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最後の事件記者 p.186-187 一番若い娘さんの友人を探した

最後の事件記者 p.186-187 確証をあげるべく必死の〝捜査〟を行っていた。デスクは、Sの写真を渡して、「これを生き残りの四人に見せて、面通しをしてこい」という。
最後の事件記者 p.186-187 確証をあげるべく必死の〝捜査〟を行っていた。デスクは、Sの写真を渡して、「これを生き残りの四人に見せて、面通しをしてこい」という。

『まだ、名前を申しあげてませんでしたが、私はこういう者です』

彼女は好意にみちたまなざしで、私の名刺に手を出した。が、次の瞬間、彼女はガバと机にう

つぶしてしまった。心持ちゆれてる肩をみつめながら、私は「イタズラがすぎたかな」と、スハといえば逃げられるように身構えながら、黙ってみつめていた。

 数分後、やっと彼女は顔をあげた。そして、自分のダマされッぷりに、恥かしそうに笑いながら、哀願したのである。

『アノ、何でもしますから、どうか、このことは誰にもいわないで下さいね。ことに新聞の人に……』

私もホッとして、ニヤニヤしながら、

『じゃ、お茶でもオゴンなさい』

といった。「第一、女の人が男に向って、何でもしますから、なンて頼み方をすれば、誤解されますよ」と、つけ加えた。

二人でお茶をのみながら、「第一、私が警察官、ことに警部補に見えますかね」と、彼女の人をみる眼のなさを叱ると、答えた。

『こんな話の判ったお巡りさんを、少年主任にしておくなんて、署長さんはエライと思い、警察も民主化したな、と感じながら、あなたのお話しを聞いていたンです』

その警察に、私はパクられたのである。

帝銀事件の面通し

帝銀事件の時は、記者の心理につけ入って仕事をしたことがある。帰り新参の私は、まだあまり各社の記者に、カオが売れていなかったので、できた芝居だったのである。

事件が起ると、読売〝捜査本部〟は、Sという人物を調べ出して、これこそ犯人なりと、確証をあげるべく必死の〝捜査〟を行っていた。デスクは、Sの写真を渡して、「これを生き残りの四人に見せて、面通しをしてこい」という。

入院先の聖母病院へ行ってみると、四人の病室への廊下が、入口で閉められていて、巡査が立番している。はるかに見通すと、病室のドアのところにも一人、制服の巡査が張り番だ。これではとてもダメだと思ったが、しばらく様子をみることにした。

各社の記者たちが、お巡りさんと口論している。「入れろ」「入れない」の騒ぎだ。私はそれをみると、急いで外へ出て、四人のうちの一番若い娘さんの友人を探し歩いた。ようやく学校友だちをみつけて、彼女に、一緒に見舞に行ってくれ、と頼みこんだ。

最後の事件記者 p.188-189 記者さんでいらっしゃいますか

最後の事件記者 p.188-189 『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』
最後の事件記者 p.188-189 『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』

ようやく学校友だちをみつけて、彼女に、一緒に見舞に行ってくれ、と頼みこんだ。

『だけど、新聞記者は入れないんです。だから、ボクはあなたのお兄さんになります。記者だということは黙っていて下さい』

大きな果物カゴを買うと、お見舞という札と、目立つようなリボンを飾った。これが小道具である。それをもって、私は彼女と二人で、再び聖母病院に行った。しばらく離れたところでみていると、廊下の入口の巡査を囲んでワイワイやっていた記者たちが、一人減り二人減りして、毎日の某君一人になった。

『あのう、記者さんでいらっしゃいますか』

『ええ、そうですが……』

彼はやや得意然と答える。私にも経験があるのだが、事件の現場などで、こういわれると、何かやはりうれしくて、胸をそらせたくなるものだ。彼は私たち二人をみ、そして、見舞の果物カゴをみた。

『あのう、私たち兄妹は、Aさんの仲の良い友人なのですが、Aさんの容態は如何でしょう。助かりますでしょうか。何しろ、妹が心配してどうしても見舞にというものですから…』

『あ、Aさんですか、大丈夫ですよ。生命には別条ありません。だけど、ウルサくて入れてく

れませんよ』

これで大丈夫である。この会話を立番の巡査に聞かせたかったのだ。記者でさえないことを、第三者、しかも記者に立証させれば、もう充分だ。私たち二人は、また向うの椅子にもどって坐った。やがて、その一人の記者は、しきりに「入れろ」とネバっていたが、あきらめて食事に出ていった。

この機会を狙っていたのだ。私は彼女をうながすと、急いで巡査のもとへ行った。

『アノ、お願いです。元気な顔をみてくるだけですから、入れてやって下さい。この妹が、どうしてもッて、いうもんですから』

巡査はうなずいて、通してくれた。病室の入口の巡査も、第一の関門を通ってきた女連れなので、容易に入れてくれた。私はワクワクである。

ドアをあけて、中に一歩入ったとたん、私は驚いた。病室の中にも一人の巡査がいるではないか! 女二人、男二人が、一室の中で左右に分れてねている。巡査は、その中央のツイタテの処で、フロの番台のように坐っている。

彼女はAさんのニコヤカな表情に迎えられたが、私へは誰の顔からも反応がない。果物をAさ

んの枕許におくと、巡査に背を向けて内ポケットの写真をとり出した。

最後の事件記者 p.190-191 百万円持ち逃げ事件

最後の事件記者 p.190-191 『今日のおタクの夕刊に出ている、仙台の百万円持ち逃げ犯人と同じような男が、ウチに泊っていますがどうしましょうか』
最後の事件記者 p.190-191 『今日のおタクの夕刊に出ている、仙台の百万円持ち逃げ犯人と同じような男が、ウチに泊っていますがどうしましょうか』

彼女はAさんのニコヤカな表情に迎えられたが、私へは誰の顔からも反応がない。果物をAさ

んの枕許におくと、巡査に背を向けて内ポケットの写真をとり出した。

『この男ですか』

Aさんは似てると答えたが、隣りのMさんは、サアと考えた。もう、バレても仕方がない。見舞を装って、男の側へ廻ると、二人の男の枕許で、大ぴらに写真を見せた。二人とも似ていますよ、と答えた時、私は背後から巡査に抱きすくめられてしまった。

面通しの結果は、七十五%も似ている、だったが、このSはやがてシロくなった。私の面通しの結果で、ヴェテラン記者が、すぐその夜に山形へ会いに出張したほどだったが。

下山事件の時は、法医学会へ週刊読売の沢寿次編集長が、法医学者を装ってモグリこんだのだが、開会前に、学校名と氏名の点呼が行なわれて、ツマミ出されたということもあった。

百万円持ち逃げ事件

私の心理作戦が、本当に実を結んだ事件がある。「百万円の四日天下」と、続き写真入りの紙芝居である。私はそこで、旅館の番頭に扮して、ピストルをもった百万円拐帯犯人の逮捕に協力したのであった。

神田神保町の甲陽館という旅館の女将から、電話がかかってきたのは、もう夕方であった。夕刊も終り、朝刊へうつる、緊張から解放された時間だったので、私はものうく、鳴りつづける電話に手をのばした。受話器を耳にあてると、あたりをはばかるような相手の声に、私はハッとひきしまった。

『今日のおタクの夕刊に出ている、仙台の百万円持ち逃げ犯人と同じような男が、ウチに泊っていますがどうしましょうか』

愛読者というものは、ありがたいもので、警察よりも先に知らせてくれたのだ。私はもう一人の記者と、旅館へかけつけた。指名手配の犯人は小島行雄(二一)だが、宿帳には小島行夫とかいてある。

事情を聞いてみると、この日の夕方四時ごろ、若い男二人がパンパン風の若い女二人と連れ立って現れた。四人は少憩ののち、一緒に出かけたかと思うと、やがて男女四人とも、上から下まで新品づくめの、バリッとした服装に変って帰ってきた。

やがて女二人が出かけ、男二人は夕食を食べてからおでかけである。「あの年でどうしてあんなに金が?」と、首をカシげながら、女将が夕刊に眼を通すと、パッと眼を射たのが「百万円持

ち逃げ」の記事だ。宿帳とつき合せてみると、名前も住所もほとんど同じ。

最後の事件記者 p.192-193 怪しまれない人物は?

最後の事件記者 p.192-193 番頭に大男は禁物である。金のある奴は大体からして、肥った小さいのが多い。私は五尺七寸五分の長身、眉目秀麗で、あまり〝番ちゃん〟スタイルではない
最後の事件記者 p.192-193 番頭に大男は禁物である。金のある奴は大体からして、肥った小さいのが多い。私は五尺七寸五分の長身、眉目秀麗で、あまり〝番ちゃん〟スタイルではない

やがて女二人が出かけ、男二人は夕食を食べてからおでかけである。「あの年でどうしてあんなに金が?」と、首をカシげながら、女将が夕刊に眼を通すと、パッと眼を射たのが「百万円持

ち逃げ」の記事だ。宿帳とつき合せてみると、名前も住所もほとんど同じ。

『もう恐くてヒザがガタガタ……』と。そこで、相談かたがた本社へ急報したという次第だった。

部屋にはボストンバッグが二つ。中をあけてみることは容易だが、もし全くの人違いだったらエライことだ。まず、小島行夫が、小島行雄であることを確認せねばならない。「二人に会っても怪しまれない人物は?」と、考えついたのが、旅館の番頭である。

番頭に大男は禁物である。客を見下すことになるし、金のある奴は大体からして、肥った小さいのが多い。私は五尺七寸五分の長身、眉目秀麗で、あまり〝番ちゃん〟スタイルではないが、これは演技カで補うことにした。衣裳は、肝心なのがズボンである。これは坐りつけているため、ヒザが丸くなっていなければいけない。そこで、ツンツルテンだけれども、衣裳はすべて本物と決めた。

同行の記者は、写真の手配、サツとの連絡係だ。こうして、準備万端整えて、初日兼千秋楽の幕が上ったのは夜の十時すぎ。主役の私は帳場のオモテイタツキである。

表がガヤガヤとやかましくなったとみるや、男たちは付近のキャバレーの女の子たちに囲まれ

て、御機嫌うるわしい御帰館、いや登場である。

『お帰りなさいまシ』

帳場から飛び出すや、小腰をかがめて、モミ手よろしく、スリッパをそろえる。

『オット、お危うございます』

小島の腕をとるとみせかけて、実は身体捜検。ピストル、アイ口類の兇器が、背広の下にかくれていないかと、さわってみる。

『何分、夜は女中どもを休ませますので…。何しろ、労働何とかの時代で…』

と、言い訳しながら、酒だ、ビールだと騒ぐのをあしらって、再び部屋での酒盛りのサービスに忙しい。台所では、女将や女中たちが、他処行き姿の番頭まで加えて、おびえたような顔で待っている。

番頭作戦成功

女の子たちが、「菓子」というので、また台所へ飛んできて、菓子鉢を持ってゆくと、

『ドオ、番頭さん、甘いのは?』

最後の事件記者 p.194-195 兇器まで入っている感じだ

最後の事件記者 p.194-195 仙台という言葉に、キャッキャッと騒ぐ女給たちの嬌声の中で、小島がフト耳を傾けて、酔眼がキラリと光った。小島が勤めていた日発の話、グッと表情が変るのを見逃さなかった。
最後の事件記者 p.194-195 仙台という言葉に、キャッキャッと騒ぐ女給たちの嬌声の中で、小島がフト耳を傾けて、酔眼がキラリと光った。小島が勤めていた日発の話、グッと表情が変るのを見逃さなかった。

番頭作戦成功

女の子たちが、「菓子」というので、また台所へ飛んできて、菓子鉢を持ってゆくと、

『ドオ、番頭さん、甘いのは?』

『へエ、どうも恐れ入ります』

坐りこむキッカケをみつけたので、まず一同ヘビールをついでから、女給さんのとってくれる和菓子をキチンと両手で受ける。

『ダンナ様方は仙台の方で……。私は岩手県なものですから、東北の方はお懷しうございますナ』

『何いってンのよ。ダンナ様だなんて。こちらは社長さんのお坊ッちゃんよ』

仙台という言葉に、キャッキャッと騒ぐ女給たちの嬌声の中で、小島がフト耳を傾けて、酔眼がキラリと光った。

『仙台といえば、私の遠縁の者が、日発の支店に勤めておりまして、イヤ、どうせ守衛なんでございますが……』

小島が勤めていた日発の話、グッと表情が変るのを見逃さなかった。四方山の雑談をすること、約三十分。その中に、小島の犯行を暗示する痛い質問が、時々入る。

反応はもう充分。さっきまでのデレデレの酔態が、次第に白けてきて、男二人は顔色まで青くなってきた。犯行の記憶が呼び覚まされたのであろう。

ビールを取りに立ったついでに、待機の記者に合図。神田署から二人の刑事がかけつけてくる。台本の筋書は、臨検として刑事が部屋に入って、職質をやるという手筈。それまで、間をつないでおくのが私の役目だ。

小島が女給のビールを受けながら、床の間のボストンに眼をやる。

——危い!

あの中には、札束ばかりか、兇器まで入っているような感じだ。何とかして、遠ざけておかねばならない。

『ダンナ様、チャンポンなさったのではございませんか。お顔が青いようです。しばらくの間、およりになっては……』

押入れをあけて枕と毛布を出す。座ブトンを並べて、場所をつくる間に、ボストンを押入れの中に突っこんでしまった。

『番頭サン、チョット』

女中が廊下から呼ぶ、刑事がきた!

『アノ、誠に恐れ入りますが、別のお部屋で、お客様にチョット間違いがございましたので、警

察の方が……』

サツと聞いて、ガバとはね起きた小島は、床の間へ手をのばしたが、もう、その時には二人の刑事がズイと入ってきていた。

最後の事件記者 p.196-197 私の名演技〝番頭〟が酒の肴に

最後の事件記者 p.196-197 パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。
最後の事件記者 p.196-197 パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。

女中が廊下から呼ぶ、刑事がきた!

『アノ、誠に恐れ入りますが、別のお部屋で、お客様にチョット間違いがございましたので、警

察の方が……』

サツと聞いて、ガバとはね起きた小島は、床の間へ手をのばしたが、もう、その時には二人の刑事がズイと入ってきていた。

職務質問だ。バックの中味が取出される。白いハンケチ包みが出る。

「アア、カメラね』

これがお芝居とは気づかぬ女たちは、社長令息を信じきって、かえってハシャギながら叫んだ。

パラリとほどけた結び目から、キチッと帯封された十万円の札束が六つ。女たちもさすがにハッと息をのむ。男二人は、机にうつ伏して、肩で息をしている。もはや、立派に覚悟の態だった。

つづいて、バッグの底から、ズシリと出てきたのが、大型の十四年式拳銃。今度は記者や女中たちの息をのむ番だった。

その夜も、そして、その次の夜も、ことに「ハンニンタイホニ、ゴキョウリョクヲシャス」という、仙台北署長からのウナ電のきた次の夜などは、社の付近の呑み屋で、私の名演技〝番頭〟が酒の肴になっていた。私は、警察の捜査の〝協力者〟であった。

「東京租界」

新聞記者入るべからず

二十七年四月二十八日、日本は独立した。この年の二月の末から、社会部では、辻本次長が担当して、「生きかえる参謀本部」という続きものをはじめ、私もその取材記者として参加した。これは、講和を目前に迎えて、日本の再軍備問題を批判した企画であった。

この早春のある朝、私は辻政信元大佐を訪れた。仮寓へいってみると、入口には、「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。これにはハタと困って、しばらくその門前で考えこんでしまった。

だが、そのまま引返すほどなら、記者はつとまらない。私は門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関はあけ放たれて、キレイに掃除してある。「御免下さい」と案内を乞うと、すぐ次の間で 声がした。

最後の事件記者 p.198-199 では、毎朝七時にここへ来い

最後の事件記者 p.198-199 『ワシは新聞記者はキライだ。会いたくない』声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現れない。
最後の事件記者 p.198-199 『ワシは新聞記者はキライだ。会いたくない』声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現れない。

この早春のある朝、私は辻政信元大佐を訪れた。仮寓へいってみると、入口には、「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。これにはハタと困って、しばらくその門前で考えこんでしまった。

だが、そのまま引返すほどなら、記者はつとまらない。私は門をあけ、玄関に立った。日本風の玄関はあけ放たれて、キレイに掃除してある。「御免下さい」と案内を乞うと、すぐ次の間で

声がした。

『誰方?』

『読売の社会部の者ですが…』

『ワシは新聞記者はキライだ。会いたくないから、チャンと門に書いておいたはずだ』

声はすれども、姿は見えずだ。辻参謀はチャンとそこにいるのだが、一向に現れない。

『しかし、御意見を伺いたいのです。ことに、日本独立後の再軍備問題なので、是非とも、おめにかかって、親しく、御意見を伺わねばなりません。再軍備問題は、するにせよ、しないにせよ、新聞としては当然、真剣に、読者とともに考えるべきものです。』

『よろしい、趣旨は判った。しかし、ワシは新聞記者がキライで、会わないと決心をしたのだから、会うワケにはいかん。』

『いや、会って下さい。私も一人前の記者ですから、それだけの理由で、敵陣に乗りこみながら、ミスミス帰るワケに行きません。それでは、出てこられるまで、ここで待っています』

私も突ッぱった。向うも、こちらも大声である。畜生メ、誰が帰るものか、と、坐りこむ覚悟を決めた。

『ナニ? どうしても会う気か』

『会って下さるまで待ちます』

『ヨシ、どんなことでもするか』

『ハイ』

『では、毎朝七時にここへ来い。君がそれほどまでしても会うというなら、会おう。毎朝七時、一カ月間だ』

『判りました。それをやったら、会ってくれますね』

そう返事はしたものの、私はユーウツであった。朝早いのには、私は弱いのである。毎朝七時に、この荻窪までやってくるのは、大変な努力がいる。しかし、読売の記者は意気地のない奴、と笑われるのもシャクだ。

——このガンコ爺メ!

舌打ちしたいような気持だったが、猛然と敵慨心がわいてきて、どうしても会ってやるぞ、と決心した。仕方がないから、社の旅館に泊りこんで、毎朝六時に起き、自動車を呼んで通ってやろうと考えた。

最後の事件記者 p.200-201 ナニ? 将校斥候だと?

最後の事件記者 p.200-201 私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。
最後の事件記者 p.200-201 私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。

三田将校斥候到着

その夜、旅館のフトンの中で考えた。一カ月といったら、続きものが終ってしまう。何とか手を打って、会う気持にしてやろう。

翌朝、ネムイ眼をコスリながら、七時五分前に門前についた。時計をニラミながら、正七時になるのを待った。私には一つの計画があった。

正七時、私はさっそうと玄関に立った。すでに庭も玄関も、すべてハキ清められているではないか。老人は早起きだ。

『お早ようございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしましたッ』

私は、それこそ軍隊時代の号令調整のような大音声で呼ばわった。

すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、

『ナニ? 将校斥候だと? 将校斥候がきたのでは、敵の陣内まで偵察せずには、帰れないだろう。ヨシ、上れ』

辻参謀は、そういいながら玄関に現れた。私は、自分の計画が、こう簡単に成功するとは考え

ていなかったので、半ばヤケ気味の大音声だった。だから、計画成功とばかり、ニヤリとすることも忘れていた。

寒中だというのに、すべて開け放しだ。ヤセ我慢していると火鉢に火を入れて、熱いお茶を入れてくれて、じゅんじゅんと語り出していた。

私の感想では、現代の二大アジテーターが、日共の川上元代議士と辻参謀だと思う。川上流は、持ちあげて湧かせて、狂喜乱舞させてしまうアジテーション。私は、彼の演説を聞くたびに、記者であることを忘れて、夢中になって拍手してしまうほどだ。

辻流は、相手をグッと手前に引きよせて、静かに自分のペースにまき込んでしまう対照的な型である。はじめて会った辻参謀は、約一時間以上も、それこそ、じゅんじゅんと語った。

『マ元帥はもはや老朽船だ。長い間、日本にけい留されている間に、船腹には、もうカキがいっぱいついてしまって、走り出そうにも走れない。このカキのような日本人が、沢山へばりついているのだ……』

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

最後の事件記者 p.202-203 仕事で来いと、張り切っていた

最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。
最後の事件記者 p.202-203 私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。

参謀は、そういいながら、彼の書きかけの原稿をみせてくれた。読んでみると、反米的な内容だが、実に面白く、私たちの漠然と感じていることを、実に明快に、しかもハッキリといい切っ

ている。

私はその原稿を借りて帰った。原部長に見せると、「実に面白い」と感心された。私は良く知らないが、原部長は、まだ占領期間中であるのに、その原稿を読売の紙面に発表して、問題を投げかけ、読者に活発な論争をさせようと企画したらしい。

「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対されたらしく、部長もついに諦めたらしかった。

夜の蝶たち

こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。

その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。

当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。

私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。

『多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野君(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい。必らずいい仕事をして、思い切り働らいてみせます』

私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。

十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

最後の事件記者 p.204-205 不良外人の三大基地をブラつく

最後の事件記者 p.204-205 夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。
最後の事件記者 p.204-205 夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。

それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。

その結果、日本はバクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となりはてていた。それは、読売がいみじくも名付けた、〝東京租界〟そのものであった。

九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。伝票を切って、小遣銭はタップリある。私はそのビルのグリルやバー、レストランやパーラーで、のんびりと構えていた。

長身の私は、一見中国人風なので、富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、クツみがきに呼びかけられるほどだった。

夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、デインハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。こんな時に一番協力してくれたのは、ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟たちであった。

彼女たちは、やはり日本人である。決して外人たちのすべてを是認していたワケではない。あまり日本人と付合ったことのない彼女たちは、私の卒直な酔い方に興味を持って、夕方の銀座あ

たりで、クラブのはじまる十時ごろまで、よくデートしたものである。

女に不用心なのは、全世界どこの国でも共通らしい。男には必要以上に警戒心を払っていても、男たちは、悪事に限らず、女に対しては開放的であり、全くの無警戒であった。日本人は、男女一対でいると、すぐ情事としか考えない。だが、女こそニュース・ソースの大穴である。

もっとも、女からはニュースのすべてを取ることはできない。しかし、ヒントは必らず得られるのである。役所のタイピストに、コピーを一部余計にとれとか、捨てるタイプ原紙を持ち出してこい、と命じたら、たとえ自分の彼女であっても、事は露見のもとである。タイピストたちは、挙動が不審になり、手も足もふるえて、怪しまれるに違いない。

しかし、高級役人の秘書たちから、誰がたずねてきて、何時間位話しこんでいたとか、どんなメムバーの会議だとか、取材の最初のヒントは必らず得られる。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中、「東洋平

和への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味が飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

最後の事件記者 p.206-207 昔懐しい中国人の映画女優

最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。
最後の事件記者 p.206-207 私は、このパイコワンと親しかった。昼間の彼女は、何かオカミさんじみて幻滅だった。だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。

クラブ・マンダリンのパイコワン

国際バクチの鉄火場だった、銀座のクラブ・マンダリン(今のクラウン)は、いまのように洋風で華やかなキャバレーではなく、荘重な純中国風のナイト・クラブだった。戦時中、「東洋平

和への道」などの、日華合作映画の主演女優だったパイコワン(白光)の趣味が飾られ、小皿の一つにいたるまでの食器が、すべて香港から取りよせられるという凝り方だった。

赤い支那繻子で覆われた壁面や、金の昇り竜をあしらった柱、真紅の支那じゅうたんなど、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めしかった。照明は薄暗く、奥のホールでは静かにタンゴ・バンドが演奏しており、白い糊の利いた上衣のボーイたちが、あちこちに侍って立っていた。

私は、このパイコワンと親しかった。もちろん、彼女には彼女なりに、私と親しく振舞う理由があった。昼間の彼女は、切れ長の目が吊り上った支那顔で、早口の中国語で、怒鳴ってるのかと思うほどの調子でしゃべる時などは、何かオカミさんじみて幻滅だった。

だが、夜のパイコワン、ことにこのマンダリンでみる彼女は素適だった。私はさっきから、家鴨の肉と長ネギと、酢味噌のようなものを、小麦粉を溶かして焼いた皮につつんだ料理を、彼女が手際よくまとめてくれるのをみていた。客の前に材料を揃えて、好みのサンドウイッチを作って喰べるのに似ている。

その器用に動く指を、眼でたどってゆくと、この腕まで出した彼女の餅肌の白さが、ポーッと

二匹の魚のように鈍く光っていた。

『美味しいでしょ?』

少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろのように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。

私が彼女の映画をみたのは、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、今では下腹部にも脂肪がたまり、四肢は何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。

パイコワンといえば、今の中年以上の人には、昔懐しい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい伝説がある。

上海のある妖楼で働らいていた、彼女の清純な美しさに魅せられた、特務機関の中佐がすっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだというのがその一つである。

ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明け切れずに、姿をかくしてしまった。

最後の事件記者 p.208-209 パイコワンは殺されそうだと

最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
最後の事件記者 p.208-209 警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。

また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚した、さる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って、彼女もまた日本へ移り住んだともいう。

私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。

『素敵なお話ね。ロマンチックだわ』

そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを見逃すような私ではなかった。

美しき異邦人

——何だろう?

そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。

当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。

『ヤイ、ここが東京だからカンべンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!』と。

リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐しくて眼を少し大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。

しかし、パイコワンは、殺されそうだと騒ぎ立てた。その話をききに、〝密輸会社〟といわれるCATの航空士と住んでいた、赤坂の自宅に彼女を訪れたのが、交際のはじまりであった。

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』 彼女はこんな風にいった。

最後の事件記者 p.210-211 警視庁の山本公安三課長に紹介

最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ
最後の事件記者 p.210-211 この中佐が、実は中共のスパイで、パイコワンがこの中佐としばしば会っている。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだ

『ねえ、私、日本人にはお友達がいないのよ。どうしたらいいか判らないのよ。相談に乗って

ね』

彼女はこんな風にいった。彼女はこのクラブに、共同出資で投資して、千三百万円ばかりを出しているという。しかし、警視庁の手が入ったのでコワくなり、金をとりもどして手を引こうとしていた。

『もうイヤ。早くこの問題を片付けて、また映画をとりたいわ。香港の張善根さんなどからも、誘いがきているのだけど、クラブでお金を帰してくれないもの、私、食べて行けないわ』

そこで、彼女は形ばかりでも警視庁へ訴え出ようというのと、読売の租界記者と親しいことを宣伝して、クラブへの投資をとり返そうとしていたのだ。私は一日彼女を伴って警視庁の山本公安三課長に紹介した。

『課長さんのお部屋、ずいぶん立派ですのねえ』

などと、お世辞をいわれて、さすがは課長である。即座に言い返した。

『いやあ、どうも、私の課には、あなたのことを、良く知っているものがいますよ』

と、やはりお世辞のつもりでやったところ、パイコワンの眉がピクッと動いた。課長はすぐ言い直した。

『つまり、あなたのファンです。呼びましょうか』

ファンという言葉で、はじめて彼女は「どうぞ」と明るく笑った。その時の微妙な変化は、私の語る伝説を聞き終った時にも似て、何か考えさせられるものがあった。

当局には、パイコワンに関する、こんな情報が入っていたのである。例の何応欽将軍が日本へきた時、随員の一人に中佐がいた。この中佐が、実は中共のスパイで、国府側にもぐりこんでいたのだが、パイコワンがこの中佐としばしば会っているというのだ。つまりパイコワンにも、スパイという疑いがかかっていたのだった。

フト、音楽がやんだ。バンドの交代時間らしい。パイコワンはいった。

『私、日本人で、一人だけ好きな方がいました』

——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って心動いたのかしら、それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのかしら?

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新らしい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

最後の事件記者 p.212-213 誘惑と恫喝と取材の困難

最後の事件記者 p.212-213 『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』
最後の事件記者 p.212-213 『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』

中国に、中国人として生れて、上海、香港のような植民都市を好み、米人の妻となり、日本の恋人の面影を求めて、新らしい植民都市東京に流れてきた彼女。そこには、スパイではないかと疑っている官憲が、その挙動をみつめている。

何かこみ上げてくるいじらしさに、私は新聞記者という職業意識も忘れて、抱きしめてやりたいような感じのまま、しばらくの間、この美しい異邦人をみつめていたのだった。

不良外人

このマンダリンの主役のもう一人は、ウエズリー・大山という二世だ。日活会館にあるアメリカン・ファーマシーの社長である。彼はその富国ビルの事務所に、私の訪問を受けると小心らしくあわてた。彼は保全のヤミドルで捕ったり、そのあげくに国外へ逃げ出してしまった。帰国すると、サンキスト・オレンヂのヤミで逮捕状が待っている。

『オウ、そんなことありません。それよりも、ワタクシ、まだゲイシャ・ガールみたことないです。アナタタチ、案内して下さい』

そんな誘惑をしてくる時計の密輸屋は、日活会館に堂々と事務所を構えている。

人品いやしからぬ、日本人の老紳士の訪問も受けた。アメリカのヤミ会社の顧問だというのだ。私たちの調査をやめてくれというのだ。彼はいう。

『何分ともよろしく、これは、アノ……』

ある時は金を包まれもした。相手の眼の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。

『ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたいとおっしゃるのですか。残念ながら、御期待にそえませんナ』

皮肉な言葉と表情で、相手のろうばい振りをみつめているのだ。

日本の弁護士から電話がくる。何時にアメリカン・クラブで会いたいという。出かけてゆくと……

『フーン。若いナ。君は去年あたりでも卒業したのかね。ソラ、何といったかネ、編集局長は? ウン、そうそう、小島君。彼は元気にやっとるかネ』

社の幹部を、親し気にクン付けで呼ぶ種類の人たち。このような人には、こちらもインギンブレイで答える。

誘惑と恫喝と取材の困難。

『お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい』彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハル ピン生れ、息子は上海生れ、という、家族の系譜が、彼を物語る。

最後の事件記者 p.214-215 ルーインが堂々と歩いている!

最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。
最後の事件記者 p.214-215 大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。

誘惑と恫喝と取材の困難。

『お断りしておきますが、私はあと一カ月で、アメリカ合衆国市民の権利を獲得するということに御注意願いたい』彼は現在、無国籍の砂糖の脱税屋である。本人はシベリア生れ、妻はハル

ピン生れ、息子は上海生れ、という、家族の系譜が、彼を物語る。

『御参考までに申上げますと、私は東京ライオンズ・クラブという、アメリカ実業人の社会慈善団体の幹部です。これをお忘れなく』彼は時計の密輸屋である。そして、彼はハルピン生れで、妻は天津ときている。

二人の取材は進行した。不良外人のアクラツな手口と、経歴と、犯罪事実や不法行為のメモがつづられていった。取締当局の係官も、かげから取材に協力してくれた。

第一線刑事たちは、自分たちの手のとどかない、〝三無原則〟の特権の座を、新聞の力で、くつがえして欲しいと、願っていたのだった。そして欧米人たちは、ポリスよりもプレスを恐れていた。

国際博徒の大親分

全世界を三つのシマに分けて、てい立する国際博徒の親分。シカゴ系のジェイソン・リーは、鮮系二世の老紳士だが、アル・カポネのお墨付をもつ代貸しだ。上海系の王(ワン)親分は、上海のマンダリン・クラブの副支配人という仮面をかぶっていた、リチャード・ワンという男で、青幇(チンパン)の大

親分杜月笙と組んでいて、銀座のVFWクラブにひそんでいる。マニラ系は、比島政界の黒幕テッド・ルーイン。その片腕ともいうべきモーリス・リプトンは元水交社のマソニック・ビルに陣取っていたのである。

リーやリプトンのインタヴューをつづけてゆくうちに、大親分ルーインが日本に密入国しているというウワサが耳に入った。ルーインはGHQ時代から「入国拒否者」となっており、独立と同時にそのメモランダムは外務省に引きつがれ、独立した日本の外務省も、彼を「日本にとって好ましかざる人物」の項目で、入国拒否者として登録していた。それなのに、ルーインが東京の街を、堂々と歩いているとは!

私は法務省入管局を訪れた。当時の所管は外務省の外局で、保管もほとんど外務省系の連中だった。ここが肝心要のところだ。私はアチコチで駄弁りながら、チャンスの到来を待っていた。

外国人登録カードの係官が、席を立つのを待っていたのである。そして、待つほどに、そのチャンスはやってきた。私は顔見知りの係官に、フト思いついた様子で、ルーインのことをたずねたものである。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知ら

ない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

最後の事件記者 p.216-217 ルーインのヤミ入国という特ダネ

最後の事件記者 p.216-217 キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。
最後の事件記者 p.216-217 キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。

彼は気軽に立って、担当の係官を紹介しようとしたが、その係官がいない。詳しい事情を知ら

ない彼は、氏名カードを繰ってくれたけれども、そのイニシアルの項には、ルーインのカードがない。

『おかしいナ。拒否者かナ』

彼はつぶやいて、拒否者のカードを探してみた。あった! 抜き出された一枚のカード。そこには、赤字でエクスクルージョン(入国拒否)とあったが、ルーインの入国年月日が、ハッキリと記入されていた。

十日間も東京へ滞在しているのだった。彼は担当官でないから、何の疑念もなく、また問題になるとも知らずに、私の差し出す手にカードを渡してしまう。こんな時こそ、さり気ない動作が必要である。私はチラとみて、赤字と入国の日付を覚えこむと、興味のなさそうな表情で、すぐにカードを返した。心理作戦のポイントである。ある場合には、露骨に職業意識を丸出しにし、ある時には、ハナもひっかけない無関心さ。このどちらが通用する相手かを、判断するのである。

入国拒否者の入国ヤミ取引

まず第一に、警視庁の綱井防犯部長に当って確認した。バクチは彼の所管である。彼はおだやかに答えた。

『うん。入国拒否者のルーインが、君のいう通り入国していたのは事実だ。しかし、これには、日比賠償やモンテンルパの戦犯関係など、〝政治的〟配慮がある。君が取材してきた手腕には敬意を払うが、記事に書く時には、充分に、〝国際的〟な配慮を持ってもらいたいと思うネ』

私を良く知っていた防犯部長は、おろかなことはいわずに、卒直に事実を認め、忠告してくれたのである。

私はそれから、外務省に倭島アジア局長を訪ねた。局長は驚き、あわてて私に頼みこんできた。

『キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。……キミ、書いたら国際的な問題になるンだ。モンテンルパなんだ』

私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく

秘められることになった。

最後の事件記者 p.218-219 菊池寛賞、新聞部門第一回受賞

最後の事件記者 p.218-219 これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を行使して支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。
最後の事件記者 p.218-219 これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を行使して支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。

私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく

秘められることになった。

だが、書くべき時は間もなくやってきた。そして、この事実を重視した、衆院法務委員会が、社会党猪俣代議士の質問で追及した。その当日、委員会の記者席に坐っていた私の前を、倭島局長が通りすぎようとした。彼は政府委員として、この事件の責任者だ。

フト、彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は、一、二歩、通りすぎて立止った。クルリと振り向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。そして、政府委員席へと歩き出した。猪俣委員の鋭い質問がはじまるや、局長と、新聞のコラム欄では、「取引を外交と思いこんでいる」とヤジられて、すっかり男を下げてしまったが、これが二十八年七月九日のこと。

やがて、八月になると、ルーインが局長へ手紙をよこして曰く。

『私は、貴殿が、私の入国の協力者として、恥をかかれたとお思いなら、心からお詫び申しあげます……』

この「東京租界」は、十月二十四日から十一月六日までの間、タッタ十回ではあったけれども、続きものとして連載された。まだまだ材料はあったのだが、十一月十日の立太子礼のため、打切らざるを得なかった。

これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を、引続き行使して、その植民地支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの、最初の鉄槌であった。

そして、この続きものをはじめとするキャンペーン物で、読売社会部は、文芸春秋の菊池寛賞、新聞部門第一回受賞の栄を担ったのであった。

最後の事件記者 p.220-221 顔をみるなり「オイまぼろし!」

最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。
最後の事件記者 p.220-221 私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。

スパイは殺される

三橋事件の発生

鹿地不法監禁事件がもり上ってきた。二十七年十二月十一日、斉藤国警長官は、参院外務委でこう答弁した。

「鹿地氏は現に取調べ中の事件と、直接関係を持っている疑いが濃厚である。被疑者は日本人で、終戦後ソ連に抑留され、同地において、高度の諜報訓練と、無電技術とを会得した。内地に帰ってから、ある諜報網と連絡して、海外に向って無電を打っていたという疑いが強い。氏名を述べることはできないが、東京の郊外に居住していた人間である」

その日の夕方、私は何も知らないで、警視庁記者クラブから社に帰ってきた。ちょうどそのニュースが、社に入ったところだった。私の顔をみるなり、

『オイ、まぼろし! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて入籍されたゾ』と。

原部長の御機嫌は極めてうるわしく、私は何のことやら判らず、戸まどったような、オリエンタル・スマイルを浮べた。やっと、そのニュースを聞いた時には、「何だ、そんなこと当り前じゃないか」と、極めて平静を装おうとしながらも、やはり目頭がジーンとしてくるほどの感激だった。

ちょうど三年前のスクープ、大人の紙芝居と笑われた「幻兵団」が、今やっと、ナマの事件として脚光をあびてきたのだった。これが記者の味わい得る、本当の生き甲斐というものでなくて、何であろう。

私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働らいており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員のリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、すでにCICに摘発されるや、三橋をはじめとして、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

最後の事件記者 p.222-223 典型的な幻兵団のケース

最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。
最後の事件記者 p.222-223 そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知ってい

たのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。

三橋事件こそ、典型的な幻兵団のケースだった。つづいて起った北海道の関三次郎事件、ラストボロフ事件、外務省官吏スパイ事件とに、生きてつながっている。

満州部隊から入ソ、マルシャンスク収容所で選抜されて、モスクワのスパイ学校入り。高尾という暗号名を与えられて誓約。個人教育、帰国して合言葉の連絡——すべてが典型的な幻兵団であった。

姿を現わしたスパイ網

三橋を操縦していたのは、軍情報部系統の極東軍情報部で、ラ中佐などの内務省系ではなかった。従ってレポに現れたのは、代表部記録係のクリスタレフ。二十四年四月に、十二日間にわたって、麻布の代表部で通信教育を行った時には、海軍武官室通訳のリヤザノフ(工作責任者)、経済顧問室技師のダビドフ、政治顧問室医師(二十九年九月にエカフェ会議代表で来日)のパベルの三人が立合っている。

二十三年四月十七日に、クリスタレフとのレポに成功してからは、大体月一回の割で会い、翌年八月二十日ごろまで続いていた。二十四年四月には無電機を渡され、ソ連本国との交信八十二回。同五月からは、元大本営報道部高級部員の佐々木克己大佐がレポとなり、二十五年十一月に自殺するまでのレポは五十七回、その後にレポが鹿地に交代して、二十六年六月から十一月までに、十五回にわたり電文を受取った。

この間の経過は、すべて米軍側の尾行、監視にあったので、米側は全く有力な資料を得ていたことになる。電文は七十語から百二十語の五ケタ乱数だったが、米軍では解読していたのだろう。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

最後の事件記者 p.224-225 私の「幻兵団」を大人の紙芝居と

最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。
最後の事件記者 p.224-225 読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。

三橋のスパイ勤務は、帰国から自首まで丸五年間、ソ側から百八万四千円、米側から六十六万

五千円、合計百七十四万九千円を得ていた。これを月給に直すと、二万九千円余でさほど高給でもない。しかし、五十六万八千五百円で自宅を新築したりしているから、技術者らしく冷静に割り切ったスパイだったようである。

三橋事件がまだ忘れられない、翌年の二十八年八月二日、北海道で関三次郎スパイ事件が起きた。これは幻兵団の変型である。樺太で、内務省系の国境警備隊に注目され、誓約してスパイとなり、非合法入国して、資金や乱数表などを残置してくるという任務だ。

この事件は、スパイを送りこむ船が、上陸地点を間違えたため発見されてしまったが、つづいて迎えにきたソ連船のダ捕という事件まで起きて、夏の夜の格好な話題になった。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕り、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任して報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件

で、ようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警祭がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような著意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連絡スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次事件となって、その姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。