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雑誌『キング』p.102上・中段 幻兵団の全貌 はしがき
はしがき
昭和二十五年一月十一日付の読売新聞は『シベリアで魂を売った幻兵団』という大きな横見出しのもとに全面をうずめて、ソ連地区抑留日本人の組織するソ連スパイ網の事実をスクープした。
拳銃、誓約書、合言葉、日本語の美人、賞金。あまりにも道具立ての整いすぎた、探偵小説そのままのようなこの記事に対して、読者の多くはスリラー的な興味を覚えながらも、やはり半信半疑の感があったに違いない。
なぜかといえば、次のような疑問が湧き起こってくるのが当然であろう。その一は、すでに戦争を放棄して自由と平和の国として立ち直りつつある現在の日本に、血なまぐさい国際スパイ団的な秘密組織があり、しかもそれには多数の日本人が参加しておって、もはや〝冷たい戦争〟以上の事実が展開されているということは信じ
新宿慕情 はしがき扉 装丁・挿画 原徳太郎
新宿慕情 p.004-005 「正論新聞」は息も絶え絶えであった
はしがき
私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。
大判一枚ペラの「正論新聞」は、昭和四十二年元旦号から創刊された。だれもスポンサーはおらず、私が、取材して原稿を書き、読売の友人が整理をしてくれた。妻が事務を取り、長男の高校生が、友人たちを集めて、有楽町駅前で撒いた。
旬刊の目標だったが、まったくの独力なので、二、三号出すと資金がつきた。私はまた、雑誌原稿を書き、稿科を貯めた。第三種郵便物の認可も、既刊三号を添えての申請だから、一向に取れなかった。
事実上の不定期刊で、「正論新聞」は、息も絶え絶えであった——そこに、日通事件が起こった。昭和四十三年夏のことだった。
この日通事件を、政治検察の動き、と見て取った私は、直ちに、「検察体質改善キャンペーン」を始め、検察派閥の攻撃記事を掲載して、有楽町と霞が関、そして、検察ビルの門前で撒いたのだった。
検察が、戦前からの流れで、思想検事と経済検事との派閥対立を抱えており、それが、政治と結びついて、弊害を生じていることは、新聞記者をはじめとして、有識者にとっては、周知の事実であった。
だが、だれもが、それを公然とは非難しなかった。新聞もまた、批判の筆を振るおうとはしな
い——同じように、国家権力の執行者でありながら、警察に対しては、あれほど、威丈高に書く新聞が、どうして、検察には、卑屈なほどに恭順なのか?
私の「大新聞批判」のきっかけは、ここにあるのだが、私は、意を決して、検察批判を行った。前後二回、丸二年の司法記者クラブ詰めの体験から、「正論新聞」の記事は、具体的で説得力があった。この〈聖域〉に、戦後、初めての批判が加えられたわけだった。
——「正論新聞」が、評価されたのは、この検察批判を敢行したことにあった。いわゆる〝ブラック・ジャーナリズム〟との本質的な差違は、ここにある。「新聞」と「ビラ」との違いである。
時代の流れでもあろう——「正論新聞」のこの反権力の姿勢を、検察首脳は、率直に認めて、弾圧に代えるに自省を以てした。数代の検事総長は、報復人事をやめて、「正論新聞」の指摘した、派閥対立の解消に心を砕いた。しかし、私自身は、批判を快しとしない現場の検事たちに、仇敵視され、身辺を秘かにうかがわれたものだったが、無事、今日にいたっている。
私が、このように、「正論新聞は、力のない弱者の味方です。庶民の率直な気持ちを紙面に反映し、権力、暴力など、力に屈しません」(同紙信条より)と、〈新聞と新聞記者の原点〉に立ち戻れたのは、それなりのキッカケがあったのである。
昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事
を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。
新宿慕情 p.006-007 私の〈新聞記者開眼〉であった
昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事
を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。
その記事のなかの私は、〝グレン隊の一味〟になり果てていた。悲しかったし、憤りさえ覚えたのだが、その次の瞬間、私はガク然とした。
「オレも、長い記者生活の間、同じように、こんな記事を書いていたのではないか?」という思いが、背筋を電光のように走ったのであった。
調べもせず、外形的な事実だけを綴って記事とし、多くの人を悲しませ、瞋らせていたのではないか……という反省であった——私の、〈新聞記者開眼〉であった。
もしも私が、この安藤組事件に連座して、読売を退社せざるを得ない立場に、追いこまれなかったならば、私は、さらに長く、深く、強く、過誤をつづけていたに違いなかったと、いまでもそう信じている。
そして、新聞社を去って、初めて、「新聞」というマンモスの姿を、冷静に見つめ、批判することも、知ったのであった。
もしも私が、あのまま読売に在職しつづけ、編集幹部にでも栄進していたならば、私は、尊大な、ハナ持ちならぬ権力主義者になっていただろう。
その意味で、この昭和三十三年の夏。読売を自己都合退社するキッカケとなった、安藤組事件に関して書いた、ふたつの原稿——「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。
ともに、もう古いもので、古本屋などでも入手できないし、私の手許にも、一部しか残っていない。
新聞記者として開眼しながら、フリーの新聞記者という制度のない日本では、私は、雑誌の寄稿家でしかあり得なかった。そして、「真実を伝える」取材と執筆とに徹した私は、雑誌社・出版社の利害と衝突する原稿を、幾度か削られ、ボツにされた。
——真実を書くためには、自分がオーナーであり、パブリッシャーであり、エディターであり、レポーターでなければならない!
そう結論した私は、「正論新聞」の発刊を考え出した。私の、新聞論と新聞記者論の実験の場、という発想であった。(その部分については、拙著「正力松太郎の死の後にくるもの」昭和四十四年・創魂出版刊に詳述している)
私の人生での、大きな転機となった、このふたつの原稿を、ここに再録して、「正論新聞」の創刊十周年に当たっての、同社出版局の創設記念に上梓することとなった。
巻頭の「新宿慕情」の文章を読みくらべてみると、十七年前の私の原稿は、やはり、ギスギスしている感じだ。文章の道に、終りがないことを痛感する。もう二十年も経つと、キット、この「新宿慕情」も、読み返して恥ずかしくなるに相違ない。
旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。
新宿慕情 p.010-011 新宿慕情・目次 事件記者と犯罪の間・目次
新宿慕情目次
はしがき
新宿慕情
洋食屋の美人
〝新宿女給〟の発生源
ロマンの原点二丁目
〝遊冶郎〟のエチケット
トップレス・ショー
要町通りかいわい
ブロイラー対〝箱娘〟
〝のれん〟の味
ふりの客相手に
誇り高きコック
味噌汁とお新香
新聞記者とコーヒー
お洒落と女と
おかまずしの盛況
大音楽家の〝交〟響曲
〝禁色〟のうた
えらばれた女が……
オカマにも三種類
狂い咲く〈性春〉
青春の日のダリア
事件記者と犯罪の間
その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者
最後の事件記者 はしがき
はしがき
私が、さる七月二十二日、横井社長殺人未遂事件の指名手配犯人を、北海道に逃がしてやった、ということで、「犯人隠避」罪の容疑に問われ、警視庁捜査二課に逮捕されてから、もう五ヵ月になる。
ということは、私が在職十四年十ヵ月にもおよぷ、読売新聞社会部記者の職を投げ出してから、五ヵ月になるということだ。つまり、私はその逮捕の前々日に社に辞表を出したからである。
私には私なりの論理があって、「辞めるべきだし、辞めねばならない」と思って、サッバリと辞表を出したのだが、世の中というのはむつかしいもので、あまり辞めッぷりが良かったので、かえって痛くもないハラを探られたらしい。
つまり、「奴は取材だといってながら、後暗いから辞めるのだろう」とか、「安藤組の顧問という、高給の就職口が決っているから、平気なンだよ」とか、いったたぐいだ。
ある三流雑誌が、〝悪と心中した新聞記者〟という題で、私のことを、安藤とは法政の先輩後輩
の仲で、安藤のツケで銀座、渋谷を飲み廻っていた、と、全く事実無根のことを書いた。保釈出所してそれを読んだ私は、早速その社へ抗議に行った。
最後の事件記者 はしがき(つづき)
すると、御アイサツである。「オヤ? あなたはあの世界へ行かれるのではないのですか。 好意的に書いてあげたつもりですのに」という。開いた口がふさがらない。
それどころではない。私の逮捕、起訴を報じた新聞の記事を読んで、いささか感慨にふけったのである。つまり、その記事をよむと、私は全くグレン隊の一味としか、思われないのである。「オレも落ちたものだなア」と、他人事のように考えていた。
だが、次の瞬間には、果して、オレもあのような記事を書いていたのだろうか、という反省が、それこそ、ボツ然と湧き起ってきたのである。果して、新間は真実を伝えているであろうか、という疑問だ。
イヤ、少くとも、三田記者はその記事で真実を伝えたであろうか、ということだ。今までの私なら、言下に、然りと答えただろう。だが、日と共に私はその自信を失いつつあるのだ。書く身が書かれる身となって、はじめて知った真実である。
いかにも、私の逮柿や起訴を報じた記事は、その客観的事実に関する限り、真実であった。私
たちが新聞学で教わった五つのW、何時、何処で、誰が、何を、どうした、という、この五つのWを充足する、客観的事実は真実であった。――だが、決して真実のすぺてではなかったし、一部の真実が、全体を真実らしく装っていたのである。
私は、そのことを発表したかった。もっと端的にいえば、グレン隊の一味に成り果てた私が可哀想だったから、弁解をしたかったし、弁解を通じて、「新闘は、果して真実を伝えているだろうか」という、世の多くの人たちが感じはじめている疑問を、もっと的確に、改めて提起してみたかったのである。
そして、私は文芸春秋十月号に、「事件記者と犯罪の間」という、長文を書いた。
これには、いろいろの意味で、大きな反響があった。私の手許にも、未知、既知を問わず、多くの感想がよせられたのだった。
この一文の反響を知って、私はさらに、あの一文で提起した、「新聞」と「事件記者」との問題について、もっと書かねばならないと感じたのである。もっとより多く、より深く、新聞と新聞記者とを知ってもらいたいと考えたのである。
日本中で、毎日発行されている何千万部もの新聞について、読者はもっと正確な知識を持たな
ければならない。そうでなければ、あの〝活字の持つ魔力〟に、ひきずり廻される危険がある。
最後の事件記者 はしがき(つづき)
若輩の私が、ここで、その大きな問題について、明快な解答や結論を出そう、というのではない。これは、一人の事件記者の生活記録でしかない。
それも、事件と新聞という、大きな谷間におちこんでしまった、一人の男のそれである。彼を犠牲者と呼び、ピエロと名付けようとも、これが、事件記者の現実である。
芸術祭参加のテレビ・ドラマ「マンモス・タワー」は、映画とテレビの谷間におちこんだ生粋の映画人が、映画の世界を去らねばならなくなった記録であった。新聞もまた、マンモスである。
テレビの「事件記者」は、来年もまたロングランをつづけるという。しかし、現実の新聞の世界では、私が〝最後の事件記者〟であるに違いない。
昭和三十三年十二月
三 田 和 夫
最後の事件記者 目次
目次
はしがき
我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スパイ
幻兵団物語
書かれざる特権
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正交成会潜入記
新聞記者というピエロ
あとがき