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事件記者と犯罪の間 p.188-189 取材経過が刑事事件になったとすれば記者自身の責任

事件記者と犯罪の間 p.188-189 取材経過の中の違法行為も、結果的に捜査協力だったり、特ダネで飾ったりすれば、捜査当局や新聞社から不問に付されるが、失敗すれば違法行為のみがクローズアップされて、両者から責任を求められるのは当然だ。
事件記者と犯罪の間 p.188-189 取材経過の中の違法行為も、結果的に捜査協力だったり、特ダネで飾ったりすれば、捜査当局や新聞社から不問に付されるが、失敗すれば違法行為のみがクローズアップされて、両者から責任を求められるのは当然だ。

私は事件記者である。警視庁にも三年いたし、警察庁も知っているし、「警察」や「警察官」や「捜査」や、「その感情」にいたるまで知悉していた。現在の事態を判断すれば、当局は感情的にさえなって、私を逮捕するに違いないとみた。起訴と不起訴は五分五分、有罪無罪も五分五分だが、逮捕と目いっぱい二十日間の拘留とは、間違いのないところだ。「ヨシ、二十三日間入ってこよう」と決心した。

当局がどうして旭川を割り出したかを考えてみた。十七日の花田逮捕! もちろんフクはまだ下ッ端だから、フクには連絡しなかったのだろうが、花田には連絡をしたのだろう。小笠原は「花田にも内緒の二人切りのお願いだ」といったクセに、その約束を破ったに違いない。花田が捕まってもすぐ小笠原の居所を自供してはいないだろうから、これはガサ(家宅捜索)で小笠原の手紙を押えられたに違いないとみた。(事実、小笠原は旭川市外川方山口二郎の手紙を出し、花田はこの住所をメモしておいて、ガサで押えられた。当局は山口二郎とは何者かと、十八日から外川方の内偵をはじめたが、それらしい男の姿が見えないので、二十日午後に踏み込んで調べたのだ)

次は社に対する問題だ。〝日本一の大社会部記者〟になるための計画が、最悪の状態で失敗して、逮捕されるのだ。これは捜査当局に対する立場と同じである。新聞社は〝抜いて当り前、落したらボロクソ〟だ。やはり五歩前進の手前で表面化したのだから、立松不当逮捕事件の場合のように、書いた記事のための逮捕とは全く違う。一度、記事として紙面に出たものは、会社自体の責任だが、記事以前のものは、記者自身の責任だ。

取材の過程で、尾行したり張り込んだりの軽犯罪法違反はもとより、縁の下にもぐり込む住居侵入、書類や裏付け証拠品をカッ払う窃盗などと、記者の行動が〝事件記者〟であれば法にふれる機会はきわめて多い。犯人隠避でも、当局より先に犯人をみつけ、それを確保して、会見記の取材や、手記の執筆などをさせてから、当局に通報して逮捕させたり、数時間や一日程度の「隠避」はザラだ。また有名な鬼熊事件では、当時の東日の記者が山中で鬼熊に会見して、特ダネの会見記をモノにしたが、犯人隠避で逮捕された実例さえもある。これらの一時的な取材経過の中の違法行為も、それが結果的に捜査協力だったり、取材が成功して紙面を特ダネで飾ったりすれば、捜査当局や新聞社から不問に付されるのであるが、失敗すれば違法行為のみがクローズアップされて、両者から責任を求められるのは当然だ。

記事以前の取材活動のやり方は、記者個人によってそれぞれ違うが、取材経過が刑事事件になったとすれば、あくまで記者自身の責任で、社会部次長や部長、局長には全く何の責任もない。そこで、私は責任をとって社を退職すべきことだと判断した。もしこれが、一個人の私情や金の誘惑があったとすれば、新聞記者の本質的問題だから、クビになるのが当然だが、私にはそれがないから退職しようと決心した。

捜査当局の色メガネ

私はすぐ社を出て、塚原さんを訪ねた。「貴方は何の関係もない方なのに、事件の渦中に引き

ずりこんで申訳ない。明朝、警視庁へ出頭して、私に頼まれたと事情を説明して下さい。なまじウソをいうとかえって疑われるから…」と、事情を話して、お詫びと私への信頼を謝したのち、私は萩原記者の自宅へ行って、説明しておき、帰宅して辞表を書いた。

事件記者と犯罪の間 p.190-191 私が書いた辞表は受理された

事件記者と犯罪の間 p.190-191 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と温情あふれる言葉さえ下さった。
事件記者と犯罪の間 p.190-191 務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と温情あふれる言葉さえ下さった。

捜査当局の色メガネ
私はすぐ社を出て、塚原さんを訪ねた。「貴方は何の関係もない方なのに、事件の渦中に引き

ずりこんで申訳ない。明朝、警視庁へ出頭して、私に頼まれたと事情を説明して下さい。なまじウソをいうとかえって疑われるから…」と、事情を話して、お詫びと私への信頼を謝したのち、私は萩原記者の自宅へ行って、説明しておき、帰宅して辞表を書いた。

二十一日の月曜日早朝、辞表を持って社会部長の自宅を訪れ、経過を説明して、注意があったにもかかわらず、深入りして失敗したことを謝って辞表の受理方を頼んだ。部長は大いに心配して下され、逮捕されることなく当局の調べをうけられれば、社をやめることもないではないかと刑事部長に折衝して下さったが、私はこれを固辞して、退社し被疑者として逮捕されるべきだと主張した。私には、暴力団との取引を排除して、正攻法で捜査するという、当局の態度がよく判っていたので、私も逮捕さるべきだと思った。それがこの事件に対する当局の態度として正しいし、当然なことだからである。私も刑事部長と捜査二課長に、「取材以外の何ものでもない。だから何時でも逮捕されるなら、出頭するから呼んでほしい」と、自宅の電話番号まで知らせた。社会部の先輩や社の幹部からも、「取材だから辞めることはない」と、私を思って下さるお言葉を頂いたが、小笠原に「自首ではなく逮捕だぞ」と念を押した信念から、私自身の違法行為の責任を明らかにするため、退社して逮捕されることを望んだのであった。社へ迷惑をかけないためである。「苦しい〝元〟記者」との批判もあったが、このような事情である。〝勝てば官軍、敗ければ賊軍〟とは名言であった。

こうして、二十二日正午までに出頭を要求されたが、私が二十日に書いた辞表は二十二日午前、

高橋副社長、務台総務局長、小島編集局長の持廻り重役会で受理された。社で私につけてくれた中村弁護士との打合せをすませ、重役たちに退社の挨拶をしようとしたが、務台重役以外は不在だった。務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と温情あふれる言葉さえ下さった。私はそれでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。記者としての私を理解して頂けたからである。

ところが、逮捕されてみて、私が驚いたことは、捜査当局が、私の行為に対して、意外に「大変な予断」を抱いていて、色メガネでみているということだった。つまり、その色メガネはこういうことである。

小笠原というのは、安藤組随一のバクチ打ちで、賭場では中盆をつとめるほどの腕利きだそうだ。安藤組の賭場は、彼らが正統派のバクチ打ちでないため、あまり格式張らない気易さもあって、ダンベエ(旦那方)の評判が良く、ずいぶんとはやっていたそうである。バクチは、花札のアトサキの変形であるバッタ返しという、単純なものである。

安藤組の縄張りである渋谷は、当然、正統派バクチ打ちのシマでもある。ところが、その安藤の賭場が栄えるので、この正統派バクチ打ちから、「スジを通さない」といって文句がついたそうだ。ところが、これに対し安藤は敢然と答えたという。「オレはグレン隊だ。バクチ打ちなら、スジを通さないことは悪いだろうが、グレン隊にスジもヘチマもあるか。グレン隊だってバクチ

もやらあ。スジで文句があるならケンカで来い」と。

事件記者と犯罪の間 p.192-193 私に対するもっと重大な反感があるのを感じた

事件記者と犯罪の間 p.192-193 警視庁の描いた〝予断〟は、三田は王との関係で安藤一派の一味だった。三田、王、小林、安藤、小笠原とつながるもっと重大な犯罪の背景があるに違いないと、こうニランだのである。
事件記者と犯罪の間 p.192-193 警視庁の描いた〝予断〟は、三田は王との関係で安藤一派の一味だった。三田、王、小林、安藤、小笠原とつながるもっと重大な犯罪の背景があるに違いないと、こうニランだのである。

安藤組の縄張りである渋谷は、当然、正統派バクチ打ちのシマでもある。ところが、その安藤の賭場が栄えるので、この正統派バクチ打ちから、「スジを通さない」といって文句がついたそうだ。ところが、これに対し安藤は敢然と答えたという。「オレはグレン隊だ。バクチ打ちなら、スジを通さないことは悪いだろうが、グレン隊にスジもヘチマもあるか。グレン隊だってバクチ

もやらあ。スジで文句があるならケンカで来い」と。

さすがのバクチ打ちたちも、この答に唖然として、引退ったというが、それほどに彼の賭場ははやっていた。

小笠原が、逃げ切れないから自首すると私に約束しながら、その日をのばしていた理由の一つにも、彼が安藤組のバクチの客扱係で、すでに家宅捜索でこの客の名刺がすべて押収されているので、堅気の社長たちであるお得意さんに迷惑がかかる、ということがあったのである。

ともかく、警視庁の描いた〝予断〟はこうである。王長徳は国際バクチの三大親分の一人で、その盛んな安藤の賭場というのは、王の縄張りである。三田は王との関係で安藤一派と以前から付き合いがあり、その一味だったのだから、安藤組の腕利きの小笠原を、取材というカモフラージュで逃がしてやった。そうでなければ、十五年も勤めた記者経歴を棒に振ってまでかくまい、しかも捕まってから平然としていられるはずはないと。だから、三田、王、小林、安藤、小笠原とつながるもっと重大な犯罪の背景があるに違いないと、こうニランだのである。

私は出頭すると、まず特捜本部の上田係長のもとにいった。中村弁護士と萩原記者とが挨拶して、私を引渡すと帰っていった。すると係長は即座に、「とんでもない奴だ」という意味の口小言をいった。それを聞いて、私は、「自分たちが苦労して捜査しているのに邪魔をしやがって!」という感情のほかに、私に対するもっと重大な反感があるのを知って、出頭する前に担当記者たちから聞いて知っていた〝予断〟が、本格的な感情だなと感じた。

捜査当局がこのような私に対する〝予断〟を持っていたことが、逮捕へ踏切らせた要因であろう。そしてそのことは、調べに当った石村捜査主任(警部補)、木村警部の口から判ったことでもある。また、弁護士からの伝聞だが、「東京地検の岡崎次席検事が、三田君は王や安藤組とそれは深いつながりがあるようですよ、といっていたが、君は岡崎君とは仲が悪いようだネ」といった言葉からも、〝予断〟があったといえるのである。

激励する妻の言葉

今度の事件を妻に話したのは、二十日の夜「事、敗れたり」と判ってからだった。私は笑いながら「完全にアウトだよ」と、努めて安心させるように語ったが、結婚以来丸十年、常に身を挺して危険な仕事に打込んできている私に、熱心なファンとして協力してきた妻は、はじめて涙ぐんだ。

私はさておき、無力な妻や子たちにとって、私の体当りで打込む取材は、どんなにか不安と恐怖とを与えたであろうか。

しかし、妻は私の良き協力者だった。幻兵団事件という、ソ連スパイの記事を書いた時も、生れたばかりの長男を抱きしめて、幾度か恐怖にふるえたことがあったろうか。それでも彼女はいった。

「パパが記者というお仕事のために死ぬようなことがあったら、後に残った私たち母子のことが

心配でしょう。でも大丈夫よ。パパのお葬式を済ませたら、後追い心中をするからね。子供には可哀想だけど、パパのいない生活なんて考えられないし、皆であの世で一緒に住めるンだから、安心してお仕事のために死んで頂戴よ」

事件記者と犯罪の間 p.194-195 私の警視庁の調べは和やかだった

事件記者と犯罪の間 p.194-195 私を担当する石村勘三郎という警部補は、どんな奴だろうかと、私の視線と彼の眼とが合った時、サッと表情が変るのを、私は確かに見た。その時、私は「負けた」と思った。「この男にだけは、何も彼も話しても、判ってもらえる」
事件記者と犯罪の間 p.194-195 私を担当する石村勘三郎という警部補は、どんな奴だろうかと、私の視線と彼の眼とが合った時、サッと表情が変るのを、私は確かに見た。その時、私は「負けた」と思った。「この男にだけは、何も彼も話しても、判ってもらえる」

しかし、妻は私の良き協力者だった。幻兵団事件という、ソ連スパイの記事を書いた時も、生れたばかりの長男を抱きしめて、幾度か恐怖にふるえたことがあったろうか。それでも彼女はいった。
「パパが記者というお仕事のために死ぬようなことがあったら、後に残った私たち母子のことが

心配でしょう。でも大丈夫よ。パパのお葬式を済ませたら、後追い心中をするからね。子供には可哀想だけど、パパのいない生活なんて考えられないし、皆であの世で一緒に住めるンだから、安心してお仕事のために死んで頂戴よ」

こういって激励してくれたのである。だから、私には後髪をひかれる心配は一つもなかった。危険な仕事でも、家庭を顧みずに打込めたのである。金がなければ、梅干一つで何日でも私の留守を守れる妻だった。

「パパほどステキな新聞記者はいないのよ。日本一の記者なンだから」

彼女はそういって子供たちに教えこんでいた。読売同期の青木照夫が、「三田こそ典型的な、根ッからの社会部記者ですヨ」と、妻にいったそうだが、私には「和子さんは根っからの記者の女房だナ。和夫と和子というのからして、本当の似た者夫婦だ」といっていた。

話を本筋にもどして、私を担当する石村勘三郎という警部補は、どんな奴だろうかと、私の視線と彼の眼とが合った時、サッと表情が変るのを、私は確かに見た。その時、私は「負けた」と思った。「この男にだけは、何も彼も話しても、判ってもらえる」

私は二十二、三の両日に、何もかも話してしまった。そして第一回の供述調書ができ上った。石村主任は私という被疑者にジカにふれているだけに、私をよく理解してくれた。警視庁の御自慢の地下調べ室は、防音や通風が完備していると聞いていたが、見ると聞くとは大違いで、三十室ほどの小さな調べ室に分れていたが、数室先の怒鳴り声がビンビンと響いてくる。午後には熱気

がこもって、もうドアを閉め切ることができない。

「こんなインチキな調べ室を作ったりして、警視庁にも汚職があるんじゃないか」

ドアが開け放しのため、便所に立った時、廊下から各室の被疑者の顔が見える。横井事件関係のホシの、ほとんどすべてに会えたほどなので、私は主任に冗談をいったりした。

他の部屋からは猛烈な怒鳴り声が聞えてくるが、私の部屋は談笑ばかりだった。調べというのは、怒鳴ったりしてコワイほうが被疑者にとっていいうちで、優しくなったら被疑者には悪くなった証拠だといわれるが、私の警視庁の調べは、最初から優しく、和やかだった。

検事は東京地検刑事部の第一方面担当の荒井道三という人だ。警視庁管内を八方面に分けて、各方面本部があるのだが、検察庁でもそれに対応して、方面別に専任者をおいている。私たち検察庁担当記者は、副部長クラスまでは知っているが、荒井検事にはもちろんはじめて。地検のあの汚いバラックの二階の小部屋に入った時、「オヤ? こんな年配で貫禄のある立派な検事が、どうして平検事でポン引だのコソ泥だの、ゴミみたいなホシを調べているのだろうか」と、まず感じた。

「逮捕状の容疑事実をどう思うか」

「全面的に否認します。第一に塚原勝太郎と共謀とありますが、共謀ではありません。第二に小笠原を庇護する目的とありますが、警視庁の捜査に協力する目的です。第三に山口二郎と偽名せしめとありますが、私は山口二郎と紹介されたので、私が偽名させたものではありません。第四

に逃走させるためとありますが、自首させるためです」

事件記者と犯罪の間 p.196-197 立松事件のニュース・ソースの検事

事件記者と犯罪の間 p.196-197 ニュース・ソースは絶対秘匿せよという社の命令だった。だから、私はそれを守ったのだが、結果的に間違ったニュースを提供したソースをも、果して秘匿しなければいけないのか?
事件記者と犯罪の間 p.196-197 ニュース・ソースは絶対秘匿せよという社の命令だった。だから、私はそれを守ったのだが、結果的に間違ったニュースを提供したソースをも、果して秘匿しなければいけないのか?

私たち検察庁担当記者は、副部長クラスまでは知っているが、荒井検事にはもちろんはじめて。地検のあの汚いバラックの二階の小部屋に入った時、「オヤ? こんな年配で貫禄のある立派な検事が、どうして平検事でポン引だのコソ泥だの、ゴミみたいなホシを調べているのだろうか」と、まず感じた。
「逮捕状の容疑事実をどう思うか」
「全面的に否認します。第一に塚原勝太郎と共謀とありますが、共謀ではありません。第二に小笠原を庇護する目的とありますが、警視庁の捜査に協力する目的です。第三に山口二郎と偽名せしめとありますが、私は山口二郎と紹介されたので、私が偽名させたものではありません。第四

に逃走させるためとありますが、自首させるためです」

私はハッキリと否認した。

「しかし、結果的に行為は犯人隠避の行為になってしまったことは認めます。小笠原は指名手配犯人という認識もありました」

検事は私の言い分を、その通りに口述して短い調書にした。私が署名し捺印した時、検事は突然、憎々しげに私を叱りつけた。「自首などしてもらわなくていいんだ」

お前たちが協力などとノサばりでる幕じゃない。自首などしなくたって捕えてみせるぞ、それがオレの商売だ、とでもいわんばかりの口調である。

得意気に気負っている彼の背中の国家権力の姿をみた。

根っからの社会部記者

〝罪を憎んで、人を憎まず〟

私は去年の立松事件の時にも、身柄不拘束のまま被疑者として調べをうけた。やはり東京高検の川口検事だけあって、その調べは良識そのものであった。私は司法記者クラブのキャップとし

て、立松事件の真相を知っている。のちにあの事件は、政治的解決の手が打たれて、読売新聞が記事の取消を行い、告訴側が告訴を取下げて一応解決した。

私は当時読売の記者であった。そして、ニュース・ソースは絶対秘匿せよという社の命令だった。だから、私はそれを守ったのだが、結果的に間違ったニュースを提供したソースをも、果して秘匿しなければいけないのか? これは新聞界でも立松が一方的に悪い記者として片付けられているようだが、問題は残っているはずである。立松事件のニュース・ソースの検事はあの騒ぎの中で平然と顔色一つかえずに執務していた。

(写真キャプション)〈検察批判〉の温床となったのは立松事件から

私はこの一年間、司法クラブに勤務していて売春汚職、立松事件、千葉銀行事件と、三回の大きな事件に会い、そのたびに、「検察は政党

の私兵であってはならない」と主張した。

事件記者と犯罪の間 p.198-199 主任の態度からやっと安藤だと判った

事件記者と犯罪の間 p.198-199 「オイ読売、身体は大丈夫かって声をかける奴がいるんだけど」「声をかけた奴が判ったよ。顔に傷があるんだけど、誰だい?」「何だい? オメエ知らねェのかい?」「ハハン、安藤かい?」
事件記者と犯罪の間 p.198-199 「オイ読売、身体は大丈夫かって声をかける奴がいるんだけど」「声をかけた奴が判ったよ。顔に傷があるんだけど、誰だい?」「何だい? オメエ知らねェのかい?」「ハハン、安藤かい?」

私はこの一年間、司法クラブに勤務していて売春汚職、立松事件、千葉銀行事件と、三回の大きな事件に会い、そのたびに、「検察は政党

の私兵であってはならない」と主張した。新聞の記事にできない時は、これを雑誌記事にして、或る時には、激しく検事を攻撃した。地検のある地位の検事などは、私が数年も前にその検事を攻撃した記事を書いたという理由で、私に対して決していい感情を持っていないということだ。そして彼はそのことを私の部下の記者に話している。しかし、私にはその記事の記憶がない。人違いだったら、今や被疑者になっている私には極めて不利なことだ。

〝罪を憎んで、その人を憎まず〟という古諺がある。警視庁の横井事件特捜本部の部員たち、つまり刑事たちが、私に対して〝憎しみ〟を抱いたのは当然である。彼らがあの炎天の中を汗水たらして探しもとめていた犯人を、私がかくまったというのだから、それが当然である。だが、私の調べ室に入ってきた他の調べ室の刑事たちも、決して私個人を憎みはせず、〝罪を憎んだ〟のだった。ことにその態度は、私の担当の石村主任以下二十四号室の刑事たちに良く現れていた。

従って調べ以外では、私個人に対しても、差入れに通ってくる妻に対しても、きわめて同情的であり、思いやりにみちていた。

「ネ、今朝、房内で洗面の時、オイ読売、身体は大丈夫かって、声をかける奴がいるんだけど、金網はあるしメガネはないし、誰だか判らないンだが、誰だろう」

「フフ、そんな奴がいたら、馴れ馴れしく言葉をかけるナッて、いってやれ!」

石村主任はフクちゃん漫画のキヨちゃんのような顔をして笑う。翌日、

「今朝、運動の時、声をかけた奴が判ったよ。顔に傷があるんだけど、誰だい?」

「何だい? オメエ知らねェのかい?」

「ハハン、安藤かい?」

房内には顔に傷のある男が多いので、主任の態度からやっと安藤だと判った。拘留訊問の時に志賀も千葉と一緒になったが、顔を合わせていても知らないのだから、私が彼ら一味と何の関係もないことはすぐ明らかだ。

家宅捜索では人名簿や家計簿を持ってきていた。妻がキチンとつけている家計簿は、この一年の間、不時の収入もなく、月のうち何回か現金ゼロの欄があるので、刑事たちはニヤリとした。私の引出しからは冬服やカメラの質札もあった。社の運転手たちが、「局長の家より立派だ」とほめてくれた応接間の家具類は、丸井の十カ月払いの何年間かに及ぶ領収書が出てきた。

家の増築の費用は、社の住宅資金と銀行融資である。

刑事たちはこれらの事実を克明に歩いて調べ、金銭関係は何もないことが明らかになった。バーや飲み屋のツケもあるからである。

「犯人隠避」で起訴される!

調べの進捗とともに、捜査当局が抱いた〝予断〟は全くくずれ去った。石村主任には良く了解ができたのである。だが、上の方ではまだ釈然とせず、七月末になると、木村警部が直接のり出してきた。石村主任の調べは生ヌルイし、三田にゴマ化されている、と判断したのだろう。

事件記者と犯罪の間 p.200-201 私にスパイになれと拳銃で強制した

事件記者と犯罪の間 p.200-201 ソ軍政治少佐の、それこそ〝死の恐怖の調べ〟を想い起していた。それらにくらべれば、十日か二十日も黙秘し続けることは〝軽い気持〟だ。殺される心配のないだけでも、大変な違いである。
事件記者と犯罪の間 p.200-201 ソ軍政治少佐の、それこそ〝死の恐怖の調べ〟を想い起していた。それらにくらべれば、十日か二十日も黙秘し続けることは〝軽い気持〟だ。殺される心配のないだけでも、大変な違いである。

ついに私の調べ室にも、怒鳴り声が響き出した。使う言葉こそ叮寧だが、その語調や音量などは文字にはできない。被疑者がどんなに正直に、真相を供述しても、〝捜査二課の調べ〟というのは、彼らが抱いた〝予断〟通りの調書に仕立て上げるものと覚えた。

私は「もう一言だって口を利かないぞ」と心に誓った。暑くてたまらぬ部屋に、警部の大声がはね返って、いよいよあつい。

「幻兵団事件」の時、私は約一カ月たらずに八回のトップを書いた。ところが最初の反響は、米軍のCIC呼び出しだった。田中耕作という二世中尉が調べ主任だ。

「どういう目的で書いたか? こんなことをバクロすればソ側スパイに殺されると思わないか。生命が惜しくないのか? 怖くないのか」

調べは厳しかった。私の答は簡単だ。

「書いたのは新聞記者の功名心からだ。生命は惜しくない。戦争と捕虜とで、二度も死んだはずの生命だ。新聞記者として、仕事のために死ぬのは本望だ。自分の記事のために死ぬなんて、ステキだ」

「新聞記者の功名心だって? 生命の危険を冒した功名心? 信じられない。納得できない」

このスパイ係の中尉は、私がどんなに耳よりなデータを説明していても、四時になると調べを中途でやめ、書類をスチール・ボックスに納めて、自家用のビュイックでグラントハイツの自宅へ帰ってしまう。「また明日」と。そして、今度の事件の捜査二課のように「納得できない」の

連発である。

彼の〝予断〟は、生命の危険を冒しても、こんな記事を書くはずはない。これはソ連側と了解の上、何らかの目的で(反ソ風に装ってアメリカ側に近づく)書いたに違いない、と考えていたようだ。被疑者が重大な供述を始め出していても、その口を封じて翌日に廻して、アロハで市民生活をたのしもうというスパイ捜査官には、とても〝記者の功名心〟など理解できるはずもない。

木村警部のドナリ声を聞きながら、私はこの米軍中尉の執拗な調べや、私にスパイになれと拳銃で強制したソ軍政治少佐の、それこそ〝死の恐怖の調べ〟を想い起していた。それらにくらべれば、十日か二十日も黙秘し続けることは〝軽い気持〟だ。殺される心配のないだけでも、大変な違いである。

立松の名が出たので、私は彼の話を思い出した。彼が逮捕された経験で、「黙秘する時には、そっぽを向いて、西部劇の筋書を思い出せ」と語っていた。それに倣って、映画の想い出にひたっていた。

彼はクタビれたのか、ひとしきり黙ってしまった。静かになったので、フト我に返って、「アァ、今度は口調をかえて、〝話しかけ〟でくるのだナ」と考えていると、案の定「ネェ、三田君、ようッく考えてもみなさい」と始めてきた。「そのうちに親兄弟、女房子供だゾ」と思ったら、その通りの言葉が出てきたので、下を向いたまま、腹の中で大笑いしてしまった。

満期の八月十三日が迫ってくると、三、四日続けて夜の調べがあった。ところがそれはすべて 小笠原の他の犯罪事実についてである。

事件記者と犯罪の間 p.202-203 短銃を不法所持していた小笠原を逃がしたという

事件記者と犯罪の間 p.202-203 夜の調べがあった。ところがそれはすべて小笠原の他の犯罪事実についてである。これをみて、私は小笠原の殺人未遂の共同謀議が、起訴できないのだなと感じていた。
事件記者と犯罪の間 p.202-203 夜の調べがあった。ところがそれはすべて小笠原の他の犯罪事実についてである。これをみて、私は小笠原の殺人未遂の共同謀議が、起訴できないのだなと感じていた。

満期の八月十三日が迫ってくると、三、四日続けて夜の調べがあった。ところがそれはすべて

小笠原の他の犯罪事実についてである。これをみて、私は小笠原の殺人未遂の共同謀議が、起訴できないのだなと感じていた。検事は、私に「何かほかのヤマについて聞いたろう?」と、根掘り葉掘りにきいてくる。バクチは? 傷害は? ピストルは? と丸っきりの誘導尋問である。

検事の態度が柔かくなった。雑談が入る、私をねぎらう。

「あんたも今度は得難い経験をしたネ」

「新聞記者ッて、こんなことをチョイチョイするらしいね。昔、鬼熊事件というのがあったそうだ」

調べ官が優しくなれば、被疑者には不利だという。この教えがあるけれども、やはり被疑者にとっては、優しくされれば、つい調べ官の意を迎えたくなるのは、拘禁者の当然の心理だ。

荒井検事や、木村警部の前にかしこまっている男には、二人の心があった。一人はあわれな被疑者であり、一人は、その調べを傍聴している根ッからの記者だった。

私が司法クラブにいる間に、八海事件をはじめ、二股事件、児島事件などと、無罪になったり原審差戻しになった判決が相次いで起り、「またも検察の黒星」といった見出しの記事を書いた記憶が生々しい。

それらの判決理由は、被告の供述が、強制もしくは誘導されていて任意性がなかったり、証拠が不充分だったりしたものだ。そして今、自分が被疑者となって、調べを受けてみてはじめて思い当らせられた。

私自身の立松事件の体験では、被疑者でありながらも、川口検事に受けた〝良識ある取調べ〟から、「検事の黒星」ということに、七割の疑念を持っていたのである。静岡県下の田舎警察の、捜査主任あたりでは供述を強制することもあり得るだろうが、まさか、検事までが、と思っていたのである。

被疑者となると、全く別だ。小笠原が何度も私にいっていたように、「私は事件に関係がない」という言葉が、検事の調べから、だんだんに本当らしく感じられてきた。「小笠原が起訴できないのじゃないかな」、そう思えば、ただもうひたすらに、自由がほしかった。拘留満期前に一日でも早く釈放されて、夏休みだというのに遊んでやれない子供や妻のもとに帰りたかった。

起訴されたくなかった。逮捕と拘留は覚悟していたといえ、やはり不起訴になりたかった。結婚十年、不在勝ちの記者生活をやめたのだから、当分家に落ちついて、妻子と遊んでやりたかった。一週間目には子供の夢さえ見たのだ。

だが満期の八月十三日、「犯人隠避ならびに証拠いん滅」罪で起訴された。五月二十六、七日ごろ(注、横井事件とは全く関係がない)短銃を不法所持していた小笠原を短銃不法所持の手配犯人だと承知して逃がしたというのである。また証拠いん滅というのは、小笠原を横井事件の重要な証人だと承知して逃がしたということだ。一体これはどうしたことだろう。

つまり、小笠原や私を手配したり逮捕したりしたことと、すっかり違うことなのだ。もし小笠原がピストル不法所持だけの手配犯人なら、私は会ってくれと頼まれたって会やしない。私は忙 しいのである。

事件記者と犯罪の間 p.204-205 私の起訴などグレン隊のインネンそのものである

事件記者と犯罪の間 p.204-205 今の印象をいえば、当局のサギに引っかかって、無実の罪におとしいれられようとしている感じである。小笠原を殺人未遂犯人として手配し、私にそう思いこませたのは、一体、どこのどいつなのだ!
事件記者と犯罪の間 p.204-205 今の印象をいえば、当局のサギに引っかかって、無実の罪におとしいれられようとしている感じである。小笠原を殺人未遂犯人として手配し、私にそう思いこませたのは、一体、どこのどいつなのだ!

だが満期の八月十三日、「犯人隠避ならびに証拠いん滅」罪で起訴された。五月二十六、七日ごろ(注、横井事件とは全く関係がない)短銃を不法所持していた小笠原を短銃不法所持の手配犯人だと承知して逃がしたというのである。また証拠いん滅というのは、小笠原を横井事件の重要な証人だと承知して逃がしたということだ。一体これはどうしたことだろう。
つまり、小笠原や私を手配したり逮捕したりしたことと、すっかり違うことなのだ。もし小笠原がピストル不法所持だけの手配犯人なら、私は会ってくれと頼まれたって会やしない。私は忙

しいのである。

小笠原が横井事件の証人だと承知していたって? とんでもないいいがかりである。私が承知していたことは、小笠原は横井事件の狙撃犯人であり、瓜二つの千葉に訂正されたけど、やはり小笠原が狙撃犯人かもしれないということである。狙撃犯人だと思えばこそ、狙撃した煙も消えないようなピストルを持っていることも当然併せ考え得るのだ。

今の印象を忌憚なくいえば、当局のサギに引っかかって、無実の罪におとしいれられようとしている感じである。刑法のサギ罪のように、人を特ダネという欺罔におとしいれて、読売記者という財物を騙取(へんしゅ)されたのだ。

小笠原が横井事件と関係がなくとも、グレン隊であればアイ口やピストルだって持ち歩くだろうに、それが一面識もなかった読売記者の私と、一体何の関係があるのだ。こうなると、私の起訴などは、街のグレン隊のつけるインネンそのものである。

小笠原を横井殺人未遂事件の犯人の重要な一人として指名手配したのは一体誰なのだろう。捜査本部はもちろん捜査二課にさえ顔出ししたことのない私には、新聞記事以外に事件のことは知らない。新聞には小笠原が「安藤組大幹部」とあったし、「射ったのは小笠原」ともあった。それだからこそ、私は大特ダネをものにしようと考えたのである。

私は出所して、小笠原の起訴事実を知り、私の起訴状を読んで驚いた。こうなると、条文通りの法律論かも知れないが、机上の空論だといいたくなる。そして、読めた。荒井検事の優しい言

葉や、笑顔や、あの調書の取り方が。私には横井狙撃犯人としての小笠原しか関係がないんだ。ピストルを持って盛り場をうろついたかもしれないグレン隊に、誰が十五年の記者経歴をかけるものか、と叫びたい。私には名誉も地位も将来も、私の収入で生活し学んでいる老母と妻子がいるんだ。〝日本一の記者〟になれるのに値する事件と犯人だと思えばこそ、やったことじゃないか。小笠原が横井の殺人未遂犯人でないのならば、私は何の関係もないはずだ。小笠原を殺人未遂犯人として手配し、私にそう思いこませたのは、一体、どこのどいつなのだ!

万年取材記者

私がもし、サラリーマン記者だったなら、もちろん、〝日本一の記者〟などという、大望など抱かなかったから、こんな目にも会わなかったろう。もし、それでも逮捕されたとしても、起訴はされなかったろう。

七月の四日すぎ、多分、七日の月曜日であったろうか、警視庁キャップの萩原君が、ブラリと最高裁のクラブにやってきた。二人で日比谷公園にまでお茶をのみに出かけた。

「オイ、岸首相がソウカンを呼びつけたという大ニュースが、どうしてウチにはのらなかったのだい、まさか政治部まかせじゃあるまい」

と、私はきいた。

「ウン、原稿は出したのだが、それが削られているンだ。実際ニュース・センスを疑うな。削っ

た奴の……」

事件記者と犯罪の間 p.206-207 「東京租界」では一千万ドルの損害賠償慰籍料請求がされた

事件記者と犯罪の間 p.206-207 「東京租界」の時、原部長は「名誉毀損が何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ」とだけ命じた。辻本次長は「記事をツブされないように、本人会見は締切の二時間前にしろよ」これほど取材記者の感激する言葉があるだろうか。
事件記者と犯罪の間 p.206-207 「東京租界」の時、原部長は「名誉毀損が何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ」とだけ命じた。辻本次長は「記事をツブされないように、本人会見は締切の二時間前にしろよ」これほど取材記者の感激する言葉があるだろうか。

「オイ、岸首相がソウカンを呼びつけたという大ニュースが、どうしてウチにはのらなかったのだい、まさか政治部まかせじゃあるまい」
と、私はきいた。
「ウン、原稿は出したのだが、それが削られているンだ。実際ニュース・センスを疑うな。削っ

た奴の……」

彼は渋い顔をして答えた。

「どうしてウチは事件の記事がのらねエンだろう。実際、立松事件の影響は凄いよ」

「イヤ、社会面は事件だというオレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?」

「エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や科学部の出店でいいというのか?」

私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが「古い」ンだって?

立松事件の、責任者処分で、読売社会部は全く一変した。私のように入社第一日目以来の社会部生え抜きには、一変というより「弱体化」であった。社会部長が社会部出身でなくとも、それが即ち「弱体」だとは思われない。部長は統轄者だからである。

適切な補佐役さえいれば充分である。金久保部長は、事実、社会部を知らないけど、意欲的な部長だった。就任と同時に部員を知るために、各クラブ単位で膝つき合せての懇談が始まった。司法クラブでは、無罪になる裁判の多いことが話題になるや、部長はいい出した。「裁判という続きものをやろうじゃないか」私以下三人の記者は頭を抱えた。「裁判」を社会面の続きもの記事にとりあげようというのだから、その意気たるや壮である。そして、その心構えになりかけたころ、この企画は消えさった。理由はしらないが、果して、誰がこれを指導するのか、ということかもしれない。

坂内レインボー社長が釈放された。私の部下二人は〝政党検察〟に切歯扼腕して、これはどうしても解説を書かねばと主張した。本社へ連絡すると、「是非頼む」という。二人はこの数カ月の夜討ち、朝駈けの成果を、会社の立場も考慮した慎重な労作にまとめた。夜の十時ごろ、原稿を出すと、その労作は読まれもせずボツになった。二人の記者がどんなに怒ったか、その人は知るまい。

「東京地裁では……」の原稿を送ると「これは一審か二審か」の問合せがくる。武蔵野の巡査殺し犯人の二審判決が、一審の無期を支持すると、各社はベタ記事なのにウチはトップになる。ヴァリューが判断できない。これでは「裁判」という画期的な企画が消えるのも無理はないのである。

かつて、「東京租界」の時、原部長はただ一言、「名誉毀損の告訴状が、何十本とつきつけられてもビクともしないだけの取材をしろよ」とだけ命じた。指導の辻本次長はいった。「奴らはいろいろと政治的な手を打って、社の幹部に働きかけてくるから、記事をツブされないように、本人に会見するのは締切の二時間前にしろよ」これほど取材記者の感激する言葉があるだろうか。

私たち記者だって、会社には営業面の問題があることも知っている。その点と取材との調和も判る。だから、千葉銀事件などの微妙さも理解できる。「東京租界」では一千万ドルの損害賠償慰籍料請求が弁護士から要求され、文書では回答期限を指定してきた。それと聞いた辻本次長は 「面白い、その裁判が凄いニュースだし、継続的特ダネになる」とよろこんだ。

事件記者と犯罪の間 p.208-209 私は取材費も遠慮なく切った

事件記者と犯罪の間 p.208-209 取材費も切らず、仕事もせず、サラリーだけのお勤めをして、そのうちにはトコロ天式にエラクなろうという、本当のサラリーマン記者がほとんどである。
事件記者と犯罪の間 p.208-209 取材費も切らず、仕事もせず、サラリーだけのお勤めをして、そのうちにはトコロ天式にエラクなろうという、本当のサラリーマン記者がほとんどである。

私たち記者だって、会社には営業面の問題があることも知っている。その点と取材との調和も判る。だから、千葉銀事件などの微妙さも理解できる。「東京租界」では一千万ドルの損害賠償慰籍料請求が弁護士から要求され、文書では回答期限を指定してきた。それと聞いた辻本次長は 「面白い、その裁判が凄いニュースだし、継続的特ダネになる」とよろこんだ。

それなのに、千葉銀と聞いただけで、原稿は読まれもしない時代に変っている。書くことを命令したあげくの果てに!

私は、私のすべてが読売のものだと信じていただけに、取材費も遠慮なく切った。たとえ、それがそのまま飲み屋の支払いにあてられる時も、「会社のためになる」という信念があったからだ。

ニュース・ソースの培養は、何も事件のない時が大切だからだ。部長の承認印をもらう時、伝票の金額を横眼で読み取る先輩。後輩の名をかりて伝票を切る記者。出張の多い同僚をウラヤましがる男。ETC。これが一体、「新聞記者」だろうか。

「新聞記者」の採用試験には、やはり花形職業として人気が集中されている。だが、採用される今の記者には、記者の職業的使命感など、全くない。

取材費を切るためにはやはり名目がなければならないし、それだけ余分に働かねばならない。その位なら一層のこと、取材費も切らず、仕事もせず、サラリーだけのお勤めをして、そのうちにはトコロ天式にエラクなろうという、本当のサラリーマン記者がほとんどである。

サツ廻りは警察にクラブをつくり、麻雀と花札である。先輩の悪い点だけを真似して、自分の担当の署の捜査主任も知らない男もいる。

雑誌原稿を書こうなどとは思ってもみない。すすめても、それにとられる時間が惜しいと考えている。原稿を書くことが、文章の練習だとは思わない。ロクな原稿を書けもしないで、添削の

筆を入れると不愉快そうな顔をする。

私がサツ廻りの頃は、カストリ雑誌時代だったが、どんなにタダ原稿を書かされたことか。それでも、自分の原稿が活字になったよろこびで、金を忘れていたものだ。

度々のことだが、朝連解散を号外落ちした時、私たち三人の記者は恐る恐る社へ上った。

三階の編集局のドアをあけると、竹内社会部長は、はるかかなたの自席から、私たちをドナリつけた。「バッカヤロー!」と。その声は編集局中にとどろいた。いよいよ縮み上った私たちが、そろりそろりと部長席に近づくと、もはや小言はなく、森村次長からのお説教があっただけだった。

時代は変った。このような光景は全くなくなり、デスクは仕事を部下にいいつけるのに、わざわざ「××ちゃん」とか、「〇〇さんや」とか、御機嫌を取りながらの、懇願であって、もはや命令ではない。兵隊も、下士官も、将校も、今や前方の敵をみてはいない。後方の将軍や参謀ばかりである。

私はある夜、社会部長と酒をのむ機会を得て、意見具申した。

「萩原を次長にしてデスクにおかねばダメです。私を警視庁キャップにして下さい。裁判所キャップには渡井が適任です。この方が社会部のためになると思います」と。部長は「萩原か? 幾つだ」「私と同期ですから、三十七でしょう」「まだ、早いだろう」と。そのまま話は終った。

森村次長は三十二歳、辻本次長は三十三歳で、いずれもデスクとなり、読売社会部の歴史を造 った人である。

事件記者と犯罪の間 p.210-211 オレはデスクという行政官より万年取材記者だ

事件記者と犯罪の間 p.210-211 役所の発表をそのまま取次ぐだけのサラリーマン記者を整理して、その分は通信社へまかせ、「考えダネ」記者のみを抱える時ではあるまいか。〝社会部は事件〟である。私たちは〝古く〟ない。
事件記者と犯罪の間 p.210-211 役所の発表をそのまま取次ぐだけのサラリーマン記者を整理して、その分は通信社へまかせ、「考えダネ」記者のみを抱える時ではあるまいか。〝社会部は事件〟である。私たちは〝古く〟ない。

「萩原を次長にしてデスクにおかねばダメです。私を警視庁キャップにして下さい。裁判所キャップには渡井が適任です。この方が社会部のためになると思います」と。部長は「萩原か? 幾つだ」「私と同期ですから、三十七でしょう」「まだ、早いだろう」と。そのまま話は終った。
森村次長は三十二歳、辻本次長は三十三歳で、いずれもデスクとなり、読売社会部の歴史を造

った人である。三十七歳の次長が早いということは、有能無能にかかわらず、人事は順序ということだろうか。社会部長が代って、部員の六、七割だかを移動したという毎日では、私と同期の昭和十八年組をデスクにして、「東京祖界」の亜流ながら、「白い手・黄色い手」「暴力新地図」などの佳作を生んでいる。読売のために惜しまねばならないことだ。

ある記者はついにたまりかねたようにいった。「君と萩原と加藤祥二がデスクにならねば 社会部も終りだネ」

私はその時「いや、デスクに萩原と加藤がいれば充分さ、オレは警視庁だ。オレはデスクという行政官より、万年取材記者だ」「でないと、雑誌原稿が書けないからだろう」あとは笑いになった。

私は警視庁や警察官が好きなので、真面目に警視庁へ代りたいと希望するようになった。今度の横井事件の〝五人の犯人の生け捕り〟は私の警視庁転任土産ともいうべき着想もあったのである。

今、こうして、失敗して退職する結果になってみると、私には萩原君の「もしかすると、もうオレたちの方が古いのではないか」という呟きが想い起される。会社の金をできるだけ使わずにサラリーだけ働き、危険を冒したりして会社に迷惑を与えず、企業としての合理的かつ安全な、その上幹部のためにのみなる社員——これを「新聞」という企業が要求するような時代に変っているのではあるまいか。

私は今でも新聞記者だ!

今やテレビと週刊誌の興隆は凄まじい。テレビの撮影機が、アイモのように手軽になれば、新聞の速報性は、ラジオとテレビに完全に奪われるであろう。映画「先生のお気に入り」で、ゲーブルの社会部長が「考え種」の宿題をドリス・デイの新聞学教授に出される。「何故?」「何故?」と、深く掘り下げた「考え種」が新聞に要求されているというのだ。

だが、日本の現実では、それを「特別レポート」という題で実現しているのは週刊誌である。だが、これをやるのが「新聞」の仕事ではないだろうか。

役所の発表をそのまま取次ぐだけのサラリーマン記者を整理して、その分は通信社へまかせ、「考えダネ」記者のみを抱える時ではあるまいか。〝社会部は事件〟である。私たちは〝古く〟ない。

サツ廻り記者が、遊びに興じ、送稿するのは各社のうちの代表が聞いてきたことを変形するだけ。捜査主任の名前も顔も知らなくなり、クラブ記者もまた同じく、発表記事を変形させるだけならば、これはもはや一通信社に加入すれば事足りるはずだ。多数の記者を専属に抱えておく必要はない。

編集者も仕事のさいに部下の機嫌をとる必要もなく、朱筆を入れるのに遠慮もいらなくなる。すると新聞は印刷能力と、少数のプランナーと編集記者と、自社ものの少数の記者しか必要とし

なくなってこよう。

事件記者と犯罪の間 p.212-213 ニュース・ソースは記者本人の財産である

事件記者と犯罪の間 p.212-213 私は読売を退社したが、心はいまでも新聞記者である。多くの編集者は社名のある新聞記者でないと、ニュース・ソースに近づけないと誤って考えている。
事件記者と犯罪の間 p.212-213  私は読売を退社したが、心はいまでも新聞記者である。多くの編集者は社名のある新聞記者でないと、ニュース・ソースに近づけないと誤って考えている。

編集者も仕事のさいに部下の機嫌をとる必要もなく、朱筆を入れるのに遠慮もいらなくなる。すると新聞は印刷能力と、少数のプランナーと編集記者と、自社ものの少数の記者しか必要とし

なくなってこよう。

各社の特色がなくなれば現在のような多数の社が存在の必要もなくなり、終りにはテレビ塔のように、工場も共有化してくるのではあるまいか。

一方週刊誌は乱立気味ながらも、各誌の平和共存が可能なので、「特別レポート」ともいうべきトップ記事の競争になってくる。いわゆる「考えダネ」の競争だ。すでにこれらのトップ記事を深く調査し、執筆する、プロダクションができはじめているそうだ。いわば、記者の専属制からフリーランサー制への転換の兆しがある。

こうして、テレビと週刊誌の挟みうちを受けている新聞、その現状で記者は完全にサラリーマン化しつつある。私のように〝五人の犯人の生け捕り〟などという、サラリーマンでは考えも及ばないことを実行しようとして、失敗してゆく実例をみては尚更のこと取材意欲は低下しよう。

ともかく、ケガをしないよう、慎重に役人のように社にすがりついていれば、次長、部長は順番に廻ってくるものらしい。静かにするのが得策だ。また取材記者として優秀なものも、順番で次長という行政官にすればトンチンカンになる。どうして、「大記者」という部長、次長待遇の平記者制度がないのだろうか。いろいろな問題を含んでいる事件である。

しかし、私は読売を退社したが、心はいまでも新聞記者である。多くの編集者は社名のある新聞記者でないと、ニュース・ソースに近づけないと誤って考えている。しかし、ニュース・ソースは、社の財産ではなく、記者自身の能力が築いた、本人の財産である。ニュース・ソースには

長屋の熊さんでも近づけるのである。

私に見舞の言葉をくれたある人は「読売の損失だネ」とか、「会社は冷たいネ、君は功労者なのに」とか、有難い言葉を下さる。私は頭を下げて、「とんでもない。浪費家がいなくなって、読売は得ですよ」とか「とんでもない。老練弁護士をつけてくれたり、毎日差入れをしてくれたり、感激しましたよ。それに帰ってこいといって下さるンですよ」とか答える。

私は実際に読売が大好きである。私をここまで育てて下さったところだし、第一、入社の事情からいっても、当然だ。もし、朝日に入っていたら、五年ももたなかったかも知れない。悪女の深情というところか。

私の記事で、一番心配したのは、借金のあるバーであろう。規則正しい生活と、酒とタバコのない十時間睡眠のおかげで、私は肥って出てきたので、早速、安心させるために、それらの店にでかけていった。

「まァいらっしゃい。元気で安心したワ。また、〝常に正義と真実を伝える読売新聞、天下四百万読者を有する読売新聞〟が、聞けるわネ」

女の子たちは、そういって集ってきた。私の酔えば必ず口にするこのキャッチ・フレーズは、有名である。そうして、私の行くバーの女の子たちは、大かた読売の愛読者になった。

私は一月ぶりのアルコールに、僅かばかりのビールで泥酔した。女の子たちは面白がって、キャッチ・フレーズの下の句が出るぞと期待したらしい。

p.214-p.215 事件記者と犯罪の間p.214-最後の事件記者トビラp.215

p.214-p.215 事件記者と犯罪の間(p.214)「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」
 最後の事件記者トビラ(p.215)
p.214-p.215 事件記者と犯罪の間(p.214)「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」
最後の事件記者トビラ(p.215)

「まァいらっしゃい。元気で安心したワ。また、〝常に正義と真実を伝える読売新聞、天下四百万読者を有する読売新聞〟が、聞けるわネ」
女の子たちは、そういって集ってきた。私の酔えば必ず口にするこのキャッチ・フレーズは、有名である。そうして、私の行くバーの女の子たちは、大かた読売の愛読者になった。
私は一月ぶりのアルコールに、僅かばかりのビールで泥酔した。女の子たちは面白がって、キャッチ・フレーズの下の句が出るぞと期待したらしい。

「読んだあと御不浄で使える読売新聞、もんでも穴のあかない読売新聞、ふいても活字のうつらない読売新聞! 読売新聞をどうぞ」

読売記者でなくなった私は、とうとう、この下の句を叫び出していた。女の子たちは私の健在に拍手をしてくれた。私はやはり、根っからの社会部記者である。

p.215 最後の事件記者 トビラ

新宿慕情 p.006-007 私の〈新聞記者開眼〉であった

新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。
新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事

を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。

その記事のなかの私は、〝グレン隊の一味〟になり果てていた。悲しかったし、憤りさえ覚えたのだが、その次の瞬間、私はガク然とした。

「オレも、長い記者生活の間、同じように、こんな記事を書いていたのではないか?」という思いが、背筋を電光のように走ったのであった。

調べもせず、外形的な事実だけを綴って記事とし、多くの人を悲しませ、瞋らせていたのではないか……という反省であった——私の、〈新聞記者開眼〉であった。

もしも私が、この安藤組事件に連座して、読売を退社せざるを得ない立場に、追いこまれなかったならば、私は、さらに長く、深く、強く、過誤をつづけていたに違いなかったと、いまでもそう信じている。

そして、新聞社を去って、初めて、「新聞」というマンモスの姿を、冷静に見つめ、批判することも、知ったのであった。

もしも私が、あのまま読売に在職しつづけ、編集幹部にでも栄進していたならば、私は、尊大な、ハナ持ちならぬ権力主義者になっていただろう。

その意味で、この昭和三十三年の夏。読売を自己都合退社するキッカケとなった、安藤組事件に関して書いた、ふたつの原稿——「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

ともに、もう古いもので、古本屋などでも入手できないし、私の手許にも、一部しか残っていない。

新聞記者として開眼しながら、フリーの新聞記者という制度のない日本では、私は、雑誌の寄稿家でしかあり得なかった。そして、「真実を伝える」取材と執筆とに徹した私は、雑誌社・出版社の利害と衝突する原稿を、幾度か削られ、ボツにされた。

——真実を書くためには、自分がオーナーであり、パブリッシャーであり、エディターであり、レポーターでなければならない!

そう結論した私は、「正論新聞」の発刊を考え出した。私の、新聞論と新聞記者論の実験の場、という発想であった。(その部分については、拙著「正力松太郎の死の後にくるもの」昭和四十四年・創魂出版刊に詳述している)

私の人生での、大きな転機となった、このふたつの原稿を、ここに再録して、「正論新聞」の創刊十周年に当たっての、同社出版局の創設記念に上梓することとなった。

巻頭の「新宿慕情」の文章を読みくらべてみると、十七年前の私の原稿は、やはり、ギスギスしている感じだ。文章の道に、終りがないことを痛感する。もう二十年も経つと、キット、この「新宿慕情」も、読み返して恥ずかしくなるに相違ない。

旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。

新宿慕情 p.010-011 新宿慕情・目次 事件記者と犯罪の間・目次

新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次
新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次

新宿慕情目次

はしがき
新宿慕情
洋食屋の美人
〝新宿女給〟の発生源
ロマンの原点二丁目
〝遊冶郎〟のエチケット
トップレス・ショー
要町通りかいわい
ブロイラー対〝箱娘〟
〝のれん〟の味
ふりの客相手に
誇り高きコック
味噌汁とお新香
新聞記者とコーヒー
お洒落と女と
おかまずしの盛況
大音楽家の〝交〟響曲
〝禁色〟のうた
えらばれた女が……
オカマにも三種類
狂い咲く〈性春〉
青春の日のダリア

事件記者と犯罪の間

その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者

新宿慕情 p.012-013 目次(つづき) 事件記者と犯罪の間 最後の事件記者

新宿慕情 p.012-013 事件記者と犯罪の間 目次(つづき) 最後の事件記者 目次
新宿慕情 p.012-013 事件記者と犯罪の間 目次(つづき) 最後の事件記者 目次

事件記者と犯罪の間

その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者

最後の事件記者

我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スバイ!
幻兵団物語
書かれざる特種
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正佼成会潜入記
新聞記者というピエロ

あとがき

最後の事件記者 p.268-269 外部からみつめる機会を得た

最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。
最後の事件記者 p.268-269 この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとに、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといいえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、

新聞雄誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

最後の事件記者 p.270-271 肉体をスリ減らし家庭を犠牲に

最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。
最後の事件記者 p.270-271 私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励であり、あるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がや

ってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞に対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。

〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

『ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ』

『エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?』

『アッ、そうか!』

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の、辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということが、このように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に挨拶をした。

『これからは、お友達として付合いましょう』

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

『これ、どういう意味?』

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて、有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三

万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

最後の事件記者 p.288-289 しかも全くのデタラメである

最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。
最後の事件記者 p.288-289 私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。

『読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売にはいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地

方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……』

『仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか』

『読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の降盛を築きあげてきたのだと想像されます』

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招侍してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

『ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね』

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

『誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のこと

じゃないか』

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから、その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだ、という、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかに するよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。