナ

読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。
読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。

その点、前の社会部長の竹内四郎の、いわゆる親分肌とは、対照的であった。竹内は、正月はもちろんのこと、日曜日など休日には自宅に部下を集め、豪勢な料理を振る舞い、ともに酒を呑み、麻雀卓を囲んで、徹夜することも、辞さなかった。

来る者は、誰でも拒まないし、一視同仁であった。

カラ出張とねやの中の新聞社論

こんなこともあった——ある日の、ある夜のこと。どうして、そうなったのかは、もう記憶にないが、向島の待合で「君福」という店がある。

私の、すぐ上の兄が、慶応の経済を出て、カネボウに入社し、墨田工場の庶務係長をしていた。当時、イトヘン景気の最中で、この待合を良く使っていたようだ。私も、お相伴で、何回か行き、女将を良く知っていた。もう兄は工場にいなかったが、若い記者たち十名ぐらいが、この店でワイワイと、酒を呑むことになってしまった。

さて、夜も更けてくると、首謀者のひとりである私は、店の支払いのことが、気になり出していた。その夜、その席に、だれとだれがいたのか、定かではないが、二、三人と相談して、私がカラ出張をしよう、ということになった。

このカラ出張の伝票に、ハンコを押してくれるデスクが必要である。もう、十二時ごろだったろうか。社に電話して、朝刊担当のデスクをきくと、ナカさんだ、という。

羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。

山本五十六元師の国葬の記事で、読者の涙を誘った、という〝伝説〟の主で、部員のだれからも愛されていた。

「向島の料亭で、みんなで飲んでいるのですが、朝刊のメドがついたら、来ませんか。芸妓はいないけど」

「ウン、なんか、コンタンがあるンだナ」

「ハア、伝票を、ひとつ…」

「ウン、分かった。あと一時間ぐらいだ」

なにしろ、原部長の筆頭次長である。夜中でも、編集庶務からは、すぐ現金が出る。私は、車を飛ばして社へ上がった。「九州出張・○○取材調査のため」という伝票に、五万円と書きこみ、ナカさんのハンコを押した。

宿直で寝ていた庶務を起こし、現金を握って向島へ帰ってきた。全員、ワッと歓声をあげて、とうとう、ナカさんを囲んで、朝まで呑んでしまった。

サテ、それから一週間。私の苦しい生活が始まった。待合の支払いが、それで足りたのか、足りなかったか、その記憶はない。だがともかく、私は社へ顔を出せないのだ。

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

読売梁山泊の記者たち p.090-091 〝剛腹なる社会部長〟

読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」
読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

当時、編集局には、夕方になると、菓子やすし、タバコなどを背負ったオバさんが現われて、編集

庶務に店を開く。それがツケだ。タバコは洋モクで、私は、ラッキー・ストライクだけだった。

食事は、中華の楽天というのがあり、これもツケ。つまり、私の生活の根拠地は、読売編集局であり、勤務の宿直以外なら、赤坂に社の指定旅館で「奈良」というのがあって、そこにも泊まれるのだが、出張中だから、社に寄りつけない。タバコも食事も、ツケが利かないのだから、生活に窮してしまう。

ようやく、一週間がすぎて、私は、社に上がっていった。原の性格が分かっているのだから、報告はカンタンでいい。

「部長、九州は…」

ハラチンは、私を見て、終わりまでいわせずに、こういった。

「ダメだった、のだろう?」

私は、二の句がつげなかった。ハアと、間の抜けた返事をしただけ。幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。

その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。

「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」

これは、羽中田から聞かされた。

「バレていたんですネ。で、ナカさんには、なにかオトガメがありましたか」

「イヤ、おれには、なにもいわないけど、すっかりバレているようだナ」

カラ出張でのドンチャン騒ぎが、すっかりケツが割れてしまっても、原の対応は、こんな調子だった。そして、二カ月ぐらいの間、私は、まったく無視されて、部長から、一回も声がかからなかった。

なかなかどうして、原四郎は〝文弱の徒〟ではなかった。〝剛腹なる社会部長〟と、評するべきであった。

〝剛腹〟といえば、ナカさんも、ナカナカの人物であった。その酒好きの故に、筆頭次長でありながら、当番デスクの時、泥酔していて仕事にならないことも、間々あった。だがポカをしないし、必ず、だれかが、助っ人を買ってくれるのである。

「三田、あの件の打ち合わせをしよう」

夕刊デスクは、締め切りが過ぎると、中番デスク(夜になって出てくる、朝刊デスクとのつなぎデスク)に、あとを頼んで、私を誘って外へ出る。

喫茶店にでも入って、打ち合わせするのかと思うと、オット、ドッコイ。三河屋酒店の立ち呑みで、夕方の四時ごろから始まる。

もちろん、ほんとうに、〝仕事の打ち合わせ〟なのだから、兵隊のこっちは、逃げるわけにもいかない。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」

読売梁山泊の記者たち p.092-093 次席次長は長谷川実雄

読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。
読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い戦前からの社会部記者は、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。

向島のカラ出張がバレてから、一カ月ぐらい過ぎたころだったろうか。

「三田クン、伝票切って、すぐ福島へ行ってくれ。あの件だ」

「…でも、ナカさん。私は、出張禁止中の身ですから…」

「バカヤロー! ハラチンはナ、『箱根から西へ出張させるナ』という、命令だ。福島は箱根から、コッチだぞ!」

ナカさんは、ニヤリと笑う。既成事実で、出張禁止を解除してやろう、という、親心なのであった。剛腹の下に文弱なし、だった。

次席次長は、長谷川実雄。ついこの間まで巨人軍代表だったので、最後まで、マスコミに登場していた人だ。私が、シベリアから生還して、読売に復職した当時は、労働省詰めで労働班長だった。

古い、戦前からの社会部記者というのは、どちらかといえば、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。

そんな時代でも、高木健夫、森村正平(竹内部長の筆頭次長。のち報知編集局長で没)長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。私が、安藤組事件で読売を退社する決心を、最初に相談に行ったのも、婦人部長になって、すでに社会部を離れていた、長谷川の家であった。

だから、百人近い社会部員は、筆頭次長の羽中田の人徳によって、原への不平不満を解消させられ、実務家の次席・長谷川の指導下に、いわゆる〈社会部帝国主義〉に、団結させられていた、というべきだろう。

そして、原・社会部は、戦前型の社会部記者を淘汰しつつ、「社会部の読売」時代を築き上げていった。そこには、原の透徹した時代感覚が、〝社会部は事件〟から脱皮し、政治、経済、国際、文化、科学と、全天候型・社会部記者の育成へと、眼を注がせていたのであった。

いまでは、もう、すっかり〝いいお爺ちゃん〟になって、静かに、余生を愉しんでおられるので、仮名でP氏としておこう。

このP、私の警視庁クラブ時代のキャップで、若いころは、私など、足許にも寄れないスクープ記者であった。彼もまた、原四郎のもとで、花開いた男のひとりであろう。

「東京祖界」以前に、読売社会部は、新宿粛正キャンペーンをやり、「第一回菊池寛賞」受賞の理由も、「暗黒面摘発活動」とされているので、このPがキャップとして働いた、新宿摘発以来の実績が、認められた、というべきであろう。

このPの〝過去〟も、なかなかのものであった。銀座のクラブホステス〝 オシゲ〟との、色恋沙汰は、読売の警視庁キャップとしては、目を覆わしめるものがあった。

国立音大の学生であったオシゲは、クラブホステスのアルバイトをしていた。私の兵隊の同期生で、東京銀行に勤務していた小倉正平(故人)という男がいた。オシゲは、この小倉にホレていたらしい。しかし、銀行員である。

どこで、どうした機会があったのか、いまは、もう忘れてしまったが、小倉と呑みに行った時、私が、世田谷区の梅ケ丘に住んでおり、彼女が、ほど近い代田二丁目に下宿していたので、銀行員に見切りをつけ、新聞記者に、乗り換えたのであった。

昭和二十年代の後半。前半の帝銀事件、三鷹事件、下山事件、寿産院事件などのあとだから、警視庁の主流は、コロシ、タタキである。それのボスが刑事部長だ。

読売梁山泊の記者たち p.094-095 なにしろ酒乱のオシゲ

読売梁山泊の記者たち p.094-095 刑事部長の仕事~は七社会の〝操縦〟であった。古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。その店に、オシゲがいたのである。
読売梁山泊の記者たち p.094-095 刑事部長の仕事~は七社会の〝操縦〟であった。古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。その店に、オシゲがいたのである。

のちに、岐阜二区から代議士に出てきた、古屋亨が刑事部長。当時、警察と新聞は、土建屋の談合にも似て、ある時は癒着し、ある時は対立した。下山国鉄総裁の死をめぐる、朝日、読売の他殺説と、毎日の自殺説の対立は、東大対慶大の両法医学教室の対立ばかりではなく、警視庁内部の、捜査一課と捜査二課との対立による、新聞社のニュースソースの対立だった、という時代である。

警視庁七社会——警視庁記者クラブの名称である。朝日、毎日、読売、東京、日経、時事新報、共同通信の七社で組織されていたので、そう呼ばれていた。

刑事部長の仕事に、大きな比重を占めていたのは、この七社会の〝操縦〟であった。つまり、七社のキャップと、〝懇談〟と称して仲良くなることであった。クラブ員とキャップとは、鉄の規律で縛られていたから、キャップを握っておくことが、肝要であった。

私は、昭和三十年に警視庁クラブを下番して、通産省の虎ノ門クラブに移る。ここは、経済部が主流で、社会部、地方部、政治部から、記者がきている。ところが、社会部は別格なのである。

東京電力、東京ガス、自転車振興会が、それぞれに、社会部記者と〝懇談〟したがる。東電は停電つづき、ガスは値上げつづき、自転車は競輪をスタートさせよう、というのだから、記者の筆先きで、世論が動くのだ。

東電では、平岩総務課長、那須総務係長が接待の主人公役。ガスでは、安西副社長が出てくれば、神楽坂の「松ヶ枝」で、総務課長あたりでは、小待合を使う、といった工合だった。…私の、貴重な人脈である。

同じように、古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。

その店に、オシゲがいたのである。当時はすでに私とオシゲとは、切れていた。なにしろ、酒乱のオシゲである。読売が、いまのプランタンの位置に、本社を構えていたころ、深夜の編集局に、酔ったオシゲが現れて「三田はどうしたッ」と、わめくのだから、切れないほうがオカシイ。そして、私が警視庁クラブに移ったので、オシゲの編集局急襲も途絶えていた。

新入店のオシゲの前に、警視庁のキャップ連中が現われたのだから、彼女にとっては、干天の慈雨というべきだろうか。正面玄関にはふたりの警官が立っているにもかわらず、オシゲの〝七社会急襲〟が始まった。

こうして、中年の社会部記者と、ソプラノ歌手志願の若いホステスとの、〝色恋〟がスタートした。蛇足ながら、私の信条は「覆水盆にかえらず」なのだから、これは、Pキャップのことである。

ほとんど、同棲同様だったのではあるまいか。Pは、目立ってやつれてきて、やがて別れがきたようだ。伝聞の形をとったのは、私が、事実を確かめてはいないからだ。

しかし、Pは、この〝色恋〟を、仕事には影響させてはいなかった。このあたりが、読売社会部の〝誇るべき伝統〟なのか。もちろん、部下である私に、オシゲの〝前夫〟としての、態度の変化もなかった。

読売梁山泊の記者たち p.096-097 オシゲの新聞記者遍歴

読売梁山泊の記者たち p.096-097 女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。
読売梁山泊の記者たち p.096-097 女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

原四郎の〝仕事一本槍〟の方針は、酒と女と金という、社会部記者の仕事の〝原点〟について、たとえ、一時的に、それに溺れることがあっても、それが、仕事に影響しない限り、小言のひとつもなかった。

いまの記者諸君には、信じられないかも知れないが、「金」の面では、惜しみなく、取材費伝票を切らせた。それが、仕事のためばかりでなく、呑み屋の支払いや、バクチの元手に使われることが分かっていても、伝票は切れたのだった。その代わり、それに見合う原稿が出せなければならない。

当時の、朝・毎への、追いつき追い越せの時代だったからでもあろう。外部からの、金の誘惑に負けさせない、ためでもあったかも知れない。

事実、〝酒〟も〝女〟も、Pにしても、私にしても、それが、社での出世や栄達や待遇に影を落とす、ということはなかった。それが、原のもとでの、有能な記者の輩出につながったのであろう。

話をもどして、Pと別れたオシゲは、どうなったか、について、書かねばならない。

Pであったか、私であったのか、それは定かではないが、〝別れた男〟のおもかげを求めて、オシゲの新聞記者遍歴が始まった。

昭和三十三年に社をやめてから、もうしばらく経っていた私にも、そのご乱行ぶりが聞こえてきたのだから、察しがつこうというものだ。記者たちと飲み歩きの果てには、明け方、警視庁クラブの長椅子に倒れこみ、クラブを我が家の如く振る舞う、とまで、噂されていた。

彼女の〝悲願千人記者斬り〟は、警視庁クラブの記者ばかりではない。明け方の朝刊〆切りまで起

きている、新聞社の編集局にまで乗ッこんでくるのだから、その日の風の吹き工合だ。こうして、私の先輩であるQ社長までが加えられた。

そんな時期に、私はオシゲと、銀座でバッタリと出会った。数年振りであったろう。彼女の〝回顧録〟に、私はテープレコーダーの用意をした。ひとりひとり、社名と氏名をあげて、彼女のその男の想い出が、綿密に語られてゆくのだ。

それは、単なる〝ネヤの追想〟ではなくて、彼女なりの批判が加えられ、新聞記者論から、その所属社の新聞社論、大ゲサにいえば「現代新聞論」そのものであった。だからこそ、私は参考資料として、記録を残すため、テープにとったのであった。

「読売の記者は、私がエライ人との寝物語でナニをいいつけようが、そんなことを気にしたり、他人の彼女だ、なんてことに、こだわりゃしない。女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。

一番数が少ないのが、毎日の記者。これはキャップの親しいバーで、だれがキャップの彼女だか、判らないから、遠慮するし、警戒するのよ。親分、子分の意識が強いのネ。据え膳にだって、自分の立場を考えて、盗み喰いさえしないのが、毎日よ。古いわねえ。

図々しくて、阿呆なのが朝日よ。アタシが男を斬っているのに、その中味まで判断できずに、形ばかりをみて、オレがバーの女の子を斬ったんだ、と、思いこんでいるのよ。徹底したエリート意識ね。