月刊「現代」誌の、昨年一月創刊号のグラビヤに、河井信太郎検事が出ていて、「河井氏の正義の追及を、世間は大きな期待をもってみつめている」と、書かれている。しかし私は、立松記者不当逮捕事件を想い出す時、河井検事が、「正義派検事」といわれるのに抵抗を感ずるのである。
実例を持ち出すまでもなく、ある大作家が、「正義派の推理作家」といわれているが、しかし、私の著作を盗んでおりながら、そのことを知ってもうすぐ一年になろうとするのに、電話の一本、手紙一本の挨拶すらなく、私の非難に平然としていることから、その先生が、正義派作家といわれることに、怒りさえ覚えるのである。
大森創造参院議員も、「正義派議員」である。だが、予告のアドバルーンばかりが、高くあがって、肝心の国会質問が他の議員になったり、御本人が知らない間に、トッポイ男の〝恐喝〟の材料に使われたりしていては、それこそ、〝李下の冠〟であろう。
井本総長事件の最後をしめくくらねばならない。これまで多くの「人」を、ほとんど実名で登場させた。或いは名誉棄損の告訴をうけるかも知れない。しかし、「社会正義とはなんだ」という命題のもとで、国民のみんなに、正確な判断をしてもらうためには、仮名では「真実」が伝わらない。
そして、これも〝解説〟〝風聞〟である。
河井検事が、昭和十九年以来東京勤務で、研修所教官と本省刑事課長以外、東京地検を離れないのは、人事問題としてオカシイ、という声が、政府部内にあった。次席から東京の検事正に上るのもオカシイ、との声もあった。同氏に〝密着〟した人物についての批判もあった。そこで横浜の検事正という内示があった。同氏は応じない。では、最高検事という内示であった。
各紙誌の記事に、池田代議士の逮捕が行なわれずに、在宅起訴と決まるまでの、六月二十日から二十五日までの期間、井本総長らが現場の地検の意見に反対したのが、「会食」事件に結びつけられて、書かれている。しかし、一方では、逆の〝解説〟もある。
河井検事の異動を推進したのは、福田幹事長の線だといわれている。次席からそのまま東京検事正昇格を期待していた、若手検事たちが多かったのも事実であろう。それが東京という〝現場〟をはずされたり、最高検などの〝栄転〟ではけしからん——それなら福田にシッペ返しをしてやろう。倉石問題で右手を奪われた幹事長だから、左手のイケショウを傷めてやれ。あわよくば幹事長失脚で〝異動の内示〟は御破算カモネ、とばかりに服役中の久保の調書をとり、突如として〝イケショウへの疑惑〟が具体化した。
その辺の、捜査の経過や証拠関係に〝作為〟が感じられたので、総長らは(事情が読めたので)現場の地検の意見に同意せず、慎重を期して、会議決定が長びき、最終的に在宅起訴となった——とする〝解説〟である。