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新宿慕情 見返し /カバーそで 推薦文・原四郎

新宿慕情 見返し カバーそで 「正義感とリリシズム」読売新聞副社長・編集主幹 原四郎
新宿慕情 見返し カバーそで 「正義感とリリシズム」読売新聞副社長・編集主幹 原四郎

正義感とリリシズム

読売新聞副社長・編集主幹  原  四 郎

三田和夫君こそ典型的な読売社会部記者であった。そして身体には、いまもなお、読売社会部記者魂が、脈々と流れている。輝かしい足跡を残した彼は、横井殺害未遂事件を執ように追った後、読売を去った。だが、彼の強靭なペンは、さらに冴え、磨き抜かれ、正論新聞の主幹となって結実した。その正論新聞創刊十周年を記念して上梓された本書は、一貫して流れる正義感とリリシズムに充ち溢れ、読むものの心を捉えて離さないであろう。

新宿慕情 p.004-005 「正論新聞」は息も絶え絶えであった

新宿慕情 p.004-005 はしがき 私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。
新宿慕情 p.004-005 はしがき 私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。

はしがき

私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。

大判一枚ペラの「正論新聞」は、昭和四十二年元旦号から創刊された。だれもスポンサーはおらず、私が、取材して原稿を書き、読売の友人が整理をしてくれた。妻が事務を取り、長男の高校生が、友人たちを集めて、有楽町駅前で撒いた。

旬刊の目標だったが、まったくの独力なので、二、三号出すと資金がつきた。私はまた、雑誌原稿を書き、稿科を貯めた。第三種郵便物の認可も、既刊三号を添えての申請だから、一向に取れなかった。

事実上の不定期刊で、「正論新聞」は、息も絶え絶えであった——そこに、日通事件が起こった。昭和四十三年夏のことだった。

この日通事件を、政治検察の動き、と見て取った私は、直ちに、「検察体質改善キャンペーン」を始め、検察派閥の攻撃記事を掲載して、有楽町と霞が関、そして、検察ビルの門前で撒いたのだった。

検察が、戦前からの流れで、思想検事と経済検事との派閥対立を抱えており、それが、政治と結びついて、弊害を生じていることは、新聞記者をはじめとして、有識者にとっては、周知の事実であった。

だが、だれもが、それを公然とは非難しなかった。新聞もまた、批判の筆を振るおうとはしな

い——同じように、国家権力の執行者でありながら、警察に対しては、あれほど、威丈高に書く新聞が、どうして、検察には、卑屈なほどに恭順なのか?

私の「大新聞批判」のきっかけは、ここにあるのだが、私は、意を決して、検察批判を行った。前後二回、丸二年の司法記者クラブ詰めの体験から、「正論新聞」の記事は、具体的で説得力があった。この〈聖域〉に、戦後、初めての批判が加えられたわけだった。

——「正論新聞」が、評価されたのは、この検察批判を敢行したことにあった。いわゆる〝ブラック・ジャーナリズム〟との本質的な差違は、ここにある。「新聞」と「ビラ」との違いである。

時代の流れでもあろう——「正論新聞」のこの反権力の姿勢を、検察首脳は、率直に認めて、弾圧に代えるに自省を以てした。数代の検事総長は、報復人事をやめて、「正論新聞」の指摘した、派閥対立の解消に心を砕いた。しかし、私自身は、批判を快しとしない現場の検事たちに、仇敵視され、身辺を秘かにうかがわれたものだったが、無事、今日にいたっている。

私が、このように、「正論新聞は、力のない弱者の味方です。庶民の率直な気持ちを紙面に反映し、権力、暴力など、力に屈しません」(同紙信条より)と、〈新聞と新聞記者の原点〉に立ち戻れたのは、それなりのキッカケがあったのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。

二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事

を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。

新宿慕情 p.006-007 私の〈新聞記者開眼〉であった

新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。
新宿慕情 p.006-007 はしがき(つづき)ふたつの原稿――「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は、横井英樹殺害未遂事件で、犯人隠避容疑により、警視庁に逮捕された。
二十五日間の留置場生活を終えて、自宅に帰った私は、各紙の報道した私の事件に関する記事

を読んでみて、「書く身」が「書かれる身」になった現実に直面した。

その記事のなかの私は、〝グレン隊の一味〟になり果てていた。悲しかったし、憤りさえ覚えたのだが、その次の瞬間、私はガク然とした。

「オレも、長い記者生活の間、同じように、こんな記事を書いていたのではないか?」という思いが、背筋を電光のように走ったのであった。

調べもせず、外形的な事実だけを綴って記事とし、多くの人を悲しませ、瞋らせていたのではないか……という反省であった——私の、〈新聞記者開眼〉であった。

もしも私が、この安藤組事件に連座して、読売を退社せざるを得ない立場に、追いこまれなかったならば、私は、さらに長く、深く、強く、過誤をつづけていたに違いなかったと、いまでもそう信じている。

そして、新聞社を去って、初めて、「新聞」というマンモスの姿を、冷静に見つめ、批判することも、知ったのであった。

もしも私が、あのまま読売に在職しつづけ、編集幹部にでも栄進していたならば、私は、尊大な、ハナ持ちならぬ権力主義者になっていただろう。

その意味で、この昭和三十三年の夏。読売を自己都合退社するキッカケとなった、安藤組事件に関して書いた、ふたつの原稿——「事件記者と犯罪の間」(文芸春秋誌所載)と「最後の事件記者」(実業之日本社刊)とは、私という一新聞記者の、転機を明らかにしたものなのである。

ともに、もう古いもので、古本屋などでも入手できないし、私の手許にも、一部しか残っていない。

新聞記者として開眼しながら、フリーの新聞記者という制度のない日本では、私は、雑誌の寄稿家でしかあり得なかった。そして、「真実を伝える」取材と執筆とに徹した私は、雑誌社・出版社の利害と衝突する原稿を、幾度か削られ、ボツにされた。

——真実を書くためには、自分がオーナーであり、パブリッシャーであり、エディターであり、レポーターでなければならない!

そう結論した私は、「正論新聞」の発刊を考え出した。私の、新聞論と新聞記者論の実験の場、という発想であった。(その部分については、拙著「正力松太郎の死の後にくるもの」昭和四十四年・創魂出版刊に詳述している)

私の人生での、大きな転機となった、このふたつの原稿を、ここに再録して、「正論新聞」の創刊十周年に当たっての、同社出版局の創設記念に上梓することとなった。

巻頭の「新宿慕情」の文章を読みくらべてみると、十七年前の私の原稿は、やはり、ギスギスしている感じだ。文章の道に、終りがないことを痛感する。もう二十年も経つと、キット、この「新宿慕情」も、読み返して恥ずかしくなるに相違ない。

旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。

新宿慕情 p.008-009 物書き一筋でもう四十年も過ぎた

新宿慕情 p.008-009 はしがき(おわり)昭和五十年十月 三田和夫 この著を、母の米寿の祝に捧げる 新宿慕情目次扉
新宿慕情 p.008-009 はしがき(おわり)昭和五十年十月 三田和夫 この著を、母の米寿の祝に捧げる 新宿慕情目次扉

旧友たちに、久し振りに逢うと、だれもが私の顔を見て、「変わったなあ」という。確かに変わったようだ。「むかしのカミソリ的なところがとれた」という人もいる。正論新聞をツブさず

に、ここまで育ててきた苦労が、私を、円満にしたのかも知れぬし、年齢のせいかも知れぬ。変わったというのも、〈良く〉変わったのであってほしい…。ともかく、十七年前の文章といまの文章とを比べていただくのも、その〈変わり方〉の証拠かも知れない。そんなつもりでの、旧作の再録でもある、のだ。物書き一筋で、もう四十年も過ぎた——。

昭和五十年十月                     三 田 和 夫

この著を、母の米寿の祝に捧げる——

新宿慕情目次

新宿慕情 p.010-011 新宿慕情・目次 事件記者と犯罪の間・目次

新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次
新宿慕情 p.010-011 新宿慕情 目次 事件記者と犯罪の間 目次

新宿慕情目次

はしがき
新宿慕情
洋食屋の美人
〝新宿女給〟の発生源
ロマンの原点二丁目
〝遊冶郎〟のエチケット
トップレス・ショー
要町通りかいわい
ブロイラー対〝箱娘〟
〝のれん〟の味
ふりの客相手に
誇り高きコック
味噌汁とお新香
新聞記者とコーヒー
お洒落と女と
おかまずしの盛況
大音楽家の〝交〟響曲
〝禁色〟のうた
えらばれた女が……
オカマにも三種類
狂い咲く〈性春〉
青春の日のダリア

事件記者と犯罪の間

その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者

新宿慕情 p.012-013 目次(つづき) 事件記者と犯罪の間 最後の事件記者

新宿慕情 p.012-013 事件記者と犯罪の間 目次(つづき) 最後の事件記者 目次
新宿慕情 p.012-013 事件記者と犯罪の間 目次(つづき) 最後の事件記者 目次

事件記者と犯罪の間

その名は悪徳記者
特ダネこそいのち
権力への抵抗
根っからの社会部記者

最後の事件記者

我が事敗れたり
共産党はお断り
あこがれの新聞記者
恵まれた再出発
サツ廻り記者
私の名はソ連スバイ!
幻兵団物語
書かれざる特種
特ダネ記者と取材
「東京租界」
スパイは殺される
立正佼成会潜入記
新聞記者というピエロ

あとがき

新宿慕情 p.016-017 東口の二幸前から伊勢丹までの通り

新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。
新宿慕情 p.016-017 私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。

新宿慕情
さる七月から、二十回にわたって、正論新聞紙上に連載してきた著者のエッセイ。その四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、軽い筆致でたのしく、人生を説いている。
狂言まわしに、新宿の街と店と人物とを登場させながらも、その随想は、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。
ことに、オカマや半陰陽などという、下品になり勝ちな素材を、ユーモラスに描き切っているのは、その健康な精神の故、であろう。

洋食屋の美人

旧制中学二年から

私と新宿とのかかわり合いはもう、ずいぶんになる。旧制中学の二年生ごろのこと、つまり昭和十年前後からである。家が池袋と目白の間の、婦人の友社の付近から、世田谷の代田に引っ越して、小田急線を利用しはじめたのだ。

当時の小田急は、せいぜい二両連結で、現在の南新宿駅は、千駄ヶ谷新田、世田谷代田駅は世田谷中原という名前だった。その世田谷中原駅を利用していた。次の豪徳寺駅との間に、梅ヶ丘という新駅ができて、タンボの真ン中の寂しい駅だったことを思うと、まさに隔世の感がある。

中学が、省線・巣鴨駅にあったから、新宿駅で乗り換える。定期券があるから、自然、新宿の街にも出る、ということになる。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

新宿慕情 p.018-019 四つ角を越えるとすぐ遊郭になる

新宿慕情018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。
新宿慕情 p.018-019 二幸のオート・マット食堂、中村屋のカリーライスと支那まんじゅう、オリンピックの洋食。伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。

いま、日曜日には歩行者天国になる、東口の二幸前から、伊勢丹までの通りに、都電が走っていたことなど、もう、すっかり、記憶から薄れてしまっているが、変わらないのは、駅前にデンと坐っている二幸と、三丁目角の伊勢丹であろう。

途中、右側にある中村屋。すでに、三峰に買収されたオリンピックなども、建物こそ変わったが、場所はそのままだ。

二幸の開店は、多分、昭和七~八年ごろではあるまいか。海の幸・山の幸の「二幸」という、キャッチ・フレーズを憶えている。その地下に、「オート・マット食堂」というのがあって、連れていってもらったのは、小学生のころだ。

国電の切符売り場のような、ガラス張りの窓があって、下端が開いている。出前用の箱みたいに、段がついた棚には、すでに料理された洋食が、一人前ずつ並んでいる。

二幸の〝自動〟食堂

それを眺めて、食べたい料理の窓の前で、コインを投入してハンドルを引くと、ガタンと音がして、棚が一段下がって、料理を取り出せる仕掛けだった。

それを持って、中央のテーブルで食べるのだが、料理は冷たいし、なによりも、ウェイトレスのサービスがないのが、味気ない。物珍しさが、ひと通り行き渡ると、この〈超最新式食堂〉は閑古鳥が啼く始末。

そうであろうとも、米国直輸入を謳ったのだが、当時は、人手も十分、あり余るほどだったし、第一、デパートの食堂というのが、第一級のレジャー施設だったのだ。それだからこそ、洋食を食べるには、デパートに行く時代だから、味気ないセルフサービスなど、クソ食らえだった。

この〝二幸の目玉〟食堂は、間もなく、無くなってしまったと思った。

そこにゆくと、〈中村屋のカリーライス〉と、〈支那まんじゅう〉とは、まだ、洋食が珍しくて、♪きょうもコロッケ、あすもコロッケ……の歌が流行したのでもわかるように、大人気であった。

私が中学生のころで、肉まんあんまん各一個のセットで、一皿十銭(肉六銭、あん四銭)と憶えている。昼食として、いまのラーメンほどの人気だった。

その向かいのオリンピックもまた、洋食屋の雄であった。手軽に、学生にでも食べられる洋食屋は、オリンピック、森キャン(森永キャンデーストア)、明菓(明治製菓売店)の、三大チェーンストアであった。

戦後、いく度か、オリンピックに入ってみたが、新宿、銀座などの店で、いわゆる〝洋食〟類がマズい。むかし懐かしさのあまり、入って食べてみるのだが、もう、まったく救い難かった。

同じように、森キャン、明菓ともに、〝味の信用〟は、昔日のおもかげはなかった。これら三店のウェイトレスには、たがいに美人が、ケンを競い合っていた。制服姿がサッソウとしていて学生たちの憧れの的だったのに……。池袋の明菓には、日大芸術科に進んでからも、良く行ったが、当時の映画の題名から、〝フランス座〟と呼んでいた美人がいたほどだった。

伊勢丹までが、カタ気の新宿の街だ。というのは、その四つ角を越えると、すぐ、遊郭になるからだ。

新宿慕情 p.020-021 日活の滝新太郎・花柳小菊、松竹が上原謙・桑野通子

新宿慕情020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。
新宿慕情 p.020-021 伊勢丹も三越も小さかった。新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。映画館は、日活帝都座。新宿松竹館は…。

小さかった伊勢丹

伊勢丹だって、今日の隆盛ぶりが、信じられないほどの、小さなデパートだった。確か、角が伊勢丹で、その手前に、ほてい屋という、同じぐらいのデパートがあって、それを合併したのは昭和十年代の初期だったと思う。

いまの伊勢丹本館の四分の一か、六分の一ぐらいの広さだろう。

三越も、いまの位置で、もちろん、小さいものだった。当時は、三越は、「きょうは三越、あすは帝劇」という、第一級社交場——伊勢丹などは、足許にも寄れないデパートだ。いまの三越の現状を見ると、それこそ斜陽の感が深い。

同郷の立教大学の英文科の学生が、下宿の侘びしさをまぎらわしに、良く、私の家に食事にきては、ダベっていた。

まだ、私が小学生のころだった、と思う。その人が、新宿の三越の、店内掲示の英語看板にミス・スペリングを発見して、売り場の店員に注意をした、というのだ。

すると、翌日、支店長が五円の商品券を持って、下宿にまでお礼の挨拶にきた、という話をしていたのを、まだ憶えているが、当時の五円が、どれほどの値打ちがあったか——昔日の三越の店の格式を物語って、あまりある話、ではある。

新宿駅の正面玄関は、二幸に面していた。つまり、東口である。いまの駅ビルに変わる前まで

古臭い駅舎があったのだが、それももう、忘れてしまった。

映画館といえば、伊勢丹角にあった、日活帝都座しか、記憶がない。いまの、丸井の場所である。当時から、日活多摩川作品に対して、松竹蒲田映画、とくるのだが、どうしても、新宿松竹館が、どこにあったのか思い出せない。

日活の滝新太郎・花柳小菊の夢心コンビに対しては、松竹が上原謙・桑野通子の、都会的なコンビで売っていた。日活側はやや下町調なのだ。

上原、桑野の御両人は、ファンからは、当然、結婚するものだ、と、思われていたのだが、上原は、小桜葉子と結婚して、全国のファンを驚かせた。桑野通子は、森キャンだか、明菓だったかの、スイート・ガール出身(ウェイトレスや売り子を、こう呼んでいた)の美人で、売れっ子のあまり、兵隊に取られて台湾に行った上原に、あまり手紙を書かなかった、という。

そのスキに、三枚目で、あまりモテなかった小桜葉子が、セッセと、毎日、手紙を書きつづけて、上原謙の心を動かした、と、ファン雑誌で知ったものだが、その上原謙の、六十何歳だかの再婚ニュースが、同じような雑誌に書かれている。

松竹系の、新宿第一劇場というのが、南口、明治通りと甲州街道の交差点近く、いまの三越モータープールのあたりにあった。新宿松竹館は、その付近だった、カモね……。

新宿慕情 p.022-023 ととやホテルがありととやというバーがあった

新宿慕情022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。
新宿慕情 p.022-023 シベリアの捕虜から帰ってきたのが昭和二十二年十一月。四年ぶりの戦後の新宿、中央口のあたり一帯がバラックのマーケット。安田組、尾津組、関根組…。

〝新宿女給〟の発生源

〝シベリア帰り〟で

そして、戦後の、新宿の街との〝かかわり合い〟が始まる……シベリアの捕虜から、生きて東京に帰ってきたのが、昭和二十二年十一月三日だった。

東京駅から、国電に乗り換えて、有楽町駅前の旧報知新聞の社屋にいた、読売に顔を出して新宿駅から、小田急線で、世田谷中原に着いた。

代田八幡神社も焼けずに残っていたし、母親のいる家も無事だった。オフクロは、兄貴夫婦と暮らしていた。そして、私は、その家の二階に、厄介になることになった。

〈適応性〉があるというのか、私は、その日から、原稿を書き出していた。

社に、挨拶に顔を出したら、デスクに、「なにか書くか?」と、いわれて、「ハイ、シベリア印象記でも……」と、答えてきたからだ。

確か、二晩か三晩、徹夜をして書いたようだ。その、これまた長篇になった〝大原稿〟を持って、社に行く時に、初めて、戦後の新宿の街に出た。

いまの中央口の前あたり一帯が、バラック建てのマーケットになっていて、薄汚れた、風情のない街に変わっていた。

大ガードから、西口にかけても、ヤミ市やバラックの飲み屋街ができていた。

安田組、尾津組、関根組だとかのマーケットということで、それぞれの名が冠せられていたが、私は、まったくの異邦人だった。

なにしろ、軍隊と捕虜とで、まるまる四年間も、新宿を留守にしていたし、その間に、街は空襲やら、疎開などを経験していたのだから、当然だろう。

そして、焼跡派だとか、カストリ派だとか、太宰だ、坂口だとか、熱っぽく語られていても、私には、無縁だった。

帰り新参の〝駈け出し〟記者は、続発する事件に追いまくられるばかりで、飲み屋街を渡り歩く、時間も金もなかった。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。

その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

新宿慕情 p.024-025 ととやの初代マダムが織田作・夫人の昭子さん

新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。
新宿慕情 p.024-025 織田作・夫人の昭子さん、ドレスデン、プロイセン、田辺茂一、池島信平、扇谷正造、中野好夫、相良守峰、時枝誠記…。

しかし、この中央口付近のハモニカ横丁という、飲み屋街が〈新宿女給〉の発生源になったことは確かだ。
その奥の突き当たり、いまの中村屋の、鈴屋の並びにあるティー・ルームあたりに、ととやホテルというのがあり、その一階だったか、別棟だったか忘れたが、ととやというバーがあった。

文人、墨客、悪童連

横丁の途中には「居座古座」だとか、「てんやわん屋」などといった、同じような店もあったが、これらが、〝中央線〟派の文人、墨客、先生、記者などのタマリ場になった。

その中心、ととやの初代マダム(当時は、ママではなく、マダムだった)が、織田作・夫人の昭子さんだ。そして、その著『マダム』が、〈新宿女給〉の発生について詳しい。

そして、戦災の復興が進むにつれて、「ドレスデン」「プロイセン」などといった、新宿の正統派バーが、本格的な建物で現われてくるのだが、私など、この二店など、一、二度しか行ったことがないので(しかも、大先輩のお伴で)、語るのはその任ではない。

場所も、せいぜい二幸ウラまでで、まだ、靖国通りも、現在のように整備されておらず、まして、歌舞伎町など、盛り場の態をなしていなかった。

ハモニカ横丁から二幸ウラにかけて、炭屋のセガレ田辺茂一、牛乳屋の息子の池島信平、それに、トロッコ記者の扇谷正造といった悪童連が、中野好夫、相良守峰、時枝誠記といったPTAといっしょになって、客とともに呑み、怒り、泣き、唱っては、文学を論じ、映画を語る、〈新宿女給〉の育成に、一ぴの力をいたした、ものらしい。

銀座とは違って、独特の雰囲気を持つ、〈新宿女給〉たちも、歌舞伎町が栄え、そのウラ側の〝サカサ・クラゲ〟旅館街を浸蝕して、東大久保一帯にまでネオン街が広がってしまった現在で

は、もはや、ギンザ・ホステスと、なんら変わりのない連中ばかりになってしまった。

私が、シベリアから帰って、直ちに書き上げた『シベリア印象記』は、当時の一枚ペラ朝刊だけ、という時代ながら、二面の大半のスペースを費やして、トップ記事になった——私の、読売新聞での、初めての署名記事であった。

しかも、この記事に対して、米英ソ華の、四連合国で組織していた対日理事会の、駐日ソ連代表部首席のデレビヤンコ中将が、記者会見して反論し、それを、日共機関紙・赤旗が、大きく報道するなど、なかなかの評判であった。

私は、〝シベリア呆け〟していない、と判断されて、すぐに地下鉄沿線である、日本橋、上野、浅草のサツまわりに出された。だから、戦後の上野(ノガミ)については語れるのだが、残念なことには、昭和二十年代の新宿については、あまり、正確な記憶がない。

しかし、異邦人よろしく、当時の流行語であったリンタクとパンパンについての、新宿における〈知的好奇心〉についてはエピソードを持っている。

なんにも保証なし

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。

つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

新宿慕情 p.026-027 部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた

新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。
新宿慕情 p.026-027 新宿御苑に面した、とある木造・兵隊長屋風のアパートで、オヤジのこない日のオメカケさんと…。

パンパンと呼ばれる職業婦人について、同僚たちは、いろいろな忠告をしてくれた。
つまり、遊郭では、その店が客の〈生命・財産〉の保証をしてくれるのに対し、パンパンはその意味では〝危険〟なのだが、遊郭のオ女郎サンが、経験豊かなプロフェッショナルなのに比べ

て、パンパンの場合には、アマチュアリズムの可能性があるということだった。

私は、〈生命の危険〉に対する予防手段を講じて、ひとりのパンパンを買った。とある旅館に入って考えたことは、忠告の第二項〈財産の危険〉である。しかし、これとて、古来あったもので、いうなれば〝枕さがし〟である。

背広を寝巻に着換えた私は、ハンガーに吊した衣類を、帳場に預けることを思いついた。早速キシむ階段をおりて、帳場のオッさんに、その旨を話しているところに、すでに寝巻を着た女性が、私を押しのけるようにして、帳場に入ってきた。

「オジさん。これ預かって……」

聞き覚えのある声に、その女を見ると、ナント、私の相方であるパンパン嬢ではないか!

彼女が、〝預かって〟と差し出していた品物が、私と同じように、ハンガーに吊した服とハンドバッグだった——つまり、彼女も、〈財産の危険〉を感じて私と同じように、衣類を持ってウラ階段をおり、帳場でハチ合わせをした、という次第であった。

リンタクくんについても、一度だけの経験がある——酔余、いまの三光町交差点あたりで声をかけられた。

「ダンナ! イイ子がいますぜ、オメカケさんですぜ。きょうはオヤジのこない日なんで……」

このようなキャッチ・フレーズに、私は、すぐノッて、乗ったのである。リンタク屋は、二丁目の対岸、いまのラシントンパレスよりも、もうすこし三丁目寄り、千鳥街のあたりのウラ、新

宿御苑に面した付近の、とある木造・兵隊長屋風のアパートに、私を案内していった。

それから以後のことは、泥酔していて、正確な記憶がない。ただ、翌日のひる前ごろになって、ノドの渇きに、私は目を覚ました。

見ると、四畳半のアパートで私は寝ている。枕はあったが、女の姿はなく、私は、前夜の記憶をたどって、リンタクのことを思い出した。……そして、〝オメカケさん〟という、魅惑的な言葉までも……。

確かにその部屋には〈生活〉があった。しかし、〝オヤジのこない日のオメカケさん〟という感じではなくて、〈生活のニオイ〉が強すぎた。

私は、起き上がって、部屋の一隅の流しで、水をゴクゴクと飲んだ。使ったコップをもとに戻そうとして、水屋(食器棚)を見ると、米穀通帳があるではないか!

「何野何子・四十五歳」と、そこには、この部屋の女主人の名前と年齢が明記されていた。私は慄然とした。

部屋の家具什器と、女の年齢とから、やがて顔を見せるであろう〝オメカケさん〟が、シラフの日中には、〝正視〟できない人物であろうことが、容易に想像されたからである。

……果たせるかな、野菜の買い物を抱えて、帰ってきたその人は、私のほうが、サオ代をタップリと頂戴せねばならない女性であった。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

新宿慕情 p.028-029 青線区域に遊歩道 新宿遊郭は二丁目

〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。
新宿慕情 p.028-029 〈青線区域〉というのは旧遊郭の〈赤線〉に対する言葉で、三十二年ごろの売春防止法施行と同時に消えた。

二十代の美青年にタンノーしたのか、「おひるをご馳走するから……」というサービスを、固

辞して私は出ていった。

その笑顔から察するに、多分私は、肌を合わせたに違いなかった——今に至るまでも、私が経験した〈最高年齢〉記録を、この新宿のリンタクが打ち樹ててくれたのだった。

ロマンの原点二丁目

むかしの青線に遊歩道

いまの靖国通り、新宿アド・ホックビルの真向かいから明治通りの新田裏(なんと古い地名であろうか。東京屈指の盛り場である新宿に、こんな〝新田〟=しんでん=裏という名前が残っているのだ)にいたる間、まるで武蔵野を想わせる散歩道が数百メートルもある。

これは、東大久保から抜弁天経由で飯田橋にいたる旧都電の線路跡(軌道敷)だ。

新宿の表通りから都電が消え、次いで、このルートも消えた。新田裏から抜弁天にいたる間は裏通りを走っていたので、一方通行の道路となったが、両側の家は、みな背中をさらけ出すハメになったが、それなりに改造されて、それほどの醜さは表われていない。

こちらは、しもた家だからまだ良い。しかし、この散歩道に変貌した部分は、両側とも飲食店

しかも、片側はいわゆる青線区域だったから、なんとも汚らしい。

相当な経費をかけたのだろうが、この跡地を払い下げたりせずに、樹をたくさん植えこんで、両側の汚い部分に目隠しをして散歩道にしたのは、グッド・アイデアであった。

雨の降る日など、石ダタミの水たまりに映える、傘の女性の姿などは、夜のわい雑さを忘れさせる風情がある。

この〈青線区域〉というのは旧遊廓の〈赤線〉に対する言葉で、警察の取り締まり上から、赤青の色鉛筆で、地図にしるしをつけたことから出た、といわれている。

三十二年ごろの、売春防止法施行と同時に消えた、それこそオールドファンには懐かしい言葉である。

某月某夜、作家の川内康範氏を囲んで、数人で飲んでいた時、談たまたま、むかしの新宿遊廓に及んだ。いわゆる二丁目、である。

「むかしの新宿、といえば、二丁目にステキな子がいてネ……」

出版社の社長であるS氏が、身体を乗り出して、ホステスたちの顔を見まわしながら、話しはじめた。

大正二ケタたちは

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

新宿慕情 p.030-031 他の遊廓に比べると新宿には美人が多かった

遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。
新宿慕情 p.030-031 遊郭、赤線と呼び名は変わっても、初老たちのロマンの原点は、吉原とか洲崎パラダイスとか新宿二丁目とかに根付いている。

「シヅエという、沖縄出身の、髪の毛の長い妓でネ。これがまた、〝名器〟でして……。心根と

いい、いまだに忘れられない。だから、私は、シヅエという名の女と、髪の毛の長い娘が大好きでしてネ」

ホステスたちが、ドッと笑った。髪の長いのも、シヅエという名前のも、そこにはいなかったからである。

こう、話がハズみ出すと、同席のだれかれ、大正二ケタたちのみんなが、新宿二丁目の思い出話を語り出す。

「ウンウン、二丁目、なァ……」

康範先生までが、〝骨まで愛した〟過去を懐かしむのだ。

そうして気付いてみると、遊郭、赤線と呼び名は変わっていても、初老たちのロマンが、意外にも、吉原とか洲崎パラダイスとか、新宿二丁目とかに、その原点が根付いているのだ。

それは、マリー・ベル主演の戦前の名画『舞踏会の手帖』と同じように、想い出のなかだけにあるべきなので、よけいに美化され、謳い上げられているからなのであろう。……そして、私にも、〝心のふるさと〟が、そこにはあった。

美人は〝床付け〟悪い

学生時代、はじめてひとりで二丁目に出かけた私は、当時の写真見世(娼妓が、直接、店に出ているのと、顔写真が並べてあるのと、二種類の営業形態があった)で、ひとりの妓に上がった。

もちろん、現実の彼女は、店頭の、修整された写真とは、別人かと見まがうほどであった。

しかし、他の遊廓に比べると新宿には、美人が多かった。そして、美人ほど〝床付け〟が悪いのが通例だった。いうなればジャケンな扱いを受けるのだ。

遊廓の情緒というのは、やはり、吉原を措いて、他では味わえない。大枚をハズんで、本部屋(まわし部屋、割り部屋に対する語)にでも入れば、それこそ、前借金の名義にさせられたであろう、タンスに茶ダンス、長火鉢と、妓の財産が並び、ヤリ手バアさんが、炭火を入れて、鉄ビンにお湯がチンチンとたぎる。

タンスの引き出しから、これも彼女自身の財産目録の第何番目かの、丹前に浴衣を重ねて、風呂にまで入れてくれる。それも、長襦袢の裾をからげて、久米の仙人が、神通力を失ったという白い脛をみせる、艶めかしさで、背中を流してくれるのだ。

いまようトルコ嬢の、ブラジャーにパンティといった、即物主義とは違って、百人一首時代そのままの〝情緒〟である。

妓は、妓夫太郎(呼び込み係の男性)に小銭を渡して、茶めしおでんなどを、夜のうちに買わせておく。朝食の仕度をするわけだ。

「散財をさせてしまったねェ」と、朝帰りを裏口まで送ってきて市電の片道切符を一枚くれる。記憶では、市電は片道七銭で、一系統ならどこまでも乗れた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

新宿慕情 p.032-033 身体は売っても心は売らぬという女心

新宿慕情 p.032-033 貧困ゆえの身売りは吉原に多かった。新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。
新宿慕情 p.032-033 貧困ゆえの身売りは吉原に多かった。新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。

ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切

符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。

客が娼婦と心中するのを防ぐために、刻(とき)というのがあって、二時間単位ほどで、妓は寝呆け眼をコスリコスリ、帳場まで行って、自分の名札をひっくり返さねばならない。つまり、二時間ごとに起こされるわけだ。……考えてみれば、ムゴイ制度であった。

そんな寝不足の状態でも、本部屋の客は、必ず、見送りに出てくる。それこそ、文字通りに〈一夜妻〉の役目を果たす。いま時の、朝食抜き女房などとは比較のできない献身である。

はじめての客を初会、二度目になると、裏を返すといい、三度目からが馴染みとなって、それこそ、心身ともに許す、ということになる。

それでも、娼婦たちは、接吻を避ける。身体は売っても心は売らぬ、という女心である。

「借金を返し終わったら、やはり、結婚したいの……。その時、亭主になる人に、初めてのものを上げたいの」

新宿と吉原の違い

貧困ゆえの身売りは、吉原に多かった。そして新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。男なしでは寝られない、というタイプの妓である。

新宿女給と銀座ホステスの違いを書いた。同様に、新宿と吉原との、遊廓の違いもあったのである。

さて、私が登楼したのは、二丁目でも、中級の見世だったろうか。「梅よし」という青楼だった、と思う。

写真とは、似ても似つかぬ醜女ではあったが、先達たちからは、「遊郭で美人に上がるのはイナカモン。醜女ほど、情はこまやかで、サービス満点」と、教えられていたので、美醜はあえて問わない。

問わないどころか、心身と財布ともに、そんな余裕のない時代だった。

とにもかくにも、本部屋の泊まりなどとは、のちにいたって体験するのであって、第何回目かの遊廓行きで、しかも、初めての単独行である。

いわゆる〝チョンの間〟というヤツで、もちろん、安いまわし料金。だから、部屋も、まわし専用の殺風景なところだ。

ついでだが、〝割り部屋〟というのは、六畳ほどのまわし部屋の中央を、衝立で仕切って、両側にそれぞれフトンが敷いてあるのだ。払いがシブチンだったり、大入り満員だったりすると、泊まり客でも割り部屋に案内される。

それほどではなかったにせよ、まわし部屋に通されて、トイレに立ったのだが、二階の廊下を歩いていると、ひとりの妓と出会った。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。

「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

新宿慕情 p.34-035 ふたりの妓は激しいいい争いをはじめた

新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。
新宿慕情 p.34-035 同一店での指名変更が許されない、という不文律を思い知らされたのが、廊下で出会った三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。
「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」

確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。

「ウン、そうだったっけ?」

〝遊冶郎〟のエチケット

遊びにもしきたり

水商売の世界には、いまにいたるも、いろんな、古い習慣がその世界の秩序維持の必要から受けつがれ、引きつがれているものである。

例えば、クラブだろうが、キャバレーだろうが、同一店での指名ホステスは、「だれそれサンの客」として、厳重に守られている。その指名変更をすると「客を取った、取られた」の内ゲバ騒ぎに発展する。

しかし、赤坂のミカドのような、超大キャバレーが出現してくると、同一店でも、必ずしも客とホステスとが、〝めぐり合う〟とは限らない。キャバレーの場合は、指名料の売り上げだけがホステスの収入源、稼ぎ高の増減を意味するように、ドライなシステムになっているので、必然

的に、店以外での〝付き合い〟と、その清算勘定とで割り切られてくる。だから、指名客の厳守も崩れてきている。

この、同一店での指名変更が許されない、という〝不文律〟を思い知らされたのが、廊下で出会った、三十女の「アラ、お兄さん!」の一言だった。

「そうよ、そうよ。私のお客さんだよ、間違いないわ」

たちまち、ふたりの妓は、激しいいい争いをはじめた。だが私が不用意に洩らした「ウン、そうだったっけ?」という〝証言〟が決め手になって、私が上がった妓はいい負かされてしまう。

初心の私には、なにがなんだかわからないうちに、この論争にピリオドが打たれ、私がいま済ませたばかりの妓は、集まってきた全員に、〝反体制派〟として罵られて、スゴスゴと退散してしまった。それでも、私に対して、恨み言を投げつけるのは忘れなかった。

この騒ぎの原因は、どうやら私の不注意にあるらしいことは理解できた。

私は、この〝老醜〟に拉致されて、彼女の部屋に入れられたのである。そして、この世界では、一軒の店で、一度上がったことのある妓以外とは、遊ぶことができない、しきたりのあることを教えられた。

「知らなかったんだから、しょうがないけど、これからは、許されないことだよ。きょうは、一度だけ、サセてあげるからネ、それで、もう帰んナ……」

おなさけで、私は、〝老醜〟のご用を仰せつかった。儲けたというべきか、損したのか……。