その夜に限って、佐々木元大佐はなかなか戻らなかった。待ちくたびれた一家が、心配し乍らも諦めて寝床に入った十一時ごろ、ドンドンと烈しく表戸を叩く音にまどろみを覚されたのである。声高な呼び声は、何か不吉な予感にみちていた。
この深夜の訪問者は付近の交番勤務の中野署員だった。かれはこう清子夫人に知らせた。
『夜の九時半頃、最終の京帝バスが来る頃でした。その付近をゆるい速度で流し乍ら、何か人待ち顔の外国人の自動車が一台いたのです。よく若い婦人が外国の車に浚われた事件があったので、私はそんな車かも知れんと思って、それとなく気はつけていました。やがて、やってきた最終バスから、開襟シャツ、長ズボン、下駄ばきの男が、魚籠と釣竿を持って降りました。その時でした!
先程の車はスルスルとその男に近づき、やにわに飛び出した数人の外国人が、いきなり男の顔面めがけて殴りかかりました。
不意を襲われて一たまりもありません。男は一撃でその場に倒れたのです。外国人たちは男を車に運び込むと、全速力で走り去ったのです。
アッと叫ぶ間もありません。本当に一瞬の出来事でした。私は夢中で呼子を鳴らして、停車させようとしたのですが、番号や型を見る間もなく消え去りました。後には魚籠と釣竿、そしてこの谷(谷中将家)の名入りの下駄が散乱していました。もしやお宅の御主人ではないでしょうか』
清子夫人はその場にクタクタとかがみこんでしまった。服装その他、紛れもなく夫であったからだ。魚籠の中でハタハタと動く魚と、二人の子供の寝顏をみながら、不安と焦躁の一夜を明かした。
その後のことについては、暗い想い出にさいなまれる清子未亡人の、重たい口に遠慮して、彼女が私に示された手記に語ってもらうこととしよう。
今度のソ連スパイ三橋なる人の事件に亡夫佐々木克己が関係しているということは、私ども遺族にとりまして、ただただ驚き呆気にとられるだけで、何と申したらよいか分りません。子供たちが成人のあかつきに、肩身のせまい思いをさせたくないと、妻として母としてこの一文をしたためさせて頂きました。
私の実家の父(元第六師団長、谷寿夫中将)は南京事件当時第六師団長をいたしておりましたため、戦犯として中国南京法廷で処刑され、いままた非業の死をとげました主人がソ連スパイなどと騒がれましては、神も仏もないものかとつくづく情なくなりました。主人もさだめし地下で浮ばれずにおることと思います。(中略)
戦前は佐々木家をはじめ実家も経済的に恵まれておりましたが、青山の家を戦災で失ってからは生活も苦しく、佐々木は佃煮屋の下働き、印刷の外交などいろいろな仕事をいたし、私も父が国際連盟代表としての、二年間のパリ生活中に買い与えられました毛皮、宝石類をはじめ、家財道具を売払って口すぎしました。