脚本、事件の立役者小針とはこんな男
2・7 前進欄
2・7 〝幻〟は読売のデマ
自殺の真相
2・10 投書欄
ニッポン・タイムズ
1・28 参院で〝幻兵団〟を究明
時事新報
2・1 引揚者の自殺、参院で重視
新聞協会報
2・6 〝幻兵団〟の恐怖
2・27 〝幻兵団〟について
世界経済
△3・1 日本人スパイ謎の行方
不明、〝幻兵団〟顛末記(夕刊)
註、日付上部の△印はトップ記事
脚本、事件の立役者小針とはこんな男
2・7 前進欄
2・7 〝幻〟は読売のデマ
自殺の真相
2・10 投書欄
ニッポン・タイムズ
1・28 参院で〝幻兵団〟を究明
時事新報
2・1 引揚者の自殺、参院で重視
新聞協会報
2・6 〝幻兵団〟の恐怖
2・27 〝幻兵団〟について
世界経済
△3・1 日本人スパイ謎の行方
不明、〝幻兵団〟顛末記(夕刊)
註、日付上部の△印はトップ記事
△1・21 〝幻兵団〟第四報(談話)
1・22 参院引揚委員長ら言明
1・22 捕虜のスパイ事実(青森版)
1・27 〝幻兵団〟参院議題に
△1・28 〝幻兵団〟第五報(舞鶴座談会)
△1・28 参院で法務府は調査中
△1・29 秋田で引揚者自殺
1・30 編集手帖欄
2・1 〝幻兵団〟に関係、参院で自殺者の説明
△2・10 阿部検事正遺族の怒り
△2・14 永田判事も犠牲
毎日
△1・31 シベリア幽囚白書(夕刊)
△2・1 かくて帰国は遅れた、闇に光る密告の眼
2・2 宇野氏の反ばく
2・3 同胞を食った(夕刊)
アカハタ
△1・14 反ソの幻ふりまく読売
実在せぬ談話の主
1・22 娯楽欄
△1・27 〝幻兵団〟のデマをつく
1・28 〝幻兵団〟参院報告あてはずれ
△2・2 反ソデマをつく内山氏
△2・3 売名と金儲けから〝幻兵団〟の
「キミ、そんなバカな。この忙しい世の中に、軍隊友達というだけで、そんなことを引受けるものがいるかネ。ヤクザじゃあるまいし」
新井さんには私は面識がなかった。しかし、彼の部下で新井さんを尊敬している警察官が、私
と親しかったので、噂はよく聞いて知っていた。会ったところも、品の良い立派な紳士である。だが、残念なことには、新井さんには、こんな深い相互信頼で結ばれた友人を持った経験がないのではなかろうか。ヤクザの「ウム」とは全く異質の、最高のヒューマニズムからくる相互信頼である。私は出所後に風間弁護士のところで塚原さんに会った。私はペコリと頭を下げて、どうも御迷惑をかけて済みませんでしたと、謝ってニヤリと笑った。彼もまたニヤリと笑って、イヤアといった。そんな仲なのである。
話が横にそれてしまったが、こうして、私は人間としての成長と、不屈の記者魂とを土産に持って社に帰ってきた。
私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。
過去のない男・王長徳
帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。
この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
左翼ジャーナリズムは、私を「反動読売の反動記者」と攻撃したが、これは必ずしも当っていない。私は〝ニュースの鬼〟だっただけである。
私はニュースの焦点に向って、体当りで突込んでいった。私の取材態度は常にそうである。ある場合は深入りして記事が書けなくなることもあった。しかし、この〝カミカゼ取材〟も、過去のすべてのケースが、ニュースを爆撃し終って生還していたのである。今度のは、たまたま武運拙なく自爆したにすぎない。
そろそろ、手前味噌はやめにして、私の〝悪徳〟を説明しなければなるまい。
まずそのためには、王長徳という中国籍人と、小林初三という元警視庁捜査二課の主任を紹介
しよう。この二人も、小笠原の犯人隠避で、八月十三日に逮捕されている。
米国側には鹿地氏が米国スパイとして働いた記録があり、やはり裏切者への怒りが爆発した
のであろう。その頃には、米国側では〝処置〟として鹿地氏を殺すべく計画していたかも知れない。そして鹿地氏は、その米国側の企図を察知したのか、または他の理由で自殺(狂言?)を図った。
折よく肺病が再発したので各所を転々、殺すか、釈放するかを打合せ中、〝謀略のマーフィー〟といわれるマーフィ大使が着任、さらに利用価値があるかも知れないというので、たらい回しのまま時が経ってしまった。
またソ連側では、鹿地氏が消息を絶ったので、調べてみると(三橋のソ側への報告から?)米側に逮捕されたと分った。そこで、日本の世論を沸せて、鹿地氏を釈放させ、さらにこれを反米感情をたかめるのに利用したのではあるまいか。
それを証拠だてる有力な資料が前掲した怪文書である。この英文怪文書の正体は、いまだにつかめないのであるが、戦後、帝銀、三鷹、松川の怪事件にも登場しており、つねにその事件が米国の謀略であるという内容をもっている。
これらの文書が米側から流されたという判断は、その内容や起きることが予想される反響とから考えられないことである。すると左翼系から出たことになる。なぜか「アカハタ」にはこの好個のニュースが一言半句も掲載されなかったが。鹿地氏逮捕を知ったソ連側が、鹿地氏に
行われた虐待を、反米感情をかき立てる材料として、ヘタクソな英文に託して怪文書なるものを作成させ、バラまかせたことは容易に推測できる。
これは『敵の手で敵を斃す』という、諜報謀略の原則からも肯ける推測であろう。しかし、日本の治安当局は、これら四通の怪文書を入手して、その英文、用紙、タイプの癖などからその正体を突きとめることは出来なかった。
三 せせり出てきた敵役
鹿地事件における日本世論の硬化に驚いた米側では、ついに鹿地氏を釈放せざるを得ない破目に追いつめられた。
自らの不手際のため、鹿地問題でその虚をつかれた米国側としては、釈放に当って鹿地氏から、『私はソ連のスパイだった。この事件で米国に対しては賠償要求などしない』と、一札をとってもいたけれど、すでに鹿地氏を反米斗争の英雄として、祭り上げるお膳立ができているところへ放すのだから、鹿地事件をつぶす準備だけは忘れなかった。
すなわち、鹿地氏釈放の二日前ごろ、つまり十二月四、五日頃に、国警長官に対して、『三橋正雄(多分それはローマ字でミハシ・マサオとあったと思われる)というソ連引揚者のスパイがいる』旨を通告したのだ。
何故米国側が鹿地氏を釈放したか、その真意は分らないが、鹿地氏の言うように〝人民の力
で救われた〟かどうか、ともかく一般に鹿地失踪事件が騷がれてきたからとみることが正しいようだ。
私の仕えた初代社会部長小川清はすでに社を去り、宮本太郎次長はアカハタに転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知社長)が社会部長に、森村正平新品次長(現報知編集局長)が筆頭次長になっていた。昭和二十二年秋ごろのことだった。
過去のない男・王長徳
帰り新参の私を、この両氏ともよく覚えていて下さって、「シベリア印象記」という、生れてはじめての署名原稿を、一枚ペラの新聞の社会面の三分の二を埋めて書かせて下さった。この記事はいわゆる抑留記ではなく、新聞記者のみたシベリア紀行だった。その日の記事審査委員会日報は、私の処女作品をほめてくれたのである。
この記事に対して、当時のソ連代表部キスレンコ少将は、アカハタはじめ左翼系新聞記者を招いて、「悪質な反ソ宣伝だ」と、声明するほどの反響だったが、やがて、サツ(警察)廻りで上野署、浅草署方面を担当した私は、シベリア復員者の日共党本部訪問のトラブルを、〝代々木詣り〟としてスクープして、「反動読売の反動記者」という烙印を押されてしまった。
私は日共がニュースの中心であったころは、日共担当の記者であり、旧軍人を含んだ右翼も手がけていた。それが、日本の独立する昭和二十七年ごろからは、外国人関係をも持つようになってきた。つまり警視庁公安部の一、二、三課担当ということになる。一課の左翼、二課の右翼、三課の外人である。私は公安記者のヴェテランとなり、調査記事の専門家であり、読売のスター記者の一人に数えられるようになっていた。
赤いとみられることが、生活上にも不便が多いとすれば、ソ連籍を放棄するのが当然であろう。
この傾向はスターリンの死とともに、一そうハッキリとしてきて、ミチューリン、スコロボード、アハナシェフと後に続くものたちが現れた。さらに目黒に住む元ロシヤ近衛騎兵大尉チェレムシャンスキー、元参謀大佐ストレジェンスキーらが白露委員会を組織した。
だが、最初に国籍放棄をして〝白〟に返った、老ミネンコ夫婦の小ミネンコは、あくまでソ連人である。それどころか、巣鴨にある赤系の本拠ソ連人クラブの委員で、いろいろな事業を活溌にやっている。
そしてまた、このヤンコフスキーである。この一家には第二次大戦中、ウラジオから北鮮清津に渡ってきて、〝ある目的〟の仕事をしていた、白系露人老ヤンコフスキーを父として、三人の息子と二人の娘がいた。
その息子の一人、アルセーニェ・ヤンコフスキーは米国籍人となり、歴とした情報担当の中尉となり、クリコフ誘致工作をやっている。他の二人の兄弟と父とはソ連に、二人の娘は中共治下の上海と南米チリとに、それぞれ別れ住まねばならなくなってしまった。
このヤンコフスキー一家の渦、これもミネンコ一家の渦と同じように、民族の宿命を肯負って〝東京租界〟の濁流へと流れこんでくるのだ。
白露委員会の幹部たちは、うらぶれた屋根職人や裁縫師にすぎないのだが、ソ連人クラブに集まる人たちは堂々たる実業家ばかりである。何のための事業であり、資金はどこから来、利潤はどこへ行くのか。
〝東京租界〟とは、単純な不良外人の巣喰う犯罪都市のことではない。密航と密輸と、賭博と麻薬と、そして売春、ヤミドル、脱税――この七つの大罪のかげには、謀略の黒い手がかくされているのだ。(第三集「羽田25時」参照)
秘められた「山本調書」の拔き書
一 先手を打つ「アカハタ」 二十九年八月十四日、ラストヴォロフの亡命について、日米共同発表が行われた。その三日後の十七日に、警庁記者クラブの公安担当記者たちと、当局側の指揮官山本鎮彦公安三課長(現同一課長)との懇談会が聞かれた。
その席上、山本課長はワシントンでのラ氏取調の状況をこんな風に話していた。
山本課長と公安調査庁の柏村第一部長(現警察庁次長)とが、ラ氏にはじめて逢ったのは、ワシントン特別区内のあるビルの一室、せいぜい六坪ぐらいの簡素な事務室であった。
多くの人が任意出頭という形式で呼ばれて調べられたり、訪ねてきた刑事に訊かれたりし
た。尾行や張り込みも行われた。
そして八月十四日の朝、庄司、日暮両氏の逮捕後、あの日米共同発表となったのである。
だが、九月三日になって、いつの間にか山本課長は調書もとらず、米側の作った英文供述書をもらっただけ(同日付朝日新聞)ということになり、さらに東京地検の長谷、桃沢両検事が、ラ氏の供述調書をとるために米国に派遣されるということになった。
これは一体どういうことなのか。表面の理由は「もともとこの種の事件は証拠が乏しいうえに、端緒となったラ氏はアメリカに保護されており、柏村、山本両氏の持帰った供述書もかなりぼんやりした、いわば〝手記〟のようなもので、警察官調書でも検察官調書でもなく、刑訴法上の証拠としては疑問があり、公判となった場合、問題となることは当然予想され た」(同上朝日)というのである。
この「証拠力が弱い」という理由は確かに事実ではあるが、そのすベてではない。山本調書はラ氏の署名もある立派な「司法警察員の調書」である。確かに証拠力が弱いという点はあるが、それよりも重大なのは、この調書が証拠として公判廷へ提出されれば、被告の弁護人は自由に閲覽し得るということである。この時にはすでに、庄司氏に自由法曹団の共産党弁護士がつき、庄司氏自身が黙否と否認で徹底的に法廷闘争する能度をみせており、事実、拘留理由開示法廷では『逮捕に政治的なにおいがある』と激昂するほどだったのである。
そこへこの調書を出すことは、当局側の手の内を、すべて見せることになる。山本調書には、庄司、日暮両氏関係以外の、ソ連スパイ網のことが記録されているのである。当局は遂に大蔵省に接衝して、予備費から百四十万円を支出させ、再び二人の検事を派米して、両氏関係だけの調書をとることになったのだ。そして、山本調書は警視庁のスチール・ボックスの奥深く隠され、残存ソ連スパイ網への捜査が続けられている。その意味では、〝ラストヴォロフはまだ日本にいる〟のである。これが「山本調書」の正体である。
さて、このラストヴォロフ騷動が、一まず静まった九月二十七日付の「アカハタ」紙は、
アメリカ諜報機関は、これまで三鷹、下山、松川事件のような謀略虐殺事件から、鹿地、三橋、関、ラストヴォロフ書記官事件にいたるまで、スパイ、挑発事件を数限りなく起して、日本人を苦しめてきた。舞鶴におけるCICの帰還者に対する調査は、これら一連の事件と無関係ではない。
として、「アメリカ諜報機関、帰国者をスパイ、舞鶴へ旧日本軍特務を派遣」なる記事を大 きく掲載した。
これは「シべリヤ横断軍事スパイ福島大将」を父に持つ「戦時中は北京、済南などで特務機関幹部として、侵略特務工作をやり、無数の中国人民を犠牲にした」「元陸軍少将男爵福島四
郎(六七)を中心とする謀略機関」が「CICの指導で引揚者の思想調査と謀略に従事」している、という内容である。
「元陸軍少将男爵福島四
郎(六七)を中心とする謀略機関」が「CICの指導で引揚者の思想調査と謀略に従事」している、という内容である。
ところが、この内容たるや、ラストヴォロフ事件の志位正二元少佐や、第一次梯団長の長谷川宇一元大佐、さらに阿部行蔵、小松勝子両氏らの不法監禁事件の被害者中島輝子さんなど、全く何の関係もない人たちが引合いに出され、『この事実も彼らの企らみを実証しているものである』と結論している。
この見当外れの内容ばかりで、肝心の「福島四郎を中心とする謀略機関」の内容は、機関員の名前一つ述べられていないのである。非常に無理のあるコジツケ記事の感じがしていた。
続いて十一月二十三日、「ソ同盟代表部に謀略工作、アメリカ諜報機関と日本の警察、公然と代表部の車をつけまわす」という記事が現れた。
アメリカ諜報機関と日本の警察が、ソ同盟代表部に悪らつな謀略工作をやっていることは、白昼に外交官が拉致されるという〝ラストヴォロフ書記官事件〟をみてもはっきりする。かれらは現在もなお、陰険な謀略を続けている
という前文で、警視庁公安三課に所属する三万台の車二台が、代表部員を尾行しているし、張込みもしているし、深夜に玄関の呼鈴を押したり、投石したりするという内容である。
記事の主内容はこの三万台の車二台のことであるが、取材は浅く少しも突込んでない。「アカハタ」が指摘したのは三—三五三五四と三—三五三五五の二台であるが、三—三五三五六、七と、続きナムバーの四台が、二十八年一月七日から、エドワード・ルーなるアメリカ人名儀で、米国官庁へ貸与されているのである。つまり車籍は登録されておらず、ナムバーだけが貸与されているということである。
そしてこのエドワード・ルーなる人物は如何なる人物で、米国官庁なるところはどこかと、 この記事はもっともっと掘り下げ得る記事であるが、問題はそんなことではない。
この付図、写真二枚入り十段百九十一行という大きな記事の狙いは、終りに素知らぬ顔で付加えられている、たった十三行にある。従って三万合の車のことなどはどうでもいいし、尾行や張込みは謀略工作ではない。
問題の十三行とは次の通りである。
アメリカ諜報機関員、元陸軍特務機関員福島四郎元少将が結合している、東京丸ビルの連邦通商株式会社は、表面民主商社をよそおったスパイ商社である。社長の小方は戦時中から日蘇通信社に関係し、現在も社長としてソ同盟情報を担当している人物だし、取締役吉野松夫は、現に警察庁警備二課長(外事特高)平井学警視正や、同課の丸山警視にソ同盟、中国をはじめ、共産党や大衆団体の情報を提供している。
ソ同盟、中国をはじめ、共産党や大衆団体の情報を提供している。
そして三たび、三十年二月二十七日付「アカハタ」は「アメリカ諜報機関と日本官憲の謀略工作」と題して、八段二百八十四行の大記事を掲げた。
……ことにかれらは、最近新しい謀略事件を予定の計画として準備している事実があり、第二の松川事件、第二の鹿地事件が企らまれている。しかもこの憎むべき企らみは、アメリカ諜報機関と、その奴隷になりさがっている、警視庁、公安調査庁、外務省の重要な部分が関係をもっていることである。これはラストヴォロフ事件の正しい事実が、これら売国奴どもによって、国民の前から覆い隠されてしまっている事実と合せて考えるなら、こんどのかれらの動きの背後に重大な問題があることがわかる。(前文)
この男は中尾将就(四五)――東京都板橋区上赤塚町七五――である。かれは常盤相互銀行飯田橋支店に勤めていることになっているが、それはうわべのことで、実は彼はアメリカ諜報機関員である。中尾は他の多くのスパイ分子の例にもれず、戦前の転向脱落者である。……この手はかれらがいつも使うやり口で、馬場機関の清水郁夫が、当時電產統一委の活動家だった宗像創を、スパイの手先に引ずり込み、「日共の電源爆破」という謀略事件をデッチあげたのも、このやり口からはじめていた。
中尾将就と同じアメリカ諜報機関員で、中尾とともに活発に動いているのが山口茂雄(四一)――
東京都北多摩郡泊江町和泉二六四の六――である。……山口、中尾と緊密な連絡をとりながら、アメリカ諜報機関の対日対ソ謀略に協力している分子は相当数あるが、そのうちで特徴的なものは、次のような人間である。
ここまで、記事の半分を費して、中尾、山口両氏の紹介をしている。それからさらに人名とその〝悪事〟の紹介が続く。
望月は日米合作の官設スパイ機関である內閣調査室の、庶務部広報班員と情報文化班員をかねた任務をもつ男だ。……
川村三郎は公安調査庁調査第一部調査第三課第二係長である。かれはラストヴォロフ事件と深い関係があり、当時もっとも活潑に活動していたのである。ラストヴォロフ拉致事件を合理化するために、アメリカ側の指示で渡米した柏村信雄は、当時この調査第一部の部長であった。
高橋正は外務省欧米局第五課員である。ラストヴォロフ書記官が、日本で多くの日本人を手先にして、スパイを働いていたかのようにデッチあげ、白昼外国の首都で外交官を拉致するという、アメリカ諜報機関の不当行為を正当なものと思わせ、かえって反ソ反共の気運をもりたてようとした、同事件の経過とこの課は関係が深い。緒方自由党総裁につながる当時の内閣調査室長村井順と、当時の外務大臣岡崎の子分の曾野明の二つの謀略線が、ラストヴォロフ書記官の拉致に関係深いことを、隠しきる自信をなくして自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外 第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。
自殺した日暮信則は、この課の課長補佐で、しかも当時内閣調査室の情報部海外
第一班(対ソ情報)の班長を兼任していたのである。高橋は日暮の死によって一位上位にのぼって ソ同盟関係の諜報活動をやっている。
大隅道春は旧海軍の特務機関にあたる海上幕僚監部調査課勤務の三等海佐(海軍少佐)。
その他SP(ソヴエト・プレス)通信社の倉橋敏夫社長、キャノン機関の韓道峰(韓国人)、台湾引揚者の中島辰次郎、白系無国籍人のチェレムシャンスキーなどの各氏の名を、もつたいらしく並ベている。二人の民間人、四人の公務員、最後につけたりのような民間人や外国人。そしてこの記事の結びには、
この張本人はアメリカ諜報機関と警視庁であり、警視庁では警備第二部公安第三課長渡部正郎警視と、公安第一課長山本鎮彥警視正(前公安第三課長)である。
とある。
多くの紙数を費して「アカハタ」の記事を転載したが、このそれぞれラストヴォロフ事件の一月半後、その二ヶ月後、さらに三ヶ月後と間をおかれて掲載されたこの三つの記事は、並べて読んでみると、ラストヴォロフ事件についての、一貫した意図と目的とをもって書かれた記事であることが明らかである。
これは「アカハタ」や「真相」が幻兵団事件を徹底的にデマだと主張し、「アメリカの秘密
機関」の著者山田泰二郎氏が、一方的に米諜報機関だけを曝露したのと同じように、ラストヴォロフ事件で明らかにされたソ連スパイ組織の恐怖を、真向から否定して宣伝し、その憎悪を警察当局、ラ事件の捜査当局幹部に集中させようと意図しているのである。
だがそれよりも重大なのは、「アカハタ」の読者である、シンパや末端党員たちに〝心の準備〟をさせようとしていることである。
〝心の準備〟とは何か。ラストヴォロフ事件の捜査の進展と同時に、ソ連スパイ網が如何に国民各層の間に、巧妙に浸透していたかということが、いわゆる〝ブル新〟によって記事になったとき、それは〝ブル新のデマ〟と主張するための伏線である。
この三回の記事には、捜査当局が極秘にしている「山本調書」の内容の一部が明らかにされている。しかも、この三回の記事の時間的間隔は、同時に捜査の時間的経過におおむね付合して、しかも一手早いのである。「山本調書」の内容が、部内からアカハタに洩れるはずがない とすれば、この三回の記事はラストヴォロフ・スパイ網の内容を知っている、元ソ連代表部からの指示によって書かれたものだと判断されるのである。
二 スパイは殺される! 二十九年八月二十八日午後、取調中の日暮氏が東京地検の窓から飛びおりて死んだ。三橋事件の佐々木元大佐といい、今度といい、ソ連のスメルシ(スパイに
死を!)機関の名の通りであり、「スパイは殺される」という不文律の厳しさを想って暗然とせざるを得なかった。
そして、それらの人々は、もちろん、日本の社会の指導階級ともいうべき、あらゆる地位にあり、教育も、名誉も、さらに将来をも持っている人たちばかりであった。
そして「アカハタ」はこのメムバーを先手を打って発表しているのである。
三怪文書おどる内閣機密室 総理府官房調査室、略して内調は日本の機密室である。二十七年四月、特高のなくなった戦後に警備警察制度を設け、国警本部初代警備課長となった内務官僚村井順氏によって創立された情報機関である。
この調査室は創設以来あらゆる意味で各界から注目されている。二十七年十二月、当時の緒方副総理の提唱した、新情報機関の構想の基礎となったのも、この内閣調査室である。
ところが、さる三十年四月下旬ごろ、その内情について、いわゆる〝英文怪文書〟が、各官庁、政府内部にバラまかれた。戦後の大事件である帝銀、下山、松川、鹿地などの事件に登場した〝英文怪文書〟の伝である。
つづいて、この英文とほぼ同内容のガリ版刷り怪文書が、「極東通信社極秘特報第一〇八号」と銘打たれて、再び関係各方面にバラまかれたのである。
その内容は、ラストヴォロフの手先のスパイが内調に喰い込んでおり、重要機密を抜かれた内調ではその対策に苦慮しており、木村室長は辞意を表明したが、結局は引責辞職せざるを得
ないだろう、という要旨である。
この怪文書の狙いは、明らかに前警察庁人事課長という内務官僚である、木村行蔵の追 い出しを図ったものである。では、この内務官僚の追い出しを図ったのは誰か?
怪文書とはしょせん怪文書であり、’デマである。こうしてはしなくも、ここにその内情をバクロした〝日本の機密室〟の内粉の真相は何か?
これこそ内調創立当時の村井順室長(現京都警察隊長)と曾野明外務省情報文化局課長(現ボン駐在参事官)との対立にはじまる、内務対外務官僚の主導権争いであり、同時に如可に官僚たちが、この小さな機関の将来を重要視しているかということである。
この争いが、祖国を想う至情からの争いならば、何をかいわんやであるが、果して事実はどうか。ここにその実情を抉ってみよう。
まず、怪文書からみよう。昭和三十年四月二十日付の「極東通信社極秘特報第一〇八号」は、普通の白角封筒の裏に「極東通信社」とのみ、下手なペン字で記されて、同日東京中央局の消印で配達されている。
このペン字は、筆跡をわざとゴマカして、左手かまたはペンを逆に使った字である。内容はワラ半紙にやはり下手な横書の字だ。
しかし、ラ事件に関する日米往復文書をみると、一月二十七日付アリソン大使の通報に対し岡崎外相は翌二十八日付で、実に完全な抗議の申入れを行っている。「厳重に貴大臣限りの極秘の情報」という条件付文書に対し、外相の返事は完璧なものであるから、これには当然事務当局が関係しており、しかも捜査当局も参画した形跡があるので、この異動が無関係とはいいきれないと思う。複雑怪奇な外務省高官たちではある。
この間の真相を村井氏は否定するが、日暮氏は知っていた。そして「アカハタ」はラ氏失踪が、村井―日暮―曾野の三角関係の謀略だと、先手でいっている。
四 志位自供書に残る唯一の疑問
「山本調書」にはさらにラ氏の供述として「吉野松夫」なる人物についての、詳細な活動状況が書かれてある。この吉野氏は前述のアカハタでは〝警察の手先〟として、激しい罵言を浴せられているのは、すでに紹介した通りである。
これは一体どうしたことであろうか。ラ事件に関連して、吉野氏の名前が公けにされたのは、アカハタについで、私が二回目だ。つまり、私が彼の名前を明らかにする以前に、アカハタが彼を敵陣営の人間として極めつけているということだ。しかし「山本調書」には、吉野松夫氏が如何なる人物を使用し、如何なる手段で、如何なる情報を入手して、そして、その情報をラ氏に提供していたかということが、ラ氏の任意の供述として記録されている。
このように、その情報原や獲得法などの詳細についてまで報告していたことについては、ラ氏は『その情報が如何に確度が高く、如何に経費を投じ、如何に努力をしたか、ということで、報酬を多額に要求しようとする伏線だと考えていた』と、吉野氏を批判しているという。
同氏は元関東軍ハルビン特務機関員で、白系露人工作を担当、チョウル白系開拓団の監督官ともいうべき形で副村長をしており、セミョーノフ将軍(白衛軍、日本側白系軍の軍司令官)の姪を妻にしていたといわれる。終戦時にはハルビンでソ連側に逮捕されたが、特務機関員なのにもかかわらずシベリヤ送りにもならずに、二十一年大連経由で引揚げてきた。もちろん、妻やセミョーノフ将軍は処刑されたことはいうまでもないことである。その後、露語に巧みなところから、日ソ通信社や旧朝連(朝鮮人連盟)に関係、二十七年には日ソ貿易商社進展実業の通訳として、樺太炭の積取りのため樺太へ出張したこともあるという人物である。
ラ氏の吉野氏に関する供述内容は、さる二十五年春ごろ、元ソ連代表部員ポポフ氏と歌舞伎座付近の某料理店ではじめてレポをし、以来ポポフ氏の帰国に際してラ氏に申送られて、ラ氏が失踪するまでの約四年間にわたって、月三―四万円の報酬で、①在日白系露人(戦後ソ連籍を取得した赤系も含む)情報、②米空軍関係情報、③日本側警察情報などを流していたという。そしてその情報原として義弟S氏(船員)、元ハルビン機関員H氏(ジョンソン基地勤務員)ら
の名前をあげていたという。
捜査当局の調べによると、ラ氏の詳細な供述の内容は全く事実に一致しており、S、H両氏についても実在しているので、このラ氏供述を真実と認めているが、任意出頭で数回にわたり取調べをうけた吉野氏は全く否認している。
当局側が吉野氏について疑点とするのは、①終戦から引揚までの経過が全く不明で、その間の吉野氏について立証するものが居ないし、同氏も語らない。じつに忽然として大連に現れて引揚船に乗込んだ。②特務機関員として逮捕され、妻や義父は処刑され、当然抑留されるべきなのに抑留されなかった。③ラ氏自供が実に微細な点まで述べ事実と合致するのに、同氏は否認している。④アカハタがその事実がないのに関わらず、同氏を警察のスパイとして攻撃しているなどの諸点である。
吉野氏を小金井の自宅に訪ねてみた。南斜面の広い敷地に、赤塗りのペーチカ付満州風の小住宅が建っている。同氏はラ氏失踪後、胸部疾患と称してこの自宅に引籠ってしまっている。
『私がラストヴォロフの協力者だったなどというのは、とんでもないいいがかりだ。ラ氏などというのも、新聞に出た写真と記事で初めて知ったほどだ。
終戦時のことはいいたくない。警視庁に呼ばれてラ事件に関し調べられたことは事実だが、全く知らないことだから知らないといった。ラ氏がどんなに詳しく私のことや、義弟や友人のことをしゃべろうと、私の知らないことで、大変な迷惑だ。第一、私がラ氏の協力者だというのなら、その証拠をみせてほしい。
アカハタの記事はとんでもないデマだ。平井警視正や丸山警視には、或る人に紹介されて一度逢ったことはあるが、私がその手先などということはない。健康が恢復したら、アカハタを名誉毀損で訴えてやるつもりだ。いずれにしろアカハタの記事は、私への挑発で、何者かの陰謀だ』
こう語る吉野氏は、その言葉は文字にしてみればまっとうであるが、つねに神経質にふるえ、何回かの質問に答の喰い違いができ、アカハタに対する怒りの口吻ほどには、警視庁へは激しい言葉を使わない。
『ラ氏のウソ供述のため、何回か警視庁へ呼ばれたことも、不愉快なことだが、取調官の岩佐警部という人の態度が、紳士的で立派だから、それほどにも腹が立たなかったのだ』
と、幾分不安そうに遠慮気味である。
彼に証拠を見せろと大きな口を利かれると当局としても困る。スパイ事件の多くが、任意の自供によって、搜査が進められ、自供そのものが裏付け証拠となってゆく。レポ用紙、指令書
などが、保存されているということはまずあり得ないし、報酬は現金である。
いわゆる物的証拠というものはまず入手が困難である。関・クリコフ事件などは、現行犯逮
捕であるから物証を得られたが、ラ事件ではすべて自供である。自首した志位正二氏をはじめ日暮氏もそうである。捜査の根拠となったものが、ラ氏自供の「山本調書」である。
鹿地・三橋事件の際は、三橋自供によって、二人のレポが事前に察知されていたので、レポ現場における鹿地氏の逮捕となった。また鹿地氏の三橋氏宛ハガキ(註、のちに紛失して問題になったハガキ)も入手できたし、米国側撮影による二人のレポ現場写真もでき上ったのである。しかし、これは三橋氏が米国スパイだったから可能であった特例なのである。
吉野氏に関しては、ラ氏供述以外は何も物的証拠もない。吉野氏がラ氏などは知らないといえばそれまでである。二人のレポ現場でも撮影してあれば、知らないとはいわせられないのだが……。もちろん一民間人である吉野氏は、たとえラ氏の協力者であっても、何ら法的には拘束されない。
このような場合、当局としてあげ得る傍証には「金」がある。ラ事件で高毛礼氏が外国為替管理法違反で起訴されたように、容疑者の入金と出金とを詳細に検討してみることによって、容疑が強められる。三橋氏が自宅と敷地とを購入したなどはその例である。
吉野氏は陽当りのよい数百坪の土地を買い、こじんまりとした住宅を建てている。この資金は?という質問に対しては、
『連邦通商の取締役時代の収入ですよ』
と、言下に答えた。吉野氏の容疑は充分だが、証拠がないのである。当局では吉野氏に対して、ラ氏の協力者ではあったが、当局にとっては非協力者であると結論している。
吉野氏の言葉――アカハタの記事は、私への挑発で、何者かの陰謀だということこそ、彼が不用意に洩らした真相ではあるまいか。アカハタが平井警視正や丸山警視などの名前をあげており、吉野氏も二人に逢ったことを認めているからには、義弟S氏や友人H氏の如く、警察情報原として両氏の名前を、吉野氏からラ氏へ報告していたのではあるまいか。その情報を〝高く売り込む〟ために……。
いずれにせよ、アカハタがこのような事実を裏返しにして公表しているのは、〝何者かの陰謀〟に違いないのだろう。
吉野氏が〝協力者〟(ラ氏への)であるから〝非協力者〟(当局への)であるというのに対して、自首してきた志位氏は〝協力者〟(当局への)であったために結果的に〝非協力者〟(ラ氏への)になったという、全く対照的な立場にいる。