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最後の事件記者 p.290-291 バカなピエロはもういない

最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。
最後の事件記者 p.290-291 人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに

するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったら、その雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に斗いたいと考えた。強い敵と斗うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

報道協定のことは抜きにして、週刊明星と週刊実話とが、皇太子妃のニュースを書いてしまった。それから、週刊朝日が、戦斗機問題のカゲの人、天川勇なる人物を詳細にレポートとした。この絶好の社会部ダネは、大新聞には、何故かのらなかった。

十月二十八日の朝日社会面は、決算委の記事として、このナゾの人物の名前を出したけれども、三十日発売の週刊朝日が書いているのだから、週刊の方が早かったことになる。

ことに面白いのは、週刊誌の皇太子妃の記事の筆者が、新聞記者だといわれていることだ。新聞記者が、自分の新聞にかかないで、雑誌に原稿を書くという傾向が、ハッキリと強まってきているのではなかろうか。

新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。新聞記者が、自分にサラリーをくれている新聞に書けず、雜誌に書くということは、実は深刻な問題ではないのだろうか。

新聞週間のとき、講師になった読売原出版局長は、こういってる。

『週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたために起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う』(新聞協会報一三五六号)

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。誰だって、危険を冒すのはいやである。自分で額に汗して生活費をつくりだすよりは、記者クラブで碁、将棋、マージャンをたのしみながら、黙ってサラリーをもらう方が、ずっと楽だからである。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

最後の事件記者 p.292-293 あとがき

そこで、私は新しい商売を考えついた。 マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。
最後の事件記者 p.292-293 あとがき そこで、私は新しい商売を考えついた。マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。

あとがき

私が警視庁の留置場に入っている間に、妻が婦人公論の増刊「人生読本」というのに、「事件記者の妻の嘆き」という手記を書いた。発売になって読んでみると、なかなかうまいことを書いている。

門前の小僧かといって笑ったが、読売の連中にいわせると、妻の方がペンでメシが食えるのじゃないか、と、評判がいい。

「生れかわったら、新聞記者の女房になるのはやめなさいよ、などとおっしゃいますが、まったく因果な商売ではないでしょうか。三十七歳にもなった、記者生活しか知らない人間に残されたのは、やっぱりジャーナリズムでの仕事しかないと思います。家族ぐるみ事件にふりまわされるともいえる、この記者生活が、やっぱり夫の生きてゆく最良の道であるならば、新聞記

者生活に希望のもてない私も、今後、夫のよき理解者、支持者として夫を助けてゆかねばならないでしょう」

私がサッと辞表を出すと、そのやめッぷりがよかったので、安藤組の顧問にでもなるのだろうと、下品にカンぐられたものだ。もっとも、護国青年隊の隊長にも、「ウチの顧問になって下さい。月給は読売以上に出しますから」と頼まれたほどだから、そう思われるのも無理ないかもしれない。

だが、サラリーマンをやめてみて感じたことは、広そうにみえながら、新聞記者の世界の視野のせまいのに、今更のように驚いた。身体のあく時間が、世の常の人と食い違っているから、結局自分たち仲間うちばかりで飲んだり騒いだりで、社の人事問題以外に興味がなくなり、ネタミ、ソネミばかりになるのだろう。

記者でありながら、見出しをサッと眺めるだけで、新聞を読まない日がずいぶんあったことを覚えてるし、新聞を読まない記者のいることも知っている。各

紙をサッとみて、自分の担当部署で抜かれたり、落したりしていなければ、もうその新聞は御用済みだ。

今度、同じマス・コミでも、雑誌や出版の人、ラジオ・テレビの人、映画の人たちに、会ったり、話したりする機会に、多く恵まれたけれど、その中では記者の世界が、一番せまいようだ。

新聞を良くよんだり、本屋をひやかしたり、映画や芝居をみたり、そして、ものを考えたりする時間の少ない記者だから、そうなんだなと感じた。そこで、私は新しい商売を考えついた。

マス・コミのコンサルタントだ。漢字で表現すると、適当な文字がないのだが、あらゆるマス・コミの企画製作業とでもいおうか。作家にはネタを提供したり、映画の原作をみつけたり、テレビ・ドラマを監修したり、新しい法律のPR計画をたてたり……といった商売が、もうそろそろ、日本でも成立つのではないだろうか、と考えている。

新聞記者は失格したけれども、暴力団の顧問になる

よりは、面白いだろうと思っている。資本家はいませんかナ。暴力団といえば、留置場で、安藤親分に〝特別インタヴュー〟したところによると、逗子潜伏中に、三千万くれるという申し出をした資本家がいるそうだ。横井事件の真相も、詳しく調べて、近く書きたいと思う。

この本につづいて、ルポルタージュ「留置場」という本を、新春には出す予定。さらにこの本であちこちに、チョイチョイとふれた〝新聞内面の問題〟——新聞はどのように真実を伝えているだろうか? を、「新聞記者の自己批判」として、まとめてみたい。

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

最後の事件記者 p.294-奥付 あとがき(つづき)~奥付

最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所
最後の事件記者 p.294-奥付 昭和33年12月30日発行 著者・三田和夫 発行者・増田義彦 発行所・株式会社実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3 印刷・佐藤印刷所

もっとも興味をひかれているのは、昭電疑獄以来の、大きな汚職事件の真相を、えぐってみたい、ということだ。政治生命を奪われた政治家や、財界人の立場から、事件をみると、また興味津々だろうと思う。ことに、私が司法記者クラブで、直接タッチした、売春、立松、千葉銀の三大事件で、権力エゴイズムをひきだしてみたいと思う。売春汚職のため落選した元代

議士の一人は、早くも一審で無罪が確定してしまったではないか。立松事件だって、政党、検察、新聞という三つの力が、マンジトモエに入り乱れるところが、何ともいえない面白さだ。

と、こんな工合で、どうやらメシだけは、今のところは食べていられる。それでも、月のうち半分は徹夜して、安い原稿料にも、感謝の念を忘れず、せっせと働らかねば、子供たちを学校へやることもできない。ただもう眠たい時などは、つくづくサラリーマンがうらやましい。御心配を頂いた皆さんに、この場をかりて、厚く御礼申上げる次第である。

同時に、ここまで、私を成長させて下さったのは、読売新聞社をはじめとして、各新聞社の諸先輩方、同僚諸君のおかげであると、深く感謝いたさねばならない。今後ともの、御指導を併せてお願い申上げる。

この本で、今、気になるのは、文中お名前を拝借した方々の、敬称の不統一である。書きあげるそばから、工場へ行ってしまったので、手落ちがあると思

い、お詫び申しあげておかねばならない。

いわば、特ダネを追って十五年、とでもいったような内容なので、文中、大そう口はばったいところもあるが、大体がアクの強い男なので御寬恕を乞いたい。もちろん、私一人が事件記者だなどと思い上っておらず、読売をはじめ、各社にも、優秀で、敵ながら天晴れと、秘かに尊敬している記者が多いことは事実である。記者諸兄、お怒りなきように。

当然、最後の項に、横井事件を入れるべきであったのだが、文春に詳しく書いたので割愛した。なお、文春所載の「事件記者と犯罪の間」は、臼井吉見氏編の「現代教養全集、第五巻、マス・コミの世界」(筑摩書房)に収録されたので、御参考までにお知らせしておく。まだまだ、いろいろな事件についての面白い話があったのだが、時間と紙数の関係で、これも割愛せざるを得なかった。稿を改めて書きたいと思っている。

昭和三十三年十二月十五日

著 者

最後の事件記者
定価220円
昭和33年12月30日発行
著 者 三田和夫
発行者 増田義彦
発行所 株式会社 実業之日本社 東京都中央区銀座西1の3
電話京橋(56)5121~5
振替口座 東京326
© 実業之日本社 1958年 印刷 株式会社 佐藤印刷所

最後の事件記者 カバーそで 著者略歴

最後の事件記者 白ページー見返し jacket flap カバーそで
最後の事件記者 白ページー見返し jacket flap カバーそで
最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴
最後の事件記者 jacket flap カバーそで 著者略歴

著者略歴

大正十年、盛岡市に生る。日大芸術科卒業。昭和十八年、読売新聞入社、直ちに社会部記者となる。昭和二十二年、シベリアより引揚げ、復職。法務府、国会、警視庁、通産省、農林省各記者クラブを経て、昭和三十二年六月、最高裁判所司法記者クラブ詰。昭和三十三年七月、横井事件に関連して、取材が「犯人隠避」罪に問われたため、読売新聞退社。

昭和三十三年九月、文芸春秋十月号に「事件記者と犯罪の間」百五十枚を発表。著書に、「東京秘密情報」「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」がある。

住所、東京都世田谷区世田谷二の一九五八

p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―

p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間― 三田和夫 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界
p53下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間― 三田和夫 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界

わが名は「悪徳記者」

――事件記者と犯罪の間――|

三 田 和 夫

(元読売新聞社会部)

昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして、満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に、保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日間であった。

グレン隊と心中?

事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。

これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。

p54上 わが名は「悪徳記者」 グレン隊の一味

p54上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

無職の一市民として、逮捕、警察の調べ、検事の調べ、拘禁された留置場の生活、手錠、曳縄――、いわゆる被疑者と被告人との経験を持ったということは、私が新聞記者であっただけに、又と得難い貴重な教訓であった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。私の、長い記者生活は、それこそ何千本かの記事を紙面に出しているのであるが、私の記事の中に、あのような記事があったのではないか、ということである。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。一人の男が相手の男を拳銃で射殺せんとした――殺人事件である。だが、これが戦争という背景をもち、戦闘という時の経過の中で、敵と味方という立場であれば、話は別である。しかし、その〝射殺〟という事実には間違いはない。背景と時の経過と、立場なしに取上げられたのが、私の「犯人隠避」であった。その限りでは、私に関する報道には間違いがなかったのである。ところが、それに捜査当局の主観がプラスされてくると、もはや事実ではなくなってくるのである。

p54下 わが名は「悪徳記者」 納得がいかない

p54下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 なぜ、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。これが、「納得がいかない――理解してやろう」という好意で出てくる場合と、「納得がいかないのは、まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ」という、下品な岡ッ引根性から出てくるものと、二通りあったのである。ところが、検察庁での調べになると「犯罪の構成要件さえガッチリと固めておけば良い」という態度である。納得がいくもいかないも、被疑者の心理状態など、全くお構いなしである。

捕えたものは起訴せねば……、起訴したものは有罪にせねば……の、ただそれだけのようである。もっとも、検事個人の人間的差はあるのだろうが、私は、ここに、司法官僚と内務官僚との、宿命的対立の基盤になっている、何ものかを感じた。

何が納得がいかないか? これは調べが進むと同時に、捜査官の胸中に浮んできた疑問であった。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振ったのである――納得がいかないのも無理もない。

p55上 わが名は「悪徳記者」 人を信じる信念

p55上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の部隊はシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。

私は答えた。『棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ』と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。

人を信じるという信念

昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。

細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件の中で、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。

p55下 わが名は「悪徳記者」 深い相互信頼

p55下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「キミ、そんなバカな。軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」

七月十一日の夜、すでに床についていた塚原さんを叩き起した私は、『ある事件の関係者だが、四、五日あずかって頂けないだろうか』と頼んだ。塚原さんは何もいわず、何もきかずに、ただ一言『ウム』と引受けてくれたのである。これが小笠原を旭川に紹介してやるキッカケであった。そしてまた、この一言が、塚原さんが築地署の留置場へ二十三日もプチ込まれる「ウム」だった。

私が、二十一日の月曜日に、警視庁の新井刑事部長と平瀬捜査二課長とに、事情を説明したことがある。もちろん逮捕の前日だ。この時、新井刑事部長は笑った。

『キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし』

新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。

話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。

p56上 わが名は「悪徳記者」 反動読売の反動記者

p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
p56上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。

過去のない男・王長徳

帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。

この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。

私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。

p56下 わが名は「悪徳記者」 東京租界と王長徳

p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。
p56下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された「東京租界」の記事がある。

左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。〝私はニュースの鬼〟だっただけである。

私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。

そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。

まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日逮捕されている。

私の代表作品の一つに、昭和二十七年十月二十四日から十一月六日までの間、十回にわたって連載された続きもの「東京租界」の記事がある。これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を引き続き行使して、その植民地的支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と打ち下ろした日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。 原四郎部長の企画、辻本芳雄次長の指導で、流行語にさえなった「東京租界」というタイトルまで考え出し、取材には私と牧野拓司記者とが起用された。牧野記者は文部省留学生でオハイオ大学に留学したほどの英語達者だったので、良く私の片腕になってくれた。

p57上 わが名は「悪徳記者」 三人の大物国際博徒

p57上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。
p57上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇(チンパン)の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そして、この記事をはじめとするキャンペーン物で、文芸春秋の菊池寛賞の新聞部門で、読売社会部が第一回受賞の栄を担ったのである。

その第一回の記事に、「ねらう東洋のモナコ化、烈しい編張り争い」と、国際バクチ打ちの行状がある。この時に登場を願ったのが、即ちこの王長徳である。つまり、東京租界を自分のシマ(縄張り)にしようと、三人の国際博徒の大物が争っている。その一人はアル・カポネの片腕、アメリカはシカゴシチーで東洋人地区の取締りをやっていた鮮系米人のジェイソン・リー。二人目は、フィリピンはマニラの夜の大統領といわれるテッド・ルーインの片腕、自称宝石商のモーリス・リプトン。どんじりに控えたのが、上海の夜の市長〝上海の王〟だという情報だった。

牧野記者と二人で、この大物バクチ打ちの所在を探し、リーとリプトンとにはインタヴューすることが出来たが、〝上海の王〟はその所在さえつかめない。調べてみると、この王は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかむっていたリチャード・王という男で、青幇の大親分杜月笙と組んでいたギャンブル・ボスなのであった。

そしてこの青幇の幹部の一人が経営していた、銀座二丁目の米軍人クラブのⅤFWクラブにもぐりこんでいるというところまで突きとめたが、どうしても会えない。他の二人には会えたのに、三人目が欠けたのでは面目ないと、考えこんでいる時、サツ廻りの上野記者が、『新橋に王という変った男がいますよ』と情報を入れてくれた。

p57下 わが名は「悪徳記者」 王長徳と小林初三

p57下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。
p57下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。

話を聞いてみると、帆足、宮腰氏らの訪ソ旅行の旅費を出したとか、自由法曹団の布施弁護士は父親みたいな仲だとか、花村元法相とは「花ちゃん」という付き合いだとか、いろいろと面白い話が多い。そこで窮余の一策として、彼に会って、『貴方が上海の王といわれる有名なバクチ打ちか』と、当ってみたものだ。

すると、ハッキリ別人だということが調査して判っていたのに、意外にも彼はニコヤカにうなずきながら、『そうです。私が上海の王です。上海時代はビッグ・パイプとも仇名されていたので、このキャバレーにもその名をつけたのです』というではないか。

こうして、「登録証を信ずると、十一歳の時にビッグ・パイプという名を持った国際バクチの大親分という、世にもロマンチックな話になる」と、皮肉タップリな記事となって紙面を飾った。

これが私と王長徳との出会いのはじめであるが、〝過去のない男〟の彼は、朝鮮人とも北鮮育ちの中国人ともいわれるが、異国での生活の技術にか、とかく〝大物〟ぶりたいという癖のある男だった。金の話は常に億単位なのだから、国際バクチ打ちの〝身分〟を買って出たのも、彼の生活技術であろう。

ニュース・ソース

小林元警部補とは昭和二十七年から三十年の三年間、私が警視庁クラブにいた時に、彼が現職だったので知り合っていた。ところが彼は退職して、銀座警察の高橋輝男一派の顧問になってしまった。そのころも、銀座あたりで出会ったりしていたのだ。

高橋が死んでから、彼は〝事件屋〟になって王と近づいたらしい。

p58上 わが名は「悪徳記者」 新聞記者の財産はニュース・ソース

p58上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 王から私に電話がきて、「問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう」という。私は即座に「会いたい」と答えた。
p58上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 王から私に電話がきて、「問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう」という。私は即座に「会いたい」と答えた。

今度の横井事件でも、王、小林、元山らが組んで蜂須賀家の債権取立てを計画したようだ。六月十一日に横井事件が起きた翌日、王から私に電話がきて、

『問題の元山に会いたいなら、会えるように斡旋しよう』という。私は即座に『会いたい』と答えた。十三日の夜おそく、元山は王と小林に伴れられて私の自宅へやってきた。

元山との会見記は翌十三日の読売に出た。

週刊読売の伝えるところによると、新井刑事部長は部下を督励して、『新聞記者が会えるのに、どうして刑事が会えないのだ』と、叱りつけたそうである。しかし、この言葉はどだいムリな話で、新聞記者だからこそ会えたのであった。

この元山会見記は、同日朝の東京新聞の花形を間違えたニセ安藤会見記(木村警部談)と違って、一応特ダネであった。しかし、私が司法記者クラプ(検察庁、裁判所、法務省担当)員でありながら、警視庁クラブの担当している横井事件に手を出したことが、捜査本部員をはじめ、他社の記者にいい印象を与えなかったようでもある。

私をしていわしむれば、誰が担当の、何処が担当の事件であろうとも、新聞記者であるならばニュースに対して貪婪でなければならないし、何時でも、如何なるものでも、ニュースをキャッチできる状態でなければならないのである。 新聞記者の財産はニュース・ソースである。『貴方だからこれまで話すのだ』『貴方だからわざわざ知らせるのだ』という、こういう種類の人物を、各方面に沢山もっていてこそ、その記者の値打ちが決まるのである。誰でもが訊きさえすれば教えてくれること――

p58下 わが名は「悪徳記者」 並び大名の記者たち

p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。
p58下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。

これは発表である。誰でもが簡単に知り得ることは、これはニュースとしての価値が低いのは当然である。

例えば、両国の花火大会の記事は、ニュースではあるが、誰でもがこのニュースにふれることができる。公開されているニュースだからである。機会は均等である。

新聞記者の中にも、こういう公開されたニュースしか書けない記者がいるし、それが多い。特ダネの書けない記者である。それは、その記者が、不断の勉強を怠っているからである。記者の財産である、ニュース・ソースの培養を心がけていないからである。

役所を担当しても、その役所のスポークスマンしかしらないし、スポークスマンの言い分を文宇にして本社へ伝えるだけである。この発表を咀嚼して、批判を加えることもできないのである。これが果して、新聞記者であろうか。だから、役所の発表文がそのまま活字になって、紙面にのるだけである。心ある読者は、一度役所の記者会見なるものを覗いてみられよ。二十人もの記者がいても、質問の発言をするのは二、三人だけである。それは決して代表質問ではない。並び大名の記者たちには、質問すら浮かんで来ないのである。

あんたにやるよ

私はサツ廻りののち、法務庁、国会、警視庁、通産省、農林省、法務省と、本社の遊軍以外に、これだけの役所のクラブを廻ってみたが、どこのクラブでもそうである。記者会見で談論風発という光景は少ない。質問さえできない記者は、他社の記者の質問によって「成程そうか」と思い、本社へ送る時には、自分の質問であるかの如くよそおうのである。