志位正二」タグアーカイブ

迎えにきたジープ p.060-061 仕事は情報です。拒否すれば

迎えにきたジープ p.060-061 "You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?"
迎えにきたジープ p.060-061 ”You are a effective person for Japan. Similarly, for the Soviet Union too. So, in the future, after returning to Japan, would you like to cooperate for the Soviet Union?”

話は日本の天皇制に進んで峠に辿りついた感があった。私は、天皇制がロシヤのツァー制とは類似点はあるが本質的に異なること、ツァーはロシヤ人にとって圧制の張本人であり怨嗟の的であったが、天皇は日本人ことに私たち軍人にとっては慈愛の化身であること、共産主義者がその最高のモラルとしている「献身」ということが終戦時の天皇にはっきりした言動として示されたこと、などを説明して、以上の点から戦後ソ連が天皇を戦犯に擬したり「日本新聞」で天皇制だけでなく天皇個人をも非難するのは堪えがたい不満を覚えると答えた。

『それはあなた個人の意見ですか?』

『そうです。だが旧日本将校ならば恐らく同様だと思います』

『それでは将来もし日本で革命が起ったときにあなたはどうしますか?』

『私はもちろん日本人の最大多数の意志にしたがいます。しかし、天皇をどうこうということは日本では起らないと思いますし、万が一そんなことになったら私は断然天皇のため銃をとります』

通訳がこの「銃をとります」を現在形に訳したため、大佐は一寸眉をひそめたが、また仮定の形に改めたので納得したようであった。この日は、このほかに日本軍隊の生活や太平洋戦争などについて雑談をかわしてタ方私はバラックに帰った。この間、大佐はただ聞くばかりで自分の意見は全然はさまず、通訳の中尉も時々用語のメモを取るだけであった。

翌日、私は再び大佐に呼ばれた。今度は私の家庭の事情を細かくきいて、私の妻が終戦時北鮮に疎

開していたことを知ると、かれは私に呼びよせてやろうと、いいだした。

『いや結構です、もう日本に帰っているでしょうから……』

冗談じゃないと、私はあわてて断った。正午近くなって突然、大佐は、真面目な面持でこう切りだした。

『そこで、私はあなたにお願いがあるのだが……』

『どんなことでしょうか』

『あなたは日本にとってと同様にソ連にとっても有能なんです。それで将来帰国後ソ連に協力してもらえないでしょうか』

『……』

『仕事はもう多分あなたもおわかりのように情報です。強いてやれとはいいませんが、これを拒否すればあなたの前歴から見ていつ帰国できるかわからないし、帰国できないかもしれません』

『……』

『すぐにとはいいませんから、午後の三時にここに来て返事してください。よい返事をお待ちしています』

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚 われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。

迎えにきたジープ p.062-063 早く帰って妻や母に会いたい

迎えにきたジープ p.062-063 "I will cooperate." The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.
迎えにきたジープ p.062-063 ”I will cooperate.” The next day, I signed a pledge and a statement prepared by Colonel and Lieutenant, and agreed on my address after return to Japan and a secret word for contact.

私は、してやられたという感じを抱いて、黙々としてバラックに帰り、寝棚の上にひっくり返って、屋根裏の斜桁を睨みながら考えた。私が許諾しさえすればまず帰国はできる。帰ればこの暗い国に囚

われている同胞をなんとか救い出すことも出来そうだ。だがそのためにはソ連の「スパイ」にならなければならない。自分だけ先に帰ってしかも「スパイ」の誓約を果さないという手もあるが、それは、なにをされるかわからないし、また私の性分としてそんな卑怯な真似はできそうもない。といって帰りたくないのか、いや帰りたい。早く帰って妻や母に会いたいし、新しい生活を築きたい。それじゃ、あっさり帰ったらいいじゃないか。

私の考えが堂々廻りしているうちに、食堂の壁に取りつけられた手廻し時計はもう三時になってしまった。よし当ってみよう、道は開けるだろう、と私は協力の腹を決めて大佐の室をノックした。

『協力します』

『そうですか、それはよかった。改めて感謝します』

これで私の運命は半分ばかり開けそうになった。大佐はあからさまに喜びの色を顔にあらわして、明朝また来るように私に告げた。

次の日、私は大佐と中尉が準備した誓約書と声明書に署名し、帰国後の予定住所、連絡上の合言葉などを協定した。いずれもきわめて形式的なものであったが、ただこの日の通訳が例の語学生の一人であったため、かれが『学』のあるところを示そうとして、

憶良らはいまはまからむ子泣くらむ
そのかの母も吾をまつらむぞ

という万葉の古歌を合言葉に選んだのには、私も苦笑せざるを得なかった。

その日の午後は、大佐から私に今後とも「民主運動」に近づかないことなどの注意があった後、私は大佐の小宴に招かれた。

大佐にすすめられるままに強烈なヴォッカやコニャックをしたたか飲んで、酔歩蹣跚の態で私がバラックに戻ったら、仲間の中隊長が不審顔で私にたずねた。

『あやしいぞ、いいことしたな』

私は、これこそ緻密なようで尻尾の出るソ連式の「間抜け」だと苦笑しながら毛布を頭からかぶって寝てしまった。

六 細菌研究所を探れ!

また、CICが舞鶴で摘発した二人の幻兵団員が当局へ提出した答申書(原文のまま)をみてみよう。

▽斎藤氏の場合

一九四五年十月三十日、私の大隊はチェレムホーボ第31の2(マカリオ)収容所に到着、爾来独逸より輸送し来れる、人造石油装置部分品の卸下作業に従事中、当年は異状なし。

一九四六年一月初め頃、或る日ソ連軍一将校(少尉)私達の部屋に来り、エンヂニャーは居ないかと聞けり。部隊長(光延克郎中佐)は一人居る、それはこの斎藤である、と答えられたり。このことありてより四、五日後、収容所付のMVD(少尉)より彼の部屋(二重扉にて錠あり)に出頭を命ぜられ、次の事項に亘り訊問調査を受けたり。

迎えにきたジープ p.156-157 志位正二はNYKビルに勤務

迎えにきたジープ p.156-157 Major Masatsugu Shii wrote as follows. I was called by the CIC and investigated about the "pledge" in the Soviet Union. I was examined by a lie detector. Because I was suspected that I am still in contact with the Soviet Union.
迎えにきたジープ p.156-157 Major Masatsugu Shii wrote as follows. I was called by the CIC and investigated about the “pledge” in the Soviet Union. I was examined by a lie detector. Because I was suspected that I am still in contact with the Soviet Union.

一階はG—2のオフィスである。ここには非公然秘密機関というべき幾つかの組織がある。ATIS( Allied Translation and Interpretation Sec. )である。MISGというのは、朝鮮戦争

が起きたときに、CICとATISとを一緒にして編成したもので、Military Intelligence Service Group の略で、いわばソ連のスメルシのような戦時諜報機関である。そして朝鮮に第一〇〇MISGが出動、情報大隊を釜山においていた。これには日本人で参加した者もあったといわれている。

またR&I( Research and Information )という戦時情報の担当もある。

二階は人事、三階はCICとCISである。引揚者でこの三階に呼ばれた人は、まず舞鶴で相当しぼられた組である。

四階は地理課と心理課。それにCIAのオフィスの資料調査課(Document Research Sec.)舞鶴のLSでチェックされた兵要地誌関係の好資料保持者のもとに、復員局から、

『復員業務につき占領軍から次の通り出頭要求がありましたからお伝えします』

というハガキが届けられ、往復の旅費、食費、日当を日本政府から支給されて、通ったのはここである。

五階は兵室と地図室、ファイル室である。顔写真までとられた引揚者のファイルはここに保管されている。

六階は兵室、食堂、戦史課、CISなどがある。ここのCISは高度訊問である。三階で散

散タタかれても、どうしてもシャベらないのが、ここでウソ発見機などにかけられるのだ。

ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐は、当時このNYKビルに勤務していたのだが、この三階と六階について次のように書いている。

七月のある日、私は同じビルの三階にあったCICに呼ばれて、ソ連での「誓約」について調査された。調査にあたった若い軍属の二世は確証があるといって私に書類をみせた。

それは日本各地区のCICが報告した、私についての引揚者の証言であって、なかには密告に類するいかがわしいものもあったが、ある証言はことの真相をはっきり捉えていた。そしてその証人は私のことを、あの男にこんなことはできそうもないし、また気の毒だから救ってやるようにとも書き加えてあった。

これには私もあっさり参ってすべてを告白した。そこで今度はウソ発見機にかけられた。それは、私が現在ソ連側と連絡をとっているのではないかを、確かめるためであった。結果がよくないと三回もやりなおされたが、結局異常があれば報告することを条件にして放免された。

私はすぐに辞職しようかと思ったが、といって職を離れればたちまち生活にも困る状態にあったので、思い止まってことの成り行きにまかせていた。

二十七年四月二十八日の講和発効から、これらの機構は若干変ってきている。濠端の第一生

命ビルに頑張っていたGHQは市ヶ谷に移転し、国連軍総司令部は解消して、日米安保条約による日本駐留米軍司令部になった。つまり占領軍から駐留軍に変ったというわけである。しかし注意しておきたいのは、ここは同時に、米極東軍司令部であり、国連軍司令部でもあるということだ。つまり看板が三枚ある。

迎えにきたジープ p.176-177 スパイの逆用が米国の常道

迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.
迎えにきたジープ p.176-177 In the reverse use of spies, find an enemy spy and obtain it with conciliation or intimidation. This is the usual way of American Intelligence agency. So they are always distrustful and like a gangster.

普通、スパイは次のような過程を経る。要員の発見→獲得→教育→投入→操縦→撤収。従って、任務で分類するならば正常なるスパイ、複スパイ、逆スパイなどはこの取扱法をうける。二重スパイというのは、二次的な状態だからもちろん例外である。

奇道である敵スパイ逆用の場合は次のようになる。要員の発見→接触→獲得→操縦→処置。つまりこれでみても分る通り、獲得前に接触が必要であり、獲得ののちは教育も投入も必要なく操縦することであり、最後は撤収するのではなく処置することである。

正常なるスパイは、自然な流れ作業によって、育てられてゆくのであるし、確りとした精神的根拠もしくは、それに物質的欲望がプラスされているのであるから、そこに同志的結合も生じてくる。

逆用工作では、要員の発見は我が陣営に協力し得る各種の条件のうちの、どれかを持った敵スパイをみつけ出し、それを懐柔または威嚇で獲得するのであるから、同志的結合などは全くないし、操縦者は常に一線を画して警戒心を怠らない。

これが、アメリカの秘密機関の常道になっているのであるから、彼らはつねに猜疑心が深く、ギャング化するのである。ところがラストヴォロフと志位元少佐との関係を見てみると、そこには人間的な交情さえ見出されるではないか。

正常スパイでは、任務が終れば味方であり同志であるから、最後にこれを撤収しなければならない。逆用スパイの場合は撤収とはいわず処置という。つまり殺すなり、金をやるなり、外国へ逃がすなりせねばならない。鹿地事件の発端は、この処置の失敗である。

鹿地氏と重慶の反戦同盟で一緒に仕事していた青山和夫氏は、鹿地氏出現以来の言動から次のような十の疑点をあげている。

1 USハウスはどれも金アミがあり、塀には鉄条網があるのが原則だ——これは占領中の日本人の暴動を予防するためMPの指令でそうなっている。

2 自由に新聞、雑誌、ラジオを聞き乍ら、なぜ独立後直ちに釈放を要求しないか、なぜハンストをしないのか、だまってダラダラ生活するのは何故か。左翼として、必ず、このような場合はハンスト戦術をするべきだ、自殺はおかしい——芝居か架空の事件ではないか。

3 監禁なら当然新聞、雑誌、ラジオを自由にさせないはずだが。

4 米将校が定期的に訪問会談するのは、アメリカ機関としてコンスタントになっている証拠だ。鹿地が本当に「拒絶」しているならばコンスタントの会談はない。

5 鹿地は右翼から狙われているとの理由で保護を求め代償に仕事し、これはおそらく北鮮問題をアメリカに提供したのではないか。北鮮との関係をホラをふいて、アメリカをだましたのではないか。

迎えにきたジープ p.190-191 志位氏はソ連研究家として一流

迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called "Red Army Labor Battalion" and engaged in base construction.
迎えにきたジープ p.190-191 Regarding the Soviet secret agency, there were jurisdiction of the Ministry of Interior Affairs (MVD) and the Red Army. In the Red Army, about 8,000 Japanese POWs in Primorye, Vladivostok, Voroshilov, Iman, and Chita were called “Red Army Labor Battalion” and engaged in base construction.

四 三橋と消えた八人

この辺で少し、ソ連の秘密機関を系統的にみてみよう。ソ連側の直接の指導には、内務省系のものと赤軍系のものとがあった。赤軍系というのは沿海州地区をはじめ、ウラジオ、ウォロシーロフ、イマン、チタ各地区に一ヶ大隊約五百名、四十ヶ大隊約八千名の日本人が、「赤軍労働大隊」と呼ばれて、直接赤軍の管理下におかれたところがあったのである。ここでは日本人捕虜も赤軍兵士と同様の条件で、基地建設などの土工作業を行っていた。

他の日本人捕虜収容所は、ナホトカで帰還の送出をする第二分所が外務省の管轄であるのを除いては、すべて内務省の監督下にあった。

内務省の管轄にある捕虜の〝再武装〟教育ということは、とりも直さずオルグ要員の政治教育とスパイ要員の技術教育の二種類があったということである。

これらの学校のうちで、明らかにされたその名前をあげるならば、モスクワ共産学校、ホルモリン青年学校、同政治学校、同民主主義学校、ハバロフスク政治学校、チタ政治学校などの「政治教育機関」と、モスクワ無線学校、同情報学校、ハバロフスク諜報学校、イルクーツク無線学校などの「技術教育機関」とがある。

モスクワ無線学校というのは、三橋正雄氏の入ったスパースク、議員団のたずねた将官収容

所のあるイワノーヴォ、またクラスナゴルスクなど、モスクワ近郊に散在している。

たびたび引用するが、志位氏はソ連研究家として一流の人物であるから、同氏の近著「ソ連人」に、現れている部分を抜いてみる。これは同氏がスパイ誓約を強制させられる当時の、取調べに関連して書かれたものである。

三回目の呼び出しの時、私は自分の調書を読むことができた。それは訊問官が上役らしい大佐に呼びつけられて、あわてて事務所を出て行ったとき、机の上に一件書類が残されていたからである。

これによって私たちをいままで逮捕し、取調べていた機関がすっかりわかった。まず終戦直後の奉天で猛威を揮ったのが、ザバイカル方面軍司令部配属の「スメルシ」であった。この「スメルシ」というのは、「スメルチ・シュピオーヌウ!」(スパイに死を!)の略語で、文字通りのいわば防諜機関である。

これが進駐とともにやってきて、私たちを自由から〝解放〟したのだ。調書は「スメルシ」からチタの「臨時NKVD(エヌカーベーデー)検察部」に廻され、さらに、モスクワの「MVD(エムベーデー)戦犯審査委員会」に達している。

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

迎えにきたジープ p.192-193 秘密警察セクリートの恐怖

迎えにきたジープ p.192-193 NKVD's secret action team, called "Secrete", is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.
迎えにきたジープ p.192-193 NKVD’s secret action team, called “Secrete”, is infiltrating every workplace and every level. No one knows the fear of Secret NK as much as the Soviet people.

NKVD(内務人民委員部)は呼称の改正に伴って、昨年の二月頃からMVD(内務省)になったのだから、私たちの調書は逮捕から、半年後にはモスクワに着いたわけだ。ところで、いまここで訊

問している連中は、MGB(エムゲーベー)(国家保安省)の「戦犯査問委員会」に属している。これは恐らく旧NKVDのうちの、ゲー・ペー・ウーだけがMGBに移って、俘虜や戦犯の管理はMVDで、訊問や摘発はMGBでやるようになったのだろう。

同室の誰かがいったように、MVDもMGBもソ連国家の必要悪というよりも、ソ連国民の業である。なにしろこれらの秘密警察は、四世紀ほど昔のイワン雷帝の代にはじまって、帝政末期にはアフランカとして、泣く子も黙らせる力を示し、革命後はまずチェカー、ついでゲー・ペー・ウと名前はかわったものの、帝政以上の猛威を逞しくしたのだから。

もちろん、私がいままでエヌ・カー・ヴェー・デーと書いてきたものは、エム・ヴェー・デーのことである。

ソ連は軍人の国である。真横にピンと張った大きな肩章、襟や袖やズボンの縫目にまでも兵科別の細い色筋がついた派手な軍服、大きな正帽と長靴——民間人がボロ服をまとい、日用品に事欠きながら「働らかざるものは食うべからず」の鉄則に追いまくられて、パン稼ぎに狂奔するとき、軍人の妻は働らかざるものなのにパンの配給をうけ、美しい家庭着に白い手足をつつんでいる。もちろん軍人といっても将校だけのことである。

その将校の中でも巾の利くのがエヌ・カーである。エヌ・カー・ベー・デーというのは内務

人民委員部の略称で、前々称のチェ・カー、前称のゲー・ペー・ウーと同じである。国家保安労農警察、国境並に国内警備、消防、強制労働管理、戸籍、経理の七局に分れて、赤軍と同じような服装をした正規軍を、コバルト・ブルーの鮮やかな正帽の短かいつばの下に、鋭い眼をひそませた精悍な顔付の将校が指揮している。

彼らの青帽子は、赤軍将校のカーキ帽子とハッキリ区別されているが、セクリートと呼ぶ私服の秘密行動隊が、あらゆる職場やすべての階層に潜入している。〝壁に耳あり〟の諺と、その耳の恐さをソ連人ほどよく知っているものはあるまい。

彼らは自分の周囲の誰が、セクリートであるか分らないという恐怖に、いつもつきまとわれている。ただ、職場の友人が突然行方不明となったり、昨日の上役が今日は一労働者に転落したりする事実を、その理由をうなずけないままで既成事実として認識している。

『パチェムー?』(何故?)と問うことは許されない。ましてや姿を消した人の消息を追及するなどは常識の埒外である。

内務省は軍隊と警察に分れる。軍隊はさらに、国境警備隊と国内警備隊に分れている。この国境警備隊の司令部第四課が、通称NHO(イノオ)と呼ばれ対外諜報を担当しているのだ。作戦上の責任分担は、国境線から敵領十キロまでは国境警備隊で、それ以遠は赤軍の管轄である。

最後の事件記者 p.136-137 シベリアで魂を売った幻兵団

最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。
最後の事件記者 p.136-137 データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。

私の場合は、テストさえも済まなかったので、偽名も合言葉も与えられなかったが、他の多くの人は、東京での最初のレポのための、合言葉さえ授けられていた。

例えば、例の三橋事件の三橋正雄は、不忍池のそばで「この池には魚がいますか」と問われて、「戦時中はいましたが、今はいません」と答えるのが合言葉であった。

ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐の場合は、通訳が日本語に学のあるところを示そうとして、万葉の古歌「憶良らはいまはまからむ子泣くらむ、そのかの母も吾をまつらむぞ」という、むつかしい合言葉だった。そして、自宅から駅へ向う途中の道で、ジープを修理していた男が「ギブ・ミー・ファイヤ」と、タバコの火を借りられた。その時、その白人は素早く一枚の紙片を彼のポケットにおしこんだ。

彼があとでひろげてみると、金釘流の日本文で「あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時、テイコク劇場ウラでお待ちしています、もしだめなら、次の水曜日、同じ時間、同じ場所で」とあった。子供がワンワン泣いているというのが、さきの万葉だったのである。

また、「あなたは何時企業をやるつもりですか」「私は金がある時に」とか「私はクレムペラーを持ってくることができませんでした」と話しかける人が、何国人であっても連絡者だ、と教えられたのもある。

データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。

大きな反響

反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおかれて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。

『デマだろう』という人に、私は笑って答える。

『大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ』

紙面では、回を追って、〝幻のヴール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。

最後の事件記者 p.236-237 日暮、庄司、高毛礼の検挙

最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。
最後の事件記者 p.236-237 だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。

ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同

時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出で、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

最後の事件記者 p.238-239 なぜ妻子を残して死なねばならぬ

最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。
最後の事件記者 p.238-239 日暮、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、一番重要な人物と目されていた。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遣書などありようはずがな

い。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ、一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側では、スパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人を、さらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官

吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日暮、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく、「新日本会」というソ側への協力的団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが、全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

『お忙しそうにどちらへ?』

『イヤ、ちょっと、なに……』

『アア、目黒ですか』

彼は一人で納得してうなずいた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 吉野氏の物的証拠が何もない。

赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 There is no physical evidence about Yoshino.
赤い広場ー霞ヶ関 p.084-085 There is no physical evidence about Yoshino.

いわゆる物的証拠というものはまず入手が困難である。関・クリコフ事件などは、現行犯逮

捕であるから物証を得られたが、ラ事件ではすべて自供である。自首した志位正二氏をはじめ日暮氏もそうである。捜査の根拠となったものが、ラ氏自供の「山本調書」である。

鹿地・三橋事件の際は、三橋自供によって、二人のレポが事前に察知されていたので、レポ現場における鹿地氏の逮捕となった。また鹿地氏の三橋氏宛ハガキ(註、のちに紛失して問題になったハガキ)も入手できたし、米国側撮影による二人のレポ現場写真もでき上ったのである。しかし、これは三橋氏が米国スパイだったから可能であった特例なのである。

吉野氏に関しては、ラ氏供述以外は何も物的証拠もない。吉野氏がラ氏などは知らないといえばそれまでである。二人のレポ現場でも撮影してあれば、知らないとはいわせられないのだが……。もちろん一民間人である吉野氏は、たとえラ氏の協力者であっても、何ら法的には拘束されない。

このような場合、当局としてあげ得る傍証には「金」がある。ラ事件で高毛礼氏が外国為替管理法違反で起訴されたように、容疑者の入金と出金とを詳細に検討してみることによって、容疑が強められる。三橋氏が自宅と敷地とを購入したなどはその例である。

吉野氏は陽当りのよい数百坪の土地を買い、こじんまりとした住宅を建てている。この資金は?という質問に対しては、

『連邦通商の取締役時代の収入ですよ』

と、言下に答えた。吉野氏の容疑は充分だが、証拠がないのである。当局では吉野氏に対して、ラ氏の協力者ではあったが、当局にとっては非協力者であると結論している。

吉野氏の言葉――アカハタの記事は、私への挑発で、何者かの陰謀だということこそ、彼が不用意に洩らした真相ではあるまいか。アカハタが平井警視正や丸山警視などの名前をあげており、吉野氏も二人に逢ったことを認めているからには、義弟S氏や友人H氏の如く、警察情報原として両氏の名前を、吉野氏からラ氏へ報告していたのではあるまいか。その情報を〝高く売り込む〟ために……。

いずれにせよ、アカハタがこのような事実を裏返しにして公表しているのは、〝何者かの陰謀〟に違いないのだろう。

吉野氏が〝協力者〟(ラ氏への)であるから〝非協力者〟(当局への)であるというのに対して、自首してきた志位氏は〝協力者〟(当局への)であったために結果的に〝非協力者〟(ラ氏への)になったという、全く対照的な立場にいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 スパイの手記は信じられるか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy's Writings Believable?
赤い広場ー霞ヶ関 p.086-087 Lastvorov, Shoji Shii-Are Spy’s Writings Believable?

しかし、志位氏がラ氏の協力者だったということも、両者の自供以外には何も物証はないのである。もっともこの場合には、両者の自供がおおむね一致したのだから問題はないが、二十九年八月二十九日、読売がスクープした「志位自供書」および、週刊読売同年九月十二日号の「志位正二手記」を読んでみると、その事実を立証すべき第三者の、全く関与しない二人だけの環境下のことだけに、疑えばきりのない内容でもある。

もともと、スパイ事件というのは相対的事件であり、双方の利害が直接からみ、それが国家という大きな背景だけに、発表はつねに当事国の利益を守って行われざるを得ないのである。従って本当の真相は、永遠のナゾのままに秘められてしまうのであるし、関係者の数が少ないのだから、いよいよ分らなくなる。捜査当局である警視庁の発表も、刑事特別法という法律の素性から、日本と米国の共同の国家的利害という背景で行われるのだから、すべて事実とは限らないし、警視庁自身もその捜査経過や何かで発表したくないこともあろうし、関係者自身の利害や都合も配慮されるであろう。

従って公表された手記なるものも、常に真実ばかりであるとは限らない。某係官が文芸春秋のラ氏手記を評して、『スパイの手記がその大綱はともかく、細部にいたるまで常にその真相を明らかにするものではない、という常識がよく判る』と洩らしたように、その手記の内容で、数字とか名称とかが、意識的に伏せられるのは事実である。

大体からして『私はスパイだった』『私は〇〇機関員だった』と名乗り出るスパイなどというのには、余り大物がいないことも確かである。これはスパイという特殊な任務についた人物が、任務終了後も自ら自分自身を顕在化するということは、とりも直さず彼自身の任務や地位が、それほど重要ではなかったということでもある。

ラ氏にせよ、また西独で亡命したホフロフ大尉などのように、具体的な事件によって自らの意志に反して顕在化された人たちの手記はまた違うが、顕在化される要因もないのに名乗り出た例が極めて多い。

例えば、「風が私を連れてゆく―赤い日本人スパイの手記」(日本週報二十六年五月五日号)小森(筆者名は小森氏という紹介のみ)は有名な情報プローカーで、ついにニセ記者やニセ特審局員の寸借サギで逮捕された男であるし、「私はアメリカのスパイだった」(話二十六年九月号)小針延二郎氏は、読売の幻兵団キャンペインのキッカケとなってから、自分が英雄であるかの如き錯覚におち入り、情報ブローカーになって、ニセ記者の寸借サギという、小森某と同じケースを辿っている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 志位氏の手記から引用しよう

赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm   into my pants pocket.
赤い広場ー霞ヶ関 p.088-089 He thrust a small piece of paper hidden behind his palm into my pants pocket.

また「私はアメリカのスパイだった―キャノン機関の手先として」(サンデー毎日二十八年八月二日号)板垣幸三氏は、終戦時樺太でソ連軍人のボーイ(十五才)となり、北鮮を経て密輸船で日本へ入国、キャノン機関で教育され、最後は同機関のアジトの赤坂見付のドライヴ・イン(ラテンクォーター)のボーイになっていたが(当時二十三才)、鹿地事件で表面化したキャノン機関攻撃のため、法務委員会に証人として引張り出されたというだけの人物である。

志位氏の手記(著書「ソ連人」)のうち、興味深い幾つかの個所を引用してみよう。いずれもドラマチックであるが、〝彼とその相手以外の誰にも分らない事実〟である。

二十六年九月はじめのある朝、私はいつものように家を出ると、経堂駅に通ずる道を、急ぎ足で歩いていた。私がとある町角を曲ったとき、この辺ではあまり見かけない一台のジープが道端に止まっていて、運転手らしい男が、エンジンに首を突込んで油まみれていた。なんだ故障だなと、何気なくそのジープの横を通り過ぎて私がものの十歩も歩かないうちに、

『ギブ・ミイ・ファイヤー!』

早口の英語が私の後から追ひかけてきた。ふり返った私はポケットからライターを出して、その声の主の咥えていた煙草に火をつけてやった。

ふと見上げた私の眼と彼の眼がかち合った。ものいいたげなその視線、背のすらりとした明るい顔つきの若い白人だった。

煙草に火をつけ終るやいなや、彼は手のひらに隠していた小さな紙片を、私のズボンのポケットに突込んだ。それはほんの一瞬のことであった。私が、また一、二歩行きかけて、手をズボンのポケットに入れたら、

『アフター・ナーウ(あとで)』

と、白人の英語がまた早口に追いかけてきた。私はそのままバスの停留所に急いだ。

始発のバスのなかで、私は汗にまみれた小さな紙片を人眼を盗むようにして、素早く読んだ。

『あなたが帰ってから三年です。子供たちもワンワン泣いています。こんどの水曜日の二十一時テイコク劇場裏でお待ちします。もしだめなら次の水曜日の同じ時間、同じ場所で……』

金釘流の日本文、判読するのに一寸骨は折れたが、「協力」のためのレポであることはすぐ私につかめた。『子供たちもワンワン泣いています』という吹き出しそうな言葉は、明らかにあの合言葉の上の句であった。しかも日時、場所を指定してきていた。

来るべきものがついにきた。回答までの三日間私の頭脳はめまぐるしく回転した。ここでまず一番簡単な方法―それは、CICにこのことを報告することであった。しかもそれは占領下の当時の状況のもとでは、私にとってもっとも安全かつ有利かも知れなかった。 だがここで私がCICに報告すれば、私があの終戦の時に決心し、シベリヤで考え、舞鶴で心に誓った「全員引揚げの促進」がすべて嘘になる。まだ多くの同胞が、あの暗いシベリヤから帰ってきていないのだ。私はどんなことをいわれようと、自分自身を裏切ることはできないと、こう考えた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 都倉栄二はどちらか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.
赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.

志位氏の協力的な供述が、スパイ事件をはじめて取扱った当局係官の、教養資料として役立ったことは大変なものだった。また志位氏の人物にホレこんだ係官たちが、同氏の存在を全く厳秘にしており、二十九年八月十四日、第二次発表の日に読売がスクープするまで、同氏のことは殆ど外部には洩れなかったほどであった。これも志位氏の真面目で研究的な、人間的魅力の賜物であろう。私も志位氏と親しく話してみて、係官たちの同氏への好意が、単なる〝協力者への好意〟だけではないと感じさせられたのである。

「山本調書」の一頁に次のようなラ氏供述があるといわれている。

私の何名かの協力者のうちで、一番信頼できたのは志位であり、一番駄目だったのは吉野です。ラ氏の自分の協力者へのこの感想と、その後の二人の行動――信頼された志位氏は進んで当局に協力し、信じられなかった吉野氏はあくまで否認する――との喰ひ違いは、私にもう一つの、全く同じような例を想い出させるのである。

すなわち、ラストヴォロフの山本課長への告白では、同じようにより多く信頼し、有能だと認めた日暮氏が、進んで当局の協力者となり、事件の全ぼうを告げたのに対し、ラストヴォロフがそれほどには評価せず、信頼度も低かったような庄司氏が、あくまで否認し黙秘して、当局への非協力者となっていることである。

志位対吉野の関係はそのまま日暮対庄司の関係である。つまりラ氏が信頼していたと告白する彼の協力者は、事実上彼の信頼を裏切って彼の非協力者になっており、ラ氏が認めるほどではないと称する彼の非協力者こそ、彼の評価を裏切ってその協力者になっているという事実である。

ここで私は再び読者に対して、恐ろしいことではあるが、全く同様なケースをもう一つ想い出させられることを告げねばならない。

「山本調書」を繰って読み進んでゆくと、都倉栄二という名前が出てくる。昭和十一年東京外語ロシヤ語科卒業の外務事務官、古い東外のロシヤ会会員名簿では外務省管理局引揚課となっているが、現在では欧米第六課(旧第五課、ロシヤ課である)員で、しかも現在進行中の日ソ交渉全権団の随員として、三十年五月二十六日に羽田を発って、交渉地ロンドンへ渡っている人物である。

都倉氏もまたラストヴォロフと接触していた人物の一人である。さきにラ氏の手記に「新日本会を組織した五人の大使館員」とあることを述べたが、そのさいにこの「新日本会」という会名も、「五人」という人数も、また「大使館員」という身分も、いずれも必ずしも事実ではないということを述べておいた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 ラストヴォロフは亡命ではなく拉致か

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?
赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?

ここで私は、ラ氏の評価が現実の志位対吉野、日暮対庄司の関係と、さらに前記の当局一幹部の言とを思い合せて、ラ氏の〝自発的離脱〟ということに深い疑問を覚えるのである。つまり亡命ではなくして、拉致であるというのである。

妻子をもすてた真の亡命であるならば、彼は完全な世捨人である。一切の真相を語り終って静かに余生を送るであろう。

彼が真相を語っていない、祖国ソ連に反逆していない、ということは、彼の告白は相当な鑑定を必要とする。例えば逆のことを語っているのではないか。信頼していなかった志位氏を信頼しているといい、高く評価している吉野氏を情報プローカーと極めつけるといったように。

すると、ラストヴォロフの失踪は、亡命でなくて拉致である。アメリカ得意の〝人浚い〟〝引ったくり〟である。すると、彼の妻子の安全は事実である。

ラ氏が拉致され、彼がウソをついてたとなるとこれは事件である。三十年五月二十五日付朝日新聞が報じた、外交暗号がソ連に解読されているのではないかという心配(元ハルビン特務機関長小野打寛少将から、公安調査庁を通じて外務省へ提出された意見)は、より大きくなって、暗号以前のものが筒抜けになるのではないか、という心配にならねばならない。

志位、吉野という二人のラ事件関係者のとった対照的な立場は、私には人間の自己保存の本能がそれぞれの形をとったものだと思われる。即ち一人は顕在化されることによって、死の恐怖から逃れ得ると信じ、一人は顕在化されることが、死の恐怖へ連なるものと信じているのであろう。

そして私は、幻兵団キャンペイン以来の信念で、志位氏の立場こそ、米ソ秘密戦の間にまきこまれた日本の犠牲を、最小限に喰い止め得るものだと思っている。

五 暗躍するマタハリ群像

強盗、殺人の一課モノ、詐欺、汚職の二課モノと、風紀衛生の保安、それに思想関係の公安。警視庁詰記者の担当は、ザッとこんな風に分れている。

どの分野にしろ、調べ室や事務室をのぞいてみて〝敵情〟を偵察し、係官たちとの雑談から片言隻句の〝情報〟を得て、そこで作戦参謀として最後の〝決心〟を下し、原稿を書くことに変りはない。これが「取材」であり、「発表」と根本的に違う点である。

だがこれらのうちで、絶対にふだんの努力がなければ情勢分析ができないのが公安関係だ。左翼も、日共の理論面の動きや、人と人とのつながりがわからなければ、パッとでてきた「伊藤律除名」の情報も、確度がわからない。スパイ事件も同じで、思想的背景があり、政治的謀略さえ考慮しなければならない。 三橋事件がそうだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原

赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?
赤い広場ー霞ヶ関 p.178-179 Those evaluated by Rastvorov betrayed Rastvolov and cooperated with police authorities. But, those he says badly are uncooperative with police. So are they really Soviet spies?

これは都倉氏にとって極めて名誉なことである。ラ氏の口から、都倉氏の名前が出されたので、捜査当局では直ちに彼について調べてみた。この捜査は、ラ自供が真実なりや否やの、裏付け捜査だから当然のことである。ラ氏がスパイではないというものを、警視庁へ召喚して取調べることはできない。だからまず彼の抑留間のことと、帰国後のこと、そしてさらに、当局が彼の名を知ってから以後のことである。

そのため、同収容所の人たちにきき、さらに現在の部分は尾行してみた。その調べによると在ソ間の彼の行動については、幻兵団としてスパイ誓約をさせられたことは、まず間違いのない事実だという。

尾行、張り込みなどの身辺捜査からは、残念ながらラ自供の額面通りの、あまり良い結果は出なかったらしい。通商使節団のクルーピン氏らの、滞日期限延長問題などにからんで、当局では何らかの結論をつかんだようであった。

当局のアナリストはこう考えた。

――庄司対日暮、吉野対志位、この二組に共通したものは、ラストヴォロフの評価の高い者が簡単に当局の捜査に協力し、彼の評価の低い者が、非協力的だということである。

――都倉氏もまた、スパイにならなかったといって、けなしている。評価は低い。

――けなされた者は、庄司氏と吉野氏だ。そして、都倉氏だ。

アナリストは、そう考えこみながら、机上の一冊の雑誌を取って眺めた。三十年三月二十五日号の日本週報である。そこには「北海道を狙う軍事基地、南樺太の実態」という、大きな見出しが躍っている。筆者の菅原道太郎という名前と、その経歴とが書かれてあった。彼は意味もなく、その経歴を眼で追っていった。

――大正十一年北大農学部卒、昭和三年樺太庁農事試験所技師、昭和二十年赤軍進駐後、ソ連民政局嘱託となり、日本人食糧増産を督励中、反ソ容疑をもって逮捕投獄せらる。昭和二十二年証拠不充分で、ハバロフスク検事局で不起訴となり帰国。昭和二十四年連合軍総司令部情報部特殊顧問。昭和二十九年同退職しソ連研究に専心、著作に従事。

――ウム、菅原氏も樺太でスパイ誓約をさせられ、ラ氏の手先にさせられた。そして、ラ氏は賞めていたが、彼もまた快く当局に協力してくれた人物である。つまり、ラ氏の評価は高いがそれを裏切って、当局に協力してくれている。

――庄司対日暮、吉野対志位、都倉対菅原。何と対照的なことだろうか?

彼は雑誌を机上に落した。そこにはまた新聞の切抜きが二枚。五月十八日付の朝日新聞社告であり、五月二十一日付の朝日新聞のトップ記事である。社告には、朝日の海外特派員の、異

動と新配置が報じられ、清川勇吉氏をモスクワ駐在としてあった。そして、もう一枚はその入ソ第一報であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 情報と謀略なく国は存立できず

赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 "There is no diplomacy without information," said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where "a nation cannot exist without information and plot".
赤い広場ー霞ヶ関 p.216-217 ”There is no diplomacy without information,” said a Foreign Ministry bureaucracy. However, the times have already come to a point where “a nation cannot exist without information and plot”.

謀略もまた、鉄橋をダイナマイトで破壊したりすることばかりではない。また、そんなのは

下の下たるものであるが、やはり、謀略というと、大時代的な感覚しかなくて、軽べつ感が先に立つ。

しかし、ラ氏の亡命とか、シベリヤ・オルグの活躍とか、久原翁の引出しとか、すべてこのように、ある目的をもって、所期の事実を、自然に作り出すのが「謀略」である。

『情報なき外交はあり得ず』と、外務官僚は大見得を切るが、時代はすでに『情報と謀略なくしては、一国の存立はあり得ない』ところにきているのである。

今まで述べた米、英、ソ三国の情報機関の仕事をみてみれば、それは充分うなずけよう。

七月八日付の各紙によれば、政府は、内閣調査室に〝特高的〟調査は行わしめないようにしたという。当局者はいたずらに〝特高〟という言葉の、ニュアンスのみにとらわれて、迎合的であってはならない。

また、七月十日付読売夕刊の、マーク・ゲインのワシントン日記、「原子力時代のスパイ戦」にも、主役は科学者になると述べられている。事実〝静かなヴォルガの流れ〟とでもいう、一枚の観光写真さえあれば、この写真を立体化して、はるかの対岸にうつる工場の屋根だけからその工場の規模、内容、能力までが計算され得る時代である。

為政者は諜報と謀略という、古い言葉のみてくれだけにかかずらわって、今、なすべきこと

を見失ってはならないと信ずる。

ラ氏と志位氏の最初のレポは、東京は目黒の碑文谷警察署の裏手の住宅街の路上であった。少し早目にきて、佇んでいた志位氏は、パトロールの警官に職務質問を受けた。

ハッとして狼狽しかけたところへ、運良くラ氏が近づいてきた。早くも情勢を察知したラ氏は早口の英語でパトロールの警官を叱りつけたのである。英語を話すのはアメリカ人で、アメリカ人は味方である、という単純な考え方をした警官は、志位氏に『失礼しました』と謝って去っていってしまった。

同様に三橋事件のさい、ソ連スパイなら共産党員と思った国警都本部が、別人の三橋氏を追っていたこともある。

もし、碑文谷署のパトロール警官が、もっと自己の職務に忠実であり、自信を持っていたらラ氏と志位氏は、眼と鼻の同署に同行され、ラ事件は別の形で発展したかも知れなかったのである。

あらゆる国際犯罪の根が、暗黒都市「香港」にあることから、以前の国警では、香港に駐在官をおいて、情報入手の便宜を図り、国内の犯罪検挙の能率をあげようとした。ところが、何回申請しても、香港政庁はヴィザを出さない。