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編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな!

編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな! 平成11年(1999)7月6日 画像は三田和夫47歳(正論新聞連載「検察派閥」のプロモーションか1969.02.24)
編集長ひとり語り第18回 「小渕基金」などと舞上がるな! 平成11年(1999)7月6日 画像は三田和夫47歳(正論新聞連載「検察派閥」のプロモーションか1969.02.24)

■□■「小渕基金」などと舞上がるな!■□■第18回■□■ 平成11年(1999)7月6日

7月6日付の産経紙朝刊に、「100億円の小渕基金、中国の緑化を推進」という、大きな記事がでた。9日に予定されている中国の江沢民主席との会談で、それを申し出るというものだ。「基金を使って多数の日本の青少年を中国に派遣、ボランティアで植林事業に協力する」方式も検討されている、と。

資金援助規模も酸性雨対策などを目的に、竹下登元首相の主導で開設された「日中友好環境保全センター」(約105億円)に匹敵するものとしたい考えだ(外務省筋)という。記事の結びは、「小渕基金」は中国への政府開発援助(ODA)とは、事実上別枠となるだけに、論議を呼びそうだ、とあった。

この記事を読んで、私はすぐ思い出した小さな記事があった。3日付の産経、東京両紙にだけ出た、小さな記事である。病床の竹下元首相が小渕総理に電話してきて、中国へ行ったら、「中国の台湾交渉の窓口である、海峡両岸関係協会の汪道涵会長と会談せよ」というアドバイスをした、というものだ。「竹下氏はしっかりとした口調で話をしていたという」(東京紙)そうだが、どうしてこれだけの話を、ジカに電話するのか、私は納得がゆかないのである。ナニを企んでいるのか?

その数日後に前記の「小渕基金」の記事である。竹下といえば、話は古くなるが、北京に日中ナントカセンターというハコものを建て、それを身内(娘の嫁ぎ先)の竹中工務店に受注させた、という事実がある。国民の税金である有償・無償援助を中国に出し、それもほとんどがゼネコンが儲かるハコものを作る。大義名分さえ立てれば、金は使い放題で、当然の結果としてリベートもこよう。

日常の新聞紙上に、やれ警官の汚職だ、自衛官の収賄だと、社会的腐敗の記事はあとを絶たないが、国をダシにした大きな腐敗は、決して“摘発”されない。

いま、「新潮45」誌に、岩瀬達哉がドキュメント・竹下登を連載中である。7月号では暴力団が一国の総理を作った、といわれている「皇民党事件(注)の深層」が掲載されているが、なかなかの面白さである。(注)ホメ殺しという流行語も出た、皇民党が街宣車を連ねて、「金作りのうまい竹下さんを総理にしよう」と、ホメまわった事件。

たまたま、岩瀬氏に会った。「竹下のODAの使い方の問題を、ぜひ調べてみてよ。北京に行って、ビルの実情を調べ、竹中以外の業者に値踏みさせれば、リベートも浮かんでくるよ」と、私は彼にすすめた。

ナベプロの女社長が、音楽著作権協会ビルの新築を進めた。清水建設の工費が高すぎると、他の理事から抗議が出てモメたことがあった。そのビルを他の業者に見積もらせたら数十億円高い、という。その話を聞いた私は女社長の自宅を調べた。15億円といわれる豪邸には、担保ひとつついていなかった。施工は協会ビルと同じ清水建設だった。ハコものは、調べると疑惑がつかめるのである。

もう、日本のODAも見直しの時期にきている。と同時に、首相や大臣たちが、外国に出かけては、「いくらいくら上げます」と大盤振る舞いをするのも、やめにすべきだ。日本国の赤字は、600兆円だというのに、どうして、この帳尻を合わせるのか。少子化、高齢化の21世紀に、この借金を支払うのは読者の皆さんである。 平成11年(1999)7月6日

編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する

編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)
編集長ひとり語り第19回 野村沙知代を告発する 平成11年(1999)7月10日 画像は三田和夫75歳ごろ(右側 1996ごろ)

■□■野村沙知代を告発する■□■第19回■□■ 平成11年(1999)7月10日

野村沙知代をめぐる、いわゆる“サッチー騒動”、テレビのワイドショーを中心に、もう3カ月以上も、ああでもない、こうでもないと、つづいているが、週刊誌から日刊紙へと、テレビへの批判を含めて、舞台がひろがりつつある。

だが、マスコミの、ことに日刊紙の在り方は、ジャーナリズムの本質的な在り方を忘れている。私が、第4回の本稿「小沢自由党の“馬脚事件”のこと」で、さる4月上旬に指摘したように、野村は新進党比例区(東京ブロック)第6位に位置し、第5位までが衆院議員に当選しているので、繰り上げ当選の可能性をもっているということが、重大な問題なのである。

3月当時には、都知事選のあおりで、東祥三・自由党衆院議員が、東京15区の柿沢辞職のあとに、小選挙区で立候補するということで、野村繰り上げが、にわかに脚光を浴びたのであった。もしも、東議員が、自分のことだけを考えて、小選挙区へまわるようなら、野村どころか、東糾弾をやらねば、と考えていた。野村には、「虚偽事実の公表」罪があるから、“野村どころか”と表現したのだ。

この問題は、突きつめれば、小沢一郎の政治責任にまで及ぶのである。“怪しげな女”(怪傑熟女の意訳)を、ウルトラCと称して自宅まで訪ねて、出馬を要請したからだ。

さて、9日の日テレ・ザワイドで、塩月弥栄子さんの取材に対する文書回答を見た。塩月さんは、「テレビはもっと有意義な番組を作るように…」と結んでいた。もうそろそろこの騒ぎも、終局を迎えたようである。

私は幕引きを考えた。この10月20日まで、繰り上げのチャンスはある。上位5人の議員がひとりでも、不慮の事故で死ぬことがあれば野村は議員になる。まったく、自動的にである。私は、公選法第235条(虚偽事実の公表罪)で、選挙公報記載の「1972年野村克也氏と結婚」とある部分が、それに当たると、刑事告発の準備を進めてきた。弁護士を選任し、その協力で、野村克也、野村沙知代、伊東芳枝の原戸籍を入手し、これを証拠とする。

伊東芳枝は、昭和32年(1957年)4月5日、米国籍人と結婚、昭和51年(1976年)5月17日に離婚した。野村克也もまた妻がおり、両名が結婚したのは、昭和53年(1978年)4月である。つまり、1972年当時は、克也、沙知代ともに結婚しており、「野村克也氏と結婚」という公報記載は、虚偽なのである。

私が告発を決めたのは、自動的に繰り上げ当選になるということは、一度は衆院議員になり、それから辞職する形を取らざるを得ないこと。これは、日本の議会史に大きな汚点を残すことになるからである。

告発によって、検察庁が起訴すれば、野村沙知代は刑事被告人になる。すると、公共の電波であるテレビは、刑事被告人に番組出演を認めることはできない。講演会もまた然りである。つまり“サッチー騒動”は終わりを迎えるのである。

悪い冗談だが、テレビを初めとしてマスコミにこの騒ぎをエンエンと続けさせ、国民の耳目をそちらに引きつけている間に、新ガイドラインの戦争法、この戦争法に反対する反戦派をしょっぴくための盗聴法を通過させた、とさえいわれている。

塩月さんの「取材終了宣言」にある通り、テレビが愚民化に拍車を入れるのはオカシイと思う。なにもかにもが、世紀末的でオカシイことだらけの日本を、少しはマトモにしたいものだ。 平成11年(1999)7月10日

編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す!

編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)
編集長ひとり語り第20回 野村沙知代に引導を渡す! 平成11年(1999)7月17日 画像は三田和夫51歳(中央二人の右側 1972)

■□■野村沙知代に引導を渡す!■□■第20回■□■ 平成11年(1999)7月17日

私は、7月16日午後、塩谷安男弁護士をわずらわして、東京地検に、野村沙知代を公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で告発した。その告発状を紹介しよう。

「一、告発事実 被告発人は、平成8年10月20日施行の衆議院議員選挙において、東京都第5区から立候補したものであるが、自己の当選を得る目的をもって、右選挙の告示後である同年10月初旬ごろ、同選挙に際して東京都選挙管理委員会が、衆議院(小選挙区選出)議員選挙公報(東京都第5区)を作成するにあたり、情を知らない同委員会事務局担当者らをして、真実は、昭和51年5月17日に、米国人アルビイン・ジョージ・エングルと離婚し、同53年4月19日に野村克也と婚姻しているのにかかわらず、『1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚』との虚偽の経歴を、右公報に掲載させて、東京都第5区である東京都目黒区及び世田谷区において頒布させ、もって自己の経歴に関し、虚偽の事実を公にしたものである」

このあと、「二、告発理由等」「三、証拠」「四、添付書類」とつづく。これらの文章は、法曹人特有の、寸分のスキもない、理詰めの文章なので、馴れない人には読みにくいし、ピンとこないかも知れない。一言でいうならば、「72年野村と結婚」とあるが、その時には米国人と結婚していて、ウソだ、ということである。このウソは、不倫と不倫の子の出産をゴマ化して、「当選を得る目的」だったのではないか、ということである。

第三項の「証拠」の項は、「第一号証 衆議院議員選挙公報(東京都第5区)」「第二号証 戸籍謄本」「第三号証 除籍謄本(荒川区長発行)」「第四号証 除籍謄本(目黒区長発行)」「第五号証 除籍謄本(京都市西京区長発行)」と、伊東芳枝の出生から、野村沙知代に“変身”するまでのすべてが明らかにされている。日本は法治国家なのだ。

それにしても、今どきのレポーターだとか取材記者だとかは、調査取材の能力が欠落しているとしか、私には思えない。ナゼ、学歴詐称にばかりこだわるのか。結婚のウソは、早くから、コメントなどでは取り上げているが、公選法違反をいうならば、学歴は公報に出ていないのだから、それをいうのは、私をしていわしめれば、テレビのスタッフも、芸能人なみの頭の程度、いうなればテイノー人のたぐいだと思う。

住民票(本籍地が記載されている)をとり戸籍謄本をとるのは、弁護士にしか許されていないから、弁護士に任せざるを得ない。そんなことは判り切っていること。タレントが持ち出してきた、ビラの名刺は法定外の印刷物だから、コロンビア大学が記載されていようがいまいが、関係はない。外国人記者クラブ会見の発言も、法定外である。それで「公選法違反」とは、ナニを考えているのか。浅香女史の行動にだって、テレビ局の関係者がアドバイスぐらいしたらどうか。

ナゼ、結婚問題に、誰も触れようとしないのか。だから、ワイドショー関係者は、ただただ、視聴率稼ぎだ、といわれるのだ。もうこれで“騒動”はおわりである。地検が、不受理などというワケはないからだ。 平成11年(1999)7月17日

編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問

編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校
編集長ひとり語り第21回 マスコミへの4つの疑問 平成11年(1999)7月24日 画像は三田和夫69歳(右端 池五の会1990.06.15)※池五=池袋第五小=西巣鴨第五尋常小学校

■□■マスコミへの4つの疑問■□■第21回■□■ 平成11年(1999)7月24日

これで連続3回目の「野村沙知代問題」だが、いまのマスコミには、私に理解できない部分があるようだ。前回書いたように、私はさる7月16日(金)に、塩谷(しおのや)安男弁護士を代理人として、東京地検に公選法違反の告発を行った。選挙公報に記載されている、「1972年野村克也氏(現ヤクルト監督)と結婚」とある部分が、虚偽事実の公表罪にあたる、というものである。

私に理解できないマスコミ、というのは、第一に、公報に記載されていない学歴詐称問題ばかりに熱中していること。名古屋の新間正次とかいうタレントの場合は、公報にその詐称学歴を掲載している。同じ学歴詐称でもまったくケースが違うのである。

第二に、結婚の年が違うという話題は、関係者のコメントなどで、何回も触れられているのに、どこの局も、誰もが、その事実を確認しようとしていなかったし、確認もしなかった、ということである。すべて、コメントの垂れ流しだけだった、ということ。調べさえすれば、すぐ判明(確認)することを、やろうとしないことである。

第三に、塩谷弁護士が告発状を提出したあと、19日の月曜日に、私は司法記者クラブの幹事社である、テレビ東京のファックスにあてて、告発したことと、告発状のコピーを送信し、「加盟各社によろしくご伝達ください」と書いたのだが、どこの社からも、弁護士の許にも私にも、問い合わせがなかったことである。記者クラブには、新聞社と電波各社が加入しているのに、である。

ところが、22日の木曜日になって、この問題を取り上げたフライデー誌の記事を、各社が見て、午後からにわかに、私や弁護士のところに、取材の申しこみがきたのだ。フライデー誌は、塩谷弁護士の関係者からの情報で、17日頃から動いていたようだ。つまり、司法記者クラブに入った情報(私のファックス)は、まったく黙殺されて、フライデーの記事で、動き出したということだ。

私は、私への取材は一切固辞している。つまり、テイノー人たちの弥次馬と同一視されるのを避けるためで、その点も、塩谷弁護士と事前に話し合い、すべてを弁護士に委任したのである。野村が起訴されれば、刑事被告人である。テレビ番組は彼女を起用するのをやめるだろうし、講演依頼も終わるだろう。そうなってからなら、私は、告発の真意を語ることも意味がある。地検の出方が明らかになるまでは慎重でなければならない。

彼女が次点の地位にある限り、当選した5人の公明党系の議員のだれかが、交通事故などで死亡でもしたら、彼女は当選し、多分、解散総選挙の時まで、衆議院議員でありつづけるだろう。9兆円という巨額の税金が、銀行救済のために投入された。その上、野村沙知代のような人物に、議員歳費が何千万円も注ぎこまれることは、堪えられないことであり、かつ、日本憲政史に、衆議院議員として彼女の名前が残ることは(新間の名は削除)、日本国民に対する最大の侮辱である。

もしも、私の告発で彼女が起訴になれば、これはひきつづき、選挙公報にウソを書いたことを黙認した(黙殺しつづけた)、夫の野村克也監督の社会人としての責任、小沢一郎党首の政治責任へと発展してゆくだろう。

マスコミへの第四の疑問は、この結婚のウソを暴くことが、阪神の野村監督への波及を恐れているのではないか、ということだ。 平成11年(1999)7月24日

編集長ひとり語り第22回 テレビ局不祥事の背景

編集長ひとり語り第22回 テレビ局不祥事の背景 平成11年(1999)7月31日 画像は三田和夫60歳ごろ(右側)
編集長ひとり語り第22回 テレビ局不祥事の背景 平成11年(1999)7月31日 画像は三田和夫60歳ごろ(右側)

■□■テレビ局不祥事の背景■□■第22回■□■ 平成11年(1999)7月31日

TBS記者の入浴女性盗撮事件の報道を聞きながら、私は、もう何十年も昔のことを思い出していた——昭和24、5年ごろのことだろうか。朝、毎、読の3社が合同で、ラジオ局を作る、というのである。それが東京放送ラジオ局としてスタートした。その時、社内の消息通が解説して曰く「3社とも、チャンスとばかりに、社内のカスを放出したンだ」と。

やがて、読売は正力松太郎の発想で、独自に日本テレビを作る構想を進め、朝日も独自案で、東京放送から脱退し、毎日だけが残ったのである。その時、ラジオはテレビに対して、「社内のカスをテレビに出した」と。

日テレがスタートして、しばらくすると、読売社内にこんな噂が伝わってきた。テレビのスタッフは“新聞のカスのカス”だったハズなのに、サラリーが俺たちよりいい。電化製品などスポンサーのプレゼントでみな揃っている。だから生活レベルが新聞よりいい、というのである。“カスのカス”だったハズが、逆転してしまったのである。そして、テレビ全盛時代がくることになる。テレビ局員は、新聞から冷や飯を食わされた憂さを、娯楽路線を突っ走り、個人生活をエンジョイすることで忘れ、かつ、新聞記者を見返していた。新聞記者は、冷蔵庫やテレビがなくとも、志は天下国家にあり、社会正義の顕現に、自らを慰めていた、といえよう。

この風土の違いが、テレビ人のスキャンダルに見られると思う。テレ朝のバナナ醜聞の菅沼も、テレビに出演して腐敗した例だ。もちろん、新聞人のスキャンダルも多いが、それは、時代の流れといえよう。

私は、読売社会部時代に、取材相手から封筒を渡されたことがある。「正力くんによろしくナ、車代だ」と。相手の目の前で中身を見たら、5万円も入っていた。私は笑って返していった。「私の退職金より少ない」と。

それは、当時の社会部長竹内四郎の戒めがあったからだ。「お前たち記者には、誘惑が多い。だが、小銭(こぜに)には手を出すなよ。小銭しか出さない相手は、必ずしゃべるのだ。読売記者を飼っている、とな。とるなら、大銭を取れ。バレて社をクビになっても引き合うだけの大銭だ。大銭を出す相手は、決してしゃべらないからだ」

テレビ人は、新興媒体だけに、誘惑に取り囲まれている。テレビに出たがりやが多く、ことに女が多い。また、タレントを売りこむプロダクションは“酒と女”でタラす。民放各局の深夜番組のほとんどが、下品な女と下劣な男のタレントたちで作るワイワイガヤガヤ番組。これが公共の電波かと思うほどだ。

テレビ局は、まず、報道部門を分社化すべきである。“酒と女”に取り巻かれている制作部門に比べて、報道のストレスがキツイのではないか。社内に倫理委を設けて、どんな成算があるのか。そんなオ説教が効果のある時代ではないのである。

AVまがいの漫画雑誌と、堅い評論誌とを同時に刊行している大出版社。ハダカと教養とが同居しているテレビ局——日本の、この奇妙なマスメディアが、淘汰されるべき時期は近い。TBSの連続不祥事が、それを告げている。 平成11年(1999)7月31日

編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ!

編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ! 平成11年(1999)8月7日 画像は三田和夫63歳(右端 紫友ペンクラブ創立総会1984.09.13)紫友ペンクラブ:五中出身の著述家団体か?
編集長ひとり語り第23回 自自公連立のウソだらけ! 平成11年(1999)8月7日 画像は三田和夫63歳(右端 紫友ペンクラブ創立総会1984.09.13)紫友ペンクラブ:五中出身の著述家団体か?

■□■自自公連立のウソだらけ!■□■第23回■□■ 平成11年(1999)8月7日

なみはや銀行がまたツブれた。去年だかに再統合したのに、不良債権額でウソをついていたようだ。長銀、日債銀の旧経営者たちが功労金(退職金)を返還しろ、といわれ、返すといいながら返さない。これもウソだ。柳沢金融再生委員長に、「功労があったればこその功労金だ。功労があったのか」といわれながら、私利私欲ばかりで、仕事はウソだらけ、個人的にもウソだらけだから、やりきれない思いで、いっぱいである。

どうして、こうもウソだらけの世紀末になったのか、考えてみたら、やはり、政治家のウソだらけが、国民すべてに“ウソはつかねばソンする”という風潮を、おしひろげていったのである。野村沙知代のケースが良い例である。

自自公連立が、いま注目されている。小渕がウソをつくか、小沢一郎がウソをつくか、はたまた、神崎・浜四津がそうなるか。いずれにせよ、来週には明らかになるだろう。これは、21世紀に持ち越す重大なことだから、国民は注目しつづけておらねばならない。

いまの、衆議院選挙は、小選挙区300人、比例代表200人の、500人定員制である。そのうち比例代表を50人減らして150人にする、という政策で合意して、自民・自由の連立政権がスタートした。小沢が、その約束の履行を小渕に迫っている。それを済ませてから、公明を加えて自自公連立にしろ、というのだ。

公明というのは、ご承知の通り、創価学会・池田大作の“私兵”である。かつて、国立戒壇を作るという狙いで、公明政治連盟が発足した。その後、政教分離とかナントカ、世論の批判を浴びて右往左往して、衆院議員が小沢・新進党に加入し、参院議員と地方議員とが公明として残るとか、理解しにくい離合集散のあげく、現在は、自由党への落ちこぼれを出しながらも、公明党にもどった。

衆院事務局にたずねたら「公明党・改革クラブで、小選挙区20名、比例区32名です」という。国会便覧によれば、小沢辰夫・改革クラブの衆院議員は9名。前記の53名から引くと44名になるが、便覧では公明党42名(2月1日現在)とある。

公明党は、小選挙区で当選できるのは、東京、大阪で各1名ぐらい。あとは、小選挙区の投票総数で比例区議員が当選する。調べてみると、北海道ブロック(2名中)1、東北(6名中)1、北関東(6名中)3、南関東(7名中)4、東京(5名中)3、北陸(4名中)1、東海(8名中)5、近畿(10名中)7、中国(3名中)2、四国(2名中)1、九州(7名中)2、計30名となる。このうち、近畿ブロックの旭道山が無所属に移っている。つまり、公明党の衆院議員の75%は、比例区議員だから定数50減は、公明党がツブれるか小数党に転落することを意味している。

だいたいからして、創価学会の指導者が、レイプで民事裁判を起こされるとは、何事かといいたい。池田の著書の1ページ広告が毎月1回、日刊六大紙に掲載される。数千万円の料金だろう。だから、レイプ裁判が時効で終わったことなど、ほとんど報じられない。これも、新聞の不作為的ウソである。

定数50減をめぐる、自自公連立の行方は、審議入りもせずに公明連立を認めたら、小沢一郎は大ウソつき野郎だ。さて、小渕は自由党を切って、自公連立となったら、これまた超・大ウソつき野郎だ。公明党は、「うちがツブれるから、50減反対だ」といわないのは新聞の不作為的ウソと同じだ。連立なんてことより、池田大作を追放してから、日本の政治に関わってもらいたい。宗教団体の指導者として、適格者だと思っているなら、もう、神埼・浜四津は、人間的大ウソつきだ。 平成11年(1999)8月7日

編集長ひとり語り第24回 陛下、ブリキの勲章を下さい

編集長ひとり語り第24回 陛下、ブリキの勲章を下さい 平成11年(1999)8月14日 画像は三田和夫23歳(最後列左から3人目の背高メガネ 1944年ごろ)
編集長ひとり語り第24回 陛下、ブリキの勲章を下さい 平成11年(1999)8月14日 画像は三田和夫23歳(最後列左から3人目の背高メガネ 1944年ごろ)

■□■陛下、ブリキの勲章を下さい■□■第24回■□■ 平成11年(1999)8月14日

長い長い、200日を越える国会が、ようやく終わった。最後の数日間は、まさに、太平洋戦争の末期のような、空しい“牛歩戦術”とかの、はかない野党の抵抗であった。北方ではキスカ、アッツ両島の玉砕、テニヤン、沖縄の玉砕と、大日本帝国陸海軍の、オロカな玉砕戦を、私に思い起こさせた。

そして、小沢自由党は連立を離脱せず、自民党は総裁選へのスタートを切った。公明党は“大臣”という閣内協力のエサに幻惑されて、「次国会初頭の採決」という、アイマイな自民党のウソを呑んでしまった。やはり、前号で指摘した通りに、大ウソだらけの自自公連立で、アメリカの期待した通り、“属国待遇”の重要法案をすべて成立させた。

さて、本論に入ろう——標題のタイトルは、さる11日付朝日紙の論壇に掲載された、アジアプレスインターナショナル台北代表の柳本通彦氏の投稿のタイトルである。要旨は、戦後処理をキチンとしろ、である。「…そんな国の国歌を我々は誇りをもって歌えるだろうか。…それは、太平洋戦争に対する評価や支持政党には一切関係がない。国としての徳や品格の問題であり、人間の良心の問題である」これは、台湾先住民の元日本兵が、柳本氏に対して、「もう金はいらない。だが、青春をお国に捧げた証(あかし)として、ブリキでもいいから、勲章を陛下に頼んでくれ」といった時に、国旗・国歌の法制化の前に、日本政府は、すべての「従軍参加者」に、なんらかの措置をすべきであった、と感じたというのである。ゼヒ、原文を読んで欲しい。

そこで私の提案である。国旗・国歌法の成立で、すっかりその気になった、野中とかいう男は、靖国問題にまで口を出した。戦犯を分祀しろ、特殊法人にしろ、と。この戦争にも行っていないバカは! “戦犯”とはアメリカからの戦犯だぞ。柳本氏の指摘通り、キチンと戦後処理をしないから、アジア各国から靖国参拝にイチャモンがつくのだゾ。ナゼ、韓国が慰安婦資金を断ったか考えたことがあるか。

竹下登をはじめとして、政治家たちは外遊すれば、何十億ドルという金をバラまいてきた。小渕にいたっては、何千億円を銀行にバラまいてきた。これらの一割でも二割でも、戦後処理に向けたらどうだ。

大阪高裁は、さる6月21日、元日本軍属の在日韓国人の障害年金などの支給を求めた法廷で、和解を勧告したにもかかわらず、国側は「検討の余地もない」と拒否した。官僚は、日韓の間ではすべて終わっている、という立場であろう。だが、それで日本の戦後処理はすべて終わった、といえるだろうか。人間の心の問題を処理していないから、国旗、国歌もみな、手を打ってよろこばないことに、首相は、思いをいたすべきだろう。

9月の総選挙で、これから2年間の任期を得たら、内政も外交も、すべて小沢“副総理”にまかせ、小渕総裁は、ただひたすらアジア各国をまわり、日本国首相として、元日本兵たちの手を握り、総理大臣表彰状を贈り、謝罪の旅をつづけるべし。もちろん、銀行に一度渡した金のバックペイを取り、それを配って歩くのだ。

戦争法、盗聴法、国旗国歌法、その他、この長期国会で、国民の支持を得ずに、数だけで成立させた“悪法”への、償いのためにはこれしかない。もう、ウソだらけの政治には付き合っていられない。8月15日のためにも… 平成11年(1999)8月14日

編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則

編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)
編集長ひとり語り第25回 適者生存の原則 平成11年(1999)8月19日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.02.26)

■□■適者生存の原則■□■第25回■□■ 平成11年(1999)8月19日

この8月15日の終戦記念日を中心としたお盆休みの間中、私は新聞6紙に釘付けにされていた。戦争をテーマにした連載記事から、長銀、日債銀の摘発記事、そして、圧巻は丹沢湖にそそぐ玄倉川(くろくらがわ)のキャンプ事故である。

この事故ほど、現在の日本の危機的情況を端的に示したものはあるまい。行政のあり方とマスコミの対応である。同時に、子供に対する大人の社会的責任の問われ方である。

少女売春の女の子たちが、「私が私の身体で金を稼いで何が悪い。だれにも迷惑をかけていない」と、放言していたのは、ツイこの間のことであった。そして同様に、会社仲間のキャンプグループも、度重なる関係者の注意にも、耳を傾けないで、子供たちを巻き添えにした。50歳代のひとりと他の2人の3人が中州を離れて、これまた注意をしていた。多分、少女売春の口グセと同じく「オレたちのことはオレたちでやっているンだ。余計な口出しをするな。迷惑をかけちゃいないンだ」と、いうところだったのだろう。

結果は、自衛隊から消防、警察と連日300人規模の大動員で、彼らのお盆休みを奪い、かつ人件費、資材費などの莫大な出費を強いる“大迷惑”を現出したのである。余談だが、壮年の3人の社長が、ホテルの三部屋を使っての自殺騒ぎ——ところが、新聞の報道は、3人がどんなに親しく、事業協力をしていたとか、美談調なのである。毎日1件以上はあると思える、鉄道の飛びこみ自殺——何万人の足止まる、と恒例の報道ぶりなのである。どうして、自殺者が死後に及ぼす社会的損害の糾弾の紙面を作れないのか。鉄道は、その損害の金銭的損失をすぐ計算し、自殺者の財産に仮処分をかける、という反応ができないのか。先日のハイジャックの西沢容疑者の自宅(親の家か?)は、一戸建てである。全日空は仮処分をかけたのか。新聞は、特別欄を設けて、追跡報道しろ。それが、迷惑をかけられる社会の防衛手段なのである。

自己所有の家のない奴は、社会に迷惑をかけない場所で、首吊りでも服毒でも、好きな手段で自殺しろといいたい。私の友人の東大法卒の不動産屋は、遺書を残して青木ヶ原で自殺した。私の尊敬する江藤淳の自殺に、すぐ新聞紙面には「自死」などという“新語”が出てくる。それをいいだす文化人も、それを取り上げる新聞も、ともに怪しからんと思う。自殺は自殺だ。

話がそれたが、親は子供を自己所有物として扱うから、学級崩壊へと進んでゆく。オレの子供に口を出すな、が、今回の悲劇を招いた。悲劇は悲劇だが、自業自得である。新聞は大きく取り上げるな。死体発見のたびに、ベタ記事で十分だ。しかも19日現在で、バタバタと死体発見が続いたのは、地元の人の話で、河口付近に漂着する場所がある、というではないか。10何人かの人が流されるのを記者たちは見ていたハズだ。流されてから2日ぐらいで捜索は打ち切るべきだ。自己責任の原則を、行政も確立すべきである。

おりしも、17日付東京新聞夕刊は、厚底サンダル問題の投書特集をしていた。危険だから止めろというのは、60代のジジイばかりだ。だが、街頭でこのポックリみたいなサンダルの女の子に、「危ないから止めろ」と声をかけたら、どのような場面になるか、想像に難くない。電車の床にペッタリ座る連中、電車の中で化粧する女たち——すべて、このキャンプの家族連れと同じ反応である。

例えば、この女の子が転ぶ、自転車が避けようとしてバイクとぶつかる。そこに車が突っ込んでくる。死傷者が出ることは十分予測されるが、女の子にサンダルを止めろ、とはいえない時代なのである。社会も、それなりの自己防衛を考えねばならない。適者生存の原則は、厳しいものなのである。 平成11年(1999)8月19日

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について

編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)
編集長ひとり語り第26回 アメパンという言葉について 平成11年(1999)8月25日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 1959)

■□■アメパンという言葉について■□■第26回■□■ 平成11年(1999)8月25日

フト、50年も前のことを思い出した。いまの読者には、想像もつかない時代と現象は、やはり、興味のあることではないだろうか。

50年前といえば、昭和24年——昭和22年10月に、2年にわたるシベリア捕虜から生還、その年の11月には、読売新聞社社会部記者に、復職していた。23年早春には、サツ廻り(警察署担当)として、上野署、浅草署を受け持っていた。上野署が中心だった。

というのも、そのころは上野駅とその地下道の時代だったからである。家出少年と家なき児たち。子供ばかりか、女も、大人の男も、上野を目差して集まってくる。上野に行けば、なんとか食べ物にありつけるのだ。そして同時に犯罪の温床でもあった。

まだ“女郎屋”とも呼ばれた売春業者の「遊廓」が、公然と営業していた。日本で売春防止法が成立して、施行されたのは、昭和33年からである。それまでは、売春は公然たる女性の職業だったのだ。警察が地図に赤線で囲ったのが「赤線」で、ここでは週1回“検梅(けんばい)”という、性病検査があった。伝統的な遊廓地帯を赤線と呼んでいた。それに対して青線で示したのが「青線」で、ここは非公然売春地帯だったから、検梅はなかった。

赤線、青線ともに業者がいて、前貸金で女性を束縛していたから、当然の結果として、自主売春の女性たちも現れた。これらを総称して「パンパン」といった。この語源には諸説があるが、占領軍である米兵たちが、性行為の音声的表現として、両手でパンパンと音を発して、セックスを求めたからというのが妥当であろう。

このパンパンたちも3種に分類されていた。日本人専門と米兵専門、さらにどちらでもOKというもの。米兵専門では、白人専門と黒人専門、さらにどちらでも、というものがあった。上野駅周辺は、このパンパンたちのメッカであったから、サツ廻り記者としてはそれらのボス(もちろん女性)たちとは、毎日顔を合わせて、情報源とするのだった。上野駅からスタートしたパンパンたちは、やがて有楽町駅のガード下から新橋へと、ひろがっていった。ことにアメパン(米兵専門パンパン)は、そちらへ移っていったが、発祥地は上野である。オカマ(ゲイを含む)も上野だ。

赤線、青線は管理売春だから、店の経営者が責任を持つ。遊廓らしい伝統的なしきたりが、彼女たちを縛りつけていたから、衣類や財布の盗難紛失などの不安はなかった。だが、パンパンは街頭での出会いだけだから、旅館やホテルで泊まるとなると、心は安まらないのだ。従ってチョンノマという時間売春が中心になってくる。

ある夜、私は顔見知りのパンパンに、「お茶ッ引き(客なし)で困っている」と頼まれて、同宿するハメになった。浴衣に着替えてから、服や所持品が不安だったので、まとめて宿の帳場に預けに行った。すると裏階段から降りてきた私の相手のパン嬢も、バッグから服のすべてを預けにきて、帳場でバッタリと顔を合わせ、大笑いしてしまったこともある。寝ている間に持ち逃げされる不安が、双方にあったということだ。

アメパンのひとりと話をしていた時、彼女が「ターザン」(同名の米映画があった)という。映画の話かと思ったら、「ツー・サウザンド」(2千円)という売春代金の話だった。日本人専門のパンパンとは言葉も通じるし、日本人同士の習慣も共有できるが、アメパンとなると第一に言葉が通じないし、客の争奪戦もすさまじい。だから、アメパン同士の罵り合いの物凄さは筆舌に尽し難いほどだ。

ある女性が、少年野球の子供たちに対して浴びせかける罵声の物凄さは、その年齢の普通の女性たちが、口にできないような言葉の連発である。私は、その場面のテレビを見ていて、50年も昔の思い出を呼び醒まされたのだった。 平成11年(1999)8月25日

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか?

編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)
編集長ひとり語り第27回 日の丸はスポーツグッズか? 平成11年(1999)8月31日 画像は三田和夫71歳(右側 1993.03)

■□■日の丸はスポーツグッズか?■□■第27回■□■ 平成11年(1999)8月31日

昭和20年秋、というよりは、ここシベリアのバイカル湖にほど近い、炭坑町のチェレムホーボでは、10月だというのに冬だった。

旧満州の国境の町、満州里からソ連に入り、左へと進路を取った時、私たちは捕虜にされたことを実感した。そして、シベリア本線の駅で停車するたびに、日本兵を満載した貨車を取り巻く“戦勝国ソ連”の人びとが、どんなに貧しい生活をしていたかが、目に見えたのだった。子供たちは、多くが裸足で、食べ物や衣類をねだっていた。

私たちが収容所に入り、炭坑作業に追い立てられて、意外な風景が現れた。頭に赤い布を巻く女たち、“日の丸バアさん”があふれてきたのである。文革当時の中国と同じように、ソ連にも“色”がなかったのである。兵隊たちの誰もが持っていた、日の丸の旗が流出して、女たちのプラトーク(頭巾)になって、それが大流行したのだった。

「祈武運長久」と墨書きされた日の丸は、その赤丸ゆえに大モテで、暗い冬の黒い炭坑で、女たちの色気を飾っていた。私も、昭和18年9月卒業、10月読売入社、11月入営というあわただしさの中で、正力松太郎社長に署名を頂いた日の丸を、大切にしまっておいたのだが、盗まれてしまったので、ソ連女の頭巾にされていただろう。

最近のワールドカップやオリンピックの時に武運長久に変わって、「頑張れ!」「金メダルを!」と、日の丸の旗の白地が、墨で汚されて、打ち振られるのを見て、私は戦争中の日の丸の旗を思い出し、シベリアの女たちを思い出した。

戦争中の日本軍人たちの大きな過ちのひとつに、国旗・日の丸に落書きを認めたことがあげられる。一銭五厘のハガキ代だけで、徴兵するうしろめたさからか、日の丸を署名帖代わりにすることを、はやらせたのだ。だから戦後、日の丸はその尊厳を失って、ソ連女の頭巾となり、スポーツグッズに成り果ててしまったのである。国旗には、その尊厳への敬意と、侮辱の罪が必要だ。

そこに、自民党政府の法制化という、戦時中の落書き容認以上に、愚かな過ちである。野中という男は、小沢一郎を悪魔と罵っておきながら、それと手を握るという、節操のない男である。それが、法案成立直後から、官房長官会見場に、日の丸を立てた。ナゼ、いままで立てなかったのか。

それを真似たか、通達でも出したのか、各大臣たちが記者クラブとの会見場に、日の丸を持ち込んできて、農林省や自治省の記者クラブとモメ出している。自治組織の記者クラブの部屋で、記者会見をやるのだから、クラブ側の了解なしに、日の丸を立てたがるのは、オカシイというべきだし、第一、どのような効用価値があるというのだ。法制化に当たって、十分に国民との合意を得なかったのだから、記者たちから異議がでるのも、当然というべきだろう。十分な国民的合意を得ないままの、法制化の強行という事実。それにつづいての、政府側の記者会見での日の丸掲揚。この経過を見ると、戦争中さながらの問答無用。「知らしむべからず、依らしむべし」という、権力のらん用が始まり出している。数だけの政治がいまや、押しつけられつつある。

戦争法、盗聴法と、独立国家としての落ち目を食いとめるどころか、いよいよ、アメリカの属国化への道を走り出している。国民の大多数が、アメリカの属国になりたい、というのであれば、それはそれでいいではないか。

90パーセント以上の投票率で、進路を決めるのは、東ティモールではなくて、日本ではないのか。 平成11年(1999)8月31日

編集長ひとり語り第28回 警察暗黒時代のおそれ

編集長ひとり語り第28回 警察暗黒時代のおそれ 平成11年(1999)9月11日 画像は三田和夫52歳ごろ(正論新聞初期 1973年ごろ)
編集長ひとり語り第28回 警察暗黒時代のおそれ 平成11年(1999)9月11日 画像は三田和夫52歳ごろ(正論新聞初期 1973年ごろ)

■□■警察暗黒時代のおそれ■□■第28回■□■ 平成11年(1999)9月11日

7月15日夜、後藤田正晴前衆院議員の、徳島県の地盤継承のため、氏の甥の息子に当たる、後藤田正純お披露目パーティーが催された。“二世議員反対論者”だから、自分の息子は立てず、甥の息子を立てたということらしい。という論旨は、つい最近の深山神奈川県警本部長の記者会見の席での弁明と共通するものがある。

正晴前議員が午後5時から講演して、6時半から「正純君を育てる会」になる。発起人代表は自民党県連会長。来賓挨拶には、亀井静香議員、野中広務官房長官が加わり、最後は前議員の感謝の言葉だ——これでは、後藤田正晴の地バン、看バン、カバンの継承式だといって過言ではない。正晴⇒正純ときては“二世議員”そのものではないか。

私はかつて、後藤田警察庁長官が退任してすぐ、田中内閣の官房副長官になった時、警察界の精神教育上、重大な過ちだと批判したことがある。官僚制度からいうと、どちらの地位も、本省の次官級で横すべりみたいなものという、擁護論もある。だが、一般の警察官にとっては、自分たちの長官が、副長官という格下げになった感じだったろう。政界にでる過程だというのも弁解で、初出馬で落選したのは、県内の警察官が支持しなかったからではないか。

副長官⇒落選という時期以後、警察の綱紀弛緩は目をおおうばかりに進展した。元長官自身は、その後、実力者として副総理にまで進んだ。警察官僚の政界転出も目立ち、亀井静香、平沢勝栄両議員らは、“パチンコ議員”といわれている。パチンコのプリペイドカードで偽造団にウラをかかれ、大失態を演じたほどである。

私が警視庁記者クラブにいたころは、勇退させたい署長がいると、人事課員が自宅を調べたそうだ。すでに自宅を建てていれば、即勇退。まだ官舎にいると、ナゾをかけてもう1カ所、盛り場のある署長をさせる。自宅を建てろ、というナゾである。地元の金融機関から借金しろか、企業から寄付を取れか、そのへんはよろしくやれ、ということで、いうなれば“牧歌的”でもある。

後藤田議員の資産公開で、20億円余りの財産があった。そのコメントに「50年もお国のために働きつづけた、当然の蓄積」というのを新聞で読んだ記憶がある。総会屋対策と称して企業に警部、警視クラスを押しつけた。700万ものアクセスがあった東芝HP問題で、発端となった“東芝社員の暴言”というのも、警察出身社員だといわれている。エリート出身官僚が政界転出を図って、金と地位を得ているのに、一般警察官は、俺たちどうすりゃいいんだ、という気持ちになってくるのも、当然の帰結であるだろう。

自衛隊が軍隊でないのは事実だ。なぜならば、軍刑法を持たないからである。事件を起こして、警察に追われ、パクられる。これほど、隊員の誇りが傷つけられることがあろうか。イヤ、誇りがないのである。軍隊が、誇りという精神面から、任務遂行の団結心が培われるのと同様に、警察もまた、精神の支えが重大である。神奈川県警の一連の失態を見ていると、精神の支えも団結心もない。

深山本部長は、早大法出身で、よく神奈川県本部長まで出世したものだ。神奈川は大阪本部長、警視総監、長官への最短コースだが、関口長官と親しかったともいわれている。記者会見の深山本部長を見ていると、自分が預かる1万人近い県警察職員のため、自ら責任を取ろうという姿勢が見えない。警察官僚たちにおける、自分たち自身の危機管理能力欠落の実情に唖然とするばかりである。

日本の警察が、アメリカ映画の描くロス市警幹部の悪との癒着さながらに、精神的土壌の崩壊を招いてしまったのはナゼなのか。 平成11年(1999)9月11日

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は?

編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)
編集長ひとり語り第29回 野村夫妻の次の舞台は? 平成11年(1999)10月2日 画像は三田和夫67歳(右側 卒業50年の旅1989.02.13)

■□■野村夫妻の次の舞台は?■□■第29回■□■ 平成11年(1999)10月2日

野村沙知代が不起訴になった。10月1日金曜日に、東京地検が同人に対する計7件の告発に対して、不起訴処分を決定した——新聞報道によれば、浅香光代の「留学という虚偽事実の公表」に対して、嫌疑不充分という理由だったという。他の6件の告発に対しても、同じ理由であろう。

私の代理人である塩谷(しおのや)弁護士から電話があったのは、1日の午後。「地検から連絡があって、午後5時に特捜部に行くことにした。同行できるか?」という。私にはすでにアポがあったので、「来週ではどうか」ときいたが、塩谷弁護士は「地検に来いという電話から判断すると、不起訴処分が決まった、ということでしょう。では、私ひとりで行ってきましょう」となった。その後の電話で、塩谷弁護士は、その不起訴処分の理由について、「72年に結婚したという、本人の認識が、公報の記載となった。その“認識”を崩せなかった」と、検事が見ているようだったと。

72年当時、野村夫妻はそれぞれ、戸籍上に妻と夫とがおり、いうなれば「不倫関係」であった。民法七五二条は、夫婦の「同居・扶助の義務」を明示し、かつ、七七〇条では、離婚提起の第一要件に「配偶者の不貞行為」をあげ、貞操を求めているのが「協力と扶助」である。つまり、夫婦には「住居と性生活の共同」を義務としており、野村克也、沙知代両人は“事実婚”の状態にあったということであろう。

これを換言すれば、浅香告発の「留学」、三田告発の「結婚」は、戦後数十年を経てその本来の語義が変わってきて、検察の「嫌疑不充分」に至ったのであろう。当初、私が危機感を抱いたのは、以前本稿でも指摘したように、自由党の東議員が、比例議員をやめて、東京15区の小選挙区議員に転進しようとした時からである。東議員が比例議員を退職すれば、第6位で繰り上げ当選待ちの野村が、議員になるからである。幸い東議員は3月末に転進を諦めたので、それは沙汰止みになったが、当選した5人の議員の誰かに事故があれば、繰り上げ当選である。これは放っておけないという危機感である。

それ以来、公報の「72年結婚」で告発し、処分決定までは被疑者、起訴になれば刑事被告人という「事実」を作らねば、繰り上げ当選の可能性が残存する、と考えていた。そもそも「留学」は、法定外文書である名刺や、記者会見でのコメントである。私は、立証困難で不起訴の可能性が高いとみていた。しかし、「72年結婚」は公報記載であり、戸籍があるのだから、証拠十分と考えていたのである。

しかし、検察は、「事実婚」を採って不起訴とした。一般人ならそれもよい。だが、国会議員候補者である。法律だけで判断すべきことだろうか。不倫の事実婚を、検察は容認したのである。不倫とは倫理にもとる、ということだ。「起訴便宜主義」という言葉があり、刑訴法二四八条は、検事が起訴、不起訴を決める(つまり胸先三寸次第)とある。不起訴ではなく「起訴猶予」にすべきであった、と私は思う。つまり「不倫の事実婚」に対して、国会議員候補者として倫理性を加味すべきだったのではあるまいか。

検察審査会に対し、私は申し立てしない。浅香申し立てがあるからである。そして検審の実情は、子供の交通事故死の運転者不起訴など、有権者の無作為くじ引きの委員たちに理解できる案件でなければ不起訴不当の結論は出ない。委員たちに理解できないケースでは、すべて「お上が正しい」のである。日本の現状は、まだまだ民度が低いのである。かつて、松本清張の盗作を告訴して不起訴になった経験がある。その時、検審に申し立てて、それを実感している。

だが、検審継続中に時効がきて、繰上げのメがなくなるし、テレビに彼女の顔が出ないだけで、私の告発も意義があったといえよう。ただ、検察には“則定現象”に見られるよう、倫理性を軽視する風潮があるのを、私は憂える。 平成11年(1999)10月2日

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ

編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)
編集長ひとり語り第30回 政党助成金のデタラメ 平成11年(1999)10月9日 画像は三田和夫47歳ごろ(手前 舞台芸術振興財団催事か1978年ごろ?)

■□■政党助成金のデタラメ■□■第30回■□■ 平成11年(1999)10月9日

ノストラダムスの予言は外れた。だが、この世紀末に、世界の終焉を暗示するかのように、トルコに台湾にと大地震が起き、中央アジアや東ティモールで殺戮が続き、日本でも常識を覆す事件が続いている。則定東京高検検事長の女遊び、神奈川県警の不祥事続発と深山本部長の小手先処理。さらに、東海村の被爆事件。そのどれを見ても、マトモな人間のするハズのないことが、実に平然と、しかも淡々と行われている。野村沙知代の一括不起訴もまた、まともな人間には信じられないことになるだろう。

同じように、自自公連立内閣のスタートもまた、小渕首相の権力願望の具現で、なぜ総選挙で国民の気持ちの向かうところを確かめないのかと、白けてくる。赤字国債で金をバラまき、明日の見通しはない。東海村の補償で、また税金がキリなく投げこまれる。選挙に金がかかるからと、政党助成法で政党(議員個人と同じ意味)に税金を出し、企業献金(98年度153億円)の禁止にはシカトする。銀行には莫大な公的資金を注ぎ込む——これでは、まさにノストラダムスの予言そのものではないか。

この政党助成法という、政党に“公的資金”を注ぎ込む法律を見ていて、面白いことを発見した。自治省への届出(平成10年7月26日現在)を見ると、議員数は、自民党369、民主党141、自由党52、新党平和(衆のみ)38、社民党28、公明(参のみ)22、改革クラブ12、新党さきがけ5、と八党のあとに、第二院クラブ2、自由連合1、(いずれも参のみ)というミニ政党が二つ並んでいるのだ。

助成法第二条には、助成金を請求できる要件として、①国会議員を有し、②得票率2%以上、と制限が設けられている。だから、このハードルを越えられないミニ政党の新社会党、女性党、スポーツ平和党、青年自由党などは、比例区で数十万票を集めていてもどうしようもない。第二院クラブは、佐藤道夫代表が平成7年7月23日選挙で、比例区で128万3千票を集めて当選、西川きよし議員が平成10年7月12日選挙で、大阪選挙区のトップ106万弱で当選し、ともに実力派。それに、同年選挙の沖縄県区のトップ島袋宗康議員の24万強が加わり参院議員3名を擁している。だが、今までは助成金の請求をしていなかったのに、それでは次の選挙のポスター代も無い、と助成金を受けることに転換したという。

奇怪なのは、自由連合である。徳田虎雄代表は前回衆院選に出馬、鹿児島二区で自民党の新人(県議)に惜敗している。ということは、自由連合には国会議員がゼロになった、ということである。そこで徳田代表は、参院兵庫選挙区で当選3回の新進党・石井一二議員を引き抜いて、自由連合幹事長とする。幹事長などというが、元議員の代表と2人きりに過ぎない。そしてそれだけで、助成金五千四百三十九万円を手中にするのだ。

もともと、徳田代表は徳洲会病院の理事長である。全国各地に徳洲会病院を開設し、日本医師会には加盟せず、トラブル・メーカーになっている。そして、この政党助成金に見られるような、サギまがいの錬金術で、この病院群の資金としているが、最近は詰まってきて、助成金に目をつけたようだ。

昭和58年に奄美群島区で初出馬、当選4回を重ねていた保岡興治議員に負ける。昭和61年も三千票あまりで再敗。この選挙では創価学会票を保岡側と争奪した。平成2年にようやく、保岡票を二千票上回って初当選。つづいて平成5年に、4人枠の鹿児島一区で保岡トップの3位に甘んじて再当選。そして、小選挙区制になった平成8年では、保岡は一区、徳田二区と分かれて安心だったのだが、自民党にやられた。

徳洲会の病院群展開には、徳田が議員であることが要件だったようで、目前に迫っている次の総選挙には、連立の余波で学会票は自民候補へまわるだろうから、また落選で“徳田錬金術”もついに終幕を迎えるだろう。 平成11年(1999)10月9日

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言

編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)
編集長ひとり語り第31回 ガングロたちへの提言 平成11年(1999)10月16日 画像は三田和夫71歳(左側 成田空港1992.08.06)

■□■ガングロたちへの提言■□■第31 回■□■ 平成11年(1999)10月16日

さる10月3日付の「しんぶん赤旗」紙は、女子美短大の池田孝江講師(服飾史)の「歴史はくり返す? 厚底サンダル」という一文を掲載していた。今週封切り予定の米映画「娼婦ベロニカ」の予告編に、木靴カルカニーニが出てきた、という書き出しである。

16世紀ベネチアでは、高級娼婦から一般女性まで、14センチから40センチもの、カルカニーニを履いていた。それは、ベネチアでは、運河が洪水を起こすので、女性の自衛のためのものだった。当時の画家ヴェチェッリオの描いたものがあり、スカートの下に男性用の半ズボンを着け、カルカニーニを履いている姿が見られる。

「私たちは男のうしろからついてゆくのではなく、同等に、時には男の腕をとってリードしてゆくのです」と、女子学生が語っているそうだ。「体位の上でも仕事の上でも、男性と同等の目線でものを見、活躍する時代は、もう手の届くところまで来ています」が「しかし厚底サンダルは、男女機会均等に寄与する積極性より、行動を束縛されかねません」と、男性と同じ高さの目線でものを見るという前段部分を引っ込め、行動の束縛という実相を認めている。

16世紀のベネチアで、厚底木靴が流行していたということは、さすがの私も知らなかったが、水溜りを歩くのに便利という実用性だけだったのだろうか。池田講師の文中、「娼婦ベロニカ」「高級娼婦」という言葉が出てくる。そこで私が思い出したのが、いまでは全く見られなくなった纏足(てんそく)だ。79年に私が戦後初めて中国に旅行した時には、北京の胡同(フートン・うら町の意)で、ヨチヨチ歩きする纏足の老婆がいたものである。辞典によれば「昔中国で子供の時から女の足に布を堅く巻きつけ、大きくしないようにした風習」とある。

もちろん、中国の女の子のすべてが、纏足したのではない。売買婚の形が強く残っており、一夫多妻だったころ、いうなれば娼婦に近い女性たちの(妻も含めて)、逃亡を防ぐ狙いもあったようだ。農婦をはじめ、労働者階級ではやらない。その亜流が、祇園舞妓のポックリ(高下駄)だったのだろう。

今の風俗で、ガングロ・キンパツという画一的な流行にとらわれる女の子たちが、厚底サンダルの常習者である。決して、男と同じ高さの目線を持ちたいという、希求があるのではない、と私は断じたい。

中国の纏足は、女性の足、くるぶしより先の部分の発達を防ぐのが目的である。つまり、身長、体重に比例させないので、О脚風にヨチヨチ歩きを強いられる。その狙いはなんなのだろうか。ベネチアでも、娼婦たちから流行したヨチヨチ歩き。日本のポックリも、水商売の女たちの風俗である。これらに共通する効果は、女性器の訓練である。

日本の俗言に、「ビッコの女はいい」というのがある。足の不自由さのゆえに、日常の歩行の中で、腰の安定のために、下腹部の筋肉が鍛えられて、性器の緊縛度が強くなるといわれる。同じく俗語のキンチャク(巾着袋のこと)になると信じられている。

私が警視庁記者クラブ時代、新任の社会部長歓迎会の行事で、幹事の私は、浅草で“花電車観賞会”と洒落こんだ。バナナ切りのあとのゆで卵飛ばしとなった時、膣内に残っていたバナナのスジが飛び出し、新社会部長のほっぺたにくっついて、大笑いだった。

もう浅草あたりでも、花電車の芸人はいないようだ。府立五中の同窓会で、私は北関東の温泉に、その芸人がいると聞き、余興に呼んだ。クリスチャンの学校長が真剣に見つめていたのが印象的だった。年増の芸者の演技は、まさに芸術的で、ワイセツ感はなし。

ガングロ・キンパツたちも、こういう“芸術家”を目指すべきだ。 平成11年(1999)10月16日

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則

編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)
編集長ひとり語り第32回 検察一体の原則 平成11年(1999)10月23日 画像は三田和夫54歳(右側 松㐂鮨1975年)

■□■検察一体の原則■□■第32回■□■ 平成11年(1999)10月23日

野村沙知代の不起訴が確定した。嫌疑なし不起訴ではなく、嫌疑不十分不起訴だ。一度東京地検が不起訴処分にしたのに対し、告発人・浅香光代が検察審査会に「処分不当」の申し立てをし、検審が信じられないほどのスピード審査で、「不起訴不当」の結論を出したのだが、検察は、時効ギリギリの18日に、再度不起訴の処分を決定した。さる10月1日の不起訴処分から18日目であった。

私の「結婚の虚偽事実公表罪」容疑の告発は、10月1日に不起訴になり、私は検審に申し立てはしなかった。検審があのスピードで審査するとは、信じられなかったからだ。したがって、学歴詐称の浅香告発が検審で「不起訴不当」の結論を得たのだった。

私の「検察との付き合い」は長い歴史がある。昭和24年から25年にかけての1年間、警察まわりを卒業して、法務庁(当時はまだ庁だった)司法記者クラブへ。文系で法律も知らないのだから、六法全書との戦いだ。まだ刑政長官などという役職があった。そして、“検察の派閥対立”の芽をみつめる。

約1年ののち、国会遊軍を経て警視庁記者クラブへ。そしてさらに、昭和32年司法記者クラブのキャップになってまた1年勤務する。昭和33年夏に、横井英樹殺害未遂事件(安藤組事件)に関係して退社した。昭和42年、独力で正論新聞を創刊。「検察体質改善キャンペーン」を開始したのである。

私が、読売のクラブ・キャップの時、部下の記者の一人が酒に酔った。新年の御用始めの午後、検察との懇親の席である。突如、怒声が上がったので彼の許に駆けつけた。彼は一人の検事に向かって、怒鳴りまくる。「ナンダ、お前たち検事は! この世の中で、検事だけが最高のインテリだって、ツラしやがって! そのオゴリ高ぶったツラが気に食わねえ!」と。場内が静まり、検事や他社の記者の非難の視線の中を、なお怒鳴りつづける彼を抱いて、私は彼を連れ出した。当時の記者クラブには、彼の言葉に拍手を贈るものと、検事のオヒゲのチリを払う手合いと、ふたつの流れがあった。そして彼の酔余の怒鳴り声の対象が、「検察の一般像」であった。

このS記者の“暴言”は、多くの検事の持っていた「オゴリ」に反省を求めたものだったのだが、効果はなかった。しかし、検事にとっても、このように面罵されたのは、空前絶後のことであったろう。

正論新聞の検察キャンペーンの結果、二代の検事総長が努力して、派閥対立の解消のため、足留めを食っていた“負け派閥”の幹部2人を検事長とし、その1人である大阪検事長の岡原昌男は、定年後に最高裁判事に転出し、のちに最高裁長官にまで進んだ。

だが、派閥対立がこうして解消し、「検察一体の原則(検事は上から下まで一体だ)」が確立され、緊張感がなくなったからだろうか、ヤメ検の悪徳弁護士(金儲け専門)が出るばかりか、則定東京検事長の女遊び、偽名でのホテル同伴などの不祥事が起きた。これもまた、検察一体の原則なのか、浅香告発の当初の“門前払い”などは、いささか理解に苦しむところである。事後の検察の対応をみると、告発受理、不起訴の報道、否定の記者会見、不起訴処分の発表、検審申し立てへのコメント発表、不起訴処分——この流れには納得できない部分が多すぎる。検察は、いったい、どうなってしまったのか。

また、その強権ぶりを物語るのは、オウム麻原の主任弁護人だった、安田好弘弁護士が顧問会社をめぐる強制執行妨害罪に問われて昨年12月に逮捕された件だ。3度の保釈許可が検察の抗告で却下され、4回目のさる9月27日ようやく許可になった。懲役2年の刑の容疑ですでに10カ月も拘置されているのである。

この強権ぶりと、野村沙知代不起訴決定との間に、あまりにも検察官の権力の不公平を感ずるのである。日本の各界、各層の世紀末現象の中で、私たちは、いったいナニを信用できるのか。 平成11年(1999)10月23日

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想

編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)
編集長ひとり語り第33回 男女同一労働同一賃金の理想 平成11年(1999)10月30日 画像は三田和夫63歳(右から二人目 紫友ペン1985.03.06)

■□■男女同一労働同一賃金の理想■□■第33回■□■ 平成11年(1999)10月30日

前々週の「ガングロたちへの提言」に対して、東京都の女性から、掲示板へ「やっぱり編集長も女性の性をお金で扱うのをよしとしている男性の一人と感じてしまい」「削除されるかもしれませんが、このような感想を持ったことをあえて書かせて」とご意見が寄せられた。反論を今週のテーマとしたい。

1917年のロシア革命は、封建制の打倒だけではなかった。同時に女性の解放、つまり“性”をも束縛から解き放った。その結果としての、男女同一労働同一賃金制である。私は敗戦の秋、バイカル湖の西方の炭坑で過重労働を強いられていた。そこには、ソ連的共産主義体制が、色濃く満ち満ちていた。

収容所のバリケードの入り口で、ソ連将校たちが捕虜の荷物を調べ、時計、カメラから爪切りまで掠奪していた。その様子を眺めながら、女たちの人垣が出来ていた。口々に騒ぎ笑いながら、私たちを指差したりする。私たち将校団の中に、召集された開業医の軍医がいた。「軍医殿、女たちは指差してナニを決めているんでしょうか」「ウーン、キンヌキ(去勢手術)の順番かな」と。年配の軍医の返事だけに、若い私たちには不安のタネとなって緊張が流れた。

だがその不安は、数日後には大笑いになった。8時間3交代で石炭掘りに出る私たちをあの女たちが襲ってくるのだった。まだ厳冬も経験せず、体力が十分だった捕虜たちは、女たちと性行為をした。その結果判明したことは、初日に指差したのは、「私はあの男がいい」「イヤ私はあっちの男」と、品定めをしていたのだった。大笑いも当然である。

そして兵隊たちは、習い性となった“行為後の支払い”に、軍手や軍足(靴下)などを渡す。戦勝国などとはいえないほど、物資が欠乏していた彼女らは、大喜びだった。やがて彼女らは、このプレゼントが“対価”なのだと気付く。そうなったらすごいインフレである。下着から毛の防寒下着、羊毛軍服まで高騰し、身ぐるみ剥がれてしまった。だが“売春”の習慣がないのだから、兵隊たちの財産がなくなったら、初めのように“性のエンジョイ”に戻った。現実に、働かざる者は食うべからず・男女同一労働同一賃金の原則が確立されていなければ、女の性は金銭で扱われるのである。それは、資本主義では、男のほうが高収入だからである。今のロシアは、すっかり変わったようだが、ソ連時代には“日本の女権論者”たちが随喜の涙を流しそうな事実があったのである。

アメパン、花電車など、死語となった言葉を、私はよみがえらせている。今の一過性流行語よりも、はるかに含蓄があり、戦後の世相を寸言で描破しているから、伝承の価値ありと判断するからだ。花電車というだけで不愉快だと感情移入するのは、私は賛成しかねる。スポーツマンの鍛錬と同じく練習に次ぐ練習で、一人前の芸人になる。タタミの目に立てた札をはさみ取り、徳利の口に乗せた硬貨を吸い取り、あまつさえ、客の注文に応じて、100円玉、10円玉と正確に吐き出す——観客は息をのんで静まり返り、“芸術的演技”に打たれるのだ。客が出した札も硬貨も彼女の収入だ。努力が報いられる高収入である。

水商売に入る女性は、自分の意志で入るのである。「心も身体もつらい状態」などというのは、知的を気取る女性が、おのれの優越感を誇示する言葉にすぎないと、私は思う。女性の弁護士や議員たちこそ、程度の低い女性の啓発のための運動をすべきで、人権発言は無用だと思う。

ガングロ・厚底たちが、単なる模倣に流れて、向上心の片鱗も見られないことへの、皮肉を書いたのだが、お気に召さなかったみたいだ。 平成11年(1999)10月30日

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ

編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)
編集長ひとり語り第34回 民主化を阻む元凶は勲章だ 平成11年(1999)11月6日 画像は三田和夫44歳(こどもの国 1965.08.17)

■□■民主化を阻む元凶は勲章だ■□■第34回■□■ 平成11年(1999)11月6日

恥ずかしながら…と、横井さん流にいえば私は、正八位勳七等で宮中席次第何階だかに属する身分だった。といっても、それは戦争中に陸軍少尉に任官したから、それについてきたものである。当時の定番だったのだ。だが残念ながら、“証文”はないのだ。同期生には、その勲記という天皇のサインのついた証文を持っている者もいる。私たちは、野戦軍からシベリア捕虜と、日本を留守にしていた。一方、運のよい仲間は、日本国内で終戦を迎えた。そしたら宮内省から通知がきて、「正八位」の書類を受け取りに来いという。だから同期の少尉たちは、その証文をもらったというのだ。

ところが、その証文の発行には期限があり、私が復員してきた時には、もう期限切れでもらえなかった。のちにシベリア捕虜の“御苦労賃”として、一律に10万円の国債が支給された。菊の紋章の入った銀杯も、記念品として送られてきた。同期生会の席上、正八位組が、アンナ紙切れよりも10万円のほうが良かった、と大笑いしたものだった。

この正八位勳七等の位記勲記の支給に期限が設けられたのは、進駐軍の占領政策の目玉のひとつ「栄典の廃止」と関係があったのだろう。華族制度や勲章の廃止が命令されたのである。そして、昭和27年春の講和条約調印から、六カ月の切替期間があり、日本はその秋に晴れて独立国になった。

その一年後の28年9月18日付の閣議決定で、「緊急の叙勲取扱いに関する件」があり、さらに10年後の38年7月12日付で、「生存者の叙勲開始について」と閣議決定された。池田内閣の時である。こうして、叙勲制度というか、勲章が復活したのだった。しかも、生きている人に対して、等級を付けた勲章を政府が授与するということだ。

戦前は、成金で金ができると、まず女買い、それに飽きて、旅行。そのあとが名誉(勲章)を期待しての政治家買い、と相場が決まっていた。そのため、売勳事件などが起き、生存者叙勲は特別なケースで、死後、追贈されるのが主流であった。

ところが、生存者叙勲が主流で、政治家と官僚は、勲章をチラつかせて権力をほしいままにするのである。北朝鮮の将軍たちは、左胸だけでは足りず右胸にまで数多く飾り立てて、宮沢賢治の「バナナン将軍」を思わせる漫画スタイルである。日本で、スポーツ選手が金メダルを背広の胸につけて街を歩いたら、笑い者になってしまうだろう。

第一、どうして等級をつけるのか。これほど、人間に対する侮辱はあるまい。しかもその等級差別の根拠がアイマイだからだ。慣例として、役職や経歴が根拠になっているようだが、日本新聞協会という業界団体のボスが勲一等で、日本雑誌協会長という同じ業界団体の長が勳二等としたら、新聞と雑誌で、それほどの違いがあるものなのか。

中曽根元首相が大勳位で、他の首相経験者がどうなるのか。村山社民党首相はどうなるのだ。4日の午後、参院の代表質問のテレビをつけっ放しでいたら、小渕サマサマで、歯の浮くようなオベンチャラをいう奴がいる。何奴かと思って画面を見たら、参院自民党幹事長で小渕派の元郵政省人事局長で、労相経験者。72歳にもなって61歳におもねるのは、もう一度大臣になりたいか、勲章欲しさとしか思えないではないか。

文化勲章、文化功労者、人間国宝などは、それぞれの経歴と技能とが、万人とはいえなくとも、それぞれの世界で認められる人物だから、それほど異論は出ない。ただ、早いか遅かったかの違いだけである。

生存者叙勲、勲章等級制度は、二十一世紀に向けてやめにすべきである。名誉欲という人間の弱点につけこむ制度は、商工ローンの手口と同じである。蛇足ながら、「大臣」という封建制の名称も「長官」に統一すべし。 平成11年(1999)11月6日

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源

編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会
編集長ひとり語り第35回 警察腐敗は後藤田亀井が根源 平成11年(1999)11月13日 画像は三田和夫66歳(左から4人目 爺童会・栗田美術館1988.05.28)爺童会(ヤッパ会):五中同期会

■□■警察腐敗は後藤田亀井が根源■□■第35回■□■ 平成11年(1999)11月13日

最近の警察の紊乱腐敗(びんらんふはい)ぶりには、もう言葉がない。しかし3年の警視庁記者、2年の司法記者として、警察官に多くの知己を持つ記者として、どうしてこの20年ほどにかくも乱れ切ってしまったのか考えてみて、1つの結論を見出した。それが、このコラムの見出しそのものなのである。

後藤田は警察庁長官であった。つまり全警察官のトップだったのである。それが、おのれの政治志向のため、田中内閣で官房「副」長官になる。仰ぎ見た長官が「副」になったのである。行政官としては、警察庁長官も、官房副長官も、ともに次官級職だから、本人も周辺も、格別「副」にはこだわらなかっただろう。

しかし、階級制で維持されている警察組織の、多くの人々にとっては、ナゼ、「副」なんだと、奇異に感じ、後藤田の転身を、自己利益追求のための、ナリフリかまわぬ転身に見えたのだった。ここでまず、警察官全員の精神的支柱をブチ壊したのだった。

政治家としての後藤田は、順調に権力を上りつめ、副総理にまで進んだ。資産公開では、20億以上の財産があった。彼の後を追って、亀井静香も政治家に転身した。キャリアだった彼は、警察のカオを利かせて、パチンコのプリペイドカードを企画した。ノンキャリア幹部達の天下り先と世間をゴマ化したが、頭のいい中国人達に偽造されて失敗した。だが、亀井個人は、これで政治資金ルートを確立し、自民党でもトップクラスの集金力だといわれている。

後藤田と亀井。この2人の先輩後輩のタッグチームに、キャリアたちは、その権力、金力にあやかろうとモミ手をし、部下や現場のことは忘れてしまった。一般の警察官たちは、敏感に様子をみてとって「バカらしくてやってられない」という気分に追い込まれ、それぞれの立場で、金を手に入れようとした…。

なによりも、精神的な切磋琢磨を必要とする警察組織は、上官に対する尊敬と信頼によって、その本来の組織を保持できるのである。それを打ち砕いたのが、キャリアと呼ばれる連中であり、根源は後藤田正晴、亀井静香の両名に集約される。小手先の改革など笑止である。 平成11年(1999)11月13日

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する!

編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)
編集長ひとり語り第36回 小渕世襲後継に反対する! 平成11年(1999)11月20日 画像は三田和夫58歳(最前列右端 保定幹部候補生隊合同慰霊祭・靖国神社1979.07.01)

■□■小渕世襲後継に反対する!■□■第36回■□■ 平成11年(1999)11月20日

小渕前首相が亡くなって、日刊紙はしきりとその遺徳をたたえる紙面を展開している。通夜、密葬とも、青山葬儀所で盛大だったと参加者の人数を出して、アピールしているのだが、私は反論を唱えたい。

祭壇には遺影と勲章だけ。その遺言に「葬式は簡略に…」とあったとかで、献花の看板ズラリもなく、無宗教で、白花を献ずるだけというので、カッポー着のオバさんや高校生までが並んだという。

「首相臨時代理」の任命があったか、なかったかで、モメているくらいだから、この遺言は事前に用意されていたものだろう。それならばナゼ、「二世の後継は無用」も、同時に用意しなかったのか。「小渕の名を消すな」という、地元の熱意は、26歳の次女を担ごうとしているが、これほど、国民をバカにした話はない。国会議員のバッジは小淵家の私有財産な のか?

やっぱり、私は小渕恵三は首相の器ではなかったのだと思う。一国の総理という重責を担いながら、ブッチホンだ、ナンだと、パフォーマンスのみ心を砕き、十分な休養を取らなかったから、血管がブッチ切れてしまったので、いうなれば“自業自得”であり、本人はもちろん周辺の人々の補佐責任も大きいということだ。

現職で死んだもう一人の首相、大平正芳の最後も哀れなものだった。周辺の医者から聞いた話だが、心臓外科の医師たちは、バイパス手術をすすめ、そうすれば半年後には再び政治活動もできる、手術をしなければ生命の保証はできないと直言したようだ。だが、秘書や官房長官など、側近の人たちは「やりかけの仕事(利権か?)があるから」と、手術を受ければ首相を辞めざるを得ないので、手術に反対し、本人もそれを認めたというものである。そして、数日後に死んだ。これも“自業自得”である。

横綱・若乃花の引退も、能力がないのに、周辺に押されて横綱にさせられた。だから引退に追い込まれた。これも、小淵首相と同じケースだが、横綱には引退があり、年寄株で威張れるところが、首相とは違う点だ。

だが、新聞は「惜しまれて去る」と、大げさな紙面を作った。能力のない人間は能力以上の器にはなれないのである。

日本には、古来、死者に鞭打たずを美徳とする風習がある。だが、首相という最大の公人は、冷静に批判されるべきである。ましてや「小渕の名を消すな」などと、人物、識見ともわからぬ“小娘”を後継ぎになどは、言語道断である。 平成11年(1999)11月20日

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい!

編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)
編集長ひとり語り第37回 バスジャックの父親! 出てこい! 平成12年(2000)5月20日 画像は三田和夫70歳(右側 上海鉄路分局・文明車站1992.02.04)

■□■バスジャックの父親! 出てこい!■□■第37回■□■ 平成12年5月20日

テレビには映らなかったから、両親が揃って出てきたのか、母親だけだったのか、シカとは分からぬが、新聞紙上には「説得の自信がない」と称して、バスにも近寄らなかったようである。この事件の報道、ことにテレビでは、午前5時の突入まで、徹夜して見つめながら、イライラの連続であった。

まず警察——ナゼ、十何時間も走らせ放題にしたのか。タイヤを撃ってパンクさせることも出来たではないか。ことに、二度目の停車で、瀕死の女性を運び出したときに、どうして、狙撃しなかったのか理解に苦しむ。窓から説得している隊長は、十分に狙撃のチャンスがあったはずである。

広島のシージャックの時に、狙撃したため、殺人罪で告発された過去が、彼らにタメライを与えたようであるが、瀕死と重傷2人と、3人の女性を搬出したときが狙撃の機会だったと思う。狭いバス車内での、少年の狂気にさらされた乗客たちの恐怖は、射殺しても余りある罪状である。

警察がダメなら、両親である。父親がバスに乗り込み、身を挺して刃物を奪うべきであった。そうでなければ、こちらも刃物を持って、少年を刺すべきであった。母親とて同罪である。自分が生み、育てた息子に、「刺してみろ」という勇気がないのか。そして死んだら本望であろう。少なくとも、バスに乗り合わせただけの他人を殺したり、刺したりすることに比べれば、親がヤラレるほうが、ベターである。

リュックに刃物を荷造りしているのなら、それを取り上げるのが本当だろう。コワイのであれば、家族で逃げればいいだろう。息子のことを警察に訴えた上で…。でなかったら、今までに数多くの実例があるように、親の子殺しである。寝ている時になら、やれるハズである。他人さまを襲うことに比べて当然の結論である。夫婦で生んで育てた責任を社会に対して取るべきである。

ナゼ、このような“極論”をいうかといえば、母親の「精神病院も警察も取り合ってくれなかった」と、責任逃れ、他人のセイにする言動が出てきたからである。

むかし、29歳の無職男が、エロ本を売っていて警察に捕まった。その父親が東大教授だったので、父親の育て方を非難する声があがったことがある。父親は毅然としていった。「29歳にもなった息子への、父親としての責任はない」と。

17歳だから、親の責任を私は問うのだ。事件が起きたのを、内閣危機管理室の報道で知った森首相は「射殺しろ!」と命令すべきであった。そうすれば、この両親と同じように、責任を取るのがコワイらしい、県警本部長なるキャリアは安心して射殺を命ずるだろう。そして、少年の射殺体の写真を、ひそかに週刊誌に流してやるのだ。

小渕前首相の病床写真よりも、少年の射殺体の写真は、全国の17歳の「虞犯(犯罪を起こすおそれのある)少年」たちに感銘を与えるであろう。もちろん、今回のように模倣犯も出ないことは、請け合いである。

森首相も“神の国”騒動が吹っ飛び、総選挙も、ひょっとすると大勝利かもしれない。いずれにせよ、今度の選挙で自民党が大敗すれば、森首相と野中幹事長の責任である。バスジャックも解決して、万万歳だったといえる。

それにしても、この少年の父親! 卑劣な男だ。自ら名乗り出て、社会に詫びよ!

射殺されれば、少年は極楽往生。両親ら家族は、これからの長い人生を、どう生きていこうとしているのか? 平成12年5月20日