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読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

読売梁山泊の記者たち p.038-039 あの一見〝文弱の徒・風〟

読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。
読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

社の角が正面玄関で、その濠には、有楽町駅に通じる橋が架かっていた。有名な数奇屋橋の次の橋である。

もう、正午近くのことだった、と思う。

その橋を、銀座に向かって、一人の男が、さっそうと歩いてくるのが、目に止まったのだ。長身に、背広をシックに着こなして、ソフトを、ややアミダに冠り、横ビンには、白髪のまじった髪が見えた。(まだ、ロマンスグレイという言葉が、無かったのではないだろうか…)

それこそ、その男のフンイキは、〝文化〟そのものであった。

——何者だろう?

私が、男の行方を見つめていたら、読売の玄関に入っていったのである。だが、私にはその男が、読売の社員とは思えなかった。何しろ、社の情景は、冒頭にのべたようなありさまだったからだ。

その男が、文化部長だった。井上、石上両嬢の言葉に対し、私の返事に、「フーン…」とあるのは、その意外性への反応である。

それが私と原四郎との出会いであった。が、当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。だから、彼が、社会部長として、私の上司になろうとは思ってもみなかった。

それよりも、社内の若い女の子の、〝憧れの的〟と知って、なおさら、「文弱の徒」という印象を抱いたものである。やはり、新聞記者は事件であり、〝金と酒と女〟とが、取材の対象だ、と信じこんでいた。

こうして私は、はじめて、原四郎・文化部長を知った。いや、知ったなどと、大きなことはいえない。私が、あの〝文化〟そのもののような男が原四郎だ、ということを知っただけである。

政治部の初年兵は、本会議取材が第一歩だが、社会部の国会担当は、社会面に関係のある政治現象を追う。だから、中曽根記者会見の際、「社会部記者はお断わり」となったのは、社会部記者は、日頃の付き合いがないから、情に流されずに、バラリ・ズンと、斬って落とすからである。

そして、その時期に、原四郎が社会部長になってきたのである。竹内四郎の処遇のため企画調査局というのを新設して、その局長に出たあとの、後任であった。

社会部長になった原と、私は、はじめて口を利き、その人となりを知るに及んで、驚いた。

とても、とても、〝文弱の徒〟ではなかったのである。剛腹一本槍だった竹内に比べると、まさに、〈新聞記者〉そのものだった。

あの一見〝文弱の徒・風〟(いまは、あまり使われなくなった言葉だが、当時の、新聞記事の独特のスタイルで、〝一見……風〟というのがあった。米占領軍の兵士の犯罪をそれとなく表現する必要から、生まれた)と見えながら、舌を捲くほどの、部下の使い方であった。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

読売梁山泊の記者たち p.040-041 日銀が上野署に摘発された

読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。
読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

「梁山泊」さながらの竹内社会部

竹内四郎は、私の先輩、府立五中の第一回卒業生。大正十三年三月に卒業、慶大に進んでいる。そして、私の初めての結婚の、頼まれ仲人でもあった。

この竹内も、私の〝記者形成〟に、大きなインパクトを与えている。

上野署のサツ廻り時代の、二十三年五月ごろのこと。銀座から、日本橋署をまわって、上野署の玄関にきたのは、もう、正午近いころだった。

フト、気付くと、ピカピカに磨かれた乗用車が二台、玄関前の広場に停まっている。上野署といえば、ヤミ米の運び屋と、パン助、オカマ、浮浪者しか、出入りしない時代だから、それは、異様な光景であった。

やがて、警察担当の通信主任から、次長となり、連載もの専門のデスクとして、「昭和史の天皇」など、多くの名作を遺して逝った辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。

「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

——ナゼ、あんな高級車が、停まっているンだ?

私は、玄関を入りかけたが、戻ってきて、運転手に話しかけた。

「いい車だネ。こんな高級車に乗れる人は、キット、重役サンだネ」

「イエ、輸送課長サンです」「どこの?」

「日銀です」

日銀の輸送課長が、二台できている。部下か、関係者を連れてきている。ナゼだ?

私は、署長室の入口のガラス戸を、背伸びして覗いたが、客はいない。すぐデカ部屋 (刑事課)へ。ここにもいない。二階の経済係へ行くと、居た、居た!  部屋いっぱいに、カツギ屋の代わりに、背広姿がいる。

ガラス戸をあけて、室内に入ろうとすると「ブン屋サン。調べ中だから、ダメだよ」と追い出された。トイレの入り口付近で待つうちに、メングレ(面識のある人、顔馴染み)の刑事がきた。

すれ違いざまに、「駅警備!」と、短く一言。私は上野駅へ走った。

若い制服のお巡りサン、湯沢さんといったが、まだ、興奮さめやらずで、話をしてくれた。すぐ、公衆電話で、社へ一報を入れる。

「日銀の新潟支店が、本店の上司に、現送箱(現金を入れた木箱。警官が警乗する)に米を入れて送り、上野署に摘発されたンです。すぐ、写真(カメラマン)をください!」

話はこれからである。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

読売梁山泊の記者たち p.042-043 〝一見五万円風〟の札束を

読売梁山泊の記者たち p.042-043 「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」またまた、みんな笑った。
読売梁山泊の記者たち p.042-043 「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」またまた、みんな笑った。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

ところが、パラパラと、米粒が落ちるのを見咎めて、箱をあけて、中味を見せろと要求した。日銀側は、「こんなところで開けたら危険だ」と拒む。彼は、トラックに便乗して日銀本店まで行き、蓋を開かせ、米の入った現送箱を見つけ、上野署に逆戻りさせた。

カメラマンが駈けつけ、現送箱から米を取り出している写真を撮影した。読売の特ダネである。どうせ、夕刊はないのだから、朝刊では、各社共通になろうが、写真は読売だけだ。撮影を見守っていた私に、輸送課長が、耳許でささやいた。

「これには、いろいろと事情がございまして、これから少々お時間を頂ければ、別席にてご説明申しあげたいのですが…」

私だって、バカじゃない。〝別席にて、ご説明したい〟という言葉は、〝記事にするのはゴ勘弁願いたい〟ということだ。

まだ、行ったことのない、高級料亭。まだ、喰べたことのない、料理の数々。そして、艶やかな芸妓、酒、現金…、思わず、ツバを呑みこまざるを得ない、〈誘惑〉であった。走馬灯のように、という表現では、スピードに欠ける。映画のフラッシュ・バックのように、パッ、パッ、パッと、〈誘惑〉の中身が、私のマブタの裏に、閃いた…。

私の記者生活での、初めての経験。だが、閃きが終わった時、私は、もう「読売記者」に立ち戻っていた。

「残念ながら、ご期待にはそえません」

第一、本社に、すでに第一報をいれ、カメラマンまで呼び、どうして、私だけの〝胸先三寸〟で処理できようか。

社に上がってゆく(帰社することを上がるという)と、先輩の遊軍、窪美万寿夫(ジャワ支局員だった)が、私をつかまえて、笑った。

「日銀本店に、談話を取りにいったら、百円札で、〝一見五万円風〟の札束を、握らされそうになったヨ。オレが、サツ廻りで、第一発見者だったら、ホイ、ホイなのに。なにしろ、遊軍で、デスクにいいつけられて、談話取材なんだから、相手がいませんでした、と帰ってきても、記事は出てしまうし、なあ」

「イヤ、現場でだって、輸送課長に、別席でご説明を、といわれたんですよ。一報を入れる前に、そういわれりゃ、いまごろは、〝酒池肉林〟ですよ」

まわりのみんなも、大爆笑であった。そこに、竹内部長が寄ってきた。あの厳しい顔の眼尻に、笑うとシワが寄って、可愛い顔になる。

「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」

またまた、みんな笑った。笑いの静まるのを待って、竹内は、真顔に立ち戻って、こういったのであった。

読売梁山泊の記者たち p.044-045 英雄豪傑気取りの野心家たち

読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」
読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

またまた、みんな笑った。笑いの静まるのを待って、竹内は、真顔に立ち戻って、こういったのであった。

「いいか、新聞記者には、記事にからんで、誘惑は多い。しかし、小銭には、手を出すなよ。小銭を出す奴は、小銭に見合う、小悪事 (こあくじ) なんだ。だから、口も軽い。必ず、『アノ記者は、オレが飼っているンだ』と、しゃべる。その話が、社に入れば、当然クビだ。合わない話よ。

金を取って、記事をツブす。あるいは、ウソを書く。こりゃ、汚職だ。自分の仕事を、辱めるものだ。だから、大銭(おおぜに)で、社をクビになっても、引き合うなら、金を取ってもいいゾ。大銭を出す奴は、大悪事だから、絶対にしゃべらん。社にバレる前に辞めればいい」

竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。
「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

昭和二十三年当時、のちに、三和銀行の頭取、会長にと進む、渡辺忠雄が、まだ、日銀の文書局長だったころ、だと記憶する。

もしも、私があの時、日銀輸送課長の<小銭の誘惑>に負けていたら、のちに、報告を受けた、渡辺文書局長は、「読売三田記者」を軽蔑して、のちのち、正論新聞の応援は、してくれなかったことだろう。

四十年も前の時代には、「痛む良心」を持った男たちばかりの時代だったのである。

リクルート疑獄などを見ていると、政治家も、官僚も、まして、NTTの真藤を見て、どうして、〝小銭〟のワイロを取るのか。藤波代議士など、どうして、家の資金に〝小銭〟を取るのか。<良心>

などは、どっかに捨ててしまっていたのだと、竹内社会部長の、この言葉を思い出す。

私は、私の初の署名記事「シベリア印象記」を見て、同じ部隊の兄を探して、社にたずねてきた女性が、同期生の妹だと知って、結婚を決意した。

竹内に仲人を頼み、逗子のお宅に、奥様に挨拶に行った。剛腹な竹内らしい、明るいさばけた夫人だった。家庭での竹内には、社では見られない、人間への愛情に満ちた、包容力の大きさを示す、別の顔があった。

口数が少く、どちらかといえば、部下のデスク、ことに、筆頭次長の森村正平に、すべてをまかせ、部長として、デンと安定感のある竹内には、社内では、〝無能の竹〟という悪口も聞かれた。

いま、当時の名簿を見ると、五人の次長、三人の主任以下、三十三人の先輩が、私の前に並んでいて、その名をひとり、ひとり、読んでゆくと、いずれも、英雄豪傑気取りの野心家たちばかりである。

出張すれば、女郎屋に泊まって、そこから取材に歩き、日本テレビの創業時に、保善経済会の伊藤斗福に四億円を出資させた、遠藤美佐雄。彼は、のちに、社を追われて、森脇文庫から、「大人になれない事件記者」という単行本を出して、日本テレビ創業のウラ話を書いた。

この本は、私の手許に一冊残っているが、森脇と読売との間で和解し、本はすべて断裁されたことになっている。彼は、世田谷の大原に住んでいたが、「この家は、児玉(誉士夫)にもらったんだ」と、こともな気にいい放つ。

読売梁山泊の記者たち p.046-047 新聞休刊日で、全舷上陸

読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。
読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

読売争議で、活字台を守り通した、青年行動隊長の鹿子田耕三。いまでも、朝日紙の投書「声」欄で、その名前を見かける、青木昆陽こと(徳川吉宗時代の儒者で、サツマイモの権威)、青木慶一。皇室専門の小野天皇こと小野昇。山本五十六の国葬記事で、全国民を泣かせたという〝伝説〟の主、マコちゃんこと羽中田誠。〝読売三汚な〟のひとりといわれ、宿直室に住みこみ、異臭をただよわせるタローさんこと安藤太郎は、箱根の旅館の息子で、慶大卒。酒とバクチで、原稿を書く姿を見たことがない、といわれる。

書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

五月五日は、年に一回の新聞休刊日で、全舷上陸と称して、社会部全員が一泊旅行で、近くの温泉に行く。クラブ詰め記者、サツ廻り記者、遊軍記者と、三大別される八十名だから、顔を合わせたことのない人もいる。それを、一堂に会させるのが、目的なのだ。

私も、のちに、親しく兄事させてもらったのだが、同じ国会遊軍の井野康彦は、園田直と松谷天光光の〝恋愛〟をスクープしたが、酒癖の悪さに定評があった。

初めは、愉しく呑み出す。中ごろから、相手のために悲憤慷慨してくれる。そのあとはケンカを売り出す——このパターンが理解できるまで、何度泣かされたことか。

バスの三、四台を連ねて、社を出発する。そこから、呑み出すのだから、旅館に着いたら、もう泥酔がいる。

遊軍長という、最古参記者が、幹事長。その下に、宴会、バクチ(麻雀とオイチョカブの設営)、酒、ケンカの四幹事がいる。最後のケンカの幹事というのは、宴会が乱れてくると、ケンカが始まる。その双方を見ながら「あれは、もう少しやらせておけ」「あれはケガ人が出るから止めろ」と、若い連中を指揮するのだ。日頃から、部内の人間関係に通じていなければ、この役は勤まらないし、自分も腕っぷしが、強くなければならない。

それを、毎回勤めるのが、冒頭に紹介した井形忠夫である。戦前の名簿を見ると、彼は文化部にいたので、驚いたものである。ケンカとバクチは、日常茶飯事であった。

竹内は、そんな一泊旅行に、堂々と愛人を同伴してきた。築地の芸者であった。宴会にこそ出なかったが、座が乱れるころには、竹内は退席してしまう。

親分肌の竹内の、面倒見の良さは、報知の社長になるや、病気でペンを持てなくなっていた(腕の病気か?)、文化部長のあと、休職していた森村正平を、報知の編集局長に迎えている。

だから、竹内の「バカヤロー!」という、大喝一声は、それなりに、社会部の秩序を保ち、部員たちの才能を、それなりに伸ばしてきていた。まさに、社会部は、〝梁山泊〟さながらの様子だった。それが、同時に、やがて、原四郎の時代に、「社会部は読売」として開花する伝統の基礎作りに、役立ったのである。

読売梁山泊の記者たち p.048-049 こういうのを「号外落ち」という

読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。
読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々

竹内四郎社会部長の、「バカヤローッ!」という大喝を浴びた記憶が、私にも生々しく残っている。

昭和二十四年四月四日、政府は、団体等規制令を、公布、即日施行とした。そして、九月八日、この団規令によって、在日本朝鮮人連盟(朝連)など、朝鮮人関係四団体の解散を指定したのであった。

前年の二十三年秋から、司法記者クラブに移っていた私は、もっぱら、帝銀事件の平沢貞通の公判を担当していた。

政治部の法務記者クラブでは、法務庁そのものの担当で、三品鼎がいた。社会部は、裁判所と検察庁を受け持ち、司法記者クラブといった。

竹内の子分をもって任じていた、警察記者のボス、はんにゃこと稲垣武雄がキャップ。その下に、井浦浩一、立松和博、萩原福三と私がいた。井浦は、社歴が一、二年古いのでバイス・キャップと自称して、私たち三人との折り合いが悪かった。

と、そこに、朝連解散である。翌九日付の記事の書き出しが、「政府は八日午前十一時…」とある。多分、十一時半ごろには、記者クラブで発表された、だろう。読売だけは記者がだれも出ていない。

夕刊がなくとも、号外はある。街々に、号外の鈴の音が響き渡るころ、萩原あたりが、あわてて、原稿を社に送る。朝日、毎日の号外が、有楽町界隈に貼り出されている、というのに、読売だけは、いま、送稿中だ。

こういうのを、「号外落ち」という。発表モノでなくとも、大きな事件などで、一社だけ、記事が出ていないのは、「特落ち」である。新聞社は、できて当たり前、できねばボロクソの、優勝劣敗、適者生存の原則に厳しい。

原稿を送り終わって間もなく、手まわし直通電話が、チリチリリと鳴って、「稲公! すぐ社に上がってこい!」と、竹内部長の怒鳴り声が響いた。

ユーウツな数時間が過ぎて、夕方ともなれば、どうしても、社に上がらざるを得ない。私たち三人は、屠所にひかれる羊のように、先を譲り合いながら、編集局の入り口に立った時だった。

「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

三人とも、顔色を失って、この大音声に引き寄せられるように、部長席の傍らに、首うなだれて、立ち並んだ。竹内は、ジロリ、ジロリと、三人の顔をニラミつけただけで、一声も発しないのだ。

長い、長い沈黙がつづいた。あとで気がつくと五、六分間ぐらいだったが、それこそ小一時間にも感じた〝時間〟だった。

「オイ、もう、いいぞ。こっちへ来い」

般若の稲ちゃんの顔が、菩薩さまに見えた感じがした——竹内は、もはや、小言のひとつもいわなかった。三人は、稲ちゃんに連れられて、付近の喫茶店に入って、我に返ったのだった。

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内は〝慶応ボーイ〟でありながら

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった
読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった

竹内は、いうなれば〝慶応ボーイ〟でありながら、古いプロレスラーのグレート東郷を、二まわりも、三まわりも大きくしたような、頑丈な短躯に猪首で、四角い顔が乗っていた。

だが、竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復し、レッド・パージの動揺、正力松太郎の巣鴨プリズンの収容などといった、大事件を無事乗り切っていったからである。

塚原正直は、ガダルカナル島から帰ってきて、入社早々の私たちに、チョロッと動いた小さなトカゲの一匹に、四、五人の兵隊が飛びつく〝飢え〟を語ってくれた。

辻本芳雄は、マニラの敗走について、修羅場を経てきた〝人間〟のありようを、教えてくれた。

それらの話の、いずれもが、軍の言論統制に対する、<新聞記者>としての、やり場のない憤りであった。

それにつづいての、今度は、占領軍の言論統制が、検閲制度である。真実が書けない、真実が語れない、その苦しさが、戦後の新聞記者たちを、〝エンピツやくざ〟へと、追いこんでいった。

警視庁記者クラブばかりか、裁判所の中の記者クラブでも、麻雀、花札のバクチが、大っぴらに行われていた。

警視庁の経済課長が、毎日の警視庁詰めキャップと組んで、砂糖のヤミをやった。ヤミ砂糖を押収したのに、それを横流ししたのである。

街では、「第三国人」と呼ばれた、朝鮮人や台湾人が、団結してヤミ経済を支配し、また暴力事件を続発させていた。さらに、武力革命を目指した共産党は、〝血のメーデー〟事件を皇居前広場に演出したし、〝新宿火焰ビン広場事件〟もまた、血なま臭いものであった。

そして、多くの記者たちが、絶望したり、転向したりして、その名を、社員名簿から消していった。その時期の社会部長が、竹内四郎だったのである。

そして、朝連解散の号外落ちの責任で、私は、本社の遊軍勤務に異動させられる。復職以来、遊軍半年、サツ廻り半年、司法クラブ一年と、すでに二年も経過して、私は、第一線記者として、バリバリ仕事をしていた。

そして、二十四年十月になると、本社遊軍兼国会遊軍という、恵まれた待遇(というのは、時間も勤務もまったく自由)になって、酒癖の悪い井野康彦のアシスタントを勤める。

この国会遊軍のおかげで、私は、政治の世界に興味を持ちはじめる。社内でも、政治部、経済部へとカオが広くなってきた。

この時期の、忘れられない人物が、政治部のデスクだった筒井康である。歴史に有名な「洞ヶ峠の順慶」という、安土桃山時代の武将の裔である。日本歴史大辞典によれば、筒井順慶は、謡曲、茶の湯にすぐれ、教養豊か、とあるが、筒井デスクもそんな感じで、私を可愛がってくれた。

戸川猪佐武などは、筒井デスクのまわりをウロチョロしている存在だった。筒井は、のちに佐藤栄作のブレーンのひとりになって社を辞め、早逝した。

読売梁山泊の記者たち p.052-053 エモノは参院議員だった

読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。
読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

このころ、住宅事情はもちろんのこと、ホテルとて十分ではなかったので、国税で賄われていた議員会館(現在のようなビルではなく、木造モルタル二階建て)を温泉マークの代用にして、〝女を連れこむ秘書〟がいるようだ、という噂を耳にした。

早速、私の張りこみがはじまった——かかったエモノは、参院議員だった。流行の、肩の張ったギャバジンのコートの、水商売風の女性を連れて、裏口から会館に入ろうとして、衛視に咎められたのだ。

もちろん、深夜である。女を待たせて、正面玄関へ、威張りくさった態度で、抗議をしようとした男は、植えこみから立ち上がったカメラマンに仰天した。

駈け戻って、女の手を引き、三宅坂方向へ逃げ出す。編集局自動車部員は、鷺谷栄一。事件の時は、心強い味方だ。運転手といえども、先輩だから、敬語を使わねばならない。写真部は今井靖男、なかなかの〝職人〟だった。

そのころの自動車部員は、やはり、サムライが多かった。事件現場などでは、駈け出しの記者に、顔写真取り(被害者の顔写真を探す)の注意を与えたり、社への連絡電話の確保とか、編集局所属だけに、経験からの忠告ができるのだ。

写真の今井は、いま時のカメラマンのように、やたらと、バチバチ、シャッターを押さない。もちろん、機材も違って、スピグラ(スピード・グラフィック)というカメラ。今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。だから、現場につくと、ただ一発のフラッシュガンを片手に握り、点火を確

実にするため、差し込み部分をナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンがひしめきつづけるのを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

今井と私が、車に飛びこんで、「鷺ちゃん、あの二人を追ってくれ」と、叫ぶ。車が急発進して、いまだに、手に手を取り合って走る二人を見つけた。

「二人に追いついたら、急カーブを切って、前に出てくれ。その時に、撮るから」

今井の言葉に、鷺谷がうなずく。三宅坂近くで、追い抜きざま、車窓からフラッシュが閃いた。

そのころの車には、暖房がない。七輪に炭火を入れて、張りこみの暖をとるのだが、急カーブに、七輪がころげて、車内に炭火が散乱する。私は、あわてて、それを拾う。

「どうだい?」「ウン、パツイチさ」

車を再び、参議院会館に戻して、私は、衛視室に入り、「さっきの先生は誰?」と、身許しらべだ。写真は、車で社へ帰す。今井が自信があるというから、安心だ。

社に上がって、写真部に行くと、暗室には、もう、走っている二人のポジが、ブラ下がっていた。

「明朝、キッと自民党のエライさんが、モミ消しにくるから、夕刊の一版から入れよう。オレも、これから原稿を書いてしまうよ」

そして、早版から社会面のトップに、「噂の議員会館・門限後潜入記、流行オーバーの女、深夜の訪問、男にかばわれて遁走」と、二人の顔が、バッチリ写った写真入りの記事が飾られた。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

読売梁山泊の記者たち p.054-055 越野賢二はもと社会部警視庁キャップ

読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。
読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

写真部長の三輪大三、自動車部長の越野賢二——ともに、強烈な個性の持ち主だった。社会部と写真部、自動車部は、三位一体で動く運命共同体のような関係だった。

その点、政治部や経済部は、車を、単なる足としてしか考えない。写真部も、必要な時にしか、同行しない。同行するよりも、予定を申しこんで、会見などの時に呼ぶ、といった関係だ。

だから、〝事件の社会部〟には、ヒラでもA級のカメラマンを出し、社員の運転手をつける。いずれも、取材のパートナーなのだ。従って、出てきた結果は、成否、いずれにせよ、共同責任である。

厳本メリーが、ストラデバリウスを盗まれたことがあった。そのニュースに、厳本家に出かけた記者とカメラマンは、彼女が外出中で、帰宅の時間が不明というので、「せっかくの特ダネなのに…」と、困惑した。

その様子を見た妹さんが、「私は、姉にソックリといわれてます。横顔なら、姉の身代わりができますわ」と、好意の申し出をしたものである。

〝嘆きの厳本メリーさん〟という、写真つきの記事が大きく掲載された——と、朝刊が出て間もなく、

読者から、「アレは妹だ」という指摘があって、問題は表面化した。

カメラマン、記者ともに処分された。記憶は定かではないが、罰俸だったと思う。その辞令を見ながら、私たちは、ニセモノと承知で写真を撮ったカメラマンは、当然、処分されるべきだが、ナゼ、記者も処分されるのかと、カンカンガクガクの議論をしていた。

写真部長の〝大三親分〟(彼は、これまた小兵ながら、その鼻ッ柱の強さで、こう呼ばれていた)が、社会部の遊軍席に寄ってきて「当たり前だ。写真部が、間違いを犯す時に事情を知っていて、止めさせないのだから、共同正犯サ」と、社会部と写真部のつながりの強さを教えてくれた。

この大三親分と、社会部の次席次長の大木正とが、夜の編集局で、大ゲンカをしているのを、目撃したことがある。電話器を投げつけ、椅子を振り上げ、取っ組み合ったところで、止めが入ったのだが、チンピラ記者の私などは、呆然と立ちすくんでいたのだった。

自動車部長の越野賢二は、もと社会部警視庁キャップであった。昭和十八年の名簿を見ると、航空部の筆頭部員として名前がある。その後、社会部へ移ったのだろうか。昭和二十三年の名簿では、すでに自動車部長である。

帝銀事件が起き、被害者の司法解剖が、東大法医学教室であるというので、その取材をデスクに命じられて、私は、自動車伝票を持って、自動車部に行った。部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

読売梁山泊の記者たち p.056-057 雨の日のサイドカーという教訓

読売梁山泊の記者たち p.056-057 「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。
読売梁山泊の記者たち p.056-057 「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。

「東大? 何しに行くんだ?」

部長席の男が、口をはさんだ。前述したように、社会部では、部長が不在なら、ヒラでも部長席に座って、机上に足を投げだすようなフンイキである。

その〝キザなジジイ〟が、部長とは知らずに、法医解剖なんて分かりゃしないサ、と思いながらも、横柄な口の利き方や、年齢が上のことも考えて、私は、「被害者が東大と慶大の法医で、司法解剖に付されるンです」と、やや、ブッキラボーに答えた。

「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。社員の運転手たちが、オシャベリをして、大勢、待機中だというのに、男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。

その日は、雨降りだった——オートバイの運転手は、ゴムの合羽の完全武装だが、私はサイドカーの座席で、コーモリ傘をすぼめてビショ濡れであった。

「あの人、部長なの?」「エエ」

「ナールホド、あれが、コシケン(越賢)なのか」

「あのネ、自動車にきて、部長がいる時は、キチンと挨拶しないと、こうして〝反動〟取られるョ」

この、雨の日のサイドカー、という教訓は、私にとって、「オレは新聞記者だ」という思い上がりを、ペチャンコにしてくれた。これ以来、私は〈外柔内剛〉の記者魂を、植えつけられたと思う。

それ以来、私はコシケンを認めると、「部長! 下山事件(下山国鉄総裁が行方不明となり、轢殺死

体で発見された)は、どうでしょうか」「ウン、あれは他殺さ」「やっぱりそうですか」と、警視庁記者OBに、必ず敬意を払う。たちまち、私は〝コシケンズ・ペット〟になって、いつも、いい車に、いい運転手をつけてもらう。

多分、昭和二十年代後半、のことだったろう。編集局長名で、政治、経済、社会の三部の、各記者の自動車使用状況と、提稿本数の調査があった。そして、自動車料金をハイヤー料金に換算した。

トップは、経済部から政治部へ移った、広田豪佐という、名前の通りの〝豪傑〟で、どこかの家に入ったら、五時間、十時間ぐらい待たせるのは、平気の平左。しかも、原稿はほとんど書かない、という人物であった。この人も、早逝してしまった。

私も、社会部では、自動車の使用時間は、ベスト3に入るくらいだったが、部長のコシケンはもちろん、配車係からも、運転手自身からも、文句のひとつも出たことはない。

帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋

話をもとに戻して、サイドカーで東大に着いた私は、かねて、話を通してあった、東大法医学教室のM助手の手引きで、司法解剖の現場に入ることができた。

関係からいえば、私の従兄にあたるのだが、法医の大先達の三田定則と、その一番弟子で私の義兄になる、上野正吉北大教授の名前で、M助手は便宜を図ってくれたのだった。

十六歳、二十二歳、二十八歳という、女性の肉体の大きな変化の時期に当たる、三体が同時に執刀 された。執刀医と助手の記録係とがいる。着衣を脱がされて、全裸になる。

読売梁山泊の記者たち p.058-059 三体が同時に解剖されている

読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された
読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された

十六歳、二十二歳、二十八歳という、女性の肉体の大きな変化の時期に当たる、三体が同時に執刀

された。執刀医と助手の記録係とがいる。着衣を脱がされて、全裸になる。

青酸カリによる死亡だから、苦悶の姿のまま、硬直している。執刀医が、全身を調べて「外傷ナシ」というと、記録係が、「外傷ナシ」と復唱して、記入する。

次は、ガラス棒を膣内に入れて、検体を採る。外陰部も調べ、検体をプレパラートにのせて、顕微鏡を覗く。精液が認められない。

「暴行ノ形跡ナシ」

次は、髪を前半分、顔面におろして、耳から耳へ、頭皮を切り、髪を引ッ張ると、頭皮はスルスルとめくれる。後半分も、同じようにおろすと、頭蓋骨が出る。

耳の上の部分、両側にノコで切れ目を入れて、ポンポンと軽く叩くと、頭骨が上半分脱れて、脳が露出する。それを、全部取り出してから、また、頭骨をあてがい、アゴのあたりの髪を軽くもどすと、スルスルと戻っていって、顔が見える。頭皮を縫合して、髪をすくと、元通りになる。

ノド仏のあたりから、真直ぐ、胸、腹、ヘソをクルリと避けて、大陰唇の縫合部あたりまで、メスで、まず、皮膚を切る。

皮膚、脂肪、筋肉と、メスを換えながら切開する。胸骨も、バリバリと切る。と、ドテラをはだけたように、内臓が露出する。肺や胃や、子宮などを摘出して、中身を調べる。

内臓を取り出したあと、然るべきものを詰めてから、縫合する。タタミ針のような針で大ざっぱに縫う。血が若干、白い肌に付着している。それを、当時、東大法医学教室の名物男だった、〝ノートル

ダムのせむし男(フランス映画の題名)〟のような男が、バケツの水をかけて洗い流す。

そしてまた、着衣をつけさせて、台上からお棺に移す時、もう、硬直がとけて、イヤイヤをしているように、両腕を振るのが印象的だった。

二、三メートルの距離で、三体が同時に解剖されている——まさに〈人体生理の秘密〉を目のあたりにして、私は、サイドカーで雨に打たれたことなど、まったく、忘れ去って感動に佇立しつづけていた。

この時、サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だったが、もう、途中で退室してしまっていた。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝されたことも、私が、コシケンに可愛がられるにいたった、理由のひとつでもあるだろう。

母親が病死したあと、幼い弟妹の面倒を見ていた健気な少女が、父親に犯されて、猫イラズで自殺した事件があった。

その少女は、読売の人生案内に投書して、回答者の真杉静枝女史(作家)が、それを読んだ時は、すでに手遅れで、「イヤらしい父親」(回答の見出し)の段階から、破局へと進んでいたのだった。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

読売梁山泊の記者たち p.060-061 井野康彦の下で国会遊軍

読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。
読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

「女の身体って、美しいわネ。…それに比べると、男のはイヤ、男の屍体は醜いわ」

そんなころ、上野署の防犯係に、ひとりの男がやってきた。望月正吉という、若い刑事がいた。北支は保定の予備士官学校で、一期後輩という関係もあって、親しくしていた。彼は、のちに警視にまで進み、いまは、明星食品会社にいる、と聞いている。

彼が、私にいった。「あの大将の姪が、女子医専にいるんだが、付近の女医さんのところに入り浸りで、困っているそうだ。その相談だけど、女医さんならいいじゃないか…」

法医学づいていた私には、この話でピンとくるものがあった。ある女のサギ師が、裁判所からの鑑定依頼で、東大に送られてきた。「性別は男性か、女性か」というのだ。女サギ師は、実は男性で、半陰陽だったのだ。その性器の写真は、一見〝女性そのもの〟だったが、尿道下裂症という状態で、もちろん膣口さえなかった。

私の取材は、すぐ始まって、その女医が次々と、女性の愛人を作っていることが、明らかになった。上野署に相談にきた伯父は、女医を、不法監禁、わいせつ誘拐、脅迫等で告発した。

「…半陰陽という、不幸な宿命を負って生まれた女医と、数人の女性とのナゾの交渉が明るみに出され、第三者には容易にうかがい知ることもできぬ、人間愛欲の姿が、世の批判の前に投げ出された。告発者は『社会悪を撃つ』といい、女医は『愛情の自由と権利』を主張する…」という前文で、その記事は始まる。

最後には、伯父の許に脱出してきた姪は、女子医専を中退してしまっていたが、彼女自身の、医者

の卵らしい表現で、「女医は男性仮性半陰陽(見てくれは女性だが、男性)だった」と、告白して、私の記事の裏付けとなってくれた。

この女医の取材の時のカメラマンは、だれであったか忘れたが、フラッシュが光った時に、ちょうど、女医がタバコをくわえて、ライターが光った時だったので、〝彼女〟は、すぐには気が付かず、カメラマンは、その一発だけで、さりげなく逃げ出していた。エンジンを吹かしつづけていた車で…。

前にも書いたことだが、井野康彦の下で、国会遊軍をやったのが、私の〈政治開眼〉であった。しかも、ここで、政治部、経済部の記者たち(他社も含めて)との、交流が始まったのだった。

その時の〝処女作〟が、〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。

天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

そして、ふたりは結婚した——父君の嘆きぶりは、正視できなかったのを覚えている。労農党の代議士が、自由党のプレイボーイ代議士(しかも、既婚だった)に、さらわれてしまったからである。

新婚旅行から帰ってきた二人を取材したのは、私である。この時、天光光の着ていた着物を、「駒撚りのお召」と、書いたのだ。デスクに、「どんなお召だ?」と聞かれて、返事に窮した。

というのは、取りつくしまもない天光光に、どうしたら口を開かせるか、と考えて、私の第一声は、「ステキなお召物ですネ」と、彼女の着物についての質問だったから…。

読売梁山泊の記者たち p.062-063 読売を去った徳間康快

読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。
読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。

〝白亜の恋〟の第一報は、井野のスクープで、私は下働きだったが、この記事から、各社(雑誌も)は、ヒロインの服装について、触れるようになってきた。昭和二十四年十二月のことだ。

翌二十五年春、竹内四郎の社会部長時代は終わる。戦後の混乱期も、ようやく納まりはじめて、朝鮮動乱による、経済復興の時代がくるのである。

それまでの紙面は、労働争議、共産党の騒ぎ。引き揚げでは、人民裁判や暁に祈るといった、同胞相剋の事件がつづいて、暗い、重苦しいものだった。

服装だって、園田直が松谷天光光を口説いたころの国会議員も、戦争の名残りをとどめて園田は、戦車隊の半長靴でドタドタと、天光光は、カスリのモンペ姿であった。

だが、二十五年、原四郎が文化部長から社会部長となり、竹内四郎が、その栄転のために新設された、企画調査局長となると、紙面もガラッと変わった。

「戦後、強くなったものは、靴下と女」という、警句に表現されるように、女性と愛情の問題が、大きな社会現象になってくる。

警察廻りを、短期間で卒業し、司法記者クラブ一年。国会遊軍と、本社遊軍を兼務していた私には、オール・ラウンド・プレイヤーとしての、忙しい毎日がつづいた。

争議に関連して読売を去った徳間康快

昭和二十年八月十五日未明、長春南郊外のタコツボにひそんで、有力なるソ軍戦車集団の来襲を待

ちながら、間違いなく、死に直面していた——天皇陛下万歳とは叫ぶ気がしなかった。愛する女性の名を呼びながら、集束手榴弾で戦車に体当たり…そんなひとの名前は、どう考えても思い浮かばない。

お母さーん!

敗戦の八月十五日昼、私は新京(長春)にいた。正午。錦ケ丘高女の校庭に、中隊は整列した。感度の悪いラジオで、戦争が終わったことを知った。

——また、読売に戻れるんだゾ!

湧き起こる希望に、敗戦の悲壮感は、まったくなかった。激しいスポーツに、ベストをつくして敗れた感じだった。しかし、敗けたということは、つぎに勝つ、という希望につながってくる。

——質屋へ入れてきた背広、流れたかナ?

一週間ぶんの新聞が、まとめて二週間遅れで、北支の駐屯地に配達される。

フト、広げた「華北新聞」の社会面トップに、「東京の地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員(注=徳間書店社長)は、こう報じている」とあるのを見て、同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。

——徳間の奴に、差をつけられたナ。

シベリアに送られる貨車の中でも、私は、「読売新聞シベリア特派員」だと、そう考えていた。丸二年の捕虜から、社へ戻った時、徳間は、第二次争議で退社して、東京民報の営業に移り、さらに、埼玉新聞へと行く。

読売梁山泊の記者たち p.064-065 退職金代わりに題号をもらった徳間

読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。
読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。

私は昭和十八年十月の読売入社であったが、戦前の実歴は、わずか一カ月。十名入社したほとんどが、間もなく入隊する。たしか、八名ぐらいが、社会部に配属されたが、慶応大学の「三田新聞」をやっていた青木照夫と、劇団の宣伝部で、新聞作りをしていた私との二人が、即日、働ける新人であった。

徳間康快は、同期でも、ひとり整理部に配属されて、とうとう、兵隊に行かなかった。そして、幸か不幸かの結論はまだだが、戦後の二度の、読売争議に関係して、読売を去ることになる。私も青木も、二度目の争議が終わった時に、シベリアから帰ってきたので、読売を辞めずに済んだのだった。

もしも、兵隊に取られずに、社に残っていたならば、私は、鈴木東民について、郷里の岩手県、釜石か盛岡に落ちていっただろう。

徳間の〝幸運〟は、読売を辞めて、左翼系の「東京民報」に入り、しかも、営業に移ったことにある。彼は、ここで、〝商売人〟としての力をつけた。

新聞社で、エラくなるには、編集ではダメなのだ。販売で、商売を覚えねばならない。原四郎が、出版局長になった時、局内外の不評は、相当にキビシイものだった。「週刊読売」などという、いまだに垢抜けない、赤字雑誌を抱えていながら、販売の会議には出ても、あとの宴会には出ないのだ、という。

販売店のオヤジたちとなんか、酒が呑めるか、という、原四郎のプライドが、欠席の理由だった、とか。それこそ、務臺光雄のバックアップがなかったら、原四郎も、出版局長止まりだったかも知れ

ない。

徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売でも、「娯楽よみうり」などという、週刊紙を出したりした時代があったが、この「アサヒ芸能新聞」も、同じようにツブれた。

その時、退職金代わりに、この題号をもらった徳間は、独立して、「週刊アサヒ芸能」という、いまのスタイルの週刊誌にした。新聞スタイルを止めたのだった。そこに、「週刊新潮」の創刊などで、いわゆる〝週刊誌ブーム〟が起きて、アサ芸も軌道に乗った。

さらに、徳間と平和相互銀行を結びつける事件が起きる。平相の小宮山一族に、南方の島に勤務していた、海軍中尉がいた。読売の海軍報道班員だった、社会部の藤尾正行記者は、この男と仲良しになった。

平相の小宮山英蔵は、政治家とのコネを求め、藤尾の第一回の選挙などは、相当な応援をした、という。人によっては、〝平相の丸抱え〟だったともいう。このあたりが、平相と福田派との、付き合いの始まりだ。

だが、当選してしまうと、英蔵の思う通りには動かない。そこで、弟の重四郎を政治家にすることになる。その第一回の選挙は、徹底した金権選挙であった。もちろん落選ではあったが、埼玉県警の違反摘発が進む。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、 ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

読売梁山泊の記者たち p.066-067 徳間の大活躍が始まった

読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。
読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、

ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

買収工作の運動員たちが、次々と逮捕され会計責任者にまで及んだ。県警は、竹田社長の事情聴取から逮捕、つづいて候補者という構想でいた。ここで、徳間の大活躍が始まったのである。

もう、故人となったが、公卿華族の出で、警察に滅法カオの利く、芝山元子爵を徳間が担ぎ出す。学習院で、竹田社長の同期生だ。芝山は、県警本部長を訪ねて、「かりにも元皇族だ。そんな方を警察に引っ張るのか」とハッパをかけた。

小宮山派の違反は、そこで終わった。新聞雑誌に叩かれるばかりだった英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

徳間も、新聞記者であった。しかし、彼が定年まで読売にいたら、これだけの力は持ち得なかったろう。やはり、商売の世界に入っていったからである。

新聞記者は、事実、カオが広い。だが、所詮はサラリーマンだから、商売には弱い。最後のツメが甘いのである。

正論新聞で、オートボールペンの倒産を取り上げたことがある。すると、警視庁クラブ時代の旧友、朝日紙の万代(ばんだい)記者が、訪ねてきた。ナントカ企画といったような名刺だったが、結局、二人で酒を呑んで、彼は不得要領な話をして、帰っていった。

同じように、朝日紙の央(なかば)忠邦という、創価学会記者がいた。彼が、もう一人読売だかの

記者と組んで、昭和六十一年七月の同日選で、奄美群島区の徳田虎雄候補の参謀を勤めたらしい。

二度目の挑戦だし、下馬評では徳田が保岡に勝つ、それも、公明票を押さえたからだといわれていた。そのあたりも、央が働いたらしい。

ところが、投票直前、保岡は二階堂に頼み、二階堂は竹入に頼んで、徳田に傾いていた公明票を、ひっくり返してしまった。票差は、わずか三千三百。徳田は敗れた。徳田の勝利を祝うため、鹿児島まできていた央らは、電話で、「ツメが甘いんだ!」と怒鳴られ、奄美大島へは渡れなかった。

いま、私も、ある程度の人生を生きてきてしみじみと思うことは、仕事も健康も、努力のあとは、運賦天賦。だれにも〈運命の一瞬〉を、どうつかむかの違いであろう。

激戦地へ行く奴もいれば、後方で、ノンビリする奴もいる。新宿のローカル紙「ニュー・シティ・タイムズ」を見ていたら、新宿の戸塚安全協会長になった、石油屋の大家萬次郎が、「ひと」欄に出ていた。

彼とは、北支・保定の予備士官学校の同期生。ところが、卒業の時に見当たらない。のちに聞けば、一族に将軍がいて、豊橋に転校して、卒業後は、京都連隊区付の見習士官。祇園の芸奴置屋に営外居住して、舞妓たちに竹槍の銃剣術を教えて、戦争が終わった、という奴である。

だが、私にだって、運はツイていた。新京特別市で終戦となり、在留邦人婦女子の保護をしながら、居抜きの家をまわっていて、日用日露会話という、ポケットブックを拾ったものである。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。

読売梁山泊の記者たち p.068-069 サツ廻りを卒業して共産党担当記者へ

読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。
読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。

こうして「読売新聞シベリア特派員」の取材が始まり、「シベリア印象記」という、初の署名原稿が生まれたことは、前に書いた通りである。

この記事は、その日の記事審査日報で、けっこう褒められたのだった。「この方面の記事が、本紙に少ないだけに、きょうのものは読みごたえのある記事となった。もちろん、取材の上で、シベリアの一部分だけの面であるが、しかし、限定されているだけに、内容が詳しく、かつ、新聞記者の直接の観察であるだけに、表現も上出来だ。従って、三紙の中では、読ませる紙面となった」

社内でホメられるだけに、外部に与えた印象も、相当なものだったらしい。私の記事が昭和二十二年十一月二十四日付。これに対し十二月二十六日付の「労働戦線」(全日本産業別労働組合会議機関紙)は、第三面トップに、駐日ソ連代表部・対日理事会ソ連代表のキスレンコ中将の、「職業的ウソツキ」という、コメントを掲載した。

《たとえば、つい最近、読売新聞前記者ミタ・カズキの記事であるが、この職業的なウソつきは、ソ同盟の人びとは、「クギ抜きの道具の使い方を知らない」とか、「ライターなるものを見たことがない」と、馬鹿げた話を書いている。

彼はおそらく、気狂いだけに、真実といって示せるような、馬鹿げた断定を、行っている。このようなデマ製作者は、ソ同盟にある機械や自動車の大部分が、アメリカの製品だともいっている》

こうして、私は、〝反動読売の反動記者〟というレッテルを、左翼陣営からはられたのであった。

そして、サツ廻りに出されると、担当が、日本橋、上野、浅草、谷中、坂本の五署だったが、やはり、上野署が中心。その上野駅に引揚列車が着くたびに、「代々木の共産党本部へ行こう」という、アクチブ(軍事俘虜のなかの積極分子)のアジに、出迎えの家族との間で、トラブルが起きはじめた。

この現象を、竹内社会部長に報告して、私は、サツ廻りのクセに、代々木の党本部まで取材に行き、「代々木詣り」という新語の記事を書いた。

私はいつの間にか、サツ廻りを卒業して引揚記者となり、共産党担当記者へと、成長していった。当時、警視庁では、捜査二課三係が日共担当で、私は、警視庁クラブ員ではなかったが、三係長の鈴木広次警部とも親しくなり、クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。

参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。

私の取材範囲は、特別審査局(のちの公安調査庁)にまで広がった。もう、一人前の公安記者に成長していた。

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

読売梁山泊の記者たち p.070-071 読売の映画演劇記者だった河上英一

読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」
読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

平成元年七月八日の土曜の夕方、内幸町のプレスセンタービルの十階アラスカで、朝日紙の岡崎文樹・元社会部記者の、「遺稿集・至福の花」の出版記念会が催された。

学友、戦友、社友の、親しかった人たちの集いだったが、朝日カルチャー・センターで文章指導教室の講師をしていたこともあって、その〝教え子〟ともいうべき中高年の女性たちの姿も多かった。

そのなかで、元社会部記者は、ホンの数人しかいなかった。まして、他社では、私と、東京新聞から電通にいった新貝博の二人だけ。幹事の伊藤牧夫(朝カル社長)、小池助男と四人の社会部が、岡崎を偲んで、〝古き良き時代〟ともいうべき、昭和二十年代、三十年代の、社会部記者・談義に、花を咲かせた。

助サンこと小池は、司法記者クラブ時代の朝日記者。もうひとり、相沢早苗という、朝日記者がいた。私より、二人とも、少し先輩だった。

相沢も、小池も、司法クラブでは、敵方であったが、仕事を離れたら、良い男たちである。ことに、相沢は〝恋仇〟でもあった。

というのは、戦前の児童演劇仲間に、有馬正義という慶応の学生がいた。私が世田谷代田、彼が池の上と、家も近かったので、その自宅に、よく遊びに行った。

彼の妹の、恵美子という女性が、日劇ダンシングチームにいて、ひそかに、想いをよせていたのだったが、シベリアから復員してみたら、相沢と結婚していたのだった。

彼女は、戦争の拡大とともに、日劇を辞めて、朝日新聞に入り、相沢と知り合ったようだ——が、敗戦から、丸二年も遅れて、復員してきたので、戦前に知っていた女性たちはみなもう、人妻になっていた。

また、同じころ、新宿の呑み屋「利佳」で、読売の古い映画、演劇記者だった、河上英一に会った。八十歳だというのに、お元気である。

児童演劇のチラシをもって、読売の河上、都新聞(現・東京新聞)の尾崎宏次両氏のもとに、良く出入りしていた。私が、読売に入社して、社内でバッタリと河上に出会ったことがある。

「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」

河上は、連れの阿木翁助(日本放送作家協会理事長)に、この話をして笑った。それから、戦前の、演劇青年たちのメッカであった、新宿のムーラン・ルージュの話が、始まった。阿木は、その座付作者だったから。

いまでも、記憶が鮮やかな、スターの明日待子。ワンサだったけど、憧れていた、市川弥生、五十鈴しぐれ…。

「あの市川弥生が、文芸部の金貝象三と結婚していたのは、ショックでした。それと、新協劇団の清洲すみ子が、村山知義夫人でしたからね」——戦時下に、少年が恋心を寄せた麗人たちは、みな、シベリアから帰った時には、結婚してしまっていたものである。

伊藤とは、昭和三十二年の売春汚職事件でのライバルである。市川房枝女史と、紀平悌子秘書(現参議院議員)の争奪戦を展開していた仲である。そのころ紀平と、弟の佐々淳行(元内閣安保室長)の三人でよく銀座を呑み歩いたものだ。

読売梁山泊の記者たち p.072-073 取材力と表現力は車の両輪

読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。
読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

東京新聞の新貝とは、警視庁記者クラブの友人だ。だが、聞いてみると、岡崎とは、白金小学校の同窓だという。すると、完全なヨソ者は、私だけということになる。

私と新貝とが、岡崎の想い出話を話し合っていたら、傍らのレディが二人、「岡崎先生とは、どういうお知り合いで? 朝日新聞の方ですか」と、話題に入ってきた。

「私は、娘も嫁いで、階下に娘夫婦、二階に私一人という生活なので、文章が上達すればと、岡崎先生に教わっていたのですが、六十の手習いで、なかなか…」

それに対して、新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私も、中学二年の時に、築地小劇場の楽屋で清洲すみ子に、「風とともに去りぬ」の初版本を貸してもらった。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。

同じように、毎日社会部記者から独立して作家になった、千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。

文章力というのは表現力である。しかし、新聞記者に求められるものは、同時に、表現力のもとになる、取材力である。取材力と表現力は、車の両輪に例えられる。

明治時代の〝新聞記者〟像は、「探訪」と「戯作者」の分業制である。探訪は、取材担当で、戯作者が表現担当だ。そして、その名残りは、昭和二十年まで、尾を引いて、古い記者には、どちらかしかできない、という人たちが多かった。

取材力というのは、対人的には、心理作戦である。大きな疑獄事件などが起きると、必ず新聞は、○○検事は、被疑者××をオトシた(自供させた)などと、見ていたように、若い検事と、老練な政治家や財界人との、調べの様子を書いたりする。

「新聞(記者)は、見てきたような、ウソを書き」という川柳がある。しかし、自分の取材体験を下敷きに、検事の片言隻句の話から、調べ官と被疑者の対話が、ある程度はイメージがつかめるのである。

リクルート事件が終わった時、東京地検特捜部の堤副部長が、仙台地検の次席に転出した。堤検事は、リ事件の端緒となった、楢崎弥之助議員への贈賄容疑の松原弘の、係検事だった。松原が、とうとう全容を自供しなかったので、堤副部長の転出は、左遷だというもっぱらの噂である。

対人的に、取材力とは心理戦争だ、というのは、相手に、真実をしゃべらせられるか、どうか、ということだからである。

対物的には、広く浅く(深いにこしたことはないが)、森羅万象に通じていること。つまり、話の裏付けになる証拠を、探し出してくることもできる、基礎知識である。「そういうもの」が、どこにいけば、入手できる可能性があるか。だれにきけば、どうすれば、いつならば…と、新聞記事の基本である、五W・一Hと同じことを、予見できる能力である。これが取材力である。そしてあとは、その運用、つまり、場数(ばかず)を踏むこと、経験の蓄積である。

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ち

読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」
読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」

私の初の署名記事、「シベリア印象記」とそれに反論した、キスレンコ中将のコメントとで、私は、たちまち、〝反動読売の反動記者〟として、名前が売れてきた。

いま、スクラップをひろげてみると、まず読売系の雑誌、「月刊読売」には、毎月のように、セミ・ドキュメンタリーとして、ソ連物から、共産党物にいたるまで、〝小説もどき〟を書いている。

「読売評論」から、「科学読売」にいたるまで、さらに、講談社の「キング」「講談倶楽部」から、「モダン日本」「夫婦雑誌」「探偵倶楽部」とつづく。

ことに、当時の国家地方警察本部の、村井順警備課長の推せんで、警察大学で講演したので、警察図書の立花書房の、「月刊・時事問題研究(警察官の実務と教養)」に、毎月書くようになった。

「モダン日本」の編集部には、若き日の吉行淳之介がおり、私の「赤色二重スパイ」という、原稿の担当であり、双葉社の編集には色川武大がいたりした。

村井順は、のちに、緒方竹虎に信任されて初代の内閣調査室長。退官後は、総合警備保障を創立して、社長となった。警備会社の草分けである。

こうして、警備公安畑で名前が売れてきたうえ、一年の法務庁(のちの法務省)での、司法記者クラブ詰めから、公安検事に人脈ができてきた。

吉河光貞検事が、初代の特別審査局(特審局、のちの公安調査庁)長となった。調査第一課長が吉橋、第二課長が高橋の両検事が、その下にいた。

そのころのことである。吉橋課長が、ある時、真顔でいったものである。

「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。私のほうで入手した文書によると『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている。どの段階での指令とかどんな文書か、などという、具体的なことはお話できないが…」

「ありがとうございます。十分に気をつけるようにいたしましょう」

吉橋検事は、私が、あまりビックリしないのが、やや不満そうであった。

また、岡崎文樹の話に戻るが、さる六十二年一月、前年暮れの定期検診で、右肺門部に異常を発見して、精密検査のため、彼は、息子のいる名古屋記念病院に入院した。六時間近い手術を受け、二月十日に退院してきた。

三月ごろのことだったろう。日刊スポーツの編集担当役員として、職場復帰していた彼と、銀座のクラブで、ゆっくり話し合ったことがある。その時、彼は、すでにガンと知っており、長くはない生命と覚悟していた。

その日の話は、華やかに嬌声のこぼれるクラブだというのに、淡々と、ふたりは「死生観」について語っていた。同じ戦中派として、一度は死を覚悟した体験を持つ。

「死ぬ時は死ぬんだ」という気持ちは、諦観というべきか、達観というのか。いずれにせよ、安定した精神状態である。

戦前の白黒映画時代の、ギャングスターのジェームス・キャグニィ主演、題名は「地獄の天使」だったろうか。ギャングのボスであったキャグニィは、死刑を宣告される。