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シベリヤ印象記(5) シベリヤ印象記のはじめに⑤

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)
シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年(1999)9月25日 画像は三田和夫66歳(後列左端 シベリア会1987.12.05)

シベリヤ印象記(5)『シベリヤ印象記のはじめに⑤』 平成11年9月25日

昭和21年の5月、ようやくシベリアにも春が来た。5月の春、6月の夏、7月の秋。そして、8月は初冬で、月末には雪が降った。残酷なことだが、ソ連側にいわせれば、死ぬべき者はすべて死なせて、ようやく、本格的な捕虜の労働力を建設に役立たせる時がきた、ということだろうか。

捕虜名簿を作り出し、思想教育のプログラムもスタートした。私が帰国後に知ったことだが、ハバロフスクを中心に、「日本新聞」という宣伝紙を発行し、いわゆる民主化運動が進み出したのである。欧露のエラブカには将校収容所があり、ここから、瀬島龍三(伊藤忠顧問・大本営参謀)が、東京裁判にソ連側証人として出廷したこと。関東軍(在満部隊)の高級将校たちが、戦犯調査にかけられていること。日独のプロ将校たちの対比が際立っていたこと、などなど、いろいろなことが、読売新聞に復職して、引揚担当者として舞鶴に詰めていた私に分かってきた。

そうして考えてみると、21年9月ごろに、建制のままの作業隊であった、チェレムホーボ第一収容所の第一大隊、第二大隊(ともに北支軍)が、まず、下士官兵と将校とに分割された。将校は将校だけで作業隊を編成し、石炭掘りに従事させられていた。と同時に、下士官兵は、同地の他の収容所との間で、入れ替えが進められ、建制を完全に壊したのだ。

当時、第一大隊長だった塚原勝太郎大尉は「将校がどんなに働けるか、ソ連側に思い知らせてやろうじゃないか」と、檄を飛ばした。今までの建制では、三田小隊員54名の健康と作業との兼ね合いに、心を砕いていた私などは、その責任から解放されて、ただ肉体労働に専念できる気軽さにバリバリと働いたものだ。丸1年、シャベルを握りつづけたので、指の内側の丸みの角には、タコができて、手の平は真ッ平になってしまった。このタコがすっかり取れるまで、1年ぐらいもかかっただろうか。

こうして、わずか丸2年の俘虜生活ではあったが、人生体験としては、軍隊の丸2年以上の厳しさがあった。軍隊のそれは、生と死との隣り合わせではあっても、精神的には楽だった。天皇の軍隊ではあろうとも、祖国防衛であり、具体的には親兄弟、家族を守ることだったからだ。

だが、戦時俘虜の境遇は、ポツダム宣言によって、家族のもとに帰れるハズが、日ソ中立条約を破り、8月9日に宣戦布告とともに満州になだれこんできたソ連軍に降伏して、極寒の地に拉致され、強制労働を強いられている。精神がまず参ってしまった。

初めて体験する寒さ。この酷寒に加えて、飢餓である。昭和20年の終わりごろまでは自分たち自身で満州から持ってきた、米、味噌、醤油といった食糧があった。しかし、21年にはいると、手持ちの食糧はなくなり、ソ連側も対応できないための飢餓である。これがつづくのだから慢性飢餓である。

寒さ、飢え、栄養失調に、襲いかかってきたのは、発疹チフス。その間も休みなくつづく炭坑労働——。これを「地獄」といわずして、なんといおうか。

いままで、旧陸軍の兵制について、冗慢と思えるほどに述べてきたが、それは、シベリア捕虜について、理解されやすいように、との思いからであった。第一、私たちを軍隊に引っ張り出したのは徴兵制という、国の法律によってである。しかし、その持ち駒を、自由に、勝手に動かしたのは、陸士、陸大出身の職業軍人たちである。だが、建制のまま入ソしたとき、命令を出すのは、幹候出身の予備役将校しかいない。階級章こそ、少尉、中尉、大尉、少佐と順番があるが、みな、自分たちと同じなのだ。同じ隊にいて、生死を共にしてきた仲だから、「どうしてくれるんだ!」と、文句をつけられない。

中佐、大佐、少将、中将という高級将校。いうなれば、“軍閥”や“その片割れ”はいないのである。これではケンカにならない。団結して、ソ連と戦うしかない。ソ連は団結されたら困るから、建制をブチ壊すのだ。

寒さ、飢え、伝染病、重労働という生活の一断面ごとに書くことは多い。が、それに加えて、スパイである。同胞相争うように、ソ連は、民主化運動を進め、その運動のなかに“密告制スパイ”を作りはじめたのだった。この日本人同士の密告の中で訓練を重ねて「ソ連のための日本人スパイ」の、一本釣りが始まったのである。それは、米軍占領下の日本に帰るのだから、対米ソ連スパイを日本中に配置しよう、という計画だったのであった。昭和21年には、米ソの冷戦は始まっていたのである。

それに対して、米軍だって黙ってはいられない。引揚港・舞鶴に、米軍防諜部隊を配置して、引揚者のひとりひとりを訊問した。在ソ経歴を申告させ、「そこでナニを見たか」「スレ違った列車には何が積んであったか」、何十万という引揚者を調べるのだから、米軍は、居ながらにして、シベリアの全実情をつかんだのである。これを、軍隊用語で「兵要地誌」という。つまり、作戦計画を立てる時の基礎資料である。当時はまだ、偵察衛星も飛んではいなかった。さて、ここから、私の「シベリア物語」は始まる。——スパイのことからである。(つづく) 平成11年9月25日

シベリヤ印象記(6) モスクワからきた中佐

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会
シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年(1999)11月27日 画像は三田和夫65歳(前列中央メガネ 桐の会・伊香保温泉旅行1987.03.15)桐の会:桐部隊3年兵の会

シベリヤ印象記(6)『モスクワからきた中佐』 平成11年11月27日

「ミーチャ、ミーチャ」兵舎の入り口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和22年2月8日の夜8時ごろのことだった。去年の12月初めに、もう零下52度という、寒暖計温度を記録したほどで、2月といえば冬のさ中だった。

北緯54度の、8月末といえばもう初雪のチラつくあたりでは、くる日もくる日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下2、3メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッ、と転がし廻している。

もう1週間も続いているシトーリナヤの炭坑の深夜作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——きたな! やはり今夜もか?

いままで、もう2回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取り調べを受けていた私は、返事をしながら上半身を起こした。

「ダー、ダー、シト?」(おーい、何だい?)

第1回は、昨年の10月末ごろのある夜であった。その日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第1回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、恰幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。その中佐の姿を見た瞬間、私は直感的に事の重大さを感じとって、緊張に身を固くしていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下ろした。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調査をはじめた。本籍、職業、学歴、財産など、彼は手にした書類と照合しながら、私の答えを熱心に記入していった。腕を組み黙然と眼を閉じているペトロフ少佐が、時々私に鋭い視線をそそぐのが不気味だ。

私はスラスラと、正直に答えていった。やがて中佐は一枚の書類を取り出して質問をはじめた。フト、気がついてみると、その書類はこの春に提出した、ハバロフスクの日本新聞社の編集者募集にさいして、応募した時のものだった。

「ナゼ、日本新聞で働きたいのですか」

中佐の日本語は、丁寧な言葉遣いで、アクセントも正しい、気持ちの良い日本語だった。中佐の浅黒い皮膚と黒い瞳は、ジョルジャ人らしい。

「第一にソ連同盟の研究がしたいこと。第二に、ロシア語の勉強がしたいのです」

「よろしい。良く判りました」

中佐は満足気にうなずいて、「もう帰っても良い」といった。私が立ち上がって一礼し、ドアのところへきた時、いままで黙っていた政治部員のペトロフ少佐が、低いけれども激しい声で呼びとめた。

「パタジジー!(待て) 今夜、お前は、シュピツコフ少尉のもとに呼ばれたのだぞ。炭坑の作業について質問されたのだ。いいか、判ったな!」

見知らぬ中佐が、説明するように語をついだ。

「今夜、ここに呼ばれたことを、もし誰かに聞かれたならば、シュピツコフ少尉のもとに行ったと答え、私のもとにきたことは、決して話してはいけない」と、教えてくれた。

こんなふうに言い含められたことは、いままでの呼び出しや調査のうちでも、はじめてのことであり、二人の将校からうける感じで、私にはただ事ではないぞ、という予感が的中した思いだった。

見知らぬ中佐のことを、その後、それとなく聞いてみると、歩哨たちは“モスクワからきた中佐”といっていたが、私は心密かに、ハバロフスクの極東軍情報部員に違いないと考えていた。 平成11年11月27日

週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊 「チュレンホーボ」117師団
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊
週刊読売(発行年月日不明)48~49ページ ソビエト領内の主要ラーゲリ収容部隊

シベリヤ印象記(7) 偽装して地下潜入せよ

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年(2000)5月27日 画像は三田和夫65歳(最前列右から3人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)
画像は三田和夫65歳(右から2人目 島崎隊戦友会・前橋1987.05.31)

シベリヤ印象記(7)『偽装して地下潜入せよ』 平成12年5月27日

それから1カ月ほどして、ペトロフ少佐のもとに、再び呼び出された。“モスクワからきた中佐”との初対面のあとである。話は前後するが、それまでの呼び出しの様子を思い出して書きとめておこう。

当時、シベリア捕虜の政治運動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という、積極的な動きに変わりつつある時だった。

ペトロフ少佐は、民主グループ運動についての私の見解や、共産主義とソ連、およびソ連人への感想などを質問した。結論として、その日の少佐は、「民主運動の幹部になってはいけない。ただメンバーとして参加するのは構わないが、積極的であってはいけない」といった。

この時は、もうひとり通訳の将校がいて、あの中佐はいなかった。私はこの話を聞いて、いよいよオカシナことだと感じたのだ。少佐の話をホン訳すれば、アクチブであってはいけない、日和見分子であり、ある時には反動分子にもなれということだ。

政治部将校であり、収容所の思想係将校の少佐の言葉としては、全く逆のことではないか。それをさらにホン訳すれば、“偽装”して地下潜入せよ、ということになるのではないか。

この日の最後に、前と同じような注意を与えられた時、私は決定的に“偽装”を命ぜられた、という感を深くしたのである。私の身体には、早くも“幻のヴェール”が、イヤ、そんなロマンチックなものではなく、女郎グモの毒糸が投げられはじめていたのである。

そして、いよいよ3回目が冒頭に書いた2月8日の夜のことである。「ハヤクウ、ハヤクウ」と、歩哨がせき立てるのに、「ウン、いますぐ」と答えながら、二段ベッドからとびおりて、毛布の上にかけていたシューバー(毛布外套)を着る。靴をはく。帽子をかむる。

——何かが始まるンだ。

忙しい身仕度が私を興奮させた。

——まさか、内地帰還?

ニセの呼び出し、地下潜行——そんな感じがフト、頭をよぎった。吹きつける風に息をつめたまま、歩哨と一緒に飛ぶように衛兵所を走り抜け、一気に司令部の玄関に駆けこんだ。

廊下を右に折れて、突き当たりの、一番奥まった部屋の前に立った歩哨は、一瞬緊張した顔付きで、服装を正してからコツコツとノックした。

「モージノ」(宜しい)

重い大きな扉をあけて、ペーチカでほど良く暖められた部屋に一歩踏み込むと、何か鋭い空気が、サッと私を襲ってきた。私は曇ってしまって、何も見えない眼鏡のまま、正面に向かって挙手の敬礼をした。

ソ連側からやかましく敬礼の励行を要望されてはいたが、その時の私はそんなこととは関係なく、左手は真直ぐのびて、ズボンの縫目にふれていたし、勢いよく引きつけられた靴のカカトが、カッと鳴ったほどの、厳格な敬礼になっていた。 平成12年5月27日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(8) 冷たく光る銃口

シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)
シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年(2000)8月12日 画像は三田和夫24歳(前列右から2人目 205大隊第5中隊・考城県考城1945.07)

シベリヤ印象記(8)『冷たく光る銃口』 平成12年8月12日

正面中央に大きなデスクをすえて、キチンと軍服を着たペトロフ少佐が坐っていた。かたわらには、見たことのない、若いやせた少尉が一人。その前の机上には、少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。天井の張った厳しいこの正帽でも、ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。

密閉された部屋の空気は、ピーンと緊張していて、わざわざ机上にキチンとおいてある帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、生殺与奪の権を握られている一人の捕虜を威圧するには、十分過ぎるほどの効果をあげていた。

「サジース」(坐れ)

少佐はカン骨の張った大きな顔を、わずかに動かして、向かい側の椅子を示した。

——何か大変なことがはじまる!

私のカンは当たっていた。ドアのところに立ったまま、自分自身に「落ちつけ、落ちつけ」といいきかすため、私はゆっくりと室内を見廻した。

八坪ほどの部屋である。正面にはスターリンの大きな肖像画が飾られ、少佐の背後には本箱。右隅には黒いテーブルがあって、沢山の新聞や本がつみ重ねられていた。ひろげられた一抱えの新聞の、「ワストーチノ・プラウダ」(プラウダ紙極東板)とかかれたロシア文字が、凄く印象的だった。

歩哨が敬礼して出ていった。窓には深々とカーテンが垂れている。

私が静かに席につくと、少佐は立ち上がってドアのほうへ進んだ。扉をあけて、外に人のいないのを確かめてから、ふりむいた少佐は後手にドアをとじた。「カチリ」という、鋭い金属音を聞いて、私の身体はブルブルと震えた。

——鍵をしめた!

外からは風の音さえ聞こえない。シーンと静まり返ったこの部屋。外部から絶対にうかがうことのできないこの部屋で二人の秘密警察員と相対しているのである。

——何が起ころうとしているのだ?

呼び出されるごとに、立会いの男が変わっている。ある事柄を一貫して知り得るのは、限られた人々だけで、他の者は一部だけしか知り得ない組織になっているらしい。

——何と徹底した秘密保持だろう!

鍵をしめた少佐は、静かに大股で歩いて、再び自席についた。何をいいだすのかと、私が固唾をのみながら、少佐に注目していると、彼はおもむろに机の引出しをあけた。ずっと、少佐の眼に視線を合わせていた私は、「ゴトリ」という、鈍い音を聞いて、机の上に眼をうつしてみて、ハッとした。

——拳銃!

ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。私の口はカラカラに乾き切って、つばきをのみこもうにも、ノドボトケが動かない。(つづく) 平成12年8月12日

旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた
旧軍の建制 「北支派遣・第十二軍・第百十七師団・第八十七旅団・独立歩兵第二百五大隊」 三田和夫の三田小隊は「島崎隊」に属していた

シベリヤ印象記(9) 誓いの言葉

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)
シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年(2000)9月7日 画像は三田和夫23~24歳(最前列左から2人目 三田小隊1945)

シベリヤ印象記(9)『誓いの言葉』 平成12年9月7日

少佐は、半ば上目使いに私を見つめながら、低いおごそかな声音のロシア語で、口を開いた。一語一語、ゆっくり区切りながらしゃべりおわると、少尉が通訳する。

「貴下はソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、役立ちたいと願いますか」

歯切れの良い日本語だが、直訳調だった。少佐だって、日本語を使えるのに、今日に限って、のっけからロシア語だ。しかも、このロシア語という奴は、ゆっくり区切って発音すると、非常に厳粛感がこもるものだ。平常ならば、国名だってエス・エス・エス・エルと略称でいうはずなのに、いまはサューズ・ソヴェーツキフ・ソチャリスチィチェスキフ・レスプーブリクと、正式に呼んだ。

私をにらむようにみつめている、二人の表情と声とは、ハイという以外の返事は要求していないのだ。そのことを本能的に感じとった私は、上ずったかすれ声で答えた。

「ハ、ハイ」

「本当ですか」

「ハイ」

「約束できますか」

「ハイ」

タッ、タッと、息もつかせずにたたみこんでくるのだ、もはや、ハイ以外の答えはない。私は興奮のあまり、つづけざまに三回ばかりも首を縦に振って答えた。

「誓えますか」

「ハイ」

しつようにおしかぶさってきて、少しの隙も与えずに、ここまで持ちこむと、少佐は一枚の白紙を取り出した。

「よろしい、ではこれから、私のいう通りのことを紙に書きなさい」

——とうとうくるところまできたんだ。

私は渡されたペンを持って、促すように少佐の顔を見ながら、刻むような日本語でたずねた。

「日本語ですか、ロシア語ですか」

「パ・ヤポンスキー!」(日本語!)

はね返すようにいう少佐についで、能面のように、表情一つ動かさない少尉がいった。

「漢字とカタカナで書きなさい」

静かに、少尉の声が流れはじめた。

「チ、カ、イ」(誓い)

「………」

「次に住所を書いて、名前を入れなさい」

「………」

「今日の日付、1947年2月8日……」

「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)

コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ、話サナイコトヲ誓イマス。

モシ、誓ヲ破ッタラ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス」

不思議に、ペンを持ってからの私は、次第に冷静になってきた。チ、カ、イにはじまる一字一句ごとに、サーッと潮がひいていくように興奮がさめてゆき、机上の拳銃まで静かに眺める余裕ができてきた。

最後の文字を書き上げてから、拇印をと思ったが、その必要のないことに気付いて、「誓約書の内容も判らぬうちに、一番最初にサインをさせられてしまったナ」などと考えてみたりした。

この誓約書を、いままでに数回にわたって作成した書類と一緒に重ねて、ピンでとめ、大きな封筒に収めた少佐は、姿勢を正して命令調で宣告した。

「プリカーズ」(命令)

私はその声を聞くと、反射的に身構えて、陰の濃い少佐の眼を凝視した、その瞬間——

「ペールウィ・ザダーニエ!(第一の課題)1カ月の期間をもって、収容所内の反ソ反動分子の名簿をつくれ!」

ペールウィ(第一の)というロシア語が、耳朶に残って、ガーンと鳴っていた。私はガックリとうなずいた。

「ダー」(ハイ)

「フショウ」(終わり)

はじめてニヤリとした少佐が、立ち上がって手をさしのべた。生温かい柔らかな手だった。私も立ち上がった。少尉がいった。

「3月8日の夜、また逢いましょう。たずねられたら、シュピツコフ少尉を忘れぬように」(つづく) 平成12年9月7日

シベリヤ印象記(10) 眠られぬ夜

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年(2000)9月11日 画像は三田和夫 66歳(前列左から2人目 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
画像は三田和夫 66歳(前列アコーディオンの隣り 桐の会・伊香保温泉1988.03.12)
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」
戦友会で歌われる「シベリヤの花」「異国の丘」

シベリヤ印象記(10)『眠られぬ夜』 平成12年9月11日

ペールヴォエ・ザダーニエ! これがテストに違いなかった。民主グループの連中が、パンを餌にばらまいて集めている反動分子の情報は、当然ペトロフ少佐のもとに報告されている。それと私の報告とを比較して、私の“忠誠さ”をテストするに違いない。

そして、「忠誠なり」の判決を得れば、次の課題、そしてまた次の命令…と、私には終身暗いカゲがつきまとうのだ。

私は、もはや永遠に、私の肉体のある限り、その肩を後ろからガッシとつかんでいる、赤い手のことを思い悩むに違いない。そして、…モシ誓ヲ破ッタラ…と、死を意味する脅迫が、…日本内地ニ帰ッテカラモ…とつづくのだ。

ソ連人たちは、エヌカーの何者であるかを良く知っている。兄弟が、友人が、何の断わりもなく、自分の周囲から姿を消してしまう事実を、その眼で見、その耳で聞いている。私にも、エヌカーの、そしてソ連の恐ろしさは、十分すぎるほどに判っているのだ。

——これは同胞を売ることだ。不当にも捕虜になり、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!

——あるいは私だけ先に日本へ帰れるかもしれない。だが、それもこの命令で認められればの話だ。

——次の命令を背負ってのダモイ(帰国)か。私の名前は、間違いなく復員名簿にのるだろうが、その代わりに、永遠に名前ののらない人もできるのだ。

——私は末男で独身ではあるが、その人には妻や子供があるのではあるまいか。

——誓約書に書いたことは、果たして正しいことだろうか。許されることだろうか。弱すぎはしなかっただろうか。

——だが待て、しかし、一カ月の期限はすでに命令されていることなのだ…。

——ハイと答えたのは当然のことなのだ。人間として、当然…。いや、人間として果たして当然だろうか?

——大体からして無条件降伏して、武装を解いた軍隊を捕虜にしたのは国際法違反じゃないか。待て、そんなことより、死の恐怖と引き換えに、スパイを命ずるなんて、人間に対する最大の侮辱だ。

——そんなこと今更いってもはじまらない。現実の俺は命令を与えられたスパイじゃないか。

私はバラッキ(兵舎)に帰ってきて、例のオカイコ棚に身を横たえたが、もちろん寝つかれるはずもなかった。転々として思い悩んでいるうちに、ラッパが鳴っている。

「プープー、プープー」

哀愁を誘う、幽かなラッパの音が、遠くの方で深夜三番手作業の集合を知らせている。吹雪はやんだけれども、寒さのますますつのってくる夜だった。(つづく) 平成12年9月11日

戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」
戦友会で歌われる「北支派遣軍の歌」

シベリア印象記(11) チャンス到来

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年(2000)9月25日 画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(最前列右から4人目 桐の会戦友会・伊香保観光ホテル1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)
画像は三田和夫66歳(中央 桐の会・伊香保温泉旅行1988.03.12)

シベリヤ印象記(11)『チャンス到来』 平成12年9月25日

私に舞い込んできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの3月8日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。

ソ連将校の誰彼に訪ねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることになるのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。

不安と恐怖と焦燥の3月8日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから3、4時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた。静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。

夜が明け始めたのだった。3月8日の夜が終わった。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……9日も終わった。1週間たち、1カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。(つづく) 平成12年9月25日

◇◆◇◆執筆者略歴◆◇◆◇
三 田 和 夫 78歳
大正10年6月11日、盛岡市に生まれる。府立五中を経て、昭和18年日大芸術科を卒業。読売新聞社入社。同年11月から昭和22年11月まで兵役のため休職。その間、2年間に及ぶシベリアでの強制労働を体験。復員後、読売社会部に復職。法務省、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て最高裁司法記者クラブのキャップとなる。昭和33年、横井英樹殺害未遂事件を社会部司法記者クラブ詰め主任として取材しながら、大スクープの仕掛け人として失敗。犯人隠避容疑で逮捕され退社。昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「ミタコン」株式会社を設立するも2年あまりで倒産。以後、フリージャーナリスト生活を送る。昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊。昭和44年、株式会社「正論新聞社」を設立。田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫、河井検事など一連のキャンペーンを展開。正論新聞は700号を超え、縮刷版刊行を期するも果たせず。
◇◆◇◆著書◆◇◆◇
☆「迎えにきたジープ」
☆「赤い広場―霞ヶ関」
☆「最後の事件記者」(実業之日本社)
☆「黒幕・政商たち」(日本文華社)
☆「正力松太郎の死の後に来るもの」(創魂出版)
☆「読売梁山泊の記者たち」(紀尾井書房)
など多数。

メルマガ「シベリヤ印象記」は、「~(つづく)平成12年9月25日」とあるが、この(11)が最終回となった。「編集長ひとり語り」のほうは、1年以上後の、平成13年11月22日までつづくが、その間「シベリヤ印象記」の原稿を催促すると、三田和夫は「わかったよ。いろいろ考えてるから」と笑って答えたという。なにを考えていたのかわからないが、そのまま死んでしまった。

「シベリヤ印象記」は、じつはメルマガを含めると、3回も書かれている。

第1回目の「シベリア印象記」は、三田和夫が、昭和22年11月、シベリア抑留から帰還、読売新聞に復職して最初に書いた記事だった。その状況と記事内容は、『最後の事件記者』(p.076~p.087)に書かれている。

読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛
読売新聞 昭和22年(1947年)11月24日 第2面 抑留二年 シベリア印象記 本社員 三田和夫 日本軍服引張り凧 パンに貧富の差 ソ連帰還兵は米国礼賛

第2回目の「シベリア印象記」は、平成2年8月、ソ連旅行で45年振りにシベリアを訪れた紀行文を、『正論新聞』第587号から連載している。

正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク
正論新聞 第587号 平成2年9月1日・11日合併号 第3面 45年振りのシベリアは、明るく、活気に満ちていた! あの暗い、沈んだシベリアは、どこにいったのだ? ペレストロイカは極北の地にも… 続・シベリア印象記(1) 昭22に書いた捕虜見聞記の続編 本紙編集長・三田和夫 ハバロフスク イルクーツク ブラーツク

つまり、読売新聞「シベリア印象記」、正論新聞「シベリア印象記」、そしてメルマガ「シベリヤ印象記」と、3回も書いているのだ。そんなこともあってか、メルマガ「シベリヤ印象記」の(6)~(11)は、『最後の事件記者』(p.116~p.133)の焼き直しになっていて新味がない。

メルマガの「シベリヤ印象記のはじめに①~⑤」は、78歳になった三田和夫の書き下ろしだが、若いころに書いた『赤い広場—霞ヶ関』『迎えにきたジープ』に比べると、論調がだいぶマイルドになっている感がある。

たとえば、「シベリア抑留60万人・死者6万人」と書いているが、それは、ソ連側・日本政府の公式発表の数字に過ぎない。また、最初の冬に推計800名(2割)が死んだと書いているが、以前はよく「零下50度、最初の冬に約半数が死んだ」と言っていた。『迎えにきたジープ』でも、「春がきて約3割、1200名減った」と数字はもっと大きい。戦後、『キング』に書いた「シベリア抑留実記」では2割だが、ソ連当局は実態を把握させないように、名簿を作らなかったり、収容所間で人員を動かしたりして、証拠湮滅を図っていたのだから真実のところはわからない。

10年前に戦後45年目の平和な時代のシベリア旅行を経験したことや、戦友会で戦友たちのいろいろな話を聞いているうちに、意見が変わった部分もあるのかもしれない。

『迎えにきたジープ』(p.096~p.110)には、証拠の有無は別として、細菌戦や収容所内部の状況、死亡者の扱いについて、三田和夫の体験・疑似体験が書かれている。

できれば、メルマガ「シベリヤ印象記」(つづく)で、『迎えにきたジープ』の続編を書いてもらいたかったものだ…。

編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず!

編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日
編集長ひとり語り第1回 売買勲、いまだ死なず! 平成11年(1999)3月18日

■□■ 売買勳、いまだ死なず! ■□■第1回■□■  平成11年(1999)3月18日

中村正三郎法務大臣がようやく辞表を出して、この人物の正体があまねく全国民の知るところとなった。だが、どうしてこのような人物を法相に据えたのか小渕首相の人事を疑わざるを得ない。法相は首相に次ぐ序列2位の要職である。

むかし田中角栄首相の時、小宮山重四郎という郵政大臣が生まれた。彼は平和相互銀行のボス、小宮山栄吉の弟である。当時「角さんに五億円献金して大臣になった」と噂された。平和相銀はやがてツブれ、住友銀行に吸収されたが、当時の総務部長(故人)が、私に「あの五億円は銀行の金を持ち出したものだ」と語ったのをメモしていた。

やがて平和相銀の「金屏風事件」というのが表面化し、竹下首相の青木秘書が地検特捜部の追及に出頭予定日前夜に自殺して果てた。このときの不明分のうち30億円は竹下から中曽根首相の禅譲代として献金されたといわれている。郵政大臣が5億円なら、総理大臣なら30億円というのはうなずける金額である。

さて、あのようにオソマツな法務大臣が出現してみると中村正三郎が大金持ちなだけに派閥会長の三塚博と小渕首相の双方に、億単位の献金があったのではないかと邪推したくなる。中村スキャンダルが内部告発としか思えないものばかりだから法務官僚たちがサシたとも考えられるが、そのような人物を金持ちだからといって法相に据えるほうが怪しい。

自民党もいつまでもこんなことを繰り返していてはどうしようもない。第一この時代に、いまだに「大臣」とはナンだ? 国民の公僕である政府の長が、“大臣”とは時代錯誤もはなはだしい。行政改革で省名を変える機会に、大臣の呼称も廃止すべきだ。そうでなければ、“大臣病患者”が金で買いたがるばかりではないか!  平成11年(1999)3月18日

編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相

編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相 平成11年(1999)3月20日 画像は三田和夫69歳(1990.06.12)
編集長ひとり語り第2回 老醜をさらしつづける竹下登元首相 平成11年(1999)3月20日 画像は三田和夫69歳(1990.06.12)

■□■老醜をさらしつづける竹下登元首相■□■第2回■□■ 平成11年(1999)3月20日

3月18日付の産経新聞夕刊は「北京発・古森義久」という特報を大きく掲載した。これまでの日本の中国に対するODAの総計は三兆円近い額だというのに、中国の新聞は今まで「援助」という表現を使わず、しかも報道することもなかった。が、日本政府がこの資金を使う地方機関などにアピール文を送ったことから報道され始めた。しかし人民日報は「合作」だと言う。

この記事は古森記者らしい、しかも産経紙らしい大特報として私は感じ入った。というのは、日本のODAは日本の政治家たちの“食いモノ”だったからである。例えばその元凶は利権漁りの竹下登である。もう2、3年前だったか、ODAで北京に大きな青年宮かナニかを建てたが(竹下が北京を訪問して締結した)、その建設請負は、日本の竹中工務店だった。竹下のバツイチ娘が、竹中のバツイチ息子に嫁いでいる関係だ。竹下がバックマージンを取ったことは、容易に想像される。「李下に冠を正さず」に反して…。

中国は全人代を終えたばかり。数年前からの反腐敗闘争についても、朱首相が厳しく発言している。つまり、この闘争の成果が出てきて、竹下からのプレゼントを受けていた中国側の要人の“担白”があったので、ODAが「合作」から「援助」に変わったのではないか、と私は推理する。と同時に、日本官僚の日本政治家への“反乱”が、中国側受益者への直接アピールとなった、と思う。なぜならこのような措置が遅すぎたからである。

首相経験者が依然として現役議員でいる制度自体がオカシイ。三権の長だった者は、それこそ“元老院”のような待遇を考えるべき時に来ている。そうでなければ21世紀には、日本は三等国に堕ちるであろう。

編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて…

編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)
編集長ひとり語り第3回 「箸の文化」が衰えはじめて… 平成11年(1999)3月27日 画像は三田和夫38歳(ミタコン時代 銀座か赤坂か不明)

■□■「箸の文化」が衰えはじめて… ■□■第3回■□■ 平成11年(1999)3月27日

中国、朝鮮、日本をつないでいた「箸の文化」がアメリカ外食産業の進出で(ハンバーガー等)で、衰えはじめている。適量の食物を箸でつまんで口へと運ぶ——これは、いろんな効果をもたらしていたものだ。第一に礼儀であろう。最近のテレビCMで、お茶漬け屋で下品な男がドンブリ飯を掻きこむ下品さが、それを象徴している。CMでは箸は使っているが、スプーンで十分だ。

第二に咀嚼、即健康である。日本での戦後五十年。学校給食がスプーンを普及させたところで、ハンバーガーに食らいつきフライドチキンを放りこむ。だから、日本には、オチョボ口の女がいなくなった。噛まないから、アゴが小さくなり、乱杭歯ばかりになった。中国での美人の条件は「明眸皓歯」だが、そんな女は日本では数えるほどになり、同じ化粧の、同じ髪形の、同じ顔の女ばかりが街を横行している。もう、オチョボ口の女は、中国か韓国にしかいない。日本は乱杭歯の大口女ばかりのようだ。

先ごろ、新聞のコラムに、日本での洋食のマナーで、フォークの背(丸くなってる部分)に米飯を乗せて食べるのはオカシイとあったが、明治、大正期に、箸の文化に心を使う人たちが、少量しか米飯をのせられない、あのスタイルを“洋食のマナー”としたのだろう。ライスを添えるのは日本だけだから…。

白人女の口はバカでかい。だから、クリントンのオーラルセックスも可能だ。日本の春画には、そんな図柄を見たことがない。オチョボ口の時代だったからだ。上海でのアメリカ外食産業の繁盛を見ると、やがて中国でも「箸の文化」が衰えるかも…。韓国では若い世代は箸も使えない、と新聞にあった。 平成11年(1999)3月27日

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと

編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)
編集長ひとり語り第4回 小沢自由党の“馬脚事件”のこと 平成11年(1999)4月3日 画像は三田和夫62歳(1983年)

■□■小沢自由党の“馬脚事件”のこと■□■第4回■□■ 平成11年(1999)4月3日

東(あずま)祥三。47歳。比例代表東京ブロック当選の自由党衆議院議員。当選3回。創価大学院卒で国連職員だった人物。顔貌(がんぼう)もマトモだし、その年齢からも、将来を嘱望できる議員だと思っていた…。その彼が、先ごろ記者会見をして、「東京15区の柿沢辞職の後の補選出馬はやめた」といった。ところがその記者会見には、中西啓介議員が同席しているではないか。なぜなのだ?

東議員は公明党から出馬して、中選挙区制度最後の前回(平5.7.18)は東京6区で柿沢、不破につぎ第3位で、2回目の当選。小選挙区になれば、柿沢絶対優位なので、不破と同じく比例に回ったのだろう。同席していた中西議員は、自民党時代からスキャンダルまみれの古いタイプの議員。前回中選挙区では、和歌山1区で9万余票のトップ。小選挙区でも同区で6万6千のトップ当選である。しかし、前回当選後、電通社員だった息子の麻薬事件で辞職(平7.5.12)して、1年半後返り咲いた。私の個人的見解では、小沢一郎を評価できないのは、このような側近を登用しているからである。

4月1日の日テレ「ザ・ワイド」は、浅香光代が野村沙知代への“果たし状”宣言をとりあげていた。その時、加藤タキがいった。「あの人が立候補したこと。政治をなんと考えているのか、許せません」と。まさに名言である。東議員の辞職は、野村の繰り上げ当選を意味する。幸いにもそれは消えたが、東議員にはその認識があっての、15区転出だったのだろうか? 繰り上げでも、野村は経歴詐称などで辞職に追い込まれよう。ただ、仮に一時期でも野村が衆議院議員になったら、もう世紀末と笑ってはいられない。議員の私利私欲がムキ出しになり、公明党も、自由党も、ともに信用できないことを示した“事件”であった。 平成11年(1999)4月3日

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚

編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)
編集長ひとり語り第5回 検察NO.2の失脚 平成11年(1999)4月10日 画像は三田和夫40代(正論新聞初期のころ)

■□■検察NO.2の失脚■□■第5回■□■ 平成11年(1999)4月10日

月刊「噂の眞相」誌の報じた、則定衛(のりさだまもる)・東京高検検事長の女性スキャンダルは、5年前の事件にもかかわらず、各方面に大きな衝撃を与えて、本人の辞意表明にまでいたった。(10日現在)

私はこのニュースに、読売の司法記者時代に直面した、検察の派閥対立と抗争を昨日のことのように思い出した。この事は書き出せばキリがないので、ある検察首脳のひとりを紹介したい。

東京高検次席、京都検事正、大阪検事長、最高裁判事、同長官を経て、さきごろ亡くなった岡原昌男氏。

さきの派閥対立は、一般には戦前の特高検察の流れの公安検察と、戦後の経済混乱で勃興した経済検察との対立と、とらえられているが、私は違う意見である。検察の正統派と政治に癒着する権力派との戦いと見る。前者の代表が岸本義広東京検事長、後者は馬場義続法務次官。悪名高い“馬場派の殺し屋”河井信太郎特捜部長を抱える。

馬場を切るために、総長を諦らめ代議士となり、法相となってと転換した岸本の選挙違反を、馬場は徹底追及して起訴した。岸本は失意のうちに逝き、その次席だった岡原は、実に7年間も京都検事正のままだった——私は「正論新聞」でこの事実を叩き、馬場の次の総長が岡原を大阪検事長とした。

岡原は定年前に最高裁判事の検察ワクに移った。馬場の偏向人事を正した総長の思いやりだったろう。そして長官へと進む。検事出身判事が長官になるとは、異例中の異例であるが、他の判事たちからクレームが出なかったことが、岡原の人格すべてを物語っているではないか。

検事も若い時にはその理想に燃えて、正義のためにのみ行動するが、年をとるとともに現実的になり、権力におごって自己中心的になり、金と女の誘惑に溺れながら、それを自己規制も批判もできなくなる。そこで、その人自身の人間性が出てくるのである。新聞記者とて、企業人とて例外はない。則定事件が5年前のことだろうが、どうして、今ごろ表面化したのかなどは、事件の本質には無関係である。

権力とそれに近い立場にある者に求められるのは、高い倫理性である。私はその例として、岡原昌男を想起した。長い記者生活で、則定のような人生の浮沈のドラマを見つづけてきた。三越の岡田茂社長の「なぜだ?」が、あれほど人口に膾炙(かいしゃ)されながら、則定官房長(当時)にはなんの教訓にもならなかったのだった。 平成11年(1999)4月10日

編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる

編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる 平成11年(1999)4月12日 画像は三田和夫69歳(1990.06.15)
編集長ひとり語り第6回 石原新都知事決まる 平成11年(1999)4月12日 画像は三田和夫69歳(1990.06.15)

■□■石原新都知事決まる■□■第6回■□■ 平成11年(1999)4月12日

やっぱり、というべきか、当たり前というべきか、石原慎太郎が他の候補を蹴散らかしてダントツ当選した。朝生に始まるテレビ討論から、各候補たちの動静をテレビで見つづけていて、石原が出なければ再選挙だと感じていた。まず、有力5候補の人物評を試みたい。総評として、みな現在の自分が行き詰まっていて、場面転換としての出馬である。

まず鳩山。兄弟で金を出して、民主党を作りながら、二人ともトップになれない。副代表や幹事長代理という、ナンバー3以下に甘んじ、菅をかつがざるを得ない現実——つまり誰もついてこない政治的現実がある。50歳になるまで、電車に乗ったことのない男の選んだ道が、代議士をやめて浪人すること。

柿沢の過去は地元では常にトップ当選しながら、出たり入ったり、また出たりの政治的変節の放浪人生。もう自民党内でメの出る可能性はゼロだった。無党派を取りこむのが、飯島直子の肩を抱いたり、ダッチューノとアップの醜い顔をさらしたり、というセンス。

舛添もまた、女出入りや母親介護のセールスやらで、肩書きの「国際政治学者」も色あせてきて、テレビ出演も減っていただろう。栗本とのトラブルなど、噴飯モノだ。自民党員と組んだりするあたりのバカさ加減。石原優位のニュースに、「四分の一取れるかどうか、まだ分からんサ」と、惨めなセリフの男だ。

明石もまた、「総理に口説かれたから…。自民党一本化の約束だ」といったが、三分裂選挙となった時点で降りるべきだった。テレビで国連次長が10人ぐらいもいることをバラされたり、晩節を汚してしまった哀れな男。

共産党の三上。一番マトモな候補だったが、残念ながらまだまだ共産党での当選は無理である。しかし、こうして出馬し、票数を伸ばして行く事に意義があるのだから、ビリの柿沢の上にいた事は大健闘だろう。

間違って当選し、辞退もせずに4年間ネバった青島が、五千万円近い退職金を手に、都庁を去ってくれることだけでも、気持ちが明るくなる。

サテ、石原が都議会とどう付き合えるか。イエスとノーとを、どう表現してゆけるのか、まず、都議会との衝突で、解散をできるかナ。解散しても、いまの都議たちが再選されてくるだろうから、不信任されたらサッサと辞めるかナ。ともかく、一応、石原に期待してみようか…。 平成11年(1999)4月12日

編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか!

編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)
編集長ひとり語り第7回 誰が二度と戦争に行くものか! 平成11年(1999)4月17日 画像は三田和夫(右端・50歳前後か?)

■□■誰が二度と戦争に行くものか!■□■第7回■□■ 平成11年(1999)4月17日

コソボ紛争のニュースは悲惨な殺戮と死体の山を見てきた私にとって、どうしようもない悲しい現実である。ナゼ、人間は殺し合いに飽きないのか。日刊紙をひろげれば殺人と死体発見の記事が連日つづいている。私が警視庁記者クラブにいた昭和27年から30年の3年間で捜査一課(殺人)が動くのは精々、月に2~3回だった。つまり、戦争の記憶がまだ生々しかった時代だ。

北朝鮮の工作船事件から、戦争法の論議がいろいろとかまびすしい。コソボ空爆の進展を見ても、「後方支援」というのは事実上の参戦である。敵方に攻撃されるのは当然である。“親方・星条旗”がヤレというのだから、政府はやらざるを得ない。残念な事だが、日本は独立国ではないのに、独立国ヅラをしようとするのだから、ムリが目立つ。

これらのすべては、戦後の自民党独裁がもたらせた結果で、その二世議員たちが家業を継いでいるのだから。どうしようもないというのが実態である。それにしても、彼らから「アメリカの一州になろう」という声があがらないのも不甲斐ない話だ。

独立国というのは、領土と国民と、軍刑法を持つ軍を持たねばならない。だから自衛隊はもちろん軍隊ではない。ましてや、日本が軍事大国になるなどの声は牽強付会もはなはだしい。昔の日本陸軍の歩兵操典の第一条に、「歩兵は軍の主兵にして…」(戦友会などで、この続きを訊いたが、もう誰も覚えていなかった)とあった。

米映画『プライベート・ライアン』を見給え。ノルマンディ上陸作戦の米軍歩兵の死屍累々の場面が息をのむ思いで迫ってくる。つまり、歩兵が敵地を占領しない限り戦争は終わらないのだ。米軍の第一騎兵師団が横浜に上陸して、はじめて第二次大戦が終わった。湾岸戦争が終わらなかったのは、米軍の歩兵がイラクを占領しなかったから、フセインは生きのびた。もっとも“アメリカの死の商人”がミサイルの古いのを使わせて新品に換えさせるためという説もある。するとコソボも同じだ。

話がそれたが、日本で歩兵になりたがる若者がいるだろうか。重い装備で歩く兵隊は、即、死を意味する。コンピューター操作でミサイルを撃ったり、航空機の操縦、戦車の運転など、志願者はある程度いるだろう。しかし、歩兵が多数いなければ、軍事大国ではないのである。今の若者に、そんな歩兵になりたがるのはいない、と私は断言する。そして日本では、徴兵制度の立法化ができるハズがない。髪を染めたり、ピアスをつけたり、より享楽的な女の子と遊んでいる方が、よっぽど楽しいではないか。私も、若かったらテレビの深夜番組の下品でブスな女たちを見ながら、センズリを掻く生活を選ぶだろう。 平成11年(1999)4月17日

編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し

編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し 平成11年(1999)4月21日 画像は三田和夫70歳(1992年)
編集長ひとり語り第8回 政治屋悪くしてすべて悪し 平成11年(1999)4月21日 画像は三田和夫70歳(1992年)

■□■政治屋悪くしてすべて悪し■□■第8回■□■ 平成11年(1999)4月21日

4月21日付朝日紙朝刊は、一面トップに「ODA債権を実質放棄、政府方針41カ国9300億円」と報じた。「26日のG7で宮沢喜一蔵相が伝える」と、記事中にあるのだが、これほど大きな政治問題でありながら、各紙では黙殺のようである。かねてから私は、このODAについて、大きな不信と疑問を抱きつづけてきたのだが、その結末がこれである!

“リュウ・ボリス”と、またまた橋本龍太郎がモスクワ訪問である。自分の一族に捜査を進めている検事総長のクビ切りが、再度、国会で反対されたエリツィンの“実力”に、政府はいったいナニを期待しているのか。橋本という亡霊に対する、内輪のサービスか。小渕首相自身が、ピザを抱えた写真をタイム誌の表紙にサービスする。一国の首相として、ここまでやるのか、という声も出ている。橋本のアンパン、小渕のピザ——なんという好対照であろうか。橋本の訪ロ、小渕の訪米と時期までニラんだこのサル芝居! 首相というものは、もっと日本国の現在と明日に対して、真剣に対処すべきであろう。個人的な人気取りパフォーマンスは止め給え。

ODAといえば、もはや政治家の利権と化しているのではないか。中国に対する竹下登の窓口など、利権以外のなにものでもない。そして多くがハコモノの建設である。日本のゼネコンが請負う。当然、リベートである。竹下の娘ムコの竹中工務店と対中国ODAの関係など、多言を要しないであろう。どこの国のナニに、どれだけのODA供与があったかをまとめて公表すべきである。これだけの重大ニュースを朝日紙が特筆大書しているのに他紙が後追いしないのは、G7での発表の予告篇なのである。意図的なリークとショック療法を狙った、政府筋と朝日紙のナレアイなのであろうか。

検察NO.2の則定前東京検事長とパチンコ業者との親密交際、東京都監察医務院の医師3名による、虚偽データの学会発表など、連日の新聞紙面には、信じられるべき人の信じられない事件が報じられている。社会的地位や教育がありながら、常識では考えられない事件を起こす人びとが、60歳台にまで及んでいることを、どう考えるべきなのか。60歳といえば、敗戦時には小学生。その人格形成には、戦後教育の色が濃い。

やはり、ODAの利権化といい、戦後の政治の在り方が、その根源にあるには違いない。今の若者の特徴といわれる“ジコチュウ”は、もっと年長の階層に根ざしているのだ。テレ朝の朝日記者のゴーマン振りが、それを如実に物語っていよう。 平成11年(1999)4月21日

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線”

編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)
編集長ひとり語り第9回 野村夫人と清張を結ぶ“点と線” 平成11年(1999)4月28日 画像は三田和夫30~40代?(読売退社後~正論新聞の時期)

■□■野村夫人と清張を結ぶ“点と線”■□■第9回■□■ 平成11年(1999)4月28日

“役者バカ”という言葉がある。修行一筋の生活から一流の俳優(主として歌舞伎)になるのだが、役者以外のことは無知で客観性に欠けることをいう。と同時に、この言葉から、学者バカ、記者バカ(例のNステの朝日記者の如く)、医者バカ(最近、歯医者が女を殺す事件が二つも起きた)、スポーツバカ(アメリカのオカマと結婚したマラソン選手)などと、各界、各層に広がり、政治バカや野球バカなども現れてきた。

サッチーとか称する牛鬼蛇神(産経紙の「毛沢東秘録」に出てくる妖怪変化)の行状を見ていると、野村阪神監督も“野球バカ”だったのだナ、と思う。離婚前にこの牛鬼蛇神にカラダを張られて妊娠させ、とうとう結婚させられてしまうからだ。これでは野球殿堂入りも危ないだろう。

彼女が社会的責任について一切話さず、油に水を注ぐとか、グッドファーザーだとか、教育の無さを丸出しにしてノシ歩いているのを見ると、つくづく“氏より育ち”の感を深くする。山口敏夫元代議士が、どうしてあのように金に卑しくなり、ついに身を滅ぼしてしまったか。父親の山口六郎次代議士が、ホントの井戸塀(井戸と塀しか財産がなかった)議員で、その死後、一家は生計が立たず山口元議員は若い時から貧乏にあえぎ、明大の学資も姉たちが働いて支払ったほどだ。野村夫人が、どんなに金に汚く、反社会的行状にテンとして恥じないのも、占領下の新橋第一ホテルのウエイトレスからスタートした人生が現在を支配しているからだ。

同じように、反社会的行動と金の汚さをテンとして恥じずに、一切無視し通した男に、松本清張がいる。

松本清張が私の処女出版の「赤い広場—霞ヶ関」から盗作していることを知って、私は手紙を出して善処を求めた。当時の私は読売を退社し、講談社の仕事で生活していたのだが、清張に連載を依頼しに行った編集局長に、「三田を黙らせたら引き受ける」といった。局長からの話に、私は激怒して仕事を蹴って、著作権法違反で告発した。その記事が各紙に報じられるや、「オレも盗作された」という人物が数人も現れてきた。私の場合は「深層海流」に盗作され、名乗り出たのは「昭和史発掘」で盗作された数人で、清張の盗作が報じられたのと、今の野村夫人のトラブルが報じられたのとまったく同じだ。

そのころ、清張は週刊朝日にいた森本哲郎に電話で相談した。彼は「三田の土俵に上がるな、全く無視しろ」と答えた。この問答を聞いていた朝日記者の話だ。東京地検次席河井信太郎は、清張の「検察官僚論」のネタ元である。私の告発は時効不起訴の処分だった。そして、文春がのちに刊行した清張全集では私からの盗作部分はすべて削除され、その担当者だった女性は、清張記念館館長である。もはや、一流新聞社にも一流出版社にも、道義も社会正義のカケラもない時代なのである。 平成11年(1999)4月28日

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か…

編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)
編集長ひとり語り第10回 社会的責任とは何か… 平成11年(1999)5月6日 画像は三田和夫78歳(右側 1999.02.20)

■□■社会的責任とは何か…■□■第10回■□■ 平成11年(1999)5月6日

連休明けのニュースは、小渕首相の訪米が本人の自画自賛にもかかわらず、あまり相手にされず重要視されなかった、という各紙の現地記事である。その次は、菅民主党代表が江沢民国家主席と会談できた。小沢自由党党首が会えなかったというのに…。私の感想では、日本の政治家はどうして日本国内での政策で勝負せず、外国の権威でハク付けしようとするのか、悲しい現実である。

小渕や菅が、相手に迎合したとか、国辱的行動であったとか、批判するのは日本国民として当然のことであって、「事実」(と認められる有力新聞の報道も含めて)を、どう認識するかは、各人の自由である。そして、これは「中傷」とはいわない。それは、2人とも公人であるからだ。

先週号の『編集長ひとり語り』に、「個人に対する中傷で不愉快だ」という反応があった。私の文中で取り上げた個人名は、野村夫妻、山口元議員、松本清張の4人で、誰に対する中傷なのかは、投書は言及していないが、やはり反論しておかねばならない。

私は新聞記者である。ミニコミ紙と言われながらも、30余年『正論新聞』を発行しつづけ、紙上で主張を展開している。誰でもが、いつでも読むことができる、公(おおやけ)の文章である。つまり、社会に公開されているということは、印刷紙面であれ、このインターネット上であれ、筆者の私には、当然「社会的責任」が負わされているのである。その意味では、準・公人である。

「中傷」とは、無実のことをいい、他人の名誉を傷つけることをいう。私が個人名を明記した前記の4氏について、投書者本人にとっては、「信じられない」ことが書かれていたので、中傷という言葉を使ってしまったのであろう。だが、私が書いたことは、残念ながら「事実」なのである。その「事実」の証拠を私はきちんと保存している。

そして、この4氏は、私と同様に社会に対し発言し、行動しているのだから、準・公人なのである。社会的批判に堪えられるだけの言動が求められ、かつ、その批判に対して社会的責任を明らかにする義務がある。その義務を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう。

松本清張について付言しておこう。私が彼に対してとった、著作権法違反の告発は、東京地検で不起訴処分となった。検察は、犯罪(容疑)に対して、国の代理人として起訴(裁判を請求)か不起訴を決める。不起訴には、嫌疑なしか、政策的判断(微罪、容疑者更生など)などがある。しかし、私の告発は「時効不起訴」だったのである。解説すれば、盗作の事実はあるが、時効だ、ということである。だから、彼は文化勲章も受けられなかったのである。この一事で全て、彼の人となりが理解できよう。 平成11年(1999)5月6日

編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは

編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは 平成11年(1999)5月10日 画像は三田和夫30代?(読売記者時代か)
編集長ひとり語り 番外編その1 差別用語とは 平成11年(1999)5月10日 画像は三田和夫30代?(読売記者時代か)

■□■差別用語とは■□■番外編その1■□■ 平成11年(1999)5月10日

「バカでもチョンでも…」という言葉を使ったのは、先週号(第10号)の「社会的責任とは何か…」の文中である。すると早速、「これは差別用語である。取り消すべき」という反応が、いくつか寄せられた。そこでこの差別用語なるものについて、私の意のあるところを、何回かに分けて述べてみたい。

その文章は、公人の社会的責任について述べたあと、「その義務(社会的責任を明らかにする)を怠るならば、バカだ、チョンだといわれても、やむを得ないだろう」と、結んでいる。この文章の流れから言えば「バカだといわれても」と、「チョン」の部分が無くても、いささかも不都合ではない。そのように書きかけてから、私はあえて「チョンだといわれても」と、「チョン」を付け加えたのである。それは、『ひとり語り』の読者たちが、どのように反応するかを、確かめてみたかったからである。

そして、その読者たちとディベートする機会をつくりたい、と思ったからである。「チョン」が「差別語」にされていることを、十分に承知して使ってみたのである。その結果、すぐさま反応が現れたのだった。

いったい、だれが「差別語」なるものを、どのような基準で、選別し、決定したのだろうか。多分、それは昭和40年代のことだろうと思う。いわゆる“人権屋”と称される人たちの“言葉狩り”の結果、歴史的事実と関りなく、あれも、これもと列挙され、それがマスコミで宣伝されて、「活字神話」の信者たちである若い人たちのアタマに、叩きこまれたものであろう。

最初に、私の意見を述べておこう。私の中学生時代、東京府立五中時代の同期生に朝鮮出身者がいた。当時、朝鮮半島は日本の植民地だったが、府立五中にも朝鮮出身の生徒がいたということは、本人の優秀さはもちろんのこと、差別がなかったということである。彼とは、校友会雑誌部で親しくしていた。さらに、日大芸術科に入ると、学友には、朝鮮や台湾出身者は多数いて何人も親しい男がいた。

さらに、軍隊に入ると、ここでも、優秀な朝鮮出身者がいた。中国での駐屯地では、将校だったので行動が自由で、河南省の田舎町だったが、理髪店主や、駄菓子屋、食堂などの中国人たちと仲良くなった。そして、シベリアの捕虜である。2年間も同じ炭坑町にいたので、炭鉱夫、女軍医など、もう一度会いたいと思うほど、懐かしい人びとと相知った。

もう11年前のことになるが、知人に頼まれて『岡山プロブレム』という単行本をまとめたことがある。2カ月ほどかけて、岡山県下をくまなく歩き、取材してまわった。その時に知ったことだが、この瀬戸内には、中国と朝鮮の文化、それをもたらした中国人、朝鮮人が土着し、その“血”を日本人として伝えていることに、深く感じ入った。例えば、秀吉に忠節を尽し、関が原の合戦に秀頼を擁して、西方の総大将になった宇喜多秀家がいる。彼の曾祖父・能家は、「百済国人三兄弟」のひとりだ。敗戦の責を問われ、秀家は八丈島へ流され、歴史は「ここで宇喜多家は断絶した」とする。

その岡山取材から数年後に、一流銀行の広報部長に会った。その姓が「浮田」なので、「八丈島の出身ですか?」とたずねると、そうです、と答えた。秀家が多分、八丈島の女性に生ませた子供の子孫なのであろう。百済国人の“血”は、こうして、日本人に流れつづけているのである。

こうして、朝鮮半島人や中国人たちと付き合いつづけ、戦争と捕虜を通じて、私は信念を抱くにいたった。日本文化の父は中国、母は朝鮮である、と。かつ、捕虜時代には、旧ソ連人だから、ロシア人、ウクライナ人、カザフ人、タタール人と、多くの民族の人びとと接してきて、国籍や民族や宗教を越え、人間は人間なんだ、ということを痛感した。そこには、差別や差別用語などは存在しない。

「バカチョン」のチョンが、朝鮮人に対する蔑称だ。だから差別語だ、という主張の人びとが、どのような合理的な、もしくは歴史的な事実を示しただろうか。私は、残念ながらチョンの説明を耳にしたことも、目にしたこともない。

それどころか、差別語なるものを決定し、声高にいい立てる人びとこそが、差別そのものではないか。私は、人間が、人間の尊厳に対し敬意を抱き、礼節を守ること、すなわち精神の内奥で自立することが、すべてだと思う。石原都知事が、中国を支那と呼ぶことを強弁している。が、中国人がその言葉で不快感を覚えるというのならば、それを使わないのが礼儀である。人間同士なのだから…。

日本文化の父が中国、母が朝鮮。これはいかんともしがたい事実である。そうであれば父の流れを汲む現在の中国人、母の流れを伝える現在の朝鮮人。そのどちらにも、それなりの人間としての対応があって然るべしである。とすると「差別語」なるものがあるハズもないし、「差別」なるものもないハズである。

私の書いたチョンが差別語だ、という人たちは、私にその根拠を教えてほしい。根拠も示せずに主張するのは言葉狩りに乗せられていることになろう。無批判に、言葉狩りを伝えたマスコミの活字を、盲信してはいけない。(つづく) 平成11年(1999)5月10日

編集長ひとり語り 番外編その2 差別用語とは(つづき)

編集長ひとり語り 番外編その2 差別用語とは 平成11年(1999)5月11日 画像は三田和夫71歳(蘇州・寒山寺 1992.08.04)
編集長ひとり語り 番外編その2 差別用語とは 平成11年(1999)5月11日 画像は三田和夫71歳(蘇州・寒山寺 1992.08.04)

■□■差別用語とは■□■番外編その2■□■ 平成11年(1999)5月11日

私はその精神と行動のすべてにおいて「差別」は全くない。従って「差別語」なるものも、認めないのである。だが、日本国内はおろか、全世界の人々の間に、「差別」があることは事実である。その差別は、民族や宗教、国籍、職業、出自、貧富等、いろいろな原因から来ているが、人権思想が普及してきて、次第に少数派になりつつある。

パソコンに馴染み、インターネットにアクセスするのは、圧倒的に若い人が多い。あえて分類すれば、50歳以下ということだろう。つまり「差別」なるものを、それほど意識しない層ということになる。

私が「チョン」を「バカ」のあとに、あえて付け加えたのは、この若い人たちが「差別語」にどう反応するか、の問題提起だったのである。「これは差別語だから不適当」という人がいれば、その人は「差別」を意識している人だ、と私は思う。差別だ、差別だと思いこんでいる限り、差別はなくならない。若い世代の人たちが、「差別」という言葉を意識しなくなり、忘れてしまう時代は、もうすぐそこまで来ているのである。

60代、70代の頑迷固陋な“差別主義者”たちは、近いうちに居なくなってしまうのだ。例えば、国際結婚がどんどん増えている。農村地帯では、農家の嫁にくる日本女性が少ないから、中国、韓国、フィリピン、タイなどの嫁さんがふえている。こうして、差別や偏見は、やがて消えうせる運命にある。

「チョン」が、朝鮮半島出身者を軽蔑する呼称だ、とは私は思わない。戦前には、半島や台湾出身者も、日本国籍人だったから、軽蔑する必要性はなかったハズである。中国人とは、戦争をしていたから、米国人がジャップと私たちを軽蔑したのと同じように、中国人に対する軽蔑の呼称があった。しかし、もし戦前(戦中)に、チョンという蔑称があったとすれば、当然、私も知っているハズだ。なかったという実例として、「朝鮮ピー」という言葉をあげよう。「ピー」とは中国語で、女性器もしくは売春婦を意味する。そんな女性のいる店を「ピー屋」といった。ところが、いま戦友会などで話題になることがあっても、誰もが、「朝鮮ピー」という。チョンピーというものはいない。

こうしてみると、「チョン」が出てきたのは戦後のことである。韓国ソウル特派員を長く勤めた大新聞の記者に聞いてみた。「チョンというのは、半島出身者に対する蔑称だと思いますか」と。外語大でも韓国語を専修した彼は、「そうは思わない」と否定した。

多分、私はこう思うと前置きして、彼は話し出した。チマチョゴリを着ている女子朝鮮高校生に対して、日本の若者たちのイヤガラセ事件が頻発していたころ、彼らは朝鮮高校生たちを「朝高(ちょうこう)」と呼んでいた。それがナマって「朝公(チョンコウ)」になったのではないかと。朝鮮は韓国語でチョソンであってチョンではない。

ところが、チョンガーという言葉がある。独身男子の俗称で、朝鮮漢字音では「総角」と書く。単身赴任者が、札幌に多かったので、「札幌の独身男子」ということから、「札チョン」という言葉が週刊誌などで流行した。昭和40年代のことだろうか。と同時に、同じような言葉が流行り出した。「バカチョン・カメラ」である。

「押せば写ります」という謳い文句で、自動焦点のこのカメラは、各社がそれぞれ販売に力を注いだ。平成4年5月合併号の正論新聞は、「《バカチョン》を追っかけてみた…」という記事を掲載している。その時の各社の“模範回答”をご紹介しよう。

●フジカラーお客様相談室「当社ではコンパクトカメラと呼んでいます。そのような言葉は使ってはならないと思います」

●ペンタックス消費者相談室「俗語として消費者側が使っている言葉。以前のカメラは広角レンズのため小さく写るが、シャッターを押すだけだった。いまはズームレンズのため、ただ押すだけではダメで、バカチョンという言葉は当てはまらない。チョンの意味については、ピンからキリまでと同じように、すぐには分からないが、良い言葉ではないと思う。(本紙注=ピンは花札の1月で、キリは12月の桐のこと)

●コニカお客様相談室「そのような言葉は使っていません。お客様に失礼な言葉だと思います」

それでは、バカチョン・カメラとは、誰が名付けたものか。各社とも、朝鮮語のチョンガー(独身男の蔑称、略してチョン)から、これは朝鮮民族に対する蔑称、すなわち差別語として、警戒している様子であった。(以上正論新聞より引用)

いずれにせよ、社会的には、「札チョン」と「バカチョン」とが、ほぼ同時期に流行語となり、札幌チョンガーが、朝鮮語を略した「チョン」だったから、バカチョンのチョンも“同一犯”とされたのであろう。だが私は、バカもチョンも、仏教関係語だと信ずる。次回はそれについて述べよう。(つづく) 平成11年(1999)5月11日

編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは(つづき)

編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)
編集長ひとり語り 番外編その3 差別用語とは 平成11年(1999)5月12日 画像は三田和夫50歳前後?(写真中央 正論新聞初期)

■□■差別用語とは■□■番外編その3■□■ 平成11年(1999)5月12日

たまたま、インターネットをいじっていたら「差別用語一覧」みたいなものに出会った。それによると、「バカチョン・カメラ」はB級として出ていたが、「バカチョン」は出ていなかった。つまり、バカチョン・カメラの流行りだしたころに、これは「差別語」とされたようだ。この言葉の流行りだした時期と「札チョン」の時期とを、キチンと調べるとその相関関係は明らかになるだろう。

と同時に、朝鮮高校生へのいやがらせ事件との関連も必要だろう。先生を「先公」と呼んだ時期も、朝高生⇒朝公⇒チョンコウへの転移が明らかになれば、より明快になろう。

各社の国語辞典の「バカ」の項をみると〔馬鹿・莫迦・破家〕とあり、「馬鹿は当て字。梵語の慕何、または梵語の摩訶羅(無知)の転で、僧侶が隠語として用いたことによる」とある。つまり、佛教関係語が語源だったということだ。

一方、「願人(がんにん)」の項をみると①請願する人、②祈願する人、③願人坊主、とあり、「願人坊主」とは「江戸時代、僧形の乞食。加持祈祷などをして、礼をすすめた俗法師とも。人に代わって祈願や水垢離(みずごり)などをして、銭をもらって歩いたもの」

岩波古語辞典には、「ちょぼくれ・ちょんがれ」があった。「近世、亨保頃から始まった願人坊主の大道芸。錫杖を伴奏として、野卑な文句を口早に語り、ちょぼくれ・ちょんがれと、囃子詞を入れたので、こう名づけた」とある。辞典には“野卑な文句”とあるだけで、その内容は書かれていない。

この時、「僧侶の隠語」であった「バカ」が、バカ・チョボクレ、バカ・チョンガレと唱えられたのではあるまいか。古典落語や江戸時代の浮世絵に、「バカでもチョンでも」という言葉があれば、一件落着となる。これは、私にとっても、これからの研究課題でもある。結論として、私は、この「バカ」と「チョンガレ」との結合語が「バカチョン」の語源だと信じている。従って「バカでもチョンでも」は、日本の古語で、差別語だとは思わないし、差別語としても認めない。

中国を「支那」と呼ぶことは、中国人が不快感を覚えるから使わない、と書いた。すると、「チョン」に韓国人が不快感を持つというのだから、首尾一貫しないという指摘もあった。だが、戦後1979年に初めて中国旅行に行った時、ガイドの中国人が、「シナという言葉は慎んでください」と注意した。韓国にも旅行したが、ガイドは「朝鮮と朝鮮人という言葉は使わないように」としかいわない。つまり、「チョン」が韓国人への蔑称だという説は、戦後ずっと経ってから、札チョンののちの、バカチョンカメラ時代に、「差別をことさらに意識する人たち」によって、言葉狩りの対象にされたのだ、と思う。

韓国旅行のガイドの“朝鮮・朝鮮人”について、私はバスの中で異議を唱えた。「朝鮮ホテルや朝鮮日報が現存するのに、ナゼですか」とたずねた。すると、「韓国人が歴史的な事実からその名を残したのであって、日本人が朝鮮と言うと、植民地時代が思い出させられるから」という。「支那」についても同じだろう。「東シナ海」が現存するのだから。

今回の番外篇を書くに当たって、韓国人に「チョン」の感想をたずねたい、と思った。前回登場した大新聞記者に紹介された、2人の韓国人を探した。1人は三井物産の社員だったが、昨年の9月に退職していた。もう1人は、浦和市で翻訳業をしていたが、転居したと見えて、電話が通じなかった。従って、韓国人には、チョンについての感想を聞くことができなかったのは、残念なことであった。

私は、中学時代から半島出身者の友人がいたし、日大時代もそうだったと書いたことは、私に外国人に対する偏見がないこと、すなわち、差別を意識しない育ちだった、ということを述べたのである。このような学友たちがいたということと、差別の問題とは別だ、というご意見もあったが、外国人を外国人と意識しないでいられる生活環境が、差別をなくする道ではないだろうか。

そしてまた、バカチョンとはバカとチョンをつなげた言葉だ、と受け取る人が意外に多いようである。宇喜多秀家(百済人)の血を引いた「浮田」姓の日本人がいることを書いたが、朝鮮民族がバカだと思う人たちこそが差別主義者である。

南方からの黒潮に乗って日本に流れついた外国人を黒潮民族と呼ぶ。九州南部、四国南部など、黒潮が洗う一帯である。これに対して瀬戸内民族がある。瀬戸内海の沿岸一帯に土着した外国人である。主として朝鮮民族、中国人も含まれよう。

この瀬戸内海沿岸(中国・四国とも)から碁、将棋の名人が何人でているか。もっと具体的に、日本国の総理大臣が、何人でているか、指を折って数えてみたら分かる。つまり朝鮮民族の血を継いでいる日本人の多くが、バカではない、ということである。

岡山県東部の福岡町に居城を構えた黒田家に、秀吉は大阪に近すぎるというので、不安を覚えて九州に飛ばした。黒田一族は博多に移ったが、福岡という地名も持っていったので、福岡と博多が同居するハメになった。同じように、岡山県中部の吉備高原に栄えた吉備文化とは、朝鮮文化である。大和朝廷は、やはり吉備文化に脅威を感じて、これをツブしたのだった。岸、佐藤の兄弟首相も、橋龍も、アーウーの大平首相も、DNA検査をしたら、朝鮮民族だと判明するに違いない。

チョンがどうして、朝鮮半島出身者に対する蔑称なのか? そうしたことを思いこんでいる人たちこそ、差別者である。その言葉の歴史的、合理的な根拠を示されない限り、私は、それを認めない。そして、韓国人にもそう思っている人がいるならば(蔑称と受け取り不快感を覚えるという)、私は、あらゆる機会に誤解を消し去る努力をするだろう。そんな枝葉末節にとらわれず、自分たちの先祖が、どんなに日本に貢献したかの歴史的事実を学んで、誇りに思ってもらいたい。 平成11年(1999)5月12日