読売梁山泊の記者たち 投稿一覧 カテゴリー 読売梁山泊の記者たち 読売梁山泊の記者たち Cover1読売梁山泊の記者たち 表紙 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita (デザイン背景は三田和夫原稿筆跡)読売梁山泊の記者たち 見返しに挟み込み あいさつ状01読売梁山泊の記者たち 見返し(あそび紙)-p.001本文扉 戦後・新聞風雲録 読売梁山泊の記者(ぶんや)たち 三田和夫 Kazuo Mita読売梁山泊の記者たち p.002-003 献詞 平成三年十一月二十六日 三田和夫読売梁山泊の記者たち p.004-005 正力松太郎・務臺光雄遺影読売梁山泊の記者たち p.006-007 原四郎遺影 もくじ扉 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録読売梁山泊の記者たち p.008-009 目次01読売梁山泊の記者たち p.010-011 目次02 序に代えて 務臺没後の読売(扉)読売梁山泊の記者たち p.012-013 「ウン、原稿はオモシロイけれど、社長としての、オレの頼みがあるんだ。あの、児玉誉士夫のことを書いた部分が、三十枚あるんだ。この部分をオレに免じて、カットしてくれよ」読売梁山泊の記者たち p.014-015 児玉邸の二階。中央に児玉、右側に読売政治部記者・渡辺恒雄と、彼が連れてきた中曾根康弘。緒方に一足遅れて、読売経済部記者・氏家斎一郎と、その同伴者、電源開発副総裁・大堀弘が左側に。児玉がいった。「ウン、これで役者は全部揃った。金は持ってきたな。」読売梁山泊の記者たち p.016-017 鞠躬如(きっきゅうじょ)として舞台に登場してきた。もちろん、「オレが総理にしてやった」と、豪語する渡辺である。現職総理の中曾根ごときに〝鞠躬如〟するのではない。務臺に対してである。読売梁山泊の記者たち p.018-019 大下は、渡辺の、覇道について書いている。氏家〝謀殺〟、政治部内の派閥戦争から〝社内の敵〟を葬り去ってゆく手口と経過を、具体的な取材で綴っている。読売梁山泊の記者たち p.020-021 「三田さん。あなた、大下英治というライター、知っていますか?」「あいつがネ。私のケツを洗っているんですよ。…もっとハッキリしたら、お願いごとに伺うかも知れませんが…」読売梁山泊の記者たち p.022-023 日テレ副社長の氏家は、追放が下命された。読売社内では「ナベツネの謀略」という噂が、女性問題の週刊誌記事の仕掛けとともに、流布されている。読売梁山泊の記者たち p.024-025 それが、突如、バクロされたのだった。丸山は、務臺に諒解を求め、辞職の必要なし、ということで安心していたところ、すでに解任を役員会が決めていた。読売梁山泊の記者たち p.026-027 〈王道〉を進む渡辺なら、一期だけでも、小林を会長、正力を社長にするのが、人間の道として当然、と考えていた。だが、渡辺は、覇道をまっしぐらに突き進んだ。読売梁山泊の記者たち p.028-029 徳間書店を即座に訴え、氏家、丸山両名を、週刊誌の報道と同時に、追放した渡辺にして、出島運送問題の反応が鈍いのは、ナゼか。読売梁山泊の記者たち p.030-031 章トビラ 第一章 エンピツやくざを統率する竹内四郎読売梁山泊の記者たち p.032-033 「オイ、この野郎、退け!」そんな伝法な口調で怒鳴ったのは、社会部長の竹内四郎だ。井形は、人懐っこい笑顔で、ニヤリと笑って、席を立つ。読売梁山泊の記者たち p.034-035 まさに、〝鉛筆ヤクザ〟そのものであった。それは、新聞ではあったが、決して、ジャーナリズムでも、マスコミでもなかった。読売梁山泊の記者たち p.036-037 復員列車が、舞鶴から東京駅に着くと、そのまま、有楽町の社へ顔を出した。そして、三階の編集局の入り口で、マゴマゴしていたのを、竹内部長が手を挙げて、呼んでくれたのである。読売梁山泊の記者たち p.038-039 当時の私には、文化部長などは、新聞記者の範疇に入らない、という思いこみがあったようだ。社会部の事件記者にとって、文化部長などというのは、〝文弱の徒〟の親玉ぐらいの認識だった。読売梁山泊の記者たち p.040-041 辻本芳雄が、まだ、遊軍長ぐらいだったころに、私にこう教えてくれた。「いいか、新聞記者は、疑うことが第一だ。何故だ、何故だと、疑問を抱き、それを解明して、真相を発見する。真実の報道とは、ナゼ、ナゼから始まるんだ」と。読売梁山泊の記者たち p.042-043 「バカヤロー。金もらって、酒呑んで、社に上がってきて、原稿書くンだ。原稿さえ、キチンと書けば、構わねェンだ!」またまた、みんな笑った。読売梁山泊の記者たち p.044-045 竹内は、まわりをかこんだ、若い記者たちの顔を、眺めながら、つけ加えた。「…ただし、良心が痛まなければ、の話だ」読売梁山泊の記者たち p.046-047 書いてゆけば、キリがないほど、それぞれが、エピソードと伝説に満ちた、個性豊かな記者ばかりで、人間的には、みな、尊敬できる人たちだった。魅力があったのである。読売梁山泊の記者たち p.048-049 「バカヤローッ!」と、二、三十メートルも離れた社会部長席から、竹内の大音声がとどろいた。編集局中が、一瞬、何事が起きたのかと、静まったほどの大喝であった。読売梁山泊の記者たち p.050-051 竹内四郎が、読売社会部長として果たした、功績は大きい。この戦後の混乱期に、戦前の、社会部、東亜部などに名を列ねていた、一匹狼のサムライたちに、敗戦の打撃の中に方向を与え、秩序を回復していった読売梁山泊の記者たち p.052-053 今井の信念は、シャッターチャンスは一回だけ。ただ一発のフラッシュをナメながらチャンスを待つ。そして閃光一発。他社カメラマンを尻目に、悠々と車にもどるという芸当であった。読売梁山泊の記者たち p.054-055 部長席に、キザなジジイがいるナ、と思いながら、伝票を出して、「東大まで」といった。運転手に、〝社員の先輩〟がいるなどとは、露知らぬ私の態度は〝動作がデカかった〟みたいである。読売梁山泊の記者たち p.056-057 「フーン」と、その男はいった。つづいて、「オイ、サイドカー出してやれ」と、配車係に命じた。男のサイドカーという声に、一瞬、緊張感がみなぎり、話し声がピタッと、止まった。読売梁山泊の記者たち p.058-059 サイドカーを運転していた小泉悦三は、若手のボス格だった。解剖を、最後まで見通した私の肝ッ玉と、堂々と〝潜入〟した私の顔とが、小泉によって、自動車部に喧伝された読売梁山泊の記者たち p.060-061 〝スケこまし〟の園田直と〝良家のお嬢さん〟松谷天光光との恋だった。天光光は、三多摩壮士で、政治の道に進めなかった父君の下で、〝無菌状態〟に育てられ、労農党の代議士として当選してきた。読売梁山泊の記者たち p.062-063 同期の徳間が、兵隊に行かないで、社に残っているのを知った時は、羨ましくて、口惜しくて、夜も眠れないほどだった。——徳間の奴に、差をつけられたナ。読売梁山泊の記者たち p.064-065 徳間のことを、もう少し書こう——「東京民報」から「埼玉新聞」に移り、そこで彼は「週刊アサヒ芸能新聞」という、タブの新聞の編集長になった。読売梁山泊の記者たち p.066-067 小宮山英蔵は、徳間の実力を見直して、アサ芸への応援、東京タイムズの買収と進む——徳間グループへの、平相の数百億といわれる融資の、キッカケであった。読売梁山泊の記者たち p.068-069 クラブ詰めの田久保耕平記者と二人で日共を担当していた。参院の引揚特別委員長の岡元義人議員とも親しく、その岡元委員長を調べていた、「青年新聞」の記者、千田夏光とも親しくなる。読売梁山泊の記者たち p.070-071 社内でバッタリと河上に出会ったことがある。「キミは、なんだって、社内を歩きまわっているンだ?」「申しわけありません。ご挨拶が遅れましたが、この度、入社試験を受けて入社しました」読売梁山泊の記者たち p.072-073 新員は、「若い時に古今東西の文学作品を徹底して読むこと」という。私の意見は、本を読むと同時に、徹底して書きこむこと。千田夏光も、「柳行李二個ぐらい、書きこまねば」という。読売梁山泊の記者たち p.074-075 「三田さん。日常の行動に気をつけなさい。駅のプラットホームなどでは、端っこに立たないこと。『読売の三田記者を、合法的に抹殺せよ』という命令が出ている…」読売梁山泊の記者たち p.076-077 岡崎はこういった。「もうすぐ、死ぬんだと考えるけど、いま現在を、ベストに生きていよう、と思うんだ」——私も同感であった。読売梁山泊の記者たち p.078-079 部下たちの現金の大半を捲き上げると、彼はいう。「ナンダ、もうツケか。バカらしいから、オレは寝るゾ!」と。残された連中が奥さんの用意した御馳走を喰べながら、大福帳のマージャンである。読売梁山泊の記者たち p.080-081 辻本芳雄もまた、原四郎によって、その才能を大きく、花開かせたひとりである。給仕として入社しながら、その頭脳と文才とで、それこそ、筆一本で生きた、私にとっても、敬愛する先輩であった。読売梁山泊の記者たち p.082-083 辻政信大佐に会わねばならない。早春のある朝、荻窪の仮寓へ行ってみると、入口には「警察官と新聞記者、入るべからず」と、墨書した木札が出ている。読売梁山泊の記者たち p.084-085 「お早うございまーす。三田将校斥候、只今到着いたしました」私は、それこそ、軍隊時代の号令調整のような、大音声で呼ばわった。すると、意外、次の間の読経らしい声がピタリと止んで、「ナニ? 将校斥候だと?」読売梁山泊の記者たち p.086-087 原の〝教育〟は、簡潔に、パッと目的だけを命令する。その取材命令を、パッと理解できない記者には、さげすみの眼を注いで、もう、振り向いてはくれない。読売梁山泊の記者たち p.088-089 羽中田誠次長は、読売切っての名文家、と謳われていた。愛称ナカさん。酒好きだ。私たちは、手を打ってよろこんだ。部員のだれからも愛されていた。読売梁山泊の記者たち p.090-091 幸い、部長は、もう私などに目もくれない。たしかに、冷たい刺すような視線であった。その日のデスク会議で、原は開口一番、こういったそうだ。「三田の野郎は、当分、箱根から西へは、出張させるナ!」読売梁山泊の記者たち p.092-093 古い、戦前からの社会部記者というのは、テキヤやバクトに近い存在として、さげすまれていたものだった。そんな時代でも、高木健夫、森村正平、長谷川といった、〝知性派〟もいたのだ。読売梁山泊の記者たち p.094-095 刑事部長の仕事~は七社会の〝操縦〟であった。古屋刑事部長が、銀座七丁目あたりのクラブに、各社のキャップを良く連れていった。兵隊はダメ、キャップだけだ。その店に、オシゲがいたのである。読売梁山泊の記者たち p.096-097 女がそこにいるから抱くのよ。イタせるからイタすのよ。イタせそうだからイタそうとするのよ。私の経験は、読売の記者が一番多かったけど、これが共通のパターンね。読売梁山泊の記者たち p.098-099 原四郎は、読売社会部記者には、豪傑、快物、異物ウジャウジャと表現した。三番目の「異物」とは、社会部記者のなかの、誰を想定して、こう書いたのだろうか。読売梁山泊の記者たち p.100-101 当時は、だれも資本を出そうとしなかった。その時、遠藤は、保全経済会・伊藤斗福に話を持ちこみ、ポンと四億円を出資させ、ようやく、日本テレビがスタートしたのだ。読売梁山泊の記者たち p.102-103 それを認識できなかったところに、遠藤の悲劇があった。数多くの特ダネで、読売の紙面を飾り、かつ、日本テレビ設立に貢献しながら、彼は、石もて追われたのであった。読売梁山泊の記者たち p.104-105 「イヤ、失礼しました。いいすぎがあったらカンベンして下さい」と。が、後を追うように出てきた遠藤は、後手にかくし持ってきたビールビンで、頭を下げかけていた、私の顔面を殴ってきた。読売梁山泊の記者たち p.106-107 つまり、遠藤と保全の伊藤を結んだのが、中村五郎。中村と遠藤をつないだのが、この私であったのである。私と中村とは、舞鶴の引揚の現場で知り合ったのだった。読売梁山泊の記者たち p.108-109 派閥の親分・子分というのは、非能力、不努力の輩が、おのれの生存を護る手段から、自然発生するものだろう。エンピツ一本だけで、生きてきた私は、読売での十五年間に、〝親分〟を持った経験はない。読売梁山泊の記者たち p.110-111 渡辺のほうは、順風満帆、読売の社長である。「あンたは、政治家になるの?」と、直接たずねたことがある。「イイエ、いまから転身しても、陣笠ですから、私は、最後まで読売記者です」と。読売梁山泊の記者たち p.112-113 警視庁クラブは、マージャン卓が常設されており、現金を賭けたトバクが毎日行なわれていた。田中栄一警視総監が、夜の上野公園を視察に行って、オカマにブン殴られたりする時代であった。読売梁山泊の記者たち p.114-115 水を呑みながら、やっと、課長公舎に泊まったところまで、記憶がよみ返ってきた。「なんだい。バカにしやがって! 警視庁記者が、女のいないところで、寝られるかってンだ!」読売梁山泊の記者たち p.116-117 原四郎も、そういう趣旨で、警視庁クラブと一パイやることになった。二里木孝次郎の発案だったと思うが、「ハラチンは、気取っているから花電車でも見せてやろうや」ということになった。読売梁山泊の記者たち p.118-119 大ゲサにいうならば、そのバナナのスジはピタンという、大きな音を立てて、原四郎のホッペタにひっついた、感じであった。それに気付いて、みんなは、爆笑しようとした。読売梁山泊の記者たち p.120-121 競馬狂Fの才能に感嘆した栗山が、「普通の状態では、東京が大阪へと手放してくれる記者ではない。優秀な記者がもっとほしいものだ」といって、今度は〝パチンコ狂はいないか〟と原にたずねた。読売梁山泊の記者たち p.122-123 小島は、その愛称から、〝忠犬ハリ公〟と呼ばれたように、正力松太郎の番頭であった。「読売の読者のうち、〝社主の魅力〟でとっているのが40%、巨人軍でとっているのが20%、『記事が良いからとっている』というのは、わずか5%」読売梁山泊の記者たち p.124-125 私の警視庁クラブ勤務はようやく〝満期除隊〟となった。当時の社会情勢を眺めていて、「これからの時代は、軍事記者だ」と、考えていたので、防衛庁詰めを希望した。読売梁山泊の記者たち p.126-127 大負けした私は、社にも上がらず、通産省から帰宅してしまった。翌朝、農林省の重大事件に、ギョッとした。読売をひろげてみた。無い! 読売には無い。スッと、背筋に冷たさが走った。読売梁山泊の記者たち p.128-129 数日たって、処分の辞令が、社内に掲示された。社会部長は譴責罰俸。私は、罰俸一カ月、とあって、処分者は二名だけ。デスクはお構いなしだった。読売梁山泊の記者たち p.130-131 それまで、私は自分の体験から、着々と、シベリア捕虜に対する強制スパイの取材を進めていた。~整理部長の南滋郎が、「ウン、これは、マボロシのようなもんだから、幻兵団と名付けよう」と、叫んでいた。読売梁山泊の記者たち p.132-133 いまでいう調査報道の先駆けともいえる姿勢だった。竹内部長は、こんなふうに資料を収集、整理して、それを示しながら、事件を予想するような記者は、はじめてだというような顔をしていった。「それで?」読売梁山泊の記者たち p.134-135 だが、それにもまして、私自身が、いうなれば〝ソ連のスパイ〟であったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあったのだった。読売梁山泊の記者たち p.136-137 当時シベリアの政治活動は、「日本新聞」の指導で、やや消極的な「友の会」運動から、「民主グループ」という積極的な動きに、変わりつつある時だった。読売梁山泊の記者たち p.138-139 少佐と同じ明るいブルーの軍帽がおいてある。ブルーの帽子はエヌカーだけがかぶれるものだ。帽子の眼にしみるような鮮やかな色までが、一人の捕虜を威圧するには、十分すぎるほどの効果をあげていた。読売梁山泊の記者たち p.140-141 ブローニング型の拳銃が、銃口を私に向けて冷たく光っている。少佐は、低いおごそかな声音のロシア語で口を開いた。少尉が通訳する。「貴下はソビエト社会主義共和国連邦ために、役立ちたいと願いますか」読売梁山泊の記者たち p.142-143 「私ハ、ソヴィエト社会主義共和国連邦ノタメニ、命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ、行ウコトヲ誓イマス。(この次にもう一行あったような記憶がある)コノコトハ、絶対ニ誰ニモ話シマセン。モシ、誓ヲ破ッタラ…読売梁山泊の記者たち p.144-145 ——これは同胞を売ることだ。不法にも捕虜にされ、この生き地獄の中で、私は他人を犠牲にしても、生きのびねばならないのか!——或いは、私だけ先に、日本へ帰れるかもしれない。だが…読売梁山泊の記者たち p.146-147 引揚者の不可解な死——ある者は故国を前にして船上から海中に身を投じ、ある者は家郷近くで復員列車から転落し、またある者は自宅にたどりついてから、縊死して果てた。読売梁山泊の記者たち p.148-149 私たちは相談して、南整理部長の叫びの通り、このスパイ群に「幻兵団」という、呼び名をつけたのであった。そして、二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。読売梁山泊の記者たち p.150-151 私にとっては、ナホトカの波止場で目撃した、アクチブ(積極分子)たちの人民裁判のほうが、はるかに、現実感を伴った恐怖であったといえるだろう。読売梁山泊の記者たち p.152-153 それと対照的に、日本人は、はじめての敗戦、捕虜という体験に、同胞を犠牲にしてまで、ソ連に迎合し、おのれひとりの安全を図るという、醜い精神生活をさらけ出し、コワレンコに自由自在に操られたのだった。読売梁山泊の記者たち p.154-155 「殺されるかもしれないから」と、その男が恐怖を感じたように、当時のソ連の手口には底知れぬ〝恐ろしさ〟があったことは事実である。しかし、実際には私もこわかった。読売梁山泊の記者たち p.156-157 昭和二十七年十二月十一日。「鹿地・三橋事件」が、国会で表面化した。「幻兵団」の第一報から、二年十一カ月目のことだ。斉藤昇・国警長官が、「ソ連に抑留され、スパイ行為をしている疑いの強い事件を捜査中である」と、言明した。読売梁山泊の記者たち p.158-159 戦前では、世界一のソ連通は日本だった。関東軍の特務機関と、満鉄の調査部のもっていた、資料と陣容こそ、対ソ情報のエキスだったのである。ソ連は真先に、これらの人や、ものを押さえてしまった。読売梁山泊の記者たち p.160-161 こうして、死ぬ者を死なせたあとの、二十一年四月になってから、はじめて捕虜名簿を作り、かつ、炭坑や伐採、建築などと、作業の目標から、収容所の改廃、人員の移動などを行なった。読売梁山泊の記者たち p.162-163 そんな頃(二十五年四月)九人の元将官が帰って来て、国民を喜ばせたり、驚かせたりした。ハバロフスク第四十五特別収容所にいた人びとである。将官は帰れないはずだったのに、これは不思議なことであった。読売梁山泊の記者たち p.164-165 ソ連で書いた一枚の誓約書におののきながら、祖国と、わが魂を、外国に売り渡した日本人が、甘受する運命は何であろうか。佐々木克己・元大佐が、遺書もなく自殺を遂げ、鹿地亘もまた〝人さらい〟にさらわれる——読売梁山泊の記者たち p.166-167 内科医の軍医少尉が、口ひげの唇を緊張させながら、ささやいた。「キミィ! あれは(女たちを目で指して)〝去勢〟(キンヌキの意)の順番を決めているのじゃないか?」読売梁山泊の記者たち p.168-169 鹿地はなぜ、このような失踪をせねばならなかったのだろうか。それを一言にしていえば、彼は、米ソの二重スパイであった、ということだ。それには、鹿地の過去の、複雑な経歴を知る必要がある。読売梁山泊の記者たち p.170-171 亡くなった綜合警備保障の村井順が、まだ国警本部警備課長だったころ、ソ連から代表団が来日した。米側にとっては、情報入手の好機でもある。村井課長は、米国製の優れた盗聴器を渡され、ホテルでの盗聴を、米占領軍から命令された。読売梁山泊の記者たち p.172-173 今村一郎——国学院大学を出て、兵隊で満州へ送られ、甲種幹部候補生から、ハルビンの露語教育隊に入り、少尉任官。ハルビン特務機関に所属する、陸軍中尉であった。つまり、第一線の対ソ・スパイのひとりだった。読売梁山泊の記者たち p.174-175 ロシア語の教育を、軍隊で受けた今村は、本来ならば、国学院大なのだから、どこかの神主にでも納まるべき人物。それが、戦前は日本の仮想敵ソ連の諜報、戦後は、米国と日本治安当局のためのアナリスト…。読売梁山泊の記者たち p.176-177 山本鎮彦公安三課長、通称ヤマチンの課長時代に、例のラストボロフの、亡命事件が起きたのだから、今村が、「きょう、桜田商事(警視庁)で、ナニナニの話をしてきた」と洩らせば、それだけで、私は取材活動に入れたのであった。読売梁山泊の記者たち p.178-179 私、三田記者の取材は、今村こそホンモノの幻兵団、と質問がつづく。それを、彼は、懸命にかわしながらも、大本営参謀の朝枝繁春中佐のことなど、私が、息をのむような〝新事実〟を、次々と、明らかにしてくれるのだった。読売梁山泊の記者たち p.180-181 近代諜報戦が変えたスパイの概念(おわり部分) 第四章トビラ 第四章 シカゴ、マニラ、上海のギャングたち読売梁山泊の記者たち p.182-183 小佐野賢治は、警視庁に逮捕された時、占領軍の古タイヤの払下げ入札の期日が迫っていた。国際興業の今日の基礎は、この時の古タイヤだった。箔付けのために、小佐野は、旧華族の娘と結婚する。名も門地もなく、金だけの男が選ぶ道である。読売梁山泊の記者たち p.184-185 東京租界のプラン会議は、原部長、辻本デスク、三田、牧野拓司の四人で持たれた。まず、日本の独立後、占領国人や第三国人に与えられていた三無原則(無統制、無税金、無取締)の横行について、私のレクチュアから始まった。読売梁山泊の記者たち p.186-187 銀座のクラブ・マンダリン。「東洋平和の道」などの日華合作映画の主演女優だった、パイコワン(白光)の趣味で飾られ、始皇帝の後宮でも思わせるように、豪華で艶めかしかった。私は、このパイコワンと親しかった。読売梁山泊の記者たち p.188-189 パイコワンはいった。「私、日本人で、一人だけ好きな方がいました」——あの表情の変化は、自分の悲しい恋を想って、心動いたのか。それとも、中共スパイという、心のカゲがのぞいたのか?読売梁山泊の記者たち p.190-191 相手の目の前で、その封筒を破いて、現ナマを取り出し、一枚、二枚と数えてやる。「ナルホド五万円。これで、あなたは、読売記者の〝良心〟を買いたい、とおっしゃるのですか。残念ながら御期待にそえませんナ」読売梁山泊の記者たち p.192-193 銀座のド真中の国際的な賭博場レストラン「クラブ・マンダリン」の実態については、警視庁保安課で十八日、責任者岩橋勝一郎氏の出頭を求めて本格的調査に乗り出したが、まだ実相は、ナゾのヴェールに包まれたままである。読売梁山泊の記者たち p.194-195 中共に追われてきた、上海博徒のグループがある。首領はワン(王)という怪漢。ワンはナイト・クラブの日本人娘数十名を抱え、客引きをやらせている。彼女らは、左手にサイコロの模様のある、金の腕輪をつけているから、直ぐわかる。読売梁山泊の記者たち p.196-197 フィリピンの戦犯収容所のモンテンルパは、歌にも唱われて有名である。当時のマニラ在外事務所長だった倭島英二が、モンテンルパ問題で〝取引〟して、ルーインの入国をヤミで認めたものだった。読売梁山泊の記者たち p.198-199 マソニック・ビルというのは、元は日本海軍の将校クラブ「水交社」である。戦後、フリーメーソンの本拠地となっていた。キャノン機関のメンバーには、フリーメーソンが多くいて、私は、すでに、マソニック・ビルには、何度かきていた。読売梁山泊の記者たち p.200-201 「東京租界」が、第一回菊池寛賞に輝いたのも、牧野君の人柄と、あのタドタドしい〝通訳〟があったればこそ。そして、後年、彼が、香川京子にホレられて、結婚にいたる〝新聞記者の魅力〟は、この取材を通して身についたのであった読売梁山泊の記者たち p.202-203 愛宕署まわりと(記憶は確かではないが、当時流行のマンボ・ズボンをはいていたので、通称マンボと呼ばれた、本田靖春だったかもしれない)、築地署まわりを、喫茶店に誘って、管内で、変わったニュースがないか、と、たずねたりした。読売梁山泊の記者たち p.204-205 私は単刀直入に切りこんだ。「〝上海の王〟というのは、あなたか」「そうです。私が、〝上海の王〟です。上海時代には、バクチ場が、ビッグ・パイプという店だったので、この店にも、ビッグ・パイプという名前をつけたのです」読売梁山泊の記者たち p.206-207 「私は、〝上海の王〟ではない、と思う。彼の登録証によると、一九二五年湖南省生まれで、同三六年、博多入国。つまり、現在二十七歳。どうみても四十歳がらみの顔をして、十一歳でビッグパイプと呼ばれる賭博師なんて、信じられませんよ」読売梁山泊の記者たち p.208-209 女優の白光(パイコワン)をはじめ、「東京租界」の人脈を駆使して、情報を取りはじめてみると、やはり、クサイ。ナンのチャリティなのか、目的が明らかではないのだ。街角で、「難民救済にカンパを」と募金箱を突き出す連中。アレと同じ。読売梁山泊の記者たち p.210-211 「部長、今日は遊びにきたんじゃないよ。マジメな話、取引しようよ」「ナンだい? 大防犯部長に向かって、〝取引〟なんて、オダヤカならざる言葉だネ。警察は、ブンヤさんだけではなく、だれとも、取引はしないヨ」読売梁山泊の記者たち p.212-213 クラブの周辺をブラブラする仕事は、読売が分担。入り口近くに〝靴磨き〟を配置し、さらに、〝バタ屋(クズ拾い)〟に扮した男が、警報装置を調べ、手入れの時は、ドアボーイに体当たりなど、綿密な作戦計画を立てた。読売梁山泊の記者たち p.214-215 電通通りの向かい側で待機していた私たち読売組は「午前0時突入」を知らされていた。課長の右手が振りおろされ、付近から集まってきた私服が、ドドドッと、階段を駈けのぼる。最初の男が叫んだ。「そのまま、そのまま!」読売梁山泊の記者たち p.216-217 「応援にくり出した予備隊」とあるが、これが問題なのである。私は、警視庁クラブから直通電話に呼び出される。福岡キャップが、怒っている。「なんだって、予備隊を動員したんだ。各社とも、バクチの手入れを知ってしまった」読売梁山泊の記者たち p.218-219 「読売新聞社会部、原四郎を中心とする、同社会部の暗黒面摘発活動」が、受賞に該当する、として、昭和二十八年三月六日発売の文芸春秋誌に発表された。そして、クラブ・マンダリンの国際バクチのスクープは、この受賞が発表されて、旬日余の後のことであった。読売梁山泊の記者たち p.220-221 立松和博。エピソードに満ち充ちている男だった。〝偽悪者〟を装い、若くして、読売のスター記者として、まさに一世を風靡したのち、売春汚職の大誤報で地に堕ちて、不遇のうちに早逝した。読売梁山泊の記者たち p.222-223 ニュースソース、河井信太郎検事。野心家・河井検事に、利用され見捨てられた、立松の〝悲劇〟であった。昭電事件における連続大スクープというのは、河井の意図的なリークによるもの。翌日の逮捕状を新聞記者に見せるという読売梁山泊の記者たち p.224-225 木内→馬場→河井ラインは、芦田内閣ツブシを、意図したのであった。立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープは、馬場次席検事の、暗黙の了解があったればこそ、河井のリークが継続的に行なわれた、ということである。読売梁山泊の記者たち p.226-227 私が問題にするのは、河井検事のあり方である。自分の野心のため、政治を動かそうとして、立松という、有能な記者をダメにしてしまった。検事という立場で、新聞の紙面を私(わたくし)しよう、という、河井の人格を糾弾するのだ。読売梁山泊の記者たち p.228-229 立松は、いささかムッとした感じで、だが彼のクセで、笑いにまぎらわせて抗弁した。「河井検事に、ウラを取ったんだよ。河井のいうことを信じないなんて…。いま、キミの前で、河井に電話したのを、見ていたじゃないか」読売梁山泊の記者たち p.230-231 《そこで、思い切ってガセネタを一件、赤煉瓦へ渡してみた。たちまち、それが抜けたのが、例の記事(注=読売の大誤報)だったのである》この〝赤煉瓦の男〟こそ、河井刑事課長その人のことである。読売梁山泊の記者たち p.232-233 ある時、酔っ払って、検事にケンカを吹っかけた。「ナンダイ! 日本で一番のインテリゲンチャぶった顔しやがって! その〝検事ヅラ〟が気に喰わねえ…」はじめは、聞き流していた検事も、寿里の悪態に、顔色を変えてきた。読売梁山泊の記者たち p.234-235 司法記者クラブが、検事に物乞いする習慣がついたのは、昭電事件での立松の〝抜いて抜いて、抜きまくった〟スクープのせいである。そして、造船疑獄、ロッキード、グラマン、もう、検察批判などできない。読売梁山泊の記者たち p.236-237 河井刑事課長という〝情報源〟には、読売の立松以外の記者は、アプローチしないのだから、伊藤らは、立松の戦列復帰を知って、〝仕掛け〟を考えた、と判断せざるを得ない。あるいは、立松復帰も知らず、河井批判の立場で試みたのかも知れない。読売梁山泊の記者たち p.238-239 「明日の朝刊は、その二人だけ実名で行くことにします」こうして、読売の特種が社会面トップに組み込まれた。《捜査の結果、真鍋代議士についで、宇都宮、福田両代議士にいずれも二十—五十万円の工作費がおくられている事実をつかんだ》読売梁山泊の記者たち p.240-241 宇都宮代議士が、品川の赤線業者からワイロを取るであろうか、という、卒直な疑問である。私は、もう一度、河井検事に確かめるべきだと主張し、立松も、それを入れて、再度、河井の自宅に電話した。読売梁山泊の記者たち p.242-243 ここの部分が、重要なのである。芦田内閣を倒閣に追いこんだ以後、河井は、極めて〈政治的思惑〉を持つにいたったことが、実証されるのである。河井の政治的思惑について、説明しなければならない。読売梁山泊の記者たち p.244-245 安井都政への批判は、都民の間に沸き立っていた。都庁の腐敗は、警視庁も手が出せない、と記者クラブで噂されるほど。警視庁どころか、東京地検でさえ、安井兄弟の身辺には、手をつけられないほどであった。読売梁山泊の記者たち p.246-247 現役議員がいる。選挙におけるかぎり、〝敵〟は味方の陣営である。つまり、保守の〝敵〟は保守である。保守系の票を分割するからである。同一選挙区に、同系候補がふえれば、基礎票が割れるのである。読売梁山泊の記者たち p.248-249 このような、政治情勢が背景にあった時、河井は、五人のうちから、宇都宮(東京二区選出)と、福田篤泰(東京七区選出)の二人を選び出し、立松が「二人を実名で」というのに、OKを出したのだ。読売梁山泊の記者たち p.250-251 つまり、〝黒っぽい〟五人のうちから、河井の判断で、宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士が、「容疑濃くなる」(読売見出し)として立松和博記者にリークされたのである。…《河井検事は、法律家とはいえなかった》読売梁山泊の記者たち p.252-253 《検察権は行政権に属する。指揮権が発動された、唯一の例が、造船疑獄事件。今度の指揮権発動は、逮捕事実の選び方を間違えた》「河井の強引捜査→総長の優柔不断→逮捕事実の間違い」という、伊藤の痛烈な批判がうかがえる。読売梁山泊の記者たち p.254-255 「検察は政治に屈服した」という本田が、カン違いしている。いうなれば、検察が暴走した、ということだ。〝権力の快感〟を覚えた、馬場—河井ラインの恣意、検察が政治を支配できるという、錯覚だった。読売梁山泊の記者たち p.256-257 「立松事件」で、私もまた被疑者調書を取られた。社の方針が、取材源は黙秘せよであったから、河井の名前は出さなかった。「デマ記事のニュースソースは、保護する必要はない」と主張したが、容れられなかった。読売梁山泊の記者たち p.258-259 天野特捜部長、川口主任検事、軽部、野中、岡原と、主な検事たちは、ほとんどが岸本派。読売の立松のネタモトは河井検事ということは公知の事実。そして河井は、馬場派のコロシ屋、〝ヒットマン〟であった。読売梁山泊の記者たち p.260-261 河井検事だと供述したあとに、どんな〝事件の展開〟があることかと考えると、話したい〝誘惑〟にかられた。河井は高検に調べられ、辞職を迫られる。馬場義続も、辞任に追いこまれる。〈歴史〉が私の一言で変わる読売梁山泊の記者たち p.262-263 司法記者クラブの三人のメンバーである三田、滝沢、寿里の意見は、立松が、河井検事にハメられた、ということで一致していた。立松が、河井に確認した、国会議員の名簿は、マルスミ・メモ以外のなにものでもなかった読売梁山泊の記者たち p.264-265 本田は、個人的に立松と親しい。いや、私淑していた、といったほうが、正しいかも知れない。そうして、この「不当逮捕」は、立松に好意を持ちすぎるあまりに、冷静な客観の立場を忘れて、ひいきの引き倒しになっている部分が、かなり多い。読売梁山泊の記者たち p.266-267 当時、東大名誉教授で法務省特別顧問であった、小野清一郎弁護士をつけることになった。小野は、私の母方の従兄でもあったので、私も大賛成であった。小野弁護士は「そうですね。ウチの助教授たちに、研究させてみましょう」読売梁山泊の記者たち p.268-269 私と萩原は、東奔西走の日々を送る。なにしろ、「弁護士選任を前提」として、会議に出席を願ったが、発言は「ウチの助教授たちに、研究させてみる」の一言だけ。「小野清一郎への謝礼の適正金額」を、多くの人に相談してみた読売梁山泊の記者たち p.270-271 だが、景山の後任として、教育部長だった金久保通雄が、社会部長となるに及んで、人事問題の余波が、社会部に吹き荒れた。 第六章トビラ 安藤組事件・最後の事件記者読売梁山泊の記者たち p.272-273 六月に入ると、横井英樹・殺害未遂事件という、ドラマチックな事件がボッ発した。渋谷の不良、安藤組が拳銃で横井を射ったのである。いまでこそ、横井の〝正体〟はバレていて…だが当時は、「東洋郵船社長」という実業家として通っていた読売梁山泊の記者たち p.274-275 横井は、白木屋の乗ッ取りをかけたことがある。その時動員したなかに、安藤がいた。いまは、渋谷の安藤組親分になっていた安藤を見て、横井は、「ナンダ、白木屋の時のチンピラか」と、小馬鹿にした。読売梁山泊の記者たち p.276-277 やがて、彼が小笠原であること。射ったのは千葉という男、安藤より先に捕まるワケにはいかない、まだ自首はできない、ことなどを聞かされた。彼に電話させて、花田を奈良旅館に呼ばせた。読売梁山泊の記者たち p.278-279 車中、ひとりになって考えてみた——花田に頼んだら、安藤と連絡がつくかも…自首の前夜に、〈単独会見〉というのも、悪くないな。〝安藤逮捕〟というビッグ・ニュースを読売のスクープにできる。毎日ひとりずつを自首させて…読売梁山泊の記者たち p.280-281 「え? かくまえ、だって? あんたは、指名手配犯人ですよ。…刑法の犯人隠避罪になるんですよ、この私が…」今度は、小笠原が口をつぐんでしまった。気まずい沈黙の時が、しばらく流れた。——ウン、とうとう、飛びこんできたゾ!読売梁山泊の記者たち p.282-283 「実は、詳しいことは、まだ話せないのですが、一人の男を、しばらく預かってくれる戦友がいないでしょうか。北海道など、遠いところがいいんですが…」塚原大尉、外川曹長とも、一切の事情は知らせなかった。読売梁山泊の記者たち p.284-285 駅の雑踏には、私服の刑事がウロウロしているケースも多い。小笠原の姿が、改札口の向こうで、人混みにまぎれてしまうと、肩の力が抜けた。待たせておいた車に戻り、深々と座席に身を沈めた。読売梁山泊の記者たち p.286-287 刑事たちは、自由に動きまわっている副親分の花田が、潜伏中の連中と連絡をとっているからだ、と、ニラんで、花田の家宅捜索令状をとって、ガサをかけた。もちろん、身体捜検もやる。花田のカミさんの財布をあけさせた。読売梁山泊の記者たち p.288-289 その瞬間、私の背筋を電流が走り抜けたような、衝撃に打たれた。「安藤組犯人、旭川に潜伏か?」という、見出しのついた原稿だった。——小笠原のことだ! むさぼるように、その短い原稿を、めくりはじめた。読売梁山泊の記者たち p.290-291 その時、在社していた役員は、務臺さんだけだった。「キミ、話は聞いたよ。記者として、商売熱心だったんだから、仕様がないさ。記者の向こう疵さ。…すっかり事件が片付いたら、また社に戻ってきたまえ」読売梁山泊の記者たち p.292-293 こうして、私は、〝社外での務臺さんの一の子分〟を、自称するようになった。中途退社したから、私は、社友ではないし社報も送られてこないし、名簿ももらえないのだが、務臺さんに認められている、ということが、私の〝勲章〟である。読売梁山泊の記者たち p.294-295 「今朝、運動の時に、『読売!』と、声をかけてきた男がいた。アレ、誰だい?」「もう、読売でもないのに、気易く声をかけるな、ッて、いってやれ。オメエのために読売でなくなったって、な…」 「ハハン。すると、安藤もパクられたのか」読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。読売梁山泊の記者たち p.298-299 「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とするその講演の中に、次のようなクダリがある。読売梁山泊の記者たち p.300-301 自分自身を批判する自分自身の〝眼〟が、つねに、記者活動を監視している状態——自分に抵抗する精神がなくて、何で〝新聞記者〟と呼ばれようか。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。読売梁山泊の記者たち p.302-303 正力松太郎の企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させ、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、原四郎の社会部を主軸とした〝事件の読売〟という目玉が、ついに日本一の新聞という地位に就かしめた。読売梁山泊の記者たち p.304-305 正力亨社主が、十二、三番目あたりに、ひとり、ショボンとうなだれ、佇立していたからだ。だれひとりとして、亨さんを上席に案内しようとしないのだ。それは、渡辺恒雄・新社長の〝覇道〟に、みな、恐れ戦いていることを示していた。読売梁山泊の記者たち p.306-307 割愛せざるを得なかった。松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。読売梁山泊の記者たち p.308-奥付 あとがき(つづき) 著者略歴 奥付読売梁山泊の記者たち 見返し カバーそで読売梁山泊の記者たち 見返し 注文カード ISBN4-7656-1061-6 C0023 P1500E 紀尾井書房 三田和夫著 読売・梁山泊の記者たち 戦後・新聞風雲録 定価 1,500円(本体1,456円)読売梁山泊の記者たち 裏表紙 腰巻裏 紀尾井書房 ISBN-7656-1061-6 C0023 P1500E 定価 1,500円(本体1,457円)読売梁山泊の記者たち Cover 表紙・背・裏表紙読売梁山泊の記者たち 本体表紙・裏表紙