正力松太郎の死の後にくるもの 投稿一覧 カテゴリー 正力松太郎の死の後にくるもの 正力松太郎の死の後にくるもの Cover1正力松太郎の死の後にくるもの 表紙 腰巻 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著 腰巻推薦文/岩渕辰雄 山口シヅエ 川内康範正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで 著者紹介正力松太郎の死の後にくるもの (あそび紙)-本文扉 正力松太郎の死の後にくるもの 三田和夫著正力松太郎の死の後にくるもの (あそび紙)-p.001 目次扉正力松太郎の死の後にくるもの p.002-003 目次正力松太郎の死の後にくるもの p.004-005 目次つづき 1章トビラ 1 正力さんと私(はじめに……)正力松太郎の死の後にくるもの p.006-007 全紙面を埋めた訃報。葬儀の盛大さを伝える雑感やら、〝正力さん好み〟の参列者名簿などが、目白押しにならんだ「読売の紙面」が、走馬燈の絵柄となって、私の脳裡に浮かんだ正力松太郎の死の後にくるもの p.008-009 なぜならば、正力松太郎という、偉大なる新聞人が、新聞ばかりかプロ野球の父であり、テレビの父であることは、何人も否定できない事実である。正力松太郎の死の後にくるもの p.010-011 新聞批判の場では、〝親を滅せ〟ねばならない。実に、正力松太郎が息を引き取るや否や、たちまち豹変した読売の紙面にこそ、現在の大新聞の体質がある正力松太郎の死の後にくるもの p.012-013 それでも私は、両足をフン張って、編集局の中央に、仁王立ちになって、局内すべてを眺め渡している正力さんの姿に魅せられていた。正力松太郎の死の後にくるもの p.014-015 「正論新聞」が全く軌道に乗った時、私は正力さんを訪ねて、その題字を書いて頂こうと考えていたのに、その正力さんは、いまやもういない。正力松太郎の死の後にくるもの p.016-017 2章トビラ 2 死の日のコラム休載正力松太郎の死の後にくるもの p.018-019 新聞人としての正力松太郎、新聞人としての正力亨、それぞれの批判は、それぞれの事蹟をもって、その判断の根拠とされるのである。愛憎、好悪の感情をもってさるべきでない正力松太郎の死の後にくるもの p.020-021 読売の朝刊のすべてに必らず掲載されている、「編集手帖」というコラムが、この五版だけは、「本日休みます」という、断り書きで、 休載になっていたのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.022-023 正力の私生活をノゾくのなら、生きているうちにやれ。読売の〝内紛〟を扱うなら、生きているうちに書け! 日本テレビの粉飾だって、正力さんの眼の黒いうちに発表したらどうだ。正力松太郎の死の後にくるもの p.024-025 紙面を作るものは、新聞記者である。記者の質と量との戦いであった。毎日毎日の紙面が、他社との戦いであると同時に、社内では、部内では、記者同士の〝実力〟競争であった。正力松太郎の死の後にくるもの p.026-027 K社のI記者は、厚生省クラブの大臣会見で、着物の着流し姿をトガめた中山マサ大臣とケンカした。その姿で社へ出て、スレ違った社長にニラミつけられたという人物。正力松太郎の死の後にくるもの p.028-029 戦時中の占領地のために、朝日の昭南(シンガポール)新聞、毎日のマニラ新聞と並んで、読売はビルマ新聞の経営、育成を軍から委託されて、大新聞に次ぐ社会的評価が与えられたのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.030-031 私は、その毎日凋落の裏付けをとるべく、毎日新聞のメイン・バンクである三和銀行の村野副頭取を、毎日と同じパレスサイド・ビルの九階に訪ねた。正力松太郎の死の後にくるもの p.032-033 笑止にたえぬ愚問ばかりの中で、古い新聞記者の老人が、電話をかけてきた。「遺言はありましたですかナ!」と。新聞記者と雑誌記者の、素養と訓練の差はこの質問一つでも明らかである。正力松太郎の死の後にくるもの p.034-035 正力が読売を今日までに育てつつあった、その愛着が〝オレのモノ〟としての「社主」という呼称に表現されたのであって、正力以後に「社主」はあり得ないのだ。正力松太郎の死の後にくるもの p.036-037 3章トビラ 3 有限会社だった読売正力松太郎の死の後にくるもの p.038-039 当時の警視庁記者クラブは二つあった。二階に「七社会」という、朝日、読売、毎日、日経、東京、共同通信、時事新報(のちにサンケイに吸収合併されて、事実上六社になった)の七社のクラブ。正力松太郎の死の後にくるもの p.040-041 私が、三大紙についての、象徴的な分析を発見したという録音テープの談話の主が、このオシゲであり、解析者というのも、オシゲその人であったのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.042-043 それは、単なるネヤの追想ではなくて、彼女なりの批判が加えられて、新聞記者論からその所属社の新聞社論、大ゲサにいえば、「現代新聞論」そのものであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.044-045 その退社の日たるや、けだし壮観であったという。Fの敏腕を惜しんだ上司たちの肝入りで、貸し主たちが呼び集められ、積みあげた退職金から順次に、〝支払い〟が行なわれ、残った四十万が自宅へ届けられた。正力松太郎の死の後にくるもの p.046-047 競馬狂、酒好き。自らの手で掘った〝墓穴〟と嘲う者もいよう。しかし、朱筆の一本、カメラの一台に、絶大な自負がなくて、どうして退職金のすべてを投げ出せようか。正力松太郎の死の後にくるもの p.048-049 「事件の読売」の社会部長として、足かけ七年もその職にあって、〝名社会部長〟の名をほしいままにしたのだから、その人となり、おおよその察しがつこう。〝孤高の編集局長〟と呼ばれる理由でもある。正力松太郎の死の後にくるもの p.050-051 ただ一人、クズ鉛筆などを拾っている男がいる。 『あれは誰だ』『小島文夫という男です』『学校は何処かね』『社長の後輩、東大です』『あいつを部長にし給え』正力松太郎の死の後にくるもの p.052-053 現職の法務省刑事課長である河井検事を、国家公務員法違反、ひいては、名誉棄損の共犯として逮捕し、馬場派検事を一挙に潰滅させよう、という、岸本派の狙いがあったのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.054-055 小野弁護士の謝礼が問題であった。本人に伺ったところが、小野弁護士曰ク。「私が、日本で一流の弁護士であるということをお忘れなければ、幾らでも結構です」と。正力松太郎の死の後にくるもの p.056-057 私は唇を噛んで、この〝社会部と社会部記者を知らない〟新任部長の所業をみつめていた。その時だけはテーブルを引ッ繰り返して、部長と女どもを引っぱたいてやりたかった。巨人軍の試合の招待券!正力松太郎の死の後にくるもの p.058-059 『イヤ、社会部は事件だという、オレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』 私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが、『古い』ンだって?正力松太郎の死の後にくるもの p.060-061 「何だ。ノミ屋の支払いか? ……今のうちから、前借りのクセをつけるな、酒は上手にのめよ」安サンはニコヤカに笑いながら、私の差出した伝票を丸めて、クズ籠に投げこんだのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.062-063 二十一年五月、題号をもとの読売新聞に改め、二十五年六月、有限会社を株式会社に改組して、資本金を二、四三〇万に増資。二十七年十月には大阪読売新聞社を創立し、年来の素志たる関西進出を実現した。正力松太郎の死の後にくるもの p.064-065 鈴木東民が組合長であるとともに編集局長に就任した。馬場は編集権を自分の手にとりもどすことに苦慮し、鈴木ら六名に勇退を求めたが、応じなかったので解雇することにした。第二次争議は、これを動機として起った。正力松太郎の死の後にくるもの p.066-067 『赤色新聞として汚名と害毒を世に流すよりも、いまここで七十年の読売の歴史を完全に閉じるが良い。そして読者にもお詫びしたい。~世の指弾をあび、蔑視の渦中にさらされて、何で読者大衆にまみえる顔があるであろう』馬場は壇上で泣いた正力松太郎の死の後にくるもの p.068-069 青地晨が、朝日—毎日をとりあげ、「大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.070-071 個性を喪失してしまっている。新聞を作る、新聞記者たちの〝個性喪失〟は、すなわち、新聞そのものの、個性喪失を意味する。正力松太郎の死の後にくるもの p.072-073 朝日の政治紙、読売の大衆紙としてのスタートの違いもうかがわれる。読者大衆に媚びてゆく変り身の早さが、トップの座を、読売がおびやかすという、〝秘訣〟でもあるのだろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.074-075 これからの「マスコミとしての新聞」は、読者不在の傾向が強くなってゆく。それが、朝日、読売の〝超巨大化〟を推進して、言論機関としての機能が退化し、広告面を中心とした〝広報伝達紙〟の形をとってくるであろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.076-077 『表へ出ろッ』私は、社会部のデスクにあった鉛筆けずり用の、切り出しナイフを握って原に迫った。場合によっては、片腕ぐらい刺すつもりである。景山地方部次長が飛んできた……正力松太郎の死の後にくるもの p.078-079 原が、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」正力松太郎の死の後にくるもの p.080-081 「彼は、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが原因になっている」原は私が〝ルールを忘れ〟〝バカげた〟ことをしてしまった「原因」を、記者の基礎訓練の問題として、とらえている。これは、正しいことである。正力松太郎の死の後にくるもの p.082-083 私がルールを忘れたのは、実にこの点にあったのである。法を犯して記事を独占しようとしている、三田記者の行動を批判する〝三田記者自身の眼〟が、その時は〝見て見ぬフリ〟をしたのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.084-085 すべての次長の顔が揃った時、原は、部長席で立ちあがるや、遊軍席を見渡しながら、大声で怒鳴った。「いいか。これから、三田の野郎は、箱根から西へは、出張させるナッ!」正力松太郎の死の後にくるもの p.086-087 原が社会部長になった当時、われわれ警視庁詰め記者たちが、部長歓迎会に、シロクロ、花電車の鑑賞というコースを準備した時のことである。正力松太郎の死の後にくるもの p.088-089 彼は、担当係官の顔など、ほとんど知らなかったであろう。現に、読売のスクープに、警視庁の担当係官が口惜しがったことがある。「読売は取材にも来ないで、どうして、あの事件をヌイたのだろう?」正力松太郎の死の後にくるもの p.090-091 私は、丸三年にも及んだ警視庁記者クラブを卒業させて頂いて、通産、農林両省クラブ詰(兼務)となった。だが、このクラブ勤務は、ほぼ一年で外される。理由は特落ちである。正力松太郎の死の後にくるもの p.092-093 原因調査の結果、地方部小野寺記者の通報が、その夜の当番デスク山崎次長のもとにあったのだが、山崎次長は、これを自社の特ダネと感違いして、警視庁クラブに調査を命じた。「特ダネだから隠密に」と正力松太郎の死の後にくるもの p.094-095 数日たって、処分の辞令が社内に掲示された。社会部長、譴責罰俸、私が罰俸一カ月とあって、処分者は二名だけであった。私は、やがて、「多久島事件」の時に、部長が腕組みをしたワケを知った。正力松太郎の死の後にくるもの p.096-097 紙面にクビをかける(つづき) 4章トビラ 4 〝務台教〟の興隆正力松太郎の死の後にくるもの p.098-099 極めてショッキングな内容。それは他でもない。先刻御承知の「朝日、毎日はアカの巣くつで、だから、アメリカのベトナム政策が批判されるのだ」というもの。正力松太郎の死の後にくるもの p.100-101 ロストウの記者会見は、朝・毎だけが単独会見で、読売はその他大勢とコミの共同会見しかできなかったという、重大な事実がある。そこに、朝毎アカ証言の入電であった。正力松太郎の死の後にくるもの p.102-103 このような〝雰囲気〟に包まれていた昭和四十年ごろのことである。いわゆる「務台事件」が起きるのである。務台事件における現象面を追ってみよう。正力松太郎の死の後にくるもの p.104-105 代表取締役専務務台光雄が、「所感」をもって、代表取締役副社長の高橋雄豺のもとに辞表を提出、慰留をさけるため、そのまま居所をくらましてしまうという、いわゆる「務台事件」が起った。正力松太郎の死の後にくるもの p.106-107 務台辞任。この事件をキッカケに、次第に〝神秘のヴェール〟を剥がされた、大読売新聞の経営の実態は、到底、世間の人々には信じられないほどの、スサマジサであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.108-109 川崎市外の「読売ランド」。読売新聞の金を、正力がみなランドに注ぎこんでしまうので、巨人軍の金も、粉飾決算の日本テレビの金もゴッチャになり、金繰りが苦しいというのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.110-111 新聞が毎月二億の黒字に、ノウノウとしている時ならまだしも、赤字にアエいでいるところなのだから、新聞の〝信用の枠〟を、ランドに使われてしまったあとでは、今度は新聞自体が危うくなってくる。正力松太郎の死の後にくるもの p.112-113 週刊読売の小説、挿絵の稿料も未払いというのだから、あらゆるところの金を動員していたといってよかろう。累積赤字百二十九億円、社外での噂は、二百五十億とまで称された。正力松太郎の死の後にくるもの p.114-115 横須賀税務署への申告をみても、正力の私生活は、極めてつつましいものであるが、務台もまた、私財の蓄積を図り、自己の勢力を貯えようという人柄ではなかった。正力松太郎の死の後にくるもの p.116-117 私の入社当時、編集局の中央に起ったまま、叱咤激励する正力の姿は、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。正力松太郎の死の後にくるもの p.118-119 倒産の危機読売も、たちまち〝不死鳥〟のように起き上った。分割支給で妥結したボーナスを一括支給に、タナ上げ退職金の支給開始までやる——務台の金融能力の実力を、まざまざと見せつけられた。正力松太郎の死の後にくるもの p.120-121 全朝日新聞対全読売新聞 部数比較表(44・7・4付「新聞展望」紙)(別表Ⅰ)正力松太郎の死の後にくるもの p.122-123 この記事の見出しは、「著しい読売の伸び、朝日との差加速的」とあり、六百万の大台競争に、読売が激しく迫っていることを物語っている。正力松太郎の死の後にくるもの p.124-125 朝日(東京)対読売(東京)部数比較表(44・7・1日付「新聞展望」紙)(別表Ⅱ)正力松太郎の死の後にくるもの p.126-127 その一語一語にこもる闘魂、気魄は、とても、七十三歳の〝老副社長〟のイメージではない。ましてや、あの〝務台教〟伝説の、円満洒脱さなど、その片鱗すらうかがえなかった。正力松太郎の死の後にくるもの p.128-129 四十四年二月現在の数字で、読売は五二七・二万。これに対し、朝、毎は、五六〇・〇万、四四五・一万という部数。実に、読売が三百四十万を伸ばしたのに対し、朝日百六十万、毎日六十万の増加にすぎない。正力松太郎の死の後にくるもの p.130-131 この計画は失敗に終って、務台の復帰となる。私は務台にいった。『読売は、正力の〝モノ〟なのだから、正力に返してやるのが本当だ』と。務台も、もちろん賛成した。正力松太郎の死の後にくるもの p.132-133 岩淵のあげる務台の功績の第一は、朝日、毎日という、関西商法の新聞販売方式の盲点を衝き、本社から直接に、その小売店を工作して、毎日系の小売店を大量に、読売系列に編入した、点にあるという。正力松太郎の死の後にくるもの p.134-135 同志と共に左右何れにも偏しない、厳正中立な新聞社を創るべく極秘裡に計画を進めておったのであります。新聞界のベストメンバーを迎え、高速度輪転機二台を確保し、資金の見透しもつき正力松太郎の死の後にくるもの p.136-137 務台の挨拶全文が記録されている。これには、務台の「新聞観」と、純一無雑な「読売への忠誠心」とが盛られている。そこに、務台がこのコピーを配付した意図がうかがわれるのであるが正力松太郎の死の後にくるもの p.138-139 愛社心とは何か、それは理屈ではない、われわれのこの感情が偶々問題にぶつかった時、止むに止まれぬ力となって外に現われたものと思うのであります。正力松太郎の死の後にくるもの p.140-141 このコピーの見出しは、「複雑怪奇な私の復社、正力社長反対の真相に就て」とある。しかも、岩淵辰雄が指摘するように、馬場恒吾をロボット化した、安田副社長——武藤常務ラインの、対正力クーデターという、微妙な情勢下の務台復帰であった正力松太郎の死の後にくるもの p.142-143 薄給に甘んじて、読売と共に生き、読売と共に死ぬ、運命協同体の思想は、昭和三十年代までは、その神通力を発揮した。だが、「新聞」そのものの体質の変化は、この思想を現実遊離に追いやった。正力松太郎の死の後にくるもの p.144-145 世間では、読売の子会社と思われているすべての正力系会社が、すべて〝赤の他人〟で、歴史があり、有能な人材を多数かかえた読売新聞社の社員は、働き盛の五十五歳定年で、老後の生活を考えねばならない正力松太郎の死の後にくるもの p.146-147 関東レースは、もともと正力が追放中のウサ晴らしに始めた会社で、京浜、京成、五島慶太、川島正次郎、永野護らの応援を得て、川崎と船橋の競馬場、船橋のオートレース場を持ち、それを賃貸している、大家業であった。正力松太郎の死の後にくるもの p.148-149 ランドの経営の内容は、本論からはずれるので、しばらく措こう。ただ、正力の〝私の悲願〟が、黒い手に汚されたのでは、正力のために惜しまねばならない。正力松太郎の死の後にくるもの p.150-151 「もう、三時になったかネ?」「ハッ。まだでございます。只今、副参事でございます」時間をきかれても、身分だと感違いして気付かぬことは、彼らの念頭をうずめているものが、出世であり、コネ作りであるということ正力松太郎の死の後にくるもの p.152-153 やがて、一匹狼のボスと化してゆく。これが、出先の記者クラブに定着し、「毎日新聞」の肩書をカサに、その役所の中の、隠然たるボスになり、利権に関係し、人事に介入し、実力者になる。正力松太郎の死の後にくるもの p.154-155 記者の発言や行動が、役人の人事に影響するところは大である。もし積極的な意志をもって、役所の人事に介入しようとするならば、ことに、政治家と結んで、「ボス」になることは容易である。正力松太郎の死の後にくるもの p.156-157 「毎日が危いそうだ」「今なら一億の現金で毎日新聞が買える」「メイン・バンクの三和への、利子さえ払えないらしい」——こんな噂が、新聞界でささやかれはじめて、ついに、本田会長は退陣した。正力松太郎の死の後にくるもの p.158-159 そもそも、村山夫人と河野一郎との出会いは? と探してみると、同書一九八頁だ。大阪における新アサヒ・ビルの建設問題をめぐって、当時の経済企画庁長官だった「河野一郎との意気投合が始まる」とある。正力松太郎の死の後にくるもの p.160-161 出版界の消息通は、声をひそめていう。「ナント、取次店の廻し手形は、あらかた朝日の広告部に入金されてましたよ」出版界の〝声なき声〟は「河出書房は朝日新聞にツブされた!」と正力松太郎の死の後にくるもの p.162-163 読みくらべなくとも、朝日記事の中には、「朝日新聞篠原宏記者」の項がない。朝日記事のスタイルは、続報記事の書き方で、結果を報ずる時の記事である。これについて、論評を加える必要はあるまい。正力松太郎の死の後にくるもの p.164-165 朝日の紙面には、ついに訂正も取消しも載らなかった。朝日に取消し記事が出ないのは、一体どういうことなのか。「新聞不信」の念。それは、ひとり朝日新聞への不信ではなく、新聞全般への不信であることを、私は恐れる。正力松太郎の死の後にくるもの p.166-167 群小〝新聞記者〟を常に支配する朝日コンプレックスと、元〝朝日記者〟の脱皮することのできないエリート意識——この対照の妙は、朝日新聞の現実の姿を浮彫りにしてくれる。正力松太郎の死の後にくるもの p.168-169 いまだに朝日新聞客員という待遇を得ている、自民党代議士橋本登美三郎ともなれば、「今日、朝日を憂えることは、日本を憂えることに通じる。その意味で、この本はまさに憂国の書」と、エキサイトしてくるのも当然であろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.170-171 ものはいいようである。練習生が吐き出すような口調でいった、〝コドモさんあがりの記者〟という、終身、平記者ですごす一群の人たちが、そのように運命づけられて、〝朝日記者〟とはいっても〝汚れ役〟をやるのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.172-173 朝日新聞は繁栄を誇るエリート集団の極楽である。だが、一歩内部に立入ると、不信と猜疑に満ちた、醜い人間関係が、陰惨な空気をよどましている。そして、これが紙面に反映してくる。……朝日とは、そのような体質を持っている。正力松太郎の死の後にくるもの p.174-175 5章トビラ 5 正力コンツェルンの地すべり正力松太郎の死の後にくるもの p.176-177 その筋からクレームがついて、削除するようにとの指示が出された。私が〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その削除の指示があったればこそなのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。正力松太郎の死の後にくるもの p.180-181 そのころから、読売本社では〝風聞〟が流れだした。柴田の武接近が目立ったから「NTVは武、報知は亨」という、跡目相続の予想で、〝幼君秀頼(武)と石田三成(柴田)〟というものである。正力松太郎の死の後にくるもの p.182-183 この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.184-185 竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.186-187 報知の部長会が、社の近くの天ぷら屋の二階で開かれたという。部長連は、どんな御馳走かと、固唾をのんでいるうちに、皆の前に配られたのは一つの天ドンだったという。正力松太郎の死の後にくるもの p.188-189 竹内—森村ラインの、〝報知独立王国〟という、新聞記者魂の、読売への叛骨精神。彼らの精神は、その死去とともに断絶して、報知新聞は、本家の読売とは全く関係のない、他人のスポーツ紙と化してしまった。正力松太郎の死の後にくるもの p.190-191 かつては〝報知は亨、日本テレビは武〟とみられていた。武に柴田秀利、亨に棚橋一尚が、秀頼と石田三成の関係に見たてられていた。ところが、柴田去り、棚橋は追われという、大番狂わせである。正力松太郎の死の後にくるもの p.192-193 武が日テレに入り、柴田専務が実現する前に、局長クラスの一斉更迭が行なわれた。日テレに関する限り、人事異動は、常に突然、いうなれば、〝朝、目がさめたらこうなっていた〟のである。「これでは〝伝説〟が生れない——」正力松太郎の死の後にくるもの p.194-195 停年退職者が出ると、自分の部屋によんで、上座に座らせ、退職金の袋を渡して『長い間、読売のために働いて頂いて、本当にありがとう。あなたのお陰で、読売もここまで伸びました』と、深く頭をさげて感謝の意を表する。正力松太郎の死の後にくるもの p.196-197 私が横井事件に関係して引責退社することになったとき、当時の小島編集局長は、「キミ、キミ。金はとってないだろうネ。金を!」という、大変失敬な返辞しかできない男だったが、務台専務は違っていた。正力松太郎の死の後にくるもの p.198-199 新聞という企業は、不思議な近代企業である。新聞のすみずみにまで、あらゆる〝現代科学の粋〟がとり入れられていながら、それを造る人々の中には〝非現代的〟なあらゆるものが巣喰っているのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.200-201 小林与三次。大正二年七月二十三日生まれ。正力の長女梅子を夫人としている。小林は、自治省次官から住宅金融公庫総裁に転じていたのを、昭和四十年に辞して読売入りをした。正力松太郎の死の後にくるもの p.202-203 務台が「オレは、ただの副社長ではないのだゾ。生半可なことでは、読売とオレとの仲を割くことはできないのだゾ」と、小林に対して、その〝意志〟を明らかにしたのだ、という、〝下司のカングリ〟が、流れはじめたのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.204-205 もはや「読売信条」などというのは、古文書と化し、「読売精神」などというものは、全く失なわれてしまう——メンタルなものが一切なくなった、組織と機構と、それのオペレーターとによって、〝新聞〟がつくりだされていく正力松太郎の死の後にくるもの p.206-207 私の「正論新聞」に、かねてから、若いヤル気のある青年がほしい、と、私は考えていた。ある日、街のレストランで出会った、読売の仲間(当時は部長)に、その旨を話して、「誰かいないだろうか」と、問うたのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.208-209 どうしても新聞記者になりたい! という青年に、私は、昭和十八年当時の、このような私自身の姿を想起したのであった。それこそ、「読売精神」なのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.210-211 「読売に内紛があるそうですね。正力さんの跡目をめぐって、戦いがはじまっているそうじゃありませんか」私には、即座にハハンときた。例の〝務台文書〟の〝思いもかけない反響〟というのがこれであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.212-213 正力追放間の「代表取締役」安田庄司もまた、副社長である。高橋もまた同じで、現在の務台、小林は、ともに「代表取締役副社長」であって、いずれも、「社長」ではない。つまり、正力に対する礼儀からいっても、社長は常に空席なのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.214-215 小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。正力松太郎の死の後にくるもの p.216-217 私の正論には、名前を明らかにしたがらない奴ばらの〝務台と小林のケンカさ〟というササヤキでは、抗すべくもない。あの〝務台文書〟を、〝内紛の発火点〟とみるには、人間の善意をネジ曲げすぎているのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.218-219 さらに人事体制がある。金久保、長谷川の交代が八月末で、つづいて九月中旬になるや、編集局内の異動が行なわれた。社会部長の青木照夫らが局次長に進み、最重要部の政治、経済、社会の三部長が新任となった。正力松太郎の死の後にくるもの p.220-221 サンケイ紙に目を通してみると、第一印象は、「週刊誌」化である。スポーツ欄は、男用に、テレビ欄は女用に。女子供用には、政治も経済も社会もない。いうなれば、完全な娯楽週刊誌の、日割り印刷物である。正力松太郎の死の後にくるもの p.222-223 日本工業新聞といえば、俗称〝ポン工〟とよばれる、その世界での三流紙である。日刊工業新聞という、超一流紙が、日本経済新聞とは別の意味の読者を確保して、九段下に威容を誇るその社屋とともに、頑張っている。正力松太郎の死の後にくるもの p.224-225 堀でさえ、〝残酷だとか、非道だとか、そんな言葉は役に立たない〟と、言葉を探すのに苦しんでいるのである。私が指摘したいのは「愛と断絶」という四文字である。これは、あの前文の中で、どのような文意なのであろうか。正力松太郎の死の後にくるもの p.226-227 本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。正力松太郎の死の後にくるもの p.228-229 このような基本的な姿勢の積み重ねの結果、「週刊新潮の記事はツブせない」という〝週刊誌らしからざる〟評価を獲得しているのである。しかし、このような「姿勢」とその「評価」は、本来は「新聞」のものでなければならなかった、のである。正力松太郎の死の後にくるもの p.230-231 それらの、〝エンピツ女郎〟〝エンピツ風太郎〟の一つの典型を私は、松本清張と、その周辺に群がる下請け売文業者、そして、それを黙認して、活字にし、出版している文芸春秋社とにみるのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.232-233 「誤報論」(正論新聞43年1月1日号)の一節。この一文は、松本清張が私の著作から盗作した問題を中心に、新聞記者と売文業者との、「基礎訓練」と「人間的資質」の比較について、論じたものである。正力松太郎の死の後にくるもの p.234-235 6章トビラ 6 朝日・毎日の神話喪失正力松太郎の死の後にくるもの p.236-237 村山竜平の経営手腕は高く評価さるべきである。だからといって〝軍閥に抵抗し財閥に汚されず〟(草柳大蔵)というのは、幇間的追従にすぎよう。日本の新聞は戦争によって、資本家とともに成長し、発展してきたのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.238-239 いわゆる〝朝日騒動〟がはじまる。村山夫人が宮内庁の役人の一人に胸をつかれて、ロッ骨二本を折るという事件が起った。激怒した夫人は、このニュースを朝日が大々的に報道することを編集に要求した。だが、編集は動かなかった。正力松太郎の死の後にくるもの p.240-241 連日連夜の訂正記事の掲載ということが、大新聞としてあり得てよいものであろうか。「声」欄担当の高松喜八郎も座談会に出席して、投書者もルールを守ってほしいと、ヌケヌケ語っている。この元学芸部長の〝無責任〟さ、ひいては、朝日の自社紙面に対する無責任が露呈されている。正力松太郎の死の後にくるもの p.242-243 朝日のニセ投書は、まさか「声」欄が意識的に作ったものではなかろう。しかし、問題のある投書を、本人に確認しないし、事実の有無を調べもしないというのでは、意識的に掲載したというべきであるし、現実に被害があるのだから、罪は重いのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.244-245 「私たちは投書される方を信頼しております」という、書き出しの責任回避からみると、何年、新聞のメシを食ったかと常識からして疑われる。「卑劣な〝犯人〟の行為」ばかりが、名誉棄損に該当するのではない。朝日新聞も、共犯として刑事責任を追及され得る正力松太郎の死の後にくるもの p.246-247 この一文に、雑誌記者の手になる特集記事なるものの実態が、あますところなく現れている。文春、光文社には、社外ライターとして多くの草柳プロ出身者が入っており、基礎的な事件取材の訓練をうけないまま実戦に参加しては、書きなぐっている。正力松太郎の死の後にくるもの p.248-249 「声」欄と全く同じように、朝日 の社会部長たる者が、新聞記者という立場——根本的な大前提を忘れていることを責めねばならぬ。「報道の姿勢」さえあれば、記事は、極言すれば、ウソでもよいというのか。正力松太郎の死の後にくるもの p.250-251 後者の伊藤の文章へ移ろう。彼はここで、弱い者は通常「市民」であると、極めて独断的な断定を下し、それによって、「弱い市民のためにキャンペーンするのはおかしい、とは賛成できない」と結論する。正力松太郎の死の後にくるもの p.252-253 伊藤は何かヒットを打たねばと焦る。そのあげくにでてきたのが、ロケット、軍研究費、六人の刑事など、一連のゴリ押しキャンペーン。もともと、それだけの器量のない人物が、部長の職につくのは、敵にならないから安心なのだ。正力松太郎の死の後にくるもの p.254-255 司法記者クラブだけは、東京地検べったりにならざるを得ない。地検には特捜部があるからである。朝日社会部記者で同クラブに所属している野村二郎が本質的に権力側についていると判断される名文句を拾ってみようか。正力松太郎の死の後にくるもの p.256-257 これらの人びとが、朝日記者のすべてではない。だが、どこに〝戦う左翼偏向記者〟の姿があるだろうか。あるものといえば、「それがウケるから」という、単純な商売の原則による、新聞づくりの姿ではないか。正力松太郎の死の後にくるもの p.258-259 朝日の露骨な〝左翼偏向〟紙面とは、時流にコビた商業主義であることをみ抜けば、それなりの〝攻撃・糾弾〟の途があったのに、ユーモアのない老人が真顔でイキリ立つものだから正力松太郎の死の後にくるもの p.260-261 つまり、最近の企画は、才能プラス資金という、絶対条件を前提としている。例えば、「昭和史の天皇」。金に糸目をつけず、日本国中に記者を派して、埋れた〝目撃者〟を発掘してきているから、そのスケールの面白さが先立つのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.262-263 何が左翼偏向、何が進歩的であろうか——この巨大化した、資本主義の権化のような「朝日新聞経営体」。口先民主主義者たちの〝欲求不満〟を、美事に組織したのが、いわゆる〝左翼偏向〟紙面の朝日新聞なのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.264-265 そこを見抜いた、朝日の販売、編集当事者たちのケイ眼には、感嘆せざるを得ない。カッコイイ紙面を作り、カッコイイ売り方をして、野卑で猥雑で、知性のない新興中産階級に迎合したのである。媚びたのであった。正力松太郎の死の後にくるもの p.266-267 杉並、世田谷が共産党議員の地盤であり、朝日の部数が多いということは、決して、江東に比べて〝知的〟だということではない。どうしても宅配を確保せねばならない〝家庭の事情〟は、朝日が第一。朝日の読者は不安定読者なのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.268-269 〝士魂商才〟が〝商魂商才〟となり、さらに〝商魂〟のみになった。つまり、巨大化の傾向を強めつつある「新聞社」の実情が、全く経済効果オンリーとなり、紙面はアクセサリー化しつつある、といえよう。正力松太郎の死の後にくるもの p.270-271 販売店は配達員の人手の確保その他、経営の苦しい内情をるると訴え、宅配確保の値上げの弁明を試みている。だが、私の十五年の新聞社生活の体験と知識とからいうと、販売店は儲かっているハズである。正力松太郎の死の後にくるもの p.272-273 本社販売部員たちは、一歩社を出たら一切の経費が販売店もちで一銭もかからないという。社から出る規定の旅費、日当、宿泊料など、すべてが自分のポケットに残る。正力松太郎の死の後にくるもの p.274-275 安いバケツの出物があると聞けば、車を飛ばして日本橋横山町あたりの問屋街にかけつけ、現ナマで叩きに叩いて買う。買付けの帰り途は、三味線ならしてドンチャン騒ぎで、懐中にはガッポガッポと入ってくるという正力松太郎の死の後にくるもの p.276-277 新聞にとって、最大の発言者は、時の政治権力でも、金融資本でも、ましてや、広告スポンサーでもない。実に、販売店主とその連合体である。そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。正力松太郎の死の後にくるもの p.280-281 一犬虚に吠えて、万犬実を伝う——この古諺さながらの実情に、二人は〝虚に吠え〟た犯人を煮つめていったのであるが、どうやら、時事通信社長の長谷川才次あたりに落ちつく様子であった。正力松太郎の死の後にくるもの p.282-283 小和田はいう。「目にみえて右傾化していった朝日が、振り子をふたたび元にもどし、ここ二、三年の朝日の紙面は、ふたたび政財界をして、偏向マスコミのチャンピオンのように目されてきた。」正力松太郎の死の後にくるもの p.284-285 共同通信社の〝偏向〟のはじまりは、昭和二十四年の都条例反対デモで、一人の青年が死んだ事故を「警官に殺された」と、当時の社会部記者不破哲三(現日共、政治・外交政策委員長)が、〝誤報〟したのにはじまっている。正力松太郎の死の後にくるもの p.286-287 渡辺は言下にいった。「六人の刑事? ア、ありゃマズい」「キャンペーンをやると、どうしてもデスクは一方的にクロ材料を求めて、取材記者がチラリ洩らした片言隻句を追う。そして、エスカレート」正力松太郎の死の後にくるもの p.288-289 「売れていることは確かです」この問答の部分では、私は「読者にコビた編集方針をとっているのではないか」と、〝コビ〟るという言葉を使って質問したのだが、渡辺は気がついたのか、つかなかったのか正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。正力松太郎の死の後にくるもの p.292-293 小和田の見解の皮相さは明らかである。〝隆々たる社運〟になればなるほど、運転資金の需要は増大し、借入金への依存度が強まるのである。「金融資本や政府権力に対する独自性」は、いよいよ崩れてゆく正力松太郎の死の後にくるもの p.294-295 小和田のいうような、「相対的主体性が、体制的本質の陰に喪失してゆく方向は、必至であろう」という、愚にもつかない、きまりきった判断を、類型的な漢字の羅列文で、もっともらしく表現するなど、笑止にたえない。正力松太郎の死の後にくるもの p.296-297 渡辺とのインタビュー二時間半をふり返ってみると、将来における見通しについては、極めて慎重。もちろん、「経営、業績ともに好調」と断言する渡辺が、今、〝宅配は崩れる〟とはいえない立場であることは、明らかである。正力松太郎の死の後にくるもの p.298-299 すると、安川老は一カツしたそうである。「新聞の投書欄に引きずりこもうというのか!」と。ニセ投書やらで〝声〟価をとみに落した〝声〟欄である。投書するのは常連で、それこそ〝車夫馬丁の集り〟ぐらいにしか、安川老には考えられないのだろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.300-301 毎日の歴史から容易に判断されるものが、大阪(大毎)、東京(東日)の二つの大きな派閥が生まれるであろうということである。つまり、人事閥では大阪が主力でありながら、業績の面では、東京が重点という現実。正力松太郎の死の後にくるもの p.302-303 毎日には、資本家重役がいない。毎日経営陣は、これすべてサラリーマン重役なのである。大株主をあげれば、販売店主の集まりで、社長がその会長をかねている、財団法人毎日会が一一・六%…正力松太郎の死の後にくるもの p.304-305 読売の一行当り最高額は、住友の九億がトップで、合計四十一億。朝日は住友二十二億を頂点に、合計九十四億で、読売の二倍強。毎日は三和の四十二億を最高に、合計百二十五億で、読売の三倍強という、借金である。正力松太郎の死の後にくるもの p.306-307 昭和十八年ごろ、朝日は早稲田、毎日は慶応でなければ、出世も登用もされないと、喧伝されていたほど。ところが、上田時代の役員一覧表をみると、ナント東大が七名、官公立が過半数を占め、慶応はわずかに一名。正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.310-311 毎日紙面は全く沈滞し、読者を失っていた。この社内刷新は敏感に紙面に反映した。一日ごとに、毎日の紙面は活気を帯び、熱気さえ立っていたのである。私も、三紙のうち第一番に毎日をひろげたいという、興奮さえ覚えたほどである。正力松太郎の死の後にくるもの p.312-313 大小のショックを与えてみて、一時は病状好転かと思えたが、結果はやはり、思わしくなかったのである。例えば、〝国際事件記者〟として売り出され、すっかり〝スター〟になってしまった、大森実の退社問題がある。正力松太郎の死の後にくるもの p.314-315 毎日の中で、大森記者がもっとも売り出され、またファンをつかんでいった。大森実という、スター記者の名前と写真とは、大きな活字で何百万部も印刷されて、日本全国津々浦々までバラまかれ、毎日外信部の名をあげた。正力松太郎の死の後にくるもの p.316-317 朝日の本多勝一記者は、カナダ・エスキモーの報道で、第一二回菊池寛賞…。〝朝日の本多〟が書いているのではなく、「朝日」が企画し、「朝日」が準備し、「朝日」が実行し、「朝日」が書いているのである。本多記者はその担当者にすぎない。正力松太郎の死の後にくるもの p.318-319 チミモウリョウが最新式ビルであるパレスサイド・ビルにうごめくという結果にもなった。私が、かつて上田にインタビューした時、「私が去る時は、毎日の去る時だ」という意味の発言をしていた。正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。正力松太郎の死の後にくるもの p.322-323 驚いた私は、この毎日OB記者の証言の、さらに裏付けを求めて、走り廻った。ある外交評論家が肯定した。「デビ夫人の話やら、スカルノ亡命説など、国民はもっとウラを考える必要がある」正力松太郎の死の後にくるもの p.324-325 各社の外報記者たちは、ライシャワー大使に会見を求めて、米大使館につめかけていた。朝日の外報部長だった秦正流が突如として口を切った。「どうだい、みんな。こんな問題はなかったことにしようじゃないか」正力松太郎の死の後にくるもの p.326-327 林理介の社長賞記事は、その後になってから、「ガセ(ニセモノ)だ」「写真は、中部ジャワの新聞に出たものを学生から買い取った」と、中傷の風説が流れはじめた。この〝中傷〟は当然である。正力松太郎の死の後にくるもの p.328-329 このようにまとめた原稿を、私が雑誌に掲載したのに対し、当の秦正流朝日大阪編集局長から、長文の手紙をうけとった。私の叙述に、誤解があるというのである。読者の判断に資するため、その手紙を併載しよう。正力松太郎の死の後にくるもの p.330-331 〝モミ消し〟などとはおよそ次元も心境も違う。それを、あなたに話した人のように聞く人がいたとすれば、それはその人の、この問題にたいする考え方が、私と根本的に違っていた からでしょう。正力松太郎の死の後にくるもの p.332-333 『なかったことにする』という文句があることです。『無視する』というのは評価、取捨選択の問題ですが、あるものを『なかったことにする』というのは、およそ事実に立脚することを信条としている新聞記者の基本姿勢にふれる問題だからです。正力松太郎の死の後にくるもの p.334-335 「真実の報道」と「不義不正への挑戦」という、紙面の大黒柱が形骸だけをとどめていて、実は何もなくなっているという現実 7章トビラ 7 ポスト・ショーリキ正力松太郎の死の後にくるもの p.336-337 「看病してくれてありがとう」正力は、まず、医師に礼をのべたという。瞑目して、一呼吸、また一呼吸——正力は、フト呟いた。「タケシをたのみます……」そして、その唇は再び開かなかったといわれる。正力松太郎の死の後にくるもの p.338-339 亡くなったのが九日、そして十二日の日曜日、日経紙が朝刊で「日本テレビ、粉飾決算」と、あまりにもタイミングのいい大スクープを放った。日曜朝刊という〝抜き甲斐〟のあるタイム・テーブルを作ったのであろうか。正力松太郎の死の後にくるもの p.340-341 遠藤ばかりではない。伊藤斗福とて同様である。ことに、その保全経済会が、サギ団体とされてしまえば、なおさらのことである。大正力の偉業の成果は、文字通り〝一将功なって万骨枯る〟である。正力松太郎の死の後にくるもの p.342-343 報知から日テレ副社長へと移った亨は、福井社長を「福井クン」と、クン付けでよんだという。いうなれば、ハダカで副社長となっている亨の〝実情〟がこれ。タワー建設本部長の亨を助けて、誰が二百億もの金繰りができるか。正力松太郎の死の後にくるもの p.344-345 注目の日本テレビ株主総会。栗田英男の粉飾決算の追及はキビしかった。「いつ、どんな形で粉飾を知り、誰に報告し、誰の指示を受けたか、あるいは、誰に命令されたか」という、一番イタイところを衝いた。正力松太郎の死の後にくるもの p.346-347 亨をかばう人はいう。「巨人の五連覇は、亨オーナーの功績である」と。亨オーナーが、アメリカで見てきて取り入れたフロント・システムなど、オーナーとしての努カと熱意は、球団関係者のよく認めるところ。正力松太郎の死の後にくるもの p.348-349 あの尖鋭だった報知印刷労組が、ついに分裂して第二組合がスタートした。報知新聞労組と報知印刷労組は常に共闘を組み、「新聞を止めるゾ」と経営陣をおびやかしてきたが、足並みが乱れてきた。正力松太郎の死の後にくるもの p.350-351 母屋の報知新聞はどうか。報知では、部長層をさしはさんで、幹部と若手との間に、ポッカリと大きな断層ができてしまった。そこに、長谷川〝ニコポン〟局長の、副社長としてのさっそうたる登場である。正力松太郎の死の後にくるもの p.352-353 〝新しい血〟を入れての、〝報知独立王国〟への第一歩。正力コンツェルンの一翼、あるいは、読売の子会社としてではなく、かつまた、務台直系の子分たちの、務台を背景とした植民地としてではなく、〝新生報知〟を築く。正力松太郎の死の後にくるもの p.354-355 「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。正力松太郎の死の後にくるもの p.356-357 「衆議院議員」として、果して正力は何をしたのであろうか。〝原子力の父〟としてのキャッチ・フレーズは、ピンとこない。代議士としての功績を探るならば、超党派で日本武道館を建設したことであろう。正力松太郎の死の後にくるもの p.358-359 大正力の死のあと、ランドという興行師どもの集団の中では、武へのイヤガラセも表面化しているという。「正力さんには、確か、男のお子さんは一人だったと、聞いていたのですがねえ……」正力松太郎の死の後にくるもの p.360-361 「新聞は真実を伝えるもの」という設定そのものが、もはや、今日の〝新聞〟においては、間違っている。「編集権」が「経営権」に隷属し、「編集権」もまた、マスコミ産業にあっては、すでに〝死語〟となっている。正力松太郎の死の後にくるもの p.362-363 かつて、読売の小島文夫編集局長が「記事がよいからとっている、はわずか五%」と、迷言を吐いた。当時は、編集局長としてのカナエの軽重を問われたが、現在にして想えば、新聞の近い将来を見通した〝卓説〟であった。正力松太郎の死の後にくるもの p.364-365 従業員一人当り部数。新聞経営の健全な形一人当り千部といわれている。読売の七三三部が一番ラクで、毎日の七〇八部が、朝日に百十九万部、読売に七十九万部と、大きく水をあけられた苦戦の姿を物語っている。正力松太郎の死の後にくるもの p.366-367 東京、大阪の二大決戦場。朝日の大阪首位は、読売との差二十五万であるが、読売の東京首位は、朝日を四十七万と大きく離している。それぞれに相手方に〝追いつき追いこせ〟とばかり、激しい販売合戦を展開している正力松太郎の死の後にくるもの p.368-369 こうして、ここ数年のうちには、サンケイの崩壊と毎日の凋落、朝・読の超巨大化という現象があらわれてくる。新聞界の序列AYMSは、サンケイのSではなくて、聖教新聞のSだということである。正力松太郎の死の後にくるもの p.370-371 あとがき正力松太郎の死の後にくるもの p.372-奥付 あとがき(つづき) 著者紹介 奥付正力松太郎の死の後にくるもの あそび紙正力松太郎の死の後にくるもの 見返し正力松太郎の死の後にくるもの 見返し カバーそで正力松太郎の死の後にくるもの 裏表紙 腰巻正力松太郎の死の後にくるもの 背 腰巻背正力松太郎の死の後にくるもの カバー 腰巻