月別アーカイブ: 2019年8月

p67下 わが名は「悪徳記者」 社を退職すべきだと判断した

p67下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。
p67下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。

記事以前の取材活動のやり方は、記者個人によってそれぞれ違うが、取材経過が刑事事件になったとすれば、あくまで記者自身の責任で、社会部次長や部長、局長には全く何の責任もない。そこで、私は責任をとって社を退職すべきことだと判断した。もしこれが、一個人の私情や金の誘惑があったとすれば、新聞記者の本質的問題だから、クビになるのが当然だが、私にはそれがないから退職しようと決心した。

私はすぐ社を出て、塚原さんを訪ねた。「貴方は何の関係もない方なのに、事件の渦中に引きずりこんで申し訳ない。明朝、警視庁へ出頭して、私に頼まれたと事情を説明して下さい。なまじウソをいうとかえって疑われるから……」と、事情を話して、お詫びと私への信頼を謝したのち、私は萩原記者の自宅へ行って、説明しておき、帰宅して辞表を書いた。

二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。部長は大いに心配して下さり、逮捕されることなく当局の調べをうけられれば、社をやめることもないではないかと、刑事部長に折衝して下さったが、私はこれを固辞して、退社し被疑者として逮捕されるべきだと主張した。私には、暴力団との取引を排除して、正攻法で捜査するという、当局の態度がよく判っていたので、私も逮捕されるべきだと思った。それがこの事件に対する当局の態度として正しいし、当然なことだからである。私も刑事部長と捜査二課長に、「取材以外の何ものでもない。だから何時でも逮捕されるなら、出頭するから呼んでほしい」と、自宅の電話番号まで知らせた。

p68上 わが名は「悪徳記者」 退社して逮捕されることを望んだ

p68上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。
p68上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。

「取材以外の何ものでもない。だから何時でも逮捕されるなら、出頭するから呼んでほしい」と、自宅の電話番号まで知らせた。社会部の先輩や社の幹部からも、「取材だから止めることはない」と、私を思って下さるお言葉を頂いたが、小笠原に「自首ではなく逮捕だぞ」と念を押した信念から、私自身の違法行為の責任を明らかにするため、退社して逮捕されることを望んだのであった。社へ迷惑をかけないためである。「苦しい〝元〟記者」との批判もあったが、このような事情である。〝勝てば官軍、敗ければ賊軍〟とは名言であった。

こうして、二十二日正午までに出頭を要求されたが、私が二十日に書いた辞表は二十二日午前、高橋副社長、務台総務局長、小島編集局長の持廻り重役会で受理された。社で私につけてくれた中村弁護士との打合せをすませ、重役たちに退社の挨拶をしようとしたが、務台重役以外は不在だった。務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私はそれでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。記者としての私を理解して頂けたからである。

万年取材記者

私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん〝日本一の記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。もし、それでも逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。 七月の四日すぎ、多分、七日の月曜日であったろうか、警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。

p68下 わが名は「悪徳記者」 読売社会部の弱体化

p68下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 『イヤ、社会面は事件だというオレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが「古い」ンだって?
p68下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 『イヤ、社会面は事件だというオレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが「古い」ンだって?

二人で日比谷公園にまでお茶をのみに出かけた。

『オイ、岸首相が総監を呼びつけたという大ニュースが、どうしてウチにはのらなかったのだい。まさか政治部まかせじゃあるまい」

と、私はきいた。

『ウン、原稿は出したのだが、それが削られているンだ。実際ニュース・センスを疑うな。削った奴の……』

彼は渋い顔をして答えた。

『どうしてウチは事件の記事がのらねエンだろう。実際、立松事件の影響は凄いよ』

『イヤ、社会面は事件だというオレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』

『エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や科学部の出店でいいというのか?』

私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが「古い」ンだって?

立松事件の、責任者処分で、読売社会部は全く一変した。私のように入社第一日目以来の社会部生え抜きには、一変というより「弱体化」であった。社会部長が社会部出身でなくとも、それが即ち「弱体」だとは思われない。部長は統轄者だからである。

適切な補佐役さえいれば充分である。金久保部長は、事実、社会部を知らないけど、意欲的な部長だった。就任と同時に、部員を知るために、各クラブ単位で膝つき合わせての懇談が始まった。司法クラブでは、無罪になる裁判が多いことが話題になるや、

p69上 わが名は「悪徳記者」 数カ月の労作が読まれもせずボツに

p69上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉毀損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。
p69上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉毀損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。

部長はいい出した。『裁判という続きものをやろうじゃないか』 私以下三人の記者は頭を抱えた。「裁判」を社会面の続きもの記事にとりあげようというのだから、その意気たるや壮である。そして、その心構えになりかけたころ、この企画は消えさった。理由はしらないが、果して、誰がこれを指導するのか、ということかもしれない。

坂内レインボー社長が釈放された。私の部下二人は〝政党検察〟に切歯扼腕して、これはどうしても解説を書かねばと主張した。本社へ連絡すると、「是非頼む」という。二人はこの数ヵ月の夜討ち、朝駆けの成果を、会社の立場も考慮した慎重な労作にまとめた。夜の十時ごろ、原稿を出すと、その労作は読まれもせずボツになった。二人の記者がどんなに怒ったか、その人は知るまい。

「東京地裁では……」その原稿を送ると「これは一審か二審か」の問合せがくる。武蔵野の巡査殺し犯人の二審判決が、一審の無期を支持すると、各社はベタ記事なのにウチはトップになる。ヴァリューが判断できない。これでは「裁判」という画期的な企画が消えるのも無理はないのである。

かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、『名誉棄損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ』とだけ命じた。指導の辻本次長はいった。『奴らはいろいろと政治的な手を打って、社の幹部に働きかけてくるから、記事をツブされないように、本人に会見するのは締切の二時間前にしろよ』これほど取材記者の感激する言葉があるだろうか。

私たち記者だって、会社には営業面の問題があることも知っている。その点と取材との調和も判る。だから、千葉銀事件などの微妙さも理解できる。

p69下 わが名は「悪徳記者」 私のすべてが読売のものだと信じていた

p69下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「東京租界」では一千万ドルの損害賠償、慰藉料請求が弁護士から要求され、文書では回答期限を指定してきた。辻本次長は、『面白い、その裁判が凄いニュースだし、継続的特ダネになる』とよろこんだ。
p69下 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 「東京租界」では一千万ドルの損害賠償、慰藉料請求が弁護士から要求され、文書では回答期限を指定してきた。辻本次長は、『面白い、その裁判が凄いニュースだし、継続的特ダネになる』とよろこんだ。
p70上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 危険を冒したりして会社に迷惑を与えず、企業としての合理的かつ安全な、その上幹部のためにのみなる社員――これを「新聞」という企業が要求するような時代に変っているのではあるまいか。 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界
p70上 わが名は「悪徳記者」―事件記者と犯罪の間―三田和夫 1958 危険を冒したりして会社に迷惑を与えず、企業としての合理的かつ安全な、その上幹部のためにのみなる社員――これを「新聞」という企業が要求するような時代に変っているのではあるまいか。 初出:文芸春秋昭和33年10月号/再録:筑摩書房・現代教養全集第5巻マス・コミの世界

「東京租界」では一千万ドルの損害賠償、慰藉料請求が弁護士から要求され、文書では回答期限を指定してきた。それと聞いた辻本次長は、『面白い、その裁判が凄いニュースだし、継続的特ダネになる』とよろこんだ。

それなのに、千葉銀と聞いただけで、原稿は読まれもしない時代に変っている。書くことを命令したあげくの果てに!

私は、私のすべてが読売のものだと信じていただけに、取材費も遠慮なく切った。たとえ、それがそのまま飲み屋の支払いにあてられる時も、「会社の為になる」という信念があったからだ。

ニュース・ソースの培養は、何も事件のない時が大切だからだ。部長の承認印をもらう時、伝票の金額を横眼で読み取る先輩。後輩の名をかりて伝票を切る記者。出張の多い同僚をウラヤましがる男。ETC。これが一体、「新聞記者」だろうか。

「新聞記者」の採用試験には、やはり花形職業として人気が集中されている。だが、採用される今の記者には、記者の職業的使命感など、全くない。

取材費を切るためには、やはり名目がなければならないし、それだけ余分に働かねばならない。その位なら一層のこと、取材費も切らず、仕事もせず、サラリーだけのお勤めをして、そのうちにはトコロ天式にエラクなろうという、本当のサラリーマン記者がほとんどである。

今、こうして、失敗して退職する結果になってみると、私には萩原君の「もしかすると、もうオレたちの方が古いのではないか」という呟きが想い起される。会社の金をできるだけ使わずに、サラリーだけ働き、危険を冒したりして会社に迷惑を与えず、企業としての合理的かつ安全な、その上幹部のためにのみなる社員――これを「新聞」という企業が要求するような時代に変っているのではあるまいか。

(「文芸春秋」三十三年十月号)

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 眼下の路地で口笛が鳴った

赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. "Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)"
赤い広場ー霞ヶ関 p.092-093 A man appeared, killed his voice and said coldly. “Совершаете самоубийством!(Commit suicide!)”

ユーリは、はじめのうちには二、三人のソ連人と一緒にやって来たが、一年目頃からは、一人で車を飛ばして、連絡場所にやって来るようになった。

東京における、彼らソ連人の行動は、私にとってなかなか興味深いものであった。(中略)

二月三日の夕暮れどき、当時すでに幡ヶ谷のアパートに転居していた私は、二階の自室で節分の豆撤きしながら、何気なく窓を開けると、眼下の路地で口笛の鳴ったのを聞いた。

ピューッというソ連人独得のあの鋭い口笛だった。誰か連絡に来たのかも知れない、と咄嵯に考えて、私はオーバーを着込んで外へ出た。口笛のした方向に二、三間注意深く歩いて行くと、電柱の陰から一人の男が現われて、私に触れんばかりに近寄り、声を殺して冷たくいった。

『サヴェルシーチェ・サマウビーストヴォ!(自殺しろ)』

その男はそれだけいうと、そのまま甲州街道のほうに去ってしまった。

私はその瞬間、恐怖にとらわれて全身を硬ばらせた。が、その次には無性に癪にさわって、怒りの感情がこみ上ってくるのを覚えた。(中略)

二月四日の夜は都内の旅館に泊った。そして私の考えた結論、それは『私の運命を決めてゆくのはこの私自身だ』という平凡なことであった。五日の朝、私は東京警視庁の石段を登っていった。私の「独相撲」には終止符が打たれたのである。

この手記のうち間題となるのは、〝自殺せよ〟とささやいた男の件りである。ラ氏が失踪してからのち、彼の協力者であった志位氏のもとに、果して誰が何の目的で〝自殺せよ〟とささやく必要があるのであろうか。

抹殺する必要があるなら、ささやくよりも黙って殺すであろうし、脅かせば敵陣営内に逃げこむことは、その後の事実の通り明らかである。志位氏は私のこの疑間に対しても、『自分自身も何のため、このようにささやかれたか分らない』と答えて、その場の状況を、手記の通りに繰返すばかりであった。

捜査当局では、志位氏の供述によって、この〝ささやいた男〟を捜査した。志位氏は、この手記では「一人の男」とのみ書いているが、週刊読売には「一人の見知らぬ男―多分東洋人であったろう―」と書いているし、当局への供述では『最初のレポのジープの運転手だったような気もする』といっている。 そこで、当局では元ソ連代表部に関係のある人物すべてを網羅した、然るべきアルバムをみせて、一人一人の〝面通し〟をしたところ、『これではないか』と、彼が記憶を頼りに指摘した数人の人物は、いずれも当時は日本にいない人物だった。その結果、当局では志位氏の記憶が不正確なのか、或は故意に適当な人物の写真を示したのか、というようなアイマイな結論を出したが、当局もまたこの部分の信ぴょう性について、深い疑問を抱いたままでいる。

赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 都倉栄二はどちらか?

赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.
赤い広場ー霞ヶ関 p.094-095 The most trusted one was Shii, and the most distrusted was Yoshino.

志位氏の協力的な供述が、スパイ事件をはじめて取扱った当局係官の、教養資料として役立ったことは大変なものだった。また志位氏の人物にホレこんだ係官たちが、同氏の存在を全く厳秘にしており、二十九年八月十四日、第二次発表の日に読売がスクープするまで、同氏のことは殆ど外部には洩れなかったほどであった。これも志位氏の真面目で研究的な、人間的魅力の賜物であろう。私も志位氏と親しく話してみて、係官たちの同氏への好意が、単なる〝協力者への好意〟だけではないと感じさせられたのである。

「山本調書」の一頁に次のようなラ氏供述があるといわれている。

私の何名かの協力者のうちで、一番信頼できたのは志位であり、一番駄目だったのは吉野です。ラ氏の自分の協力者へのこの感想と、その後の二人の行動――信頼された志位氏は進んで当局に協力し、信じられなかった吉野氏はあくまで否認する――との喰ひ違いは、私にもう一つの、全く同じような例を想い出させるのである。

すなわち、ラストヴォロフの山本課長への告白では、同じようにより多く信頼し、有能だと認めた日暮氏が、進んで当局の協力者となり、事件の全ぼうを告げたのに対し、ラストヴォロフがそれほどには評価せず、信頼度も低かったような庄司氏が、あくまで否認し黙秘して、当局への非協力者となっていることである。

志位対吉野の関係はそのまま日暮対庄司の関係である。つまりラ氏が信頼していたと告白する彼の協力者は、事実上彼の信頼を裏切って彼の非協力者になっており、ラ氏が認めるほどではないと称する彼の非協力者こそ、彼の評価を裏切ってその協力者になっているという事実である。

ここで私は再び読者に対して、恐ろしいことではあるが、全く同様なケースをもう一つ想い出させられることを告げねばならない。

「山本調書」を繰って読み進んでゆくと、都倉栄二という名前が出てくる。昭和十一年東京外語ロシヤ語科卒業の外務事務官、古い東外のロシヤ会会員名簿では外務省管理局引揚課となっているが、現在では欧米第六課(旧第五課、ロシヤ課である)員で、しかも現在進行中の日ソ交渉全権団の随員として、三十年五月二十六日に羽田を発って、交渉地ロンドンへ渡っている人物である。

都倉氏もまたラストヴォロフと接触していた人物の一人である。さきにラ氏の手記に「新日本会を組織した五人の大使館員」とあることを述べたが、そのさいにこの「新日本会」という会名も、「五人」という人数も、また「大使館員」という身分も、いずれも必ずしも事実ではないということを述べておいた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 山本調書に都倉栄二の名も

赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?
赤い広場ー霞ヶ関 p.096-097 Rastvorov did not evaluate Eiji Tokura at all. why?

ことほどさように、一度でもソ連の地を踏んだことのある外交官、記者、会社員などで、ソ連に対する忠誠を誓わせられなかったということは、極めてまれなことなのである。

全権団随員という、栄えある立場にある都倉氏に対しては、誠に申訳ない限りであるが、同氏もまたその例外ではなかったのであろう。ともかくラストヴォロフの供述として「山本調書」に氏の姓名が記されていることは、事実なのであるから。

つまり、私が志位対吉野の関係で、日暮対庄司を想い浮べ、また都倉氏を想い出したというのは、同氏に関するラストヴォロフの告白が、同氏を全く評価していないからであるのだ。

ラ氏によれば、彼は東京で都倉氏に連絡をつけたのだったが、都倉氏は全くこれに応じなかったというのである。これは日暮氏が反共理論家として有名な存在であったのと同様に、省内外に聞こえた〝右翼〟である都倉氏にとって、極めて有利なラストヴォロフの供述である。

もちろん、ラ氏が都倉氏を評価しなかったという供述があったればこそ、外務省当局もまた、氏を、全権団随員の一人に加えたのでもあろう。これは、都倉氏にとって名誉なことである。また、練達の外交官であり、一つの科学にさえなっているソ連秘密機関の誘惑術をも、敢然と拒み通した同氏が、多難の日ソ交渉に力をいたすことに大いに、期待するものである。

ある治安当局の一幹部はラストヴォロフ・スパイ事件捜査の経過を顧みながら、こう述懐していた。

『捜査の基礎となったものは彼の供述(註、山本調書)であるが、全般的な捜査の経過と結果とから考えてみると、どうも氏はすべてを告白していないという気がしてならない』

モスクワに残してきた妻子の安全を願うが故に、「彼(註、ラ氏)の指摘するところによれば、ソ連内務省が彼の的確な所在ないし、地位について疑問を抱いている限り、彼らは恐らく、彼の八才になる娘に対して、残酷な行動に出ることはないであろう、とのことでありました」(米大使書簡)「なかんずく同人の自発的離脱がソ連内務省に確知された場合、同人の家族に危害の及ぶことを恐れ、可能な限り単なる失踪として、取扱われたいという本人の強い希望に基き」(日本政府発表)と願ったラストヴォロフは、どうして失踪以来半年を経て「亡命」であることを、発表することに同意したのであろうか。 この半年の間に彼の妻子の安全は、如何に確認されたのであろうか。濠洲のペトロフ大尉の亡命のように、本国へ連行される夫人を奪取したというのならばうなずけよう。アメリカの秘密機関は、モスクワからラ氏夫人と愛娘とを救出して、同様本国へ連れてきたというのだろうか。そんなことはあり得まい。二十九年一月二十四日のラ事件以後、彼の妻子の消息については全くニュースがないのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 ラストヴォロフは亡命ではなく拉致か

赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?
赤い広場ー霞ヶ関 p.098-099 Rastvorov says he cannot trust those who value it truthfully. Is Lastvorov lying?

ここで私は、ラ氏の評価が現実の志位対吉野、日暮対庄司の関係と、さらに前記の当局一幹部の言とを思い合せて、ラ氏の〝自発的離脱〟ということに深い疑問を覚えるのである。つまり亡命ではなくして、拉致であるというのである。

妻子をもすてた真の亡命であるならば、彼は完全な世捨人である。一切の真相を語り終って静かに余生を送るであろう。

彼が真相を語っていない、祖国ソ連に反逆していない、ということは、彼の告白は相当な鑑定を必要とする。例えば逆のことを語っているのではないか。信頼していなかった志位氏を信頼しているといい、高く評価している吉野氏を情報プローカーと極めつけるといったように。

すると、ラストヴォロフの失踪は、亡命でなくて拉致である。アメリカ得意の〝人浚い〟〝引ったくり〟である。すると、彼の妻子の安全は事実である。

ラ氏が拉致され、彼がウソをついてたとなるとこれは事件である。三十年五月二十五日付朝日新聞が報じた、外交暗号がソ連に解読されているのではないかという心配(元ハルビン特務機関長小野打寛少将から、公安調査庁を通じて外務省へ提出された意見)は、より大きくなって、暗号以前のものが筒抜けになるのではないか、という心配にならねばならない。

志位、吉野という二人のラ事件関係者のとった対照的な立場は、私には人間の自己保存の本能がそれぞれの形をとったものだと思われる。即ち一人は顕在化されることによって、死の恐怖から逃れ得ると信じ、一人は顕在化されることが、死の恐怖へ連なるものと信じているのであろう。

そして私は、幻兵団キャンペイン以来の信念で、志位氏の立場こそ、米ソ秘密戦の間にまきこまれた日本の犠牲を、最小限に喰い止め得るものだと思っている。

五 暗躍するマタハリ群像

強盗、殺人の一課モノ、詐欺、汚職の二課モノと、風紀衛生の保安、それに思想関係の公安。警視庁詰記者の担当は、ザッとこんな風に分れている。

どの分野にしろ、調べ室や事務室をのぞいてみて〝敵情〟を偵察し、係官たちとの雑談から片言隻句の〝情報〟を得て、そこで作戦参謀として最後の〝決心〟を下し、原稿を書くことに変りはない。これが「取材」であり、「発表」と根本的に違う点である。

だがこれらのうちで、絶対にふだんの努力がなければ情勢分析ができないのが公安関係だ。左翼も、日共の理論面の動きや、人と人とのつながりがわからなければ、パッとでてきた「伊藤律除名」の情報も、確度がわからない。スパイ事件も同じで、思想的背景があり、政治的謀略さえ考慮しなければならない。 三橋事件がそうだ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 赤いマニキュアの派手で豪華な身なりのご婦人が

赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases ...
赤い広場ー霞ヶ関 p.100-101 There is a woman behind the crime. Similarly in the case of spy cases …

はじめてスパイ事件を手がけた、当時の国警都本部では、まず小説や映画でしか知らなかった「スパイ」なるものを、現実の公安警察の対象として係官たちに教育しなければならなかった。

だが、ラ事件は二度目だ。三橋事件の〝戦訓〟もある。当局と米国側とのラ氏の身柄などについての特別な関係、政府の政治的利用などから、厳重な対新聞記者防諜命令が出て、新聞記者はまったくしてやられてしまった。ラ氏が失踪してから半年、この間に彼の自供は時々変り、しかもポツンポツンと事実を語った。そのたびに米側から警視庁に連絡がくる。公安調査庁の調査官も一緒に、その関係日本人のウラ付捜査のため、六、七月はテンテコ舞いをさせられた。レポ場所を望違鏡で見張ったり、毎日映画館に通って待合室にばかり坐ったり、しかも秘密は厳守を命ぜられた。

山本課長のラ氏取調べのアメリカ出張も、ある社の記者などはほんとに京都出張だと信じこんでいた。課長が出発したあと、木幡第一係長は全係官を集めて『課長のアメリカ行の真相がバレたら、一同マクラを並べて辞表だ』と訓示するほどの、防諜ぶりだった。

課長が八月一日に帰国して二週間、ラ氏の最後的供述による関係日本人の最後の捜査が行われて、十四日朝の家宅捜索、検挙、発表となった。

こんな騷ぎも一わたりすんだある午後のこと。公安三課の事務室に赤いマニキュアの、派手で豪華な身なりの三十前後のご婦人がいた。彼女が庶務係にでもいれば、戦争花嫁の一人が米国へ行くための、証明書をとりにきただけの話にすぎない。

だが、彼女は高毛礼氏のドル関係捜査に当っていた係で、しきりに何か説明していた。

犯罪のかげに女あり。スパイ事件も、金と酒と女が出てこなくては面白くない。ピンときた私は気長にネバって、彼女の帰りを待った。自動車を呼んで玄関に待たせた。折よく雨が降ってきた。

夜八時、待ったかいがあって、彼女は幾分とまどいしながら、おびえたように玄関の階段を降りてきた。

『雨が降ってます。お送りするようにとのことです。どうぞ……』

私は名前や身分を名乗らなかったが、またウソもいわなかった。彼女は、夜のヤミと、雨と冷たい階段と、取調べの不安と、疲労との中で、つとさしのべられた暖い手に、崩れるように何の疑いも持たずに取りすがってきた。

警視庁の正面玄関。横づけされた車――。私は彼女より一歩遅れて、立番する二人の制服警官にソッとお辞儀をした。休めの姿勢だった警官はサッと足をひきつけて挙手の答礼だ。

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 高毛礼は二百三十五万円を受領した

赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union's investigation of the red spy network in Japan.
赤い広場ー霞ヶ関 p.102-103 Developed from the Rastvorov incident to a more extensive the Soviet Union’s investigation of the red spy network in Japan.

車内での私の取材が始まった。取材の大半が終わったとき、私は名刺を出して記者であることを告げたのだった。

当局では彼女を高毛礼氏関係のドルの裏付捜査の参考人として、任意出頭を求めて取調べていたのであった。私はこうして、はしなくも彼女によって、もはやラストヴォロフ事件と呼ぶのには相応しくない、大規模な在日赤色スパイ網の捜査に手をつけている、当局の姿をチラリと覗いたのである。

つまりラ事件捜査の経過から、在日赤色諜報謀略網の徹底的摘発を決意した当局では、これらぼう大な組織のうち、ラストヴォロフ政治部中佐担当のスパイ線は、おおむね捜査を終り第二段階へ移った。すなわち、ラ氏自供にもとづいて検挙した高毛礼氏の背後関係から、他のソ連代表部員担当の、各スパイ線捜査へと進行していたのである。

三十年二月十一日に東京地裁で開かれた、同氏の第三回公判における、検事の冒頭陳述をみてみよう。(同日付読売、毎日新聞)

一、高毛礼被告がソ連に接近した事実=二十四年新潟市内新潟鉄工で、ソ連向け貨車数十輛の検収が行われた際、ソ連通商代表部員シュチュルバコフと知り、ソ連に親近感を抱いていた被告は、自分の退官の際ソ連人から便宜を受けようと、ソ連通商代表部に自らすすんで二十五年三、四月ごろ訪ね、ソ連在日代表部員の一員であるコチエリニコフと知り、ひそかに同人を介し、麻布狸穴のソ連在日代表部を訪ねた。

二、スパイ活動=①対ソ協力者としての誓約――二十五年十二月ころ旧在日ソ連代表部に行き、ソ連に忠実に協力して特務情報活動を行うむね誓約、特務情報活動に関する被告の番号名がエコノミストとされた。②その内容――外務省事務官として職務上入手可能な日本政府の秘密資料の内容を、ソ連のため在日特務情報機関に知らせること。③報酬と資金――二十六年一月から二十八年七月までの間、スパイ活動の報酬として、月五千円から二万五千円の定期的給与計五十八万円を受けたほか、特務情報活動用のカメラ、ラジオ受信機などの購入設備資金として数回にわたり、二十二万円、さらに二十七年二月四千ドル(百四十四万円)など総計二百三十五万円を受領した。

④スパイ活動の一般的経過――指示された方法で、毎月一、二回東京都港区芝御成門都電停留所付近、千代田区大手町常盤橋公園ほか数ヶ所の街頭を連絡場所として、二十六年一月から二十七年夏まではポポフ、二十八年末まではクリニッチンと連絡をとり、外務省資料を手渡したが、現在では特定しがたいほどの多数に及んでいる。⑤対日平和条約直前、同被告がスパイ活動のため特別な任務と訓練を受けた事実――二十七年一月から九月まで三回にわたり、コチエリニコフから代表部に呼ばれ、対日講和条約の発効に伴い、特務情報機関が日本を引揚げる場合、同被告がソ連のためスパイ活動を引続き行う任務を受け、暗号表とその解読方法、ソ連放送の聴取方法、マイクロ写真技術などスパイ活動に必要な訓練を受けた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 「日本人富岡芳子」それが私が発見した女だった

赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet's spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.
赤い広場ー霞ヶ関 p.104-105 On behalf of the Soviet’s spy pilot who had to withdraw after the peace treaty came into force, they were trying to set up a Japanese spy pilot who would take over the work.

二十八年四月ごろから、三鷹市下連雀の自宅でオールウェイヴ・ラジオによりソ連からの秘密暗号情報を受信、暗号解読練習をした。さらにこの秘密通信文を埋め、その通信文をソ連側に送信する送信技術をおさめた。このほか在日残存秘密特務情報網のメンバーの人相確認を行った。

この間協力者二名に対する報酬を含めて一年四千ドル(百四十四万円)を一括受領した。

▽ドル入手関係=①二十七年二月ソ連代表部で、コチエリニコフ氏から四千ドルを受取った。②被告はこのドルを二十七年四月、日本人富岡芳子を介し、昌栄貿易重役遊佐上治氏(元外務省経済局動務)らに売却、自己または他人の名儀で、興亜土地合資会社(代表者佐藤直氏)へ融資、あるいは山一証券など数社に株式売買資金として費消。

▽秘密文書関係=被告は二十七年十月、二回にわたりクリッチンに職務上の秘密文書、経済第二課企画(国際経済機関二十六年度版)上下を手渡した。

つまりこの冒頭陳述のドル入手関係に書かれている「日本人富岡芳子を介し」という、富岡芳子こそ私の発見した彼女だったのである。そして彼女によって、二十九年八月二十一日兵庫県警察本部が摘発した「英印人ヤミドル団」とスパイ網とが結ばれていたのであった。

当局の捜査は高毛礼氏からスパイ資金を受取るはずの日本人スパイ群と、高毛礼氏と同様に他のソ連人からバトンを受けついだ他の〝地下代表部員〟およびヤミドル団との背後関係の三点に向けられていたのであった。

では、ここで高毛礼氏捜査の経過をみてみよう。さる二十七年ごろからラ氏にかかる刑特法違反容疑事件の捜査を行っていた同課では、ソ連代表部員の行動調査を始めていたが、アナトリイ・F・コテリニコフ領事とL・A・ポポフ経済官(実際は政治部少佐と信じられている)両氏の乗用車を尾行したところ、三鷹市下連雀付近まで月に数回でかけるという事実をつかみ付近一帯を捜査した結果、高毛礼氏宅があるのを発見、一応チェックしていた。

ところが二十九年八月上旬、山本課長がワシントンでラ氏から、ポポフ氏担当の日本人スパイの話をきき取り、これを経歴その他に前記尾行の線がピタリ符合する高毛礼氏と判断した。その結果、約二週間の尾行から富岡氏ら四名の女性を発見したのである。

逮捕に向ったとき、同氏は『一切を死によって清算したい』旨の遣書を残して、ヌレ手拭で自殺を図ったほどで、それだけに重要な人物として厳しい追及をうけたところ、取調べ官宛に手記を書いて一切を自供したものである。

ここで当局は始めて、ソ連側では講和条約の発効によって、代表部は引揚げざるを得ないという情勢判断をしており、そのため、ソ連人に代るスパイ操縦者の日本人、いうなれば〝地下代表部員〟の設置を行っていたという、重大な事実を握ったのであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 高毛礼の四人の愛人

赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called "Madame Black Pearl".
赤い広場ー霞ヶ関 p.106-107 Kayoko Sata was a dollar broker from a Japanese prestigious nobles, and Yoshiko Tomioka was a enchantingly beautiful flower of foreigner society called “Madame Black Pearl”.

女と酒と金、そして賭博と麻薬――ラ氏手記でいうとおり、人間の弱点につけ込む手口は、ソ連諜報機関ではキチンと整理されて一つの学問にさえなっていたという。高毛礼氏の二週間にわたる尾行の結果、登場してきた四人の女性とは、一体どんな婦人たちであったろうか。

当局では彼女たちをいずれも高毛礼氏の愛人だとみているが、本人たちはいずれも否定しており、調室で出会ってたがいに気まずい思いをしたこともあるという。当局が参考人としてとった四人の供述調書に浮彫りされた、〝マタハリ〟の妖しい姿をみてみよう。

▽佐多可世子さん(三八)の場合

彼女は斜陽夫人である。明治の元勲伊藤博文公の息伊藤文吉男爵の長女として、大正五年東京で生れた。封建制日本の最上流階級の出身である。女子学習院卒業後、大阪医大学長佐多愛彦氏の三男輝雄氏に嫁した。

試みにこの一族の経歴を興信録によって紹介しよう。伊藤文吉男爵は従三位勲三等、貴族院議員、北樺太石油取締役、大東亜建設審議会委員、長男は東大独法科卒、長女は可世子さん、次女は日経連顧間三菱重工会長で白根松介氏の義兄にあたる人の長男に嫁ぎ、三女も同じく実業家、四女は伊藤博精公爵の弟に嫁いでいる。可世子さんの嫁いだ佐多家は父親がドイツ留学の医博で従四位勲三等、夫君輝雄氏は京大経済卒、弟は阪大教授の理博という家柄である。

戦後、夫君が事業に失取し、しかも糖尿病を患うにいたって、〝華族様のお姫さま〟は生活力を失った夫君と三児を抱えて〝生活〟に直面した。こうして彼女は街に出た。

名門の看板と高貴な冷たい美貌の彼女に慕いよる男たちは、殊に貴族に好奇心をもつアメリカ人に多かった。タバコ、キャンデー、衣類など、当時貨幣同様の価値をもっていた進駐軍物資を動かすことで、金が作れるということを、彼女はこの時にはじめて知ったのだった。

そして、高毛礼氏のドル関係捜査に彼女の名が浮んできたときには、彼女はすでにヤミ物資で何回か警察の門もくぐり、数寄屋橋マツダビル付近のバイ人たちの間でも有名な、いっぱしのドル・プローカーになっていた。

彼女はいま、「ラ事件には関係なし」とされて、処分保留のままでいるが、彼女をよく知る某氏は『佐多さんが、〝関係なし〟といわれるのは、彼女の門閥によるものだ』と、この間の微妙ないきさつを語っている。

▽富岡芳子さん(三六)の場合

彼女は十余年前までは、少くとも平凡な家庭の一主婦にすぎなかった。だが、最初の結婚の失敗が高毛礼氏と結び、さらに〝マダム黒真珠〟と呼ばれる外人社交界の妖花にまで変貎させてしまった。 昭和十六年一児を抱えて夫と別れた彼女は、新宿のあるバーに勤めだした。そこに現れたのが、モスクワから帰ってきた、北樺太石油社員の高毛礼氏だったのである。

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 東京租界の「租界」たる所以

赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement's crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.
赤い広場ー霞ヶ関 p.108-109 International intelligence plot warfare is by no means simple. A city that is infested with settlement’s crimes such as drugs and illegally exchanged dollar is also a stage for international espionage.

親しい交際が続いたのち、戦争が二人をへだて、また解逅させた。その時には彼女は米国人の妻として、エキゾチックな美貌にひかれる外人たちに囲まれ、佐多さんと同じグループで、ドルや自動車やヤミ物資を動かす女になっていた。

すでに米国人の夫とも別れ、ヤミドル団の主犯セッツ氏が経営する、偽装の真珠会社の輪出部員の肩書で、セールス・マンとして〝マダム黒真珠〟の名をほしいままにしていたのである。

彼女は高い石塀に囲まれた家に住み、外出のたびごとに衣裳から装身具まで変えるという、豪しゃな生活ぶりだったが、さすがに外務省の一事務官として地味に暮していた高毛礼氏と逢うときには、十余年前の姿をおもわせる平凡な三十女になっていたという。

あとの二人は元外務事務官I・八重子さん(三五)と元GHQ勤務K・和子さん(四三)の両女であるが、高毛礼氏との関係や犯罪事実についての確証がないので、当局では内容を厳秘に付している。

だが、読者はいままで述べてきたうちで、次の部分を想い起して欲しい。即ち、本人は否定したが、村井前内閣調査室長の外遊に英国人諜報員がつきまとっていたという事実と、同様に本人は否定したが、志位氏に自殺せよとささやいた東洋人とは、まぎれもなく印度人であったという事実とである。再び強調するが、国際諜報謀略戦とは、決して単純なものではないということであり、眼前の現象(事件)に左右されて、透徹した冷静な判断を誤まり、真相を見失い勝ちだということである。

そしてまた、麻薬とかヤミドルといったような〝租界犯罪〟がはびこる都市こそ、国際スパイの檜舞台でもあるのだ。〝東京租界〟と米ソスパイ戦の因縁もここにある。

国際ヤミ屋を装った怪外人たちの惹き起す群小事件も、彼らが意識するとせざるとに拘りなく持つ、その政治的、思想的背景に着眼すれば、今更のように〝東京租界〟の〝租界〟たる所以がうなずけるであろう。(「羽田25時」参照)

シベリヤ・オルグの操り人形たち

一 除名された〝上陸党員〟

二十九年八月十三日の夜、山本課長の帰国後のラ事件最後の裏付け捜査が終った。明十四日早朝、係官たちは手分けして、家宅捜索やら容疑者の逮捕やらに出動する。その年の二月三日警視庁に自首してきた志位氏は、舞鶴から呼ばれてここ警視庁の別館調べ室で最後の取調べを受けていた。夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 日本新聞が「木村檄文」を大々的に掲載

赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.
赤い広場ー霞ヶ関 p.110-111 The first volume ended with the Rastvorov incident. And the second volume started. First, you must know about the Siberian Democratic Movement.

夏の夜の夕闇が格子戸のある窓辺に迫ってきたこ

ろ、調べ官の木幡警視が『ぢゃどうも御苦労さん』と、タバコをすすめた。

突然の急ぎの呼出しやら、静かながら騒然としたあたりの雰囲気に、大勢を察知していたらしいこの若い参謀は、すすめられたタバコの煙を吐き出すとともに、ただ一言呟いた。

『これで――第一巻は終った……』

確かにそうであった。第一巻はラストヴォロフ事件を最後のヤマとして終った。そして第二巻が、おだやかな〝平和〟という呼びかけで始ったのである。

三十年一月二十五日の鳩山・ドムニッツキー会談から出発した日ソ国交調整の動きは、すでに交渉地がニューヨークに決定していたかの如く思われていたが、意外にも四月四日ソ連側は東京を主張してきたのであった。

この一見変幻極まりないかの如きソ連の態度も、そのそもそものはじまりから仔細に観察するならば、決して故なしとはしないであろう。冒頭以来、しばしば述べてきたようにソ連の対日政策は常に一貫して流れているのである。そして、そのことを理解するためには、まずシベリヤ民主運動の経過と、その立役者たちのその後とを知らねばならない。

在ソ同胞と一口にいってしまえば簡単であるが、その組成は実に多種多様である。①日満両国の軍人軍属 ②日満両国政府職員 ③協和会員 ④国策会社員 ⑤開拓団員 ⑥一般居留民 ⑦樺太居住民 ⑧北鮮居住民など、その社会的、階級的出身層は十種類以上にも及んでいる。

ということは、つまり、完全に日本の社会の縮図でもあったということであろう。総数は二十四年十月一日付国連軍総司令部発表の数字によると、引揚対象基本数はソ連地区で百六十二万五百十六名である。

この百数十万余名の日本人が、一般俘虜と受刑者とに分れていたのである。受刑者というのは、いわゆるソ連刑法五十八条(反逆罪)による入ソ後の犯罪によったものと戦犯とがあった。

また入ソ後の一般犯罪によるものや、樺太における一般市民の受刑者などがあった。

シベリヤ民主運動はこれらの社会各層の出身者による一般俘虜百数十万名の間で発生し、十六地区(ハバロフスク)五分所、同十一分所の特別監獄における浅原正基氏(後述)らの「党史研究グループ」の例外を除いては、囚人である受刑者の間では全く行われなかった。

運動発生の端緒は二十一年夏ごろ、ハバロフスクにいた木村大尉という人の「木村檄文」だと信じられている。これを在ソ同胞の宣伝機関紙日本新聞が利用して大々的に掲載したのであった。これは直ちに反軍闘争、対将校階級闘争としてアジられ、日本新聞の「友の会」運動として組織された。併行して各収容所の文化グループの活動が指示された。

二十一年夏から二十二年にかけて全シベリヤ収容所には、この「友の会」運動が瞭原の火の

ように拡がっていった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 「日本しんぶん」掲載のスターリンへの誓い

赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends' Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.
赤い広場ー霞ヶ関 p.112-113 “Nihon Shimbun,” which promotes Siberian detainees, developed “Friends’ Society” into “Democratic Group” and “Anti-fascist Committee” and praised Stalin.

「友の会」運動が普及したとみるや、この運動の組織者である日本新聞社では、直ちにこれを「民主グループ」運動へと発展させていった。

この運動は二十三年春、さらに、「反ファシスト委員会」に昇華させられ、二十四年秋にいたる一年半の間、全シベリヤを席捲しその全盛を極めたのだった。各収容所に設けられたこの地方、地区「反ファシスト委員会」は、生活、生産、青年、文化、宣伝などの各部に分れ、ハバロフスクの最高ビューローの指揮を受けていた。殊に二十四年夏に行われた「スターリン感謝署名運動」が、その絶頂期であった。

当時の熱病的狂躁振りを、同年七月十五日付日本新聞第六〇〇号に掲載された地方反ファシスト委員会ビューローの一文にみてみよう。一読、感激するも大笑するも読者の自由である。

親愛なる日本しんぶん!

われわれは厳粛な生涯にかってなかった最大の日、全世界勤労者の仰ぎみる偉大なる指導者、同志スターリンその人へ、われわれの誓いと決意をおくることができました。

この歴史的な日、われわれはわれわれの誓いにわが全生命をかけて斗うことを決意したのです。かくも栄誉あるかくも誇りある歴史的事業に、レーニン、スターリンの忠実な一兵士として署名しえたこの日こそ、じつに、きみ、日本しんぶんがあったればこそなのです。

そして日本しんぶんの生み育てあげた、幾十万のわが帰還同志たちが、勇躍、われわれの偉大な教師の教えたごとくその教えを体し、日本共産党の戦列の先頭に、米日反動と売国ファッショの狂乱をおしつぶしつつ、平和と民主々義・社会主義のために斗いつつある事実に、無限の感銘と誇りをくみとりつつ、われわれもまたかく斗うであろうことを重ねて誓い、われわれの感謝とします。

このスターリンへの誓いというのは、一九二四年スターリンがレーニンの柩前で誓った「レーニンへの誓い」をもじった日本版の誓いであるが、この一文こそシベリヤ民主運動そのものと、この一文を受けた日本新聞そのものとを、端的に現わしている。

「木村檄文」に始まり、その宣伝を「日本新聞」が行ったことから発生した民主運動は「日本新聞」グループの指導によって、ついに「反ファシスト委員会」という思想結社にまで高められ、ソ連的人間変革に大きな功績をたてたのである。 この運動の先端に立ったアクチィヴィスト(積極分子指導者)カードル(基幹要員)ヤチェーカー(細胞員)たちは、これを〝盛り上った〟運動だと信じ込み、〝かくあるべきだ〟として同胞たちを苦しめ苛んで、これを「人間変革への闘い」と称した。それは或時は最高ビューローの指令であり、或時は彼らのハネアガリであった。

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 オルガナイザー、日本新聞グループ

赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.
赤い広場ー霞ヶ関 p.114-115 The former Asahi Shimbun Koriyama correspondent, Nobujiro Kobari, became the chief editor of Nihon Shimbun, deceiving President Kovalenko major.

ただでさえ苦難の多い俘虜生活である。そこへ出現したこの〝○○天皇〟と呼ばれる労働貴族たちの、同胞への苛歛誅求ぶりは、まさにシベリヤ罪悪史として、一書を編むに値するものであった。と同時に、これこそ日本人の国際的訓練の欠如を露呈した惨めな事大主義として、同じ俘虜であるドイツ人たちのびん笑を買ったものであった。

引揚列車を迎える人たちの日の丸の旗をひきちぎり、さし出す花束を踏みにぢり、ソ同盟謳歌を呼号し、〝代々木詣り〟という集団入党のため帰郷すら拒否した、いわゆる「上陸党員」たちのその後をたずねて見給え。ましてや〝赤大根〟と呼ばれた君子豹変組の在ソ行動をたずねて見給え。

だがしかし、このような狂騒民主運動に冷静な監視と、充分な計算とを怠らなかった一群の日本人たちがいた。このグループがアクチィヴィストの上位にある、オルガナイザー(組織者)である。日本新聞グループであり、最高ビューロー・グループである。そしてまた彼らのかげには、「常に一貫して流れている対日政策」に動かされるソ連政治部将校たちの指導があったのである。

今ここでこの詳細を述べることはできないが、民主運動のキッカケとなった「木村檄文」というものがあった。それと同時期に沿海州地区では、ナホトカに近いドーナイ収容所で起した佐藤治平元准尉の民主運動もあった。この分派民主運動は、後に浅原正基対佐藤治平の理論闘争となり、佐藤氏が敗れて粛清されたのであった。

このような経緯もあって、「木村檄文」は主流派となったのだが、これを取上げた当時の日本新聞は、まだ発足間もない単なる宣伝用機関紙にすぎなかったのである。

満州日々新聞の工場施設一切を持ち去り、俘虜の中から印刷工や編集者を探し出し、二十年九月十五日第一号を発行したのである。だから初期の新聞には編集員募集の広告が出ており、私もこれに応募してスパイ誓約のキッカケを作ってしまったころである。

このころ、元共産党員と称して、社長コバレンコ少佐をだまし、編集長の地位に納ったのが、元朝日新聞郡山通信員小針延二郎氏であった。当時の事情を雑誌「真相」(二十五年四月号)は、ともかく次のように書いている。

申出た彼の履歴は、元朝日新聞チャムス通信局長で、日本共産党員、内地では特高につけ廻されるから、満州に派遣してもらっていた。という堂々たるものであった。

コバレンコ少佐はすっかり信用して、いきなりセクレタリ・レダクチア(編集書記)に任命した。主として割付をする仕事で、彼が帰国後自称する「編集長」ではない。何しろ、捕虜にはめずらしい日本共産党員というので、他の日本人からも信頼されたが……

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 「日本新聞」をめぐる主導権争い

赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.
赤い広場ー霞ヶ関 p.116-117 Nihon Shimbun groups such as Kovalenko, Nobujiro Kobari, Seiki Asahara, Hisao Yanami and others, reigned as organizers and supreme bureaus.

コバレンコ少佐というのは、元タス通信日本特派員として在日八年の日本通で、大場三平のペンネームまでもつモスクワ東洋大学日本科出身である。一説には極東赤軍情報部長といわれ、のち中佐に進級したが、二十四年六月ごろからハバロフスクの日本新聞社から姿を消しており、二十七年十月末強制退去となって日本を去った、タス通信東京支局長エフゲニー・セメノヴィッチ・エゴロフ氏が、コバレンコ中佐だといわれていた。小針氏も、新聞技術者として日本新聞に入ったとみるのが妥当であろう。事実彼の入社後は発刊当時の、新聞とはいえないような稚拙な紙面から、一応は新聞らしい形を整えてきたから。ところがその後「諸戸文夫」のペンネームを持つ、東大政治科卒の浅原正基上等兵が入社してきて、浅原氏の手によって小針氏は粛清され、浅原氏の代となった。前記「真相」によると、

ようやく非難されはじめたころ(註、小針氏が)、満州の特務工作員であった浅原正基がこれまた日本共産党員と称して入社してきた。

これには小針もさすがに泡をくって、浅原に、オレも党員ということになっているからバラさないでくれと、コッソリ頼みこむ始末であった。しかしその売名振りと編集のデタラメさが問題となり、二十一年五月には日本新聞社から追放されたという。

ところが、二十四年になると編集長だった浅原氏は、相川春喜のペンネームをもつ矢浪久雄氏らに、「極左的ダラ幹、英雄主義のメンシヴィキ的偏向」と極めつけられ、さらに「元特務機関員、ハルビン保護院勤務員」という前職まで指弾され、これまた矢浪氏に粛清されてしまった。

小針氏の粛清は『オレは、プチブルだった。大衆の中に入って鍛え直してくる』という立派な言葉を残して、あとは要領よく引揚船にモグリ込んでしまったのだが、浅原氏の粛清は裁判となり、五十八条該当者として二十五年の矯正労働という刑をうけたのだから手厳しい。

それらのメムバーのほか、宗像肇、高山秀夫、吉良金之助氏らがおり、二十四年十月帰還のため出発後は、矢浪氏から作家山田清三郎氏へバトンが渡されて、約一ヶ月、十一月七日付第六五〇号で終刊となり、約四年間にわたる歴史を閉ぢた。この日本新聞グループこそ、シベリヤ民主運動の開花「反ファシスト委員会」のオルグ、「最高ビューロー」のメムバーであり、地方、地区ビューローにもそれぞれ最高オルグが派遣されていたのである。

日本新聞の果したこの「人間変革」における役割は、極めて大きいことは事実である。それではこの「人間変革」はどんな形で行われたであろうかといえば、表面的には「スターリンへの誓い」感謝署名運動がその卒業式であった。