赤い広場―霞ヶ関」タグアーカイブ

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 「日本人富岡芳子」それが私が発見した女だった

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet's spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.
赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet’s spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.

二十八年四月ごろから、三鷹市下連雀の自宅でオールウェイヴ・ラジオによりソ連からの秘密暗号情報を受信、暗号解読練習をした。さらにこの秘密通信文を埋め、その通信文をソ連側に送信する送信技術をおさめた。このほか在日残存秘密特務情報網のメンバーの人相確認を行った。

この間協力者二名に対する報酬を含めて一年四千ドル(百四十四万円)を一括受領した。

▽ドル入手関係=①二十七年二月ソ連代表部で、コチエリニコフ氏から四千ドルを受取った。②被告はこのドルを二十七年四月、日本人富岡芳子を介し、昌栄貿易重役遊佐上治氏(元外務省経済局動務)らに売却、自己または他人の名儀で、興亜土地合資会社(代表者佐藤直氏)へ融資、あるいは山一証券など数社に株式売買資金として費消。

▽秘密文書関係=被告は二十七年十月、二回にわたりクリッチンに職務上の秘密文書、経済第二課企画(国際経済機関二十六年度版)上下を手渡した。

つまりこの冒頭陳述のドル入手関係に書かれている「日本人富岡芳子を介し」という、富岡芳子こそ私の発見した彼女だったのである。そして彼女によって、二十九年八月二十一日兵庫県警察本部が摘発した「英印人ヤミドル団」とスパイ網とが結ばれていたのであった。

当局の捜査は高毛礼氏からスパイ資金を受取るはずの日本人スパイ群と、高毛礼氏と同様に他のソ連人からバトンを受けついだ他の〝地下代表部員〟およびヤミドル団との背後関係の三点に向けられていたのであった。

では、ここで高毛礼氏捜査の経過をみてみよう。さる二十七年ごろからラ氏にかかる刑特法違反容疑事件の捜査を行っていた同課では、ソ連代表部員の行動調査を始めていたが、アナトリイ・F・コテリニコフ領事とL・A・ポポフ経済官(実際は政治部少佐と信じられている)両氏の乗用車を尾行したところ、三鷹市下連雀付近まで月に数回でかけるという事実をつかみ付近一帯を捜査した結果、高毛礼氏宅があるのを発見、一応チェックしていた。

ところが二十九年八月上旬、山本課長がワシントンでラ氏から、ポポフ氏担当の日本人スパイの話をきき取り、これを経歴その他に前記尾行の線がピタリ符合する高毛礼氏と判断した。その結果、約二週間の尾行から富岡氏ら四名の女性を発見したのである。

逮捕に向ったとき、同氏は『一切を死によって清算したい』旨の遣書を残して、ヌレ手拭で自殺を図ったほどで、それだけに重要な人物として厳しい追及をうけたところ、取調べ官宛に手記を書いて一切を自供したものである。

ここで当局は始めて、ソ連側では講和条約の発効によって、代表部は引揚げざるを得ないという情勢判断をしており、そのため、ソ連人に代るスパイ操縦者の日本人、いうなれば〝地下代表部員〟の設置を行っていたという、重大な事実を握ったのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 高毛礼の四人の愛人

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called "Madame Black Pearl".
赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called “Madame Black Pearl”.

女と酒と金、そして賭博と麻薬――ラ氏手記でいうとおり、人間の弱点につけ込む手口は、ソ連諜報機関ではキチンと整理されて一つの学問にさえなっていたという。高毛礼氏の二週間にわたる尾行の結果、登場してきた四人の女性とは、一体どんな婦人たちであったろうか。

当局では彼女たちをいずれも高毛礼氏の愛人だとみているが、本人たちはいずれも否定しており、調室で出会ってたがいに気まずい思いをしたこともあるという。当局が参考人としてとった四人の供述調書に浮彫りされた、〝マタハリ〟の妖しい姿をみてみよう。

▽佐多可世子さん(三八)の場合

彼女は斜陽夫人である。明治の元勲伊藤博文公の息伊藤文吉男爵の長女として、大正五年東京で生れた。封建制日本の最上流階級の出身である。女子学習院卒業後、大阪医大学長佐多愛彦氏の三男輝雄氏に嫁した。

試みにこの一族の経歴を興信録によって紹介しよう。伊藤文吉男爵は従三位勲三等、貴族院議員、北樺太石油取締役、大東亜建設審議会委員、長男は東大独法科卒、長女は可世子さん、次女は日経連顧間三菱重工会長で白根松介氏の義兄にあたる人の長男に嫁ぎ、三女も同じく実業家、四女は伊藤博精公爵の弟に嫁いでいる。可世子さんの嫁いだ佐多家は父親がドイツ留学の医博で従四位勲三等、夫君輝雄氏は京大経済卒、弟は阪大教授の理博という家柄である。

戦後、夫君が事業に失取し、しかも糖尿病を患うにいたって、〝華族様のお姫さま〟は生活力を失った夫君と三児を抱えて〝生活〟に直面した。こうして彼女は街に出た。

名門の看板と高貴な冷たい美貌の彼女に慕いよる男たちは、殊に貴族に好奇心をもつアメリカ人に多かった。タバコ、キャンデー、衣類など、当時貨幣同様の価値をもっていた進駐軍物資を動かすことで、金が作れるということを、彼女はこの時にはじめて知ったのだった。

そして、高毛礼氏のドル関係捜査に彼女の名が浮んできたときには、彼女はすでにヤミ物資で何回か警察の門もくぐり、数寄屋橋マツダビル付近のバイ人たちの間でも有名な、いっぱしのドル・プローカーになっていた。

彼女はいま、「ラ事件には関係なし」とされて、処分保留のままでいるが、彼女をよく知る某氏は『佐多さんが、〝関係なし〟といわれるのは、彼女の門閥によるものだ』と、この間の微妙ないきさつを語っている。

▽富岡芳子さん(三六)の場合

彼女は十余年前までは、少くとも平凡な家庭の一主婦にすぎなかった。だが、最初の結婚の失敗が高毛礼氏と結び、さらに〝マダム黒真珠〟と呼ばれる外人社交界の妖花にまで変貎させてしまった。 昭和十六年一児を抱えて夫と別れた彼女は、新宿のあるバーに勤めだした。そこに現れたのが、モスクワから帰ってきた、北樺太石油社員の高毛礼氏だったのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 日本新聞が「木村檄文」を大々的に掲載

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.
赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.

夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ

ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

突然の急ぎの呼出しやら、静かながら騒然としたあたりの雰囲気に、大勢を察知していたらしいこの若い参謀は、すすめられたタバコの煙を吐き出すとともに、ただ一言呟いた。

『これで――第一巻は終った……』

確かにそうであった。第一巻はラストヴォロフ事件を最後のヤマとして終った。そして第二巻が、おだやかな〝平和〟という呼びかけで始ったのである。

三十年一月二十五日の鳩山・ドムニッツキー会談から出発した日ソ国交調整の動きは、すでに交渉地がニューヨークに決定していたかの如く思われていたが、意外にも四月四日ソ連側は東京を主張してきたのであった。

この一見変幻極まりないかの如きソ連の態度も、そのそもそものはじまりから仔細に観察するならば、決して故なしとはしないであろう。冒頭以来、しばしば述べてきたようにソ連の対日政策は常に一貫して流れているのである。そして、そのことを理解するためには、まずシベリヤ民主運動の経過と、その立役者たちのその後とを知らねばならない。

在ソ同胞と一口にいってしまえば簡単であるが、その組成は実に多種多様である。①日満両国の軍人軍属 ②日満両国政府職員 ③協和会員 ④国策会社員 ⑤開拓団員 ⑥一般居留民 ⑦樺太居住民 ⑧北鮮居住民など、その社会的、階級的出身層は十種類以上にも及んでいる。

ということは、つまり、完全に日本の社会の縮図でもあったということであろう。総数は二十四年十月一日付国連軍総司令部発表の数字によると、引揚対象基本数はソ連地区で百六十二万五百十六名である。

この百数十万余名の日本人が、一般俘虜と受刑者とに分れていたのである。受刑者というのは、いわゆるソ連刑法五十八条(反逆罪)による入ソ後の犯罪によったものと戦犯とがあった。

また入ソ後の一般犯罪によるものや、樺太における一般市民の受刑者などがあった。

シベリヤ民主運動はこれらの社会各層の出身者による一般俘虜百数十万名の間で発生し、十六地区(ハバロフスク)五分所、同十一分所の特別監獄における浅原正基氏(後述)らの「党史研究グループ」の例外を除いては、囚人である受刑者の間では全く行われなかった。

運動発生の端緒は二十一年夏ごろ、ハバロフスクにいた木村大尉という人の「木村檄文」だと信じられている。これを在ソ同胞の宣伝機関紙日本新聞が利用して大々的に掲載したのであった。これは直ちに反軍闘争、対将校階級闘争としてアジられ、日本新聞の「友の会」運動として組織された。併行して各収容所の文化グループの活動が指示された。

二十一年夏から二十二年にかけて全シベリヤ収容所には、この「友の会」運動が瞭原の火の

ように拡がっていった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 オルガナイザー、日本新聞グループ

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.
赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.

ただでさえ苦難の多い俘虜生活である。そこへ出現したこの〝○○天皇〟と呼ばれる労働貴族たちの、同胞への苛歛誅求ぶりは、まさにシベリヤ罪悪史として、一書を編むに値するものであった。と同時に、これこそ日本人の国際的訓練の欠如を露呈した惨めな事大主義として、同じ俘虜であるドイツ人たちのびん笑を買ったものであった。

引揚列車を迎える人たちの日の丸の旗をひきちぎり、さし出す花束を踏みにぢり、ソ同盟謳歌を呼号し、〝代々木詣り〟という集団入党のため帰郷すら拒否した、いわゆる「上陸党員」たちのその後をたずねて見給え。ましてや〝赤大根〟と呼ばれた君子豹変組の在ソ行動をたずねて見給え。

だがしかし、このような狂騒民主運動に冷静な監視と、充分な計算とを怠らなかった一群の日本人たちがいた。このグループがアクチィヴィストの上位にある、オルガナイザー(組織者)である。日本新聞グループであり、最高ビューロー・グループである。そしてまた彼らのかげには、「常に一貫して流れている対日政策」に動かされるソ連政治部将校たちの指導があったのである。

今ここでこの詳細を述べることはできないが、民主運動のキッカケとなった「木村檄文」というものがあった。それと同時期に沿海州地区では、ナホトカに近いドーナイ収容所で起した佐藤治平元准尉の民主運動もあった。この分派民主運動は、後に浅原正基対佐藤治平の理論闘争となり、佐藤氏が敗れて粛清されたのであった。

このような経緯もあって、「木村檄文」は主流派となったのだが、これを取上げた当時の日本新聞は、まだ発足間もない単なる宣伝用機関紙にすぎなかったのである。

満州日々新聞の工場施設一切を持ち去り、俘虜の中から印刷工や編集者を探し出し、二十年九月十五日第一号を発行したのである。だから初期の新聞には編集員募集の広告が出ており、私もこれに応募してスパイ誓約のキッカケを作ってしまったころである。

このころ、元共産党員と称して、社長コバレンコ少佐をだまし、編集長の地位に納ったのが、元朝日新聞郡山通信員小針延二郎氏であった。当時の事情を雑誌「真相」(二十五年四月号)は、ともかく次のように書いている。

申出た彼の履歴は、元朝日新聞チャムス通信局長で、日本共産党員、内地では特高につけ廻されるから、満州に派遣してもらっていた。という堂々たるものであった。

コバレンコ少佐はすっかり信用して、いきなりセクレタリ・レダクチア(編集書記)に任命した。主として割付をする仕事で、彼が帰国後自称する「編集長」ではない。何しろ、捕虜にはめずらしい日本共産党員というので、他の日本人からも信頼されたが……

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 「日本新聞」をめぐる主導権争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.
赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.

コバレンコ少佐というのは、元タス通信日本特派員として在日八年の日本通で、大場三平のペンネームまでもつモスクワ東洋大学日本科出身である。一説には極東赤軍情報部長といわれ、のち中佐に進級したが、二十四年六月ごろからハバロフスクの日本新聞社から姿を消しており、二十七年十月末強制退去となって日本を去った、タス通信東京支局長エフゲニー・セメノヴィッチ・エゴロフ氏が、コバレンコ中佐だといわれていた。小針氏も、新聞技術者として日本新聞に入ったとみるのが妥当であろう。事実彼の入社後は発刊当時の、新聞とはいえないような稚拙な紙面から、一応は新聞らしい形を整えてきたから。ところがその後「諸戸文夫」のペンネームを持つ、東大政治科卒の浅原正基上等兵が入社してきて、浅原氏の手によって小針氏は粛清され、浅原氏の代となった。前記「真相」によると、

ようやく非難されはじめたころ(註、小針氏が)、満州の特務工作員であった浅原正基がこれまた日本共産党員と称して入社してきた。

これには小針もさすがに泡をくって、浅原に、オレも党員ということになっているからバラさないでくれと、コッソリ頼みこむ始末であった。しかしその売名振りと編集のデタラメさが問題となり、二十一年五月には日本新聞社から追放されたという。

ところが、二十四年になると編集長だった浅原氏は、相川春喜のペンネームをもつ矢浪久雄氏らに、「極左的ダラ幹、英雄主義のメンシヴィキ的偏向」と極めつけられ、さらに「元特務機関員、ハルビン保護院勤務員」という前職まで指弾され、これまた矢浪氏に粛清されてしまった。

小針氏の粛清は『オレは、プチブルだった。大衆の中に入って鍛え直してくる』という立派な言葉を残して、あとは要領よく引揚船にモグリ込んでしまったのだが、浅原氏の粛清は裁判となり、五十八条該当者として二十五年の矯正労働という刑をうけたのだから手厳しい。

それらのメムバーのほか、宗像肇、高山秀夫、吉良金之助氏らがおり、二十四年十月帰還のため出発後は、矢浪氏から作家山田清三郎氏へバトンが渡されて、約一ヶ月、十一月七日付第六五〇号で終刊となり、約四年間にわたる歴史を閉ぢた。この日本新聞グループこそ、シベリヤ民主運動の開花「反ファシスト委員会」のオルグ、「最高ビューロー」のメムバーであり、地方、地区ビューローにもそれぞれ最高オルグが派遣されていたのである。

日本新聞の果したこの「人間変革」における役割は、極めて大きいことは事実である。それではこの「人間変革」はどんな形で行われたであろうかといえば、表面的には「スターリンへの誓い」感謝署名運動がその卒業式であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 〝ナホトカ天皇〟津村謙二とは…

赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 It was Kenji Tsumura, a member of the Japanese Communist Party called “Emperor Nakhodka,” who sent back the reactionary elements to the deep Siberia by the People's Court.
赤い広場ー霞ヶ関 p.118-119 It was Kenji Tsumura, a member of the Japanese Communist Party called “Emperor Nakhodka,” who sent back the reactionary elements to the deep Siberia by the People’s Court.

このような「思想的武装解除」と「思想的再武装」とは、収容所単位の政治講習会、マルクス主義研究会、労働学校、カナ・サークルなどで基礎が与えられ、さらに地区、地方講習会、講師講習会などで高められた。また選抜されてモスクワ東洋大学やチタ青年政治学校、無線学校などの特殊学校で、特殊教育までが施されたのであった。

では果して、この「人間変革」が、盛り上ったものであったか、押しつけられたものであったろうか。その一つの例をみてみよう。

部屋の中にはロープを張りめぐらして、破れかかった色とりどりのオシメが生乾きのままでぶら下っていた。薄汚い四畳半足らずの部屋の中央には、センベイ布団が一枚敷かれて、半年ぐらいの良く肥った可愛いい男の子がスヤスヤ寝入っている。

妻はもう小一時間もの間、黙ったままで私と主人との会話を聞いていた。私は躍り上りそうな胸を静めながら、先程口をつぐんで考えこんでしまった男の顔をみつめて、その喉元まできている次の言葉を待っていた。

しばらくの間沈黙が続いている。男はやがてキッと顔をあげて私を見た。そして、ただ一言呟いてまた下を向いた。

『……要するに私はヒューマニストだったんです。コムミュニストではなかったんです』

男はさきほどから私にとって意外な返事ばかりを答えていたのだが、この言葉もまた全く意外だった。

二十五年三月のある夜、参院引揚委で「徳田要請」問題(日共徳田書記長がソ連側に対して日本人の引揚を遅らせるよう要請したという問題)の審議が行われ、証人として出席した徳田氏が否定して、『モスクワへ行って訊いて来い』とベランメェ調で怒鳴りまくった直後だった。

ここ世田谷のはずれ、千歳烏山の引揚者寮にたずねてきた男は、〝ナホトカ天皇〟とまで威怖され、人民裁判事件(帰還のためナホトカまで送られてきた反動分子を奥地へ逆送した人民裁判という事件)で参院の証人にまで喚問された、ソ連帰還者生活擁護同盟(ソ帰同)委員長で、日共党員津村謙二氏であった。妻は陸軍看護婦でソ連に抑留され、同じナホトカの民主グループに働いていた須藤ケイ子さんである。

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 津村は「徳田要請」は事実と主張

赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.
赤い広場ー霞ヶ関 p.120-121 The Nakhodka Group was purged by the Nihon Shimbun Group.

ソ帰同は二十三年に〝ナホトカ天皇〟こと津村謙二氏らのナホトカ・グループが帰国すると同時に、組織されたもので、その名の通りソ連帰還者の生活擁護を目的としていた。ところが、二十四年十月二十八日に第二回全国大会が開かれ、中共引揚を考えて帰還者戦線の統一が叫ば

れ、「日本帰還者生活擁護同盟」(日帰同)と改称され、日共市民対策部の下部機関で、指導は同部の久留義蔵氏が当っていた。

ところが、これもあくまで一貫した政策からみれば〝前座〟であって、シベリヤ民主運動の経過を見守ってきた日本新聞グループという〝真打〟が、二十四年十一月に帰国するに及んでナホトカ・グループは御用済みになったわけである。

第二回大会で日帰同の組織改正が行われた。つまり最高機関は全国大会で、中央委員会三十名、中執委と常任委各十名によって平常活動が行われ、事務局は組織、文化、財政の三つに分れたのである。そして文化工作隊として、十六地区楽団と沿海州楽劇団を合流させて楽団カチュシャとし、高山秀夫氏をその責任者とした。これは津村一派でしめていた委員長、書記長制の改廃である。

そして二十五年一月には役員の改選が行われ、津村委員長は、①楽団カチュシャの資金は地方の帰還者中の情報担当者に渡すべきなのに本部人件費として十三万円を流用した。②下部組織に対し発展性なし。③逆スパイを党内に放っている。④婦人問題(註、須藤さんの件)を起した、などの理由からついに粛清されるにいたった。津村氏は三月になって委員長の地位から筋書き通りに追われたのであった。

ソ帰同改め日帰同がこのような経過で改組されていったことは承知していたのだが、私はその日この問題に関する、次のような情報を得ていたのであった。

津村追放の表面上の理由は、前にのべたような四点であったが、事実上の理由は、①徳田要請問題に関して否定資料を集めなかったばかりか、肯定資料はあるけど否定資料はない旨の発言を数回にわたって行った。②現在の党批判をソ連代表部員ロザノフ氏(註、二十九年のスケート団監督、ラ氏の帰国命令の監視者)を通じてソ連側へ呈出していたがそれが妥当を欠いていた。③日共幹部袴田里見氏を数々の偏向ありと指摘し、また同氏弟睦夫氏をボスとして批判した、という三点にあった。

そして、そのため袴田氏の命をうけた久留氏が、津村氏らのナホトカ・グループ六名(佐藤五郎、生某、大棚某、陣野敏郎、大石孝氏ら)を三月九日から十三日までの間、産別会館に軟禁して徹底的に吊し上げを行い、ついに党活動停止の処分に付した。

そのかげには日本新間グループの矢浪久雄、高山秀夫、小沢常次郎、山口晢男氏らが、ロザノフ氏と連絡をとっていたというような内容の情報であった。

私はこの情報を受取って驚いた。〝上陸党員〟中では大幹部ともいうべき津村氏が、徳田要請は事実なり、という資料しかないと主張して、五日間にわたる吊し上げののち、党活動停止 の処分を喰ったというのであるから、委員会の徳田証人喚問が大荒れで結論の出しようもないときては、それこそビッグ・ニュースである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 除名になったら…?

赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people's court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.
赤い広場ー霞ヶ関 p.122-123 There was neither the rigor of Agitator Tsumura in the fearful people’s court that led to that death, nor the bluff of the JCP member Tsumura.

津村氏は私の質問を黙ってうなずきながら終りまで聞いていた。その表情は刻々と変化して驚きからついには感嘆となった。

『どうして、一体、それだけの話をどこから聞いたのです?』

彼はこういって、私の質問のすべてを肯定した。事実その通りだというのであった。そして最後に、自嘲にも似た『ヒューマニストだったんです』という言葉が洩れたのだ。

『今の話がそのまま新聞にでたら、どういうことになるでしよう?』

『党活動停止の処分が、除名という最後的処分に変るでしよう……』

彼は私に書くな、書かないでくれとはいわずにそう答えた。そういわない彼がいらだたしくて私はおうむ返しにまた訊ねた。

『除名になったら……』

彼は顔をあげた。その眼は力無く妻へ注がれ、彼女の視線を誘って再び下へ落ちていった。

子供である! 父と母とは、道具らしい道具とてないこの貧しそうな部屋で、それでもビックリするほど肥った健康そうな、吾が子の安らかな寝顔をみつめていた。

『……そしたら、喰えなくなるでしようナ』

彼は視線を少しも動かさずに、切実な響きをこめて、また会話の相手が日共の敵、〝反動読売〟の記者であることも忘れたように答えた。

もはやそこには、あの死に連なる恐怖の人民裁判のアジテーター津村の厳しさも、日共党員津村の虚勢もなく、政治や思想をはなれて純粋に人を感動させる、夫と妻と、父と母と子の愛情だけが漂っていた。

私は立上った。ちょうど同じ位の男の子が私にもいたのだった。小さな声で『サヨナラ』とだけいって私は室外へ出た。まだ冷たい三月の星空を仰ぎながら、私はメモを懐中深くしまった。

数日後の委員会で、私は傍聴席の隅っこに津村氏の姿を見かけた。それが最後だった。やはり彼は日共党員として脱落していったらしい。一労働者として地方へ出ていったとも聞いている。そして同じ小田急線でよく顔を合せては、皮肉やら冗談を言い合っていた久留氏も、地下へ潜ったものか絶えて逢わないでいる。

〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼 ね備えた人物であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 刑事の予言は適中した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 In the background of the disappearance of Rastvorov, there was a camouflaged entry of Anatoly Lozanov senior lieutenant.
赤い広場ー霞ヶ関 p.124-125 In the background of the disappearance of Rastvorov, there was a camouflaged entry of Anatoly Lozanov senior lieutenant.

〝ナホトカ天皇〟はアクチヴィストとしての、理論と実行力と指導力と、さらに品位をも兼ね備えた人物であった。そして、「物質的、精神的富の創造者、全世界平和の戦士たる新しい人間――ソヴェート的人間」(一九四九年五月二十一日付、日本新聞)として、「人間変革」をなしとげた人物であった、はずだ。少くとも、シベリヤのナホトカに於ては……。

二 オイストラッフの暗いかげ 

二十九年一月十二日の夜、羽田空港は世界スケート選手権大会に出場するソ連選手団を迎えて、歓迎陣が湧き立っていた。

そのどよめきの中で一人の若い男が思わず『オヤ?』とつぶやいていた。彼は刑事である。

――確かに見たことのある男だ!

彼はそう思って、大急ぎで本庁に帰って調べてみると、分厚い名簿の中から一枚の写真が出てくる。間違いなくあの男だ。

アナトリ・ロザノフ、三十二才。元代表部政治部顧問という表向きの肩書のほかに、内務省政治部上級中尉という本当の官名。昭和二十六年十二月帰国と記されている。

彼は直ちに上司の主任警部に報告した。警部は驚くと同時に腹を立てた。元代表部員ロザノフが在日間にいかなる行動をとり、いかなる人物であったかは、外務省も法務省入管局も百も承知のはずである。

例の〝ナホトカ天皇〟津村氏のケースでも分る通り、彼は日共を通ずるスパイ線の担当者であったではないか。選手団に入国査証を与えた香港総領事は、ロザノフ氏が役員として入国する旨を当然通報すべきだというのである。

『何かが始まるに違いない!』

報告を終えて出てきた若い刑事は、自信に満ちた予言を、廊下で出会った私に打明けてくれた。そして、その予言は適中した。

それから二週間後、二十八日付の各紙は元ソ連代表部員ラストヴォロフ氏の失踪を報じたのであった。

若い刑事の予言から約一年を経た三十年二月十九日、日ソ貿易商社進展実業がスポンサーとなって、〝奇跡の演奏家〟オイストラッフ氏が招かれて羽田に到着した。

私は例の若い刑事を呼びとめて、笑いながらいってやった。

『どうだい? 今度もまたピンと第六感にくる人物がいたかい?』

『ウム、いたとも! マネージャーと称するカサドキンだよ。彼は収容所付の政治部将校に違いない! そして、また、何かが始まるに違いない!』

彼は再び自信にみちた予言を行った。そしてまた、その予言は適中した。

日ソ国交調整問題である。日本政府がニューヨークを認めたと思いこんでいたところへ、ソ 連側は東京を持出してきた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.126-127 名儀を偽装しているがほとんどが軍人

赤い広場ー霞ヶ関 p.126-127 Kasatkin, who impersonated Oistrakh's manager and entered Japan, conducted spying activities such as repo with Japanese spies and taking out valuable information.
赤い広場ー霞ヶ関 p.126-127 Kasatkin, who impersonated Oistrakh’s manager and entered Japan, conducted spying activities such as repo with Japanese spies and taking out valuable information.

ドムニッキー氏は鳩山首相の招待にも、〝招かれざる客〟でありながら、〝正式代表〟らしく振舞おうとしたりした。この日ソ交渉の変転自在ぶりである。ヴィクトル・カサドキン氏の来日とともに、目立ってきたのは元代表部の合法化活動であった。

当局側の調べによると、カサドキン氏は二十一年ごろ収容所付政治将校として、少尉の階級でバルナウル収容所におり、さらにナホトカへ移った。現在は大尉だと信じられている。そして来日の目的は伝書使であった。

彼はマネージャーという名目で来たが、それらしい仕事はあまりしなかったという。そして当局の係官は数回にわたって、彼をその視野の外に置かざるを得なかった。

彼はシベリヤ引揚者で訪ソ学術調査団関係の世話を焼いている(という穏やかな表現と、そのオルグであるというドギツイ表現と、どちらが適当であるかは別として)男と会見(男と会見というべきかレポというべきか)したことは確認されている。

彼は三月十九日の離日にさいして、元代表部から託された、大きなトランクを携行していった。その内容は映画フィルムであると信じられている。映画といっても、もちろん劇映画ではなく、情報として価値ある実写映画なのである。彼の使命はこれであった。

スポーツといい、音楽といい、国境や、政治やそして思想を越えて、全世界の人類と共通するこの歓びに、どうしてソ連の宿命的〝業〟であるこの秘密警察が、暗い蔭をかざさねばならないのだろうか。ここにわれわれはソ連の秘密機関の徹底した組織と実力と手口とを見ることができるのだ。

カサドキン氏がモスクワから何を東京に伝え、会った日本人と何を話し、東京からモスクワへ何を持っていったか? について、われわれは事実といいきれる何ものもない。しかし、オイストラッフ氏のマネージャーであるカサドキン氏は青肩章の政治部将校であり、捕虜収容所で日本人の「人間変革」に努力した人物であることだけは事実である。

もちろんこの事実と、オイストラッフ氏の芸術そのものとは全く関係のないことであろう。しかし果して〝全く関係ない〟と断言できるだろうか。私は氏もソ連人であるからには、この事実を〝オイストラッフの暗いかげ〟と呼んではばからない。

例えば現在元ソ連代表部には、八人のソ連人が残留している。この首席のドムニッキー氏も本当の肩書は海軍大尉であり、通商代表ではあるが、通産官僚ではなく正規軍人である。八人のうちで本物はチャソフニコフ領事だけが外交官である。 この肩書と人物の関係は複雑で、ラ手記に出てくるシバエフ政治部(内務省)大佐の、外務省への通報名儀は「市民雇員」であったし、運転手、守衛などの名儀の人物は、殆どが内務省将校であった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 日本人スパイとのレポが目的か

赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 International conferences, sports, art are 100% abused for re-entry of former Soviet representatives to Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.128-129 International conferences, sports, art are 100% abused for re-entry of former Soviet representatives to Japan.

占領中はソ連代表部からマッカーサー司令部に対して、〝馬鈴薯二トンと大佐一人〟を東京に運ぶために、ソ連輸送機の東京飛来の許可を求めればよかったが、講和発効後は元代表部となり追立てを喰って、ソ連人の新規正式入国は全く認められなくなった。

二十九年夏には、外務省に対し代表部から『ずっと独身で不自由なサビシイ暮しをしている者が何人もいる。これでは人道問題だから何とか考慮を願いたい』と、家族の入国許可を求めてきたが、外務省では『それではこの機会に本国へお帰りになっては』と断られた(同年十一月三日付朝日)ほどで、あの手この手の合法的日本入国を図り出した。それが国際会議であり、日ソ貿易であり、スポーツであり、芸術であるわけだ。

このソ連人の出入国の様子を眺めてみると、国交のない日ソ間でも相当ひんばんな出入りのあることが分る。代表部員がつぎつぎに帰国してゆくということは、その従来の業務が日本人によって代行されているとみられることである。これはしばしば指摘したようにラ事件の高毛礼被告がコテリニコフ、ポポフ両氏の業務の移管を命ぜられ、四千ドルという大金を預けられたことでも明らかである。まさに地下代表部員である。

ところが在日ソ連人が帰国することは容易だが、入国することは正式には拒否されている。

帰国者が日本に関する報告書やら、資料やらを持帰ることはできるが、新たに資料や指令を持込むことはできない。外交関係のある二国間でさえ、そのために伝書使を送るほどである。

これには国際会議やスポーツ、芸術などが百%利用されている。スケート選手団のロザノフ、水利会議にはマミン(通商官)イワノフ(政治部中佐)といった元代表部員がおり、電力小委にはマミン、アデルハエフと元代表部員二人を送りこみ、このさいには御念が入ったことには、後から来た鉄道小委のメムバーとして二人をスリ替えて、期限ギリギリまで滞日させるというほどであった。さらにオイストラッフのマネージャー、カサドキンなど、当局が確認しただけでも元ソ連代表部員で、帰国後に再入国したものは、全部で十名にも及んでいる。

当局がこれらの新入国者に注目しだしたのは、何といってもラストヴォロフ氏失踪のキッカケとなった、ロザノフ氏のスケート役員としての偽装入国で、それ以後神経をとがらしてみると、前記のように元代表部の部員か、シベリヤの日本人収容所勤務の経歴がある人物が、必らず何らかの名儀で一行に加わっていることを発見したのであった。

これらの人物がオイストラッフ氏における、カサドキン氏のように、伝書使であるか。またはさらに別の任務を持っているのかは分らないが、当局筋では高毛礼被告の自供内容のように′〝地下代表部員〟といった秘密組織との連絡だとみている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 ソ連代表部とは総合スパイ組織

赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative's five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.
赤い広場ー霞ヶ関 p.130-131 The Soviet representative’s five organizations, the Political Department (Ministry of Internal Affairs, MVD), the Secretariat (Red Army), the Culture Department (TASS News Agency), the Trade Representative (Ministry of Trade), and the Consular Department (Ministry of Foreign Affairs) each have a spy network.

ここで、ラストヴォロフ氏の活躍中だったころの、元代表部の組織とその諜報網の実状をみよう。この組織がそれぞれにスパイ網を持っており、政治部(内務省)、書記室(赤軍)、文化部(タス通信)、通商代表部(貿易省)、領事部(外務省)の五系統がある。これらのスパイ網の最高責任者は各部首席が担当しているが、主に内務省はラストヴォロフ、貿易省はサザノフ(註ラ氏の失踪目撃者)両氏が担当している。

さらにこのほか代表部自体のものとしてのスパイ線があり、①日共およびシンパ団体、②ソ連居留民(各国籍白系露人、無国籍人、ユダヤ系米国籍人を含む)、③商社(米系、日系など各国系)、④ソ連引揚者(三橋事件などのいわゆる幻兵団)、⑤パブリチェフ代表直轄線の五線である。ラ氏はこの第五番目を担当している直接責任者であり、しかも政治部員としての政治謀略ではヤミ、ニセドルによる経済惑乱と日ソ貿易とを担当していたとみられている。

このうち①の「日共およびシンパ団体」については、前述した津村氏、ロザノフ氏のルートなどでも明らかだが、次のように日共の組織を通じてモスクワ放送のことなどまで、調べていた事実もある。

緊急依賴、M放送について

(一)今度変更された波長で聞えるかどうか。(二)聴取者の階層はどんなものか。(三)階層によって高価、安価と買う機械が違っているはずだが、M放送を聞取る事の出来る最も安い機械は何型何球なのか(各地区毎の差)。(四)放送の内容が判るかどうか。1言葉は使いよいか。2直訳的ではないか、日本人向きの内容か否か。3どういう内容を希望するか。以上について至急報告せられたい。(日共指令文書写)

②の「ソ連居留民」については、文京区駒込上富士前町四四「在日ソ連人居留民団」がその本拠である。ここには居留民団の事務所と娯楽機関の「ソ連人クラブ」とがある。

二十八年十二月九日赤羽の北鮮系アジト平和寮手入れのさい発見された保安隊軍事フィルム事件なども、同寮居住のソ連国籍人コンスタンチン・ザカロフが居留民団のアクチヴであり、その母マリア(父は元代表部通訳の日本人)もクラブ機関紙の編集員だっただけに、当局ではその間の経緯をしきりに追及したほどだった。

③の「商社」については、日ソ貿易商社も利用されているだろうが外国商社の方が面白い。これは〝東京租界〟そのものであるので、②のユダヤ系米国籍人や、ユダヤ人クラブ、さらにソ連系に対抗する白露同盟などとともに、続刊に詳述しよう。

④の「幻兵団」についてはすでに詳述した通りであり、⑤の「パブリチェフ直轄線」とはラ氏の線でもあるが、一言にしていえば内務省と赤軍の線である。

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 赤軍の線はまだ潜在化している

赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.132-133 Investigator officials leaked, “We are no longer interested in MVD(Ministry of Internal Affairs) spies. Now we are investigating the actual situation of the 4th section of the Red Army”.

代表部の組織自体がそれぞれにスパイ網を持っているが、それはそれぞれにダブっているこ

ともあり、内務省と赤軍の線とを除いてはいずれも比較的弱い。すると、何といっても中心になるのはこの二つの線であるが、ここに注目されなければならないのは、ラ事件をはじめとして幻兵団などでも、現在までに顕在化されたのはいずれも内務省系統の事件ばかりであるということである。

ラ事件捜査当局の某幹部は『われわれが問題とするのはもはや内務省系スパイではない。いまや赤軍第四課系スパイ線の実態究明にある』と、洩らしたといわれているが、まったくその通りであろう。

私がここに収録した幻兵団の実例の幾つかが、いずれも内務省系ばかりである。日本人収容所のうち、赤軍直轄の収容所があったことはすでに述べたが、これらの赤軍労働大隊でスパイ誓約をした引揚者で、当局にチェックされた人名はまだそう多くない。

NYKビルがフェーズⅡで最終的にチェックした人名は一万名といわれている。この中には私のように誓約はしたが、連絡のない半端人足は含まれているかいないかは知り得ないが、連絡のあった者だけとすれば大変な数である。

またラ氏はワシントンに於て米当局に対して、『ソ連代表部が使用していたソ連引揚者のスパイは約二百五十名である』と述べたといわれる。幻兵団や元駐ソ大使館グループ、または高

毛礼氏のように、さらにまた、東京外語大の石山正三氏のように在ソ経歴を持たなくとも、ラ氏にコネクションをつけられたものもいる。

そしてまた、コテリニコフ・ポポフ――高毛礼ラインの手先とみられる、銀座某ビヤホール経営者の白系露人のように、〝地下代表部員〟の間接的スパイもいる。

従ってソ連スパイ網に躍る人物は、本人が意識するとしないとに拘らず(例えば前記石山教授などは、志位元少佐がソ連兵学の研究のため、赤軍参謀本部関係の第二次大戦資料などを、ラ氏を通じて得ていたように、ソ連文献入手のため知らずにラ氏に利用されていたにすぎないといわれている)相当な数と種類とに上っていることは事実である。

だが、赤軍の線は捜査の手がそこまで伸びているのにまだ潜在化している。前記ビヤホールの白系露人などは、数年前から要注意人物としてマークされていながら、どの系統なのか全く分らず捜査が一頓坐していたもので、今度の高毛礼ケースから明らかになったものであった。

当局ではいまさらのように巧妙なその組織に驚いており、過去九年間における延数百名にも及ぶ在日ソ連代表部員の都内行動記録を再検討している。これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 女は細川直知に五千円を差し出した。

赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. "If you refuse the job request..." the woman said, and showed a small Colt pistol.
赤い広場ー霞ヶ関 p.134-135 Former Lieutenant Colonel Naonori Hosokawa (Baron) in Elabuga POW Camp was contacted by a mysterious woman. “If you refuse the job request…” the woman said, and showed a small Colt pistol.

これは他の〝地下代表部員〟の摘発であると同時に、捜査は元在日総領事、中共軍政治顧問の経歴をもちながら「雇員」の資格だったシバエフ政治部大佐以下、「経済官」のポポフ同少佐、「運転手」のグリシーノフ同大尉

らの内務省系から、ザメンチョーフ赤軍少佐らの線へとのびていることである。

一例をあげよう。第三軍中佐参謀だった細川直知元侯爵は二十五年一月エラブカ、ハバロフスク経由で引揚げてきた人である。氏はスパイ誓約書に署名をしなかったので、いわゆる幻兵団には入らないが、エラブカではクロイツェル女中尉にしばしば呼ばれ、また〝モスクワから来た中佐〟にも呼ばれていた。

帰国後のある日、同氏は、NYKビルに呼ばれて取調をうけた帰途、ブラブラ歩きで日比谷の三信ビルの角までやってきた。そこへ二十五才位、小柄で色白、可愛いい型の黒ずくめの服装の女が寄ってきた。彼女は歯切れのよい日本語で話しかけたので、日本人らしかったが、ともかく東洋人であることは間違いなかった。

『あなたはエラブカの細川中佐ですネ』

『そうです』

『一寸お話したいことがあるのですが、そこらまで付合って頂けませんでしようか』

『宜しいでしよう』

誓約をしなかった同氏は、もちろん合言葉も与えられなかったし、相手が割に美人でもあったので、何の懸念もなく気軽に応じた。二人は三信ビルの裏を廻って、日比谷映画劇場と有楽座の前にあった日東紅茶のサービスセンター(のちにCIE図書館となった)に入って一休みしながら話し合った。

彼女は品もあり、話し方も淑やかだった。

『私はあなたに仕事をお願いしたいのですが、如何でしようか』

といいながら、小型の女名刺を差し出した。それには「山田葦子」(特に仮名)とあった。細川氏は不審気に反問した。

『ヤブから棒に一体どんな仕事なのです』

『それはやって頂いているうちに分りますわ。もし、お願いできるんでしたら……』

彼女はそういいながら百円札を五十枚、五千円をソッと差出した。細川氏は意外な彼女の態度に驚きながら返事もできずにいると、彼女はキッと形を正して、低く鋭い声でいった。

『どうしても協力して頂けないのなら……』

彼女は終りまではいわずに、あとは黙って膝の上のハンドバッグを開けると細川氏にその中身を示した。

黒い小型のコルト拳銃が一丁、その持主の美しさにも似ず鈍く輝いていた。細川氏はうなずいた。彼女は納得して『では、次の連絡は私の方からとります』と告げて、その日の二人の出

会いは終った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 高良とみにまつわる「高良資金」とは

赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.
赤い広場ー霞ヶ関 p.136-137 The security authorities were working hard to back up the information about member of the House of councilors, Madame Tomi Kora, called “Kora fund”.

細川氏の手許には五千円の現金と一枚の名刺が残されていた。そして、これが〝ナゾの女〟の唯一の手がかりであった。他にも池上(特に仮名)という女性から手紙がきて、未帰還の息子のことで、ソ連代表部のロザノフ氏をたずねなさいといわれた留守家族もある。そして当局筋では、このような不思議なケースが、赤軍第四課の線を解明する一つのカギではないかともみている。

いずれにせよ、赤軍系の日本国内におけるスパイ網は、まだその全貌を秘めたままでいる。次に東京で起きるスパイ事件は果して内務省系であるか、また赤軍系がその片鱗をのぞかせるような事件であろうか。

三 「高良資金」とナゾの秘書

ソ連の対日政策は常に一貫して流れているということで、これを三つの段階に分けてみたのは第一集の通りである。即ち、第一期は終戦後のソ連代表部設置から二十六年六月三十日、共同記者の単独会見までで基礎工作の段階、第二期は二十七年四月二十八日講和発効まで工作具体化の段階、第三期が三十年一月二十五日鳩山・ドムニッキー会談まで仕上げの段階であった。そして現在は第四期で収獲の時期である。

この段階によってみてみると、第一期にあげられるのはソ連引揚である。一見大まかに見え

ながらも、緻密な計画と周到な準備と、さらに徹底した教育とによって、百万日本人の引揚が継続的に行われたことである。

第二期といえば対日講和必至とみて、これら第一期工作の根拠地であった麻布のソ連代表部の退去を予想した、秘密地下拠点設置を急いだ具体化の時期である。この間にスパイ線の整理として、再確認と新採用とが行われて、政治経済情報と日米間の基礎資料とが主として集められた。そうして仕上げの第三期に入ってゆく。

そんな時期のころ、治安当局では「高良資金」という、参院議員高良とみ女史に関する情報の裏付捜査を懸命に行っていた。これは日共をはじめとする左翼系各団体の国外資金流入の捜査にまつわって出てきたもので、その中心人物が二十七年春のモスクワ経済会議の際における入ソ第一号、二十八年春の中共引揚使節団代表の旅券問題などで、「外事特高」関係当局に疑惑の眼でみられていた高良とみ女史だけに当局は緊張した。

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切 手〟といわれている。

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 「高良資金」はSCIを通じて現金化?

赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women's Organizations) as “Kora fund”?
赤い広場ー霞ヶ関 p.138-139 Did money from the Soviet Union or the Chinese Communist Party flow to the FUDANREN(Japan Federation of Women’s Organizations) as “Kora fund”?

調べによると「高良資金」とは、二十八年六月五日からデンマークのコペンハーゲンで開かれた第一回世界婦人会議に、随員として出席した高良とみ女史令嬢真木さん(二五)と、女史の秘書柏木敦子さん(二七)両女が、同会議終了後代表団を解散してから、個人の資格でソ連中共に入り、さきごろパリに帰ってきたさい、真木さんが携行してきたもので、〝莫大な小切

手〟といわれている。

その後柏木さんは真木さんと別れてロンドンに行き、真木さんは依然パリに滞在してこの小切手の日本送金、もしくは現金化に苦慮していたという。

一方、①当局が入手した日共秘密文書「組織者」(二十八年十一月十八日付)号外に十二月五、六、七の三日間東京芝公会堂で開かれる、日本婦人大会についての極秘指令が出されており、

②また同大会の主唱者である婦団連(婦人団体連合会)の活動が、十二月以降活溌化しているが、その資金は十一月はじめには殆どなかった事実、

③高良女史が旅券問題でもめながらも強引に代表団に加って中共入りしたさい、このコペンハーゲンの世界婦人会議の招待状を受取って帰り、自分の代理として、息女と秘書を随員に加えて入ソさせた点、

④女史自身が日本婦人大会に関係していることなどから、或いはすでに同資金は日本へ送られ、婦団連に流れているのではないかともみられている。

この資金の出所については、大山郁夫氏の第二回国際平和スターリン賞(十万ルーブル、邦価換算九百万円)ではないかとの説もあったが、当局では高良女史の流暢な英会話という技術と、

クエーカー教徒という看板とで、数次の共産圏旅行に話をつけて獲得した別口の「高良資金」であり、女史の国際的利用価値からこの金が出されたものとみている。

当局がこの資金を注目するにいたった端緒は、ユネスコ内にあるSCI(国際建設奉仕団)派遣員某氏から同日本支部へあてた報告からであったという。SCIというのは、高良女史にまつわってしばしば登場するので一言説明しておこう。これは国際建設奉仕団の略称で、第一次大戦後フランスで戦災をうけた村落復興のため、スイスの哲学者ピエール・セレゾールの提唱で、国境を越えた労力奉仕が行われてから組織化され、治山、治水、道路、住宅建設などを行っている。〝ツルハシとシャベルで人の心に平和を植える〟をスローガンに、日本では、緑十字運動、学生キャンプ、学校植林運動などを行う平和団体である。

さてその連絡の内容は、「(前略)SCIに関しても高良さんは良く理解しておられぬことと存じます。現在まで如何に皆々様はじめ私は苦しめられたか、現在も真木さんに関する小切手を現金にするためラルフ氏(註、SCI本部職員)に頼み、SCIの名をもってするといった方法です。この小切手(大きな金額)に関し、ラルフ氏は何処より出たものか実に不明のものと申し、個人ではとても銀行では注意して金を出さないようです。故に、はっきり取扱わないと申しております。(後略)」とあったもので、高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利 用したものだったらしい。

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 「高良資金」はわずか三十七万円。娘の生活費?

赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler's check to her daughter Maki in Paris.
赤い広場ー霞ヶ関 p.140-141 Tomi Kora explained that she had just sent the balance of her overseas trip as a traveler’s check to her daughter Maki in Paris.

高良女史の海外旅行はすべてこのSCIを利

用したものだったらしい。真木さんもSCIを利用しており、手紙は高良母娘の度重なるSCIの政治的利用に対し、同本部の激しい不信の意を伝えているという。

このような経緯で、当局ではこの高良資金が、すでに日本に持込まれているかどうかに深い関心を持っていた。日本へ海外からの送金は容易であり、しかも外国銀行はこれを日銀に報告すべき義務を課せられておりながら、多くの場合その義務を守らないため、その実態をつかみにくいというのが実状であり、もちろんこれが〝東京租界〟のガンの一つでもあるのだ。

 そこで当局では現金か宝石、貴金属にして携行すれば、現在の税関検査ではなかなか発見しにくいので、真木さんの帰国のさいは令状をとって身体捜検でも行うという強い意向で、外国為替管理法、政治資金規整法違反として捜査するという方針までが樹てられた。

 ところが高良女史は少しもあわてず「高良資金」と称される〝大きな金額の小切手〟について、こう釈明した。

『それは私が海外旅行に使った費用の残り三百七十ポンド(邦価約三十七万円)で、香港の銀行に私名儀であずけておいたものなのです。小切手というのはトラベラーズ・チェックで発行人は私名儀です。真木が身体を悪くして生活費にも困っているというので、送ってやりました。しかしスターリング・ポンドなので、パリで現金化することはむづかしいのでアチコチ頼んで

歩いたのでしよう』

この答には一点非の打ち処がなかった。しかし、私の主観であるが、この答弁には何か〝準備された答弁〟という、後味の悪い印象が残るのを感じさせられたのだった。女史の答弁の裏付けをとるためには、香港とパリとで調べなければならない。

外国を、ことにヨーロッパからアジヤにかけて歩き廻るような旅行者にとって、たとえそれが四等貧乏国の日本人で、しかもうら若い女性であっても、三十七万円という金額は〝大きな額〟だろうか。しかも、『個人ではとても銀行で注意』するような高額なのであろうか。

在パリのSCI本部の日本派遣員の手紙は、しかもSCI本部職員の言として、その小切手が高額であることを伝えている。しかし高良女史は『僅か三十七万円』という。

果していずれが真実であろうか。私は当局を出し抜いて高良女史に当ってみて、黙って引退って諦めたように、その後の当局は全くこの問題に関して動いていない。当局も女史の三十七万説の前に、私同様黙って引退ってしまったのだろうか。

私の取材が香港、パリへ伸ばさざるを得ないのと同様に、当局の手も香港、パリへ伸びざるを得ない、ということは捜査の打ち切りを意味する。ここに四等国日本の悲哀があるのだ。

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密 貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 高良とみのナゾの秘書、松山繁

赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?
赤い広場ー霞ヶ関 p.142-143 When Tomi Kora attended the Moscow Economic Conference, a mysterious secretary Shigeru Matsuyama (real name: Michitaro Murakami) accompanied her. Who is he?

戦後の国際犯罪は思想的、政治的背景をおびて、その規模もいよいよ大きくなり、密航、密

貿、脱税、ヤミドル、賭博、麻薬、売春という〝七つの大罪〟が〝東京租界〟を形造った。国際犯罪はいくら日本国内だけで捜査し検挙しても、決してその根を抜き源をふさぐことはできない。

こうして「高良資金」にはじめは異状な緊張をみせた当局も、香港、パリと舞台が移るに及んで、ついに投げださざるを得なかったようである。

だが、高良女史に関する〝資金〟の情報はまだある。二十七年春、モスクワ経済会議へ出席したときの旅行の費用についてである。時間的経過からいえば、この時の方が先なのであるが、「高良資金」の話の方が、高良女史―SCI—海外(共産圏)旅行―金―高良女史という環状の関係が明らかになるので、話を前後させたのである。

この〝環〟はグルグルと廻っている。廻っているからには中心がなければならない。では、中心とは誰であるか?

村上道太郎という青年である。第一集で述べた通り『高良とみというクエーカー教徒の、人間の善意しか理解できぬような〝善人〟がモスクワ経済会議へ乗込んできた。これはまさにソ連にとってカモネギであった』と、世の〝善人〟たちは思い込んだに違いない。だが、ソ連の時間表は正確である。

村上道太郎という青年の名を記憶している人はあまり多くない。しかし、高良とみ女史のナゾの秘書松山繁氏を覚えている人はいるだろう。松山繁は村上氏のペンネームなのである。

二十七年四月五日、ヘルシンキからモスクワ入りして、戦後訪ソ第一号となった高良女史は経済会議ののちにシベリヤ、北京などを訪問した。その間、日本人墓地の参拝、戦犯への文通送金の自由の報道、日中貿易協定の調印、婦人の反戦の放送など、数々の話題をまき起して七月十五日単身帰国、熱狂的歓迎をうけるとともにジャーナリズムの花形となった。まさに得意の絶頂であった。

ところが、その得意の絶頂の歓喜の中で、時たま女史を襲う不安、寂寥、懐疑、恐怖などといった「不愉快な感情」があり、女史はそれに悩まされなければならなかったはずである。これは私が女史に会って、その秘書村上氏のことに触れたとき、端的に表現された感情と言葉とから、私が判断したことである。それほど、村上氏について訊ねられることを嫌っていたのだが、得意の絶頂を与えたソ連旅行と村上氏とは、切っても切れない関係だから、ソ連旅行の想い出は同時に村上氏への想い出だからである。だが、その〝傷口〟にさわられる時はついに来た。意地悪な治安当局の情報分析者(アナリスト)がフト抱いた単純な疑問が端緒であった。彼は女史関係の資料の整理をしているうちに、外電の伝えた「同行の秘書松山繁」なる人物が、いつの間にか 消えてしまったことに気付いたのである。