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新宿慕情 p.016-017 東口の二幸前から伊勢丹までの通り

新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。
新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。

新宿慕情
さる七月から、二十回にわたって、正論新聞紙上に連載してきた著者のエッセイ。その四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、軽い筆致でたのしく、人生を説いている。
狂言まわしに、新宿の街と店と人物とを登場させながらも、その随想は、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。
ことに、オカマや半陰陽などという、下品になり勝ちな素材を、ユーモラスに描き切っているのは、その健康な精神の故、であろう。

洋食屋の美人

旧制中学二年から

私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。家が池袋と目白の間の、婦人の友社の付近から、世田谷の代田に引っ越して、小田急線を利用しはじめたのだ。

当時の小田急は、せいぜい二両連結で、現在の南新宿駅は、千駄ヶ谷新田、世田谷代田駅は世田谷中原という名前だった。その世田谷中原駅を利用していた。次の豪徳寺駅との間に、梅ヶ丘という新駅ができて、タンボの真ン中の寂しい駅だったことを思うと、まさに隔世の感がある。

中学が、省線・巣鴨駅にあったから、新宿駅で乗り換える。定期券があるから、自然、新宿の街にも出る、ということになる。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

新宿慕情 p.018-019 四つ角を越えるとすぐ遊郭になる

新宿慕情018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情 p.018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

途中、右側にある中村屋。すでに、三峰に買収されたオリンピックなども、建物こそ変わったが、場所はそのままだ。

二幸の開店は、多分、昭和七~八年ごろではあるまいか。海の幸・山の幸の「二幸」という、キャッチ・フレーズを憶えている。その地下に、「オート・マット食堂」というのがあって、連れていってもらったのは、小学生のころだ。

国電の切符売り場のような、ガラス張りの窓があって、下端が開いている。出前用の箱みたいに、段がついた棚には、すでに料理された洋食が、一人前ずつ並んでいる。

二幸の〝自動〟食堂

それを眺めて、食べたい料理の窓の前で、コインを投入してハンドルを引くと、ガタンと音がして、棚が一段下がって、料理を取り出せる仕掛けだった。

それを持って、中央のテーブルで食べるのだが、料理は冷たいし、なによりも、ウェイトレスのサービスがないのが、味気ない。物珍しさが、ひと通り行き渡ると、この〈超最新式食堂〉は閑古鳥が啼く始末。

そうであろうとも、米国直輸入を謳ったのだが、当時は、人手も十分、あり余るほどだったし、第一、デパートの食堂というのが、第一級のレジャー施設だったのだ。それだからこそ、洋食を食べるには、デパートに行く時代だから、味気ないセルフサービスなど、クソ食らえだった。

この〝二幸の目玉〟食堂は、間もなく、無くなってしまったと思った。

そこにゆくと、〈中村屋のカリーライス〉と、〈支那まんじゅう〉とは、まだ、洋食が珍しくて、♪きょうもコロッケ、あすもコロッケ……の歌が流行したのでもわかるように、大人気であった。

私が中学生のころで、肉まんあんまん各一個のセットで、一皿十銭(肉六銭、あん四銭)と憶えている。昼食として、いまのラーメンほどの人気だった。

その向かいのオリンピックもまた、洋食屋の雄であった。手軽に、学生にでも食べられる洋食屋は、オリンピック、森キャン(森永キャンデーストア)、明菓(明治製菓売店)の、三大チェーンストアであった。

戦後、いく度か、オリンピックに入ってみたが、新宿、銀座などの店で、いわゆる〝洋食〟類がマズい。むかし懐かしさのあまり、入って食べてみるのだが、もう、まったく救い難かった。

同じように、森キャン、明菓ともに、〝味の信用〟は、昔日のおもかげはなかった。これら三店のウェイトレスには、たがいに美人が、ケンを競い合っていた。制服姿がサッソウとしていて学生たちの憧れの的だったのに……。池袋の明菓には、日大芸術科に進んでからも、良く行ったが、当時の映画の題名から、〝フランス座〟と呼んでいた美人がいたほどだった。

伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。というのは、その四つ角を越えると、すぐ、遊郭になるからだ。

新宿慕情 p.020-021 日活の滝新太郎・花柳小菊、松竹が上原謙・桑野通子

新宿慕情020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情 p.020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。

小さかった伊勢丹

伊勢丹だって、今日の隆盛ぶりが、信じられないほどの、小さなデパートだった。確か、角が伊勢丹で、その手前に、ほてい屋という、同じぐらいのデパートがあって、それを合併したのは昭和十年代の初期だったと思う。

いまの伊勢丹本館の四分の一か、六分の一ぐらいの広さだろう。

三越も、いまの位置で、もちろん、小さいものだった。当時は、三越は、「きょうは三越、あすは帝劇」という、第一級社交場——伊勢丹などは、足許にも寄れないデパートだ。いまの三越の現状を見ると、それこそ斜陽の感が深い。

同郷の立教大学の英文科の学生が、下宿の侘びしさをまぎらわしに、良く、私の家に食事にきては、ダベっていた。

まだ、私が小学生のころだった、と思う。その人が、新宿の三越の、店内掲示の英語看板にミス・スペリングを発見して、売り場の店員に注意をした、というのだ。

すると、翌日、支店長が五円の商品券を持って、下宿にまでお礼の挨拶にきた、という話をしていたのを、まだ憶えているが、当時の五円が、どれほどの値打ちがあったか——昔日の三越の店の格式を物語って、あまりある話、ではある。

新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。つまり、東口である。いまの駅ビルに変わる前まで

古臭い駅舎があったのだが、それももう、忘れてしまった。

映画館といえば、伊勢丹角にあった、日活帝都座しか、記憶がない。いまの、丸井の場所である。当時から、日活多摩川作品に対して、松竹蒲田映画、とくるのだが、どうしても、新宿松竹館が、どこにあったのか思い出せない。

日活の滝新太郎・花柳小菊の夢心コンビに対しては、松竹が上原謙・桑野通子の、都会的なコンビで売っていた。日活側はやや下町調なのだ。

上原、桑野の御両人は、ファンからは、当然、結婚するものだ、と、思われていたのだが、上原は、小桜葉子と結婚して、全国のファンを驚かせた。桑野通子は、森キャンだか、明菓だったかの、スイート・ガール出身(ウェイトレスや売り子を、こう呼んでいた)の美人で、売れっ子のあまり、兵隊に取られて台湾に行った上原に、あまり手紙を書かなかった、という。

そのスキに、三枚目で、あまりモテなかった小桜葉子が、セッセと、毎日、手紙を書きつづけて、上原謙の心を動かした、と、ファン雑誌で知ったものだが、その上原謙の、六十何歳だかの再婚ニュースが、同じような雑誌に書かれている。

松竹系の、新宿第一劇場というのが、南口、明治通りと甲州街道の交差点近く、いまの三越モータープールのあたりにあった。新宿松竹館は、その付近だった、カモね……。

新宿慕情 p.022-023 ととやホテルがありととやというバーがあった

新宿慕情022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。
新宿慕情 p.022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。

〝新宿女給〟の発生源

〝シベリア帰り〟で

そして、戦後の、新宿の街との〝かかわり合い〟が始まる……シベリアの捕虜から、生きて東京に帰ってきたのが、昭和二十二年十一月三日だった。

東京駅から、国電に乗り換えて、有楽町駅前の旧報知新聞の社屋にいた、読売に顔を出して新宿駅から、小田急線で、世田谷中原に着いた。

代田八幡神社も焼けずに残っていたし、母親のいる家も無事だった。オフクロは、兄貴夫婦と暮らしていた。そして、私は、その家の二階に、厄介になることになった。

〈適応性〉があるというのか、私は、その日から、原稿を書き出していた。

社に、挨拶に顔を出したら、デスクに、「なにか書くか?」と、いわれて、「ハイ、シベリア印象記でも……」と、答えてきたからだ。

確か、二晩か三晩、徹夜をして書いたようだ。その、これまた長篇になった〝大原稿〟を持って、社に行く時に、初めて、戦後の新宿の街に出た。

いまの中央口の前あたり一帯が、バラック建てのマーケットになっていて、薄汚れた、風情のない街に変わっていた。

大ガードから、西口にかけても、ヤミ市やバラックの飲み屋街ができていた。

安田組、尾津組、関根組だとかのマーケットということで、それぞれの名が冠せられていたが、私は、まったくの異邦人だった。

なにしろ、軍隊と捕虜とで、まるまる四年間も、新宿を留守にしていたし、その間に、街は空襲やら、疎開などを経験していたのだから、当然だろう。

そして、焼跡派だとか、カストリ派だとか、太宰だ、坂口だとか、熱っぽく語られていても、私には、無縁だった。

帰り新参の〝駈け出し〟記者は、続発する事件に追いまくられるばかりで、飲み屋街を渡り歩く、時間も金もなかった。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。

その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

新宿慕情 p.024-025 ととやの初代マダムが織田作・夫人の昭子さん

新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。
その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

文人、墨客、悪童連

横丁の途中には「居座古座」だとか、「てんやわん屋」などといった、同じような店もあったが、これらが、〝中央線〟派の文人、墨客、先生、記者などのタマリ場になった。

その中心、ととやの初代マダム(当時は、ママではなく、マダムだった)が、織田作・夫人の昭子さんだ。そして、その著『マダム』が、〈新宿女給〉の発生について詳しい。

そして、戦災の復興が進むにつれて、「ドレスデン」「プロイセン」などといった、新宿の正統派バーが、本格的な建物で現われてくるのだが、私など、この二店など、一、二度しか行ったことがないので(しかも、大先輩のお伴で)、語るのはその任ではない。

場所も、せいぜい二幸ウラまでで、まだ、靖国通りも、現在のように整備されておらず、まして、歌舞伎町など、盛り場の態をなしていなかった。

ハモニカ横丁から二幸ウラにかけて、炭屋のセガレ田辺茂一、牛乳屋の息子の池島信平、それに、トロッコ記者の扇谷正造といった悪童連が、中野好夫、相良守峰、時枝誠記といったPTAといっしょになって、客とともに呑み、怒り、泣き、唱っては、文学を論じ、映画を語る、〈新宿女給〉の育成に、一ぴの力をいたした、ものらしい。

銀座とは違って、独特の雰囲気を持つ、〈新宿女給〉たちも、歌舞伎町が栄え、そのウラ側の〝サカサ・クラゲ〟旅館街を浸蝕して、東大久保一帯にまでネオン街が広がってしまった現在で

は、もはや、ギンザ・ホステスと、なんら変わりのない連中ばかりになってしまった。

私が、シベリアから帰って、直ちに書き上げた『シベリア印象記』は、当時の一枚ペラ朝刊だけ、という時代ながら、二面の大半のスペースを費やして、トップ記事になった——私の、読売新聞での、初めての署名記事であった。

しかも、この記事に対して、米英ソ華の、四連合国で組織していた対日理事会の、駐日ソ連代表部首席のデレビヤンコ中将が、記者会見して反論し、それを、日共機関紙・赤旗が、大きく報道するなど、なかなかの評判であった。

私は、〝シベリア呆け〟していない、と判断されて、すぐに地下鉄沿線である、日本橋、上野、浅草のサツまわりに出された。だから、戦後の上野(ノガミ)については語れるのだが、残念なことには、昭和二十年代の新宿については、あまり、正確な記憶がない。

しかし、異邦人よろしく、当時の流行語であったリンタクとパンパンについての、新宿における〈知的好奇心〉についてはエピソードを持っている。

なんにも保証なし

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。

つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

新宿慕情 p.026-027 部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた

新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。
新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。
つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

私は、〈生命の危険〉に対する予防手段を講じて、ひとりのパンパンを買った。とある旅館に入って考えたことは、忠告の第二項〈財産の危険〉である。しかし、これとて、古来あったもので、いうなれば〝枕さがし〟である。

背広を寝巻に着換えた私は、ハンガーに吊した衣類を、帳場に預けることを思いついた。早速キシむ階段をおりて、帳場のオッさんに、その旨を話しているところに、すでに寝巻を着た女性が、私を押しのけるようにして、帳場に入ってきた。

「オジさん。これ預かって……」

聞き覚えのある声に、その女を見ると、ナント、私の相方であるパンパン嬢ではないか!

彼女が、〝預かって〟と差し出していた品物が、私と同じように、ハンガーに吊した服とハンドバッグだった——つまり、彼女も、〈財産の危険〉を感じて私と同じように、衣類を持ってウラ階段をおり、帳場でハチ合わせをした、という次第であった。

リンタクくんについても、一度だけの経験がある——酔余、いまの三光町交差点あたりで声をかけられた。

「ダンナ! イイ子がいますぜ、オメカケさんですぜ。きょうはオヤジのこない日なんで……」

このようなキャッチ・フレーズに、私は、すぐノッて、乗ったのである。リンタク屋は、二丁目の対岸、いまのラシントンパレスよりも、もうすこし三丁目寄り、千鳥街のあたりのウラ、新

宿御苑に面した付近の、とある木造・兵隊長屋風のアパートに、私を案内していった。

それから以後のことは、泥酔していて、正確な記憶がない。ただ、翌日のひる前ごろになって、ノドの渇きに、私は目を覚ました。

見ると、四畳半のアパートで私は寝ている。枕はあったが、女の姿はなく、私は、前夜の記憶をたどって、リンタクのことを思い出した。……そして、〝オメカケさん〟という、魅惑的な言葉までも……。

確かにその部屋には〈生活〉があった。しかし、〝オヤジのこない日のオメカケさん〟という感じではなくて、〈生活のニオイ〉が強すぎた。

私は、起き上がって、部屋の一隅の流しで、水をゴクゴクと飲んだ。使ったコップをもとに戻そうとして、水屋(食器棚)を見ると、米穀通帳があるではないか!

「何野何子・四十五歳」と、そこには、この部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた。私は慄然とした。

部屋の家具什器と、女の年齢とから、やがて顔を見せるであろう〝オメカケさん〟が、シラフの日中には、〝正視〟できない人物であろうことが、容易に想像されたからである。

……果たせるかな、野菜の買い物を抱えて、帰ってきたその人は、私のほうが、サオ代をタップリと頂戴せねばならない女性であった。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

新宿慕情 p.028-029 青線区域に遊歩道 新宿遊郭は二丁目

〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。
新宿慕情 p.028-029 〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

その笑顔から察するに、多分私は、肌を合わせたに違いなかった——今に至るまでも、私が経験した〈最高年齢〉記録を、この新宿のリンタクが打ち樹ててくれたのだった。

ロマンの原点二丁目

むかしの青線に遊歩道

いまの靖国通り、新宿アド・ホックビルの真向かいから明治通りの新田裏(なんと古い地名であろうか。東京屈指の盛り場である新宿に、こんな〝新田〟=しんでん=裏という名前が残っているのだ)にいたる間、まるで武蔵野を想わせる散歩道が数百メートルもある。

これは、東大久保から抜弁天経由で飯田橋にいたる旧都電の線路跡(軌道敷)だ。

新宿の表通りから都電が消え、次いで、このルートも消えた。新田裏から抜弁天にいたる間は裏通りを走っていたので、一方通行の道路となったが、両側の家は、みな背中をさらけ出すハメになったが、それなりに改造されて、それほどの醜さは表われていない。

こちらは、しもた家だからまだ良い。しかし、この散歩道に変貌した部分は、両側とも飲食店

しかも、片側はいわゆる青線区域だったから、なんとも汚らしい。

相当な経費をかけたのだろうが、この跡地を払い下げたりせずに、樹をたくさん植えこんで、両側の汚い部分に目隠しをして散歩道にしたのは、グッド・アイデアであった。

雨の降る日など、石ダタミの水たまりに映える、傘の女性の姿などは、夜のわい雑さを忘れさせる風情がある。

この〈青線区域〉というのは旧遊廓の〈赤線〉に対する言葉で、警察の取り締まり上から、赤青の色鉛筆で、地図にしるしをつけたことから出た、といわれている。

三十二年ごろの、売春防止法施行と同時に消えた、それこそオールドファンには懐かしい言葉である。

某月某夜、作家の川内康範氏を囲んで、数人で飲んでいた時、談たまたま、むかしの新宿遊廓に及んだ。いわゆる二丁目、である。

「むかしの新宿、といえば、二丁目にステキな子がいてネ……」

出版社の社長であるS氏が、身体を乗り出して、ホステスたちの顔を見まわしながら、話しはじめた。

大正二ケタたちは

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

新宿慕情 p.030-031 他の遊廓に比べると新宿には美人が多かった

遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。
新宿慕情 p.030-031 遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

ホステスたちが、ドッと笑った。髪の長いのも、シヅエという名前のも、そこにはいなかったからである。

こう、話がハズみ出すと、同席のだれかれ、大正二ケタたちのみんなが、新宿二丁目の思い出話を語り出す。

「ウンウン、二丁目、なァ……」

康範先生までが、〝骨まで愛した〟過去を懐かしむのだ。

そうして気付いてみると、遊郭、赤線と呼び名は変わっていても、初老たちのロマンが、意外にも、吉原とか洲崎パラダイスとか、新宿二丁目とかに、その原点が根付いているのだ。

それは、マリー・ベル主演の戦前の名画『舞踏会の手帖』と同じように、想い出のなかだけにあるべきなので、よけいに美化され、謳い上げられているからなのであろう。……そして、私にも、〝心のふるさと〟が、そこにはあった。

美人は〝床付け〟悪い

学生時代、はじめてひとりで二丁目に出かけた私は、当時の写真見世(娼妓が、直接、店に出ているのと、顔写真が並べてあるのと、二種類の営業形態があった)で、ひとりの妓に上がった。

もちろん、現実の彼女は、店頭の、修整された写真とは、別人かと見まがうほどであった。

しかし、他の遊廓に比べると新宿には、美人が多かった。そして、美人ほど〝床付け〟が悪いのが通例だった。いうなればジャケンな扱いを受けるのだ。

遊廓の情緒というのは、やはり、吉原を措いて、他では味わえない。大枚をハズんで、本部屋(まわし部屋、割り部屋に対する語)にでも入れば、それこそ、前借金の名義にさせられたであろう、タンスに茶ダンス、長火鉢と、妓の財産が並び、ヤリ手バアさんが、炭火を入れて、鉄ビンにお湯がチンチンとたぎる。

タンスの引き出しから、これも彼女自身の財産目録の第何番目かの、丹前に浴衣を重ねて、風呂にまで入れてくれる。それも、長襦袢の裾をからげて、久米の仙人が、神通力を失ったという白い脛をみせる、艶めかしさで、背中を流してくれるのだ。

いまようトルコ嬢の、ブラジャーにパンティといった、即物主義とは違って、百人一首時代そのままの〝情緒〟である。

妓は、妓夫太郎(呼び込み係の男性)に小銭を渡して、茶めしおでんなどを、夜のうちに買わせておく。朝食の仕度をするわけだ。

「散財をさせてしまったねェ」と、朝帰りを裏口まで送ってきて市電の片道切符を一枚くれる。記憶では、市電は片道七銭で、一系統ならどこまでも乗れた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

新宿慕情 p.032-033 身体は売っても心は売らぬという女心

新宿慕情 p.032-033 貧困ゆえの身売りは吉原に多かった。新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。
新宿慕情 p.032-033 貧困ゆえの身売りは吉原に多かった。新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

客が娼婦と心中するのを防ぐために、刻(とき)というのがあって、二時間単位ほどで、妓は寝呆け眼をコスリコスリ、帳場まで行って、自分の名札をひっくり返さねばならない。つまり、二時間ごとに起こされるわけだ。……考えてみれば、ムゴイ制度であった。

そんな寝不足の状態でも、本部屋の客は、必ず、見送りに出てくる。それこそ、文字通りに〈一夜妻〉の役目を果たす。いま時の、朝食抜き女房などとは比較のできない献身である。

はじめての客を初会、二度目になると、裏を返すといい、三度目からが馴染みとなって、それこそ、心身ともに許す、ということになる。

それでも、娼婦たちは、接吻を避ける。身体は売っても心は売らぬ、という女心である。

「借金を返し終わったら、やはり、結婚したいの……。その時、亭主になる人に、初めてのものを上げたいの」

新宿と吉原の違い

貧困ゆえの身売りは、吉原に多かった。そして新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。男なしでは寝られない、というタイプの妓である。

新宿女給と銀座ホステスの違いを書いた。同様に、新宿と吉原との、遊廓の違いもあったのである。

さて、私が登楼したのは、二丁目でも、中級の見世だったろうか。「梅よし」という青楼だった、と思う。

写真とは、似ても似つかぬ醜女ではあったが、先達たちからは、「遊郭で美人に上がるのはイナカモン。醜女ほど、情はこまやかで、サービス満点」と、教えられていたので、美醜はあえて問わない。

問わないどころか、心身と財布ともに、そんな余裕のない時代だった。

とにもかくにも、本部屋の泊まりなどとは、のちにいたって体験するのであって、第何回目かの遊廓行きで、しかも、初めての単独行である。

いわゆる〝チョンの間〟というヤツで、もちろん、安いまわし料金。だから、部屋も、まわし専用の殺風景なところだ。

ついでだが、〝割り部屋〟というのは、六畳ほどのまわし部屋の中央を、衝立で仕切って、両側にそれぞれフトンが敷いてあるのだ。払いがシブチンだったり、大入り満員だったりすると、泊まり客でも割り部屋に案内される。

それほどではなかったにせよ、まわし部屋に通されて、トイレに立ったのだが、二階の廊下を歩いていると、ひとりの妓と出会った。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。

「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

新宿慕情 p.34-035 ふたりの妓は激しいいい争いをはじめた

新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。
新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。
「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

〝遊冶郎〟のエチケット

遊びにもしきたり

水商売の世界には、いまにいたるも、いろんな、古い習慣がその世界の秩序維持の必要から受けつがれ、引きつがれているものである。

例えば、クラブだろうが、キャバレーだろうが、同一店での指名ホステスは、「だれそれサンの客」として、厳重に守られている。その指名変更をすると「客を取った、取られた」の内ゲバ騒ぎに発展する。

しかし、赤坂のミカドのような、超大キャバレーが出現してくると、同一店でも、必ずしも客とホステスとが、〝めぐり合う〟とは限らない。キャバレーの場合は、指名料の売り上げだけがホステスの収入源、稼ぎ高の増減を意味するように、ドライなシステムになっているので、必然

的に、店以外での〝付き合い〟と、その清算勘定とで割り切られてくる。だから、指名客の厳守も崩れてきている。

この、同一店での指名変更が許されない、という〝不文律〟を思い知らされたのが、廊下で出会った、三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

「そうよ、そうよ。私のお客さんだよ、間違いないわ」

たちまち、ふたりの妓は、激しいいい争いをはじめた。だが私が不用意に洩らした「ウン、そうだったっけ?」という〝証言〟が決め手になって、私が上がった妓はいい負かされてしまう。

初心の私には、なにがなんだかわからないうちに、この論争にピリオドが打たれ、私がいま済ませたばかりの妓は、集まってきた全員に、〝反体制派〟として罵られて、スゴスゴと退散してしまった。それでも、私に対して、恨み言を投げつけるのは忘れなかった。

この騒ぎの原因は、どうやら私の不注意にあるらしいことは理解できた。

私は、この〝老醜〟に拉致されて、彼女の部屋に入れられたのである。そして、この世界では、一軒の店で、一度上がったことのある妓以外とは、遊ぶことができない、しきたりのあることを教えられた。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」

おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。

新宿慕情 p.036-037 私たちも久し振りの書き初めをはじめた

新宿慕情 p.036-037 警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月。目黒の課長公舎で、午後からの延長戦の酒がはじまった。
新宿慕情 p.036-037 警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月。目黒の課長公舎で、午後からの延長戦の酒がはじまった。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」
おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。

考えてみると、数人連れでワッときて、上がったこともあるような気がする。しかし、そんなことを、いつまでも厳重に憶えていられるものではない。

だが、それは、遊冶郎(ゆうやろう)としての、遊びのエチケットなのである。……こういったしつけは、なにも遊びだけではなく、次第にすたれてきて、日常生活が、サクバクとしたドライさを帯びてきている。

若い友人たちと、キャバレーなどに行くこともあるが、彼らは、平気で、見かけた〝好みのタイブ〟のホステスに、指名を変える。女もまた、それを平気で受ける。指名を外された娘はやや寂し気だが、私が経験したような、激しい抗議もなくそれなりに会釈をして、通りすぎてゆく。

「オレが、オレの金で遊ぶのになぜ、一度指名した女を、ずっと指名せねばならないのか、わからない。金を払うのは、オレだよ。それなのに、オレの自由がないなンて、そんな、バカなことありますかい!」

それが、いまの論理である。これも〝田中首相の後遺症〟というべきなのか……。

正月の警察公舎で

新宿二丁目の思い出に、特筆しなければならぬことが、もうひとつある。といっても、それはもう、遊郭から赤線になった戦後のことだ。

私が、警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月……。

いま、内閣で、室長の地位にある某氏が、まだ、課長だったころ、私と後輩のF君のふたりで、その課長宅を訪れた。私たちの担当課長だからだ。目黒の課長公舎には、この御用始めの日が、各課員たちの年賀の日で、夕刻ごろまでは、私服の警官たちで賑う。

ついさきほど、課員たちが帰っていったらしく、課長も、けっこう赤い顔をしていた。

外国勤務の長かった課長は、それなりに、警察官僚らしくない、闊達な男だった。

私たちの顔を見て、午後からの延長戦の酒がはじまった。部下相手の酒よりは、やはり、まわりも早いのだろう。奥さんも可愛いお嬢さんたちも出てきて、正月らしいフンイキが盛り上がってきていた。

小学生のお嬢さんたちが、宿題の書き初めをやり出したので、私たちも、久し振りの毛筆に

(写真キャプション)最近の新宿の二丁目には、まだ古い建物も残って……

興味を感じて、書き初めをはじめた。課長もその気になってきたようだった。

新宿慕情 p.038-039 庭にフトンを投げ出して飛び降りた

新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…
新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…

私たちの顔を見て、午後からの延長戦の酒がはじまった。部下相手の酒よりは、やはり、まわりも早いのだろう。奥さんも可愛いお嬢さんたちも出てきて、正月らしいフンイキが盛り上がってきていた。
小学生のお嬢さんたちが、宿題の書き初めをやり出したので、私たちも、久し振りの毛筆に

興味を感じて、書き初めをはじめた。課長もその気になってきたようだった。

やがて、半紙がなくなると、課長は、公舎のフスマを指差して、「紙はあすこにある!」と叫んだ。

私たちはワルノリして、たちまち、フスマいっぱいに、文字やら絵らしきものなど、書き殴り出した。フスマから壁へと、座敷いっぱいに落書をしたあげく、夜ふけとともに、三人ではもの足りないと、近隣の公舎から、親しい課長たちを狩り集めてきて、大宴会になってしまった。

さて、靴はどこだ

サテ、話はこれからである。夫人が、二階にフトンをのべてくれて、ふたりは、そこに酔いつぶれ、寝こんでしまった。

だが、翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった——正月だというのに、ふたりとも、オーバーは着ておらず、なによりも困ったことには、靴がないのである。帰れないのだ。

ふたりが、途切れ途切れの記憶をつづり合わせてみると、どうやら、こういうことだったらしい。

どちらが先に、目を覚ましたのか明らかではないが、夜半「どうして女がいないのだ?」と、遊廓に泊まっている夢でもみたのか、騒ぎ出したらしい。その結果、「どうやら、監禁されてい

るらしい」と、とんだ〝公安記者〟的推理から、〝脱走〟することになった。

二階の雨戸をあけ、庭にフトンを投げ出して、飛び降りた。ヘイを乗り越え、ガケをすべりおりて、タクシーを拾った。

そして、女たちの証言で、明け方ごろ、二丁目にたどりついた、ということらしかった。

こうして、正気にもどってみると、たとえ、正月のこととはいえ、警視庁記者クラブで、公安担当のふたりが、ふたりとも不在では困る、と気付いた。

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。

「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」

「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」

「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」

「スマン。……ところで、靴があるかい?」

「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」

「イヤ、クラブじゃないんだ」

「どこです?」

「二、チョ、ウ、メ……」

「二丁目? 新宿の?」

新宿慕情 p.040-041 サカサクラゲ、連れこみ、アベックホテル、ラブホテル

新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…
新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。
「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」
「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」
「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」
「スマン。……ところで、靴があるかい?」
「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」
「イヤ、クラブじゃないんだ」
「どこです?」
「二、チョ、ウ、メ……」
「二丁目? 新宿の?」

「オイ、オイ。そう、大きな声を出すなヨ。タノム、済まんが届けてくれよ。……出られないんだ……」

「イヤァ、あの座敷の落書だけでも呆れたのに、新宿の赤線にいるんですか?」

かくて、ナンバー・三万台(官庁公用車の番号は、すべて三万ではじまっていたので、公用車をそう呼んでいた)の、課長専用車が、新宿の赤線にピタリと横付けされることになる。もしも、どこかの新聞記者が、その光景だけをみかけて、写真を撮っていようものなら、大特ダネだったろう。

若く、真面目な警察官である運転手クンがいった。

「イヤァ、記者サンというのは私たちの想像を絶するようなことをなさるんですなァ!」

「ナニ、〝心のふるさと〟に里帰りしただけサ」

按ずるに、課長宅の上等な客ブトンが、紅楼夢を誘ったもののようだった。

数日後に、課長がいった。

「オイ、オイ。おかげで、日曜日が一日ツブれたゾ。フスマは経師屋に頼んだけど、壁は、オレが塗り直したンだ。……子供たちはよろこんでいたがネ」

ほぼ同年輩の課長クラスは、もう、総監やら警察庁次長、内閣ナントカ室長などと栄進していて、あんな〝遊び〟は、もうできない地位になっている。

トップレス・ショー

東へ広がる新宿

二幸ウラの都電通り(いまの靖国通り)を境に、そこまでが新宿の盛り場だったのが、昭和三十一年にコマ劇場ができ上がると、街が深くなって、コマ劇場の裏通り(風林会館から大久保病院にいたる通り)が、盛り場の境界線となって、歌舞伎町が誕生した。

その奥、東大久保町は、それこそ、文字通りのベッド・タウンで、〈連れこみ〉旅館街である。その区別は、画然としていたのだった。

ところが、旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として浸蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も、そこから大久保通り(国電の大久保、新大久保両駅を結ぶ通り)との間と、明治通りの西大久保側とに、追いやられてしまった。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。

かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

新宿慕情 p.042-043 往年の名画は武蔵野館と昭和館で

新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。
新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。
かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

そのコマ劇場ウラのネオン街。五階建てのビルに、コンチネンタルというクラブがある。いやあった、というべきだ。

風林会館から、明治通り寄りにあるマキシムが、多分、〝元祖〟なのだろうが、ホステスによるショー・チームがあった。学芸会さながらの稚拙さと、踊りが終わると、客のもとに帰ってきて、ホステスになるというシステムとが受けたらしい。

この分派が、ムッシュ・ボンドという店に移って、ここでもホステスの四人チームが、客席の間でカンカンを踊る、といった趣向が受けていた。

もちろん、トップレスだ。でも、ストリップ・ティーズではない。

ところが、さきのコンチネンタルでは、プロの踊り子チーム五人が、意欲的なショーをやっていた。若い、演出家兼振付師が、半月変わりで大胆な試みをやる。〝大胆な〟といっても、〝際どい〟という意味と間違えてもらっては困る。

私は、このチームのファンになった。そのなかの、まだ、二十歳そこそこの踊り子のムチに、夢中であった。

ムチのソロ場面になると、席から立ち上がって、拍手のしつづけなのだ。カケ声をかける。

同行の友人たちは、苦笑して私のことを〈若い〉という。

だが、これは〈若い〉のではなくて、〈老い〉が忍びよってきていることだ、と、私は心秘かに、自問自答している……。

武蔵野館は三階席

そう、想い起こせば、と、書くあたりにも、それが、うかがえるではないか——昭和十四、五年ごろのこと。私はまだ、中学生だったが、府立五中の制服が、当時では珍しい背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って、新宿の街を歩いていた。

新宿駅の中央口通り。洋画の封切館の武蔵野館が、〝知性派の町〟のシンボルのひとつでもあった。

安い三階席からは、スクリーンは、はるかの谷底にあったが、クローデッド・コルベール主演の『ある夜の出来事』の、スカートまくって、ガーターをズリ上げて、車を停めるシーンに眼をコラしていたのも、ついさきごろのことのような気がするのだ。

マリー・ベルの『舞踏会の手帖』、コリンヌ・リュシェールの『格子なき牢獄』といった、往年の名画の数々は、みな、武蔵野館の三階席の思い出とともに、まだ私の心の中に生きている。

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

新宿慕情 p.044-045 清洲すみ子に懸想、市川弥生にほのかな愛情

新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

昭和館は、むかしの場所に、多分、最後の建物だろうが、ともかくも、映画館として残っていてくれている。

だが、その中間に位置していた、ムーラン・ルージュは、もう跡形もなくなってしまい、ビルが建ち、ツマらない映画をやっている……。

私が、コンチネンタルのムチに手を叩くのは、このムーラン・ルージュへの〈郷愁〉に違いない、と思う。

わが青春の女優たち

当時、「新劇」と呼ばれていたのは、村山知義の率いる新協劇団と、薄田研二らの〝集団指導〟制の新築地劇団とで、いまの感じでいえば、セ・パ両リーグのような形で、左翼演劇絶対の立場をとっていた。

そして、同じように、新劇の範疇ではあるが、肩肘怒らした左翼演劇の息苦しさよりも、もっと、傍観者的にオチョクろうという、さながら、週刊新潮誌張りに、フランス・コメディを中心とした、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディという、別派があった。

そして、この〈我がムーラン・ルージュ〉は、テアトル・コメディの劇場演劇に対して、自ら〈軽演劇〉として、ファース(笑劇)とレビューを売り物にしていた。

しかし、本場パリの小屋の名前を、そのままイタダいているのでもわかるように、このムーラ

ン・ルージュには、浅草のドタバタとは違って、学生たちを満足させる、〝白水社的〟知性があったのだった。

だから、私はいまでも、有島一郎をテレビで見ると、ムーランの舞台にいた彼を、その映像にダブらせて見ている。

金貝省三という〝座付作者〟に憧れて、楽屋に会いに行ったこともある。

踊り子でいえば、スターの明日待子に胸をトキめかし、五十鈴しぐれというワンサに、プレゼントを届けた。

ムーランを卒業した私が、やがて、築地小劇場に拠っていた左翼演劇に熱中し始めるのは、当時の〝進歩的学生〟として当然のコースなのだが、新協劇団の女優サン・清洲すみ子に〝懸想〟することになる。

ムーランの中堅の踊り子だった市川弥生にも、同じように、少年のほのかな愛情を抱いたものだった。戦争と捕虜とから生還した私が、廃墟さながらの新宿の町で知り得たニュースは、市川弥生嬢が金貝省三氏と結婚したということと、やはり、新協劇団の清洲サンが、村山知義夫人になっていたということだ。

いまにして思えば、ナント、オマセな少年だったか、という感じである。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

新宿慕情 p.046-047 八等身の美女がズラリと居並び

新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

……サテ、本題のムチに戻らなければならない。

こんなふうに、かつての演劇青年だけに、コンチネンタル・ショーの、〝文化度〟を判断する能力はあったのである。

それだからこそ、このクラブの経営者に、もっと客の入りを考えるように忠告し、演出家兼振付師の水口クンには、然るべく、アドバイスをしたりしていたのだが、やがて、クラブは経営不振でクローズし、ムチのチームも、新宿から去っていってしまった。

だれか、私のムチを知らないか……と、私は、〈郷愁〉の幻影を追い求めて、また、夜の新宿を、ハシゴする——。

要町通りかいわい

美人喫茶は戦前に

古き良き時代——というのは必ずしも〈戦前〉だけ、とは限らない。

〈戦後〉の新宿にだって、〝古く良き〟店が多かった。その代表的なものに、「美人喫茶」がある。

美人喫茶、というのは、そのハシリは、日比谷交差点にある朝日生命館の一階に、「美松」という店があった。

エ? と、反問しないでもらいたい。戦前のことなのだ。

あの一階の、広いフロアいっぱいに、八等身の美女がズラリと居並び、中二階のレコード係がこれまた、美女中の美女。

スケート場といえば、芝浦と溜池の山王ホテルだけ。ダンスホールは新橋のフロリダ、喫茶店は美松、といった時代だ。文字通り、〝きょうは帝劇、あすは三越〟しか、社交場がなかったころなのだ。

この「美人喫茶」思想は、だんだん食糧事情が良くなって、量よりも質の時代になってきた、多分、昭和二十七年の日本の独立以後、芽生えてきたと思う。

果たして、銀座のプリンスが先なのか、新宿のエルザが先なのか。あるいは、新宿でも、エルザよりも早い店が、あったのかも知れない。そのへんの正確さは欠けるけれども、新宿の美人喫茶といえば、私にとってはエルザ——私のエルザ、なのである。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

新宿慕情 p.048-049 純・喫茶店を求めて街を歩く

新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。
新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

もっとも、近年のエルザは、ツマラない、ただの喫茶店になってしまっていた。

むかしは、コーヒーが美味くて、椅子が大ぶりなうえに、卓との空間がひろく、フワッと身体が沈むセットを使っていた。いうなれば、〝目には青葉、山ほととぎす、初鰹〟という、三位一体の、美人喫茶だった。

それなのに、椅子は、張り替え張り替えで固くなり、コーヒーの味も並み。目を愉しませてくれる女の子は、よくまあ〝伝統あるエルザ〟に応募してきたナ、という感じである。

昭和四十年代に入ると、高度成長のアオリで、ネコもシャクシも、〝すなっく〟ブームだ。

喫茶店にあらず、レストランにあらず、バーにあらず、ラーメン、スパゲティ屋にあらず。すべてに、似而非(えせ)なるものの、混合体を〝すなっく〟というらしい。

私は、むかし気質のエンピツ職人をもって任じている。それだけに、専門家を尊敬する。一業をもって一家をなすべし、となるのだから、この、ナンデモ屋で、しかも、みな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

関西へ行くと、喫茶店がカレーやスパゲティを出す。純・喫茶店を求めて、街を歩くのだが、準・喫茶店しかないので、ホテルのコーヒー・ショップを、止むなく利用する。

言葉に厳格なせいか、私は、クラブというのも用いない。バーという。バーの高級そうなのをクラブというらしいが、自分が金を出してアルコール類を飲んでいるのに、女給ども(これもまた

ホステスという言葉がキライだ)が、コーラかなんかを飲むと、「アッチに行ってくれ」と、断りたくなる。

同様に、コーヒーをたのしんでいる横で、カレーやラーメンを食われては、コーヒーの味が落ちるからイヤなのだ。

なつかしのエルザ

マキさん、というレジ係の中年の女性がいた。着物の良く似合うひとで、もう、大きな中学生の男の子がいた。

馴染み客でない男には、ママと見えるほどの貫禄があったが、実は、従業員だった。十年以上もいたのではなかろうか。

このマキさんが辞めて、エルザは、完全に、昔日の栄光を失った。

エリザベス女王と同じように、いつも、微笑を浮かべて、客商売の基本を崩さなかった。ただ女王陛下の〝威厳の微笑〟に比して、マキさんのは、〝慈愛のほほえみ〟であった。女らしさと品の良い色気とが、織りまぜられていた微笑だった。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。

むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

新宿慕情 p.050-051 日本橋の紅花、行列して待つほどの繁昌ぶり

新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。
むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

やがて、二階を喫茶バーに変えたりしたが、大テーブルの向こう側に女性がいて、酒類を飲みながら、安く、人生論を展開したりするには、あまりにも、世の中が〝現金〟化しすぎていたし、女性側にも、もう、そんなロマンチストは、数少なくなっていたので、これもまた、すぐ飽きられて、水揚げが悪かったようだ。

田中角栄氏が、すでに、幹事長になっていたセイだろう……。即物的な風潮が、もはや、美人喫茶などという、ロマンを押しツブしてしまう時代だった。

この要町通りの一角は、私の新宿での、一番関係の深い土地である。

ランチならいこい

エルザとの十何年の付き合いと、ほぼ同じくらいになるのが、エルザと背中合わせの角にある「いこい」というキッチンだ。

食べ物屋は、美味いのが第一で、次が安いこと。そして、量ということになる。そのうえ、材料が新鮮、ということになれば、もう、申し分がない。

この「いこい」は、現在も、いよいよ盛業中なので、いささかCMめくけれども、〝事実は雄弁に勝る〟のだから、しようがない。

ここの若ダンナが、まだ独身時代からで、結婚し、子供が生まれ、大きくなってゆくのを、ず

っと、目撃しつづけてきたのだ。

それは、〈いこいランチ〉を通じての仲である。

「いらっしゃーい。まいど」

「ごちそうサン」

交わす会話はこれぐらいでも心と舌とは通じ合っている。万古不易……といえば、大ゲサすぎるが、洋食屋で、これほど変わらない店は少ない。

もう、ズッとむかし。日本橋の紅花に行って、その味と量と値段とに、驚いたことがある。ランチ・タイムなどは、付近のサラリーマンたちが、行列して待つほどの、繁昌ぶりだ。

この〝好況〟に、経営者は、その気になったらしい。チェーン店がふえるたびに、味が落ち客足が落ちて、値段が上がってゆくのだ。もう、紅花などに見向きもしなくなって久しい。

食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。味が、ガラリと変わってしまう。中国料理店など、その代表的なものだろう。

だから、少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもとだ。飲み屋は、サービスとフンイキだから、チェーン店を出せる可能性もあるが、食べ物屋は、そうはいかない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

新宿慕情 p.052-053 支社長の吉川さんが酒を呑まないし魚と肉のアレルギーという人物

新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。
新宿慕情 p.052-053 関西風のナンデモ屋がキライだ、と書いた。大阪でナニかを食べようとしたら、私はホテルのレストランしかえらばない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

料理である。食べ物の味である——子供の時の、オフクロの味から、おとなになるに従って〈自分の味〉を持つようになるのが当然だ。

この〈自分の家の味〉を、カミさんに仕こむのが、ひと仕事なのである。

焼きもの、イタメものは、一年かそこらで教えられても、煮ものとなると、三年、五年。日常生活の、「オイ、アレ!」というので、十年ほど。

マクドナルドやケンタッキーから、ブロイラーのトリチュウのたぐい。インスタントに冷凍もどし。〝焼くだけ〟のパック食品などで育った、いま時の若夫婦に、離婚の多いのもうなずけよう。

コーヒーの味と洋食屋——新宿と古女房とから、離れられないのも、〝慕情〟のたぐいなのでしょう。

ブロイラー対〝箱娘〟

大阪はピンとキリ

関西風のナンデモ屋がキライだ、と、書いた。

例えば、梅田のあの地下街。そのほとんどが、食べ物屋なのに驚く。そして、店の名前が違うだけで、メニューはほとんど同じ。さらに、マズかろう、高かろう……なのだ。

スパゲティ何百円、とか、値段そのものは、特に、高いというわけではない。しかし、味からいって、高いと感ずる。

地上に出て、曾根崎あたりのアーケードも同じことだ。地下の小間割りと、まったく同じである。表通りの店も、横丁の店も、そして、ミナミに行っても……。

大阪で、ナニかを食べようとしたら、私は、ホテルのレストランしかえらばない。

招待されて、吉兆あたりで、ホンマモンの関西料理を頂くのなら、これは結構だ。

さんぬる年のエベツさんの日に、帝塚山の大屋晋三氏邸に、大阪読売やよみうりテレビのエライさんたちに、お相伴にあずかったことがある。

新邸の和風大食堂に、吉兆が出張してきていた。……と、金箔の浮いたお吸物が出た。

御堂筋から入ったお店のほうにも行ったことがある。秋だったので、中秋の名月を型どった前菜が出た。横笛を模した細竹の器に、感嘆したものだった。

大阪支社があるので、チョイチョイ、大阪には出張する。しかし、支社長の吉川さんが、酒を呑まないし、魚と肉のアレルギーという人物なので、よけいに、大阪では〝味〟不案内だ。ネオン街とて、自分で開拓せねばならない。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

新宿慕情 p.054-055 新宿西口あたりが梅田地下街に感じが似ている

新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。
新宿慕情 p.054-055 テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち――恐ろしいことではないか。

支社の近くにも、旨いコーヒーを飲ませる店もある。すると隣のテーブルで、ヤキ肉ライスを

食われるのだから、参ってしまうのだ。

だから、どうやら、大阪というところは、ホテル以外では、ピンとキリしかないみたい。そんな印象である。ナニが〝食いだおれ〟か、と思う。

大阪のことを書くべき原稿ではないのだが、もうひとつ、書かないではいられない。フト、思い出したからだ。

ロイヤルホテルの地階に、なかのしま、という、和食ゾーンがある。前々から、ホテルのことばかりホメているのだが、ここの竹葉亭のうなぎなど、東京の竹葉亭もそれほどではないがヒドイもんだ。

天ぷら、すし。いずれも、値段の割にオソマツである。

西口はキリばかり

話を新宿にもどそう。

梅田の地下街をイントロに書き出したのは、西口あたりが、梅田と、感じが似ていることをいいたかったのである。

そして、食べ物屋のすべてが梅田地下街を、そっくり移してきた感じである。

新聞の紙面が画一的だ、といわれて久しい。そればかりか、大都市の構造も画一的だし、食べ物屋の造りも、メニューも、味も、そうである。

これでは、政府とて、〈国民総背番号制〉にでもしなければと、考えつくのも当然である。

テレビで宣伝された、マスプロの同じものを着、同じオモチャで遊び、同じマスプロ食品で育つ、いまの子供たち——恐ろしいことではないか。

つまり、ウチの社でも、若い連中を使ってみるが、彼らは、常に〝与えられ〟つづけてばかりなので、いつも〈受け手〉であって、決して、〈送り手〉になろうとしない。

新聞記者を志したり、新聞社で働こう、というのに、〈受け手〉の意識しかないのだから、困ってしまう……。

その証拠は、あの新宿の飲食店が、いつも満員で、それぞれに繁昌していることでも、明らかである。

洋食は、「ハンバーグに始まって、ハンバーガーに終わる」という。

成長してゆく子供たちの、食生活の歴史を眺めてみると、中学生では、喫茶店に入っても、クリームソーダだが、高校生になると、ようやく、コーヒーへと進む。レストランでいうと、小学高学年までは、お子様ランチやスパゲティ、カレーライスでも、中学生になると、ハンバーグとなるから、不思議だ。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。

「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。