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新宿慕情 p.036-037 私たちも久し振りの書き初めをはじめた

新宿慕情 p.036-037 警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月。目黒の課長公舎で、午後からの延長戦の酒がはじまった。
新宿慕情 p.036-037 警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月。目黒の課長公舎で、午後からの延長戦の酒がはじまった。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」
おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。

考えてみると、数人連れでワッときて、上がったこともあるような気がする。しかし、そんなことを、いつまでも厳重に憶えていられるものではない。

だが、それは、遊冶郎(ゆうやろう)としての、遊びのエチケットなのである。……こういったしつけは、なにも遊びだけではなく、次第にすたれてきて、日常生活が、サクバクとしたドライさを帯びてきている。

若い友人たちと、キャバレーなどに行くこともあるが、彼らは、平気で、見かけた〝好みのタイブ〟のホステスに、指名を変える。女もまた、それを平気で受ける。指名を外された娘はやや寂し気だが、私が経験したような、激しい抗議もなくそれなりに会釈をして、通りすぎてゆく。

「オレが、オレの金で遊ぶのになぜ、一度指名した女を、ずっと指名せねばならないのか、わからない。金を払うのは、オレだよ。それなのに、オレの自由がないなンて、そんな、バカなことありますかい!」

それが、いまの論理である。これも〝田中首相の後遺症〟というべきなのか……。

正月の警察公舎で

新宿二丁目の思い出に、特筆しなければならぬことが、もうひとつある。といっても、それはもう、遊郭から赤線になった戦後のことだ。

私が、警視庁の記者クラブ詰めだったころの、ある正月……。

いま、内閣で、室長の地位にある某氏が、まだ、課長だったころ、私と後輩のF君のふたりで、その課長宅を訪れた。私たちの担当課長だからだ。目黒の課長公舎には、この御用始めの日が、各課員たちの年賀の日で、夕刻ごろまでは、私服の警官たちで賑う。

ついさきほど、課員たちが帰っていったらしく、課長も、けっこう赤い顔をしていた。

外国勤務の長かった課長は、それなりに、警察官僚らしくない、闊達な男だった。

私たちの顔を見て、午後からの延長戦の酒がはじまった。部下相手の酒よりは、やはり、まわりも早いのだろう。奥さんも可愛いお嬢さんたちも出てきて、正月らしいフンイキが盛り上がってきていた。

小学生のお嬢さんたちが、宿題の書き初めをやり出したので、私たちも、久し振りの毛筆に

(写真キャプション)最近の新宿の二丁目には、まだ古い建物も残って……

興味を感じて、書き初めをはじめた。課長もその気になってきたようだった。

新宿慕情 p.038-039 庭にフトンを投げ出して飛び降りた

新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…
新宿慕情 p.038-039 翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった――正月だというのに…

私たちの顔を見て、午後からの延長戦の酒がはじまった。部下相手の酒よりは、やはり、まわりも早いのだろう。奥さんも可愛いお嬢さんたちも出てきて、正月らしいフンイキが盛り上がってきていた。
小学生のお嬢さんたちが、宿題の書き初めをやり出したので、私たちも、久し振りの毛筆に

興味を感じて、書き初めをはじめた。課長もその気になってきたようだった。

やがて、半紙がなくなると、課長は、公舎のフスマを指差して、「紙はあすこにある!」と叫んだ。

私たちはワルノリして、たちまち、フスマいっぱいに、文字やら絵らしきものなど、書き殴り出した。フスマから壁へと、座敷いっぱいに落書をしたあげく、夜ふけとともに、三人ではもの足りないと、近隣の公舎から、親しい課長たちを狩り集めてきて、大宴会になってしまった。

さて、靴はどこだ

サテ、話はこれからである。夫人が、二階にフトンをのべてくれて、ふたりは、そこに酔いつぶれ、寝こんでしまった。

だが、翌日、正午ごろになって、ふたりは、新宿二丁目のとある妓楼で、目を覚ましたのであった——正月だというのに、ふたりとも、オーバーは着ておらず、なによりも困ったことには、靴がないのである。帰れないのだ。

ふたりが、途切れ途切れの記憶をつづり合わせてみると、どうやら、こういうことだったらしい。

どちらが先に、目を覚ましたのか明らかではないが、夜半「どうして女がいないのだ?」と、遊廓に泊まっている夢でもみたのか、騒ぎ出したらしい。その結果、「どうやら、監禁されてい

るらしい」と、とんだ〝公安記者〟的推理から、〝脱走〟することになった。

二階の雨戸をあけ、庭にフトンを投げ出して、飛び降りた。ヘイを乗り越え、ガケをすべりおりて、タクシーを拾った。

そして、女たちの証言で、明け方ごろ、二丁目にたどりついた、ということらしかった。

こうして、正気にもどってみると、たとえ、正月のこととはいえ、警視庁記者クラブで、公安担当のふたりが、ふたりとも不在では困る、と気付いた。

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。

「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」

「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」

「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」

「スマン。……ところで、靴があるかい?」

「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」

「イヤ、クラブじゃないんだ」

「どこです?」

「二、チョ、ウ、メ……」

「二丁目? 新宿の?」

新宿慕情 p.040-041 サカサクラゲ、連れこみ、アベックホテル、ラブホテル

新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…
新宿慕情 p.040-041 旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として侵蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も…

出かけようとして、靴がないことがわかった。やむなく、警視庁に電話を入れ、課長別室付きの、巡査部長の運転手クンを呼び出した。
「いったい、どうしたのです。朝になって、〝犯行〟が発覚して、〝指名手配〟中でしたよ」
「イヤ、おれたちにも、良くわからんのだよ……」
「課長も心配してましたよ。二階の窓は明け放しだし、庭にはフトンが散乱しているし……」
「スマン。……ところで、靴があるかい?」
「持ってきましたよ。で、どこです。クラブでしたら、届けましょうか?」
「イヤ、クラブじゃないんだ」
「どこです?」
「二、チョ、ウ、メ……」
「二丁目? 新宿の?」

「オイ、オイ。そう、大きな声を出すなヨ。タノム、済まんが届けてくれよ。……出られないんだ……」

「イヤァ、あの座敷の落書だけでも呆れたのに、新宿の赤線にいるんですか?」

かくて、ナンバー・三万台(官庁公用車の番号は、すべて三万ではじまっていたので、公用車をそう呼んでいた)の、課長専用車が、新宿の赤線にピタリと横付けされることになる。もしも、どこかの新聞記者が、その光景だけをみかけて、写真を撮っていようものなら、大特ダネだったろう。

若く、真面目な警察官である運転手クンがいった。

「イヤァ、記者サンというのは私たちの想像を絶するようなことをなさるんですなァ!」

「ナニ、〝心のふるさと〟に里帰りしただけサ」

按ずるに、課長宅の上等な客ブトンが、紅楼夢を誘ったもののようだった。

数日後に、課長がいった。

「オイ、オイ。おかげで、日曜日が一日ツブれたゾ。フスマは経師屋に頼んだけど、壁は、オレが塗り直したンだ。……子供たちはよろこんでいたがネ」

ほぼ同年輩の課長クラスは、もう、総監やら警察庁次長、内閣ナントカ室長などと栄進していて、あんな〝遊び〟は、もうできない地位になっている。

トップレス・ショー

東へ広がる新宿

二幸ウラの都電通り(いまの靖国通り)を境に、そこまでが新宿の盛り場だったのが、昭和三十一年にコマ劇場ができ上がると、街が深くなって、コマ劇場の裏通り(風林会館から大久保病院にいたる通り)が、盛り場の境界線となって、歌舞伎町が誕生した。

その奥、東大久保町は、それこそ、文字通りのベッド・タウンで、〈連れこみ〉旅館街である。その区別は、画然としていたのだった。

ところが、旺盛な新宿の活力が、この一帯までを盛り場として浸蝕し、境界線はさらに後退して、職安通りにまで移った。旅館街も、そこから大久保通り(国電の大久保、新大久保両駅を結ぶ通り)との間と、明治通りの西大久保側とに、追いやられてしまった。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。

かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

新宿慕情 p.042-043 往年の名画は武蔵野館と昭和館で

新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。
新宿慕情 p.042-043 府立五中の制服が背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って新宿の街を歩いていた。

ついでながら、昭和二十年代には、〝サカサ・クラゲ〟であり、〝連れこみ〟であったのが、三十年代には〝アベック・ホテル〟となり、四十年代には〝ラブ・ホテル〟と変わった。
かつては、女性が、男性に連れこまれ(拒否的フンイキがある)た旅館だったのが、ついでアベ

ック(ためらいの感じ)となり、いまでは、享楽的な語感を持つラブになった——女権の伸長というべきだろうか。

そのコマ劇場ウラのネオン街。五階建てのビルに、コンチネンタルというクラブがある。いやあった、というべきだ。

風林会館から、明治通り寄りにあるマキシムが、多分、〝元祖〟なのだろうが、ホステスによるショー・チームがあった。学芸会さながらの稚拙さと、踊りが終わると、客のもとに帰ってきて、ホステスになるというシステムとが受けたらしい。

この分派が、ムッシュ・ボンドという店に移って、ここでもホステスの四人チームが、客席の間でカンカンを踊る、といった趣向が受けていた。

もちろん、トップレスだ。でも、ストリップ・ティーズではない。

ところが、さきのコンチネンタルでは、プロの踊り子チーム五人が、意欲的なショーをやっていた。若い、演出家兼振付師が、半月変わりで大胆な試みをやる。〝大胆な〟といっても、〝際どい〟という意味と間違えてもらっては困る。

私は、このチームのファンになった。そのなかの、まだ、二十歳そこそこの踊り子のムチに、夢中であった。

ムチのソロ場面になると、席から立ち上がって、拍手のしつづけなのだ。カケ声をかける。

同行の友人たちは、苦笑して私のことを〈若い〉という。

だが、これは〈若い〉のではなくて、〈老い〉が忍びよってきていることだ、と、私は心秘かに、自問自答している……。

武蔵野館は三階席

そう、想い起こせば、と、書くあたりにも、それが、うかがえるではないか——昭和十四、五年ごろのこと。私はまだ、中学生だったが、府立五中の制服が、当時では珍しい背広姿だったこともあって、いっぱしのオトナを気取って、新宿の街を歩いていた。

新宿駅の中央口通り。洋画の封切館の武蔵野館が、〝知性派の町〟のシンボルのひとつでもあった。

安い三階席からは、スクリーンは、はるかの谷底にあったが、クローデッド・コルベール主演の『ある夜の出来事』の、スカートまくって、ガーターをズリ上げて、車を停めるシーンに眼をコラしていたのも、ついさきごろのことのような気がするのだ。

マリー・ベルの『舞踏会の手帖』、コリンヌ・リュシェールの『格子なき牢獄』といった、往年の名画の数々は、みな、武蔵野館の三階席の思い出とともに、まだ私の心の中に生きている。

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

新宿慕情 p.044-045 清洲すみ子に懸想、市川弥生にほのかな愛情

新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ
新宿慕情 p.044-045 村山知義率いる新協劇団、薄田研二らの新築地劇団、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディ

そして、三階席での感激を、もう一度味わうためには、セカンド・ランの昭和館があった。ここは、堂々と一階席で見ることができた。その武蔵野館も、いまは、ビルに変わり、昔日のおもかげはない。それでも、名前だけが残されているのは、うれしいことだ。

昭和館は、むかしの場所に、多分、最後の建物だろうが、ともかくも、映画館として残っていてくれている。

だが、その中間に位置していた、ムーラン・ルージュは、もう跡形もなくなってしまい、ビルが建ち、ツマらない映画をやっている……。

私が、コンチネンタルのムチに手を叩くのは、このムーラン・ルージュへの〈郷愁〉に違いない、と思う。

わが青春の女優たち

当時、「新劇」と呼ばれていたのは、村山知義の率いる新協劇団と、薄田研二らの〝集団指導〟制の新築地劇団とで、いまの感じでいえば、セ・パ両リーグのような形で、左翼演劇絶対の立場をとっていた。

そして、同じように、新劇の範疇ではあるが、肩肘怒らした左翼演劇の息苦しさよりも、もっと、傍観者的にオチョクろうという、さながら、週刊新潮誌張りに、フランス・コメディを中心とした、長岡輝子・金杉淳郎夫妻のテアトル・コメディという、別派があった。

そして、この〈我がムーラン・ルージュ〉は、テアトル・コメディの劇場演劇に対して、自ら〈軽演劇〉として、ファース(笑劇)とレビューを売り物にしていた。

しかし、本場パリの小屋の名前を、そのままイタダいているのでもわかるように、このムーラ

ン・ルージュには、浅草のドタバタとは違って、学生たちを満足させる、〝白水社的〟知性があったのだった。

だから、私はいまでも、有島一郎をテレビで見ると、ムーランの舞台にいた彼を、その映像にダブらせて見ている。

金貝省三という〝座付作者〟に憧れて、楽屋に会いに行ったこともある。

踊り子でいえば、スターの明日待子に胸をトキめかし、五十鈴しぐれというワンサに、プレゼントを届けた。

ムーランを卒業した私が、やがて、築地小劇場に拠っていた左翼演劇に熱中し始めるのは、当時の〝進歩的学生〟として当然のコースなのだが、新協劇団の女優サン・清洲すみ子に〝懸想〟することになる。

ムーランの中堅の踊り子だった市川弥生にも、同じように、少年のほのかな愛情を抱いたものだった。戦争と捕虜とから生還した私が、廃墟さながらの新宿の町で知り得たニュースは、市川弥生嬢が金貝省三氏と結婚したということと、やはり、新協劇団の清洲サンが、村山知義夫人になっていたということだ。

いまにして思えば、ナント、オマセな少年だったか、という感じである。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

新宿慕情 p.046-047 八等身の美女がズラリと居並び

新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。
新宿慕情 p.046-047 美人喫茶のハシリは日比谷交差点の「美松」。戦後は、銀座のプリンスが先か新宿のエルザが先なのか。

しかし、私は、少年の日に、戦前だから、唇を合わせることはもとより、手ひとつ握ることさえなく、ただただ〈我が胸の底の、ここには……〉と、思慕のみを抱いて、死を意味していた

〝醜の御盾〟として出て征って、帰ったのだが、ひとりは劇作家夫人、もうひとりは演出家夫人に納まった、と知って、我が《女性鑑識眼》の確かさに、ひとり悦に入ったものである。

……サテ、本題のムチに戻らなければならない。

こんなふうに、かつての演劇青年だけに、コンチネンタル・ショーの、〝文化度〟を判断する能力はあったのである。

それだからこそ、このクラブの経営者に、もっと客の入りを考えるように忠告し、演出家兼振付師の水口クンには、然るべく、アドバイスをしたりしていたのだが、やがて、クラブは経営不振でクローズし、ムチのチームも、新宿から去っていってしまった。

だれか、私のムチを知らないか……と、私は、〈郷愁〉の幻影を追い求めて、また、夜の新宿を、ハシゴする——。

要町通りかいわい

美人喫茶は戦前に

古き良き時代——というのは必ずしも〈戦前〉だけ、とは限らない。

〈戦後〉の新宿にだって、〝古く良き〟店が多かった。その代表的なものに、「美人喫茶」がある。

美人喫茶、というのは、そのハシリは、日比谷交差点にある朝日生命館の一階に、「美松」という店があった。

エ? と、反問しないでもらいたい。戦前のことなのだ。

あの一階の、広いフロアいっぱいに、八等身の美女がズラリと居並び、中二階のレコード係がこれまた、美女中の美女。

スケート場といえば、芝浦と溜池の山王ホテルだけ。ダンスホールは新橋のフロリダ、喫茶店は美松、といった時代だ。文字通り、〝きょうは帝劇、あすは三越〟しか、社交場がなかったころなのだ。

この「美人喫茶」思想は、だんだん食糧事情が良くなって、量よりも質の時代になってきた、多分、昭和二十七年の日本の独立以後、芽生えてきたと思う。

果たして、銀座のプリンスが先なのか、新宿のエルザが先なのか。あるいは、新宿でも、エルザよりも早い店が、あったのかも知れない。そのへんの正確さは欠けるけれども、新宿の美人喫茶といえば、私にとってはエルザ——私のエルザ、なのである。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

新宿慕情 p.048-049 純・喫茶店を求めて街を歩く

新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。
新宿慕情 p.048-049 私は、むかし気質のエンピツ職人。一業をもって一家をなすべし。ナンデモ屋でみな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

エルザという喫茶店は、寄席の末広亭前の通りを、靖国通りのほうへ行った右角。いま、老朽化した二階建てを、これまたビルに改築中である。キット、あの木造のギシギシいった風情が、

まったく、なくなってしまうだろう。

もっとも、近年のエルザは、ツマラない、ただの喫茶店になってしまっていた。

むかしは、コーヒーが美味くて、椅子が大ぶりなうえに、卓との空間がひろく、フワッと身体が沈むセットを使っていた。いうなれば、〝目には青葉、山ほととぎす、初鰹〟という、三位一体の、美人喫茶だった。

それなのに、椅子は、張り替え張り替えで固くなり、コーヒーの味も並み。目を愉しませてくれる女の子は、よくまあ〝伝統あるエルザ〟に応募してきたナ、という感じである。

昭和四十年代に入ると、高度成長のアオリで、ネコもシャクシも、〝すなっく〟ブームだ。

喫茶店にあらず、レストランにあらず、バーにあらず、ラーメン、スパゲティ屋にあらず。すべてに、似而非(えせ)なるものの、混合体を〝すなっく〟というらしい。

私は、むかし気質のエンピツ職人をもって任じている。それだけに、専門家を尊敬する。一業をもって一家をなすべし、となるのだから、この、ナンデモ屋で、しかも、みな中途半端な〝すなっく〟を軽蔑する。

関西へ行くと、喫茶店がカレーやスパゲティを出す。純・喫茶店を求めて、街を歩くのだが、準・喫茶店しかないので、ホテルのコーヒー・ショップを、止むなく利用する。

言葉に厳格なせいか、私は、クラブというのも用いない。バーという。バーの高級そうなのをクラブというらしいが、自分が金を出してアルコール類を飲んでいるのに、女給ども(これもまた

ホステスという言葉がキライだ)が、コーラかなんかを飲むと、「アッチに行ってくれ」と、断りたくなる。

同様に、コーヒーをたのしんでいる横で、カレーやラーメンを食われては、コーヒーの味が落ちるからイヤなのだ。

なつかしのエルザ

マキさん、というレジ係の中年の女性がいた。着物の良く似合うひとで、もう、大きな中学生の男の子がいた。

馴染み客でない男には、ママと見えるほどの貫禄があったが、実は、従業員だった。十年以上もいたのではなかろうか。

このマキさんが辞めて、エルザは、完全に、昔日の栄光を失った。

エリザベス女王と同じように、いつも、微笑を浮かべて、客商売の基本を崩さなかった。ただ女王陛下の〝威厳の微笑〟に比して、マキさんのは、〝慈愛のほほえみ〟であった。女らしさと品の良い色気とが、織りまぜられていた微笑だった。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。

むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

新宿慕情 p.050-051 日本橋の紅花、行列して待つほどの繁昌ぶり

新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。
新宿慕情 p.050-051 食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもと。

私が、このエルザに、毎日のように通ったのは、昭和三十四、五年ごろから、四十五年ごろまでの十年間。
むかしは、二階が同件席だった。美人喫茶に、あまり美しくない女の子と入るのには、女性側

に抵抗がある。だから、二階の効率は悪かったらしい。

やがて、二階を喫茶バーに変えたりしたが、大テーブルの向こう側に女性がいて、酒類を飲みながら、安く、人生論を展開したりするには、あまりにも、世の中が〝現金〟化しすぎていたし、女性側にも、もう、そんなロマンチストは、数少なくなっていたので、これもまた、すぐ飽きられて、水揚げが悪かったようだ。

田中角栄氏が、すでに、幹事長になっていたセイだろう……。即物的な風潮が、もはや、美人喫茶などという、ロマンを押しツブしてしまう時代だった。

この要町通りの一角は、私の新宿での、一番関係の深い土地である。

ランチならいこい

エルザとの十何年の付き合いと、ほぼ同じくらいになるのが、エルザと背中合わせの角にある「いこい」というキッチンだ。

食べ物屋は、美味いのが第一で、次が安いこと。そして、量ということになる。そのうえ、材料が新鮮、ということになれば、もう、申し分がない。

この「いこい」は、現在も、いよいよ盛業中なので、いささかCMめくけれども、〝事実は雄弁に勝る〟のだから、しようがない。

ここの若ダンナが、まだ独身時代からで、結婚し、子供が生まれ、大きくなってゆくのを、ず

っと、目撃しつづけてきたのだ。

それは、〈いこいランチ〉を通じての仲である。

「いらっしゃーい。まいど」

「ごちそうサン」

交わす会話はこれぐらいでも心と舌とは通じ合っている。万古不易……といえば、大ゲサすぎるが、洋食屋で、これほど変わらない店は少ない。

もう、ズッとむかし。日本橋の紅花に行って、その味と量と値段とに、驚いたことがある。ランチ・タイムなどは、付近のサラリーマンたちが、行列して待つほどの、繁昌ぶりだ。

この〝好況〟に、経営者は、その気になったらしい。チェーン店がふえるたびに、味が落ち客足が落ちて、値段が上がってゆくのだ。もう、紅花などに見向きもしなくなって久しい。

食べ物屋というのは、コックが代わったら終わりなのだ。味が、ガラリと変わってしまう。中国料理店など、その代表的なものだろう。

だから、少し儲かると、店を広げたり、支店を出したりするが、これが間違いのもとだ。飲み屋は、サービスとフンイキだから、チェーン店を出せる可能性もあるが、食べ物屋は、そうはいかない。

カミさんとて、そうそう、取り替えられるものではない。ということは、別に、道徳的な理由からではない。

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 2面

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 2面 防衛庁が機密防衛作戦 火をつけた三矢・怪文書事件
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 2面 防衛庁が機密防衛作戦 火をつけた三矢・怪文書事件

正論新聞・創刊号 昭和42年元旦号 1面

正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 1面 風林火山 葉たばこ輸入にも〝黒い霧〟 詐欺常習者にいつもの顔ぶれ 水野繫彦 児玉誉士夫 吹原弘宣 森脇将光 大橋富重 森清 永田雅一 川島正次郎 山口喜久一郎 桜内義雄 田中角栄
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 1面 風林火山 葉たばこ輸入にも〝黒い霧〟 詐欺常習者にいつもの顔ぶれ 水野繫彦 児玉誉士夫 吹原弘宣 森脇将光 大橋富重 森清 永田雅一 川島正次郎 山口喜久一郎 桜内義雄 田中角栄
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 題号
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 題号
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 コラム・風林火山
正論新聞 創刊号 昭和42年元旦号 昭和42年(1967)1月1日 コラム・風林火山

正論新聞・創刊号・風林火山

戦後のある時期に、バクロ・ジャーナリズムが、横行したことがあった。

「真相」という、反保守の雑誌が、保守系の代議士連中を、それこそナデ斬りにして、はじめのうちは、ヤンヤの喝采を博したものだった。が、やがて、その下品さがひんしゅくを買うにいたり、しかも、タネ切れでウソが多くなり、数十名の代議士の告訴で潰えさった。

また、すでに故人となったある参院議員のケースがある。

占領下の、引揚問題が重大な時、留守家族の支持で当選してきた彼の名は、毎日の新聞に大きく出ない日はなかった。その彼に女性関係のスキャンダルがあったらしい。

「青年新聞」という、革新系の新聞が、それを綿密に取材してきて、その記事を二十万円で買い取れというのに、参院議員は、自信に満ちて一蹴した。

新聞側は、「かかる議員にふたたび議席を与えるな」と、大見出しをつけ、八人の女の写真入り新聞を、その選挙区にバラまいたものである。

次の選挙で、婦人票の多い彼が、落選したのはいうまでもない。彼は不遇のうちに死んだ。

記者はいま、この創刊号の原稿をまとめながら、改めて、バクロ・ジャーナリズムということを考えてみる。

私利私慾が、私利私慾に分け前を強要するのに、活字という武器を使う——これが、バクロ・ジャーナリズムの姿である。

だが、今の時代ほど、本当の意味で、バクロを必要とする時代は、ないのではないか。

本物の味、本物の心。すべてに、本物の値打ちが認められない時代だからこそ、本物、つまり、ホントのことを、「知る権利」を持つ人々に、新聞人として「知らせる義務」がある。

刑訴法も刑法も知らず、〝エンピツ女郎〟が記事を書く。これが怪文書であり、バクロ・ジャーナリストだ。彼の人柄そのままに、下品で、尊大で、無恥で、無知だ。

記者は、読売社会部十五年のうちに、新聞人と自称できる、勇気と自信を与えられた。新聞が公器なればこそ、この〝育ての恩〟は、社会と次の世代に報ずべきである。

斬奸とか、筆誅とかリキむまい。あえて掲げよう。純正バクロ・ジャーナリズムの旗を!

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 三社のうちでは最下位の毎日

正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。
正力松太郎の死の後にくるもの p.364

それを実証しているのが、朝日の紙面と発行部数の増加との関係である。あれほどに、デタラメな紙面を作っていながら、当面の責任者は、何らお構いなしで、しかも、部数は増加しているのである。
ということは、読売のみならず、朝日の場合でも、〝記事がよいからとっている〟のは五%以下なのであろうか。かくの如く、読者の自由な選択権を封殺する、「宅配制度」に守られて、巨大化を続けてゆく「新聞」であってみれば、〝紙面〟はその存在価値にほとんど影響を与えてお

らず、それこそ、販売関係者の心意気を示す〝古語〟であった、「朝日新聞と題号さえついていれば、白い紙でも売ってみせます」という言葉が、全く別の語意で生きていることを、思い知らされるのである。「破廉恥」が「ハレンチ」となって生きてくる時代であるからこそに……。

これが、「マスコミとしての新聞」の姿であって、「既成概念の新聞」と、全く区別されなければならないのである。と同時に、現在はまだ、その両方が入りまじった過渡期の時代でもある。

過渡期ではあるが、〝マスコミとしての新聞化〟現象は、この昭和四十年代の中盤期に入って、いよいよ進行していることは、各紙発行部数表(表1)にみる通りである。

五社発行部数表(表1)

少し古い数字で恐縮だが、昭和四十三年十月現在の数字で、その直後の十一月からの値上げ後の影響は、まだわからない。しかし、昭和四十年十月の前回値上げ後も、各紙は部数増加を続けていることが、表にみる通りで唯一の例外として、サンケイ大阪が二万八千余部の減紙となっている。

表中の従業員数は、新聞年鑑によったもので、参考までに、「一人当り部数」を算出してみた。新聞経営の健全な形の常識として一人当り千部といわれているのだから、読売の七三三部が一番ラクで、三社のうちでは、最下位の毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。

そして、たとえ〝四大紙〟と誇号していても、サンケイの百八十三万部、従業員一人当り四三三部という数字は、大新聞としての戦列から落伍し、命運すでにつきた感がするのを否めない。しかも、この表からは、大阪版の二・九%の減紙しかわからないが、昭和三十九年十月の数字でみれば、相当な減紙であって、急坂を転がりおちている実情である。

ついでなので、日経の数字も掲げたが、この一人当り四七〇部というのは、数字は低いけれども、読者が固定していて流動せず、販売経費がかからないのと、広告の増収という〝含み資産〟があるので、一般紙の数字と同じモノサシでは計れないことを、お断わりしておこう。

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 朝日と読売との一大激突

正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している
正力松太郎の死の後にくるもの p.366

ここ数年で読売が一位に……

さて、問題は、朝日と読売との一大激突である。ともに、五百万台という大台にのり、その差はわずか四十万部(正確には、四〇一、九〇七部)である。(表2)をみていただきたい。発行所別にまとめてみた。

朝・読 発行所別部数(表2)

第四項の「比較部数」というのは、朝・読のどちらが、どれだけ多いかというのは、該当社の欄にプラス記号+で示した。これでみると、朝日は大阪、名古屋、西部の三発行所で読売をリードしているが、東京、北海道は負けており、関東以北に強いという読売の伝統はくずれていない。もっとも、読売は名古屋がなくて北陸なのでこのところは比べられないし、朝日の三十六万に対し、読売九万という、勝負にならない数字である。

特に面白いのは、東京、大阪の二大決戦場である。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。

ところが、東京、大阪での両社の伸び率をみると、東京では、朝日十七%に対し、読売十三%。大阪では、朝日十二%に対し、読売十七%と、それぞれ逆になっている。ということは、大阪では読売が、東京では朝日が、それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開しているということである。つまり、攻撃側の方が懸命の戦いをしかけているので、伸び率が高いということを物語る。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。

ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 エイムズ(AYMS)という新しい言葉

正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。
正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

しかし、東京での伸び率の朝日十七%対読売十三%で、四十七万の差があるのにくらべると、大阪で朝日十二%対読売十七%で、二十五万の差というのでは、大阪での読売の追いあげの凄まじさが、しのばれるというものである。
ことに、北海道をみると、四十年の朝日十三万対読売十二万という、ほぼ同数だったものが

三年後には逆転して、読売がリードを奪っており、しかも伸び率が、朝日の二十六%に対して、読売は五十%、約倍の高率である。

西部と名古屋(読売は北陸)では、朝日の優位は読売をよせつけないほどであるが、少くとも、大阪の形勢をみると、もう数年で逆転の可能性が認められる。現在の差(総部数)の四十万部ほどは、大阪で読売が首位を奪取すれば、ラクにつめられるほどの小差なのだから、この成り行きは興味深いものがある。

こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。そして、もし毎日が現在の四百万台を割るようであれば、サンケイのように、急速な転落の道をたどることになろう。

世帯数増加の正確な数字がないので、断言するのをはばかるが、新聞購読人口はほぼ頭打ちの状態にあり、世帯数の伸び率以外には他紙をさん食しなければ、伸びないといわれている。従って、朝・読の巨大化の第一の犠牲がサンケイということになる。

エイムズ(AYMS)という、新しい言葉が使われはじめている。新聞界の序列を示すものなのだが、朝(A)読(Y)毎(M)はわかるとしても、最後のSは、残念ながらサンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。

そして、毎日はどうか。朝、読との闘いを諦らめた毎日は、編集出身の田中会長の統卒下にあ

るらしく、「広報伝達紙」たることを避け、本来の意味での「新聞」に立ちもどりつつある。

最近の毎日新聞の紙面は、権力に抵抗し、ヤミ取引を排除して、清新、爽快なものに変りつつあることは事実だ。四百万の大台を割り、二百万、百万と下っていっても、私は、この毎日新聞の進む道を壮としたい。このような新聞こそ、明日の日本という、民族と国家とのために、必要欠くべからざるものなのだ。

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき
正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき

あとがき

この稿は、月刊「現代の眼」誌と、月刊「軍事研究」誌とに、「現代新聞論」と銘打って連載したものを、想を新たにして書き改めたものである。

読売を退社してから、はじめて「新聞」を客観的にみることを知り、現場からの〝新聞論〟を書きたいと、考えていた。新聞は、依然として、マスコミの王座にあって、放送その他をリードしているからである。

そんな時、「現代の眼」の榊原編集長と語りあって、四十年九月号から同誌に連載のつもりで、まず「読売の内幕」(八十枚)を書いた。その反響は、同社の社長を驚かせたらしい。一発で中止になった。翌年四月号に、編集長の独断で「毎日の内幕」(八十枚)が掲載されたが、以後は全く絶望的であった。

こんなふうに、「真実を伝える」ということには、勇気が要り、困難が伴うものだ。

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき)

正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付
正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付

やがて、四十三年夏、軍事研究社の小名社長から話があり、再び、連載の約束をとって執筆を

はじめた。同誌九月号から、本年三月号まで七回で「朝日の内幕」(二百八十枚)を、つづいて、本年六月号から「読売の内幕」をと、書きつづけている。

そこに、正力さんが亡くなった。これを機会にと、創魂出版にすすめられて、改めて一本にまとめたという次第である。

その間に、私は、四十二年元旦付から、大判二貢の「正論新聞」という、小さな旬刊の一般紙を、独力で出しはじめた。正統派の小新聞を、業界紙や恐かつ紙しかないこの日本の国で、育ててみたいと思ったからだ。幸い、この〝未熟児〟は、読売の諸先輩はじめ同僚たちの声援で、ともかく、この三年間で七十号を重ね、第三種郵便物の認可も得、日本新聞年鑑にも登載されて、順調に育ちつつある。この実践活動の中から生れたものなので、〝現場からの新聞論〟という所以だ。

それにしても、正力さんという人は、偉い人であった。彼を批判することとは別に、その偉大さにはうたれるものが多い。

この書を、私を新聞記者として育てて下さった正力さんの霊前に、感謝と追慕の念をもって、捧げることのできる私は、また何と幸運な男か、と感じている。

昭和四十四年十二月一日                  三 田 和 夫

著者紹介
1929年/盛岡市に生まれる。
1943年/日大芸術科卒業、読売新聞入社。
1958年/読売新聞を退社。
現在/評論、報道のフリーのジャーナリストとして執筆活動を続けるかたわら、一般旬刊紙として「正論新聞」を三年前に創刊。ひきつづき主宰している。
著書/東京コンフィデンシャル・シリーズ「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」 (1956年刊) 「最後の事件記者」(1958年刊)「事件記者と犯罪の間」(現代教養全集第5巻収録)=文春読者賞=(1960年刊)「黒幕・政商たち」(1968年刊)
現住所/東京都新宿区西大久保1の361 金光コーポ505号

正力松太郎の死の後にくるもの
定価 480円
1969年12月15日 第1版発行
著者 © 三 田 和 夫
発行者 峰 村 暢 一
印刷所 株式会社 鳳 翔
発行所 株式会社 創 魂 出 版
東京都新宿区左門町2 四谷産業ビル403号
電話 東京(359)8646
郵便番号 160
振替 東京71352番
落丁・乱丁本はおとりかえいたします

正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙 見返し 裏表紙 そで 背 腰巻

正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙
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正力松太郎の死の後にくるもの 見返し
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正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻
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正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで
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正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背
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正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻
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読売梁山泊の記者たち p.304-305 私はまさに胸がついえたのだった

読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。
読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

あとがき

平成三年四月三十日、読売の務臺光雄・名誉会長が亡くなられた——その通夜か、葬儀だったか、読売新聞の幹部が、祭壇右側にズラリと並んでいるのを見た時、私の胸はヒタとつぶれる想いであった。

正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。

だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。

昭和四十四年十月九日、正力松太郎社主が亡くなった。これは、年齢順で止むを得ないこと。昭和四年八月、務臺さんは、正力さんに請われて、読売に入社した。当時の部数は十七万部。いうなれば〝三流紙〟であった。

朝日、毎日という一流紙に拮抗すべく、正力と務臺は、手を握り合った。「おれといっしょにやろうじゃないか」と、正力にこういわれて、務臺は、その場で決意を固めたのである。(読売百年史)

つまり、正力さんの同志である、務臺さんが健在であったから、私は、「年齢順で止むを得ないこと」と、いう。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。

読売梁山泊の記者たち p.306-307 松本清張を著作権法違反で東京地検に告発

読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。
読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。

だが、昭和二十年代の、読売の興隆期に、名社会部長と謳われて、七年もその地位にあった、原四郎・元副社長が、平成元年二月十五日に亡くなり、いままた、務臺さんまでを失った時、亨さんが、

あのような姿でいることに、私は、まさに胸がついえたのだった。

務臺、原の両先輩の知遇を得て、「正論新聞」という小(こ)新聞を、読売退社後八年を経て創刊し、二十五年を閲した私の、渡辺・覇道社長への批判が、ほとばしり出たのだった。

原さんの没後、私は、「原四郎の時代」というタイトルで、正論新聞の第四面を埋めて四十二回の連載を書きつづけてきた。それは、今日の読売の隆昌を築き上げた、正力、務臺、原の三巨人に対する、鎮魂のことばであった。

およそ、八百枚もの原稿を、半分の四百枚に圧縮して、「鎮魂の詞」とせよ、といわれる、紀尾井書房、小林康男社長のご好意に、私はさらに甘えて、「序に代えて」という一章を加えさせて頂いた。

これは、「人物往来」誌(三年十二月号)に書いた、渡辺・覇道社長批判の一文なのだが、これまた、三十余枚の長文だったので、削りに削って、フンイキがややこわれてしまった。興味を持たれる向きは、原文にお目通し頂きたい。

それともう一点。「立松事件」の項で、河井信太郎検事と、その〝お庭番〟大竹宗美・文春嘱託記者、児玉誉士夫氏(いずれも故人)の三角関係について、私が知る限りの事実を書いた部分が、立松事件の流れに、直接、関係がないということから、割愛せざるを得なかったことを、読者にご報告しておかねばならない。というのは、松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、

私が告発している部分だから、である。

河井検事の〝お庭番〟の役を勤めていたのが大竹宗美記者で、彼は、同時に、松本清張の代作者でもあった。だから、河井検事を招いて、銀座の鶴の家で、松本に〝偏見にみちた検察〟論を語らせて、それを、裏付け取材することなく、文章化したのも、大竹であった。彼は、その席に立会した。

また、「昭和史発掘」に対して、各方面から〈盗作〉の非難が集中したが、その時、文春の出張校正で、勝手に加筆したり、削除していたのも大竹であったし、「深層海流」では、私の著書「東京秘密情報シリーズ」を、ひょうせつしたのも、大竹の仕業であった。

私は、松本を著作権法違反で、東京地検に告発した。文化庁の担当官などに、「盗作まちがいなし」という〝鑑定〟を受けてのことだったが、当時の東京地検次席検事であった河井は、自分の子分という、大熊昇検事(その直後病没)を担当として、「時効不起訴」の処分とした。起訴すれば、松本ばかりか、自分の〝側近〟の大竹をも、刑事被告人とせざるを得なくなる、からであった。そして、松本はただひたすら、逃げまくった——立松事件の仕掛人も河井。松本清張もまた同罪なのである。

さて、時代は大きく変わりつつあり、新聞もまた、変革を迫られつつある。専売店による宅配制度は崩れ始めて、すでに一部では、合売がすすんでいる。読売の一千万部近い日本一の部数は、専売店の宅配制のもとでのみ、可能だったのである。

さる十一月五日から、毎日新聞は題号までを変えた。それは、起死回生策なのであろうが、同時に、 時代の流れでもある。

読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき)

読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき) 著者略歴 奥付
読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき) 著者略歴 奥付

さて、時代は大きく変わりつつあり、新聞もまた、変革を迫られつつある。専売店による宅配制度は崩れ始めて、すでに一部では、合売がすすんでいる。読売の一千万部近い日本一の部数は、専売店の宅配制のもとでのみ、可能だったのである。
さる十一月五日から、毎日新聞は題号までを変えた。それは、起死回生策なのであろうが、同時に、

時代の流れでもある。能力のある記者は、他社にトレードされるなど、終身雇用制も崩れ、署名記事の時代が訪れるであろう——そのとき、竹内四郎、原四郎という、二人の社会部長が育てた記者たちが、どんな仕事を、どんなふうに書いていったか、温故知新もまた、意味なしとはしない。

古い新聞記者像を知ることが、明日の記者の仕事に、プラスになることを信じて、書き殴った八百枚に手を入れた。脈絡が切れ、興味もまた、半減したおそれもあろうが、ご寛恕頂きたい。

一冊の単行本が、世に送り出されるまでには、多くの黒子たちの、目に見えない労苦と努力があればこそ、なのである。私も、その黒子代表として、版元の今井國藏編集長に、感謝の意を表したい。

ことに、この書は「正論新聞の二十五年を祝う会」(平成三年十一月二十六日)に、刊行を期したので、時間の制約もきつく、なおさらのことであった。

そして、巻頭の「献詞」の如く、著者の半世紀にも及ぶ、ペン一本の生活の、基本を与えて下さった先哲への、感謝に満ちた、この著のあとがきとする。

平成三年十一月吉日                       三田 和夫

著者略歴
大正10年岩手県に生まれる。昭和18年日大専門部芸術科卒業後、同年読売新聞社入社、社会部に配属。同年11月から22年11月まで兵役のため休職。復員後復職し33年に同社を退社。42年に「正論新聞」を創刊、今日に至る。著書「最後の事件記者」(実業之日本社)「黒幕・政商たち」(日本文華社)「正力松太郎の死のあとに来るもの」(創魂出版)など多数。

読売・梁山泊の記者たち<戦後・新聞風雲録>
1991年12月10日 第1刷印刷
定 価 1,500円(本体1,456円)
著 者 三田和夫
発行者 小林康男
発行所 紀尾井書房
東京都千代田区紀尾井町3-33 郵便番号102
電 話 東京(03)3261-2800
振 替 東京1-13842
印刷所 新日本印刷株式会社
製本所 東京美術紙工事業協同組合
落丁本・乱丁本は小社あてにお送りください。送料小社負担にてお取り替えいたします。
ISBN 4-7656-1061-6 C 0023 P 1500 E

読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで 注文カード 裏表紙 腰巻裏 表紙カバー 背

読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで
読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで
読売梁山泊の記者たち 見返し 注文カード ISBN4-7656-1061-6 C0023 P1500E 紀尾井書房 三田和夫著 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録 定価 1,500円(本体1,456円)
読売梁山泊の記者たち 見返し 注文カード ISBN4-7656-1061-6 C0023 P1500E 紀尾井書房 三田和夫著 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録 定価 1,500円(本体1,456円)
読売梁山泊の記者たち 裏表紙 腰巻裏 紀尾井書房 ISBN-7656-1061-6 C0023 P1500E 定価 1,500円(本体1,457円)
読売梁山泊の記者たち 裏表紙 腰巻裏 紀尾井書房 ISBN-7656-1061-6 C0023 P1500E 定価 1,500円(本体1,457円)
読売梁山泊の記者たち Cover 表紙・背・裏表紙
読売梁山泊の記者たち Cover 表紙・背・裏表紙
読売梁山泊の記者たち 本体表紙・裏表紙
読売梁山泊の記者たち 本体表紙・裏表紙