月別アーカイブ: 2020年2月

迎えにきたジープ p.022-023 ソ連関係のエキスパートばかり

迎えにきたジープ p.022-023 However, the G-2 research team was poor enough to speak Japanese, and their information sense and research skills were completely zero.
迎えにきたジープ p.022-023 However, the G-2 research team was poor enough to speak Japanese, and their information sense and research skills were completely zero.

二十一年九月ごろになると、シベリヤ引揚があるらしいという情報が入り、対ソ資料収集の

好機とよろこんだGHQでは、十一月上旬になって、ウイロビー少将が有末氏を呼んで、『ソ連から引揚がある。対ソ資料上重要なことだから、経験者で三グループを編成して協力してほしい』と命じた。

有末氏は復員庁次官上月良夫元中将(21期)同総務局長吉積正雄元中将(26期)同総務部長荒尾興功元大佐(36期)らと相談して、関東軍関係はソ連に抑留されているので、旧五課関係将校で将官を長とする三グループを編成した。

この三組の顧問団を佐世保、函館、舞鶴の三引揚港にそれぞれ配置して、『誰に、何を?』訊くべきかという、訊問の援助をする陰武者にしようというのである。舞鶴に配置されたのは陸軍省高級副官菅井斌麿元少将(33期)を長として、五課員福居元大尉、情報参謀堀江元少佐、同松原元少佐、堀場元満鉄調査部員の四名だった。これらの要員はG—2に所属して、給与は終戦処理費の秘密費から出たが、身分は復員庁の復員官という奇妙な存在だった。

一方GHQでは、従来各府県軍政部に所属していたこの三港を直轄として、ポート・コマンダーを任命、さらに舞鶴には大津連隊のナイト少佐を長とし、G—2高木(タカギ)准尉ら十五名の二世下士官からなる調査班を設けた。

二十一年十二月八日、いよいよ引揚第一船大久、恵山両船が入港した。ところがこのG—2特派の調査班は日本語ができるというだけのお粗末な連中で、情報センスや調査技術は全くゼロという始末に、菅井元少将以下のアドバイザー・グループはあわてだした。大きな期待を持っているウイロビー少将へ報告書を出さなければならないからである。

たまらなくなった元将校たちは〝蔭の声〟だというのも忘れて、第一線にのりだして作業を始めてしまい、やっと報告書らしいものを作りあげた。彼らにしてみれば〝報告書らしいもの〟だったのであるが、GHQでは兵要地誌として高く評価した。つまり日本陸軍では〝対ソ常識〟程度のものが、無知な米軍にとっては貴重な知識として受取られたのだった。

明けて二十二年一月四日、第三船明優丸、同七日第四船遠州丸が入港した。第一船大久丸は阪東梯団で、在ソ日本人の宣伝機関紙「日本新聞」関係の、阪東、北村、益田氏らがおり、第二船恵山丸には、のちに参院でのソ連製スパイ「幻兵団」証言で問題となった、同新聞編集長、小針延二郎氏がいた。また明優丸は大和梯団、遠州丸は草田梯団であったが、この草田梯団が問題となって、米ソのスパイ戦の幕が切って落されたのである。

三 天皇島に上陸した「幻兵団」

第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。

迎えにきたジープ p.024-025 「幻兵団第一号」が発見された

迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.
迎えにきたジープ p.024-025 The first Phantom Corps, which swears loyalty to the Soviet Union and returns to Japan and executes its secret command, was thus found.

三 天皇島に上陸した「幻兵団」

第一次引揚の大久、恵山両船の時に、直接手を出してしまった日本側は、何しろソ連関係のエキスパートばかりなので『スパイらしい人物が多数混っているようだ』と、敏感にもキャッチした。そこで直ちにナイト少佐らの米軍調査班に連絡したが、一笑に付して取上げようともしない無智蒙昧ぶりである。

この件を内部で検討した顧問団は、重大な問題だというので、中部復員連絡局長川越守二元中将(28期)、北陸第二上陸地支局(舞鶴)長稲村豊二郎元中将(26期)、復員部長大熊初五郎元中佐(37期)らと相談した結果、日本側として引揚に関する資料を整理しようということになり、その報告書を復員庁を通じてG—2に提出した。

この報告を読んだウイロビー少将は、日本将校の対ソ感覚、資料の収集技術に感心して、将来とも積極的な協力をと要請してきた。

顧問団の調査によって、ソ連側の政治教育、日本新聞の組織と編成、収容所付近の状況、帰国後の赤化工作組織の企図などが明らかにされたのだったが、第二次の明優、遠州両船ではより重大なことが明らかにされた。

遠州丸の草田梯団はライチハの民主大隊といわれた積極分子を母体にしていた。この民主グループ「北斗会」は委員長草田守元兵長(愛知)、常任委員保科義英元一等兵(新潟)、堀尾貫文元一等兵(長野)、大田貢元上等兵(広島)、井上進元少尉(神奈川)らで、「北斗会」がチェックされた結果、収容所の動向のすべてが調査された。

この調査で、彼らは誓約ののち北海道でコルホーズ組織を作る、中央では日共支援という指令を帯びていることが明らかになり、アメリカ側を驚かせた。現地の米側では、引揚者調査はソ連の兵要地誌を作るのが目的だと思っており、このような政治工作についての関心は全くなかったからである。

この自供を行ったのは、やはり北斗会の幹部だった鈴木高夫氏であった。ソ連側に忠誠を誓って帰国、その指令を実行するという「幻兵団第一号」は、こうして発見された。また、『モスクワ大学帰りもいる』という自供は井上元少尉から出た。

ガク然としたアメリカ側は、報告書を携えピストルで武装したクリエールを東京へと飛ばした。続いて上陸第二日の九日夜、調査班に呼び出された草田、保科、堀尾、大田、鈴木の五氏はそのままGIに護送されて、東京に連れ去られてしまった。

ラストヴォロフ事件で、ラ氏を無断で国外へ連れ去られたように、この時も日本側には何の連絡もなく、上陸地支局長の稲村元中将も全く知らなかった。しかし、幹部でありながら残された、井上、伊藤、大橋氏らが日の丸組からリンチされるという騒ぎが起り、復員庁側はようやく五氏が居なくなっているのを発見したのである。

草田氏らはG—2、すなわちNYKビルに連れてゆかれて、本格的な取調べをうけた。これが、舞鶴でチェックされて、NYKビルに呼ばれるようになったはじめであった。

迎えにきたジープ p.026-027 拳銃を下げたテイラー

迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.
迎えにきたジープ p.026-027 This American, Taylor, who always has a bare pistol on his waist, was the first man to face a Soviet spy in Japan after the war.

四 パチンコのテイラー

舞鶴には引揚開始前から米国機関がおかれていた。軍政部とCIC、大津連隊舞鶴分遣隊の三つである。ところが引揚とともにGHQの直系のLS(言学部、Language Sec.)と称するナイト少佐の調査班と、CIC(防諜隊)本部からテイラーとその副官ともいうべき中村(ナカムラ)を長とする特別班とが設置された。

軍政部は政府や民間の監督、分遣隊は警備、舞鶴CICは地区の思想問題と、それぞれの任務を持っており、そこにさらに全く指揮系統の違う二つの機関ができたので、この五つの米国機関はそれぞれニラミ合いのような恰好になってきた。

第一次引揚でナイト少佐班の二世たちが、クソの役にも立たないことを知ったG—2では、顧問団を教官として二世たちにスパイ容疑者訊問法を教育しはじめるとともに、スパイ関係調査は特派CICの管轄に入れることとした。

スパイ関係を受持ったこの特派CICは、G—2の調査班とも、また同じCICである舞鶴CICとも仲が悪かった。そのキャップであるテイラーという男の実態は判らなかった。独系のスポーツ選手のような身体つきの、三十四、五才の男だったが、いつも抜身でパチンコをブラ下げており、他の米人たちからもケムたがられていた。彼は日本語が自由なくせに、使ったこともなければ、分らないようなフリをしており、しかも東京では中佐の階級章をつけていたのを見たという人もある。

中村(ナカムラ)という二世はまだ二十四、五才の男で、テイラーの子分のような男だった。このテイラーというアメリカ人が、戦後はじめてソ連スパイと対決した男である。草田ら五氏は中村に呼び出され、テイラーに付き添われてNYKビルに送られたからである。米ソスパイ戦史の記録に留めねばならない男であるが、正体はついに分らなかった。

LSははじめナイト少佐以下十六名というコジンマリしたものだったが、二十二年四月の引揚再開以後は次第に人員が殖え、百名もの大世帯になったこともある。長はナイト少佐、テイラー少佐、スコット少佐、リッチモンド少佐、ダウド大佐、ハイヤート中佐と変っていった。

四月の引揚再開後は、復員庁関係の菅井元少将らの顧問団はやめて、G—2の職員として本格的採用になった日本人に変った。八月になるとスコット少佐が総指揮官として着任し、組織も拡大されてHM(統計調査部、Home Ministry)という、LSや特派CICの下請け機関ができた。

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。

迎えにきたジープ p.028-029 諜報基地〝マイズル〟

迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.
迎えにきたジープ p.028-029 Captain Sakamoto looked for an advisor. He recruited former Major Masatsugu Shii (military school 52nd), who was a 35th Air Force staff member, returning from Siberia and living in Maizuru. This is the person later known in the Rastvorov case.

二十三年暮ごろ、LSとCICのセクショナリズムがひどすぎるので、この調整機関と広報をかねて、新しい組載として第五班ができた。この班の仕事はCIE(民間情報教育局)に属し、引揚者の更生教育の指導と報道関係とにあった。この長には函館からキヨシ・坂本(サカモト)という二世大尉が着任した。彼の発言はLSのリッチモンド少佐を押えるほどであった。広島県出身の二世で、中学は日本で卒業しているといわれ、非常に日本人的感覚のある二世らしからぬ二世であった。

第二次大戦に州兵師団の兵隊として軍隊に入ったが、ガダルカナルの戦闘で、攻撃進路の偵察、島嶼作戦の事前工作などで、抜群の功績をたて、さらに、ブーゲンビル、比島と転戦して任官した。

着任した坂本大尉は、アドバイザーを探して、舞鶴在住のシベリヤ帰り、元第三十五航空軍参謀志位正二少佐(52期)を採用した。これがのちにラストヴォロフ事件で自首してきた問題の人物である。

舞鶴の港を握っていたのは軍政部で、ポート・コマンダーは同部の若い少尉スターだった。彼はテイラーと同様に抜身の拳銃をブラ下げていたが、さっそうとしていて、キング・オブ・マイズルと呼ばれていた。引揚船が入港すると、星条旗をハタめかしたランチに乗って船にいった。

 船長、パーサー、復員官らからナホトカの状況、引揚者の船内動向などを聞いて、下船の指示を下す。そして、彼自身は援護局の入口桟橋で引揚者を迎えて、『ミナサン、モウココデハダレモ〝ダワイ、ダワイ〟トイイマセン、アンシンシテクダサイ』と挨拶しては、〝ダワイ〟というロシヤ語に喜んでいた。

もう一つ書かねばならない組織がある。新しいアドバイザー・グループである。復員庁の顧問団がやめて、G—2から八名の日本人が派遣されてきたのである。その中にはハルピン特機育ちで、ハルピン保護院(監獄)長だった前田瑞穗元大佐(33期)、前川国雄元少佐(45期)らがおり、この八名のうち七名までが元軍人だった。

米国の秘密機関の詳細については、後のNYKビルの項にゆずって、このようにして東京駅前のNYKビルに直結する諜報基地〝マイズル〟は着々と整備された。まず引揚者は軍政部系統のHMで京都府職員の日本人の手によって下調査され、LSかCICに廻される。LSは一—四班まであり、前記八名の日本人を顧問として兵要地誌の調査をやる。ここは前期には言学部といったが、後期は連絡部と呼ばれていた。CICは飜訳部といいスパイ摘発専門。坂本(サカモト)大尉の第五班がその間の調整という分担だった。LSとCICには鉄条網が張られ、武装した米兵が立つというものものしさである。

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。

迎えにきたジープ p.030-031 酒井元少尉はついにおちた

Lieutenant Uryu thoroughly grilled former second lieutenant Sakai. So Sakai has finally fallen. He confessed all spy orders because of too much mental oppression.
迎えにきたジープ p.030-031 Lieutenant Uryu thoroughly grilled former second lieutenant Sakai. So Sakai has finally fallen. He confessed all spy orders because of too much mental oppression.

しかし、終戦直後の対ソ資料収集でも、陸海空の三軍がそれぞれにソ連関係将校を呼んでは人材の奪い合いをしたという、セクショナリズムのはげしい米人たちである。これら各機関が、ここでも同様に引揚者の奪い合いで、自己の業務ばかりを主体として他を顧みないので、引揚者の帰郷出発が遅れたり、NYKビル送りの数の多少まで争うので、日本側の業務はしばしば混乱させられていた。

五 秘密戦の宣戦布告

二十二年四月、引揚が再開されて八日に明優丸、十日に大郁丸、十二日に信洋丸、十六日に米山丸、十九日に永徳丸と、引揚船は陸続として入港してきた。ところが、一船、二船の明優と大郁には元将校がまじっていたのに、三船の信洋丸からは元将校は一人もいなくなった。

ソ連では元将校の帰還をやめ、特別教育をしているという説が出て、日本人顧問団ではこれはオカシイとニラんでいた。五月になってウラジオの将校団が引揚げてきた。その中で長野県出身の酒井少尉という若い元軍医がCICに散々にしぼられていた。

『何も俺だけシボらなくてもいいだろう』

この若い元少尉は疲れ切って、しまいには腹立たし気に、訊問官の寄地(ヨリヂ)少尉に喰ってかかった。ピンときた寄地少尉は訊問を打切って顧問団に相談した。そこで、顧問団の一人が代って訊問し、カマをかけた。

『ソ連のスパイになるという誓約をしてきた男がいるか?』

『居る』

酒井元少尉はつい答えてしまった。

『それは誰だ?』

『……言えない』

たたみかけてくる質問に、酒井元少尉はハッと気付いて、固く口をつぐんでしまった。見込みがあるというので、調べ官は爪生(ウリウ)准尉に交替することになった。

そのころのCICは、すでにテイラーに代って、二世の山田(ヤマダ)大尉となり、その部下では瓜生と高木(タカギ)という二人の准尉が中心で、この二人の功名争いがはげしく闘われていた。また顧問団の主任ともいうべき前田元大佐は、園木という偽名を使っており、さらに匿名の三羽烏をそのブレーンにしていた。この三羽烏の日本人は、二人が元憲兵で他の一人は満洲育ちというらつ腕家揃いで、前田元大佐によいアドバイスをしていた

さて、瓜生准尉の手に渡った酒井元少尉は徹底的にしめ上げられた。酒井元少尉はついにおちた。あまりな精神的打撃に一切を告白した。ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的になってきたのである。

迎えにきたジープ p.032-033 CICは彼をおとりに使った

迎えにきたジープ p.032-033 "Phantom Corps, No. 3", Takurou Saito has asked the CIC for protection from the Soviet Union. He had been ordered by the Soviet Union to "return to his previous job and spy on shipbuilding plans."
迎えにきたジープ p.032-033 ”Phantom Corps, No. 3″, Takurou Saito has asked the CIC for protection from the Soviet Union. He had been ordered by the Soviet Union to “return to his previous job and spy on shipbuilding plans.”

ソ連から政治的な指令をおびてきているという自供をした、一月七日の遠州丸草田梯団の鈴木高夫氏は、「幻兵団第一号」ではあったが、この酒井元少尉の場合は政治的というより、純然たるスパイ指令であったから、いよいよ本格的

になってきたのである。

ともかくCICの二世たちは、日本人の取扱いが下手で、猜疑心ばかり深く、そしてらつ腕であった。だからその取調べも想像がつこうというものである。それにくらべると、LSの方がより好意的である。

LSではこうだ。せまい小部屋に呼びこまれて好意的に訊問される。いい話が出たりすると、まず「ひかり」の数本が机上に出される。その話が詳しければ、さらにチョコレートやキャンデーが出てくる。しまいにはジュースや果物だ。

——どんな服装の兵隊がいた? それはどんなマークをつけていた? 何人位? フーン。どんな武器を持っていた?

——貨物列車が走っていたって? 何方へ? フーン、何輛位? 何を積んでいた?

こうして兵力の分布や装備、移動までが分り、工場の煙突の数や作業内容から、軍需生産の規模が分り、その土地の一年間の天候気象までがつかめる。この訊間法や引揚者の取扱の差違が、軍事情報のLSと思想警察のCICの違いである。

瓜生対高木の功名争いはついに瓜生准尉の勝となった。本格的「幻兵団」の出現にCICは色めき立ったのである。顧問団の発意で、幻兵団摘発係の一班が顧問団の中に設けられ、直ち

に同船の元将校たちの帰郷準備は延期することとなった。だがその甲斐もなく他には一名も発見されなかった。

八月に入って第二回の将校梯団が入ったがそれも駄目。九月二十七日に栄豊丸が入港したとき、一人の元将校が米側当局に保護を求めて駈け込んできた。「幻兵団第三号」であった。

齊藤卓郎という九大工学部卒の某造船所勤務の航空技術少尉で、『帰郷後は前職にもどり、造船計画をスパイせよ』というのである。合言葉もスパイ用偽名も決められてきた。彼は保護を申出たが、CICは彼をおとりに使った。彼はいまでもその造船所に勤めているが、果してCICの操るように、おとりとして働らき、その成果をあげたかどうか分らない。

このようなアメリカ側の挑戦に対して、ソ連側が黙っているはずはなかった。舞鶴での軍事思想調査の件は、二十一年暮と翌年一月の引揚者たちから直ちにソ連側に伝わった。彼らは完全にソ連スパイとしての初仕事をしたのだ。

この事実は直ちに日本新聞に掲載されて、大々的に宣伝され、全収容所に訓令が飛んで、特に最終集結地のナホトカでは、その米軍調査への対策特別教育までが行われ始めた。

幻兵団第三号の齊藤氏が保護を訴え出たころになると、ソ連側の教育も徹底してきた。例えば何号ボックスの調べ官は何という男で、何と何をきくから、それに対してはこう答えろ。

最後の事件記者 p.126-127 モシ、誓ヲ破ッタラ

最後の事件記者 p.126-127 「私のいう通りのことを紙に書きなさい」――とうとう来るところまで来たんだ。
最後の事件記者 p.126-127 「私のいう通りのことを紙に書きなさい」――とうとう来るところまで来たんだ。

『約束できますか』

『ハイ』

タッ、タッと、息もつかせずたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答はない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を振って答えた。

『誓えますか』

『ハイ』

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまでもちこむと、少佐は一枚の白紙を取出した。

『よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい。』

――とうとう来るところまで来たんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔をみながら、刻むような日本語でたずねた。

『日本語ですか、ロシヤ語ですか』

『パ・ヤポンスキー!』(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

『漢字とカタカナで書きなさい』

静かに、少尉の声が流れはじめた。

『チ、カ、イ』(誓)

『………』

『次に住所を書いて、名前を入れなさい』

『………』

『今日の日付、一九四七年二月八日……』

『私ハ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス。』

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の事件記者 p.128-129 終身暗いカゲがつきまとう

最後の事件記者 p.128-129 陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』
最後の事件記者 p.128-129 陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス。』

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいてゆくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書きあげてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと、考えてみたりした。

この誓約書を、今まで数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

『プリカーズ』(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

『ペールヴォエ・ザダーニエ!(第一の課題)、一ヵ月の期限をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!』

ペールウイ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

『ダー』(ハイ)

『フショウ』(終り)

はじめてニヤリとした少佐が、立上って手をさしのべた。生温い柔らかな手だった。私も立上った。少尉がいった。

『三月八日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように』

眠られぬ夜

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている、反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の〝忠誠さ〟をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令……と、私には終身、暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後からガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。

最後の事件記者 p.130-131 命令を与えられたスパイ

最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。
最後の事件記者 p.130-131 誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断りもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐しさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——或は、私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代りに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子があるのではあるまいか。

——誓約書を書いたことは、果して正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限は、すでに命令されていることなのだ……。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然……。イヤ、人間として果して当然だろうか?

——大体からして、無条件降伏して、武装をといた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引替えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなことを今更、いってもはじまらない。現実のオレは命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラツキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

『プープー、プープー』

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。

最後の事件記者 p.132-133 「ヤ・ニズナイユ」私は知らない

最後の事件記者 p.132-133 バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。
最後の事件記者 p.132-133 バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。

幻兵団物語

チャンス到米

このような過去をもつ私が、どうして、いかに新聞記者の功名心とはいえ、平気でスパイの暴露をやってのけられたのだろうか。

私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は、約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼にたずねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンとバラツキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊の帰ってきた、静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜があけはじめたのであった。三月八日の夜が終った。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終った。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。

私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカでダメ押しのレポも現れないまま、懐しの祖国へ帰ることができたのであった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

最後の事件記者 p.134-135 スパイ団のことを書きましょう

最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。
最後の事件記者 p.134-135 シベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされ…たと…生命の危険まで懸念している…事実が明らかになった。

そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。

私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。

やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は、「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。

しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。

記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。

『チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう』

『何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか』

若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。

魂を売った幻兵団

すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。

そして、同時に国会も担当して、吉村隊や人民裁判と、引揚関係の委員会も探っていたが、二十四年秋には、国会担当の遊軍に変って、いよいよ、ソ連スパイの解明に努力していた。

その結果、現に内地に帰ってきているシベリア引揚者の中に、誰にも打明けられないスパイとしての暗い運命を背負わされた、と信じこんで、この日本の土の上で、生命の危険までを懸念しながら、独りはんもんしているという、奇怪な事実までが明らかになった。

そして、そういう悩みを持つ、数人の人たちをやっと探しあてることができたのだが、彼らの中には、その内容をもらすことが、直接死につらなると信じこみ、真向から否定した人もあるが、名を秘して自分の暗い運命を語った人もあった。

さらに、進んで名乗りをあげれば、同じような運命にはんもんしている他の人たちの、勇気をふるい起させるだろうというので、一切を堂々と明らかにした人もいた。

最後の事件記者 p.136-137 シベリアで魂を売った幻兵団

最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。
最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。

私の場合は、テストさえも済まなかったので、偽名も合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉さえ授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが合言葉であった。

ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを示そうとして、万葉の古歌「憶良らはいまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むつかしい合言葉だった。そして、自宅から駅へ向う途中の道で、ジープを修理していた男が「ギブ・ミー・ファイヤ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は素早く一枚の紙片を彼のポケットにおしこんだ。

彼があとでひろげてみると、金釘流の日本文で「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています、もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、同じ場所で」とあった。子供がワンワン泣いているというのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたは何時企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか「私はクレムペラーを持ってくることができませんでした」と話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。

大きな反響

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

『デマだろう』という人に、私は笑って答える。

『大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ』

紙面では、回を追って、〝幻のヴール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

最後の事件記者 p.138-139 『殺されるかもしれないから』

最後の事件記者 p.138-139 チェックされた「幻兵団」員は、七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記事としての、いわば出世作品であった。
最後の事件記者 p.138-139 チェックされた「幻兵団」員は、七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記事としての、いわば出世作品であった。

『よく生きているな』

親しい友人が笑う。私も笑った。

『新聞記者が自分の記事で死ねたら本望じゃないか』

ただ、アカハタ紙だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私にはその狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮に、鹿地・三橋スパイ事件が起って、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。

アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビルがその業務を終った時、チェックされた「幻兵団」員は、多分私もふくめて七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記事としての、いわば出世作品であった。

この記事を書いた当時、私の妻は妊娠中で三月に予定日を控えていたのだった。前年の暮ごろから、私の取材が本格化して、ソ連引揚者のある人などを、私の自宅へ伴ってきて話を聞いていたので、彼女も私がどんな仕事をしているか、良く知っていた。何しろ六畳一間の暮しである。

『私の名前を出さないという約束をして下さいね』

その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で、逢いましよう〟という耳もとでの、熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交叉点で、そのマーシャそっくりの女をみかけて、ハッと心臓の凍る思いをした、とまでいった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。

『どうして、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……』

彼は黙っていた。やがて、ポツンと一言だけいった。

『殺されるかもしれないから』

彼の表情は、全く真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私も、妻もみた。

彼女は、私の仕事が、そんなように、大変な危険につながることを覚った。その夜、彼女は自分の大きなお腹に眼をやってから、私に話しかけてきた。

『ねエ、そのスパイの仕事、危いらしいじゃないの、大丈夫?』

もう、お腹の中の新しい生命は、胎動をはじめていた。 『判ンないさ。やってみなくちゃ。でも、こんなやり甲斐のある仕事は、そうザラにはないンだよ』

最後の事件記者 p.140-141 私は「戦死」を目標にしていた

最後の事件記者 p.140-141 私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。
最後の事件記者 p.140-141 私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。

『どうして、あなたがやらなきゃならないの?』

『他にやる奴も、やれる奴もいないからだよ。それに、ボクは新聞記者だからね』

『新聞記者ッて、そんなにお仕事のために身体を張っていたら、幾つ身体があっても足りないわネ』

『男に生れて、自分の仕事に倒れるなンて、素敵じゃないか。男子の本懐これに過ぎるものはないさ。お巡りさんだってそうじゃないか。強盗が刃物を持っていて、危いから知らんふりはできないだろう。職業にも倫理があるンだよ。それに生き甲斐さ』

『男の生き甲斐はあるかもしれないけど、夫として、父としてはどうなの?』

人の子の父

私はしばらく黙ってしまった。私は二才の時に父に死別しているので、全く父親の味を知らずに成長した。兄弟は多勢いたが、やはり物足りなかった。小学生のころは、父親に手をひかれたよその子供をみると、シットを感じた。そんなせいで、私の〝人恋しさ〟の念は人一倍強く、愛

憎がはげしい性格となってきた。

父がなかっただけに、母への感謝の気持も強かった。それを裏返すと、母への不満であった。二十才の夜に男になろうと計画してみたり、アルバイトをしたり、学校を放浪したり、演劇青年を気取ったのも、そのためであった。

青年になってから、何度か恋をした。ある看板かりの芸者と深くなって、本気で結婚しようと考えたことがあった。彼女は二つ年上で、その土地では一流の姐さんだった。ずいぶんと、若い私のために立引いてくれたのだが、熱中する私をおさえて、「出世前のあなただから…」といって、やはり芸者らしい道を去っていった。

しばらくあと、こんどは劇団仲間の女性と一緒になろうと思った。手一つ握り合わないうちに、彼女は病死した。急に腹膜炎を起したのだった。

そして、戦局が激しくなってから、好きな女性がいた。しかし、何もいわずに黙って出征した。外地へ向う最後の日、彼女はオハギを作って駅まできてくれた。私はサッパリとした明るい顔で、一ツ星らしい敬礼をして別れを告げた。私は「戦死」を目標にしていたからだ。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを 考えればよい、気楽な気持だった。

最後の事件記者 p.142-143 オレ。結婚一週間目なンだ。

最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。
最後の事件記者 p.142-143 女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。

残した母親のことは、他の息子にまかせればよい。何の系累もなくて、私は自分のことだけを

考えればよい、気楽な気持だった。その女性とは、せめて一日でも、結婚してから出征したいとは思ったが、戦死者の妻にするのが可哀想だったのである。

どうして、そんなに私が〝人恋し〟かったのだろうか。私の希望は、私の子供に、私が子供の時に与えられなかった父親の愛情を、それこそフンダンに、惜しみなくそそいでやりたい——そんな、平和な家庭を作りたいと、幼年のころから考えていたからだった。

それを、今やキッパリとあきらめて、兵隊になったのだった。だが、幸か不幸か、私は生きて帰ってきて、新聞記者にもどったのである。そして、第一にみたされなかった幸福の夢——家庭をもって、人の子の父となることを考えたのであった。

戦争と捕虜を通して、私は自分の生命力と生活力とに自信を抱いた。戦争で死んだ男たちをみると、運命といったようなものを信ぜざるを得なくなってくる。死ぬ奴は死ぬべくあった、と思われるフシがあるのだった。

そこで結婚して、子供を計画出産するようにしたのである。だが、そのころから、私の新聞記者としての打込み方が、少し異常になってきたのであった。〝ニュースの鬼〟になったのであった。当然、家庭の夫として、父としての理想像からは、かけ離れてくるのだった。ことに、危険

を覚悟の上で、体当りに仕事にぶつかってゆく取材態度は、私の経験則の父親の責任「人の子の父は、子供が巣立つまで健康であらねばならない」と、相反するのであった。

結婚前の私は、そんな家庭の理想を、妻に語ったりしていたのだ。だから、戦争前には放埒の限りを尽した私も、軍隊と捕虜とで、身も心も洗われた気持(実際もそうであった)で帰ってきて、同僚の誘惑にも負けず、キレイナ身体で結婚に入った。

結婚して一週間目の夜、同僚のH、S両記者と祝盃をあげた。呑むほどに酔うほどに、独身の両記者はヤリ切れなくなったらしい。ついに三人は、小岩の東京パレスという赤線に沈没してしまった。私をどうしても、二人が釈放してくれなかったのである。「オレたちの身になってみろ」というのが、その口説だった。

女と二人だけになった時、戦後はじめての、遊廓ではない赤線という名に変ったオ女郎屋風景に、私は物珍らしくアチコチ眺めていた。つい思い出して、私は女に懇願した。

『実は、オレ。結婚一週間目なンだ。だから、いいだろ?』

戦前の遊廓であったら、こんなことは女にとっての最大の侮辱で、許さるべきことではなかったのである。だが、そこは戦後派だ、いとも簡単に許してくれた。

最後の事件記者 p.144-145 公表されたスパイは役に立たない

最後の事件記者 p.144-145 『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』
最後の事件記者 p.144-145 『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』

私は、シーツの上に女の腰ヒモを一本、真直ぐに引いて、ニヤリと笑った。帰宅して妻に話す時のたのしみを、作りたかったのである。女もうなずいた。おたがいの領地を決めたのである。

翌朝、雨がふっていて、バスの停留所まで濡れねばならなかった。NとSとは、背広のエリを立て、ズボンのもも立ちを取って、水たまりを避けながら、ピョン、ピョンとはね歩くという、みじめさだったが、私だけはダンナ面をして、相合傘で送られたのである。

スパイは殺される

そんなに潔癖な私だったのである。そのことは妻も良く知っていた。それなのに、夢中になって、この危険なスパイの仕事に打込んでいる夫を、理解しようとしているのだ。黙っている私に、彼女はいった。

『もうじき、あなたの待ちこがれていた、あなたの子供が生れるのよ』

『ウン、ウソをついたことになりそうだ。だけど、何ていうのかな。会社のためでもあるんだけど、もっと大きな、新聞記者魂というか、業(ゴウ)というのか、俗っぽく一言でいえば功名心、そんなものが、ボクの心の中からうずいてくるンだ』

『……』

今度は妻が黙った。私は懸命になって説明した。危険も少ないだろうという、見通しの根拠を説明した。私はこの記事によって顕在化されるのだ。潜在化している間は危険だが、公表されたスパイはもう役に立たない。しかも、注目されている時は、危害を加えたりすれば、さらに大きな反響を呼んで、かえって不利になるのだから、大丈夫だと、妻を安心させるのに努めた。

『それに、殉職すれば、原部長も、担当デスクの辻本次長も、きっと仇討ちをしてくれるよ。第一、お葬式代がかからないよ。ハハハハ』

私は冗談で、妻の不安を笑いとばそうとした。長い間黙っていた妻は、やっと顔をあげた。

『いいわ。あなたのお葬式が済んだら、私も心中するわ。だから、安心して確りやって頂戴。そうすればいいわ、私も安心だわ』

彼女が、「残る家族に心配するナ」という言葉を、口にしたのはこれがはじめてだった。二人は何かオカシくなって、アハハハと笑いあった。

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

最後の事件記者 p.146-147 新聞記者の功名心だって?

最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』
最後の事件記者 p.146-147 『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

しかし、実際には私もこわかった。「スパイは殺される」という。所轄の北沢署に保護を頼んだり、一日中社へよりつかなかったりした。ある夜などは、私の帰りを待ちくたびれた妻が、深夜にフト眼覚めて、用足しに階下へおりようとして、二階の踊り場から見通しの階段へ一歩踏み出した。

アッと、もう少しで叫び出して、階段から転がり落ちそうになった。玄関のドアにはまったガラス、その上のラン間のガラスに、一条の懐中電燈の光りが走っている。

その光りは、標札の文字でも確かめているらしく、瞬時にして消えた。耳を澄ます妻には、玄関を去ってゆく足音さえ聞えない。背筋を冷たく氷が走って、片足は階段に踏みだしたまま、もう身動きができなかった。

その夜、私は帰宅しなかった。妻は今でもその時のことを想い出しては、

『あれほど恐かったことは、まずちょっとなかったわね』

という。あの懐中電燈の光の主が保護を頼んだ警官なのか、或いは郵便配達か、また〝黒い手〟の人だったのか、とうとう判らない。

『危いから、待伏せされてるかも知れないと考えて、あなたが帰ってこなければいい、と願ったわ。外泊を祈ったのは、後にも先にもこれだけね』

新聞記者の功名心

意外な反響は、米軍側のものだった。東京駅前の郵船ビルのCICが、私と私の記事とを疑ったのである。「どうしてこの事実を知ったか」「なぜ記事にしたのか——危険だと思わないのか」の二点に集中されて、私への疑惑を露骨に出した調べだった。

調べ官はハワイ生れの二世で、田中耕作という中尉だった。「私の父は百姓なので、コーサクとは、耕す作ると書くんです」というほど、日本人らしい二世だったが、調べは厳しかった。

『どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすれば、ソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか』

これに対して私の答は簡単だ。

『書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命も惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ』

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

最後の事件記者 p.148-149 事故を装ったコロシですよ

最後の事件記者 p.148-149 だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。
最後の事件記者 p.148-149 だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。

『新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない、納得できない』

この中尉にどんなに説明しても、とうとう判ってもらえなかった。この事実を知っていることは記者自身が幻兵団、すなわちスパイ誓約者であるか、どこからか、資料の提供をうけたということ。秘密組織をバクロすることに伴う危険を、おそれず記事にしたということは、危険がないことを保証されている。ひっくり返すと、安全を保証されて、資料の提供をうけて記事にした。その意図は何かということだ。

すると、その答は、ソ連側と了解の上で、反ソ風に装ってアメリカ側に近づく目的で書いたに違いない、とみられたのであった。

だが、このCICの係官の疑問は、そのまま日本の治安当局に引継がれて、今だに「三田記者はソ連の秘密工作員だ」という、報告書が当局へ提出され、それがファイルされている。

ある当局の親しい係官に、その後ずっとたってから、またたずねてみた。

『最近、当局ではオレのことをどうみているンだネ。依然として、反動を偽装している〝赤の手先〟とみているンかネ』

『それについて、ワシの方には別にデータも出ていないようだが、しかし…』

この〝しかし〟がクセモノである。

『しかし、幻兵団の記事を書いた動機は、いまだにナゾですナ。危害を与えるに値しないと先方が判断したのか、危害を加えられないという保証があったのか、依然としてナゾだとみているンだ』

やはり、この生命の危険を冒した記者の功名心は、どこでも、誰にでも、判ってもらえないらしい。

判ってもらえないばかりではない。危険はツイ眼の前まできていたのだった。当時の法務府特審局(現公安調査庁)の吉橋調査第一部長が私に忠告してくれたのである。

同局がある共産党の細胞か何かを捜索した時に、押収した文書の中に、「読売三田記者を合法的に抹殺せよ」という、極秘指令を発見したというのだ。

『合法的ということは、事故を装ったコロシですよ。第一が交通事故、信号を無視したり、酔って道路を横断したりなさるナ。それから駅のプラットホーム。これは電車が進入してきた時に、突き落されるのです。酔ってたので、足がからんでブツかった、などと事故にされちゃうよ。それと、高い所もダメですよ』

吉橋部長は、一応まじめな顔で、

『ともかく、当分は気をつけた方がいいですよ』と、親切に忠告してくれた。

最後の事件記者 p.150-151 立身出世主義ではない

最後の事件記者 p.150-151 しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか
最後の事件記者 p.150-151 しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか

吉橋部長は、一応まじめな顔で、

『ともかく、当分は気をつけた方がいいですよ』と、親切に忠告してくれた。

そんな空気の中で、やがて、長男が生れたのだ。妻は覚悟をきめたのか、格別の心配もせず、従って、やせたり病気になったりもせずに、一貫八十匁という、大きな赤ン坊を生んだ。産後も順調だった。健康第一を願って健太と名付けた。

子供が生れると人間は弱くなるという。社の自動車部員などで、独身の時代にハリ切っていて、事件だなどというと、百キロ近くも出して飛ばした男も、結婚して、子供が生れると、もう完全な〝安全運転〟になってしまうほどだ。

私は子ぼんのうな父親ではあったが、一歩家を外にすると、相変らずのカミカゼ取材だった。ニュースの焦点に体当りで突ッこんでゆく。

妻は、何回か、「子供もいることだから、危険なお仕事をやめて!」と哀願した。私も子供の寝顔を見ながら、そういわれると一言もなく、「ウン、もうこれからはしないよ」と答えた。

しかし、一体、この「新聞記者の功名心」とは何なのであろうか。あの、割に合わない仕事で、精根をスリへらす功名心とは? 単なる男の名誉慾なのだろうか、物慾なのだろうか。

書かれざる特種

功名心と立身出世

新聞記者の功名心という、旺盛な報道精神が、ただ単に報道しさえすればよいんだ、というものでないことは確かである。当然、そこには合法的であり、人権を尊重するといった一定のルールがあるはずである。

そればかりではなく、社会批判としての、厳しい〝記者の眼〟がなければならない。この厳しさのかげには、同時に、温かさも必要である。

記者の功名心が、直ちに立身出世主義と結びつけられるということは、おかしな論理である。つまり、功名心というものが、人間の欲望の一つであるには違いないが、この「欲」が、すなわち、キタナラしい立身出世主義ではない。