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編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は?

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)
編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)

■□■野村夫妻の次の舞台は?■□■第29回■□■ 平成11年(1999)10月2日

野村沙知代が不起訴になった。10月1日金曜日に、東京地検が同人に対する計7件の告発に対して、不起訴処分を決定した——新聞報道によれば、浅香光代の「留学という虚偽事実の公表」に対して、嫌疑不充分という理由だったという。他の6件の告発に対しても、同じ理由であろう。

私の代理人である塩谷(しおのや)弁護士から電話があったのは、1日の午後。「地検から連絡があって、午後5時に特捜部に行くことにした。同行できるか?」という。私にはすでにアポがあったので、「来週ではどうか」ときいたが、塩谷弁護士は「地検に来いという電話から判断すると、不起訴処分が決まった、ということでしょう。では、私ひとりで行ってきましょう」となった。その後の電話で、塩谷弁護士は、その不起訴処分の理由について、「72年に結婚したという、本人の認識が、公報の記載となった。その“認識”を崩せなかった」と、検事が見ているようだったと。

72年当時、野村夫妻はそれぞれ、戸籍上に妻と夫とがおり、いうなれば「不倫関係」であった。民法七五二条は、夫婦の「同居・扶助の義務」を明示し、かつ、七七〇条では、離婚提起の第一要件に「配偶者の不貞行為」をあげ、貞操を求めているのが「協力と扶助」である。つまり、夫婦には「住居と性生活の共同」を義務としており、野村克也、沙知代両人は“事実婚”の状態にあったということであろう。

これを換言すれば、浅香告発の「留学」、三田告発の「結婚」は、戦後数十年を経てその本来の語義が変わってきて、検察の「嫌疑不充分」に至ったのであろう。当初、私が危機感を抱いたのは、以前本稿でも指摘したように、自由党の東議員が、比例議員をやめて、東京15区の小選挙区議員に転進しようとした時からである。東議員が比例議員を退職すれば、第6位で繰り上げ当選待ちの野村が、議員になるからである。幸い東議員は3月末に転進を諦めたので、それは沙汰止みになったが、当選した5人の議員の誰かに事故があれば、繰り上げ当選である。これは放っておけないという危機感である。

それ以来、公報の「72年結婚」で告発し、処分決定までは被疑者、起訴になれば刑事被告人という「事実」を作らねば、繰り上げ当選の可能性が残存する、と考えていた。そもそも「留学」は、法定外文書である名刺や、記者会見でのコメントである。私は、立証困難で不起訴の可能性が高いとみていた。しかし、「72年結婚」は公報記載であり、戸籍があるのだから、証拠十分と考えていたのである。

しかし、検察は、「事実婚」を採って不起訴とした。一般人ならそれもよい。だが、国会議員候補者である。法律だけで判断すべきことだろうか。不倫の事実婚を、検察は容認したのである。不倫とは倫理にもとる、ということだ。「起訴便宜主義」という言葉があり、刑訴法二四八条は、検事が起訴、不起訴を決める(つまり胸先三寸次第)とある。不起訴ではなく「起訴猶予」にすべきであった、と私は思う。つまり「不倫の事実婚」に対して、国会議員候補者として倫理性を加味すべきだったのではあるまいか。

検察審査会に対し、私は申し立てしない。浅香申し立てがあるからである。そして検審の実情は、子供の交通事故死の運転者不起訴など、有権者の無作為くじ引きの委員たちに理解できる案件でなければ不起訴不当の結論は出ない。委員たちに理解できないケースでは、すべて「お上が正しい」のである。日本の現状は、まだまだ民度が低いのである。かつて、松本清張の盗作を告訴して不起訴になった経験がある。その時、検審に申し立てて、それを実感している。

だが、検審継続中に時効がきて、繰上げのメがなくなるし、テレビに彼女の顔が出ないだけで、私の告発も意義があったといえよう。ただ、検察には“則定現象”に見られるよう、倫理性を軽視する風潮があるのを、私は憂える。 平成11年(1999)10月2日

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)
編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)

■□■政党助成金のデタラメ■□■第30回■□■ 平成11年(1999)10月9日

ノストラダムスの予言は外れた。だが、この世紀末に、世界の終焉を暗示するかのように、トルコに台湾にと大地震が起き、中央アジアや東ティモールで殺戮が続き、日本でも常識を覆す事件が続いている。則定東京高検検事長の女遊び、神奈川県警の不祥事続発と深山本部長の小手先処理。さらに、東海村の被爆事件。そのどれを見ても、マトモな人間のするハズのないことが、実に平然と、しかも淡々と行われている。野村沙知代の一括不起訴もまた、まともな人間には信じられないことになるだろう。

同じように、自自公連立内閣のスタートもまた、小渕首相の権力願望の具現で、なぜ総選挙で国民の気持ちの向かうところを確かめないのかと、白けてくる。赤字国債で金をバラまき、明日の見通しはない。東海村の補償で、また税金がキリなく投げこまれる。選挙に金がかかるからと、政党助成法で政党(議員個人と同じ意味)に税金を出し、企業献金(98年度153億円)の禁止にはシカトする。銀行には莫大な公的資金を注ぎ込む——これでは、まさにノストラダムスの予言そのものではないか。

この政党助成法という、政党に“公的資金”を注ぎ込む法律を見ていて、面白いことを発見した。自治省への届出(平成10年7月26日現在)を見ると、議員数は、自民党369、民主党141、自由党52、新党平和(衆のみ)38、社民党28、公明(参のみ)22、改革クラブ12、新党さきがけ5、と八党のあとに、第二院クラブ2、自由連合1、(いずれも参のみ)というミニ政党が二つ並んでいるのだ。

助成法第二条には、助成金を請求できる要件として、①国会議員を有し、②得票率2%以上、と制限が設けられている。だから、このハードルを越えられないミニ政党の新社会党、女性党、スポーツ平和党、青年自由党などは、比例区で数十万票を集めていてもどうしようもない。第二院クラブは、佐藤道夫代表が平成7年7月23日選挙で、比例区で128万3千票を集めて当選、西川きよし議員が平成10年7月12日選挙で、大阪選挙区のトップ106万弱で当選し、ともに実力派。それに、同年選挙の沖縄県区のトップ島袋宗康議員の24万強が加わり参院議員3名を擁している。だが、今までは助成金の請求をしていなかったのに、それでは次の選挙のポスター代も無い、と助成金を受けることに転換したという。

奇怪なのは、自由連合である。徳田虎雄代表は前回衆院選に出馬、鹿児島二区で自民党の新人(県議)に惜敗している。ということは、自由連合には国会議員がゼロになった、ということである。そこで徳田代表は、参院兵庫選挙区で当選3回の新進党・石井一二議員を引き抜いて、自由連合幹事長とする。幹事長などというが、元議員の代表と2人きりに過ぎない。そしてそれだけで、助成金五千四百三十九万円を手中にするのだ。

もともと、徳田代表は徳洲会病院の理事長である。全国各地に徳洲会病院を開設し、日本医師会には加盟せず、トラブル・メーカーになっている。そして、この政党助成金に見られるような、サギまがいの錬金術で、この病院群の資金としているが、最近は詰まってきて、助成金に目をつけたようだ。

昭和58年に奄美群島区で初出馬、当選4回を重ねていた保岡興治議員に負ける。昭和61年も三千票あまりで再敗。この選挙では創価学会票を保岡側と争奪した。平成2年にようやく、保岡票を二千票上回って初当選。つづいて平成5年に、4人枠の鹿児島一区で保岡トップの3位に甘んじて再当選。そして、小選挙区制になった平成8年では、保岡は一区、徳田二区と分かれて安心だったのだが、自民党にやられた。

徳洲会の病院群展開には、徳田が議員であることが要件だったようで、目前に迫っている次の総選挙には、連立の余波で学会票は自民候補へまわるだろうから、また落選で“徳田錬金術”もついに終幕を迎えるだろう。 平成11年(1999)10月9日

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)
編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)

■□■ガングロたちへの提言■□■第31 回■□■ 平成11年(1999)10月16日

さる10月3日付の「しんぶん赤旗」紙は、女子美短大の池田孝江講師(服飾史)の「歴史はくり返す? 厚底サンダル」という一文を掲載していた。今週封切り予定の米映画「娼婦ベロニカ」の予告編に、木靴カルカニーニが出てきた、という書き出しである。

16世紀ベネチアでは、高級娼婦から一般女性まで、14センチから40センチもの、カルカニーニを履いていた。それは、ベネチアでは、運河が洪水を起こすので、女性の自衛のためのものだった。当時の画家ヴェチェッリオの描いたものがあり、スカートの下に男性用の半ズボンを着け、カルカニーニを履いている姿が見られる。

「私たちは男のうしろからついてゆくのではなく、同等に、時には男の腕をとってリードしてゆくのです」と、女子学生が語っているそうだ。「体位の上でも仕事の上でも、男性と同等の目線でものを見、活躍する時代は、もう手の届くところまで来ています」が「しかし厚底サンダルは、男女機会均等に寄与する積極性より、行動を束縛されかねません」と、男性と同じ高さの目線でものを見るという前段部分を引っ込め、行動の束縛という実相を認めている。

16世紀のベネチアで、厚底木靴が流行していたということは、さすがの私も知らなかったが、水溜りを歩くのに便利という実用性だけだったのだろうか。池田講師の文中、「娼婦ベロニカ」「高級娼婦」という言葉が出てくる。そこで私が思い出したのが、いまでは全く見られなくなった纏足(てんそく)だ。79年に私が戦後初めて中国に旅行した時には、北京の胡同(フートン・うら町の意)で、ヨチヨチ歩きする纏足の老婆がいたものである。辞典によれば「昔中国で子供の時から女の足に布を堅く巻きつけ、大きくしないようにした風習」とある。

もちろん、中国の女の子のすべてが、纏足したのではない。売買婚の形が強く残っており、一夫多妻だったころ、いうなれば娼婦に近い女性たちの(妻も含めて)、逃亡を防ぐ狙いもあったようだ。農婦をはじめ、労働者階級ではやらない。その亜流が、祇園舞妓のポックリ(高下駄)だったのだろう。

今の風俗で、ガングロ・キンパツという画一的な流行にとらわれる女の子たちが、厚底サンダルの常習者である。決して、男と同じ高さの目線を持ちたいという、希求があるのではない、と私は断じたい。

中国の纏足は、女性の足、くるぶしより先の部分の発達を防ぐのが目的である。つまり、身長、体重に比例させないので、О脚風にヨチヨチ歩きを強いられる。その狙いはなんなのだろうか。ベネチアでも、娼婦たちから流行したヨチヨチ歩き。日本のポックリも、水商売の女たちの風俗である。これらに共通する効果は、女性器の訓練である。

日本の俗言に、「ビッコの女はいい」というのがある。足の不自由さのゆえに、日常の歩行の中で、腰の安定のために、下腹部の筋肉が鍛えられて、性器の緊縛度が強くなるといわれる。同じく俗語のキンチャク(巾着袋のこと)になると信じられている。

私が警視庁記者クラブ時代、新任の社会部長歓迎会の行事で、幹事の私は、浅草で“花電車観賞会”と洒落こんだ。バナナ切りのあとのゆで卵飛ばしとなった時、膣内に残っていたバナナのスジが飛び出し、新社会部長のほっぺたにくっついて、大笑いだった。

もう浅草あたりでも、花電車の芸人はいないようだ。府立五中の同窓会で、私は北関東の温泉に、その芸人がいると聞き、余興に呼んだ。クリスチャンの学校長が真剣に見つめていたのが印象的だった。年増の芸者の演技は、まさに芸術的で、ワイセツ感はなし。

ガングロ・キンパツたちも、こういう“芸術家”を目指すべきだ。 平成11年(1999)10月16日

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)
編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)

■□■検察一体の原則■□■第32回■□■ 平成11年(1999)10月23日

野村沙知代の不起訴が確定した。嫌疑なし不起訴ではなく、嫌疑不十分不起訴だ。一度東京地検が不起訴処分にしたのに対し、告発人・浅香光代が検察審査会に「処分不当」の申し立てをし、検審が信じられないほどのスピード審査で、「不起訴不当」の結論を出したのだが、検察は、時効ギリギリの18日に、再度不起訴の処分を決定した。さる10月1日の不起訴処分から18日目であった。

私の「結婚の虚偽事実公表罪」容疑の告発は、10月1日に不起訴になり、私は検審に申し立てはしなかった。検審があのスピードで審査するとは、信じられなかったからだ。したがって、学歴詐称の浅香告発が検審で「不起訴不当」の結論を得たのだった。

私の「検察との付き合い」は長い歴史がある。昭和24年から25年にかけての1年間、警察まわりを卒業して、法務庁(当時はまだ庁だった)司法記者クラブへ。文系で法律も知らないのだから、六法全書との戦いだ。まだ刑政長官などという役職があった。そして、“検察の派閥対立”の芽をみつめる。

約1年ののち、国会遊軍を経て警視庁記者クラブへ。そしてさらに、昭和32年司法記者クラブのキャップになってまた1年勤務する。昭和33年夏に、横井英樹殺害未遂事件(安藤組事件)に関係して退社した。昭和42年、独力で正論新聞を創刊。「検察体質改善キャンペーン」を開始したのである。

私が、読売のクラブ・キャップの時、部下の記者の一人が酒に酔った。新年の御用始めの午後、検察との懇親の席である。突如、怒声が上がったので彼の許に駆けつけた。彼は一人の検事に向かって、怒鳴りまくる。「ナンダ、お前たち検事は! この世の中で、検事だけが最高のインテリだって、ツラしやがって! そのオゴリ高ぶったツラが気に食わねえ!」と。場内が静まり、検事や他社の記者の非難の視線の中を、なお怒鳴りつづける彼を抱いて、私は彼を連れ出した。当時の記者クラブには、彼の言葉に拍手を贈るものと、検事のオヒゲのチリを払う手合いと、ふたつの流れがあった。そして彼の酔余の怒鳴り声の対象が、「検察の一般像」であった。

このS記者の“暴言”は、多くの検事の持っていた「オゴリ」に反省を求めたものだったのだが、効果はなかった。しかし、検事にとっても、このように面罵されたのは、空前絶後のことであったろう。

正論新聞の検察キャンペーンの結果、二代の検事総長が努力して、派閥対立の解消のため、足留めを食っていた“負け派閥”の幹部2人を検事長とし、その1人である大阪検事長の岡原昌男は、定年後に最高裁判事に転出し、のちに最高裁長官にまで進んだ。

だが、派閥対立がこうして解消し、「検察一体の原則(検事は上から下まで一体だ)」が確立され、緊張感がなくなったからだろうか、ヤメ検の悪徳弁護士(金儲け専門)が出るばかりか、則定東京検事長の女遊び、偽名でのホテル同伴などの不祥事が起きた。これもまた、検察一体の原則なのか、浅香告発の当初の“門前払い”などは、いささか理解に苦しむところである。事後の検察の対応をみると、告発受理、不起訴の報道、否定の記者会見、不起訴処分の発表、検審申し立てへのコメント発表、不起訴処分——この流れには納得できない部分が多すぎる。検察は、いったい、どうなってしまったのか。

また、その強権ぶりを物語るのは、オウム麻原の主任弁護人だった、安田好弘弁護士が顧問会社をめぐる強制執行妨害罪に問われて昨年12月に逮捕された件だ。3度の保釈許可が検察の抗告で却下され、4回目のさる9月27日ようやく許可になった。懲役2年の刑の容疑ですでに10カ月も拘置されているのである。

この強権ぶりと、野村沙知代不起訴決定との間に、あまりにも検察官の権力の不公平を感ずるのである。日本の各界、各層の世紀末現象の中で、私たちは、いったいナニを信用できるのか。 平成11年(1999)10月23日

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)
編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)

■□■男女同一労働同一賃金の理想■□■第33回■□■ 平成11年(1999)10月30日

前々週の「ガングロたちへの提言」に対して、東京都の女性から、掲示板へ「やっぱり編集長も女性の性をお金で扱うのをよしとしている男性の一人と感じてしまい」「削除されるかもしれませんが、このような感想を持ったことをあえて書かせて」とご意見が寄せられた。反論を今週のテーマとしたい。

1917年のロシア革命は、封建制の打倒だけではなかった。同時に女性の解放、つまり“性”をも束縛から解き放った。その結果としての、男女同一労働同一賃金制である。私は敗戦の秋、バイカル湖の西方の炭坑で過重労働を強いられていた。そこには、ソ連的共産主義体制が、色濃く満ち満ちていた。

収容所のバリケードの入り口で、ソ連将校たちが捕虜の荷物を調べ、時計、カメラから爪切りまで掠奪していた。その様子を眺めながら、女たちの人垣が出来ていた。口々に騒ぎ笑いながら、私たちを指差したりする。私たち将校団の中に、召集された開業医の軍医がいた。「軍医殿、女たちは指差してナニを決めているんでしょうか」「ウーン、キンヌキ(去勢手術)の順番かな」と。年配の軍医の返事だけに、若い私たちには不安のタネとなって緊張が流れた。

だがその不安は、数日後には大笑いになった。8時間3交代で石炭掘りに出る私たちをあの女たちが襲ってくるのだった。まだ厳冬も経験せず、体力が十分だった捕虜たちは、女たちと性行為をした。その結果判明したことは、初日に指差したのは、「私はあの男がいい」「イヤ私はあっちの男」と、品定めをしていたのだった。大笑いも当然である。

そして兵隊たちは、習い性となった“行為後の支払い”に、軍手や軍足(靴下)などを渡す。戦勝国などとはいえないほど、物資が欠乏していた彼女らは、大喜びだった。やがて彼女らは、このプレゼントが“対価”なのだと気付く。そうなったらすごいインフレである。下着から毛の防寒下着、羊毛軍服まで高騰し、身ぐるみ剥がれてしまった。だが“売春”の習慣がないのだから、兵隊たちの財産がなくなったら、初めのように“性のエンジョイ”に戻った。現実に、働かざる者は食うべからず・男女同一労働同一賃金の原則が確立されていなければ、女の性は金銭で扱われるのである。それは、資本主義では、男のほうが高収入だからである。今のロシアは、すっかり変わったようだが、ソ連時代には“日本の女権論者”たちが随喜の涙を流しそうな事実があったのである。

アメパン、花電車など、死語となった言葉を、私はよみがえらせている。今の一過性流行語よりも、はるかに含蓄があり、戦後の世相を寸言で描破しているから、伝承の価値ありと判断するからだ。花電車というだけで不愉快だと感情移入するのは、私は賛成しかねる。スポーツマンの鍛錬と同じく練習に次ぐ練習で、一人前の芸人になる。タタミの目に立てた札をはさみ取り、徳利の口に乗せた硬貨を吸い取り、あまつさえ、客の注文に応じて、100円玉、10円玉と正確に吐き出す——観客は息をのんで静まり返り、“芸術的演技”に打たれるのだ。客が出した札も硬貨も彼女の収入だ。努力が報いられる高収入である。

水商売に入る女性は、自分の意志で入るのである。「心も身体もつらい状態」などというのは、知的を気取る女性が、おのれの優越感を誇示する言葉にすぎないと、私は思う。女性の弁護士や議員たちこそ、程度の低い女性の啓発のための運動をすべきで、人権発言は無用だと思う。

ガングロ・厚底たちが、単なる模倣に流れて、向上心の片鱗も見られないことへの、皮肉を書いたのだが、お気に召さなかったみたいだ。 平成11年(1999)10月30日

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)
編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)

■□■民主化を阻む元凶は勲章だ■□■第34回■□■ 平成11年(1999)11月6日

恥ずかしながら…と、横井さん流にいえば私は、正八位勳七等で宮中席次第何階だかに属する身分だった。といっても、それは戦争中に陸軍少尉に任官したから、それについてきたものである。当時の定番だったのだ。だが残念ながら、“証文”はないのだ。同期生には、その勲記という天皇のサインのついた証文を持っている者もいる。私たちは、野戦軍からシベリア捕虜と、日本を留守にしていた。一方、運のよい仲間は、日本国内で終戦を迎えた。そしたら宮内省から通知がきて、「正八位」の書類を受け取りに来いという。だから同期の少尉たちは、その証文をもらったというのだ。

ところが、その証文の発行には期限があり、私が復員してきた時には、もう期限切れでもらえなかった。のちにシベリア捕虜の“御苦労賃”として、一律に10万円の国債が支給された。菊の紋章の入った銀杯も、記念品として送られてきた。同期生会の席上、正八位組が、アンナ紙切れよりも10万円のほうが良かった、と大笑いしたものだった。

この正八位勳七等の位記勲記の支給に期限が設けられたのは、進駐軍の占領政策の目玉のひとつ「栄典の廃止」と関係があったのだろう。華族制度や勲章の廃止が命令されたのである。そして、昭和27年春の講和条約調印から、六カ月の切替期間があり、日本はその秋に晴れて独立国になった。

その一年後の28年9月18日付の閣議決定で、「緊急の叙勲取扱いに関する件」があり、さらに10年後の38年7月12日付で、「生存者の叙勲開始について」と閣議決定された。池田内閣の時である。こうして、叙勲制度というか、勲章が復活したのだった。しかも、生きている人に対して、等級を付けた勲章を政府が授与するということだ。

戦前は、成金で金ができると、まず女買い、それに飽きて、旅行。そのあとが名誉(勲章)を期待しての政治家買い、と相場が決まっていた。そのため、売勳事件などが起き、生存者叙勲は特別なケースで、死後、追贈されるのが主流であった。

ところが、生存者叙勲が主流で、政治家と官僚は、勲章をチラつかせて権力をほしいままにするのである。北朝鮮の将軍たちは、左胸だけでは足りず右胸にまで数多く飾り立てて、宮沢賢治の「バナナン将軍」を思わせる漫画スタイルである。日本で、スポーツ選手が金メダルを背広の胸につけて街を歩いたら、笑い者になってしまうだろう。

第一、どうして等級をつけるのか。これほど、人間に対する侮辱はあるまい。しかもその等級差別の根拠がアイマイだからだ。慣例として、役職や経歴が根拠になっているようだが、日本新聞協会という業界団体のボスが勲一等で、日本雑誌協会長という同じ業界団体の長が勳二等としたら、新聞と雑誌で、それほどの違いがあるものなのか。

中曽根元首相が大勳位で、他の首相経験者がどうなるのか。村山社民党首相はどうなるのだ。4日の午後、参院の代表質問のテレビをつけっ放しでいたら、小渕サマサマで、歯の浮くようなオベンチャラをいう奴がいる。何奴かと思って画面を見たら、参院自民党幹事長で小渕派の元郵政省人事局長で、労相経験者。72歳にもなって61歳におもねるのは、もう一度大臣になりたいか、勲章欲しさとしか思えないではないか。

文化勲章、文化功労者、人間国宝などは、それぞれの経歴と技能とが、万人とはいえなくとも、それぞれの世界で認められる人物だから、それほど異論は出ない。ただ、早いか遅かったかの違いだけである。

生存者叙勲、勲章等級制度は、二十一世紀に向けてやめにすべきである。名誉欲という人間の弱点につけこむ制度は、商工ローンの手口と同じである。蛇足ながら、「大臣」という封建制の名称も「長官」に統一すべし。 平成11年(1999)11月6日

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会
編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会

■□■警察腐敗は後藤田亀井が根源■□■第35回■□■ 平成11年(1999)11月13日

最近の警察の紊乱腐敗(びんらんふはい)ぶりには、もう言葉がない。しかし3年の警視庁記者、2年の司法記者として、警察官に多くの知己を持つ記者として、どうしてこの20年ほどにかくも乱れ切ってしまったのか考えてみて、1つの結論を見出した。それが、このコラムの見出しそのものなのである。

後藤田は警察庁長官であった。つまり全警察官のトップだったのである。それが、おのれの政治志向のため、田中内閣で官房「副」長官になる。仰ぎ見た長官が「副」になったのである。行政官としては、警察庁長官も、官房副長官も、ともに次官級職だから、本人も周辺も、格別「副」にはこだわらなかっただろう。

しかし、階級制で維持されている警察組織の、多くの人々にとっては、ナゼ、「副」なんだと、奇異に感じ、後藤田の転身を、自己利益追求のための、ナリフリかまわぬ転身に見えたのだった。ここでまず、警察官全員の精神的支柱をブチ壊したのだった。

政治家としての後藤田は、順調に権力を上りつめ、副総理にまで進んだ。資産公開では、20億以上の財産があった。彼の後を追って、亀井静香も政治家に転身した。キャリアだった彼は、警察のカオを利かせて、パチンコのプリペイドカードを企画した。ノンキャリア幹部達の天下り先と世間をゴマ化したが、頭のいい中国人達に偽造されて失敗した。だが、亀井個人は、これで政治資金ルートを確立し、自民党でもトップクラスの集金力だといわれている。

後藤田と亀井。この2人の先輩後輩のタッグチームに、キャリアたちは、その権力、金力にあやかろうとモミ手をし、部下や現場のことは忘れてしまった。一般の警察官たちは、敏感に様子をみてとって「バカらしくてやってられない」という気分に追い込まれ、それぞれの立場で、金を手に入れようとした…。

なによりも、精神的な切磋琢磨を必要とする警察組織は、上官に対する尊敬と信頼によって、その本来の組織を保持できるのである。それを打ち砕いたのが、キャリアと呼ばれる連中であり、根源は後藤田正晴、亀井静香の両名に集約される。小手先の改革など笑止である。 平成11年(1999)11月13日

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する!

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)

■□■小渕世襲後継に反対する!■□■第36回■□■ 平成11年(1999)11月20日

小渕前首相が亡くなって、日刊紙はしきりとその遺徳をたたえる紙面を展開している。通夜、密葬とも、青山葬儀所で盛大だったと参加者の人数を出して、アピールしているのだが、私は反論を唱えたい。

祭壇には遺影と勲章だけ。その遺言に「葬式は簡略に…」とあったとかで、献花の看板ズラリもなく、無宗教で、白花を献ずるだけというので、カッポー着のオバさんや高校生までが並んだという。

「首相臨時代理」の任命があったか、なかったかで、モメているくらいだから、この遺言は事前に用意されていたものだろう。それならばナゼ、「二世の後継は無用」も、同時に用意しなかったのか。「小渕の名を消すな」という、地元の熱意は、26歳の次女を担ごうとしているが、これほど、国民をバカにした話はない。国会議員のバッジは小淵家の私有財産な のか?

やっぱり、私は小渕恵三は首相の器ではなかったのだと思う。一国の総理という重責を担いながら、ブッチホンだ、ナンだと、パフォーマンスのみ心を砕き、十分な休養を取らなかったから、血管がブッチ切れてしまったので、いうなれば“自業自得”であり、本人はもちろん周辺の人々の補佐責任も大きいということだ。

現職で死んだもう一人の首相、大平正芳の最後も哀れなものだった。周辺の医者から聞いた話だが、心臓外科の医師たちは、バイパス手術をすすめ、そうすれば半年後には再び政治活動もできる、手術をしなければ生命の保証はできないと直言したようだ。だが、秘書や官房長官など、側近の人たちは「やりかけの仕事(利権か?)があるから」と、手術を受ければ首相を辞めざるを得ないので、手術に反対し、本人もそれを認めたというものである。そして、数日後に死んだ。これも“自業自得”である。

横綱・若乃花の引退も、能力がないのに、周辺に押されて横綱にさせられた。だから引退に追い込まれた。これも、小淵首相と同じケースだが、横綱には引退があり、年寄株で威張れるところが、首相とは違う点だ。

だが、新聞は「惜しまれて去る」と、大げさな紙面を作った。能力のない人間は能力以上の器にはなれないのである。

日本には、古来、死者に鞭打たずを美徳とする風習がある。だが、首相という最大の公人は、冷静に批判されるべきである。ましてや「小渕の名を消すな」などと、人物、識見ともわからぬ“小娘”を後継ぎになどは、言語道断である。 平成11年(1999)11月20日

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい!

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)
編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)

■□■バスジャックの父親! 出てこい!■□■第37回■□■ 平成12年5月20日

テレビには映らなかったから、両親が揃って出てきたのか、母親だけだったのか、シカとは分からぬが、新聞紙上には「説得の自信がない」と称して、バスにも近寄らなかったようである。この事件の報道、ことにテレビでは、午前5時の突入まで、徹夜して見つめながら、イライラの連続であった。

まず警察——ナゼ、十何時間も走らせ放題にしたのか。タイヤを撃ってパンクさせることも出来たではないか。ことに、二度目の停車で、瀕死の女性を運び出したときに、どうして、狙撃しなかったのか理解に苦しむ。窓から説得している隊長は、十分に狙撃のチャンスがあったはずである。

広島のシージャックの時に、狙撃したため、殺人罪で告発された過去が、彼らにタメライを与えたようであるが、瀕死と重傷2人と、3人の女性を搬出したときが狙撃の機会だったと思う。狭いバス車内での、少年の狂気にさらされた乗客たちの恐怖は、射殺しても余りある罪状である。

警察がダメなら、両親である。父親がバスに乗り込み、身を挺して刃物を奪うべきであった。そうでなければ、こちらも刃物を持って、少年を刺すべきであった。母親とて同罪である。自分が生み、育てた息子に、「刺してみろ」という勇気がないのか。そして死んだら本望であろう。少なくとも、バスに乗り合わせただけの他人を殺したり、刺したりすることに比べれば、親がヤラレるほうが、ベターである。

リュックに刃物を荷造りしているのなら、それを取り上げるのが本当だろう。コワイのであれば、家族で逃げればいいだろう。息子のことを警察に訴えた上で…。でなかったら、今までに数多くの実例があるように、親の子殺しである。寝ている時になら、やれるハズである。他人さまを襲うことに比べて当然の結論である。夫婦で生んで育てた責任を社会に対して取るべきである。

ナゼ、このような“極論”をいうかといえば、母親の「精神病院も警察も取り合ってくれなかった」と、責任逃れ、他人のセイにする言動が出てきたからである。

むかし、29歳の無職男が、エロ本を売っていて警察に捕まった。その父親が東大教授だったので、父親の育て方を非難する声があがったことがある。父親は毅然としていった。「29歳にもなった息子への、父親としての責任はない」と。

17歳だから、親の責任を私は問うのだ。事件が起きたのを、内閣危機管理室の報道で知った森首相は「射殺しろ!」と命令すべきであった。そうすれば、この両親と同じように、責任を取るのがコワイらしい、県警本部長なるキャリアは安心して射殺を命ずるだろう。そして、少年の射殺体の写真を、ひそかに週刊誌に流してやるのだ。

小渕前首相の病床写真よりも、少年の射殺体の写真は、全国の17歳の「虞犯(犯罪を起こすおそれのある)少年」たちに感銘を与えるであろう。もちろん、今回のように模倣犯も出ないことは、請け合いである。

森首相も“神の国”騒動が吹っ飛び、総選挙も、ひょっとすると大勝利かもしれない。いずれにせよ、今度の選挙で自民党が大敗すれば、森首相と野中幹事長の責任である。バスジャックも解決して、万万歳だったといえる。

それにしても、この少年の父親! 卑劣な男だ。自ら名乗り出て、社会に詫びよ!

射殺されれば、少年は極楽往生。両親ら家族は、これからの長い人生を、どう生きていこうとしているのか? 平成12年5月20日

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?!

編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)
編集長ひとり語り第38回 新聞がそこまでやるかね?! 平成12年(2000)6月4日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1960年ごろ)

■□■新聞がそこまでやるかね?!■□■第38回■□■ 平成12年6月4日

自民党には、四月会と呼ばれるグループがある。そのリーダーのひとりが、新潟比例区(正確には北陸信越ブロック)の白川勝彦(当6)で、新潟県警の腐敗摘発のキッカケになった、交通違反モミ消しの標的にされた。というのも、四月会は反創価学会(同時に公明党批判)の集まりだから、白川が狙われたのだ。チックリ(密告)したのは創価学会だという“噂”が流れたほどだった。

白川と同様に、四月会で頭角をあらわしてきたのが平沢勝栄(当1)である。10チャンネルの「朝生」の常連にもなって、政教分離を唱えて注目されていた。警察官僚出身で、先輩の亀井静香の子分、亀井のパチンコのプリペイドカードの立案者ともいわれ、大先輩の後藤田正晴⇒先輩の亀井⇒平沢と、パチンコ業界献金の上納ルートだ、といわれていた。

サテ、毎日新聞は子会社で聖教新聞の印刷を請け負い、池田大作著作の特別広告をもらう、という関係だから、この四月会の記事は一行も書かないほど創価学会に気をつかっていた。

ところが、その既得権益に読売新聞が割り込んできたのである。学会にしてみれば、300万部新聞の毎日より、自称1000万部の読売のほうが、影響力があると考えた。読売に対抗できる朝日新聞には、学会がスリ寄るスキがない。そこで、読売に公明新聞だかの印刷を発注し、特別広告も出してきた。だが読売は、四月会の記事など、大きく書いたりする“作戦”で学会にブラフをかけたりしていたのだった。

お話は変わって、平沢と亀井の仲が、最近は良くなくなってきている…という話が、永田町で取り沙汰されていた。そんなことあるものか、と私はハナ先で笑っていたのだが、衆議院の解散、総選挙となった2日、なんと平沢が自民党の公認が取れず、無所属で出馬か、というニュースが流れてきた。亀井政調会長というバックを失った平沢は、野中という“公明党利用”の幹事長のもとでは公認が取れないのも当然と、不仲説にうなずけたのである。

6月3日付の読売朝刊。社会面のトップは、野中幹事長の前で平身低頭する平沢と、それを傍らで眺める森首相の写真だった。野中は「関係者にご迷惑をかけたことを、深くお詫び申し上げる、という詫び状が出されたので公認した」と、記者発表した。当選6回、73歳で幹事長なのだから、当選1回、53歳、無役の平沢が野中に礼を尽くすのは当然だ。しかし、この“平身低頭”の写真は、平沢にとって終生忘れ得ない屈辱の場面であろう。涙なくして正視でき得ない…。

いうなれば、自民党内の反学会派ツブシである。その片棒を読売新聞が担いでいるのである。創価学会に文句をいう奴は、こうなるのだゾ! と、池田大作が嘲っている——。

蛇足だが、同日付の産経と毎日にだけ、「読売社長が自宅で転んで骨折入院した」という小さな記事が出ていた。警察官僚の大々先輩の故正力松太郎(読売社主だった人)が、平沢をあわれんで、ナベツネに「ゴマスリはやめろ」と注意を与えたのかもしれない。 平成12年6月4日

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために

編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)
編集長ひとり語り第39回 士はおのれを知る者のために 平成12年(2000)6月7日 画像は三田和夫71歳(1993.03)

■□■士はおのれを知る者のために■□■第39回■□■ 平成12年6月7日

もうすぐ、6月11日がくると、私は満79歳になる——考えてみると、長い人生を過ごしてきたことになる。3月、4月になると、兵隊の会や、シベリア会といった集まりがある。そういった会に出てみると、天皇陛下のために生命を捧げて神国日本を護ろうといったことも、つい先ごろのようでもあり、もうずいぶんと昔のことのようでもある。でも軍隊とは、シンニュウをつけて“運隊”だったから、生きのびて今日があるのだ。

「士はおのれを知る者のために死す」という。天皇の場合は、いまはやりのマインド・コントロールだったのだろうが、ある時、ひとりの政治関係の老人がこういった。「どうだ。小渕をどう思うね。彼を総理にするため、一肌脱がないか」と。私は答えた。「イヤです。人物が小さいから…」と。

あの時、ハイといえば、正論新聞の経営はラクになったろう。櫻井広済堂のボスに、「ウチで印刷してやろうじゃないか」と誘われたが、「結構です」といった。彼に借金ができて、親分ヅラされるのがイヤだったからだ。

政治家では、読売時代に農林省クラブで見ていて、河野一郎(洋平じゃない)なら、親分にしてもいい、と感じた。軍隊でいえば、中隊長の島崎正巳中尉か。新聞記者では読売の原社会部長。その延長線上の務台光雄社長。記者生活の中で知ったヤクザの親分衆にも、人間的に魅力のある人もいた。人の上に立つ人には、やはりそれだけの魅力があって、「あの人のためならば…」と、思えるのである。

府立五中のクラス会があって、安楽死が話題になった。と同時に、長寿と延命と介護の問題も…。ひとりがいった。年を老ってボケになるのも天の配剤だと。シモの始末など、ボケなら恥じないという意味だ。だが、自分自身の意思で、自分自身の行動ができなくなって、生き永らえることは、私にはできそうもない。その延命にどんな意味があるのか。

私が、正論新聞の刊行に努力するとき年齢を感じたことがない。だから、今後も原稿を書きつづけるのであろう。そして多くの友人知己の訃報を聞くたびに、おのれを知る者のために死すべき機会を失ったのを悔やみ、馬齢を重ねつづける…。 平成12年6月7日

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら…

編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)
編集長ひとり語り第40回 皇太后さま、さようなら… 平成12年(2000)6月18日 画像は三田和夫48歳(1970.06.08)

■□■皇太后さま、さようなら…■□■第40回■□■ 平成12年6月18日

報道機関の揃い踏みみたいに、皇太后さまの微笑みのおだやかさと、品の良さとが報じられていた。

だが、それもそうだが、エピソードを語るむかしの女官たちの姿を、テレビで見たときに私は愕然とした。いまの時代に、これだけの年齢(俗にいえば老婆のタグイ)で、これだけ美しく、これだけ上品な女性が、まだ生き残っていたのか、という驚きである。しかも和服姿である。

いま、巷にあふれている、40歳、50歳代のオバサンたち。そして、60歳、70歳代の老女たち——そのほとんどが醜いし、そして、所構わず、あたり構わず、奇声、嬌声を大きく高く発して、ひんしゅくを買っていることにさえ、気がつこうとしない。

さきごろ、特急列車に乗った。空いていたので、向かいの座席をクルリとまわして、靴を脱ぎ、足を伸ばして、眠ろうとした。昨夜が寝不足だったから、この2時間は貴重な睡眠時間だった。が、眠りはすぐ破られた。

私から4席ほど先の席で、3、4歳の男の子が、甲高い声で騒ぎ出したのだ。後ろ姿で30歳後半の母親は何も言わない。30分ほど我慢していたが、ついに立った。

「ここは公共の場ですよ。子供に静かにしているよう、しっかりシツケなさいよ」

「……」

女はふり向いただけで、わけの分からぬオリエンタル・スマイルを浮かべただけである。子供は騒ぎつづけている。

「このぐらいの年齢でキチンとシツケないと、あと10年もすると、アンタが殺される番ですよ」——女には意味が通じなかった…。

このタグイの母親たちと、それが少し年齢をとった女たちが、街にあふれている。そして老女たちは、自分の顔やズングリムックリのスタイルに、まったく似合わない色や形の服を着て、似合いもしない帽子をかぶって、群れをなして横行している。厚底靴やガングロ、ヤマンバの娘たちは、街のどこにでもいるわけでないから、彼女らの棲息地に入らなければ、不快感を覚えることもない。

が、このタグイの老女や人妻たちは、街のあらゆるところに押し出してくるから、マユをひそめざるを得ない。

テレビのタレントたちの下品さ——その顏も仕事も最低である。政治家たちの、土方(むかしの概念で)か暴力団のような顔立ちを見ると、吐き気がする。民主党の若い候補者たちの多くが、知的で意欲的な表情を見せているのに、自民党の古い議員たちの、なんと下品な奴が多いのか。

前述の列車に乗っている時、「毎日新聞電光ニュース」が流れた。「…天皇、皇后両陛下はいったん皇居に戻った」(6・16所見)とあった。記者もまた「戻った」と「戻られた」との、一字違いの言葉の使い方さえ分からない時代である。

保守党の扇千景党首は、演説で「アタシ」と「アタシども」という。あの年齢なら、当然「ワタクシ」であろうし、百歩ゆずっても「ワタシ」と「ワタシども」であろう。

ワイドショウに出てくる“皇室評論家”のおばさまを除いて、皇太后さまの想い出に登場された老女や、美智子さま、雅子さまのお姿を見ながら、自分の国・日本はいつのまにか、礼節も失い、精神的に荒れ果ててしまったことを、思い知らされた次第だ。

皇室という特殊な家族を温存する、憲法上の「天皇」の在り方は、やはりそれなりの意義がある。皇太后さまの微笑みとお心配りは、やはり、何十年、何百年と続いてきた“誇り高き家族”でなければ、自然に現れるものではないと私は思う。 平成12年6月18日

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな!

編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋
編集長ひとり語り第41回 娘たちよ、すぐに男にやらせるな! 平成12年(2000)6月24日 画像は三田和夫73歳(黄河鉄橋1995.02.26)黄河鉄橋:戦時中、三田小隊が守備していた鉄橋

■□■娘たちよ、すぐに男にやらせるな!■□■第41回■□■ 平成12年6月24日

6月22日、駐輪場で殺された女子高生の第一回公判が開かれた。被告は殺意の有無について「殺すつもりはなかった」といった。

いわゆるストーカーが事件化するのは、みな、女が交際を拒否した時点からである。交際を拒否——などと、キレイごとの表現をしたが、ズバリ書くならば、「もうおまえとはセックスしない」宣言なのである。男にとっていつでもどこでも、自分が欲する時にやれる女がいる、ということが重大なのである。

むかしは、遊郭(女郎屋・売春宿)があったから、男はいつでもヤルことができた。しかも、今のソープなどと比べられない安さだから、“泊まり”の豪遊(といっても、本部屋泊まり以外にも“まわし部屋”の安いのもあった)ではなくとも、チョンノマといわれる、超短時間の遊びも可能だったのだ。

つまり、安定的な性処理が失われたのでは男は頭にくる。復縁を迫って、つきまとうのは当然である。だから、オドシのつもりのナイフが、その場の勢いでグサリ、も無理からぬことである。殺意(殺してやろうという意志)の有無が問われるわけである。

若い娘たちは、あまりにも無造作に、すぐ男にヤラせる。あとさきを考えるチエもなく求められるままに、身体を開く。それが何回か継続したのちに、好悪や反省や、男の自己中心的行為への不快感などで、“絶交宣言”となり、トラブルになる。要は、男の性格を見極めないで、ヤラせるな! である。

だが、日本語というのは面白い。ヤラレル、ヤラセル、売ラレル、だまサレル、言い寄ラレル、抱かレル——すべて、男女間の行為は、女性の受身言葉で表現される。これは、男尊女卑思想の然らしめたところであろう。戦後半世紀も過ぎ、男女同権といわれながら、現実は、女性が受身なのである。

アメリカはどうか。NHKの深夜番組で、延々とつづけている「ビバリーヒルズ青春白書」を見ると、男女が画面に出てくると、すぐキスして、すぐセックスをする。若い娘のほとんどが、すぐヤラセルから、男は次から次へと移れるのである。だから、キレる事がない。だが、残念ながら、わが日本では、すぐヤラセル娘の絶対量が少ないから、男はキレるのである。

ロシアはどうか。1917年の革命は、帝政ロシアを打倒し、農奴と性を開放した。もともと娯楽のない農村では、性行為が娯楽のひとつであった。それが、開放されたのだから、男女は、同一労働、同一賃金に裏付けされて、男女ともに、ダワイ・イバーチィ(さあ、やろう)の一言で、受身の言葉はない。先日亡くなった竹下元首相の地元、島根県では、東京オリンピックでテレビが普及するまでは、“夜這い(よばい)”の習慣が現存した。あくまで、女性の受身形なのだ。

さて、こうして眺めてみると、日本の若い男たちはジコチュウで育ってきているから、“いつでもヤレルし、ヤラセル女”に絶交宣言されると、どうしてもキレて、ストーカーになってしまう。

だから、若い娘たちに忠告する。殺されたくなかったら、すぐにヤラセルな! ヤラセル時には“結婚”という社会的なワッパをはめてからヤラセロ! と。そうでなければ、キレない男だと見極めてからヤラセロ! 平成12年6月24日

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー

編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)
編集長ひとり語り第42回 野中のボキャブラリー 平成12年(2000)6月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 溜池のオフィスか1959)

■□■野中のボキャブラリー■□■第42回■□■ 平成12年6月27日

総選挙が終わった——自公保が約40議席を減らしたことは、まだ物足りないが、マアマアとしようか。ただ、残念としかいえないのが、野中幹事長の命運をかけた「自民229」のラインを、わずかだが超えたことである。

野中はいった。「自民229を割ったら、幹事長として責任を取る。退路を断ったのだ」と。投票日の25日の新聞に出ている。さらに26日の朝刊。公明、保守に対する選挙協力が機能しなかったことで、また、いった。「万死に値する」と。

退路を断った。万死に値する。この2つの言葉の使い方は、まことにオカシイ。自民が229議席を取れなかったら、「退路を断って」幹事長としての責任を取る——幹事長として責任を取ることが、どうして退路を断つことになるのか。数日前の新聞に、幹事長をやめて、行革本部長をやりたいと、“放言”したことが報じられていた。229取れなかったら政治家をやめます、というのなら、退路を断つことにもなろうが、衆院議員のままで役職を変わることは、退路を断つにはならない。

この言葉、先の都知事選で、柿沢とかいうオポチュニストが、議員をやめる時に使った言葉だ。その柿沢は、チャッカリと今回出馬して、当選してしまった。呆れた奴であるし、それに投票した奴の顔が見てみたい。

もうひとつの「万死に値する」は、岩瀬達哉の力作「ドキュメント・竹下登 われ万死に値す(政治家・竹下登の『深き闇の世界』)」が、99年9月に発刊されたのだが、さきごろ、本人が亡くなったので、新聞報道でこの本が取り上げられ、題名が記載された。

つまり、野中のボキャブラリーは、新聞の見出しを失敬する程度で、彼の知性のほどが分かろうというもの。私が開票速報をハラハラしながら見つづけて、徹夜してしまったのは、自民が229を割った時の、野中の出処進退(出=官職につくこと。処=民間にいること。)を見たかったからである。

かつて、小沢一郎を悪魔とののしりながら自自公の時には「土下座して」と、豹変する野中の政治姿勢の、新しいサンプルが見られる期待があったのだ。言葉の貧しさといえば森首相もまた、野中に負けず劣らずである。さる6月12日、森は記者クラブの会見で、「(みなさんに)お訴えして…」といった。「訴える」という動詞の趣旨からして、「お」という美称や敬称がつけられる必然は、まったくないのである。

私の中学時代、「おニュー」という言葉があった。運動靴や服、シャツなどの新品を身につけると、英語のニューに、羨望や、揶揄をこめて、美称の「お」をつけて、「おニュー」といって、はやし立てたものである。英語のニューに、日本語の“お”をつけることは、デタラメもいいところで、軽蔑感を端的に表現したものである。なにしろ、旧制高校のダンディズム「弊衣破帽」が横行していた時代だから、新品を身につけることは、「おニュー」として、揶揄されるのである。

森の一連の失言はここにあげつらうこともなかろうが、自分の存念に理解を求めることを「訴える」のに、「お」をつければ、理解してもらうのにプラスだと考えたのか? リーダーの不可欠要件である「教養」が、まったく感じられないこの2人である。

今の自民党を牛耳っているのは、鈴木宗男党総務局長⇒野中幹事長⇒亀井政調会長のラインと、古賀国対委員長、村上参院議員会長、青木官房長官らのグループである。これらの連中の顔、面構えをトクとご覧あれ! 「教養」とは無縁の顔だ。

7月上旬には、新内閣がスタートする。その時にどんな人事になるか、見ものである! 平成12年6月27日

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ!

編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)
編集長ひとり語り第43回 よど号田中のハレンチ! 平成12年(2000)7月1日 画像は三田和夫67歳(卒業50年の旅1989.02.11)

■□■よど号田中のハレンチ!■□■第43回■□■ 平成12年7月1日

よど号事件の犯人のひとり、田中が日本に送還されてきた。顔を隠すでもなく堂々と(ある意味威張って)報道写真におさまり“殉教者“気取りである。私がその場にいたら、ツバを吐きかけてやりたいほどである。

我が国最初のハイジャック事件だった。金浦空港で乗客と引き換えに、当時の運輸政務次官・山村新次郎議員を人質とし、北朝鮮へと飛ばさせた。たしかに、129人の乗客乗員のすべてを殺傷することなく、ハイジャックの目的を達したのだった。が、この事件が引き金となって、次々とハイジャックを引き起こし、「超法規的措置」などという新語を生み、刑務所からの仲間の奪取や、何億円だったか忘れたが、巨額の税金を奪ったりといった、事件の幕開けとなった。

「オレは政治犯だ」「一切黙秘する」といった言動は、日本政府を否定し、革命の尖兵たらんとした赤軍派として、おのれの信念をまげず、さらに活動をつづけようという意思を示すものであろう。

もし、そうであろうならば、私としては、田中のこの“不遜”な態度も、よしとせざるを得ない。

だが、赤軍派を名乗るテロリストたちが、日本政府から奪った金で、銃器を買い、活動資金として、全世界でどのような「殺戮」を行ったか。ダッカ事件然り。何十人、何百人もの人々を殺したのである。

つまり、赤軍派の連中は、非合法生活者なのである。合法生活者(遵法市民というべきか)とは、まったく別の次元で生きており、生きてきたのである。

結婚し、子供を産みその子の成長を慈しみ、かつ期待する——これは、法律を遵守する、遵法市民の当然の権利である。田中にはその権利は主張できない。

北朝鮮に亡命した、よど号事件の犯人たちは日本女性と結婚(合法?)し、子供をもうけていた。小市民的幸福に浸っていたのだ。そして、その子供たちが大きくなってきて、これまでに「5歳から22歳の子供たち20人のうち、18人が日本国籍を取得」(東京新聞)したという。この記事の見出しには、「年内にも妻子の帰国を、支援団体『北朝鮮組の先鞭に』」とある。

東京新聞だけではない。各日刊紙の記事には、みな望郷の思いにかられている、と報道されている——だから、田中の顔にツバを吐きかけてやりたいのである。

妻子のしあわせを願う、小市民的希望があるならば、「よど号事件は若気のあやまちだった」と自己批判し、日本政府の捜査に協力し、すべてを自供すべきである。

妻子の幸せだけは、遵法市民の立場でなどと、甘ったれるナ! 首尾一貫しろ! 子供を産んだ時点で、赤軍派からの転向がはじまったのだゾ。もっと自分に厳しくしろ! 平成12年7月1日

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ!

編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)
編集長ひとり語り第44回 さあ、次の選挙は近いぞ! 平成12年(2000)7月4日 画像は三田和夫50歳(右から2人目お辞儀 1972.04.05)

■□■さあ、次の選挙は近いぞ!■□■第44回■□■ 平成12年7月4日

7月4日、総選挙後の首相指名を行う国会が召集される。今期は2日間で、6日に終了して、8日の沖縄サミット、福岡蔵相会議へと、森第二次内閣は忙しい日程に追い込まれる。

と、その段取りだけは、順調に進んでいたのだが、6月30日、東京地検特捜部は、自民党・江藤亀井派のボス、中尾栄一元通産相を受託収賄容疑で逮捕した。

例の許永中。公判中に韓国の病院から逃走して、十何人もの人々を、逃走罪の共犯に巻き込んだ。許の人脈から、中尾のワイロ事件が浮かんできた。一説には、許が検察との取引で、中尾の件をバラしたともいわれた。

中尾は落選していたので、逮捕も簡単だったが、当選(当選証書を選管から受けた瞬間から、国会議員の身分となり、国会開会中は不逮捕特権がある)していても、30日は国会開会中ではないから、同様に簡単だ。それでも、6月25日の投票日、26日の開票日で、当落を確かめてからは、27、28、29と丸3日間しかない。

NHKテレビを見ていると、候補者のタスキをかけている中尾に、この許永中資金の質問を浴びせている。それに対し、「秘書を10人も使っていて、その秘書のやったことだ。週刊誌的な取材をするな。政治は堂々としてなければ」といった趣旨の返事をしている。政治家の誰でもが、逮捕される前は、“堂々”と否定するものだ。

さて、ここで疑問が湧いてきた——贈賄側の若築建設の当時の石橋浩会長は、贈賄の時効で不問とされたようだが、その義兄の「陳述書」が早くから中尾の収賄を指摘していたというのである。

この事件では、各紙を比べて見ていると、東京紙が一歩先んじているようだ。逮捕翌日7月1日の朝刊で、「自民幹部聴取も、地検検討」と、贈賄側から金を受け取った人物の動静を伝え、同夕刊では、「陳述書」を書いた。前述の疑問というのは他でもない、各紙とも「自民2代議士側に資金」〈7・1朝日朝刊〉などとしながら、2人の名前を明らかにしないことだ。

「派閥領袖クラスを含む2人」(7・1日朝日夕刊)が、翌2日朝刊になると「…2人に計一億数千万円…」というが、名前のヒントがないままだ。同産経夕刊も「陳述書」を書き、読売夕刊は「1人は建設相経験者」「…取材に対し『資金提供は全くない』と否定」。

2日朝刊。産経「超大物元議員にも現金、当時の秘書受領」、毎日「現職波及を注視」と、日曜日らしく閑散な紙面だった。が、この朝10時の“サンデープロジェクト”に、亀井静香政調会長が、田原総一朗司会のもとで渡り合った。またフジの“報道2001”には、管が出演。

さて、明けて3日の毎日朝刊は、竹下元首相の名を一面で、社会面で亘議員否定談話を報じた。各紙が亀井の否定談話をのせる。

3日の東京夕刊は「自民大物、参考人聴取を拒否」と1面の大見出し。亀井が今春、参考人の打診を地検から受けたが、総選挙前だからと、出頭を拒否したことを報じた。快哉!

こうして眺めてみると、各新聞とも、竹下と亀井の名前をはじめから知っているにもかかわらず、活字にするのに丸3日もかかるとは、一体どういうことなんだ? 中尾逮捕と同時に書くべきことを、捜査の進展で判ってきたようなポーズをとるところに、自民党に癒着している日刊大新聞の姿がある。

また亀井が、田原の司会の番組にだけ出て“弁明”するあたりに、これまた癒着の疑問を感じるのである。フジが午前七時半から、テレ朝は午前十時からで、事実、管は掛け持ちしているのだから、亀井だってできるハズである。弁明するなら、媒体は多い方がいいはずである。

もしも亀井が逮捕でもされたら、森内閣は空中分解で、またまた総選挙である。 平成12年7月4日

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮

編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)
編集長ひとり語り第45回 ついにはじまった母子相戮 平成12年(2000)7月8日 画像は三田和夫67歳(右側 秋の爺童会1988.10.15)

■□■ついにはじまった母子相戮■□■第45回■□■ 平成12年7月8日

最近、日刊紙上に「親身になって」というサラ金の広告が目立つ——岩波国語辞典によれば、(1)血縁が非常に近い人、(2)それに対するような心づかい、とある。まさに、文字通り、親(おや)の身になって、なのである。

では、親切(しんせつ)とは、親を斬ることなのか、といいたくなるような、近頃の世相である。家庭内暴力に悩んだ母親が、娘を殺して自分も投身自殺。娘に保険金をかけて、准看護婦の知識を生かして毒殺未遂(他に2人の子供も死んでいる)。

野球部の後輩をバットで殴り、自宅に戻って母を殴り殺す。迷惑がかかるから、殺した方がいい、と弁解する男の子。バスジャックの父母のように、殺されるおそれから逃げて、「説得の自信がない」だと弁解。バスに乗りこんで、刺されようとも、息子から刃物を取り上げるだけの、責任感のカケラもない両親。これに比べれば、娘を殺して自殺した母親は、まだマシである。他人に迷惑をかけないからである。

雪印もそごうも、警察も病院も、責任ある人たちが、4、5人、ガンと首を並べて記者会見で「ご迷惑をおかけして、深くお詫び申し上げます」という、テレビ画面が、今年になって大流行である。そして、誰も責任を取らない。そごうの経理担当副社長が自殺したなど、まさに“責任を取った”鑑であろう。

よど号事件の田中某、自分の子の友人の幼稚園児を殺した母親。オウムの下手人たちと、みんな“お詫びを申し上げます”である。詫びればいいってもんじゃあるまい!

さきに「皇太后さま、さようなら」の稿で、列車内で騒ぐ子供を制止もせずにいる母親に私はいってやった、と書いた。「しつけは4、5歳までが基本。あと10年もすれば、あんたが殺される番だよ」と。だが、その母親には、私のいった言葉が理解されなかったようだ、と。

人の児の親になるという、自覚と責任を考えてない若い夫婦が多い。デキチャッタ婚などと、不見識極まる流行語を生み出す時代を、もっと真剣に見つめねばならないのである。

かく申す私は、三男一女をもうけたが、途中、バットで殴られることも、刃物でズブリもなく、順調に馬齢を重ねている。その基本は、子供の人格を重んじ、誇りを教えた。それは4、5歳までのしつけである。子供に手を上げたことは、小学生の女児に1回だけで、他には一度もない。

塾も家庭教師もなく、学校の成績に干渉せず、進路についての相談にだけ助言する。常に、子供の人格を尊重し、自身の判断を優先させてきた。そして、他人や社会に迷惑をかけずに成人となったのである。

「親切」は、親の代わりに「深・心」の字が用いられ、漢語辞典に出ている。親の字はオヤではなく、親しいの意味だから、親を切るではない。一方、「親身」は漢語辞典にはなく、国語辞典にある。これは「親の身になって」と解すべきだろう。

この親と子と“相い殺戮する”時代は、植木等の「無責任時代」の唄につれて育った世代が、無責任に親になった結果の、当然の帰結である。 平成12年7月8日

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは!

編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)
編集長ひとり語り第46回 犯人の方(かた)が…とは! 平成12年(2000)7月29日 画像は三田和夫52歳(中央 松㐂鮨1974.05.04)

■□■犯人の方(かた)が…とは!■□■第46回■□■ 平成12年7月29日

先頃の、17歳少年のバスジャック事件の時である。最初に一時停車したパーキングエリアの売店のおばさんがいった。「犯人の方(かた)が何か要求されたんじゃないですか」と。そして、7月12日のNHK昼時に出てきた料理研究家なる、これもオバさんが、マナ板の上で暴れる魚をみていった。「生命力の強い方(かた)なんですね」と。

殺人容疑者に「方」という敬語を使うのはまだしも、魚に対して「方」というにいたっては、もう何をかいわんやである。

それもこれも、すべて、テレビの報道番組のせいである。美しく正しい日本語をひろめるべきテレビが、どうしてか、日本語を破壊しているのである。客観性を重視すべき報道で、テレビはこういう。「警察官のカタが駆けつけてきました」「駅員のカタたちが…」

いったい、テレビはどういうつもりで、この「カタ」をつけるのか。「警察官が駆けつけて」「駅員たちが」が正しい日本語である。と思っていたところへ、2人の人がそれぞれ一文を草していた。

週刊文春7月13日号「何様なのか、テレビ局(5)」野坂昭如

「ワイドショーのレポーターは…『ご冥福をお祈りしたいと思います』と、とってつけたようにいう。あの『思います』っていいかたはいったい何なのか。思っているだけじゃなくて、ちゃんと冥福を祈れ! ついでにいえば、『いやあ、あちらに行ってみたいと思います』『食べてみたいと思います』というテレビ特有の物言いも、とても耳障りです。何で『いってみましょう』『食べてみましょう』と、ストレートに言わないのか」

そして、もうひとつは7月27日付け東京紙ラテ版、廣淵升彦・湘南短大教授

〈文化を破壊するアナ〉「…最近アナウンサーたちの発音で気になることがある。『一トン』を『イチトン』といい、『八点目』を『ハチテンメ』というアナが多いことだ。…音便というのは文化の成熟度を示すものである。…世界共通語となった『レゾンデートル』を、一語一句区切って『レゾン・ド・エートル』などといえば、笑い者になるだろう」

実際、浅草のカンノンさまを、カンオンさまというバカがいるか!

これらの元凶は、NHKである。NHKのアナ教育はどうなっているのか。税金で賄われているNHKが、日本文化の破壊の先頭に立っているのではないか。ともかく、つける必要のない「カタ」と「思います」を消すことから始めてもらいたい。冒頭の売店や料理研究家も、その年頃から見て、NHKを一番良くみていると思われる。

かく申す私は、昭和18年の夏、日大卒業を控えて、NHKのアナ試験を受け合格。同時に合格した読売をえらんだのである。理由は戦時中だから、ノドはひとつ、ウデは2本あるので、アナより記者をえらんだ。だから、ひとより発音にウルサイのである。

NHKテレビを見ていて感ずるのは、報道のアナやレポーター、記者たちは、自分の話した部分のビデオを見て、再点検しているのかどうか。都知事選で落ちて、パリの日本館だかの館長になった大物が、「お歴お歴」と話した。再放送でもそのまま。若いアナが、「遊興費」を「ユーコーヒ」と発音した。遊興もしたことがないのだから、ヤムなしか。

それにしても、NHKの海老沢会長なる男は、あまりにも画面に登場しすぎる。会長が部下に任せられないようでは、NHKの改革など、夢のまた夢。小淵さんが大相撲の総理杯に出てきたように、あの海坊主風の男も、脳コーソクに倒れるかもよ…。 平成12年7月29日

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな!

編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)
編集長ひとり語り第47回 “ひとのせい”にするな! 平成12年(2000)8月5日 画像は三田和夫65歳(前列右から3人目 元・島崎隊 天よ志1987.05.31)

■□■“ひとのせい”にするな!■□■第47回■□■ 平成12年8月5日

かねてからの文章でお判りのように、私は“適者生存説”を主張している。それは、79年に及ぶ私の人生、ことに丸2年の軍隊生活と、同じ丸2年のシベリア捕虜の体験を中心に据えた“私の哲学”である。

軍隊での生死の分かれ目には“運隊”と呼ばれるように、自分の努力だけでは如何ともし難い運命ともいうべきものが、大きく左右する。しかし、あくまで“適者生存”であることには変わりはない。

シベリア捕虜もまた、“運隊”と同じだけれども、酷寒や栄養失調、発疹チフス、事故といった客観状況の中で、今こうして生き残った人たちを見渡してみると、死ぬべき男が死に、生きるべき人が生きている。

先日来、新聞紙面やテレビ画面でしきりと“問題化”している、中三生の自宅での首吊り事件で、私は憤慨にたえない。ナゼかといえば、学校でイジメがあり、それを家庭に連絡しなかった「学校の責任」ばかりが、取り上げられているからである。

両親に祖父を含めた家族、家庭の責任はどこに行ってしまったのか。自分たちの無責任が、第一番に問題にされねばならないのに、彼らは、学校、学校と、“ひとのせい”にしようとする。こんな家庭だからこそ、この少年は、自宅で自殺したのである。

私も少年の頃、死を美化する文学作品などの影響から、自殺を考えたことが、何度もあった。早熟だったせいか、小学校高学年から、中学にかけて、そんなことを詩や散文に書き散らしている。だが、この少年と違うところは、「HELP(ヘルプ)」などというメモは書いていない。自分自身の勉強と努力とで、死の誘惑から脱出したのだった。

誤解を恐れずにいうならば、この両親や祖父は、この少年に金属バットで襲われなかったことが、不幸中の幸いであったというべきであろう。テレビ画面で見た、少年の立派な祭壇に、私は違和感を覚えた。

少年を袋叩きにした8人の同級生が、先生に連れられて、拝みにきた——母親はこの8人が、肘で先を譲りあう(?)動作や、ニヤついた顔などに、さらに怒りを訴えたりするが、それを、そのまま報ずるテレビカメラや、新聞記者たちの在り方は私はオカシイと思う。

最近の紙面や画面には、つねに“ひとのせい”が主張されている。マスコミは、もっと事の本質を見極めて、事件を取り上げるべきである。このマスコミのデスクたちも、すべて“ひとのせい”にする、無責任世代なのであろう。

テレビ朝日のダイオキシン騒動の公判もはじまったようである。久米宏たちは、これをもって“ひとのせい”にしないように。埼玉県のO157騒ぎも、保健所の無責任が原因と判明した。さて、埼玉県は、被害賠償に対してどう対処するか。100億円以上と伝えられる被害に、県民の税金を支出できるだろうか。“ひとのせい”にできないケースだけに、土屋知事がどうするか、みものである。

“自分のせい”で、昨年の玄倉川13人水死の事件があった。だから私は“適者生存説”をとるのである。思春期の少年の、心の動きを読み取る努力を怠った家族は、決して“悲劇の主人公”ではない。

音羽の幼稚園児殺害の母親の公判で、その夫はこう述べた。「声は聞いていたが、心の声を聞こうとしなかった、私の責任です」と。この夫は、残された子供とともに、これからイバラの人生を歩まねばならない。 平成12年8月5日

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道

編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)
編集長ひとり語り第48回 不快感極まる靖国参拝報道 平成12年(2000)8月19日 画像は三田和夫77歳(右端・浴衣 戦友会・桐第二〇五大隊1999.03.06)

■□■不快感極まる靖国参拝報道■□■第48回■□■ 平成12年8月19日

8月の暑い夏——四季の移り変わりがハッキリしていた日本も、原爆以後の異常気象で、歳時記に書かれている季語も、だんだん現実感が薄れてきている。

そして、6日の広島、9日の長崎、15日の敗戦と、あの戦争の記念日がつづくのだが、それも、高校野球やお盆休みなどのかげに追いやられてしまっている。と同時に、新聞を広げて不快感に襲われるのが、閣僚たちの靖国参拝の“公私”の別議論である。

戦中派である私も、靖国神社の由来や、その広大な敷地取得の経過について、なんの知識もない。と同時に、それが当時の軍閥の仕業であろうことは理解できる。私の少年時代の記憶でも、あの大きな社殿は、すでにあったと思う。

当時は“生めよ、殖やせよ”時代で、多子家庭が表彰され、その子供たちが戦争に狩り出され、死ねば“軍国の母”を顕彰するために、靖国の御霊(みたま)を祭る場所が必要だったのである。それは、中国でも同じで、毛沢東は多産を奨励し、兵力の人的資源を確保した。宗教を否定していた当時、一般人の墓は認められず、葬式もできなかったが、各地にはそれぞれ、「烈士陵園」(一例を挙げれば、この上に「中国人民解放軍華北軍区」と記されている)という、戦死者の墓は綺麗に設けられていた。

もちろん、対日戦の戦死者ではなく、国共内戦の犠牲者の墓である。1979年初秋、私が日本共産党新宿支部のツアーに参加して、戦後はじめて訪中をし、現認してきた事実である。これは、毛沢東政権の、いうなれば“靖国神社”そのものではないか。

いつ頃のことだったか、中国政府は、戦犯が合祀されている靖国神社に、首相以下の政府首脳が参拝するのはオカシイ、と横槍をいれてきた。当時の自民党政府のボスたちは、対中ODAや有償無償の円借款などのリベートで私腹を肥やしていたものだから、一も二もなく震え上がった…。それ以来、延々とつづいている8月15日の“公私の別”靖国参拝論議である。

中国・南京にある“大虐殺記念館”の一角に、2人の少尉が百人斬り競争をしたという東京日々新聞(現・毎日紙)のデマ記事のコピーが展示されている。この2人は戦犯として刑死した。この2人も合祀されているのだろうか?

自分が将校になって、日本刀を体に吊ってみて判ったことがある。鍛えてない体ではあの重い刀でチャンバラなどできないのだ。ヤクザだって、もう日本刀は使わない。自由に振りまわせないからだ。それが、百人斬りだと? この記事が、軍に媚びたウソ記事だということは、すでに明らかになっている。

この記事が示すように、日本の新聞は、常に時流におもね、権力に媚びてきた。現在でも主流はそうである。国家や民族の百年を考えた報道は、皆無といっていい。

15日のテレビ・ニュースは、靖国の社頭に立ち、国会議員にマイクを出して、「公式ですか、私的ですか」と、バカ気た質問を繰り返すテレビ記者。その背後に、命令するバカデスクの顔が見える。この報道にいったい、どのような意味があるのか。

森首相もまた、事前に、公式参拝しないと宣伝する。かと思えば、石原都知事のように、公式参拝するゾと、予告編を出す男もいる。こんなバカ気た茶番劇は、もう止めにしたらどうか。マスコミが取り上げねば、自然に沈静化する話だ。マスコミはそこまで中国の顔色をうかがうのか? ナゼだ?

靖国神社のあり方や由来などとは、まったくの別問題である。「父に逢いたくば靖国神社へ!」といった時代は、もう遠い過去である。マスコミはもっとしっかりしろ! 平成12年8月19日