昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事
を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。
その記事のなかの私は、〝グレン隊の一味〟になり果てていた。悲しかったし、憤りさえ覚えたのだが、その次の瞬間、私はガク然とした。
「オレも、長い記者生活の間、同じように、こんな記事を書いていたのではないか?」という思いが、背筋を電光のように走ったのであった。
調べもせず、外形的な事実だけを綴って記事とし、多くの人を悲しませ、瞋らせていたのではないか……という反省であった——私の、〈新聞記者開眼〉であった。
もしも私が、この安藤組事件に連座して、読売を退社せざるを得ない立場に、追いこまれなかったならば、私は、さらに長く、深く、強く、過誤をつづけていたに違いなかったと、いまでもそう信じている。
そして、新聞社を去って、初めて、「新聞」というマンモスの姿を、冷静に見つめ、批判することも、知ったのであった。
もしも私が、あのまま読売に在職しつづけ、編集幹部にでも栄進していたならば、私は、尊大な、ハナ持ちならぬ権力主義者になっていただろう。
その意味で、この昭和三十三年の夏。読売を自己都合退社するキッカケとなった、安藤組事件に関して書いた、ふたつの原稿——「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。
ともに、もう古いもので、古本屋などでも入手できないし、私の手許にも、一部しか残っていない。
新聞記者として開眼しながら、フリーの新聞記者という制度のない日本では、私は、雑誌の寄稿家でしかあり得なかった。そして、「真実を伝える」取材と執筆とに徹した私は、雑誌社・出版社の利害と衝突する原稿を、幾度か削られ、ボツにされた。
——真実を書くためには、自分がオーナーであり、パブリッシャーであり、エディターであり、レポーターでなければならない!
そう結論した私は、「正論新聞」の発刊を考え出した。私の、新聞論と新聞記者論の実験の場、という発想であった。(その部分については、拙著「正力松太郎の死の後にくるもの」昭和四十四年・創魂出版刊に詳述している)
私の人生での、大きな転機となった、このふたつの原稿を、ここに再録して、「正論新聞」の創刊十周年に当たっての、同社出版局の創設記念に上梓することとなった。
巻頭の「新宿慕情」の文章を読みくらべてみると、十七年前の私の原稿は、やはり、ギスギスしている感じだ。文章の道に、終りがないことを痛感する。もう二十年も経つと、キット、この「新宿慕情」も、読み返して恥ずかしくなるに相違ない。
旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず
に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。