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最後の事件記者 p.266-267 だんだん祈り屋的性格が出てきた

最後の事件記者 p.266-267 そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。
最後の事件記者 p.266-267 そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室

の部分は、取壊されてしまってすでにない。

この斎藤楼で、彼女は第一の夫大熊さんに出会った。大熊さんは、東京京橋の床屋に徒弟奉公中の職人。清久村の出だが江戸ッ子気質だ。彼は床つけの良いマサさんが気に入って身請けの決心を固めた。

借金を聞くと、金十円だという。大正十一年ごろの十円だから大金である。大熊さんは自分の貯金の五円だけでは足りないので、来年年季があけたら店を持つという名目で、アチコチ借金して、さらに五円を工面した。そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

ところが、だんだん祈り屋的性格が出てきたので、二人の仲はうまくゆかず、性格の相違を理由に、昭和四年二月九日、ついに協議離婚した。マサさんは霊友会へ進み、大熊さんは今でも清久で床屋をしている。

どうやら、新興宗教の〝現世利益〟というのは、色情のインネン——性のよろこびにあるらしい。事実、「恋」は人に希望を与え、明るくさせ、よろこびを与える。打ちひしがれた人を、ふ

るい立たせる〝現世利益〟である。

最後の事件記者 p.268-269 外部からみつめる機会を得た

最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。
最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとに、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといいえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、

新聞雄誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

最後の事件記者 p.272-273 裁判が済むまで何も書くなよ。

最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ
最後の事件記者 p.272-273 オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去るのが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たら、その人も困るのであろう。だが、その人はいった。

『ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう』——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

『書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ』——何人にも、この有難い言葉を頂いた。

だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

『惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ』

『しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか』

友人がいった。

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

最後の事件記者 p.274-275 護国青年隊が光文社を恐喝

最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた
最後の事件記者 p.274-275 おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、一同は息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた

『オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ』

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威であ

る、小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

『文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね』この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも、信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると、契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

しかも、相手は電話の受話器を突きつけて、「一一〇番に訴えたらどうだ」ともいったが、何もできなかったという。

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

最後の事件記者 p.276-277 デスクの面前で破いてすてた

最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』
最後の事件記者 p.276-277 『いくら出しました?』 私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙

ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンバアー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。決して気持の良いところではない。石井隊長に会い、財政部次長という青年にもあって、光文社恐喝の一件をききただした。彼らは右翼としての信念から、「三光」のような本を出すべきでない、と抗議した事実を認めた。そして、K氏は絶版にし、広告を撤回すると約束したという。

『いくら出しました?』

私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。

『金をとったらカツ(恐喝)になるサ。』

ニヤリとして否定する。

こうして、私の特ダネは取材を終り、原稿にされた。ところが、どうしてか紙面にのらない。いろいろとウルサイ問題の起きそうな記事だから、その責任をとりたくないのか、デスク連中は

敬遠してのせようとしない。そんな時に、カンカンガクガク、デスクと論争しても、掲載を迫るような硬骨の記者も、何人かいるが、私は軽べつすると論争などしないたちだ。

新聞記者というピエロ

そうこうして、一週間ほどたつうちに、朝日が書いてしまった。私の狙った観点のうち、言論の自由の侵害の面だけ、記事として取上げたのだ。読売の場合でもそうだったが、光文社という大口の広告スポンサーとして、営業面からの働らきかけがあったのかもしれない。

私としては、K氏のような一流の出版文化人が、暴力に屈した点も書くべきだと思った。この恐いという気特は、警察の保護に対する不信へもつながるのだが、会社の金で済むことなのに、怪我でもしたらバカバカしい、という、インテリ特有の現実的妥協とともに、やはり取上げるべき問題であったと思う。

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本

敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を、原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だから、もう一度、やってくれというのだった。

最後の事件記者 p.278-279 こんな危険な仕事は君でなきゃ

最後の事件記者 p.278-279 数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」
最後の事件記者 p.278-279 数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本

敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を、原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だから、もう一度、やってくれというのだった。

『じゃ何故、あの原稿を使わなかったのです。朝日より一週間早く提稿しているじゃないですか。それを、朝日の特ダネの後追いをしろというのですか』

私は反撥した。モメる原稿を扱ったデスクは、それがモメた時には責任者になるから、こんな形で、上から命令されれば、欣然としてやるのだ。こんな実情では、意欲的な紙面なんぞ出来やしない。四十歳すぎて、女房子供を抱えたデスクが、身分保証もなければ、どうして火中の栗を拾うであろうか、それも当然のことである。

『君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ』

確かにピエロである。文春十一月号の読者の声欄にあるように、「むきになって、筆者が自分の記者ぶりを述べれば述べるほど、ジャーナリズムで踊ったピエロの姿がにじみ出て、ジャーナリズムとは、あわれな世界だなアと、思わず叫びたくなる」のも、当然な話である。

危険な仕事は、君にしかできないのだ、とオダテられて、その気になって、女房子供のことも忘れてしまう〝新聞記者〟というピエロを、では一体、誰がつくったのだろう。誰がそうさせたのだろう。

それはジャーナリズムという、マンモスに違いない。二十二、三歳の若造二、三人にかこまれて、机を叩かれただけで、意欲的らしさを装った出版物は、直ちに絶版になるという現実が、ジャーナリズムであろう。

ピエロの妻

私はその仕事を引受けた。どうしてもやらなければ、怠業である。従業員就業規則違反である。今、一枚何千円もの原稿料をとる菊村到氏も、活字になりもしないと予想される原稿の、書き直しを命ぜられて、それが拒否できないバカらしさに、社を止めたのであろう。

それから数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社の読者相談部という、苦情処理機関へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

最後の事件記者 p.280-281 金を渡した中村秘書を落城させる

最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。
最後の事件記者 p.280-281 妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。

「三田の奴メ、同志のようなカオしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

私は主任と同行して、甲府の奥に住む元同隊幹部を探し出して、当時の被害状況の参考人調書まで作らせた。その男を口説き落すのに、どんなに苦労もしたことか。金を渡した中村秘書を落城させるため、関係事実を調査しては主任に提供するなど、刑事以上の苦労であった。しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

『あんたのおかげで、次々と証拠をつきつけて、中村秘書を理責めにしたのさ。しまいには、彼

も額に油汗をかいて、もう少しで被害を認めてくれるところまでいったよ。だけど、逮捕した容疑者ではなく、協力してくれる被害者という立場だろ、むづかしいよ。認めようとしないものを、認めさせようというんだからナ。オレは捜査二課の一主任だ、あんたは外相秘書官だから、上の方へ手を廻して、一警部補のクビを切るぐらいは簡単だろうけれどと、熱と誠意で押したのサ。もう少しのところだったのに、惜しいことしたよ。あんなに協力してくれたのに、カンベンしてくれよ。本当にありがとう』

主任はこういって、私に感謝した。彼の声にならない声は、警視庁の幹部の方に、岸首相の一件はやめろと、政治的圧力がかかったのだとも、受取れるような感じだった。

この事件での、私の捜査協力はついにモノにならなかったが、何回かの記事で、私はともかくとして、妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。「家の付近に、怪しい奴がウロついているから、今日は帰ってこない方がいいわ。奈良旅館へ泊って…」という電話がきて、私は一週間も旅館住いをした。

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。

最後の事件記者 p.282-283 家へやってきたらどうしよう

最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク
最後の事件記者 p.282-283 バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク

『暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら』

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を

聞いていた。

『パパの留守に、家へやってきたらどうしよう。私はともかくとして、この子に手を出したりしたら……』

幼い次男を抱きしめて、彼女は真剣に考えた。そしていった。

『浅草あたりでは、一万五、六千円でピストルが買えるというじゃないの。社で前借して買ってきて下さいよ。家へ押し入ってきたら、撃ってやるんだ』

そして、しばらくしてまたいった。

『……ね、パパ、お願いだから死なないでよ。……もう、危険なお仕事はやめて!』

これが、〝ピエロ〟の妻である。ああ! 母は強く、女は弱い!

それなのに、ピエロは、踊るのをやめない。バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」。何ともいえない芳香を放つインク、何十万、何百万枚と刷ってゆく輪転機のごう音。

——この感覚のエクスタシーが、新聞というマンモスなのか。

※※護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫※※

ピエロはとばされる

新聞記者の功名心という、誰にも説明できないピエロの衣裳は、麻薬のように本人だけのエクスタシーなのであろう。

何も光文社ばかりではない。新聞の世界にも、ガラ空きの客席を前に、一人踊り呆けるピエロの自覚が訪れてきている。去年の秋の売春汚職にからむ立松事件が、その最初のステップである。

立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。福田篤泰、宇都宮徳馬両代議士が、売春汚職にからんでいると、しかも、五人の代議士のうち、この二人だけは名前を出しても絶対大丈夫だ、と、ハッキリ聞いたのである。彼は私たちの前で、相手に電話した。立松もピエロだから、何もそんな芝居は必要としない男である。

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。

護国青年隊関連資料/『日本を哭く』推薦の言葉・三田和夫

関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
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関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫
関連資料 元護国団団長・石井一昌著『日本を哭く』推薦の言葉 正論新聞編集長 三田和夫

石井一昌著「日本を哭く」をご紹介する

正論新聞 編集長 三田 和夫

昭和三十二年春ごろのこと。当時、読売新聞社会部記者だった私は、光文社発行の「三光」(注・支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本)が、護国青年隊の抗議に、広告を中止し、絶版を約束させられた、という情報を得て調べはじめた。と、岸首相が自民党幹事長時代に、やはりオドされて、金を出したという話も出てきた。当時の中村長芳秘書が、警視庁捜査二課に事情をきかれた、という。

それらの取材を終えて、社会面の大きな記事になったその日から、社の読者相談室は、護国青年隊の抗議の波状攻撃を受けて、騒然とした空気に包まれていた。

「三田の奴メ! 同志のような顔をしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていやが れ!」(拙著「最後の事件記者」より)

そんな彼らの言葉も、耳には入ってきていた——それから一年余を経て、私は、横井英樹殺害未遂事件にからむ、安藤組の犯人隠避事件の責任を取って、読売を退社する。

昭和四十二年元旦付号から、私は、独力で「正論新聞」を創刊する。読売退社から八年余、雑誌の寄稿家として生活するうち、出版社の都合で、私の原稿はカットされ、ボツにされることが多くなった。本当のことを書くとモメるのである。「三田の原稿はヤバイ」ということである。そのため、自分が発行人で、編集人で、執筆者でなければならない、という結論に至ったからだ。

「私はかつて読売記者時代、『護国青年隊』の恐喝事件を取材して、総隊長・石井一昌に会った。昭和三十二年四月十九日である。その時の印象は、まさに粗暴な〝飢えた狼〟であった。彼は、読売記事を読んで激怒し、私を憎んだ。連日のように、読売本社に押しかけ、私を痛罵したものだった。

そして、本紙(注・正論新聞)がさる四十五年暮れに、『右翼暴力団・護国団』を取りあげるや、当時潜行中の彼は機関誌の『護国』に地下寄稿して、またもや、私を非難攻撃した。

しかし、因果はめぐる小車…で、私は、彼の自首説得に、小さな力をかすことになる。保釈になった彼は、その尊敬する先輩の事務所で、正論新聞の綴じこみを見て、質問したのだった。その先輩は、『真の右翼浪人たらんとするなら、正論新聞もまた読むべし』と訓えられたという。…こうして、私と彼とは満十五年目のさる昭和四十七年四月二十九日に、再び相会って握手をした」(正論新聞47・10・15付、連載『恐喝の論理…〝無法石〟の半生記』続きもののはじめに、より)

こうして、私と彼との交際がはじまり、すでに二十三年になる。さる平成六年四月二十九日、「護国団創立四十周年記念会」の席上、私は指名されて、あいさつを述べた。

「…実は、石井さんは、当時隊員たちに指令して、〝いのちを取っちゃえ〟という目標の人物を十五名リストアップしていた。その最後の第十六位にランクされたのが、私だったのです…」と。

いのちを〝取る〟側は、国の将来を憂えてその邪魔者を排除する信念。〝取られる〟側は、真実を書き貫こうとする信念。その死生観には、共通するものがあって、対立する立場を乗り越えて、結ばれた友人である。これをいうならば、〝怪〟友といわんか。それは 快友であり、戒友であり、魁友でもある。

平成三年十一月「正論新聞創刊二十五年を祝う会」で、私は、この話を披露した。「この席には〝捕える側〟も〝捕えられる側〟も参会されている…」と。

読売の警視庁記者時代に親しくした、土田国保、富田朝彦、山本鎮彦の昭和十八年採用の元長官たちと、石井さんはじめ、稲川会や住吉会の幹部たちのことを話したのだった。

昭和三十二年、売春汚職事件にからんだ立松記者誤報事件で、対立関係にあった当時の岡原昌男・東京高検次席検事(故人。元最高裁長官)も、「…正論新聞の論調は〝おおむね〟正論である。どうして、おおむねをつけたかといえば、ある時には、三田編集長の個人的見解が、色濃く出されているからです…」と祝辞を下さった——対立のあとにくる友情とは、こういうものであろうか。

「右翼といいながら、ゴルフ三昧の奴や、クラブを経営しているのもいるんだ」——このパーティーのあとで、石井さんは、痛憤の情を吐露した。

「ウン。むかしの『恐喝の論理』の続編でもやろうか。日ごろ、感じていることを、メモに書き留めておきなさいよ」と私。それからまた歳月が流れる。「石井一昌の憂国の書を出版したいんだ。もう年だから、総括をしておきたい。だれか、書き手を紹介してよ」と頼まれて、まる五年——とうとう、このほど「日本を哭く—祖国の建直し、魁より始めよ」が立派な本になった。

「この本のため、石井のいのちを取っちゃえというのが、現れるかもしれない。だが、自分の信念のために斃れるなンて、カッコいいじゃないですか」と、石井さんは笑う。かつて私は、彼の第一印象を、「粗暴な〝飢えた狼〟」と評した。が、いまも、顔は笑いながらも、眼は、決して笑っていなかった。

この著の、戦後秘史としての価値が大きいことを、ご紹介の第一の理由とする。

(平成七年十二月一日記)

最後の事件記者 p.284-285 それならば検事の名前を明らかに

最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか
最後の事件記者 p.284-285 何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たと

え立松記者を有罪としようとも、懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。社会部のピエロたちの意見は、それが、本当の新聞としての責任と正義とを貫ぬく道だと信じた。

記事は取消すまい、そのため懲役へ行くのも止むを得ない——ヤクザの仁義と似ているッて? そうだとも、ピエロだもの。

何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所、しかも中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか、この人のいうことを信じない記者がいたら、おめにかかりたいものである。

司法記者クラブのキャップとして、その反対側の立場の検事のいう言葉を信用して、立松を出頭させてしまい、ヒッカケ逮捕という最悪の事態を招いてしまった私も、大いに責任を感じていた。もとより、私もネタモトを信じたから、記事を取消すべきではないという意見だった。

だから私は、上司にも相談せず、独断でマルスミ・メモといわれる、済の字を丸でかこった印のついた代議士の名簿を、知合いの代議士たちに見せたのである。かつて国会を担当していたから、知合いは沢山いた。するとそれは委員会へ持出されてしまった。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。

私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝まるのが常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

この態度に、卒直で良い、大新聞の襟度である、これからもそうすべきだ、と、オベンチャラをいう評論家や、他の新聞があった。そんなバカなことがあるものか。

一等部長である社会部長は、三等部長のつまらないポストへトバされてしまった。立松記者は、「懲戒休職一週間」という、処分をうけた。私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバさるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

最後の事件記者 p.286-287 メシが食えるかい? 大丈夫かね

最後の事件記者 p.286-287 人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。
最後の事件記者 p.286-287 人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。

私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバさるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

なぜかといえば、この事件の取消し方の、スジが通ってないのでも判る通り、社会部のピエロは、すべて整理されることになった。あんまりフザけた、道化芝居はやめて、商売らしい商売をするために、サラリーマンだけを雇用することになったようであった。

はじめて知る人の情

『最高裁の局長連中との会で、君の噂が出てね。みんな局長たちの意見は、起訴からして無理だから無罪だ、といってたよ。悪いニュースじゃないから知らせるよ』

ある記者が電話でそういってきた。

『メシが食えるかい? 大丈夫かね、相談に乗るよ』『ある会社のエライ人が、手記を書いたのだけど、文章がダメなんだ。印刷できるよう、まとめる仕事をやらないか』『ナニ、新聞ばかりが社会じゃないよ』

人間、落目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落目とも思わないが、客観的には落目であることは確かだ。

電話の一本、ハガキの一枚に、私はどんなに慰められ、元気づけられたことか。そして、広い

世間には、いろいろの考え方のあることを知った。

『あの文章を読んでその通りだと思うものは、新聞記者に一生を打ちこんだものだけしか解らぬでしょう。特に官僚の権力エゴイズムと、最近の××の月経の上った宮廷婦の集合の如き動脈硬化ぶりに対する、言外の痛恨の情など……』

『この馬鹿みたようなという実感は、警察と検事とを除いた、すべての日本人、否地球上のすべての人の吐息ではありますまいか。大体、権力を握った人間はヒューマンという意味では人間ではないでしょう。普通の場合でも検事たちの手にかかると、刑法的インネンを吹かけられて、惨めな人生になることが一般的でしょう』

私が、司法記者クラブにいた一年間の大事件は、売春、立松、千葉銀の三つであったが、それらの事件を通して感じられるのは、この二つの手紙と共通するものであった。一人は新聞記者の老先輩であり、一人は老実業人であった。新聞記者、それも読売の未知の地方支局員からももらった。

『読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売にはいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地

方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……』

最後の事件記者 p.288-289 しかも全くのデタラメである

最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。
最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。

『読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売にはいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地

方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……』

『仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか』

『読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の降盛を築きあげてきたのだと想像されます』

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招侍してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

『ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね』

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

『誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のこと

じゃないか』

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから、その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。

最後の事件記者 p.290-291 バカなピエロはもういない

最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。
最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに

するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったら、その雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に斗いたいと考えた。強い敵と斗うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

報道協定のことは抜きにして、週刊明星と週刊実話とが、皇太子妃のニュースを書いてしまった。それから、週刊朝日が、戦斗機問題のカゲの人、天川勇なる人物を詳細にレポートとした。この絶好の社会部ダネは、大新聞には、何故かのらなかった。

十月二十八日の朝日社会面は、決算委の記事として、このナゾの人物の名前を出したけれども、三十日発売の週刊朝日が書いているのだから、週刊の方が早かったことになる。

ことに面白いのは、週刊誌の皇太子妃の記事の筆者が、新聞記者だといわれていることだ。新聞記者が、自分の新聞にかかないで、雑誌に原稿を書くという傾向が、ハッキリと強まってきているのではなかろうか。

新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。新聞記者が、自分にサラリーをくれている新聞に書けず、雜誌に書くということは、実は深刻な問題ではないのだろうか。

新聞週間のとき、講師になった読売原出版局長は、こういってる。

『週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたために起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う』(新聞協会報一三五六号)

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。誰だって、危険を冒すのはいやである。自分で額に汗して生活費をつくりだすよりは、記者クラブで碁、将棋、マージャンをたのしみながら、黙ってサラリーをもらう方が、ずっと楽だからである。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

最後の事件記者 p.292-293 あとがき

そこで、私は新しい商売を考えついた。 マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。
最後の事件記者 p.292-293 あとがき そこで、私は新しい商売を考えついた。マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。

あとがき

私が警視庁の留置場に入っている間に、妻が婦人公論の増刊「人生読本」というのに、「事件記者の妻の嘆き」という手記を書いた。発売になって読んでみると、なかなかうまいことを書いている。

門前の小僧かといって笑ったが、読売の連中にいわせると、妻の方がペンでメシが食えるのじゃないか、と、評判がいい。

「生れかわったら、新聞記者の女房になるのはやめなさいよ、などとおっしゃいますが、まったく因果な商売ではないでしょうか。三十七歳にもなった、記者生活しか知らない人間に残されたのは、やっぱりジャーナリズムでの仕事しかないと思います。家族ぐるみ事件にふりまわされるともいえる、この記者生活が、やっぱり夫の生きてゆく最良の道であるならば、新聞記

者生活に希望のもてない私も、今後、夫のよき理解者、支持者として夫を助けてゆかねばならないでしょう」

私がサッと辞表を出すと、そのやめッぷりがよかったので、安藤組の顧問にでもなるのだろうと、下品にカンぐられたものだ。もっとも、護国青年隊の隊長にも、「ウチの顧問になって下さい。月給は読売以上に出しますから」と頼まれたほどだから、そう思われるのも無理ないかもしれない。

だが、サラリーマンをやめてみて感じたことは、広そうにみえながら、新聞記者の世界の視野のせまいのに、今更のように驚いた。身体のあく時間が、世の常の人と食い違っているから、結局自分たち仲間うちばかりで飲んだり騒いだりで、社の人事問題以外に興味がなくなり、ネタミ、ソネミばかりになるのだろう。

記者でありながら、見出しをサッと眺めるだけで、新聞を読まない日がずいぶんあったことを覚えてるし、新聞を読まない記者のいることも知っている。各

紙をサッとみて、自分の担当部署で抜かれたり、落したりしていなければ、もうその新聞は御用済みだ。

今度、同じマス・コミでも、雑誌や出版の人、ラジオ・テレビの人、映画の人たちに、会ったり、話したりする機会に、多く恵まれたけれど、その中では記者の世界が、一番せまいようだ。

新聞を良くよんだり、本屋をひやかしたり、映画や芝居をみたり、そして、ものを考えたりする時間の少ない記者だから、そうなんだなと感じた。そこで、私は新しい商売を考えついた。

マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。作家にはネタを提供したり、映画の原作をみつけたり、テレビ・ドラマを監修したり、新しい法律のPR計画をたてたり……といった商売が、もうそろそろ、日本でも成立つのではないだろうか、と考えている。

新聞記者は失格したけれども、暴力団の顧問になる

よりは、面白いだろうと思っている。資本家はいませんかナ。暴力団といえば、留置場で、安藤親分に〝特別インタヴュー〟したところによると、逗子潜伏中に、三千万くれるという申し出をした資本家がいるそうだ。横井事件の真相も、詳しく調べて、近く書きたいと思う。

この本につづいて、ルポルタージュ「留置場」という本を、新春には出す予定。さらにこの本であちこちに、チョイチョイとふれた〝新聞内面の問題〟——新聞はどのように真実を伝えているだろうか? を、「新聞記者の自己批判」として、まとめてみたい。

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

最後の事件記者 p.294-奥付 あとがき(つづき)~奥付

最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所
最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

と、こんな工合で、どうやらメシだけは、今のところは食べていられる。それでも、月のうち半分は徹夜して、安い原稿料にも、感謝の念を忘れず、せっせと働らかねば、子供たちを学校へやることもできない。ただもう眠たい時などは、つくづくサラリーマンがうらやましい。御心配を頂いた皆さんに、この場をかりて、厚く御礼申上げる次第である。

同時に、ここまで、私を成長させて下さったのは、読売新聞社をはじめとして、各新聞社の諸先輩方、同僚諸君のおかげであると、深く感謝いたさねばならない。今後ともの、御指導を併せてお願い申上げる。

この本で、今、気になるのは、文中お名前を拝借した方々の、敬称の不統一である。書きあげるそばから、工場へ行ってしまったので、手落ちがあると思

い、お詫び申しあげておかねばならない。

いわば、特ダネを追って十五年、とでもいったような内容なので、文中、大そう口はばったいところもあるが、大体がアクの強い男なので御寬恕を乞いたい。もちろん、私一人が事件記者だなどと思い上っておらず、読売をはじめ、各社にも、優秀で、敵ながら天晴れと、秘かに尊敬している記者が多いことは事実である。記者諸兄、お怒りなきように。

当然、最後の項に、横井事件を入れるべきであったのだが、文春に詳しく書いたので割愛した。なお、文春所載の「事件記者と犯罪の間」は、臼井吉見氏編の「現代教養全集、第五巻、マス・コミの世界」(筑摩書房)に収録されたので、御参考までにお知らせしておく。まだまだ、いろいろな事件についての面白い話があったのだが、時間と紙数の関係で、これも割愛せざるを得なかった。稿を改めて書きたいと思っている。

昭和三十三年十二月十五日

著 者

最後の事件記者
定価220円
昭和33年12月30日発行
著 者 三田和夫
発行者 増田義彦
発行所 株式会社 実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3
電話京橋(56)5121~5
振替口座 東京326
© 実業之日本社 1958年 印刷 株式会社 佐藤印刷所

最後の事件記者 カバーそで 著者略歴

最後の事件記者 白ページー見返し jacket flap カバーそで
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最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴
最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴

著者略歴

大正十年、盛岡市に生る。日大芸術科卒業。昭和十八年、読売新聞入社、直ちに社会部記者となる。昭和二十二年、シベリアより引揚げ、復職。法務府、国会、警視庁、通産省、農林省各記者クラブを経て、昭和三十二年六月、最高裁判所司法記者クラブ詰。昭和三十三年七月、横井事件に関連して、取材が「犯人隠避」罪に問われたため、読売新聞退社。

昭和三十三年九月、文芸春秋十月号に「事件記者と犯罪の間」百五十枚を発表。著書に、「東京秘密情報」「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」がある。

住所、東京都世田谷区世田谷二の一九五八