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最後の事件記者 p.450-451 同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた

最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と
最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と

あとがき

いま、こうして、私の新聞記者としての、ひとつの区切りに立って、いったい、現在の私の人格形成に、どんな人たちが影響を与えて下さったか、について、考えてみた。

記者としては、三人の先輩が挙げられる。昭和二十二年秋、シベリアから復員して、帰り新参の私が、社会部遊軍に戻った時、同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた。

カストリ雑誌全盛のころで、私が、「夫婦雑誌」というのに、内職原稿を書いているのを知った辻本さんは、「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者というのは、後世に残るものを書くんだ。単行本としてまとめられる、〝専門分野〟を持つのだ。物書きなんだから、著書の二冊や三冊は出版できなきゃ……」と、忠告して下さった。

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

最後の事件記者 p.452-453 不良外人のバッコを叩いた「東京租界」

最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」
最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

「いいか。新聞記者というのは、書くんだ。酒を呑まされ金を握らされても、書けばいいんだ。だが、金は受け取るナ。ハンパ銭だと、相手は、余計にしゃべり易い。それが、広まって記者生命を傷つける。もし、金を取るなら、記者をやめても悔いないだけの大金をフンだくれ。記者である限り、金を取ってはいけない。そして、知った事実は、どんなことがあっても書くんだ!」

もうひとり、竹内氏の次の社会部長の原四郎氏だ。昭和二十七年秋、独立後の日本での、不良外人のバッコぶりを叩いた、「東京租界」取材の時だった。この、わずか十回の連載ものが、原部長の企画、辻本次長のデスク、私と、牧野拓司記者(のちの社会部長。米留学帰りで、主として通訳を担当)が取材、というスタッフだった。読売社会部は、この「東京租界」で、第一回菊池寛賞(新聞部門)受賞の栄誉を担ったものだ。

「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が、何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、的確に事実だけを固めろ。告訴に負けないだけの事実をつかめ。原稿は事実だけだ、と、オレは信じてるゾ」

そしてもうひとり。記者としてよりは、曲がりなりにも、社長であってみれば、人を使う立場である私に、〈人の使い方〉を教えて下さったのが、読売の務台社長だ。

安藤組事件に連座して、警視庁は私を逮捕して調べる意向を明らかにした。私は、一日の猶予を申し入れ、明日正午に出頭することを約した。その日の午前中、持ちまわり役員会で、私の辞表は受理された。前日、電話で事件を報告した時、「キミ、金は受け取っていないンだろうナ!」

と、第一声を発した編集局長は、席に見えなかった。

重役に挨拶まわりして、務台総務局長のところに伺った。開口一番、「ウン、事件のことは聞いたよ。ナニ、新聞記者としての向こう疵だよ。早く全部済ませて、また、社に戻ってこいよ」……温情があふれていた。私の〝常識〟でも、復社できるとは思えないのだが、直接の上司の編集局長(故人)とは、人間的に格段の差があった。

そして、この時の言葉が、その場限りの、口から出まかせではないことが数年後に判明する。バッタリ出会った深見広告局長が、「三田、どうしているンだ? この間、築地の宴席が終わって、務台副社長と同じ車に乗ったら、フト、『三田は、消息を聞かないがどうしている?」と、いわれたゾ…」と、いつまでも、気にかけておられることを教えて下さった。私は感激した。爾来、私は〝務台教の信者〟社外第一号を自任している。

私の、「社会正義への目覚め」の素地は、府立五中時代の、五年間の恩師である吉木利光先生だ。(正論新聞第二六七号=50・4・30付=「教育とはなにか」所載)

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。

「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.012-013 池島信平社長が会いたいと

読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」
読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺

「アイ・シャル・リターン!」

この言葉は、マッカーサー元帥が、日本軍に追われて、フィリピンを脱出する時の、有名な言葉である。そして、マ元帥は、その言葉を実行した。

読売新聞広告局長、氏家斎一郎もまた、日本テレビに出向してゆく時、離任の挨拶で、「アイ・シャル・リターン!」と叫んだが、彼はついに再び読売新聞に、その名を刻することはなかった。

私は、昭和十八年十月一日の読売入社。四年の兵隊、捕虜で、二十二年十月復員、復社した。社会部一筋で、三十三年七月、横井英樹殺害未遂事件で、安藤組員の犯人隠避事件を起こして、自己都合退社した。のち、昭和四十二年元旦から、独力で「正論新聞」を創刊、二十五年が経過して、現在にいたっている。

そして、氏家と具体的に関係のできたのが、読売を退社して、正論新聞を創刊してからであった。

読売を退社してから、私は文筆業として、原稿を書き出していた。だが雑誌原稿で生計をたてることの難しさは、すぐにやってきた。

警視庁の留置場に、妻からの連絡で月刊「文芸春秋」誌に「安藤組事件の原稿を書いてくれ」という、依頼があったので、二十五日間の生活が終わって、保釈出所すると、すぐ田川博一編集長に会いにいった。

「タイトルは『我が名は悪徳記者』で、サブ・タイトルは事件記者と犯罪の間、でいきましょう。何枚でもいいです。書きたいだけ、書いてみてください」

田川は、話が終わったあと、語調を変えていった。

「三田クン、西巣鴨第五小学校の六年生で、一年間一緒だった田川だよ」

「ア、転校してきた、田川!」

意外な縁に驚きながらも、私は百五十枚の原稿を書いた。と、田川から社に来てくれ、という電話があった。

「原稿、ツマランですか?」

「イヤ、おもしろいんだよ。だけど、池島信平社長が会いたい、と…」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

読売梁山泊の記者たち p.014-015 中央に児玉右側に渡辺恒雄

読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」
読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」

その話も終わらないうちに、ドアをあけて、池島が入ってきた。

「オイ、三田クン、キミは五中だナ」

「ハイ、十六回卒業です」

「オレは、第一回、先輩だよ」

「ハイ、お目にかかるのは初めてですが、読売の竹内社会部長も第一回卒ですので、お名前は存じあげてました」

「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」

「……」

「ナ、いいだろう?」

「ハ、ハイ」

私は、読売記者のカンバンを外してからの、第一回の作品で、早くも、新聞社と雑誌社の違いに、直面したのだった。…が、内心、池島の話のもっていき方のウマさに、驚いていた。

「アノ部分も載せたいけれど、オレに面会を求めてくる連中が、ウルサイんだよ」

そして、「財界」誌。さらに、「現代の眼」誌…。私が書く時事モノは、媒体各社でトラブルが続出した。ホントウのことを書けば、モメるのだ。

…そして私は、ついに、雑誌に原稿を書くことに、限界を感じていた。自分がライターであり、エディターであり、パブリッシャーであること…それ以外に、真実は書けない、と。

そうして、私は「正論新聞」の創刊を考えた。紙面の目玉は、児玉キャンペーン。昭和四十一年の〝黒い霧〟解散のころ、児玉の勢力の絶頂時代に、まさに、蟷螂(とうろう)の斧を振るわんとしているのだった。

その第四号。昭和四十二年八月一日付で「九頭竜ダム疑惑」を取り上げた。水没補償問題で、政治家を渡り歩いていた、緒方克行という男(のちに、「権力の陰謀」という著書を出して、真相をブチまけた)に出会って、詳しい話を聞いたからだ。

十二月二十七日、児玉から緒方に電話があって、「話のメドがついたから現金一千万円を持ってこい」という。

児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。

緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。

「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。(一千万円のうちから、三百万円を取り出し)この分はこの男(渡辺を指した)の関係している、弘文堂という出版社の株式にするからな」

緒方の話を聞いていて、私は考えこんでいた。渡辺も氏家も、交際はなかったものの、顔見知りの仲である。果たして、書いたものか、どうか。私情ではなくとも、いきなり背後からバラリ、ズンと斬れるものではない。

妙案が浮かんだ。かつての社会部長で、七年間もその下で仕事をした原四郎が、二人の上司で編集局長である。

「そうだ。原チンに下駄を預けよう」

読売に原を訪ね、「九頭竜ダムを取材していたら、渡辺と氏家の名前が出てきたんです」

緒方の話を詳しく伝える間、原は黙って聞いていた。聞き終わって、

「お前、その話はホントか?」

「部長、イヤ、局長。あなたは七年間も使っていた私の、取材力を疑うんですか。ホントか、はないでしょう!」

しばらくの沈黙ののち、原は「本人たちの話を聞いてからにしよう」と、その日の結論を出した。

読売梁山泊の記者たち p.030-031 第一章 章トビラ

読売梁山泊の記者たち p.030-031 章トビラ 第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎
読売梁山泊の記者たち p.030-031 章トビラ 第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

読売梁山泊の記者たち p.032-033 シベリアから復員

読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。
読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

戦地から復員、記者として再出発

「ナァ、ゆんべの女郎(じょろう)が、な」

三階のワン・フロアを、仕切りなしにブチ抜いた編集局は、入り口に立つと、局内全部が見渡せた。

午前十一時ごろ。まだ、夕刊はないのだが、局内は、男、男、男ばかりが、ギッシリと詰まって、電話が鳴り、怒鳴り声が響き、ワーンという音と、男臭さに満ちていた。

窓側の中央あたり、編集局長のデスクがあり、その前に政治部、その両側に、経済部、社会部。局長席の左手に、整理部と、重要な各部のデスクが並び、部長席は局長席を背にして並んでいた。

各部で、部長席だけが、肘掛椅子だ。部長のデスクに両脚をのせて、身体を深く沈ませながら、昨夜の遊廓ばなしを始めたのは、小柄ながら、精悍な顔をした、一課(殺人)担当の井形忠夫だった。

両袖机の部長の前に、片袖机が二列に向き合う、日本の事務所の典型的な配置だ。部長に近い四個の机が次長席、それにつづいて五個ぐらい、両側で十卓ぐらいが、誰の机とも定められていない、遊軍(本社詰め記者)席である。

その一番の外れでは、山田鉱一、桑野敬治などという、主力記者たちが、電話帳をめくっては、ページ数で、オイチョカブのバクチをしていた。バクチといっても、他愛のない掛け金で、コーヒー代ほどのもの…。

——まだ、午前中だというのに、部長机に足を投げ出した男が、イロばなしを声高に、また一方では、

オイチョカブで、硬貨のやり取りをしている。

シベリアから復員してきて、復社したものの、戦後入社のハリキリボーイたちの中で、社歴だけの先輩にすぎない私も、ようやく、そんな殺伐とした、編集局の風景に、馴染みだしていた。

「オイ、この野郎、退け!」

そんな伝法な口調で、井形に怒鳴ったのは、出社してきた社会部長の竹内四郎だ。井形は、振り向いて、部長の姿を認めると、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

ボルサリーノかなにか、高価そうなソフト帽を冠った部長は、恰幅のいい身体に、仕立てのいい背広を着て、皮製のブリーフ・ケースを持っていた。一見、大会社の役員風で、今考えてみると、たいした年齢でもないのに、堂々たる貫禄を、シックに装っていた。

七、八十名の部下を持つ社会部長も、出社してきても、帽子や鞄を受け取る女性秘書もいないから、自分で、部長席のうしろの、帽子かけの枝にヒョイとかけざるを得ない。

太いコンクリート柱にもたれた、薄汚い水屋から、飯場の茶わんのような欠け湯呑に、ぬるいお茶を汲んで、夜学に通う給仕(坊や、と呼ばれる)が手盆でさしだす。

デスクの端っこには、ザラ原(ザラ紙をA5判ほどに断裁し、天のりしただけの原稿用紙)が積まれてある。それを四、五枚取って、井形が足をのせていたあたりを、これも自分で拭き取る。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

読売梁山泊の記者たち p.034-035 二ページ一枚ペラの時代

読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。
読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

部長に会いたくなければ、部長が編集局の入り口に現われたら、裏階段から、お茶をのみに出かけてしまえば、それで済む。

まったく、満目緑草中紅一点で、女性ときたら、文化部にひとりかふたり、しかも、妙齢をはるかに過ぎたほどの人だ。まだ、婦人部もないころだった。

男ばかりの生活だから、机のカゲには、下げ忘れた出前の皿がホコリをかぶり、夜にはネズミが走りまわる。

不揃いの机が並び、電話線を、床と空間にめぐらせ、伝言ビラがブラ下がり、決まった自分の席さえもない職場である。

こうした情景は、いまの大手町の清潔な社屋にいる記者諸君には、想像を絶するものがあろう。まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。

それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。もしかしたら、〝新聞屋〟であったかも知れない。新聞は、ニューズ・ペーパーであったことは、確かである。

しかし、昭和十八年の、たぶん戦前最後の「読売新聞社職員名簿」を見ると、まず、参事、副参事といった、身分制がある。欧米部と東亜部があって、軍の要請(というより、命令であろうか)で、その戦火の拡大とともに、支局、通信部が、アジア全域に展開していることがわかる。

当時の新聞記者は、新聞記者である以前に軍の報道班員であったのである。私も、同期の青木照夫(報知編集局長で57・3・21没)が、入隊のため長崎に帰るのを見送って東京駅で別れるとき、「オイ、陸軍報道部付将校として、再会しようじゃないか」と、握手したのを記憶している。

〝皇軍の聖戦の大勝利〟の原稿を書き続けていた人たちが、いのちからがらに逃げ帰って空襲に社屋を焼かれ、転々としながら、ようやく、有楽町駅前の「そごう」の旧ビルに、「読売報知新聞」(戦時中の統合)の題号から、「読売新聞」に戻ったところだった。そごうのビルは、報知の社屋だった。

戦時中の学生時代、私にとってバイブルは「小山栄三・新聞論」であった。「社会の木鐸」などという言葉は、その本の中にあったかも知れないし、なかったかも知れない。

衣食住ともに、まだまだ厳しく、新聞用紙は割当制で日刊紙でも大判二ページ。一枚ペラの時代だった。

十八年の名簿の休職の項に、青木、三田、山根と、三人の同期生が出ており、現役の末尾に高橋、金口、福手と、これまた同期が三人いる。このほか、整理部の末尾に、徳間康快の名前が見える。あと三人、同期生がいるハズだが、記憶が消えた。

二十三年の名簿では、山根、福手、徳間の名前がなくなり、青木、高橋の二人が、依然として休職。シベリアから、まだ、帰ってこなかったのだ。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

読売梁山泊の記者たち p.038-039 あの一見〝文弱の徒・風〟

読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。
読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

社の角が正面玄関で、その濠には、有楽町駅に通じる橋が架かっていた。有名な数奇屋橋の次の橋である。

もう、正午近くのことだった、と思う。

その橋を、銀座に向かって、一人の男が、さっそうと歩いてくるのが、目に止まったのだ。長身に、背広をシックに着こなして、ソフトを、ややアミダに冠り、横ビンには、白髪のまじった髪が見えた。(まだ、ロマンスグレイという言葉が、無かったのではないだろうか…)

それこそ、その男のフンイキは、〝文化〟そのものであった。

——何者だろう?

私が、男の行方を見つめていたら、読売の玄関に入っていったのである。だが、私にはその男が、読売の社員とは思えなかった。何しろ、社の情景は、冒頭にのべたようなありさまだったからだ。

その男が、文化部長だった。井上、石上両嬢の言葉に対し、私の返事に、「フーン…」とあるのは、その意外性への反応である。

それが私と原四郎との出会いであった。が、当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。だから、彼が、社会部長として、私の上司になろうとは思ってもみなかった。

それよりも、社内の若い女の子の、〝憧れの的〟と知って、なおさら、「文弱の徒」という印象を抱いたものである。やはり、新聞記者は事件であり、〝金と酒と女〟とが、取材の対象だ、と信じこんでいた。

こうして私は、はじめて、原四郎・文化部長を知った。いや、知ったなどと、大きなことはいえない。私が、あの〝文化〟そのもののような男が原四郎だ、ということを知っただけである。

政治部の初年兵は、本会議取材が第一歩だが、社会部の国会担当は、社会面に関係のある政治現象を追う。だから、中曽根記者会見の際、「社会部記者はお断わり」となったのは、社会部記者は、日頃の付き合いがないから、情に流されずに、バラリ・ズンと、斬って落とすからである。

そして、その時期に、原四郎が社会部長になってきたのである。竹内四郎の処遇のため企画調査局というのを新設して、その局長に出たあとの、後任であった。

社会部長になった原と、私は、はじめて口を利き、その人となりを知るに及んで、驚いた。

とても、とても、〝文弱の徒〟ではなかったのである。剛腹一本槍だった竹内に比べると、まさに、〈新聞記者〉そのものだった。

あの一見〝文弱の徒・風〟(いまは、あまり使われなくなった言葉だが、当時の、新聞記事の独特のスタイルで、〝一見……風〟というのがあった。米占領軍の兵士の犯罪をそれとなく表現する必要から、生まれた)と見えながら、舌を捲くほどの、部下の使い方であった。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

読売梁山泊の記者たち p.040-041 日銀が上野署に摘発された

読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。
読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

「梁山泊」さながらの竹内社会部

竹内四郎は、私の先輩、府立五中の第一回卒業生。大正十三年三月に卒業、慶大に進んでいる。そして、私の初めての結婚の、頼まれ仲人でもあった。

この竹内も、私の〝記者形成〟に、大きなインパクトを与えている。

上野署のサツ廻り時代の、二十三年五月ごろのこと。銀座から、日本橋署をまわって、上野署の玄関にきたのは、もう、正午近いころだった。

フト、気付くと、ピカピカに磨かれた乗用車が二台、玄関前の広場に停まっている。上野署といえば、ヤミ米の運び屋と、パン助、オカマ、浮浪者しか、出入りしない時代だから、それは、異様な光景であった。

やがて、警察担当の通信主任から、次長となり、連載もの専門のデスクとして、「昭和史の天皇」など、多くの名作を遺して逝った辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。

「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

——ナゼ、あんな高級車が、停まっているンだ?

私は、玄関を入りかけたが、戻ってきて、運転手に話しかけた。

「いい車だネ。こんな高級車に乗れる人は、キット、重役サンだネ」

「イエ、輸送課長サンです」「どこの?」

「日銀です」

日銀の輸送課長が、二台できている。部下か、関係者を連れてきている。ナゼだ?

私は、署長室の入口のガラス戸を、背伸びして覗いたが、客はいない。すぐデカ部屋 (刑事課)へ。ここにもいない。二階の経済係へ行くと、居た、居た!  部屋いっぱいに、カツギ屋の代わりに、背広姿がいる。

ガラス戸をあけて、室内に入ろうとすると「ブン屋サン。調べ中だから、ダメだよ」と追い出された。トイレの入り口付近で待つうちに、メングレ(面識のある人、顔馴染み)の刑事がきた。

すれ違いざまに、「駅警備!」と、短く一言。私は上野駅へ走った。

若い制服のお巡りサン、湯沢さんといったが、まだ、興奮さめやらずで、話をしてくれた。すぐ、公衆電話で、社へ一報を入れる。

「日銀の新潟支店が、本店の上司に、現送箱(現金を入れた木箱。警官が警乗する)に米を入れて送り、上野署に摘発されたンです。すぐ、写真(カメラマン)をください!」

話はこれからである。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

読売梁山泊の記者たち p.044-045 英雄豪傑気取りの野心家たち

読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」
読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

またまた、みんな笑った。笑いの静まるのを待って、竹内は、真顔に立ち戻って、こういったのであった。

「いいか、新聞記者には、記事にからんで、誘惑は多い。しかし、小銭には、手を出すなよ。小銭を出す奴は、小銭に見合う、小悪事 (こあくじ) なんだ。だから、口も軽い。必ず、『アノ記者は、オレが飼っているンだ』と、しゃべる。その話が、社に入れば、当然クビだ。合わない話よ。

金を取って、記事をツブす。あるいは、ウソを書く。こりゃ、汚職だ。自分の仕事を、辱めるものだ。だから、大銭(おおぜに)で、社をクビになっても、引き合うなら、金を取ってもいいゾ。大銭を出す奴は、大悪事だから、絶対にしゃべらん。社にバレる前に辞めればいい」

竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。
「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

昭和二十三年当時、のちに、三和銀行の頭取、会長にと進む、渡辺忠雄が、まだ、日銀の文書局長だったころ、だと記憶する。

もしも、私があの時、日銀輸送課長の<小銭の誘惑>に負けていたら、のちに、報告を受けた、渡辺文書局長は、「読売三田記者」を軽蔑して、のちのち、正論新聞の応援は、してくれなかったことだろう。

四十年も前の時代には、「痛む良心」を持った男たちばかりの時代だったのである。

リクルート疑獄などを見ていると、政治家も、官僚も、まして、NTTの真藤を見て、どうして、〝小銭〟のワイロを取るのか。藤波代議士など、どうして、家の資金に〝小銭〟を取るのか。<良心>

などは、どっかに捨ててしまっていたのだと、竹内社会部長の、この言葉を思い出す。

私は、私の初の署名記事「シベリア印象記」を見て、同じ部隊の兄を探して、社にたずねてきた女性が、同期生の妹だと知って、結婚を決意した。

竹内に仲人を頼み、逗子のお宅に、奥様に挨拶に行った。剛腹な竹内らしい、明るいさばけた夫人だった。家庭での竹内には、社では見られない、人間への愛情に満ちた、包容力の大きさを示す、別の顔があった。

口数が少く、どちらかといえば、部下のデスク、ことに、筆頭次長の森村正平に、すべてをまかせ、部長として、デンと安定感のある竹内には、社内では、〝無能の竹〟という悪口も聞かれた。

いま、当時の名簿を見ると、五人の次長、三人の主任以下、三十三人の先輩が、私の前に並んでいて、その名をひとり、ひとり、読んでゆくと、いずれも、英雄豪傑気取りの野心家たちばかりである。

出張すれば、女郎屋に泊まって、そこから取材に歩き、日本テレビの創業時に、保善経済会の伊藤斗福に四億円を出資させた、遠藤美佐雄。彼は、のちに、社を追われて、森脇文庫から、「大人になれない事件記者」という単行本を出して、日本テレビ創業のウラ話を書いた。

この本は、私の手許に一冊残っているが、森脇と読売との間で和解し、本はすべて断裁されたことになっている。彼は、世田谷の大原に住んでいたが、「この家は、児玉(誉士夫)にもらったんだ」と、こともな気にいい放つ。

読売梁山泊の記者たち p.046-047 新聞休刊日で、全舷上陸

読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。
読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

読売争議で、活字台を守り通した、青年行動隊長の鹿子田耕三。いまでも、朝日紙の投書「声」欄で、その名前を見かける、青木昆陽こと(徳川吉宗時代の儒者で、サツマイモの権威)、青木慶一。皇室専門の小野天皇こと小野昇。山本五十六の国葬記事で、全国民を泣かせたという〝伝説〟の主、マコちゃんこと羽中田誠。〝読売三汚な〟のひとりといわれ、宿直室に住みこみ、異臭をただよわせるタローさんこと安藤太郎は、箱根の旅館の息子で、慶大卒。酒とバクチで、原稿を書く姿を見たことがない、といわれる。

書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

五月五日は、年に一回の新聞休刊日で、全舷上陸と称して、社会部全員が一泊旅行で、近くの温泉に行く。クラブ詰め記者、サツ廻り記者、遊軍記者と、三大別される八十名だから、顔を合わせたことのない人もいる。それを、一堂に会させるのが、目的なのだ。

私も、のちに、親しく兄事させてもらったのだが、同じ国会遊軍の井野康彦は、園田直と松谷天光光の〝恋愛〟をスクープしたが、酒癖の悪さに定評があった。

初めは、愉しく呑み出す。中ごろから、相手のために悲憤慷慨してくれる。そのあとはケンカを売り出す——このパターンが理解できるまで、何度泣かされたことか。

バスの三、四台を連ねて、社を出発する。そこから、呑み出すのだから、旅館に着いたら、もう泥酔がいる。

遊軍長という、最古参記者が、幹事長。その下に、宴会、バクチ(麻雀とオイチョカブの設営)、酒、ケンカの四幹事がいる。最後のケンカの幹事というのは、宴会が乱れてくると、ケンカが始まる。その双方を見ながら「あれは、もう少しやらせておけ」「あれはケガ人が出るから止めろ」と、若い連中を指揮するのだ。日頃から、部内の人間関係に通じていなければ、この役は勤まらないし、自分も腕っぷしが、強くなければならない。

それを、毎回勤めるのが、冒頭に紹介した井形忠夫である。戦前の名簿を見ると、彼は文化部にいたので、驚いたものである。ケンカとバクチは、日常茶飯事であった。

竹内は、そんな一泊旅行に、堂々と愛人を同伴してきた。築地の芸者であった。宴会にこそ出なかったが、座が乱れるころには、竹内は退席してしまう。

親分肌の竹内の、面倒見の良さは、報知の社長になるや、病気でペンを持てなくなっていた(腕の病気か?)、文化部長のあと、休職していた森村正平を、報知の編集局長に迎えている。

だから、竹内の「バカヤロー!」という、大喝一声は、それなりに、社会部の秩序を保ち、部員たちの才能を、それなりに伸ばしてきていた。まさに、社会部は、〝梁山泊〟さながらの様子だった。それが、同時に、やがて、原四郎の時代に、「社会部は読売」として開花する伝統の基礎作りに、役立ったのである。

読売梁山泊の記者たち p.048-049 こういうのを「号外落ち」という

読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。
読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々

竹内四郎社会部長の、「バカヤローッ!」という大喝を浴びた記憶が、私にも生々しく残っている。

昭和二十四年四月四日、政府は、団体等規制令を、公布、即日施行とした。そして、九月八日、この団規令によって、在日本朝鮮人連盟(朝連)など、朝鮮人関係四団体の解散を指定したのであった。

前年の二十三年秋から、司法記者クラブに移っていた私は、もっぱら、帝銀事件の平沢貞通の公判を担当していた。

政治部の法務記者クラブでは、法務庁そのものの担当で、三品鼎がいた。社会部は、裁判所と検察庁を受け持ち、司法記者クラブといった。

竹内の子分をもって任じていた、警察記者のボス、はんにゃこと稲垣武雄がキャップ。その下に、井浦浩一、立松和博、萩原福三と私がいた。井浦は、社歴が一、二年古いのでバイス・キャップと自称して、私たち三人との折り合いが悪かった。

と、そこに、朝連解散である。翌九日付の記事の書き出しが、「政府は八日午前十一時…」とある。多分、十一時半ごろには、記者クラブで発表された、だろう。読売だけは記者がだれも出ていない。

夕刊がなくとも、号外はある。街々に、号外の鈴の音が響き渡るころ、萩原あたりが、あわてて、原稿を社に送る。朝日、毎日の号外が、有楽町界隈に貼り出されている、というのに、読売だけは、いま、送稿中だ。

こういうのを、「号外落ち」という。発表モノでなくとも、大きな事件などで、一社だけ、記事が出ていないのは、「特落ち」である。新聞社は、できて当たり前、できねばボロクソの、優勝劣敗、適者生存の原則に厳しい。

原稿を送り終わって間もなく、手まわし直通電話が、チリチリリと鳴って、「稲公! すぐ社に上がってこい!」と、竹内部長の怒鳴り声が響いた。

ユーウツな数時間が過ぎて、夕方ともなれば、どうしても、社に上がらざるを得ない。私たち三人は、屠所にひかれる羊のように、先を譲り合いながら、編集局の入り口に立った時だった。

「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

三人とも、顔色を失って、この大音声に引き寄せられるように、部長席の傍らに、首うなだれて、立ち並んだ。竹内は、ジロリ、ジロリと、三人の顔をニラミつけただけで、一声も発しないのだ。

長い、長い沈黙がつづいた。あとで気がつくと五、六分間ぐらいだったが、それこそ小一時間にも感じた〝時間〟だった。

「オイ、もう、いいぞ。こっちへ来い」

般若の稲ちゃんの顔が、菩薩さまに見えた感じがした——竹内は、もはや、小言のひとつもいわなかった。三人は、稲ちゃんに連れられて、付近の喫茶店に入って、我に返ったのだった。

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内は〝慶応ボーイ〟でありながら

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった
読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった

竹内は、いうなれば〝慶応ボーイ〟でありながら、古いプロレスラーのグレート東郷を、二まわりも、三まわりも大きくしたような、頑丈な短躯に猪首で、四角い顔が乗っていた。

だが、竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復し、レッド・パージの動揺、正力松太郎の巣鴨プリズンの収容などといった、大事件を無事乗り切っていったからである。

塚原正直は、ガダルカナル島から帰ってきて、入社早々の私たちに、チョロッと動いた小さなトカゲの一匹に、四、五人の兵隊が飛びつく〝飢え〟を語ってくれた。

辻本芳雄は、マニラの敗走について、修羅場を経てきた〝人間〟のありようを、教えてくれた。

それらの話の、いずれもが、軍の言論統制に対する、<新聞記者>としての、やり場のない憤りであった。

それにつづいての、今度は、占領軍の言論統制が、検閲制度である。真実が書けない、真実が語れない、その苦しさが、戦後の新聞記者たちを、〝エンピツやくざ〟へと、追いこんでいった。

警視庁記者クラブばかりか、裁判所の中の記者クラブでも、麻雀、花札のバクチが、大っぴらに行われていた。

警視庁の経済課長が、毎日の警視庁詰めキャップと組んで、砂糖のヤミをやった。ヤミ砂糖を押収したのに、それを横流ししたのである。

街では、「第三国人」と呼ばれた、朝鮮人や台湾人が、団結してヤミ経済を支配し、また暴力事件を続発させていた。さらに、武力革命を目指した共産党は、〝血のメーデー〟事件を皇居前広場に演出したし、〝新宿火焰ビン広場事件〟もまた、血なま臭いものであった。

そして、多くの記者たちが、絶望したり、転向したりして、その名を、社員名簿から消していった。その時期の社会部長が、竹内四郎だったのである。

そして、朝連解散の号外落ちの責任で、私は、本社の遊軍勤務に異動させられる。復職以来、遊軍半年、サツ廻り半年、司法クラブ一年と、すでに二年も経過して、私は、第一線記者として、バリバリ仕事をしていた。

そして、二十四年十月になると、本社遊軍兼国会遊軍という、恵まれた待遇(というのは、時間も勤務もまったく自由)になって、酒癖の悪い井野康彦のアシスタントを勤める。

この国会遊軍のおかげで、私は、政治の世界に興味を持ちはじめる。社内でも、政治部、経済部へとカオが広くなってきた。

この時期の、忘れられない人物が、政治部のデスクだった筒井康である。歴史に有名な「洞ヶ峠の順慶」という、安土桃山時代の武将の裔である。日本歴史大辞典によれば、筒井順慶は、謡曲、茶の湯にすぐれ、教養豊か、とあるが、筒井デスクもそんな感じで、私を可愛がってくれた。

戸川猪佐武などは、筒井デスクのまわりをウロチョロしている存在だった。筒井は、のちに佐藤栄作のブレーンのひとりになって社を辞め、早逝した。

最後の事件記者 p.076-077 『ウン、つまらんね』

最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。
最後の事件記者 p.076-077 一枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで、身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

『何か書くかい? 書けるかい?』

『エー、もちろん、書かせて下さい』

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリヤ抑留記を書いて持っていった。

『ウン、つまらんね』

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長は、ただ「書くかい?」といっただけ、私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリヤ印象記を書いた。

『ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ』 やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一

枚ペラ(新聞一頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をポトポトと、紙面に落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、咋日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記

本社記者 三田和夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソした われわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

最後の事件記者 p.090-091 シベリア印象記の結ぶ恋

最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。
最後の事件記者 p.090-091 私は友人の妹と逢った。友人の消息を伝え、シベリアの話がはじまった。時間があったので、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。私は結婚を、その日に決めてしまった。

サツ廻り記者

印象記の結ぶ恋

当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。

深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。

長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、

引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。

本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起るのに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、 調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。

保定の同期生で、師団司令部付だった友人の消息を調べたのも当然である。そして、懸命の調査の結果、彼が元気でシベリアにいることを割り出した。私は、友人の家にはがきを出し、「消息がわかったから、お序の時に社におより下さい」といってやった。

そして、私は友人の妹と二人切りで、はじめて逢った。友人の消息を伝え、二十円のコーヒーと五十円のヤキリンゴを前に、シベリアの話がはじまっていた。時間があったので、映画をみることになり、帝劇でジャン・マレエの「悲恋」をみたのである。日記をみると、入場料四十円、ヤキリンゴよりも、帝劇の方が十円も安いのだから驚いた。

私は結婚の決心を、その日に決めてしまった。竹内社会部長の仲人で、二十三年四月二十二日に高島屋の結婚式場で挙式した。その時には、すでにサツ廻りとして、上野へ出ていたのであ

る。高木健夫さんが、シベリア印象記の結ぶ恋と聞いて、「ウン、そりゃ、書けるナ」と冷やかされた。

最後の事件記者 p.112-113 これは大変な事件になるゾ

最後の事件記者 p.112-113 それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。共産党は何をしようとしているのだろうか。
最後の事件記者 p.112-113 それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。共産党は何をしようとしているのだろうか。

二十三年六月四日朝八時ころのこと。京浜地区学生同盟品川班情報部長、横浜専門二年生伊藤

欽治君(二〇)は、引揚列車を名古屋まで迎えに行き、徹夜で車中の援護につくして、品川駅まで帰ってきた。

品川はそう赤旗のウズだ。列車が同駅を発車した時、伊藤君は赤旗組を整理しながら、列車にとびのろうとしたが、人々に押されて、ホームと列車の間に転落、重傷を負ってついに絶命した。

引揚者たちは、上野駅についてこのことを知った。直ちに檄がとばされ、車中から七千五百余円の弔慰金が集められた。そのことを知った私は、記事を書きながら、「これはもっと大変な事件になるゾ」と考えていた。

それからの私は、毎日詳細な記録をとりはじめた。品川、東京、上野、の三駅での、学生同盟と共産党との対立が、目立ってはげしくなってきた。共産党は何をしようとしているのだろうか。

その日は知らなかったが、党勢拡張を狙う共産党は、東北、北海道方面の引揚者が、上野駅で乗換時間に余裕のあるのをみて、この時間を利用して、党本部訪問という計画を実行しはじめていたのである。

私もこれに同行して、データを集めはじめた。出迎え党員の数も、逐次ふえていき、それに比例して、〝代々木詣り〟の引揚者もふえていった。約一ヵ月、一日おきに千名近い引揚者を迎える上野駅での、引揚者に関する細かな資料が出来上った。私は、これを社会部長に示して説明した。グラフも作ったのである。

『部長、この傾向がこの通り激しくなってゆきます。こちらが、出迎えの党員数です。これは、もっともっと激しくなり、事件になるか、事件を引起すと思います』

竹内部長は、こんな風に資料を収集、整理して、それを示しながら事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。

『それで?』

『予告篇とでもいったような記事を、今のうちに書いた方がいいと思います』

こうして、私は七月二日の新聞に、「先月既に八百名、復員者代々木詣り」という見出しの記事を書いた。それに対して、早速、引揚者の一人、という署名の投書がきた。

「貴紙に、先月既に八百名、という見出しで、共産党の引揚者に対する活動が、まるで犯罪を行っているように、デカデカと書かれていましたが、あれはいったい、どういうことなのですか? 云々」

私はその人に対して、叮寧な説明の返事を出した。「どうして犯罪のような記事だと、お考えになるのですか。立派な社会現象ではないですか」と。