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雑誌『キング』p.104下段 幻兵団の全貌 関係記事一覧

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 下段 幻兵団関係記事一覧
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 下段 幻兵団関係記事一覧

△1・21 〝幻兵団〟第四報(談話)
 1・22 参院引揚委員長ら言明
 1・22 捕虜のスパイ事実(青森版)
 1・27 〝幻兵団〟参院議題に
△1・28 〝幻兵団〟第五報(舞鶴座談会)
△1・28 参院で法務府は調査中
△1・29 秋田で引揚者自殺
 1・30 編集手帖欄
 2・1 〝幻兵団〟に関係、参院で自殺者の説明
△2・10 阿部検事正遺族の怒り
△2・14 永田判事も犠牲

毎日

△1・31 シベリア幽囚白書(夕刊)
△2・1 かくて帰国は遅れた、闇に光る密告の眼
 2・2 宇野氏の反ばく
 2・3 同胞を食った(夕刊)

アカハタ

△1・14 反ソの幻ふりまく読売
     実在せぬ談話の主
 1・22 娯楽欄
△1・27 〝幻兵団〟のデマをつく
 1・28 〝幻兵団〟参院報告あてはずれ
△2・2 反ソデマをつく内山氏
△2・3 売名と金儲けから〝幻兵団〟の

雑誌『キング』p.104中段 幻兵団の全貌 関係記事掲載紙

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 中段 幻兵団関係記事一覧
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 中段 幻兵団関係記事一覧

データを赤裸々に公表して、鉄のカーテンの奥の奥でさらにまた幻のヴェールにかくされた、〝幻兵団〟の全貌を、健全なる常識の持ち主である読者に解説してみよう。

[註] 都下各紙の〝幻兵団〟関係記事掲載紙日付一覧(いずれも都内版。地方版は同日付または翌日付)

読売

△1・11 〝幻兵団〟第一報(談話、解説)
△1・13 〝幻兵団〟第二報(談話)
△1・18 〝幻兵団〟第三報(脅迫状)
 1・18 スパイを拒んだ男(岩手版)
 1・19 投書〝幻兵団〟(気流欄)
 1・20 小針氏へ激励状殺到(福島版)

雑誌『キング』p.104 幻兵団の全貌 収容所分布図 掲載紙

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 シベリア捕虜収容所地図 幻兵団関係記事一覧
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.104 シベリア捕虜収容所地図 幻兵団関係記事一覧

雑誌『キング』p.103下段 幻兵団の全貌 アカハタの反ばく

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.103 下段

府特別審査局などの関係当局の政府委員を、参議院引揚特別委員会によび、説明を求めるにいたった。

これらの動きに対し、日本共産党機関紙『アカハタ』は、八回ほども連続して大きな紙面をさき、〝ブル新(ブルジョア新聞の略)の反ソデマ〟と反ばくした。こうして読売新聞がスクープした『ソ連抑留日本人のソ連スパイ組織』の問題は、国会にまで持ち込まれる重大問題化するとともに、商業新聞対機関紙の論争をまき起こしたのだった。

問題の焦点は、『ソ連に抑留された日本人が、ソ連の利益のために、在ソ間及び日本帰還後に、諜報行為を働く組織』が有るか、無いか、であって、〝幻兵団〟の有無ではない。読売新聞は、〝幻兵団〟というジャーナリスティックな呼び方をしているが、これはいわゆる〝幻兵団〟であって、〝幻兵団〟と名付けられた組織はないのである。

果たしてそれでは『ソ連スパイ網』があるかどうか。

私はここに『有り』と断言し、アカハタ紙の反ばくぶりを笑うものである。

私は読売新聞社会部記者として、二年半にわたる長期間の調査に、忍耐と努力とを傾けて、この恐るべき事実を握った。今ここに、一切の

雑誌『キング』p.102下段 幻兵団の全貌 はしがき

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 下段 はしがき
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 下段 はしがき

られない、ということ。その二は、報道された内容があまりにもドラマティックなので、もしそのような組織や事実が実在するとすれば、スパイの任命には厳選に厳選を重ねられ、秘密保持のためにより以上慎重な考慮が払われるのが当然であるから、新聞記者などにかぎつけられるはずがあり得ないし、ソ連としてはあんな馬鹿なやり方をするはずがない、ということである。

また一方では、読売新聞が一流紙である以上

雑誌『キング』p.102上・中段 幻兵団の全貌 はしがき

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 上段・中段 はしがき
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.102 上段・中段 はしがき

はしがき

昭和二十五年一月十一日付の読売新聞は『シベリアで魂を売った幻兵団』という大きな横見出しのもとに全面をうずめて、ソ連地区抑留日本人の組織するソ連スパイ網の事実をスクープした。

拳銃、誓約書、合言葉、日本語の美人、賞金。あまりにも道具立ての整いすぎた、探偵小説そのままのようなこの記事に対して、読者の多くはスリラー的な興味を覚えながらも、やはり半信半疑の感があったに違いない。

なぜかといえば、次のような疑問が湧き起こってくるのが当然であろう。その一は、すでに戦争を放棄して自由と平和の国として立ち直りつつある現在の日本に、血なまぐさい国際スパイ団的な秘密組織があり、しかもそれには多数の日本人が参加しておって、もはや〝冷たい戦争〟以上の事実が展開されているということは信じ

新宿慕情 p.022-023 ととやホテルがありととやというバーがあった

新宿慕情022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。
新宿慕情 p.022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。

〝新宿女給〟の発生源

〝シベリア帰り〟で

そして、戦後の、新宿の街との〝かかわり合い〟が始まる……シベリアの捕虜から、生きて東京に帰ってきたのが、昭和二十二年十一月三日だった。

東京駅から、国電に乗り換えて、有楽町駅前の旧報知新聞の社屋にいた、読売に顔を出して新宿駅から、小田急線で、世田谷中原に着いた。

代田八幡神社も焼けずに残っていたし、母親のいる家も無事だった。オフクロは、兄貴夫婦と暮らしていた。そして、私は、その家の二階に、厄介になることになった。

〈適応性〉があるというのか、私は、その日から、原稿を書き出していた。

社に、挨拶に顔を出したら、デスクに、「なにか書くか?」と、いわれて、「ハイ、シベリア印象記でも……」と、答えてきたからだ。

確か、二晩か三晩、徹夜をして書いたようだ。その、これまた長篇になった〝大原稿〟を持って、社に行く時に、初めて、戦後の新宿の街に出た。

いまの中央口の前あたり一帯が、バラック建てのマーケットになっていて、薄汚れた、風情のない街に変わっていた。

大ガードから、西口にかけても、ヤミ市やバラックの飲み屋街ができていた。

安田組、尾津組、関根組だとかのマーケットということで、それぞれの名が冠せられていたが、私は、まったくの異邦人だった。

なにしろ、軍隊と捕虜とで、まるまる四年間も、新宿を留守にしていたし、その間に、街は空襲やら、疎開などを経験していたのだから、当然だろう。

そして、焼跡派だとか、カストリ派だとか、太宰だ、坂口だとか、熱っぽく語られていても、私には、無縁だった。

帰り新参の〝駈け出し〟記者は、続発する事件に追いまくられるばかりで、飲み屋街を渡り歩く、時間も金もなかった。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。

その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 三田和夫

読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」
読売梁山泊の記者たち 腰巻 作家・大下英治「昭和二十年代、読売新聞は社会部全盛時代。そこには強烈な個性を持った名物記者たちが、梁山泊さながらに群れ集っていた。そのひとりの、〝最後の事件記者〟といわれる著者が経験した事件を通して、新聞記者のロマンと哀愁と非情とを語る。読み始めたらやめられない面白さである。」

迎えにきたジープ p.168-169 幻兵団の一切を裏付け証明した

迎えにきたジープ p.168-169 This Kaji-Mitsuhashi spy case occurred in Tokyo, the capital of Japan, an independent country. But this struggle was between the US and Soviet Union. Moreover, the foreigners were forcing Japanese to become spies by threatening them.
迎えにきたジープ p.168-169 This Kaji-Mitsuhashi spy case occurred in Tokyo, the capital of Japan, an independent country. But this struggle was between the US and Soviet Union. Moreover, the foreigners were forcing Japanese to become spies by threatening them.

そして、この事実は元の参謀本部陸地測量部、現在の建設省千葉地理調査所で、正確な日本

地図を作らせて、タウン・プラン・マップと同様の地図を作ったことがあった(と私は思う)ということで裏付されるだろう。日本もまた、シベリヤ、樺太、大陸の各都市と同じように、「ST四三二一、消滅!」といった工合に、精確無比な爆撃を受ける可能性があるということである。

迎えにきたジープ

一 怪自動車の正体

二十五年十一月に発刊された赤沼三郎(政治評論家、花見達二氏のペンネームだと言われている)なる人の「新聞太平記」という著書をみると、戦後の各種事件についての項で、幻兵団の記事をこう取上げている。

ソ連捕虜をめぐる幻兵団事件というのも謎の話題で、未解決のままになっているが、これも読売社会部の三田記者(引揚げ者)の体験から、一群の〝スパイ強制団〟がソ連に居り、また引揚者の中にもいる、という事件であった。しかも、それを裏切ったものには恐ろしい脅迫状が来る、というのだ。

そして脅迫状は読売自身にも舞込んだ。読売はその脅迫状を凸版写しで社会面に掲載した。全く怪奇な

ニュースであるが、これには東京地検の阿部検事正や、自由党政調会の橋本竜伍氏などが、国際的見地からこの話題の拡大と追求は好ましくないというので、各方面をいろいろ奔走していた事実がある。

一面またこの問題をタネに名を売りこんで、参議院選挙に出る仕度をしていた男なども入り交って、幻兵団(魂を売った兵団の意味)事件は、曉に祈る吉村隊事件とは別の意味で近来の変り種であった。

〝謎の話題は未解決のままにはなって〟いたのであったが、二十七年暮、突如として大問題となった鹿地失踪事件が起き、それは一転して三橋スパイ事件に進展、いよいよ世界の耳目を集めたのだったが、三橋スパイ事件こそ、幻兵団の一切を裏付け、証明したものであった。

謎の話題は、恐しい話題となって解決したが、解決しない幾つもの問題が残された。それは、この鹿地・三橋スパイ事件は、独立国日本の首都東京で起き、登場した二人はともに日本人であるのに、この斗いを争っていたものは米ソという外国で、米ソの外国人が脅迫で日本人に強制していたということである。

そしてまた、この搜査に当ったスパイ事件の国警本部と、不法監禁事件の警視庁という、二つの有力な治安当局もまた、ついに真相を究明し得なかったということである。

真相を知っているのは、米ソ両国だけである。幻兵団というナゾの話題は、どうして恐しい話題になったのだろうか。ここで再び序章にのべた〝国際スパイ戦の道具にされた日本人〟佐

々木大尉とキスレンコ中佐との間の、奇しき因縁の物語を想い起してみよう。

最後の事件記者 p.060-061 伊東局長は「NHKになさい」と

最後の事件記者 p.060-061 右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。
最後の事件記者 p.060-061 右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。

新聞がつまらなくなってきた原因の一つにも、こんなことがあるのでは

あるまいか。

話をもとにもどして、私はこうして、一つ家にいながら、口も利かなかった長兄と、やっと仲直りしたのだった。昭和十八年秋のことだ。

新聞かラジオか

だが、読売をとるべきか、NHKをとるべきかで、私は大いに迷った。いろいろと御相談に乗って頂いた朝日の伊東局長などは、「NHKになさい」とすすめて下さった。今にして思えば、実に将来を見通されていたお言葉だったのであるが、私はついに読売をえらんでしまったのである。

その第一の理由は、すでに徴兵検査を受けており、何時召集されるかわからないし、召集されたなら、生きて再び社へ帰ってくることは期待薄だったのである。私は考えた。

『戦死ならば良い。しかし、負傷だけで帰ってきたらどうしよう』と。

私は少年時代からギッチョになり、字も左右両方で書けるのである。右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。そう思ったのだ。

それと、もう一つの理由。それは、新聞とラジオとの、本質的な問題を、私は、もっと雰囲気を出して、ロマンチックに考えていたのだった。

今、官庁をはじめ、どこの記者クラブにも、新聞記者とラジオ記者とが同居している。この間の、皇太子妃の決定発表でも、新聞とラジオとがウマク協定したからよかったが、新聞とラジオとは本質的な違いがある。ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。

ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。もちろん、携帯ラジオで、自分の原稿の行方を確かめている記者の姿を、私はまだ一度もみたことがない。

ラジオ記者は、よくそれで不安も悩みも、ましてやよろこびも感じないで、生きていられるものだと、感嘆する。新聞記者の場合は全く違う。一字一句をおろそかにしないで原稿を書く。テニオハ一つでも、意味が変ってくるからだ。 ゲラになってから、何段でどんな見出しがついて、どんな扱いになっているかを、また見なければならない。もし、扱い方や見出しが内容と違っていれば、次の版ですぐ直さねばならない。

最後の事件記者 p.228-229 ラジオ東京報道部員の真島夫人

最後の事件記者 p.228-229 記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。
最後の事件記者 p.228-229 記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ。」

と、圧倒的なホメ方である。

これが十三日付夕刊の批評で、十四日朝刊は、「朝毎とも三橋の自供内容は、本紙の昨夕刊特報のものを、断片的に追い出してはいる」とのべ、さらに夕刊では、「昨夕刊やこの日の朝刊で、朝毎が本紙十三日夕刊の記事をほとんどそのまま追い、本紙もまたこの夕刊で、現在までに取調べで明らかになった点、として改めて本紙既報のスクープを確認している。こうして三橋がアメリカに利用されている逆スパイであることが、確認されてみると、十三日夕刊の特ダネは、大スクープであったことが裏付けされたわけで、特賞ものである」と、手放しである。

十五日には「朝毎は相変らず、本紙十三日夕刊の記事を裏付ける材料ばかりだ」、十六日になると、「本紙は今日もまた三橋関係で、第二の三橋正雄登場と、二度目の大ヒットを放ち、第一の三橋が紙面ではまだハッキリと固まらず、何かモヤモヤを感じさせている際であるから、この特報はまたまた非常に注目された。本紙のこの特報で、いよいよナゾが深まり、問題はますますスリルと興味のあるものとなった」十八日には「三橋の第一の家は本紙の独自もので、大小にかかわらず三橋問題は、本紙がほとんど独走の形であるのは称賛に値する」と、私の独走ぶりを、完全に認めてくれている。

古ハガキ紛失事件

年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

その日のひるころ、今のそごうのところにあった診療所へ寄って、外へ出てきたところを、バッタリとラジオ東京報道部員の、真島夫人に出会った。彼女は時事新報の政治部記者だったが、読売の社会部真島記者と、国会で顔を合せているうちに〝白亜の恋〟に結ばれて結婚、KRに入社した人だった。

ヤァというわけで、喫茶店に入ってダべっているうちに、フト、彼女が国警から放送依頼があったということを話した。都本部の仙洞田刑事部長が、何かの紛失モノを探すための放送依頼を、直々に頼みにきたという。

なんということのない座談の一つであったけれども、私には刑事部長が自身できたという点がピンときた。放送依頼などというのは、やはり捜査主任の仕事である。警察官としての判断によ れば、主任クラスが行ったのでは、放送局が軽くみるのではないか、やはり部長が頼みに行くべきだ、とみたのであろうが、それは、ゼヒ放送してほしいという客観情勢、つまり大事件だということである。

最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

最後の事件記者 p.288-289 しかも全くのデタラメである

最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。
最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。

『読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売にはいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地

方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……』

『仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか』

『読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の降盛を築きあげてきたのだと想像されます』

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招侍してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

『ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね』

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

『誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のこと

じゃないか』

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから、その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。

p55上 わが名は「悪徳記者」 人を信じる信念

p55上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の部隊はシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。

私は答えた。『棒に振った? グレン隊と心中した? 飛んでもない! オレは棒に振ったり、心中したなんて思ってみたこともないよ』と。

私は自分の仕事に責任を持ったのである。私とて、大好きな読売新聞を、こんな形で去りたいと願ったことはない。もちろん、胸は張り裂けんばかりに口惜しいし、残念である。

人を信じるという信念

昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活の中から、人を信ずるという信念が私に生れてきた。今度の事件で、全く何の関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏はこの地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴れい労働を乗り切ったのである。

細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥ねいの坑床、肩で押し出す一トン積の炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件の中で、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できる訳はなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一ぱいしか与えられない土牢である。こんな環境から生れた、人間の相互信頼の気持である。

p66上 わが名は「悪徳記者」 「横井事件犯人の小笠原に逢えそうです」

p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。
p66上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

あずかってもらっただけだ。

三日にはじめてあい、四日に別れたあと、私は読売という組織の中にある新聞記者として、十分な措置をとっている。従って、七月三、四日両日の行動は、新聞記者の正当な取材活動としての埓は越えていないし、警視庁当局でもこの点は「取材活動」として認めてくれている。

というのは、四日に別れた時の小笠原との約束は、「今度連絡してくる時は、三田記者の手を通じて自首する」ことであった。そこで私は五日か六日ごろ、社会部長に対して、

『横井事件の犯人である小笠原という男に逢えそうです』と、報告した。金久保部長は、

『小笠原ッて、どんな奴か』ときいた。

『はじめは、横井を狙撃した直接下手人と思われていたけど、のちにこれは千葉という小笠原と瓜二つに顔の似た男に訂正されました。しかし、安藤組の幹部だというし、殺人未遂犯人ですから、逮捕前の会見記は書けるでしょう』

私の説明に、何故か部長はあまり気のない返事で、「フーン」といったきりだった。そして席を立ちながら、『だけどあまり深入りするなよ』と注意を与えたのである。

わが事敗れたり

二十日の日曜日は私の公休日だ。家で芝居のためのガリ版刷りなどをしていると、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が月曜日の朝、通産省をガサって、課長クラスを逮捕するが、原稿を書こうか」といってきた。

新宿慕情22-23 〝新宿女給〟の発生源 シベリア帰りで

シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。
シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。

新宿慕情98-99 おかまの松喜鮨

98-99そして、裏側には、こういう文字が彫ってある。TO K.MITA FROM M.MUTAI 45.7.21 読売の務台社長が、正力サンの急逝のあとを受けて、副社長から社長に就かれ、その披露パーティーのあった直後~
新宿慕情98-99 そして、裏側には、こういう文字が彫ってある。TO K.MITA FROM M.MUTAI 45.7.21 読売の務台社長が、正力サンの急逝のあとを受けて、副社長から社長に就かれ、その披露パーティーのあった直後~

新宿慕情116-117 NTV小林与三次社長を特訓

新宿慕情116-117 正力家の娘婿であり、内務官僚として、エリートコースを進んでいった小林さんには、たいへんな〝初体験〟であったらしい。
新宿慕情116-117 正力家の娘婿であり、内務官僚として、エリートコースを進んでいった小林さんには、たいへんな〝初体験〟であったらしい。

新宿慕情118-119 シロシロはレズビアン・ショー

新宿慕情118-119 路地ウラの旅館の一室で、陰微な感じで、十名足らずの客が、フトンのまわりをグルリと取りまいて、息を詰めて凝視するなかで、濃厚に演じられていた…
新宿慕情118-119 路地ウラの旅館の一室で、陰微な感じで、十名足らずの客が、フトンのまわりをグルリと取りまいて、息を詰めて凝視するなかで、濃厚に演じられていた…

新宿慕情146-147 ダリヤ姐さんの消息は…

新宿慕情146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。
新宿慕情146-147 八月十四日の夜。満州は新京郊外で、私たちの部隊は、有力なるソ連戦車集団の来襲を待って、タコツボに身を潜めていた。――いよいよ、戦死だナ……。