事件記者と犯罪の間
その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者
最後の事件記者
我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スバイ!
幻兵団物語
書かれざる特種
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正佼成会潜入記
新聞記者というピエロ
あとがき
事件記者と犯罪の間
その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者
最後の事件記者
我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スバイ!
幻兵団物語
書かれざる特種
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正佼成会潜入記
新聞記者というピエロ
あとがき
はしがき
私が、さる七月二十二日、横井社長殺人未遂事件の指名手配犯人を、北海道に逃がしてやった、ということで、「犯人隠避」罪の容疑に問われ、警視庁捜査二課に逮捕されてから、もう五ヵ月になる。
ということは、私が在職十四年十ヵ月にもおよぷ、読売新聞社会部記者の職を投げ出してから、五ヵ月になるということだ。つまり、私はその逮捕の前々日に社に辞表を出したからである。
私には私なりの論理があって、「辞めるべきだし、辞めねばならない」と思って、サッバリと辞表を出したのだが、世の中というのはむつかしいもので、あまり辞めッぷりが良かったので、かえって痛くもないハラを探られたらしい。
つまり、「奴は取材だといってながら、後暗いから辞めるのだろう」とか、「安藤組の顧問という、高給の就職口が決っているから、平気なンだよ」とか、いったたぐいだ。
ある三流雑誌が、〝悪と心中した新聞記者〟という題で、私のことを、安藤とは法政の先輩後輩
の仲で、安藤のツケで銀座、渋谷を飲み廻っていた、と、全く事実無根のことを書いた。保釈出所してそれを読んだ私は、早速その社へ抗議に行った。
すると、御アイサツである。「オヤ? あなたはあの世界へ行かれるのではないのですか。 好意的に書いてあげたつもりですのに」という。開いた口がふさがらない。
それどころではない。私の逮捕、起訴を報じた新聞の記事を読んで、いささか感慨にふけったのである。つまり、その記事をよむと、私は全くグレン隊の一味としか、思われないのである。「オレも落ちたものだなア」と、他人事のように考えていた。
だが、次の瞬間には、果して、オレもあのような記事を書いていたのだろうか、という反省が、それこそ、ボツ然と湧き起ってきたのである。果して、新間は真実を伝えているであろうか、という疑問だ。
イヤ、少くとも、三田記者はその記事で真実を伝えたであろうか、ということだ。今までの私なら、言下に、然りと答えただろう。だが、日と共に私はその自信を失いつつあるのだ。書く身が書かれる身となって、はじめて知った真実である。
いかにも、私の逮柿や起訴を報じた記事は、その客観的事実に関する限り、真実であった。私
たちが新聞学で教わった五つのW、何時、何処で、誰が、何を、どうした、という、この五つのWを充足する、客観的事実は真実であった。――だが、決して真実のすぺてではなかったし、一部の真実が、全体を真実らしく装っていたのである。
私は、そのことを発表したかった。もっと端的にいえば、グレン隊の一味に成り果てた私が可哀想だったから、弁解をしたかったし、弁解を通じて、「新闘は、果して真実を伝えているだろうか」という、世の多くの人たちが感じはじめている疑問を、もっと的確に、改めて提起してみたかったのである。
そして、私は文芸春秋十月号に、「事件記者と犯罪の間」という、長文を書いた。
これには、いろいろの意味で、大きな反響があった。私の手許にも、未知、既知を問わず、多くの感想がよせられたのだった。
この一文の反響を知って、私はさらに、あの一文で提起した、「新聞」と「事件記者」との問題について、もっと書かねばならないと感じたのである。もっとより多く、より深く、新聞と新聞記者とを知ってもらいたいと考えたのである。
日本中で、毎日発行されている何千万部もの新聞について、読者はもっと正確な知識を持たな
ければならない。そうでなければ、あの〝活字の持つ魔力〟に、ひきずり廻される危険がある。
若輩の私が、ここで、その大きな問題について、明快な解答や結論を出そう、というのではない。これは、一人の事件記者の生活記録でしかない。
それも、事件と新聞という、大きな谷間におちこんでしまった、一人の男のそれである。彼を犠牲者と呼び、ピエロと名付けようとも、これが、事件記者の現実である。
芸術祭参加のテレビ・ドラマ「マンモス・タワー」は、映画とテレビの谷間におちこんだ生粋の映画人が、映画の世界を去らねばならなくなった記録であった。新聞もまた、マンモスである。
テレビの「事件記者」は、来年もまたロングランをつづけるという。しかし、現実の新聞の世界では、私が〝最後の事件記者〟であるに違いない。
昭和三十三年十二月
三 田 和 夫
目次
はしがき
我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スパイ
幻兵団物語
書かれざる特権
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正交成会潜入記
新聞記者というピエロ
あとがき
我が事敗れたり
浅草のヨネサン
『オイ、ブンヤさん。電話だよ』
『エ? 電話?』
私は自分の耳を疑った。思わず上半身を起したほどだった。
ここは警視庁一階の留置場、第十一房である。七月二十二日の夕刻、逮捕状を執行されて、ブチこまれてから、生れてはじめての留置場生活に、毎日、新聞記者根性丸だしの取材を続けていた私だったが、〝電話〟と聞いては、驚きのため飛び起きざるを得ない。
板敷きの上に、タタミ表のウスベリを敷いた留置場は、正座が、留置人心得という規則によって原則である。しかし、旅馴れた私は早くも担当サンの眼を盗んで、横になって午睡をたのしん
でいたところだった。
しかし、旅馴れた私は早くも担当サンの眼を盗んで、横になって午睡をたのしん
でいたところだった。
二十五日間も暮らしたが、誰もブタ箱などという者はいない。つまり、往時の、不潔極まりない房内から、ブタ箱という名が生れたのだろうが、出たり入ったり、また出たりのオ馴染みさんでさえ、留置場という。ブタ箱という名は、全くすたれたようだ。
それほどに、留置場は清潔であり、目隠し塀のついた水洗便所、消毒された毛布、白いゴハンと、設備、待遇ともに、犯罪容疑者の詰め所としては、立派であった。
それにしても、電話とは!
私はまだ、記者クラブにでもいるような、錯覚におちいった。呼びかけた男の顔をみて、留置場だナ、と思い返したほどである。大辻司郎と吉屋信子、この二人にフランキー堺を足したような顔のその男は、〝浅草のヨネさん〟といわれる、パン助置屋の主人であった。
管理売春という、売春防止法でも重たい罪の容疑で入っている男だったが、人柄は極めてよく、フランキーのような明るさと機智とを持っている男だった。
私がこの房に転房してきた時、先客が二人いた。カタギの私は、この別世界の礼儀作法を良くは知らなかったが、普通の人間社会の礼儀を準用すれば間違いはないと考えた。
『どうかよろしくお願いします』
私は頭を下げた。両手をつくほどの必要はあるまいと思ったので、小腰をかがめただけだ った。「十一房、ロの二六五番」というのが、私の認識票で、それが書きこまれた、小さな 木札を入口の表札差しに、差しこんでおくのだ。
『……』
先客二人も、軽くうなずく。私はその房では新入りなので、一番奥の、一番下座である便所のそばに腰を下した。
二人の世界が、彼らの意志とかかわりなく、三人になったのだから、この第十一房という、 小さな社会の構成要件が変ったことになる。つまり、革命だ。新しい社会秩序を確立しなければ、誰もが落ちつけない。
それには、この新入りの階級的出身と、社会的序列とを知る必要がある。旧支配階級が声をかけた。
『あんた、何です?』
何罪でパクられたのかということだ。私は心中ニャリとした。この質問を待っていたからであ る。
留置場でも、生活の智恵は必要である。〝小さな喫茶店で、タダ黙って〟と、恋人と二人きりでいるようなワケには参らんのだった。
『ウン……(ちょっと口籠って、どう説明したら判ってもらえるのかな、といったようなハッタリをつけて)。つまり、難しくいえば犯人隠避といって……。』
『ああ、読売新聞のダンナですね』
ヨネさんは、私の思惑を裏切って、ズバリといい切った。
『エエ、ソウ』
私は驚くと同時に、極めて不器用な返事をしてしまった。
『新聞記者でもパクられるのかねエ』
彼は感にたえたようにいう。もう、ずっと以前から私のことを知っていたような、親し気な調子だ。ヨネさんは、このように情報通であった。そして、その情報が、どうして集まるのかという、ナゾを解いてくれたのが、この電話だったのである。
安藤からの電話
『安藤サン、安藤サン、ただ今、三田さんが出ますから、しばらくお待ち下さい。』
ヨネさんは、留置場の外側の金網にヘバリつくと、看守の巡回通路の壁に向って、無線電話の通話調で話しかけた。呆ッ気にとられている私を促すと、チラリと内側の金網に視腺を駆って、中央見張り台にいる看守の動静をうかがう。
扇形に看房が並んでいる留置場は、カナメにあたる部分に、潜水艦の司令塔のような見張り台がある。ここに看守が一人坐ると、一、二階とも全部で二十八の看房が、少しの死角もなく見通せるのである。
その他に数人、収容者の出入を扱う看守がおり、彼らは手が空いていれば、動哨する。
『オレガシキテンをキッてる(見張りしている)から、あの便器にまたがって、用便と見せかせて、話をするんだヨ』
電話のかけ方から教わるのである。新米記者さながらに、私は教えられた通りにして、安藤親分のいると覚しきあたりに向って、小さな声で答えた。
『ハイ、三田です』
『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』
『ア、三田さん? 安藤です。体は大丈夫ですか?』
『エエ、大丈夫です』
私が留置場へ入った翌朝、洗面の時にどこからか声がかかった。洗面は、例の見張り台の下のグルリに、水道栓がついて、流しになっているのである。
『オイ、読売! 身体は大丈夫か!』
『話をするンじゃない!』
見張り台、つまり洗面中の真上から、叱責の声がとんできた。咋夜、二階の二十二房というのに、はじめて熟睡した私だったが、まだ場馴れないのと、留置場内の地理に明るくないので、その声が私を呼んでいることは判ったが、何処からなのか、誰からなのか、見当もつかないのである。
それに、メガネを取り上げられているのだから、キョロキョロ見廻したが、金網ごしの相手の顔など、判りやしない。
その翌日かに、朝の運動の時間、また私に声をかけた、顔に傷のある青年がいた。
『オイ、読売!』
はじめて留置場に入る時、私の身体捜検をしてくれた巡査部長の看守が、私の身分を知ってか
ら、親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。
つまり、相手の家庭状況や住所を聞いて、先に出所すると、留守宅へ行ってサギなどを働くというのである。私は彼の注意を思い出して、あいまいに返事もしなかった。何しろ、知らない男だからだ。しかし、私の顔は「オイ、読売」という呼びかけに、明らかにうなずいていた。
『あなたは、読売の記者でしょう?』
相手の言葉が叮寧になったので、私はうなずいた。しかし、その日は、それで終り。何しろ、スレ違いのさい、看守が制止する中での会話だ。
『今朝、運動の時、オレに声をかけた奴がいるンだけど、この前の洗面の時の奴と同じらしいよ。顔に傷があるンだけど、誰だい』
『何だい? オメエ知らねェのかい?』
調べの合間に、石村主任にきくと、彼は意外だという表情できき返した。
『ハハン、安藤かい?』
それで判った。房内には、顔に傷のある男が多いし、同一事件のホシは各署の留置場へ分散す
るのが通例だから、まさか安藤とは思わなかった。
それで判った。房内には、顔に傷のある男が多いし、同一事件のホシは各署の留置場へ分散す
るのが通例だから、まさか安藤とは思わなかった。
手記の相談
運動というのは、毎日一回だけ、タバコ一本を戸外で吸わせてくれるのである。運動という名で呼ばれているが、駈け足や体操などするわけではない。オヤ指を焦がす位、時間をかけて吸う一本のタバコ、約八分ほどの間だけ、太陽光線を浴びさせる時間だ。
安藤はその後の運動の時間にも、「このたびは御迷惑をかけてしまって、何とも申しわけありません」とか、「会社の方は大丈夫ですか」「身体は悪くありませんか」などと、顔があうたびに、キチンと声をかけて挨拶をしてきた。そのようなやりとりが、私と安藤との間にあってからの、この電話なのだ。
例のように、私の健康へのいたわりの言葉があってから、彼は用件に入ってきた。
『実は、三田さん。文芸春秋から、私に手記を書けッて、いってきたんだけど、どうしましょう』
『何、手記? いいじゃないか。あンたの横井を射ったことについての、感想をかけばいいよ』
『ブンヤさん!担当!』
ヨネさんの低く押しつぶした、鋭い声が飛んだ。私はさり気なく金網をはなれて、腰をふり、小用を済ませたように装った。
コツ、コツ、コツ。巡回の看守が、房の中を覗きこみながら通りすぎる。内側から看守の動きをみていたヨネさんが、安藤の九房の前を通りすぎたのを確認して、「イイヨ」と合図した。
断線である。電話は事故のため、通話中に切れてしまった。すぐ復旧にとりかからねばならない。要領を覚えた私は、また金網にヘバリついて、小声で十房を呼んだ。
『十房、十房。十一房から、九房の安藤さん』
『ハイ、十房』
私の声を聞きつけて、十房の見も知らぬ男が立ち上ってきた。
『十一房の三田から、九房の安藤さん』
『九房、 九房。十一房の三田さんから、九房の安藤さん』
『ハイ、安藤です』
『アア、 三田です』 断線した電話は、即座に復旧した。
断線した電話は、即座に復旧した。このように自由を拘束された留置場の生活では、案外に相互扶助の義務感が強いようである。電話が開通すると、はじめの中継者の十房は、すぐ離れてゴロリと横になったようだ。外側の壁に向って、九房の位置を考える。入射角と反射角は同じなのだから、ワン・クッションで、声が通る。九と十一なら、顔が見えないだけで、ヒソヒソ話が十分に通ずる。
『それで、〆切は何時だって?』
『二十日までに書いてくれッて。どうせ弁護士への口述になるんだけどネ』
『フーン。紙と鉛筆位、調ぺ室でくれないのかい?』
『ウン。……それでね。何を書いたらいいか。少し教えて下さいよ』
『担当!』
また断線である。私は金網をはなれると、ウスベリの上に寝ころがった。
我が事敗れたり
静かに考えてみる。文春が安藤に手記を依頼してきた。〆切は二十日だという。これこそ、私にとってはビッグ・ニュースだった。
文春が八月はじめに出した九月号に、横井英樹と三鬼陽之助の対談をのせ、「大不平小不平」という、新聞批判の欄では、「苦しかった〝元〟記者」と、私の事件を取り上げていることは、読ませてこそくれなかったが、調べ官の木村警部が、得意そうに鼻をウゴメかして、私にパラパラと見せてくれたので、すでに知っていた。
私が逮捕された数日後に、調べ主任に各社の記事の様子、つまり取リ扱い方を聞いたことがある。すると、石村主任はしいて無関心をよそおっていった。
『ナーニ、毎日か何かが書いていたッけよ。それもあまり大きくなくサ。そのほかは、何か小さな新聞が、二、三取り上げていたらしいよ』
石村さん、ありがとう。私は心の中で感謝しながら、「何だい、そんなこと、かくさなくたっていいじゃないか」と、いった。彼の態度から、私の逮捕の各社の記事は、決して私に好意的ではなく、しかも、全部の社が、割に大きく書いているのだナ、と感じた。それを、この主任は、私に打撃を与えると思ったのか、私が可哀想だったのか、心優しいウソをついてくれたのだと、判断したのだ。
私は新しい入房者があると、その人に根掘り葉掘り、私の逮捕の記事と、その論調とについて質問した。やはり、判断通りに、決して香んばしい扱いではないと判った。
横井事件に関連して、私が「犯人隠避」容疑で、逮捕されるにいたった当時の様子を、少しく説明しておかねばなるまい。
日曜日は私の公休日だった。七月二十日の日曜日も、だから休みで、一日自宅にいた。ひるねをしたり、子供たちと遊んだりして、夜の八時ごろになった時、私のクラブの寿里記者から電話がきて、「大阪地検が明朝、通産省を手入れするが、予告原稿を書こうか」というのである。
彼一人にまかせておいても良かったのだが、何故か私は「今すぐ社へ行くから、待っていてくれ」と答えて、出勤した。翌朝の手入れのための手配をとり終って、フト、デスク(当番次長)の机の上をみると、読売旭川市局発の原稿がきている。何気なく読んでみると、外川材木店にいた男を、安藤組の小笠原郁夫だと断定して、旭川署、道警本部が捜査しているという内容だった。
「我が事敗れたり」と、私は覚った。事、志と反して、ついにここにいたったのだ。私はそれでも、当局より先に、事の敗れたのを知ることができた幸運を、「天まだ我を見捨てず」とよろこんだ。
当局の先手を打って、小笠原に会ったのだが、ここで逆転、当局に先手をとられて、その居所を割り出された。それをまた私が、今夜、先手を取りかえしたのだ。
この原稿を読んだ瞬間には、私の表情はサッと変っていたかも知れない。しかし、読み終えた時には、全く冷静だった。そして、静かに読み通してみた。
小笠原は十八日朝、「札幌へ行く」といって、外川方を立去り、外川方では二十日の午後、警察へ屈出たとある。すると、旭川署が外川さんを参考人として調べて、同氏の戦友の塚原さんの紹介であずかった男だ、といったに違いないから、警視庁では、明二十一日朝、塚原さんを呼ぶに違いない。
その口から、私の名前が出てくるのは、月躍日のひるすぎ。私は素早くそう計算して、明日の正午までの十五時間位は、自由に行動できると考えた。その間に一切を片付けねばならない。
辞職を決める
すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。
すぐに社を出ると、私は塚原さんを自宅にたずねた。この軍隊時代の大隊長だった塚原勝太郎氏は、全く何の関係もない人だったのに、私が頼んで旭川へ紹介してもらったばかりに、事件の渦中へ引ずりこんでしまったのだった。
私は、塚原さんに事件の経過を知らせて、迷惑をかけたことを謝った。それからすぐ、読売の警視庁キャップの萩原記者と、社会部の先輩の一人をたずね、事情を説明すると同時に、辞職する決心を打明けた。小笠原を旭川へ落してやる時から、失敗した時の覚悟は決っていたのである。
深更帰宅したのち、妻にすべてを話し、明日、警視庁へ出頭する準備をした。家宅捜索を受けても不都合なものはないし、あとは静かに辞表を書くだけだった。
二十一日の月曜日早朝、その辞表を持って金久保社会部長の自宅へ行き、取材に失敗した経過を話して、辞表を出したのである。社会部長は、「刑事部長と相談してみよう」といって、一緒に警視庁へ行った。部長は萩原記者と二人で刑事部長に会ったが、私は自分の担当の司法記者クラブヘ行った。
その後、二十一日の正午ごろ、刑事部長と捜査二課長とに会った。しかし、私としては社を退職し、逮捕されるつもりなのだから、一応の事情を説明しただけだ。
その時、私はいった。
『この事件は取材以外の何ものでもありません。しかし、私の行為は犯人隠避に相当するのだから、逮捕されるのなら、何時でも出頭します。逮捕される時には、社を退職して逮捕されたいので、事前に教えて頂けないでしょうか』と。
こう話して、警視庁の記者クラブヘもどってきた時、何人かの顔見知りの記者と挨拶をしながら、私はフト感じた。
——そうだ。クラブ各社の記者と会見して、私の事情を説明しておこう。
——イヤイヤ、私は司法記者クラプのキャップだ。その経験を積んだヴェテラン記者が、犯人隠避の疑いで逮捕されるのだ。今までは書く身が、書かれる身になるのだ。一体各社がどんな扱いをするか、どんな記事をかくか、黙って経験してみよう。
——それに、大特ダネをものにしようとして失敗したのだ。今さら、逮捕をカンベンしてくれと哀願したり、各社に記事をよろしくなどというのは、いかにも卑怯だ。
私はそう考え直した。だから、あえて黙っていた。そうして自分のクラブヘ行き、部下の二人の記者にだけ、事情を話し、後事をたのんだ。