エンピツやくざを統率する竹内四郎」タグアーカイブ

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次

読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01
読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01

序に代えて 務臺没後の読売

九頭竜ダム疑惑に関わった氏家、渡辺
大下英治の描く、ナベ恒の謀略
覇道を突き進む読売・渡辺社長 

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

戦地から復員、記者として再出発
「梁山泊」さながらの竹内社会部
記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々
帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋
争議に関連して読売を去った徳間康快 

第二章 新・社会部記者像を描く原四郎

いい仕事、いい紙面だけが勝負
カラ出張とねやの中の新聞社論
遠藤美佐雄と日テレ創設秘話
「社会部の読売」時代の武勇伝
あまりにも人情家だった景山部長 

第三章 米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖

シベリア引揚者の中にソ連のスパイ
スパイ誓約書に署名させられた実体験
幻兵団を実証する事件がつぎつぎと
米ソのスパイ合戦「鹿地・三橋事件」
近代諜報戦が変えたスパイの概念

第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち

不良外人が闊歩する「東京租界」
国際ギャングによる日本のナワ張り争い
戦後史の闇に生きつづけた上海の王
警視庁タイアップの華麗なスクープ

第五章 異説・不当逮捕、立松事件のウラ側

大誤報で地に堕ちた悲劇のスター記者
三十年後に明かされた事件の真相

読売梁山泊の記者たち p.030-031 第一章 章トビラ

読売梁山泊の記者たち p.030-031 章トビラ 第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎
読売梁山泊の記者たち p.030-031 章トビラ 第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎

読売梁山泊の記者たち p.032-033 シベリアから復員

読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。
読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

戦地から復員、記者として再出発

「ナァ、ゆんべの女郎(じょろう)が、な」

三階のワン・フロアを、仕切りなしにブチ抜いた編集局は、入り口に立つと、局内全部が見渡せた。

午前十一時ごろ。まだ、夕刊はないのだが、局内は、男、男、男ばかりが、ギッシリと詰まって、電話が鳴り、怒鳴り声が響き、ワーンという音と、男臭さに満ちていた。

窓側の中央あたり、編集局長のデスクがあり、その前に政治部、その両側に、経済部、社会部。局長席の左手に、整理部と、重要な各部のデスクが並び、部長席は局長席を背にして並んでいた。

各部で、部長席だけが、肘掛椅子だ。部長のデスクに両脚をのせて、身体を深く沈ませながら、昨夜の遊廓ばなしを始めたのは、小柄ながら、精悍な顔をした、一課(殺人)担当の井形忠夫だった。

両袖机の部長の前に、片袖机が二列に向き合う、日本の事務所の典型的な配置だ。部長に近い四個の机が次長席、それにつづいて五個ぐらい、両側で十卓ぐらいが、誰の机とも定められていない、遊軍(本社詰め記者)席である。

その一番の外れでは、山田鉱一、桑野敬治などという、主力記者たちが、電話帳をめくっては、ページ数で、オイチョカブのバクチをしていた。バクチといっても、他愛のない掛け金で、コーヒー代ほどのもの…。

——まだ、午前中だというのに、部長机に足を投げ出した男が、イロばなしを声高に、また一方では、

オイチョカブで、硬貨のやり取りをしている。

シベリアから復員してきて、復社したものの、戦後入社のハリキリボーイたちの中で、社歴だけの先輩にすぎない私も、ようやく、そんな殺伐とした、編集局の風景に、馴染みだしていた。

「オイ、この野郎、退け!」

そんな伝法な口調で、井形に怒鳴ったのは、出社してきた社会部長の竹内四郎だ。井形は、振り向いて、部長の姿を認めると、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。

ボルサリーノかなにか、高価そうなソフト帽を冠った部長は、恰幅のいい身体に、仕立てのいい背広を着て、皮製のブリーフ・ケースを持っていた。一見、大会社の役員風で、今考えてみると、たいした年齢でもないのに、堂々たる貫禄を、シックに装っていた。

七、八十名の部下を持つ社会部長も、出社してきても、帽子や鞄を受け取る女性秘書もいないから、自分で、部長席のうしろの、帽子かけの枝にヒョイとかけざるを得ない。

太いコンクリート柱にもたれた、薄汚い水屋から、飯場の茶わんのような欠け湯呑に、ぬるいお茶を汲んで、夜学に通う給仕(坊や、と呼ばれる)が手盆でさしだす。

デスクの端っこには、ザラ原(ザラ紙をA5判ほどに断裁し、天のりしただけの原稿用紙)が積まれてある。それを四、五枚取って、井形が足をのせていたあたりを、これも自分で拭き取る。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

読売梁山泊の記者たち p.034-035 二ページ一枚ペラの時代

読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。
読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。

やっと、椅子に腰を下ろし、デスク席から遊軍席へと眺め渡す。近くにいるデスク(次長のこと)

が、会釈するだけで、遊軍からは別に挨拶もない。みなそれぞれに、原稿を書いたり、電話をしていたり、新聞を読んでいたり…と、自分のことに忙しい。

部長に会いたくなければ、部長が編集局の入り口に現われたら、裏階段から、お茶をのみに出かけてしまえば、それで済む。

まったく、満目緑草中紅一点で、女性ときたら、文化部にひとりかふたり、しかも、妙齢をはるかに過ぎたほどの人だ。まだ、婦人部もないころだった。

男ばかりの生活だから、机のカゲには、下げ忘れた出前の皿がホコリをかぶり、夜にはネズミが走りまわる。

不揃いの机が並び、電話線を、床と空間にめぐらせ、伝言ビラがブラ下がり、決まった自分の席さえもない職場である。

こうした情景は、いまの大手町の清潔な社屋にいる記者諸君には、想像を絶するものがあろう。まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。

それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。もしかしたら、〝新聞屋〟であったかも知れない。新聞は、ニューズ・ペーパーであったことは、確かである。

しかし、昭和十八年の、たぶん戦前最後の「読売新聞社職員名簿」を見ると、まず、参事、副参事といった、身分制がある。欧米部と東亜部があって、軍の要請(というより、命令であろうか)で、その戦火の拡大とともに、支局、通信部が、アジア全域に展開していることがわかる。

当時の新聞記者は、新聞記者である以前に軍の報道班員であったのである。私も、同期の青木照夫(報知編集局長で57・3・21没)が、入隊のため長崎に帰るのを見送って東京駅で別れるとき、「オイ、陸軍報道部付将校として、再会しようじゃないか」と、握手したのを記憶している。

〝皇軍の聖戦の大勝利〟の原稿を書き続けていた人たちが、いのちからがらに逃げ帰って空襲に社屋を焼かれ、転々としながら、ようやく、有楽町駅前の「そごう」の旧ビルに、「読売報知新聞」(戦時中の統合)の題号から、「読売新聞」に戻ったところだった。そごうのビルは、報知の社屋だった。

戦時中の学生時代、私にとってバイブルは「小山栄三・新聞論」であった。「社会の木鐸」などという言葉は、その本の中にあったかも知れないし、なかったかも知れない。

衣食住ともに、まだまだ厳しく、新聞用紙は割当制で日刊紙でも大判二ページ。一枚ペラの時代だった。

十八年の名簿の休職の項に、青木、三田、山根と、三人の同期生が出ており、現役の末尾に高橋、金口、福手と、これまた同期が三人いる。このほか、整理部の末尾に、徳間康快の名前が見える。あと三人、同期生がいるハズだが、記憶が消えた。

二十三年の名簿では、山根、福手、徳間の名前がなくなり、青木、高橋の二人が、依然として休職。シベリアから、まだ、帰ってこなかったのだ。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

読売梁山泊の記者たち p.036-037 「なんか書くか、イヤ、書けるか」

読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。
読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

私は、二十二年十月末、将校梯団の第二陣で帰っていたので、第二次争議の真っ最中に中国から復

員した金口とふたり、この名簿に載ることができた。

十八年の名簿を繰ると、一時間も二時間も、時間のたつのを忘れてしまう。それだけ、思い出の多い、新聞記者初年兵であった。そしてまた、二十三年の名簿でも、翌年には、名前が無くなって、消息すら不明の人に、想いをはせてしまう。

やはり、私の五十年に及ぶ文筆生活にとって、読売新聞は、〈母なる故郷〉なのだ。

こうして、私の記者としての再出発が、始まった。感激したのは、読売が七十五円ほどの月給の、三分の一だかを、留守宅の母あてに送金していてくれたことだった。

当時の戦局を想うと、生きて再び、読売に復職できるとは、予想すらできなかった。だから、何着かあった背広も、入隊の前日までに、すべて質屋に入れて、飲んでしまっていたのである。

それを、母が、読売の送金で、請けだしていてくれたのだった。だから、社会部員の多くが、軍服やら、国民服(戦時中の制服みたいなもの)やらの、〝弊衣〟ばかりなのに、私だけは、リュウとした 背広姿だった。

それは、総務課の女の子や、受付係、交換台などの女性たちには、目立つ存在だった、とウヌボレている。もちろん、背広だけではない。帰り新参のクセには、良く原稿を書いていたこともある。

復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。

四番次長だった森村正平も、筆頭次長だった竹内と同じく、私を覚えていてくれた。

「なんか書くか、イヤ、書けるか」

筆頭次長になっていた森村は、そういい出して、私のはじめての署名原稿「シベリア印象記」が、二面の社会面の大半を埋めて、記事審査委も、「良く書けてる」と、賞めてくれた事も、社内でカオが広まった原因のひとつであろう。

「ネェ、文化部長の原さんて、素敵ネ」

のちに、婦人部の記者となった井上敏子、同じく、報知文化部の記者になった石上玲子、のふたりの総務課の女性とお茶を飲んでいたとき、石上がいいだした。

「文化部長の原さん?  どんな人?」

「アラ、知らないの。背の高い、洋服のセンスもいいし、いかにも、中年の紳士って感じの人よ」

「アア、あれが文化部長か! フーン…」

私は、そういわれて、はじめて、あの人物が、文化部長だ、と知った。

というのは、原四郎を初めて見た時の、強烈な印象が残っているのだった。いま、銀座の社屋は、読売ビルとして、デパートのプランタンが入っているが、当時は、戦災の焼けビルを修理したぼろビル。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

読売梁山泊の記者たち p.038-039 あの一見〝文弱の徒・風〟

読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。
読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。

目の前は、都電通りをはさんで、ドブ川さながらの濠で、道路と濠の間に、バラックの飲み屋が並んでいた。濠の向こう側と有楽町駅の間も、すし屋横丁など、バラックの飲み屋街だった。

社の角が正面玄関で、その濠には、有楽町駅に通じる橋が架かっていた。有名な数奇屋橋の次の橋である。

もう、正午近くのことだった、と思う。

その橋を、銀座に向かって、一人の男が、さっそうと歩いてくるのが、目に止まったのだ。長身に、背広をシックに着こなして、ソフトを、ややアミダに冠り、横ビンには、白髪のまじった髪が見えた。(まだ、ロマンスグレイという言葉が、無かったのではないだろうか…)

それこそ、その男のフンイキは、〝文化〟そのものであった。

——何者だろう?

私が、男の行方を見つめていたら、読売の玄関に入っていったのである。だが、私にはその男が、読売の社員とは思えなかった。何しろ、社の情景は、冒頭にのべたようなありさまだったからだ。

その男が、文化部長だった。井上、石上両嬢の言葉に対し、私の返事に、「フーン…」とあるのは、その意外性への反応である。

それが私と原四郎との出会いであった。が、当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。だから、彼が、社会部長として、私の上司になろうとは思ってもみなかった。

それよりも、社内の若い女の子の、〝憧れの的〟と知って、なおさら、「文弱の徒」という印象を抱いたものである。やはり、新聞記者は事件であり、〝金と酒と女〟とが、取材の対象だ、と信じこんでいた。

こうして私は、はじめて、原四郎・文化部長を知った。いや、知ったなどと、大きなことはいえない。私が、あの〝文化〟そのもののような男が原四郎だ、ということを知っただけである。

政治部の初年兵は、本会議取材が第一歩だが、社会部の国会担当は、社会面に関係のある政治現象を追う。だから、中曽根記者会見の際、「社会部記者はお断わり」となったのは、社会部記者は、日頃の付き合いがないから、情に流されずに、バラリ・ズンと、斬って落とすからである。

そして、その時期に、原四郎が社会部長になってきたのである。竹内四郎の処遇のため企画調査局というのを新設して、その局長に出たあとの、後任であった。

社会部長になった原と、私は、はじめて口を利き、その人となりを知るに及んで、驚いた。

とても、とても、〝文弱の徒〟ではなかったのである。剛腹一本槍だった竹内に比べると、まさに、〈新聞記者〉そのものだった。

あの一見〝文弱の徒・風〟(いまは、あまり使われなくなった言葉だが、当時の、新聞記事の独特のスタイルで、〝一見……風〟というのがあった。米占領軍の兵士の犯罪をそれとなく表現する必要から、生まれた)と見えながら、舌を捲くほどの、部下の使い方であった。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

読売梁山泊の記者たち p.040-041 日銀が上野署に摘発された

読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。
読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

その原四郎社会部長については、のちに触れることとして、順序として、まず、竹内四郎について

語らねばならない。

「梁山泊」さながらの竹内社会部

竹内四郎は、私の先輩、府立五中の第一回卒業生。大正十三年三月に卒業、慶大に進んでいる。そして、私の初めての結婚の、頼まれ仲人でもあった。

この竹内も、私の〝記者形成〟に、大きなインパクトを与えている。

上野署のサツ廻り時代の、二十三年五月ごろのこと。銀座から、日本橋署をまわって、上野署の玄関にきたのは、もう、正午近いころだった。

フト、気付くと、ピカピカに磨かれた乗用車が二台、玄関前の広場に停まっている。上野署といえば、ヤミ米の運び屋と、パン助、オカマ、浮浪者しか、出入りしない時代だから、それは、異様な光景であった。

やがて、警察担当の通信主任から、次長となり、連載もの専門のデスクとして、「昭和史の天皇」など、多くの名作を遺して逝った辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。

「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。

——ナゼ、あんな高級車が、停まっているンだ?

私は、玄関を入りかけたが、戻ってきて、運転手に話しかけた。

「いい車だネ。こんな高級車に乗れる人は、キット、重役サンだネ」

「イエ、輸送課長サンです」「どこの?」

「日銀です」

日銀の輸送課長が、二台できている。部下か、関係者を連れてきている。ナゼだ?

私は、署長室の入口のガラス戸を、背伸びして覗いたが、客はいない。すぐデカ部屋 (刑事課)へ。ここにもいない。二階の経済係へ行くと、居た、居た!  部屋いっぱいに、カツギ屋の代わりに、背広姿がいる。

ガラス戸をあけて、室内に入ろうとすると「ブン屋サン。調べ中だから、ダメだよ」と追い出された。トイレの入り口付近で待つうちに、メングレ(面識のある人、顔馴染み)の刑事がきた。

すれ違いざまに、「駅警備!」と、短く一言。私は上野駅へ走った。

若い制服のお巡りサン、湯沢さんといったが、まだ、興奮さめやらずで、話をしてくれた。すぐ、公衆電話で、社へ一報を入れる。

「日銀の新潟支店が、本店の上司に、現送箱(現金を入れた木箱。警官が警乗する)に米を入れて送り、上野署に摘発されたンです。すぐ、写真(カメラマン)をください!」

話はこれからである。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

読売梁山泊の記者たち p.042-043 〝一見五万円風〟の札束を

読売梁山泊の記者たち p.042-043 「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」またまた、みんな笑った。
読売梁山泊の記者たち p.042-043 「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」またまた、みんな笑った。

湯沢巡査は、上野駅に着いた貨車に、警乗してきた警官から、申し送りを受けて、駅構内に入って

きたトラックに、現送箱を移しかえるのを、警備していた。

ところが、パラパラと、米粒が落ちるのを見咎めて、箱をあけて、中味を見せろと要求した。日銀側は、「こんなところで開けたら危険だ」と拒む。彼は、トラックに便乗して日銀本店まで行き、蓋を開かせ、米の入った現送箱を見つけ、上野署に逆戻りさせた。

カメラマンが駈けつけ、現送箱から米を取り出している写真を撮影した。読売の特ダネである。どうせ、夕刊はないのだから、朝刊では、各社共通になろうが、写真は読売だけだ。撮影を見守っていた私に、輸送課長が、耳許でささやいた。

「これには、いろいろと事情がございまして、これから少々お時間を頂ければ、別席にてご説明申しあげたいのですが…」

私だって、バカじゃない。〝別席にて、ご説明したい〟という言葉は、〝記事にするのはゴ勘弁願いたい〟ということだ。

まだ、行ったことのない、高級料亭。まだ、喰べたことのない、料理の数々。そして、艶やかな芸妓、酒、現金…、思わず、ツバを呑みこまざるを得ない、〈誘惑〉であった。走馬灯のように、という表現では、スピードに欠ける。映画のフラッシュ・バックのように、パッ、パッ、パッと、〈誘惑〉の中身が、私のマブタの裏に、閃いた…。

私の記者生活での、初めての経験。だが、閃きが終わった時、私は、もう「読売記者」に立ち戻っていた。

「残念ながら、ご期待にはそえません」

第一、本社に、すでに第一報をいれ、カメラマンまで呼び、どうして、私だけの〝胸先三寸〟で処理できようか。

社に上がってゆく(帰社することを上がるという)と、先輩の遊軍、窪美万寿夫(ジャワ支局員だった)が、私をつかまえて、笑った。

「日銀本店に、談話を取りにいったら、百円札で、〝一見五万円風〟の札束を、握らされそうになったヨ。オレが、サツ廻りで、第一発見者だったら、ホイ、ホイなのに。なにしろ、遊軍で、デスクにいいつけられて、談話取材なんだから、相手がいませんでした、と帰ってきても、記事は出てしまうし、なあ」

「イヤ、現場でだって、輸送課長に、別席でご説明を、といわれたんですよ。一報を入れる前に、そういわれりゃ、いまごろは、〝酒池肉林〟ですよ」

まわりのみんなも、大爆笑であった。そこに、竹内部長が寄ってきた。あの厳しい顔の眼尻に、笑うとシワが寄って、可愛い顔になる。

「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」

またまた、みんな笑った。笑いの静まるのを待って、竹内は、真顔に立ち戻って、こういったのであった。

読売梁山泊の記者たち p.044-045 英雄豪傑気取りの野心家たち

読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」
読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

またまた、みんな笑った。笑いの静まるのを待って、竹内は、真顔に立ち戻って、こういったのであった。

「いいか、新聞記者には、記事にからんで、誘惑は多い。しかし、小銭には、手を出すなよ。小銭を出す奴は、小銭に見合う、小悪事 (こあくじ) なんだ。だから、口も軽い。必ず、『アノ記者は、オレが飼っているンだ』と、しゃべる。その話が、社に入れば、当然クビだ。合わない話よ。

金を取って、記事をツブす。あるいは、ウソを書く。こりゃ、汚職だ。自分の仕事を、辱めるものだ。だから、大銭(おおぜに)で、社をクビになっても、引き合うなら、金を取ってもいいゾ。大銭を出す奴は、大悪事だから、絶対にしゃべらん。社にバレる前に辞めればいい」

竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。
「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」

昭和二十三年当時、のちに、三和銀行の頭取、会長にと進む、渡辺忠雄が、まだ、日銀の文書局長だったころ、だと記憶する。

もしも、私があの時、日銀輸送課長の<小銭の誘惑>に負けていたら、のちに、報告を受けた、渡辺文書局長は、「読売三田記者」を軽蔑して、のちのち、正論新聞の応援は、してくれなかったことだろう。

四十年も前の時代には、「痛む良心」を持った男たちばかりの時代だったのである。

リクルート疑獄などを見ていると、政治家も、官僚も、まして、NTTの真藤を見て、どうして、〝小銭〟のワイロを取るのか。藤波代議士など、どうして、家の資金に〝小銭〟を取るのか。<良心>

などは、どっかに捨ててしまっていたのだと、竹内社会部長の、この言葉を思い出す。

私は、私の初の署名記事「シベリア印象記」を見て、同じ部隊の兄を探して、社にたずねてきた女性が、同期生の妹だと知って、結婚を決意した。

竹内に仲人を頼み、逗子のお宅に、奥様に挨拶に行った。剛腹な竹内らしい、明るいさばけた夫人だった。家庭での竹内には、社では見られない、人間への愛情に満ちた、包容力の大きさを示す、別の顔があった。

口数が少く、どちらかといえば、部下のデスク、ことに、筆頭次長の森村正平に、すべてをまかせ、部長として、デンと安定感のある竹内には、社内では、〝無能の竹〟という悪口も聞かれた。

いま、当時の名簿を見ると、五人の次長、三人の主任以下、三十三人の先輩が、私の前に並んでいて、その名をひとり、ひとり、読んでゆくと、いずれも、英雄豪傑気取りの野心家たちばかりである。

出張すれば、女郎屋に泊まって、そこから取材に歩き、日本テレビの創業時に、保善経済会の伊藤斗福に四億円を出資させた、遠藤美佐雄。彼は、のちに、社を追われて、森脇文庫から、「大人になれない事件記者」という単行本を出して、日本テレビ創業のウラ話を書いた。

この本は、私の手許に一冊残っているが、森脇と読売との間で和解し、本はすべて断裁されたことになっている。彼は、世田谷の大原に住んでいたが、「この家は、児玉(誉士夫)にもらったんだ」と、こともな気にいい放つ。

読売梁山泊の記者たち p.046-047 新聞休刊日で、全舷上陸

読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。
読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

読売争議で、活字台を守り通した、青年行動隊長の鹿子田耕三。いまでも、朝日紙の投書「声」欄で、その名前を見かける、青木昆陽こと(徳川吉宗時代の儒者で、サツマイモの権威)、青木慶一。皇室専門の小野天皇こと小野昇。山本五十六の国葬記事で、全国民を泣かせたという〝伝説〟の主、マコちゃんこと羽中田誠。〝読売三汚な〟のひとりといわれ、宿直室に住みこみ、異臭をただよわせるタローさんこと安藤太郎は、箱根の旅館の息子で、慶大卒。酒とバクチで、原稿を書く姿を見たことがない、といわれる。

書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。

五月五日は、年に一回の新聞休刊日で、全舷上陸と称して、社会部全員が一泊旅行で、近くの温泉に行く。クラブ詰め記者、サツ廻り記者、遊軍記者と、三大別される八十名だから、顔を合わせたことのない人もいる。それを、一堂に会させるのが、目的なのだ。

私も、のちに、親しく兄事させてもらったのだが、同じ国会遊軍の井野康彦は、園田直と松谷天光光の〝恋愛〟をスクープしたが、酒癖の悪さに定評があった。

初めは、愉しく呑み出す。中ごろから、相手のために悲憤慷慨してくれる。そのあとはケンカを売り出す——このパターンが理解できるまで、何度泣かされたことか。

バスの三、四台を連ねて、社を出発する。そこから、呑み出すのだから、旅館に着いたら、もう泥酔がいる。

遊軍長という、最古参記者が、幹事長。その下に、宴会、バクチ(麻雀とオイチョカブの設営)、酒、ケンカの四幹事がいる。最後のケンカの幹事というのは、宴会が乱れてくると、ケンカが始まる。その双方を見ながら「あれは、もう少しやらせておけ」「あれはケガ人が出るから止めろ」と、若い連中を指揮するのだ。日頃から、部内の人間関係に通じていなければ、この役は勤まらないし、自分も腕っぷしが、強くなければならない。

それを、毎回勤めるのが、冒頭に紹介した井形忠夫である。戦前の名簿を見ると、彼は文化部にいたので、驚いたものである。ケンカとバクチは、日常茶飯事であった。

竹内は、そんな一泊旅行に、堂々と愛人を同伴してきた。築地の芸者であった。宴会にこそ出なかったが、座が乱れるころには、竹内は退席してしまう。

親分肌の竹内の、面倒見の良さは、報知の社長になるや、病気でペンを持てなくなっていた(腕の病気か?)、文化部長のあと、休職していた森村正平を、報知の編集局長に迎えている。

だから、竹内の「バカヤロー!」という、大喝一声は、それなりに、社会部の秩序を保ち、部員たちの才能を、それなりに伸ばしてきていた。まさに、社会部は、〝梁山泊〟さながらの様子だった。それが、同時に、やがて、原四郎の時代に、「社会部は読売」として開花する伝統の基礎作りに、役立ったのである。

読売梁山泊の記者たち p.048-049 こういうのを「号外落ち」という

読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。
読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

記者・カメラ・自動車の個性豊かな面々

竹内四郎社会部長の、「バカヤローッ!」という大喝を浴びた記憶が、私にも生々しく残っている。

昭和二十四年四月四日、政府は、団体等規制令を、公布、即日施行とした。そして、九月八日、この団規令によって、在日本朝鮮人連盟(朝連)など、朝鮮人関係四団体の解散を指定したのであった。

前年の二十三年秋から、司法記者クラブに移っていた私は、もっぱら、帝銀事件の平沢貞通の公判を担当していた。

政治部の法務記者クラブでは、法務庁そのものの担当で、三品鼎がいた。社会部は、裁判所と検察庁を受け持ち、司法記者クラブといった。

竹内の子分をもって任じていた、警察記者のボス、はんにゃこと稲垣武雄がキャップ。その下に、井浦浩一、立松和博、萩原福三と私がいた。井浦は、社歴が一、二年古いのでバイス・キャップと自称して、私たち三人との折り合いが悪かった。

と、そこに、朝連解散である。翌九日付の記事の書き出しが、「政府は八日午前十一時…」とある。多分、十一時半ごろには、記者クラブで発表された、だろう。読売だけは記者がだれも出ていない。

夕刊がなくとも、号外はある。街々に、号外の鈴の音が響き渡るころ、萩原あたりが、あわてて、原稿を社に送る。朝日、毎日の号外が、有楽町界隈に貼り出されている、というのに、読売だけは、いま、送稿中だ。

こういうのを、「号外落ち」という。発表モノでなくとも、大きな事件などで、一社だけ、記事が出ていないのは、「特落ち」である。新聞社は、できて当たり前、できねばボロクソの、優勝劣敗、適者生存の原則に厳しい。

原稿を送り終わって間もなく、手まわし直通電話が、チリチリリと鳴って、「稲公! すぐ社に上がってこい!」と、竹内部長の怒鳴り声が響いた。

ユーウツな数時間が過ぎて、夕方ともなれば、どうしても、社に上がらざるを得ない。私たち三人は、屠所にひかれる羊のように、先を譲り合いながら、編集局の入り口に立った時だった。

「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。

三人とも、顔色を失って、この大音声に引き寄せられるように、部長席の傍らに、首うなだれて、立ち並んだ。竹内は、ジロリ、ジロリと、三人の顔をニラミつけただけで、一声も発しないのだ。

長い、長い沈黙がつづいた。あとで気がつくと五、六分間ぐらいだったが、それこそ小一時間にも感じた〝時間〟だった。

「オイ、もう、いいぞ。こっちへ来い」

般若の稲ちゃんの顔が、菩薩さまに見えた感じがした——竹内は、もはや、小言のひとつもいわなかった。三人は、稲ちゃんに連れられて、付近の喫茶店に入って、我に返ったのだった。

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内は〝慶応ボーイ〟でありながら

読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった
読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった

竹内は、いうなれば〝慶応ボーイ〟でありながら、古いプロレスラーのグレート東郷を、二まわりも、三まわりも大きくしたような、頑丈な短躯に猪首で、四角い顔が乗っていた。

だが、竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復し、レッド・パージの動揺、正力松太郎の巣鴨プリズンの収容などといった、大事件を無事乗り切っていったからである。

塚原正直は、ガダルカナル島から帰ってきて、入社早々の私たちに、チョロッと動いた小さなトカゲの一匹に、四、五人の兵隊が飛びつく〝飢え〟を語ってくれた。

辻本芳雄は、マニラの敗走について、修羅場を経てきた〝人間〟のありようを、教えてくれた。

それらの話の、いずれもが、軍の言論統制に対する、<新聞記者>としての、やり場のない憤りであった。

それにつづいての、今度は、占領軍の言論統制が、検閲制度である。真実が書けない、真実が語れない、その苦しさが、戦後の新聞記者たちを、〝エンピツやくざ〟へと、追いこんでいった。

警視庁記者クラブばかりか、裁判所の中の記者クラブでも、麻雀、花札のバクチが、大っぴらに行われていた。

警視庁の経済課長が、毎日の警視庁詰めキャップと組んで、砂糖のヤミをやった。ヤミ砂糖を押収したのに、それを横流ししたのである。

街では、「第三国人」と呼ばれた、朝鮮人や台湾人が、団結してヤミ経済を支配し、また暴力事件を続発させていた。さらに、武力革命を目指した共産党は、〝血のメーデー〟事件を皇居前広場に演出したし、〝新宿火焰ビン広場事件〟もまた、血なま臭いものであった。

そして、多くの記者たちが、絶望したり、転向したりして、その名を、社員名簿から消していった。その時期の社会部長が、竹内四郎だったのである。

そして、朝連解散の号外落ちの責任で、私は、本社の遊軍勤務に異動させられる。復職以来、遊軍半年、サツ廻り半年、司法クラブ一年と、すでに二年も経過して、私は、第一線記者として、バリバリ仕事をしていた。

そして、二十四年十月になると、本社遊軍兼国会遊軍という、恵まれた待遇(というのは、時間も勤務もまったく自由)になって、酒癖の悪い井野康彦のアシスタントを勤める。

この国会遊軍のおかげで、私は、政治の世界に興味を持ちはじめる。社内でも、政治部、経済部へとカオが広くなってきた。

この時期の、忘れられない人物が、政治部のデスクだった筒井康である。歴史に有名な「洞ヶ峠の順慶」という、安土桃山時代の武将の裔である。日本歴史大辞典によれば、筒井順慶は、謡曲、茶の湯にすぐれ、教養豊か、とあるが、筒井デスクもそんな感じで、私を可愛がってくれた。

戸川猪佐武などは、筒井デスクのまわりをウロチョロしている存在だった。筒井は、のちに佐藤栄作のブレーンのひとりになって社を辞め、早逝した。

読売梁山泊の記者たち p.052-053 エモノは参院議員だった

読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。
読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

このころ、住宅事情はもちろんのこと、ホテルとて十分ではなかったので、国税で賄われていた議員会館(現在のようなビルではなく、木造モルタル二階建て)を温泉マークの代用にして、〝女を連れこむ秘書〟がいるようだ、という噂を耳にした。

早速、私の張りこみがはじまった——かかったエモノは、参院議員だった。流行の、肩の張ったギャバジンのコートの、水商売風の女性を連れて、裏口から会館に入ろうとして、衛視に咎められたのだ。

もちろん、深夜である。女を待たせて、正面玄関へ、威張りくさった態度で、抗議をしようとした男は、植えこみから立ち上がったカメラマンに仰天した。

駈け戻って、女の手を引き、三宅坂方向へ逃げ出す。編集局自動車部員は、鷺谷栄一。事件の時は、心強い味方だ。運転手といえども、先輩だから、敬語を使わねばならない。写真部は今井靖男、なかなかの〝職人〟だった。

そのころの自動車部員は、やはり、サムライが多かった。事件現場などでは、駈け出しの記者に、顔写真取り(被害者の顔写真を探す)の注意を与えたり、社への連絡電話の確保とか、編集局所属だけに、経験からの忠告ができるのだ。

写真の今井は、いま時のカメラマンのように、やたらと、バチバチ、シャッターを押さない。もちろん、機材も違って、スピグラ(スピード・グラフィック)というカメラ。今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。だから、現場につくと、ただ一発のフラッシュガンを片手に握り、点火を確

実にするため、差し込み部分をナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンがひしめきつづけるのを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。

今井と私が、車に飛びこんで、「鷺ちゃん、あの二人を追ってくれ」と、叫ぶ。車が急発進して、いまだに、手に手を取り合って走る二人を見つけた。

「二人に追いついたら、急カーブを切って、前に出てくれ。その時に、撮るから」

今井の言葉に、鷺谷がうなずく。三宅坂近くで、追い抜きざま、車窓からフラッシュが閃いた。

そのころの車には、暖房がない。七輪に炭火を入れて、張りこみの暖をとるのだが、急カーブに、七輪がころげて、車内に炭火が散乱する。私は、あわてて、それを拾う。

「どうだい?」「ウン、パツイチさ」

車を再び、参議院会館に戻して、私は、衛視室に入り、「さっきの先生は誰?」と、身許しらべだ。写真は、車で社へ帰す。今井が自信があるというから、安心だ。

社に上がって、写真部に行くと、暗室には、もう、走っている二人のポジが、ブラ下がっていた。

「明朝、キッと自民党のエライさんが、モミ消しにくるから、夕刊の一版から入れよう。オレも、これから原稿を書いてしまうよ」

そして、早版から社会面のトップに、「噂の議員会館・門限後潜入記、流行オーバーの女、深夜の訪問、男にかばわれて遁走」と、二人の顔が、バッチリ写った写真入りの記事が飾られた。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

読売梁山泊の記者たち p.054-055 越野賢二はもと社会部警視庁キャップ

読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。
読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

写真の今井。あの急カーブを切る車窓からの一発で、バチッときめた男は、職人だけに酒好き。共

同通信でデスク・クラスのカメラマンであったが、酒の上でのケンカで、椅子を相手に投げつけて、片眼を失明させてしまった。酔いさめた今井は、退職金の全額を相手に贈って詫び、裸で読売に入社したのだという。昭和二十九年五月の名簿まで、名前が出ているが、翌年は消えている。その後の消息はきかない——。

写真部長の三輪大三、自動車部長の越野賢二——ともに、強烈な個性の持ち主だった。社会部と写真部、自動車部は、三位一体で動く運命共同体のような関係だった。

その点、政治部や経済部は、車を、単なる足としてしか考えない。写真部も、必要な時にしか、同行しない。同行するよりも、予定を申しこんで、会見などの時に呼ぶ、といった関係だ。

だから、〝事件の社会部〟には、ヒラでもA級のカメラマンを出し、社員の運転手をつける。いずれも、取材のパートナーなのだ。従って、出てきた結果は、成否、いずれにせよ、共同責任である。

厳本メリーが、ストラデバリウスを盗まれたことがあった。そのニュースに、厳本家に出かけた記者とカメラマンは、彼女が外出中で、帰宅の時間が不明というので、「せっかくの特ダネなのに…」と、困惑した。

その様子を見た妹さんが、「私は、姉にソックリといわれてます。横顔なら、姉の身代わりができますわ」と、好意の申し出をしたものである。

〝嘆きの厳本メリーさん〟という、写真つきの記事が大きく掲載された——と、朝刊が出て間もなく、

読者から、「アレは妹だ」という指摘があって、問題は表面化した。

カメラマン、記者ともに処分された。記憶は定かではないが、罰俸だったと思う。その辞令を見ながら、私たちは、ニセモノと承知で写真を撮ったカメラマンは、当然、処分されるべきだが、ナゼ、記者も処分されるのかと、カンカンガクガクの議論をしていた。

写真部長の〝大三親分〟(彼は、これまた小兵ながら、その鼻ッ柱の強さで、こう呼ばれていた)が、社会部の遊軍席に寄ってきて「当たり前だ。写真部が、間違いを犯す時に事情を知っていて、止めさせないのだから、共同正犯サ」と、社会部と写真部のつながりの強さを教えてくれた。

この大三親分と、社会部の次席次長の大木正とが、夜の編集局で、大ゲンカをしているのを、目撃したことがある。電話器を投げつけ、椅子を振り上げ、取っ組み合ったところで、止めが入ったのだが、チンピラ記者の私などは、呆然と立ちすくんでいたのだった。

自動車部長の越野賢二は、もと社会部警視庁キャップであった。昭和十八年の名簿を見ると、航空部の筆頭部員として名前がある。その後、社会部へ移ったのだろうか。昭和二十三年の名簿では、すでに自動車部長である。

帝銀事件が起き、被害者の司法解剖が、東大法医学教室であるというので、その取材をデスクに命じられて、私は、自動車伝票を持って、自動車部に行った。部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。

読売梁山泊の記者たち p.056-057 雨の日のサイドカーという教訓

読売梁山泊の記者たち p.056-057 「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。
読売梁山泊の記者たち p.056-057 「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。

「東大? 何しに行くんだ?」

部長席の男が、口をはさんだ。前述したように、社会部では、部長が不在なら、ヒラでも部長席に座って、机上に足を投げだすようなフンイキである。

その〝キザなジジイ〟が、部長とは知らずに、法医解剖なんて分かりゃしないサ、と思いながらも、横柄な口の利き方や、年齢が上のことも考えて、私は、「被害者が東大と慶大の法医で、司法解剖に付されるンです」と、やや、ブッキラボーに答えた。

「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。社員の運転手たちが、オシャベリをして、大勢、待機中だというのに、男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。

その日は、雨降りだった——オートバイの運転手は、ゴムの合羽の完全武装だが、私はサイドカーの座席で、コーモリ傘をすぼめてビショ濡れであった。

「あの人、部長なの?」「エエ」

「ナールホド、あれが、コシケン(越賢)なのか」

「あのネ、自動車にきて、部長がいる時は、キチンと挨拶しないと、こうして〝反動〟取られるョ」

この、雨の日のサイドカー、という教訓は、私にとって、「オレは新聞記者だ」という思い上がりを、ペチャンコにしてくれた。これ以来、私は〈外柔内剛〉の記者魂を、植えつけられたと思う。

それ以来、私はコシケンを認めると、「部長! 下山事件(下山国鉄総裁が行方不明となり、轢殺死

体で発見された)は、どうでしょうか」「ウン、あれは他殺さ」「やっぱりそうですか」と、警視庁記者OBに、必ず敬意を払う。たちまち、私は〝コシケンズ・ペット〟になって、いつも、いい車に、いい運転手をつけてもらう。

多分、昭和二十年代後半、のことだったろう。編集局長名で、政治、経済、社会の三部の、各記者の自動車使用状況と、提稿本数の調査があった。そして、自動車料金をハイヤー料金に換算した。

トップは、経済部から政治部へ移った、広田豪佐という、名前の通りの〝豪傑〟で、どこかの家に入ったら、五時間、十時間ぐらい待たせるのは、平気の平左。しかも、原稿はほとんど書かない、という人物であった。この人も、早逝してしまった。

私も、社会部では、自動車の使用時間は、ベスト3に入るくらいだったが、部長のコシケンはもちろん、配車係からも、運転手自身からも、文句のひとつも出たことはない。

帝銀事件、半陰陽、そして白亜の恋

話をもとに戻して、サイドカーで東大に着いた私は、かねて、話を通してあった、東大法医学教室のM助手の手引きで、司法解剖の現場に入ることができた。

関係からいえば、私の従兄にあたるのだが、法医の大先達の三田定則と、その一番弟子で私の義兄になる、上野正吉北大教授の名前で、M助手は便宜を図ってくれたのだった。

十六歳、二十二歳、二十八歳という、女性の肉体の大きな変化の時期に当たる、三体が同時に執刀 された。執刀医と助手の記録係とがいる。着衣を脱がされて、全裸になる。

読売梁山泊の記者たち p.058-059 三体が同時に解剖されている

読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された
読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された

十六歳、二十二歳、二十八歳という、女性の肉体の大きな変化の時期に当たる、三体が同時に執刀

された。執刀医と助手の記録係とがいる。着衣を脱がされて、全裸になる。

青酸カリによる死亡だから、苦悶の姿のまま、硬直している。執刀医が、全身を調べて「外傷ナシ」というと、記録係が、「外傷ナシ」と復唱して、記入する。

次は、ガラス棒を膣内に入れて、検体を採る。外陰部も調べ、検体をプレパラートにのせて、顕微鏡を覗く。精液が認められない。

「暴行ノ形跡ナシ」

次は、髪を前半分、顔面におろして、耳から耳へ、頭皮を切り、髪を引ッ張ると、頭皮はスルスルとめくれる。後半分も、同じようにおろすと、頭蓋骨が出る。

耳の上の部分、両側にノコで切れ目を入れて、ポンポンと軽く叩くと、頭骨が上半分脱れて、脳が露出する。それを、全部取り出してから、また、頭骨をあてがい、アゴのあたりの髪を軽くもどすと、スルスルと戻っていって、顔が見える。頭皮を縫合して、髪をすくと、元通りになる。

ノド仏のあたりから、真直ぐ、胸、腹、ヘソをクルリと避けて、大陰唇の縫合部あたりまで、メスで、まず、皮膚を切る。

皮膚、脂肪、筋肉と、メスを換えながら切開する。胸骨も、バリバリと切る。と、ドテラをはだけたように、内臓が露出する。肺や胃や、子宮などを摘出して、中身を調べる。

内臓を取り出したあと、然るべきものを詰めてから、縫合する。タタミ針のような針で大ざっぱに縫う。血が若干、白い肌に付着している。それを、当時、東大法医学教室の名物男だった、〝ノートル

ダムのせむし男(フランス映画の題名)〟のような男が、バケツの水をかけて洗い流す。

そしてまた、着衣をつけさせて、台上からお棺に移す時、もう、硬直がとけて、イヤイヤをしているように、両腕を振るのが印象的だった。

二、三メートルの距離で、三体が同時に解剖されている——まさに〈人体生理の秘密〉を目のあたりにして、私は、サイドカーで雨に打たれたことなど、まったく、忘れ去って感動に佇立しつづけていた。

この時、サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だったが、もう、途中で退室してしまっていた。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝されたことも、私が、コシケンに可愛がられるにいたった、理由のひとつでもあるだろう。

母親が病死したあと、幼い弟妹の面倒を見ていた健気な少女が、父親に犯されて、猫イラズで自殺した事件があった。

その少女は、読売の人生案内に投書して、回答者の真杉静枝女史(作家)が、それを読んだ時は、すでに手遅れで、「イヤらしい父親」(回答の見出し)の段階から、破局へと進んでいたのだった。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

読売梁山泊の記者たち p.060-061 井野康彦の下で国会遊軍

読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。
読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

その取材を、私が担当した縁で、真杉女史と親しくなり、たまたま、解剖の話になって案内することになった。男と女と、二件の解剖を見たあとで、女史はポツンといった。

「女の身体って、美しいわネ。…それに比べると、男のはイヤ、男の屍体は醜いわ」

そんなころ、上野署の防犯係に、ひとりの男がやってきた。望月正吉という、若い刑事がいた。北支は保定の予備士官学校で、一期後輩という関係もあって、親しくしていた。彼は、のちに警視にまで進み、いまは、明星食品会社にいる、と聞いている。

彼が、私にいった。「あの大将の姪が、女子医専にいるんだが、付近の女医さんのところに入り浸りで、困っているそうだ。その相談だけど、女医さんならいいじゃないか…」

法医学づいていた私には、この話でピンとくるものがあった。ある女のサギ師が、裁判所からの鑑定依頼で、東大に送られてきた。「性別は男性か、女性か」というのだ。女サギ師は、実は男性で、半陰陽だったのだ。その性器の写真は、一見〝女性そのもの〟だったが、尿道下裂症という状態で、もちろん膣口さえなかった。

私の取材は、すぐ始まって、その女医が次々と、女性の愛人を作っていることが、明らかになった。上野署に相談にきた伯父は、女医を、不法監禁、わいせつ誘拐、脅迫等で告発した。

「…半陰陽という、不幸な宿命を負って生まれた女医と、数人の女性とのナゾの交渉が明るみに出され、第三者には容易にうかがい知ることもできぬ、人間愛欲の姿が、世の批判の前に投げ出された。告発者は『社会悪を撃つ』といい、女医は『愛情の自由と権利』を主張する…」という前文で、その記事は始まる。

最後には、伯父の許に脱出してきた姪は、女子医専を中退してしまっていたが、彼女自身の、医者

の卵らしい表現で、「女医は男性仮性半陰陽(見てくれは女性だが、男性)だった」と、告白して、私の記事の裏付けとなってくれた。

この女医の取材の時のカメラマンは、だれであったか忘れたが、フラッシュが光った時に、ちょうど、女医がタバコをくわえて、ライターが光った時だったので、〝彼女〟は、すぐには気が付かず、カメラマンは、その一発だけで、さりげなく逃げ出していた。エンジンを吹かしつづけていた車で…。

前にも書いたことだが、井野康彦の下で、国会遊軍をやったのが、私の〈政治開眼〉であった。しかも、ここで、政治部、経済部の記者たち(他社も含めて)との、交流が始まったのだった。

その時の〝処女作〟が、〝スケこまし〟の園田直と、〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。

天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった、父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。

そして、ふたりは結婚した——父君の嘆きぶりは、正視できなかったのを覚えている。労農党の代議士が、自由党のプレイボーイ代議士(しかも、既婚だった)に、さらわれてしまったからである。

新婚旅行から帰ってきた二人を取材したのは、私である。この時、天光光の着ていた着物を、「駒撚りのお召」と、書いたのだ。デスクに、「どんなお召だ?」と聞かれて、返事に窮した。

というのは、取りつくしまもない天光光に、どうしたら口を開かせるか、と考えて、私の第一声は、「ステキなお召物ですネ」と、彼女の着物についての質問だったから…。

読売梁山泊の記者たち p.062-063 読売を去った徳間康快

読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。
読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。

〝白亜の恋〟の第一報は、井野のスクープで、私は下働きだったが、この記事から、各社(雑誌も)は、ヒロインの服装について、触れるようになってきた。昭和二十四年十二月のことだ。

翌二十五年春、竹内四郎の社会部長時代は終わる。戦後の混乱期も、ようやく納まりはじめて、朝鮮動乱による、経済復興の時代がくるのである。

それまでの紙面は、労働争議、共産党の騒ぎ。引き揚げでは、人民裁判や暁に祈るといった、同胞相剋の事件がつづいて、暗い、重苦しいものだった。

服装だって、園田直が松谷天光光を口説いたころの国会議員も、戦争の名残りをとどめて園田は、戦車隊の半長靴でドタドタと、天光光は、カスリのモンペ姿であった。

だが、二十五年、原四郎が文化部長から社会部長となり、竹内四郎が、その栄転のために新設された、企画調査局長となると、紙面もガラッと変わった。

「戦後、強くなったものは、靴下と女」という、警句に表現されるように、女性と愛情の問題が、大きな社会現象になってくる。

警察廻りを、短期間で卒業し、司法記者クラブ一年。国会遊軍と、本社遊軍を兼務していた私には、オール・ラウンド・プレイヤーとしての、忙しい毎日がつづいた。

争議に関連して読売を去った徳間康快

昭和二十年八月十五日未明、長春南郊外のタコツボにひそんで、有力なるソ軍戦車集団の来襲を待

ちながら、間違いなく、死に直面していた——天皇陛下万歳とは叫ぶ気がしなかった。愛する女性の名を呼びながら、集束手榴弾で戦車に体当たり…そんなひとの名前は、どう考えても思い浮かばない。

お母さーん!

敗戦の八月十五日昼、私は新京(長春)にいた。正午。錦ケ丘高女の校庭に、中隊は整列した。感度の悪いラジオで、戦争が終わったことを知った。

——また、読売に戻れるんだゾ!

湧き起こる希望に、敗戦の悲壮感は、まったくなかった。激しいスポーツに、ベストをつくして敗れた感じだった。しかし、敗けたということは、つぎに勝つ、という希望につながってくる。

——質屋へ入れてきた背広、流れたかナ?

一週間ぶんの新聞が、まとめて二週間遅れで、北支の駐屯地に配達される。

フト、広げた「華北新聞」の社会面トップに、「東京の地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員(注=徳間書店社長)は、こう報じている」とあるのを見て、同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。

——徳間の奴に、差をつけられたナ。

シベリアに送られる貨車の中でも、私は、「読売新聞シベリア特派員」だと、そう考えていた。丸二年の捕虜から、社へ戻った時、徳間は、第二次争議で退社して、東京民報の営業に移り、さらに、埼玉新聞へと行く。

読売梁山泊の記者たち p.064-065 退職金代わりに題号をもらった徳間

読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。
読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。

私は昭和十八年十月の読売入社であったが、戦前の実歴は、わずか一カ月。十名入社したほとんどが、間もなく入隊する。たしか、八名ぐらいが、社会部に配属されたが、慶応大学の「三田新聞」をやっていた青木照夫と、劇団の宣伝部で、新聞作りをしていた私との二人が、即日、働ける新人であった。

徳間康快は、同期でも、ひとり整理部に配属されて、とうとう、兵隊に行かなかった。そして、幸か不幸かの結論はまだだが、戦後の二度の、読売争議に関係して、読売を去ることになる。私も青木も、二度目の争議が終わった時に、シベリアから帰ってきたので、読売を辞めずに済んだのだった。

もしも、兵隊に取られずに、社に残っていたならば、私は、鈴木東民について、郷里の岩手県、釜石か盛岡に落ちていっただろう。

徳間の〝幸運〟は、読売を辞めて、左翼系の「東京民報」に入り、しかも、営業に移ったことにある。彼は、ここで、〝商売人〟としての力をつけた。

新聞社で、エラくなるには、編集ではダメなのだ。販売で、商売を覚えねばならない。原四郎が、出版局長になった時、局内外の不評は、相当にキビシイものだった。「週刊読売」などという、いまだに垢抜けない、赤字雑誌を抱えていながら、販売の会議には出ても、あとの宴会には出ないのだ、という。

販売店のオヤジたちとなんか、酒が呑めるか、という、原四郎のプライドが、欠席の理由だった、とか。それこそ、務臺光雄のバックアップがなかったら、原四郎も、出版局長止まりだったかも知れ

ない。

徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売でも、「娯楽よみうり」などという、週刊紙を出したりした時代があったが、この「アサヒ芸能新聞」も、同じようにツブれた。

その時、退職金代わりに、この題号をもらった徳間は、独立して、「週刊アサヒ芸能」という、いまのスタイルの週刊誌にした。新聞スタイルを止めたのだった。そこに、「週刊新潮」の創刊などで、いわゆる〝週刊誌ブーム〟が起きて、アサ芸も軌道に乗った。

さらに、徳間と平和相互銀行を結びつける事件が起きる。平相の小宮山一族に、南方の島に勤務していた、海軍中尉がいた。読売の海軍報道班員だった、社会部の藤尾正行記者は、この男と仲良しになった。

平相の小宮山英蔵は、政治家とのコネを求め、藤尾の第一回の選挙などは、相当な応援をした、という。人によっては、〝平相の丸抱え〟だったともいう。このあたりが、平相と福田派との、付き合いの始まりだ。

だが、当選してしまうと、英蔵の思う通りには動かない。そこで、弟の重四郎を政治家にすることになる。その第一回の選挙は、徹底した金権選挙であった。もちろん落選ではあったが、埼玉県警の違反摘発が進む。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、 ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

読売梁山泊の記者たち p.066-067 徳間の大活躍が始まった

読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。
読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

この小宮山重四郎の初出馬の参謀が、徳間だった。平相は、まず、元皇族の竹田恒徳を社長とする、

ペーパーカンパニーを作り、そこの手形を平相が割った形で、重四郎の選挙資金を捻出した。

買収工作の運動員たちが、次々と逮捕され会計責任者にまで及んだ。県警は、竹田社長の事情聴取から逮捕、つづいて候補者という構想でいた。ここで、徳間の大活躍が始まったのである。

もう、故人となったが、公卿華族の出で、警察に滅法カオの利く、芝山元子爵を徳間が担ぎ出す。学習院で、竹田社長の同期生だ。芝山は、県警本部長を訪ねて、「かりにも元皇族だ。そんな方を警察に引っ張るのか」とハッパをかけた。

小宮山派の違反は、そこで終わった。新聞雑誌に叩かれるばかりだった英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。

徳間も、新聞記者であった。しかし、彼が定年まで読売にいたら、これだけの力は持ち得なかったろう。やはり、商売の世界に入っていったからである。

新聞記者は、事実、カオが広い。だが、所詮はサラリーマンだから、商売には弱い。最後のツメが甘いのである。

正論新聞で、オートボールペンの倒産を取り上げたことがある。すると、警視庁クラブ時代の旧友、朝日紙の万代(ばんだい)記者が、訪ねてきた。ナントカ企画といったような名刺だったが、結局、二人で酒を呑んで、彼は不得要領な話をして、帰っていった。

同じように、朝日紙の央(なかば)忠邦という、創価学会記者がいた。彼が、もう一人読売だかの

記者と組んで、昭和六十一年七月の同日選で、奄美群島区の徳田虎雄候補の参謀を勤めたらしい。

二度目の挑戦だし、下馬評では徳田が保岡に勝つ、それも、公明票を押さえたからだといわれていた。そのあたりも、央が働いたらしい。

ところが、投票直前、保岡は二階堂に頼み、二階堂は竹入に頼んで、徳田に傾いていた公明票を、ひっくり返してしまった。票差は、わずか三千三百。徳田は敗れた。徳田の勝利を祝うため、鹿児島まできていた央らは、電話で、「ツメが甘いんだ!」と怒鳴られ、奄美大島へは渡れなかった。

いま、私も、ある程度の人生を生きてきてしみじみと思うことは、仕事も健康も、努力のあとは、運賦天賦。だれにも〈運命の一瞬〉を、どうつかむかの違いであろう。

激戦地へ行く奴もいれば、後方で、ノンビリする奴もいる。新宿のローカル紙「ニュー・シティ・タイムズ」を見ていたら、新宿の戸塚安全協会長になった、石油屋の大家萬次郎が、「ひと」欄に出ていた。

彼とは、北支・保定の予備士官学校の同期生。ところが、卒業の時に見当たらない。のちに聞けば、一族に将軍がいて、豊橋に転校して、卒業後は、京都連隊区付の見習士官。祇園の芸奴置屋に営外居住して、舞妓たちに竹槍の銃剣術を教えて、戦争が終わった、という奴である。

だが、私にだって、運はツイていた。新京特別市で終戦となり、在留邦人婦女子の保護をしながら、居抜きの家をまわっていて、日用日露会話という、ポケットブックを拾ったものである。

大隊の乗った貨物列車が、まっすぐ南下すると思っていたら、北上するではないか。私は、その時

から、警乗のソ連兵相手に、例のポケットブックで、ロシア語を習い始めた。関東軍には、露語教育を受けた兵隊がいるのだが、北支軍には、露語通訳はいない。